伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

ウソつきはアベシンゾウのはじまり

2020年12月27日 | エッセー

 旧稿を引く。
 〈ずいぶん古い映画だ。三島由紀夫扮する薩摩藩士・田中新兵衛が罠に嵌められる。暗殺の現場に彼の佩刀が残されていたのだ。証拠の段平を見せられ、改めようとしてそれを手に取るやすかさず腹掻っ捌いて果てるという凄絶な場面が展開する。もちろん冤罪である。しかし嫌疑を掛けられた時点ですでに武士の面目は失われている。この場合、無実の証明はほとんど顧慮されていない。申し開きは無用であり、かつ有害だ。ましてや縄目の恥辱を受けるわけにはいかない。面目を回復する手段はただ一つ。武士のみに許された自死の作法である切腹だ。武士たるを証するには、武士たる特権的手法を鮮やかに振るって死んでみせる以外にないというパラドキシカルな理路がそこにはある。〉(12年5月「卓袱台返し」から)
 佩刀を許される特権的地位にある士には、身に寸鉄を帯びない平民が持つ弁明の権利は付与されていない。特権はアプリオリな権能を放擲することで担保された。
 以下、朝日から。
 〈安倍晋三前首相の後援会が「桜を見る会」の前日に開いた夕食会の費用を安倍氏の私費から補塡していた問題で、安倍氏は25日午後、衆院の議院運営委員会に出席し、「私が知らない中とは言え、道義的責任を痛感している。国民、全ての国会議員の皆さんに心からおわびを申し上げたい」と謝罪した。〉
 「私が知らない中とは言え」とは言えない。理由は2つ。自らの足元さえも律し得ない管理能力の致命的欠損が露呈したこと。さらに、言い訳は公人には許されないとの自覚が致命的に欠損していること。この2つだ。なぜか? 思想家・内田 樹氏の達識を徴する。
〈通常の法諺は「疑わしきは罰せず」であるが、役人や政治家にはこの原理は適用されない。官人は「疑われたら罰せられる」。「疑われたら、おしまい」という例外的なルールが適用されるのは、官吏や政治家は「市民」ではないからである。市民の人権を保護する規則は彼らには適用されない。だって、当然でしょう? 官吏や政治家は他人の私権を制限する権能を持たされているのである。他人の私権を制限する権利を持つ者に、他の市民と同じ私権を認めるわけにはゆかないではないか。〉(「期間限定の思想」から)
 当選後「身の引き締まる思い」とはよく聞くストックフレーズだ。だが、お前たちの薄っぺらな感激や決意なぞ聞いたって一文にもなりはしない。そんなことより、当選の刹那から自らが「疑われたら、おしまい」という「例外的なルール」の適用を受けると肚を括らねばならぬ。「私権を制限する権能」の保持と同時に「私権を認めるわけにはゆかない」立場に身を置く覚悟を定めねばならない。それに無自覚な奴原のなんと多いことか。その典型であり悪しき先導こそアベシンゾウではなかったか。「安倍晋三」とは書かない。もはや固有名を脱し、「無自覚な奴原」のシンボリックな表徴となったからだ。
 「道義的責任」とは何か。法律上の規定がなく法的責任が問えない過ちをいう。如上の「例外的なルール」を踏まえると、「官人」には道義的責任は端っからないと断じ得る。ないというより、自ら放棄した者を「官人」と呼ぶ。使う資格は元々ない。法的規定がないのは、あまりにも当たり前だからだ。人を殺せばこう処罰されるという定めはあっても、人を殺してはならないという法文はどこにもない。だって、法律以前のあまりにも当たり前のことだからだ。同様に「市民」ではない「官人」に私権がないのは、あまりにも当たり前だからだ。「道義的責任を痛感」しようがしまいが知ったことではない。もともと適用除外である。適用の対象となるのは「市民」である。道義的責任とは「市民」が自らの過ちについてエクスキューズする便法である。抵触はしてないが、反省し、今後身を律しますとの宣誓である。市民が有する私権である。市民にしか許されない資格を官人が振りかざすとは、なんとも盗人猛々しい。
 同じく朝日から。
