伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

「幻の果実」

2019年03月31日 | エッセー

 わが街にもかつてお定まりの「銀座通り」があった。駅に繋がる通りの両脇にさまざまな商店が櫛比し、銀座のように賑わっていた。団塊の世代以上にとっては「昭和の原風景」にちがいない。平成に入って人通りはめっきり減り、仕舞た屋が通りを蚕食し始めた。二転三転した挙句開発計画が決まり、通りの西側は一区画丸ごとホールや広場を備えた今風の駅前スクエアとなった。だが東側は手を付けず、そのまま。人知れず「銀座通り」は姿を消した。だから往昔の入口に立つと、西側には背伸びした割には人影が疎らな平成が、東側には残滓となった昭和が見て取れる。昭和側にはあわいに幾つかの仕舞た屋を挟んだ商店が残るが、息は絶え絶えだ。新装成ったアベニューを境に東西に昭和と平成が併存する。貴重な絵面といってしまえば身も蓋もないが、通りの両サイドに生活のさんざめきはもうない。
 時として目が釘付けになる言葉がある。松下政経塾副理事長・神蔵孝之氏の講演にそれはあった。3月25日付朝日新聞「政治断簡」から孫引きする。
 〈第2次世界大戦で、日本の政府債務残高はGDP(国内総生産)比200%超に跳ね上がった。現在の日本の財政事情はこれをしのぎ、約240%。「1千兆円ほどの国債という幻の果実の下にいながら、私たちに緊張感がない」と警鐘を鳴らした。〉  
 「幻の果実」、これだ。これほど刻下の事況を余すところなく剔抉した言葉があるだろうか。  
 大括りする。1000兆円の「国の借金」は、国が持つ約600兆の莫大なアセットと日銀が保有する400兆円の国債で担保されているという「幻」だ。私企業ならば破産と引き換えに、資産をすべて売却し借金返済に充てることは可能だ。しかし、国家にそれはできない。国破れて山河ありとはいかないからだ。戦後の地獄絵はそれを訓(オシ)える。  
 日銀が保有する国債400兆円はどうか。国の借金を中央銀行が穴埋めする財政ファイナンスそのものである。一部容認論もあるが、主要先進国では禁じ手である。本邦の宰相は「政府と日銀は親会社と子会社みたいなもの。連結決算で考えてもいいんじゃないか」とまで宣ったことがある。過ぎ去った経済成長の栄光に囚われているとしかいえない。現に、実質GDPは3年間でしかなかった民主党時代の3分の1ほども伸びていない。株価も同じく、日銀による株式購入(ETF)によってつくり出された「幻」である。ETF保有残高24兆円、株全体の4%、4社に1社は日銀が大株主である。  
 「幻」の字源は「予」にある。機織りの際、横に糸を通す杼(ヒ)である。経糸(タテイト)が交互に上下しその間を緯糸(ヨコイト)が左右にシャトルする、あの杼だ。白川 静氏によれば、「予」を逆さまにした字形が「幻」だという。杼を逆向きにして糸を引けば、経緯が乱れて惑乱を起こすゆえだと解字している(「字統」)。  
 実に言い得て妙。GDPに倍する国債とは、まさに「杼を逆向きにして糸を引」くありさまではないか。「経緯が乱れて惑乱を起こす」のは道理だ。したがって、統計偽装も「幻」の所産にちがいない。「幻の果実」にエビデンスなぞ端っからないのだから。  
 世に、「重要なのは答えではない。問いを立てる力だ」というアフォリズムがある。既存のパラダイムが無効化していく局面で、安手の答えを拵えたのがアベノミクスではなかったか。致命的に欠落していたのは「問いを立てる力」だった。必要なのは少子高齢化を食い止める「答え」ではなく、人口減少の趨勢をドラスティックに探る「問い」のはずだ。それには「立てる力」が要る。力不足の間隙に浸潤するのはポピュリズムの誘惑だ。  
 旧「銀座通り」の西側には「答え」を急いだ平成が、東側には「問いを立てる力」を欠いた昭和が溜息を吐いている。西のそれは「幻の果実」への嘆息のようであり、東のそれは「現(ウツツ)の枯渇」への喘鳴のように聞こえる。 □