 〈立憲民主党の辻元清美衆院議員は「社長が、公の場でうその説明を100回以上やって、社員にだまされたと言い訳をして通用しますか。社員には責任を取らせて、自分は何も身を切らずに、初心に帰って全力を尽くす。こんなことが許されると思いますか。民間の企業ならコンプライアンス失格、社長は辞職だと思いますよ。これ以上のことを、あなたはこの立法府でやったという自覚がありますか」とただし、安倍晋三前首相に議員辞職を迫った。
 安倍氏は「道義的責任がある」としたものの、「国民の信頼を回復するためにあらゆる努力を重ねていきたい。身を一層引き締めながら研さんを重ねていく」と述べ、議員辞職を改めて否定した。〉
 辻元議員の譬えは官人と市民との混同はあるものの、アベシンゾウが主導した当今の政治のありようを如実に表現している。それは次のようになる。
── 政権 ≒ 株式会社
   首相 ≒ 社長
   官僚 ≒ 従業員
   正当性 ≒ 議席数
   政策の適否 ≒ マーケット
   国民 ≒ 株主 
   国政選挙 ≒ 株主総会
   支持率 ≒ 株価 ──
 会社の運営を決めるのは社長である。トップダウンだ。ボトムアップしていく民主主義とは相容れない。行政権が肥大し他の2権を呑み込む独裁と化したのはそのためだ。かつ株主総会で経営の適否が判断されるとなると当然、当期利益が最優先される。100年の大計どころか、最長で総選挙のスパン、4年間だ。無責任な国債の膨張はそこに起因する。そしてなにより株式会社化した政権にとって最大の関心事は株価ならぬ支持率である。政権が最もセンシティブになる数値だ。論より証拠。野党によって政策が変更されたケースはごく稀で、そのほとんどは支持率によってなされてきた。
 118回のウソについて。
 〈安倍晋三前首相による「桜を見る会」前夜祭に関する疑惑を巡り、衆院調査局は、安倍氏が2019年11月~20年3月に事実と異なる国会答弁を118回していたと明らかにした。質問への答弁を精査した結果、衆参両院本会議と予算委員会で見つかった。〉(毎日新聞から) 
 衆議院調査局は歴とした衆議院事務局の一部局である。118回のウソは公的機関によってオーソライズされたといえる。小池晃共産党副委員長は「118回とは108煩悩、除夜の鐘より多い」と語った。巧いことを言ったものだ。共産党から煩悩や除夜の鐘が出てくるのも驚きだが。
 うそ【嘘】とは字引には、
1 事実でないこと。また、人を騙すために言う事実とは違う言葉。偽り。「嘘をつく」
2 正しくないこと。誤り。「嘘の字を書く」
3 適切でないこと。望ましくないこと。「ここで引き下がっては嘘だ」
 とある。
 当人はウソとは言わず「事実と異なる国会答弁」と強弁するが、2. も3. も該当しない。残るは1. のみである。問題は「人を騙す」意図があったかどうか。意図はあった。なぜなら官人は「疑わしきは罰せず」という法諺が除外される性悪説に立つからだ。官人にとって「事実でないこと」を公言すれば、それはそのまま意図的に作為されたものと見做される。「事実と異なる国会答弁」はすなわち「人を騙すため」と同義となる。
 当人は議員辞職どころか次期衆院選で国民の審判を仰ぎたいと言った。百歩譲って一旦辞職して後ならまだ解るが、地位に恋々としがみつくさまは十八番の「美しい日本」とはまったく似ても似つかぬ。おまけに「国民の審判」といっても、父祖伝来の地盤である山口4区の話ではないか。間違っても「国民の」とはいえない。大言壮語どころか、限りなくウソに近い。
 「ウソつきはドロボウのはじまり」と俚諺は訓(オシ)えるが、今や「ウソつきはアベシンゾウのはじまり」である。まだカウントされていないが、モリカケを勘定に入れるとウソは118回どころではるまい。だから、子どもたちには正確な俚諺を伝えたい。「ウソつきはアベシンゾウのはじまり」、ウソばっかり吐いているとアベシンゾウという人で無しになるぞ、と。碌でなしはまだいい。救う余地がまだあるが、人で無しはお天道様が許さない。歴史に拭い難い汚点を残し藻屑となって見限られ、見捨てられていく。それでは人生台無しだ。生まれた甲斐がないではないか、と。 □