カムアウト

2019年03月27日 | エッセー

 「6次の隔たり」という理説がある。知り合いの人間関係を辿っていくと、6人目で世界の誰とでも繋がるそうだ。古いがタモリ流に言うと、「友だちの友だちはみな友だちだ。世界に広げよう友だちの輪」となろうか。人脈をたった6回手繰れば地球は丸ごと引き寄せられる。実に“スモールワールド”というほかない。 
 数学界で実験が行われた。いろいろな境遇にある人60名にランダムに手紙を送る。受け取った人は自らの人脈だけに手紙を手渡す。順次同じようにして世界のどこか特定の人間に届けるように依頼する。人脈の多寡が影響する場合もあったが、何度かの試行の後、うまく届くようになった。そこで、手紙をリレーした人数を数えるとなんと平均6人であった。ドナルド・トランプともアポリジニの族長とも繋がる“スモールワールド”にわれわれは生きているわけだ。やっぱり、世間は広いようで狭い。
 「6次の隔たり」がヨコ関係だとすると、タテつまり時間軸ではどうか。5世代遡っても他人はやはり赤の他人なのだが、30世代まで過去に戻るとどこかで血の繋がりがあるそうだ。1世代30年とすると、900年の勘定になる。日本では平安後期、同じ荘園で汗水垂らし鍬を振るっていたかもしれない。長遠のようでいてホモ・サピエンス史20万年のわずか5%、つい昨日の話だ。袖振り合うも多生の縁。多生とは前世の謂だ。まことに人の世に掛かった網の目はタテにもヨコにも窮屈なほど犇めいているというべきか。
 力学系の状態にわずかな変化を与えると、その僅少な変化がなかった場合とは、その後の系の状態が大きく異なってしまうという現象がある。カオス理論でのカオス運動の予測困難性をいう。1972年アメリカの気象学者エドワード・ローレンツは、講演のタイトルに「ブラジルでの蝶の羽ばたきはテキサスでトルネードを引き起こすか」と掲げた。高名な「バタフライ効果」である。まことに地球はタテにもヨコにも窮屈なほど犇めいているというべきか。
 ついでながらカムアウトすると、弥生朔日遅ればせながら恥ずかしながら、ついに爺(ジジイ)になってしまった。娘が娘をなした。婆(ババア)は浮かれまくっているが、こちとら爺にだけはなりたくなかった。そんな生物学的ヒエラルキーに収まりたくはなかった。目に入れても痛くないというが、目に入れてみたヤツがいるなら連れて来いだ。
 「6次の隔たり」と「30世代前血縁説」。その犇めきの網目に新たな結び目が加わる。さて、どのような「バタフライ効果」が生まれるのか。見届けるまでに爺は果てる。果てはするが、なに、その犇めきの網目に潜り込むだけだ。

<跋>  今日、本ブログは開設満13年を迎えました。1213本、佶屈聱牙な与太話にお付き合いいただき、感謝に堪えません。いつまで続くか分かりませんが、まだ筆は擱きません。どうぞ今後ともよろしくお願い致します。 □


漢の誇り

2019年03月22日 | エッセー

 東京で桜の開花が宣せられたその日、漢は花道を後にした。
 男では物足りない。男の子(おのこ)、男の子子(おのこご)では歯痒い。男児では通俗だ。丁年は旧い。ガイは卑近だ。やはり、漢(おとこ)しかあるまい。
 もう7年も前になる。12年3月、小稿「私的イチロー考」を呵した。内田 樹氏の「日本辺境論」を徴しつつ、こう述べた(以下要録)。
 〈「日本辺境論」のキールだけを取り出すと、
  ①日本は辺境にある
   ②ゆえに「道」が提起され
   ③ソリューションとして「機」が案出された
 となるであろうか。ところが、イチローはこれら3つからは無縁である。いわば『非辺境人』だ。そこにイチローのイチローたる所以があるのではないか。〉
 ① が眼目だ。
 〈 《「世界標準に準拠してふるまうことはできるが、世界標準を新たに設定することはできない」、それが辺境の限界です。だから、「世界標準にキャッチアップ」というおなじみの結論に帰着してしまう。》(上掲書より抄録)
 いままでの日本人メジャーリーガーたちは「世界標準にキャッチアップ」するため、太平洋を渡った。それぞれに当否はあったが、キャッチアップの域を出ない。たとえ大成できたとしても、彼方にある世界標準を目指す限り「辺境の限界」を超えたとはいいがたい。決して、「世界標準を新たに設定」したわけではないからだ。つまりは、力試しの大リーグだった。
 ところが、イチローはちがう。大袈裟にいえば、「世界標準を新たに設定」した。記録が、大リーグ流ではない独創によって生まれたことだ。長打による力業の得点という価値観を塗り替えた。大リーグで、シングルヒットの威力と魅力を高々と打ち立てた。「おなじみの結論に帰着」せず、世界標準を書き足し、書き換え、新設したといえる。〉
 こまごまとしたエビデンスはメディアが報じるに任せよう。キャッチアップを超えた「世界標準」の金字塔──。漢の字源は天の川にある。壮大かつ大胆、凜として不抜。イチローが漢たる由縁だ。
 ① は② へと連なる。
 〈 《私たちはパフォーマンスを上げようとするとき、遠い彼方に卓絶した境位がある、それをめざすという構えをとり、「道」として体系化している。「道」はまことにすぐれたプログラミングではあるけれども、「道」という概念は実は「成就」という概念とうまく整合しないのです。》(同上)
 風貌は一見、修行者然としている。「道」を征くにふさわしいともいえるが、内田氏の意表を突く卓見からは遥かに遠い。〉
 「遠い彼方」に乗り込んで「卓絶した境位」を打ち立てた非辺境人であってみれば、「道」とは無縁だ。高村光太郎風にパラフレーズすると、「僕の前に道はない僕の後ろに道は出来る」とでもなろうか。未踏の荒野を征く──。漢たる証左だ。
 そして③ 。
 〈辺境性を超えるために、心身の原始性を極限まで活性する。約めて、身も蓋もなくいえば『野生の勘』だ。イチローは(天才・長嶋茂雄の)対極に立つ。判で押したような日常。理詰めの練習。考え、磨き抜いた技術。的確な状況判断。恐るべき順応性。辺境人に比して中心にいる人たちは「機」とは無縁で、「より速く強く動く」ための身体技術の開発にリソースが集中する。〉
 辺境のソリューションとして「機」を採らず、常に自らを俯瞰しマッピングし相対化しさらに言語化する。「理詰め」は漢の属性だ。
 と、イチローが『非辺境人』である旨を牽強付会した。あれから7年。桜花に道を譲り、漢は去る。
 インタビューで胸に突き刺さったひと言があった。
「今まで残してきた記録はいずれ、誰かが抜いていくと思う。去年の5月からシーズン最後の日まで、あの日々はひょっとしたら誰にもできなかったかもしれない。そのことがどの記録よりも自分の中では、ほんの少しだけ誇りに持てたことかなと思います」
 「去年の5月から」とは会長付特別補佐に配され、選手としての出場はなく裏方に徹しつつもなお鍛錬を重ねた「あの日々」である。並のスーパースターなら腐る。だが、イチローは「誇り」だと言った。これこそ漢の言葉だ。琴線が弾かれ、暫し込み上げるものに堪えた。 □