なにか忘れちゃいませんか?

2020年12月23日 | エッセー

 コロナ報道の中で忘れられていることが3つある。
 1つ目は宅配便。6月の拙稿「ハートフルディスタンス」でこう述べた。
 〈平成30年で43億701万個の荷物が日本列島を往き交った(国交省発表)。列島をくまなく走る血管である。血栓でもできた日には命に係わる。ステイホームとやらで今年は通販、デリバリーが急増したにちがいない。通販会社や宅配業者が賢く先手を打って、置き配、非対面などを推進したため感染拡大の槍玉に挙げられることなく今日に至っている。
 43億個のうち、98・9%がトラック便。多い時は1人が200個を超える荷を配る、したがって最前線は想像を絶する奈落にある。「キツい・危険・帰れない・厳しい・給料が安い」だ。昇ったり降ったり、エンドユーザーまでの荷物を抱えてのラストワンマイルは「キツい」に相違ない。〉(抄録)
 ステイホームといってもデリバリー、通販といっても、物(ブツ)が届かなければ話にならない。リモートワークなら情報は居ながらにして遣り取りはできる。しかしそれとて情報産業以外は最終的には物的次元に帰結する。物のモビリティだ。
 医療崩壊は報じられても、ロジスティクスが取り上げられることはない。第一、マスクを運ぶのは誰だ? 医薬品を届けてくれるのは誰だ? 医療崩壊とはいっても全国のあらゆる病院がいちどきに瓦解するわけではあるまい。しかしロジスティクスは一国の息の根を瞬時に止める。別けても宅配便である。一国を縦横に経巡る毛細血管にリスペクトを捧げたい。加えて、せめて再配達を強いないよう心がけたい。
 2つ目は2類から5類へのランクダウン。
 実は8月28日、前政権は感染症法に基づき指定感染症となっている新型コロナの分類を当初指定した危険度2類相当から最下位の5類へ引き下げる検討をすると決めていた。
 1類はエボラ出血熱、ペスト。2類は結核、SARS。3類はコレラ、腸チフス。4類は黄熱、狂犬病。5類はインフルエンザ、梅毒。
 政権交代のドタバタでほとんど忘れられてしまったが、もうすでにこのころから幕引きを狙っていたというか、明らかに腰が引けていたのだ。2類なら入院勧告できるが、ランクダウンすれば入院措置は不要となり費用も公費から自己負担になる。その後の急激な感染拡大で検討は封印されたようだが、今また囁き始められている。イシューは「緊急事態宣言」の発出、特措法の罰則化に絞られているが、それ以前に前現政権とも経済最優先から一歩も抜け出してはいない。遠吠えと知りつつ、先日の愚稿を引きたい。
 〈「金もいらなきゃ 女もいらぬ、あたしゃ も少し背がほしい」という玉川カルテットの伝でいけば、「背(せい)もいらなきゃ 女もいらぬ、あたしゃ も少し金がほしい」とでもなろうか。経済とは中国古典の「経国済民」を略した言葉で、「 世 ( よ ) を 經 ( をさ ) め、 民 ( たみ ) を 濟 ( すく ) ふ」。国民のために手段として経済はある。〉(「やめられない、とまらない ごーつーえびせん」から抄録)
 3つ目は会食問題の問題。首相に続いて愛知の市議会議員の会食問題。双方とも反省は口にしたが、なぜ問題なのかが解っていない。だから「の問題」という。首相以下彼らには公人とはなにかについての見識が致命的に欠落している。何度か引用した内田 樹氏の達識をまた徴したい。
 〈通常の法諺は「疑わしきは罰せず」であるが、役人や政治家にはこの原理は適用されない。官人は「疑われたら罰される」。「疑われたら、おしまい」という例外的なルールが適用されるのは、官吏や政治家は「市民」ではないからである。市民の人権を保護する規則は彼らには適用されない。だって、当然でしょう? 官吏や政治家は他人の私権を制限する権能を持たされているのである。他人の私権を制限する権利を持つものに、他の市民と同じ私権を認めるわけにはゆかないではないか。〉(「期間限定の思想」から)
 他人の私権を制限できる者に、制限される側と同じ私権を認めては平等則に反する。そんなの当たり前ではないか。傍聴席での禁煙を命じておきながら、てめーだけはタバコを吹かす市長がいたら総スカンを喰う。それでは隗より破れよ! だ。もっとも権力を握る者はなにをやっても許されるという前首相のアディクションが感染したものではあろうが。
 会食問題はマナーでも政治作法マターでもない。権利に関する問題だ。そこが不問に付されている。だから、なにか忘れちゃいませんか? と毒付いてもみたくなる。 □