IQ188の哀しみ

2019年03月17日 | エッセー

 2人に1人、普通の人がIQ100。10人に1人、東大クラスがIQ120。2300人に1人、天才級となるとIQ150。2000万人に1人、万能の天才レオナルド・ダ・ヴィンチがIQ180。ところがどっこい、太田三砂貴(オオタミサキ)君はなんとIQ188。5億人に1人、アインシュタインに比肩するという。埼玉出身、東京在住、紛れもない日本人、当年とって24歳、男性。今月11日TBS『1番だけが知っている』で、才媛1番(元MENSA日本人女性第1号)である中野信子先生が紹介した“知っているIQ1番”として登場した。
 自身IQ146の中野先生が太田君と出会ったのは8年前のJAPAN MENSA。次元が違うその天才に驚愕したという。16歳、高三の時に最年少でMENSA合格・入会。どころか、さらに上位のOlymp IQ Societyにも入会が認められた。MENSAメンバーが数ヶ月かかる問題を彼は数週間、独力で解くレベルだと中野先生は話す。以下、その天才ぶりを番組内容に沿って挙げる。
──4歳でバイオハザード(TVゲームのひとつ)を全クリア/5歳までに国旗や星座、電車など丸暗記できた/小さい頃から作品を見るとその人の知能指数が大体わかった/幼稚園児の時、世の中の美しいものは均等が取れていることに気づき「1:1:1.618」という美の黄金比を見ただけで感じ取ることができた/3か月で英語をマスター/誰にも習ったことがないのにピアノが弾けた/感性だけで画法が分からなくても描ける/16歳にして独学で交響曲を作曲できた/ブレーズ・パスカルの哲学書「パンセ」を常に持ち歩いている/自然が教科書だといい、さまざまな学びを得ている
 ところが、IQ188ゆえの苦しみがあった。
【時間が解らない】小5のころ、時間のイメージが全く解らず時間とは一体何なのかというそもそもの疑問にぶつかった。そんな折、母親と行ったプラネタリウムで衝撃を受ける。そこではアインシュタインの特殊相対性理論と一般相対性理論について解説がされていて、それを見た太田少年は「こんな解釈が世の中に存在するのか!」と身震いするほど感動。相対性理論を理解し、「時間」の意味をつかんだ。
【異常な感性】他の子どもたちとなかなか馴染めなかった。感受性が高すぎて、友達が遊んでいる姿を見るだけで「平和で美しい」と自然に涙が出てきた。
【文字で気持ち悪くなる】中学で高校生レベルの数学を全て理解していた。高校生の時には独学で大学レベルの物理を勉強。しかし一方、文字が読めないという問題も抱えていた。例えば品川の「品」が立体的に映り、気持ちが悪くなる。
【歪な形が苦手】いびつな形には違和感や気味の悪さを感じ、生理的に受け付けない。
 など、常人とは異質ゆえにさまざまな苦悩を背負ってきた。──
 両親はいたってフツー。トラック運転手の父と専業主婦の母、2人とも高卒。兄弟3人。彼以外は並の学力。遊ぶのが子どもの仕事だと、勉強を強いることはなかったそうだ。高校を卒業し大学を希望したが、手に職をつけるのが肝心だという親の意向でプログラミングの専門学校へ進んだ。成績トップで、4年のカリキュラムを1年でマスター。学ぶ必要に疑問を抱き、1年で中退。大手IT企業に就職したものの、高卒のため回されたのはコールセンター。学歴社会に嫌気が差し渡米。またも学歴の壁に阻まれ、敢え無く帰国。今、地方の公立大学目指し受験勉強中である。
 『東大王』なぞは跣で逃げる異次元の頭脳。それがなぜ東大ではないのか? 中野先生は「今の彼は東大に受かる学力とは程遠いんです。これがIQを語る上でのジレンマで、IQが高いイコール勉強ができるというわけではないんです。今の受験は記憶力が高ければ受かるというシステムで、真に頭がいいから受かるとはいかないんです」と説明する。
 一見どこにでもいそうな今風のイケメン。物腰優しく、ギラついた印象はまったくない。そんな彼の脳を中野先生が脳科学者の立場から解析を試みるそうだ。今度の放送に併せて撮ったスキャン画像を見たところでは、アインシュタインと同じく空間認知能力を司る部分が際立って優れているらしい。今後詳しく調べるという。専門家ならずとも、日本史上初、世界十指に入るIQ188には興味が尽きない。
 乱世なら彼の半生は変わっていたにちがいない。平時の学歴社会がIQ188の飛躍を阻んだ。それが哀しい。
 よくスペルを間違え、簡単な数字や記号を記憶するのが苦手だったアインシュタイン。インタビューで光速度の数値を答えられず記者から揶揄されると、「本やノートに書いてあることをどうして憶えておかなければならないのかね?」と切り返したエピソードは有名だ。かつてスイスの名門工科大学を受験した折、総合点が合格ラインに届かず失敗。しかし同校の校長は彼の数学と物理の点数が最高ランクだったことに注目し、迂回路を用意して翌年の入学に道を開いてくれた。これがアインシュタインのブレークスルーにつながった。ここだ! 
 天才が哀しみの裡に世に隠れるか、それとも顕れるか。花が咲くか萎むか。そこには天佑ともいうべきメンターの存在がある。ひょっとしたらこの絶世のIQ188にとって中野信子先生がそうであるかもしれないし、そうであれと望みたい。少なくとも彼を世に押し出したのは中野先生だ。
 平成の突然変異。平成が生んだIQ188。やれAIだそれAIだという世の中だが、歪な形で薄気味悪くなるAIなんかいない。「品」を立体で認識し嗚咽するAIなんぞどこにある? あったら連れて来いだ。人類の飛躍は常に浮き世離れした天才の頭脳が担ってきた。常識を引っ剝がすのは現し世から家出した異界のオツムだ。この超現実的オツムには東大王は疎か、AIだって跣で逃げる。AIへのふたつとないアンチテーゼか、カウンターパンチか。IQ188よ、哀しみを超えよとひたすらに祈る。 □


進化へのコピーミス

2019年03月11日 | エッセー

 先日、友人がガンで亡くなった。今、2人の友人がガンとの闘病中である。1981年以来、日本人の死因トップはガンだ。男は4人に1人、女は7人に1人の割合である。先進国では日本だけが急増し、国民病ともいわれる。
 期間に諸説あるが、数年のうちには60兆の細胞はすべて新陳代謝される。そのつど遺伝子が受け継がれていくのだが、時としてコピーミスが起こる。すると、異常な細胞が生まれ増殖を始める。これがガンの起こりだ。鬼子、司馬遼太郎風にいえば“異胎”ともいえる。
 このメカニズムに鋭く深い洞察を加える科学者がいる。福岡伸一氏である。青山学院大学教授、専攻は分子生物学。小稿で何度も紹介し卓説を徴してきた。同じくこの度も達識を拝したい。氏は「動的平衡 2」でこう述べている。
 〈遺伝子上に発生するミス。これに対し、生命はまったく無力というわけではない。致命的なコピーミスが生じないよう、進化のプロセスでさまざまな仕組みを作り出してきた。もし、このシステムが完全に働き、細胞分裂に伴う遺伝子の複製がきちんと行われればがんは発生しなくなる。しかし、同時に生命にとって致命的なことが起こる。進化の可能性が消えてしまうのである。わずかながらコピーミスが発生するがゆえに、変化が起こり、その変化が次の世代に伝わる。それが、もし環境に対して有利に働くなら、その変化が継承される。これが進化である。それゆえ、生命はあえてコピーミスの修復を完璧には行わず、常にミスの可能性を残している。つまり、がんの発生とは、進化という壮大な可能性の仕組みの中に不可避的に内包された矛盾のようなものなのだ。〉(抄録)
 コピーがノーミスであると、「生命にとって致命的なことが起こる」という。それは「進化の可能性が消えてしまう」ことだ。だから、「あえてコピーミスの修復を完璧には行わず、常にミスの可能性を残している」と捉えている。これは肺腑を衝く洞観ではないか。誤解と不遜を怖れずにいえば、進化のパイオニアである。未踏のフロンティアを征く魁である。しかし、それは常に命の遣り取りを伴う。だから、「進化という壮大な可能性の仕組みの中に不可避的に内包された矛盾」でもある。
 続けて氏は
 〈がんとは、私たちの生の一部であり、生そのものでもある。たとえ、それがついには私たちを死に導くものだとしても。〉(同上)
 と、進化が孕む逆説に「共鳴と諦観」(同上)を投げかけて、結んでいる。
 冒頭に戻って、本邦でなぜガンが急増したのか。他の病が医療・医薬の向上で減少していく中、相対的にガンが押し上げられた側面もある。やはり生活習慣に起因するとの見方もある。だが、急速な高齢化が最大の要因ではないか。寿命が延びただけコピーミスが増えるのは道理であるからだ。しかしこれとても、人類がこれから直面する高齢社会という未踏のフロンティアを征く魁でありパイオニアであるとはいえまいか。人類史への挑戦に一国を挙げて応戦する壮図──。そう括ってみたい。 □