ロックなベートーヴェン

2020年12月20日 | エッセー

 以下、ド素人の与太とお聞き捨て願いたい。
 教会や宮廷が召し抱える下部(シモベ)から、音楽として自立する端緒にいたのがバッハであった。それゆえ「音楽の父」と称される。バッハの生年は1685年、日本では5代将軍徳川綱吉が「生類憐れみの令」を発布した年である。遥か3世紀を隔てる、まことに古色蒼然たる遠景である。のち半世紀余を経て「古典派時代」が訪れ、音楽家は教会や宮廷から袂を分かちその演奏も楽譜も商品化していった。史上初めてのフリーミュジシャンとして羽撃(ハバタ)いたのは「神童」モーツアルトであった。音楽家から芸術家へとトポスが上昇した画期であった。
 続いたのがベートーヴェンである。生涯パトロンを持たず、自らを芸術家と公言した。伝統を継承しつつも今を呼吸し性能が向上した楽器を巧みに取り入れ、奔放に独創的な地平を切り拓いていった。彼が向かい合ったのは教会や宮廷ではなく大衆であった。クラシックのひと言で括ってしまうと隠れてしまうが、大向こうを唸らせようとしたといえる。蓋し、これは革命的ともいえよう。交響曲第5番 ハ短調 作品67の「運命が扉を叩く音」はこの上ない簡明なメッセージではないか。世の上下層を問わず、教養の有無に関わりなく「運命」との対峙を迫る。万言を労することなく、万巻の哲学書を超えて、たった4音が人びとの琴線を掻き毟る。
  交響曲第9番 ニ短調 作品125、つまり「第九」とて同じだ。本邦では年末のジングルであり、ヨーロッパでは「欧州の歌」として歴としたポピュラリティーを獲得している。
 ポピュラリティーとはなにか。大衆性と訳してしまえば身も蓋もないが、世代を問わず社会的位階に拘わらず、知的熟成度をも易々と超える共感性とパラフレーズしてみてはどうだろうか。思想家・内田 樹氏はこう言う。
 〈易しい話でも、書き手と読み手の呼吸が合わないと意味がわからない。逆に、ややこしい話でも、呼吸が合えば、一気に読める。「一気に読める」というのと「わかる」というのは次元が違う出来事である。わからなくてもすらすら読めれば、それでよいのである。何の話かよくわからないのだが、するすると読めてしまうということはある。意味はわからないが、言葉が身体にすうっと「入る」ということがある。ロック・ミュージックで、歌詞は聴き取れないが、サウンドには「乗れる」というのと似ている。そのような読み方の方がむしろ「深い」とも言える。〉(「街場の読書論」から)
 クラシックに造詣はなくとも「運命が扉を叩く音」は聞こえるし、「第九」は欧州を統べ、1年の脱皮を予兆する。それは、「ロック・ミュージックで、歌詞は聴き取れないが、サウンドには『乗れる』」経緯(イキサツ)と符節を合わせるのではないだろうか。だから、楽聖をロックに牽強付会してみたのだ。
 してみるとロックンロールのスタンダード・ナンバーで、チャック・ベリーが歌いビートルズがカバーした“Roll Over Beethoven”(邦題「ベートーヴェンをぶっ飛ばせ」)はなんとも示唆的だ。もちろんクラシックという既存権威をベートーヴェンに擬した宣戦布告であるが、穿てばその起因は抗いようもない高々としたポピュラリティーへの近親憎悪ではなかったか。1969年ウッドストック・フェスティバルで、ロックはアメリカのカウンターカルチャーの頂点を極めた。
 振り返れば、ベートーヴェンの登場もヨーロッパの音楽シーンにカウンターを見舞うものだった。一直線に魂を揺さぶれ! それは“rock”の語源でもある。ロックなベートーヴェンだ。
 はたして今年の第九はなにを告げるジングルとなるか。暮鐘ではなく、暁鐘であれとひたすら祈りたい。 □