声をあらげて??

2019年03月08日 | エッセー

 本来的には自らに責任はないといえるが、リンカーンの言葉を借りるなら「四十を過ぎたら自分の顔に責任をもつべきだ」。ある人物を閣僚に推された時、「俺はあの顔が嫌いだ」と言い放った。推薦人が「顔に責任はない」と食い下がると、一喝したのがこの言葉だ。
 あの高慢ちきないかにも人を見下した物言い、ふんぞり返って歩き、辞儀もろくにしない所作。おまけにあの貧相な面貌。四十をとっくに過ぎた六十七だ。稿者にしても「俺はあの顔が嫌いだ」と公言したい。自分のことは棚に上げてとの批判はこの場合適用できない。なぜなら、公僕に対して好悪を交えて評することは主権者たる国民の権利であるから。
 報道を引こう。
 〈小西氏(立憲民主党)が「国会議員の質問は、国会の内閣に対する監督機能の表れだとする(政府が閣議決定した)答弁(書)を確認してほしい」と質問。横畠氏(内閣法制局長官)は「国会が一定の監督的な機能はある」と認めた上で、「(国会の機能は)声を荒らげて発言するようなことまでとは考えていない」と小西氏を皮肉ったような発言をした。野党の抗議で審議は一時中断。横畠氏は答弁を撤回した。〉(7日付朝日、抄録)
 TVのニュースで確かめると、「声を『あらげて』」と発言している。アナウンサーは「声を『あららげて』」と原稿を読んでいた。
 政治的発言云々は措く。そうではなくて、重箱の隅を楊子でほじくる。この重箱こそは隅を杓子で払うわけにいかない。だって横畠くんは言葉を生業とする役人、しかもその頂点に立つからだ。法制こそは言葉ではないか。言葉が命だ。一字一句に心血を注ぐ重責にあるはずだ。それがこんないい加減な言葉遣いが許されていい訳がない。「声を『あららげて』発言する」と言うべきだった。
 小学館の大辞林には、
 〈あらら・げる【荒らげる】[動ガ下一][文]あらら・ぐ[ガ下二]声や態度などを荒くする。荒々しくする。「言葉を―・げる」〉
 とあり、補説として
 〈文化庁が発表した平成22年度「国語に関する世論調査」では、本来の言い方とされる「声をあららげる」を使う人が11パーセント、本来の言い方ではない「声をあらげる」を使う人が80パーセントという逆転した結果が出ている。〉
 と載せている。
 だから、大勢に従って「あらげる」なのか。いやいや、そうではあるまい。世の趨勢に抗してまでも「本来の言い方」(文化庁自らがそう言っている)を譲らないことこそ職分ではないのか。言葉を便(ヨスガ)とする人間が言葉を蔑ろにしてもらっては困る。大いに困る。横畠くんの国会軽視は、奇しくも重箱の隅に汚い澱となって溜まっていたといえる。
 昨年8月の小稿「ふたたび、君の名は?」で引いた内田 樹氏の卓見を徴したい。──
▼独裁というのは、「法の制定者と法の執行者が同一機関である」政体のこと。行政府が立法府・司法府の首根っこを抑える仕組みができていれば、事実上の独裁制が成立する。
▼独裁制をめざす行政府は、何よりも「国権の最高機関」である立法府の威信の低下と空洞化をめざす。──
 内閣法制局は内閣法制局設置法に、法令案の審査や法制に関する調査などを所掌すると定められた行政機関である。行政府内における立法段階での入口であり、「法の番人」といわれる。長い伝統をもつこの局が「法の番人」たる矜恃をかなぐり捨てて、「立法府・司法府の首根っこを抑える仕組み」の一翼を担う。「立法府の威信の低下と空洞化」に幇間よろしくお先棒を担ぐ。その恰好な役回りを演じているのが横畠くんだ。
 なにせ横畠くんの前任者は、40年以上に亘る内閣法制局の「集団的自衛権行使は違憲」との判断を覆した人物だった。その継承者である。さらに16年参院予算委員会では、防衛のための必要最小範囲に限るとした上で「あらゆる種類の核使用がおよそ禁止されているとは考えていない」という答弁もしている。まことに御しがたい御仁である。親の顔、いや親分の顔が見てみたい。
 おっと、上記設置法には「主任の大臣は、内閣総理大臣とする」と書かれている。親分はあの油の抜けた公家顔だ。声をあららげるつもりはないが、やっぱり同じ穴の狢だ。 □


すべては墓から始まった

2019年03月05日 | エッセー

 チンパンジーたちと分岐しホモ属つまりヒト属が生まれたのが600万年前である。その後ホモ属もさまざまに分岐して、その中から20万年前、アフリカでホモ・サピエンスが誕生した。現生人類、「人間」の登場である。残りのホモ属は3万年前までにことごとく消える。ネアンデルタール人もホモ・エレクトスも絶滅し、ホモ属はサピエンスのみとなった。サピエンスに駆逐され滅亡に追い込まれたのだが、イシューはそこで何が起こったか、である。
 イスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリは、サピエンスだけが7~3万年前に「認知革命」を起こし集団化することに成功したからだと解明した(『サピエンス全史』)。
 〈たまたま遺伝子の突然変異が起こり、サピエンスの脳内の配線が変わり、それまでにない形で考えたり、まったく新しい種類の言語を使って意思疎通をしたりすることが可能になった。伝説や神話、神々、宗教は、認知革命に伴って初めて現れた。それまでも、「気をつけろ! ライオンだ!」と言える動物や人類種は多くいた。だがホモ・サピエンスは認知革命のおかげで、「ライオンはわが部族の守護霊だ」と言う能力を獲得した。虚構、すなわち架空の事物について語るこの能力こそが、サピエンスの言語の特徴として異彩を放っている。〉(上掲書より)
 抽象思考、目に見えないものを認知する能力を獲得することで集団を形成できた、これが決定打だ。併せてホモ属内での分岐の中で特徴的、いな唯一の出来事が起こる。それが墓だ。墓および葬送儀礼。これがサピエンスと他のホモ属とを別った。ネアンデルタール人にも墓の痕跡があるとの指摘もあるが、異論が圧倒的だ。思想家内田 樹氏はこう語る。
 〈「死んでいる人間」を「生きている」ようにありありと感じた最初の生物が人間だ、ということである。「死んだ人間」がぼんやりと現前し、その声がかすかに聞こえ、その気配が漂い、生前に使用していた衣服や道具に魂魄がとどまっていると「感じる」ことのできるものだけが「葬礼」をする。死んだ瞬間にきれいさっぱり死者の「痕跡」が生活から消えてしまうのであれば、葬儀など誰がするであろうか。人間が墓を作ったのは、「墓を作って、遠ざけないと、死者が戻ってくる」ということを「知っていた」からである。人間の人類学的定義とは「死者の声が聞こえる動物」ということなのである。そして、人間性にかかわるすべてはこの本性から派生している。〉(「街場の現代思想」から縮約)
 埋葬には衛生上の配慮や肉食獣を避ける狙いもあったであろうが、決してそれだけではない。16年10月、小稿「死者の声が聞けるか!?」で同じ箇所を引用し次のように述べた。
 〈「死者の声が聞こえる動物」とは言い得て妙だ。チンパンジーが仲間の死体を持ち去ったという特異例があるにはあるが(撤去しただけ)、人間以外の霊長類は同類の死体には見向きもしない。置き去りにする。単なる物体に過ぎない。「死者の声が聞こえる」のは人類の属性といえる。別の著作ではこう語る。
《 「葬制を持つ」ということは、言い換えれば「死者の発揮する恐るべき力能」を知ったということである。誤解を恐れずに言えば、それが「人間になった」』ということである。人間を類人猿から最初に分かったのが葬礼であるとするなら、「死者の発揮する恐るべき力能」についての知が人間性の核をなしているということになる。 》(「他者と死者」から縮約)
 人間性のコアに「『死者の発揮する恐るべき力能』についての知」がある。俗にパラフレーズすると、祟りがあるかもしれないとする畏怖だ。勘違いしてはならない。「死者の声を聞く」とはオカルティズムではない。霊力、憑霊でも口寄せでもない。そうではなく、不可視な世界にまで及ぶ想像力だ。〉(抄録)
 「死者の声が聞こえる」または「『死者の発揮する恐るべき力能』についての知」は、「認知革命」がなければ獲得できないはずだ。「認知革命」ゆえに可能になった「知」である。穿てば、「認知革命」の最初の所産ではないだろうか。さらに「祟りがあるかもしれないとする畏怖」(稿者)は、死後という「不可視な世界にまで」(稿者)死者の『存在』がつづくことを前提にしなければ「畏怖」とはならないはずだ。「認知革命」の核心はこれではないか。死者の存在、これこそがサピエンスの原初的「知」のコアである。だからこそ「認知革命に伴って初めて現れた」ものが「伝説や神話、神々、宗教」であったわけである。
 ともあれ、「人間になった」起点に墓があった。「人間性にかかわるすべて」はそこに同根の始原をもつ。人間性の謂は多義に亘るが、世にそう呼ばれるものすべてとしておこう。だから、表題の「すべては」とは「人間性にかかわるすべて」である。その混沌や逸失には「死後という不可視な世界にまで死者の『存在』がつづくことを前提」にしなくなった文明の闇があるのではなかろうか……。と、偶感に浅慮を巡らせた。 □