免許自主返納

2020年12月15日 | エッセー

 私儀(ワタクシギ)先日運転免許証を返納いたしました。約半世紀、人生の7割を共に過ごして参りましたが、遂に永訣となりました。旭日章様には何度か献金はいたしましたが、ご厄介になったことは一度もなく務めを全うできました。──と、まずは御報告まで。
 敬愛してやまない思想家内田 樹氏はこう語る。
 〈この年になると、あちこちが傷んでくるのは当たり前ですよ。傷んで当たり前で、完全な状態に回復するということはあり得ない。「完全な健康体」という理想状態があって、そこからの減点法で今の健康状態というものを査定して、ここが痛い、ここが悪い、ここが不調だと数えあげていったら、だれだっておもしろくも何ともないです。
 むしろ、今までこれだけ酷使したのに、よくもってくれたな、ありがとう、と自分の体に対して感謝します。自分の体に向かって、なんでここで壊れてしまうんだ! と恨むのと、いやあ、よくもってくれたね、ありがとねっていたわるのとではずいぶん心持ちが違いますよね。
 自分の今の状態に合わせて、いつも「収入」の範囲内で暮らしていけばいいわけで。達成すべき健康状態を自分の体力より上に設定するというのは、身の程を知らない借金をするのと一緒だと思うんですよ。いつもまだ足りないまだ足りないと焦るばかりで、不足分ばかりに意識がいくようになってしまう。
 今の手持ちの身体的リソースを活用して何ができるかと考えるほうが、借金の残額を数え上げるように自分の「まだ治っていない部分」ばかり気にするよりも、楽しいに決まっているわけです。なんでそういうふうにしないのかなあ。〉(「身体の言い分」から抄録)
 池袋の元高級官僚の爺さんが起こした事故に恐れをなしたわけではない。爺さんについては、10月の拙稿「身体の言い分」で触れた。第一、元○○と名乗るほどの○○を欠片も持ち合わせない。冒頭述べたように無事故であったし、今すぐ運転に支障をきたすほどの器官の衰えもない。ただ「『完全な健康体』という理想状態」には遙か遠い。だが、「自分の体に向かって、なんでここで壊れてしまうんだ!」と根に持ってもいない。「ありがとねって」労りつつ、「今の手持ちの身体的リソース」を勘案して「身の程を知らない借金」を回避したのである。約(ツヅ)めていえば、きちんとジジイになるケジメをつけたわけである。これからは被害者になることはあっても加害者になることはない。ずるずるいつの間にかジジイになって運転もままならなくなるのではなく、ままならなくなる前にジジイをオーソライズしてもらったというところか。終活ならぬ爺活である。
 替わりに「運転経歴証明書」なるカードを下賜された(もちろん、有料)。これが笑ってしまう。市町村で違いがあるそうだが、当市では灯油が店頭渡しでリッター3円の値引き。たんびに同乗してスタンドに通えというのか。タクシーが1割引。カード払いならまだしも、高齢化したタクシードライバーに割引計算は余計な負担だろう。路線バス廃止に伴う代替市民バスが半額になるのは少し気が引けるし、宅配弁当1割引もなんだか申し訳なさが先に立つ。ある高齢者施設では体験利用が無料だというが、体験そのものがなんだかなーである。
 車が好きで好きで、年間1万キロ超走っていた時代が10年前まであった。若者の車離れがいわれて久しいが、団塊の世代にとっては車は垂涎のアイテムだった。高度経済成長の高波に乗って「身の程を知らない借金」もできた時代だった。若者風にカッコよくいえば、「年寄りの車離れ」って、あまりカッコよくないか。
 ともあれ、今まで助手席に陣取っていた荊妻が攻守ところを替えてこれからはハンドルを握る。老老連れ立ってあっちへ、こっちへ。珍道中のはじまりだ。 □