二次試験成績 速報

2019年03月01日 | エッセー

 3月1日、以下主要各紙の見出しである。

 〈朝日  米朝首脳、合意至らず 制裁全面解除と非核化、隔たり 今後の交渉、不透明
  毎日    米朝首脳会談 非核化合意なし 北朝鮮、制裁解除要求 廃棄「寧辺のみ」
  読売    首脳会談 米朝、共同声明見送り…非核化 具体策に溝
  産経    トップダウン戦略が裏目…正恩氏、最大の危機に
  日経    米朝首脳、合意見送り 制裁の全面解除要求を拒否
  東京  米朝 合意できず 非核化と制裁解除で溝〉
 
 稿者の採点は、Tさん=0点 / Kさん=-100点である。「大山鳴動して鼠一匹」どころか、虱の一匹も産まれなかった。前者は中絶で母体は守ったものの、後者は術後ストレス障害や合併症の危険がある。その意味でこのような採点となった。ただし、両者とも想像妊娠ではあったが……。
 司馬遼太郎が織田信長の軍事的天才について書き留めている。
 〈信長のえらさは、この若いころの奇蹟ともいうべき襲撃とその勝利を、ついに生涯みずから模倣しなかったことである。古今の名将といわれる人たちは、自分が成功した型をその後も繰りかえすのだが、信長にかぎっては、ナポレオンがそうであったように、敵に倍する兵力と火力が集まるまで兵を動かさなかった。勝つべくして勝った。信長自身、桶狭間は奇跡だったと思っていたのである。〉(「街道をゆく 43」から)
 凡愚な指導者に限って、成功体験に足を掬われる。その足に縋り付いて一緒にコケるさらに盆暗者もいる。ノーベル賞とまでヨイショして、ラチが明かない用を託したあのどこかの首相である。
 老婆心ながら断っておく。「敵に倍する兵力と火力が集まるまで」とは現代に置き換えるなら、緻密な情報収集と周到な計画に基づいて機を見ることである。単なる軍事的圧力の謂ではない。
 以上、とり急ぎ。 □