やめられない、とまらない ごーつーえびせん

2020年12月12日 | エッセー

 「河童恵美仙」は奇しくも1964東京オリンピックの年に登場した。爾来日本を代表するスナック菓子であり続けてきた。登録商標はひらがなと漢字表記共になされているが、漢字の方が「やめられない、とまらない」には似合っている。小麦粉と海老を主原料とするが、56年間、袋も中身もマイナーチェンジの連続であった。一貫したのは長さ5センチ、刻み10~11。食感への拘りだ。
 実はここに来て、もう一つ「やめられない、とまらない」が現れた。「Go To」キャンペーンである。朝日は今日、以下のように報じた。
 〈分科会、抜本的対策迫る 県境越え自粛など 感染拡大続く地域 新型コロナ
政府の新型コロナウイルス感染症対策分科会は11日、流行が沈静化しない場合に備え、対策の強化を迫る提言書を政府に出した。感染拡大が続く地域では、「緊急事態宣言を回避すべく、対策の抜本的な強化」を求めた。地方自治体に「今まで以上にリーダーシップを発揮して先手を打つ」よう促し、政府には地方の意思決定の後押しを求めた。〉
 ところが、ガースー首相(ネット番組に出て、自らこう名乗り、見事にスベった)の反応は次の通り。
 〈GoTo一時停止「まだ考えてない」 首相
 菅義偉首相は11日、インターネット番組に出演し、Go To トラベルで新たに一時停止措置を行うかについて、「まだそこは考えていない」と述べた。一方で、札幌、大阪両市で行われている一時停止や、東京都による65歳以上や基礎疾患がある人への自粛呼びかけなど、現行措置の期間延長を検討する考えを示した。
 首相は「経済を壊したら大変なことになる」として、トラベル事業などを継続する必要性を強調。一時停止の延長などについては「それぞれの首長と2、3日の間に調整する」とした。〉(同上)
 「金もいらなきゃ 女もいらぬ、あたしゃ も少し背がほしい」という玉川カルテットの伝でいけば、「背(せい)もいらなきゃ 女もいらぬ、あたしゃ も少し金がほしい」とでもなろうか。命をとるか、それとも金か、と迫った分科会へのガースー改めスッカスカ君の答がこれだった。
 「大変なことになる」の主語が無い。国民だとしたら、国民の命より大事なものとはなんなのか。経済とは中国古典の「経国済民」を略した言葉で、Economyの訳語である。「 世 ( よ ) を 經 ( をさ ) め、 民 ( たみ ) を 濟 ( すく ) ふ」が経済。ギリシャ語由来で「家族や家畜、食糧、衣服など、生活に関わるものを秩序立てて運営する」ことをEconomyという。ほぼ同義とみていい。主体は国民、国民のために手段として経済はある、そう捉えて間違いはなかろう。どちらからも国民の命は二の次とはどうしても読めぬ。ところがわが宰相はしらっとして手段がファーストプライオリティだと宣った。聞き捨てならぬとは、このことではないか。
 旅行客が落とす金は地元住民の消費額の7倍といわれる。昨年の日本人国内旅行消費額は約22兆。交通機関などの関連を含めると更に増える。ここをターゲットにすれば、手っ取り早くやってる感は出せる。そこが狙いにちがいない。GoToへのアディクションの病因はそこにある。だから、「やめられない、とまらない ごーつーえびせん」だ。
 しかし、忘れてもらっては困る。421万に及ぶ国内企業の内、99.7%は中小企業である。従業者数は7割を占め、GDPの5割は中小企業が稼いでいる。スッカスカ君が「経済を壊したら」と本気で心配するなら、中小企業にこそ主力を傾注すべきだ。大企業はいい。内部留保も約400兆抱えている。すぐ倒れる心配は無い。帝国データバンクの発表によれば、昨日現在新型コロナ関連倒産は793件。業種別上位は「飲食店」(125件)、「ホテル・旅館」(70件)、「建設・工事業」(56件)、「アパレル・雑貨小売店」(51件)、「食品卸」(41件)、「アパレル卸」(28件)など。
 早とちりしないでほしい。「ホテル・旅館」の70件は中小業者だ。桜を見る会前夜祭の会場となったANAインターコンチネンタルホテル東京などの大手は時の政権御用達の大手だ。大船は沈まない。上位の飲食店は軒並み小舟、いや手漕ぎのボートだ。大波を喰らったら一溜まりもない。
 COVID19の蠢動はどうもアンバイ・スッカスカ両政権を嘲笑っているようでならない。盛んに繰り出す朝四暮三政策の裏を掻いているとでもいおうか。
 かっぱえびせんは好物だが、ごーつーえびせんは頂けない。「やめられない、とまらない」のわけをしっかりと見抜いていきたい。
 と、かっぱえびせんを齧りつつ指先に付いた油に気がついてキーボードから離れる。 □


かき揚げ

2020年12月09日 | エッセー

 玉葱、人参、牛蒡、椎茸、三つ葉に海老、ホタテときてイカ。衣でまとめて油で揚げる。うどんや蕎麦に丼。サクッと箸で分け入ってつゆにとろける寸前で口に頬張る。おおー、日本。旨い! どなたかは存ぜぬが、かき揚げの創始者に満腔の謝意を伝えたい。
 その「かき揚げ」の名をひょんな所で見かけた。先月結ばれたRCEPの数ある対象品目の中に並んでいたのだ。ということは、今までも今も輸入されていたことになる。かき揚げに限った数量は判らないが、冷凍・生鮮野菜の5割超が中国からの輸入である。だから冷凍かき揚げも当然同等のシェアを占めていると考えられる。よって、おおー、日本。旨い! などと能天気にはしゃいでいるのは滑稽の極み、遼東の豕である。
 RCEPは既存のASEAN10カ国にそのFTA相手国5カ国、計15カ国が締結したアジアの包括的経済連携協定である。世界の人口とGDPの実に3割を占める大きな枠組みである。いままで直接の経済連携協定を持たなかった日中韓がRCEPのフレームの中で初めてそれを取り結ぶ運びとなった。農水産物、工業製品など幅広い分野で関税が削減、撤廃される。すぐにではない。品目ごとに時間をかけて進められる。巨大な経済圏の端緒を開くと期待される。かき揚げは現在9%の関税が十数年かけて撤廃される。気の長い話ゆえ恩恵に与る団塊の世代はわずかであろうが、孫世代がかき揚げをたらふく頬張る姿を彼方に描いてよしとしよう。
 確かに中国産食材、食品には問題があった。だがそれは大なり小なり、いずこの国も辿ってきた道だ。いつまでも同じではない。そんなことをしていたら世界から見放される。大国中国といえども、世界から孤立しては生きられぬ。
 2002年以来日本からの最大輸出先は中国である。2009年からは日本への最大輸入元は中国である。要するに、輸出入とも中国が最大である。インバウンドも中国が最多だ。つまり中国は日本にとって最重要なステークホルダーだ。好きだの嫌いだのといっている暇はない。思想家内田 樹氏はこう語る。
 〈緊密な経済的交流があり、文化交流があり、観光客の行き来がある。ならば、「日本といい関係を保持したい」という中国人の数を一人でも多くしてゆくことこそ「最大の抑止力」ではないでしょうか。〉(「コモンの再生」から)
 中国による世界支配の陰謀なるものも真しやかに囁かれる。世の陰謀論なるものは最も知的負荷を掛けない世界観であると心得た方がいい。進歩や成熟とは複雑化するということである。複雑系の紐解きを厭うのは知的退嬰の一典型だ。
 たかがかき揚げ、されどかき揚げ。綯い交ぜの美味は糾える因縁の恵だ。 □


2020年12月04日 | エッセー

 陋屋から大きな川沿いに車で約1時間、市境を跨いでさらに2町を越えたところに「港」という名の地区がある。灯台下暗し、先日新聞報道で初めて知った名だ。大きな川と支流との合流地点にある地区である。支流沿いに家屋が点在し、13世帯35人が住まう。ここが大きな川が氾濫するたびに本流から支流に逆流するバックウオーター現象に泣かされてきたという。長きに亘って築堤は繰り返されてきた。今も続行中だが、一昨年と今年立て続けに豪雨による浸水被害が発生し深刻なダメージを受けた。事ここに至り、ついに持ち上がったのが集団移転計画だ。
 事前防災としての集団移転は国の事業である。国が実質的に94%を負担し、市町村は6%の負担で済む。当初は10世帯以上が移転要件であったが、今年度から5世帯以上に枠が緩和された。現在、港地区では合流地点に近く浸水されやすい5世帯(35人)が検討中だという。     伝来の地である。細々と維持されてきたコミュニティーもある。そこを去るのは断腸の泪を絞っての決断にちがいない。しかし、抜本策は他にはない。おそらく全国各地には同等の対象地が数多くあるだろう。ユヴァル・ノア・ハラリの伝でいくなら、農耕定住生活をはじめたサピエンスの悲しい性(サガ)ゆえであろうか。
 それにしても、なぜ「港」なのであろう。地誌に当たってみると、かつて当地で銅鉱が採掘され積み出し港として栄えたとある。「湊」と称した時代もあったという。川湊である。湊は、船の発着場である港を含めた町や人を意味した。現在では港を一般的に使う。これで、大河とはいえ遥か陸地の奥まったところに港があった訳は解けた。   
 その港へ行ってみた。大河沿いを遡上するのではなく、支流沿いを下った。狭隘な山峡(ヤマカイ)を右に左に蛇行しつつ走ること2時間。やっと「港」に辿り着いた。工事中の護岸が聳え立つように盤踞する。山裾に家屋が散在し、支流は細やかな流れだ。とてもこれが溢れかえり混濁した水魔と化して住処(スミカ)を襲うとは想像しがたい。
 合流地点には巨岩があって、祠が建っている。ひょっとしたら灯火を焚いたか、目印であったか、往時が偲ばれた。河岸の竹林はことごとく薙ぎ倒され水魔の狼藉を印していた。話を聞こうにも路上に人影はなく、しばし佇んだのち港を後にした。
 銅と川港が歴史の遠景に退き、人家は炊煙を途絶え廃屋となり、やがて山襞に同化していくだろう。生き残りを賭けた自然との攻防。護岸のコンクリートが猛々しい塹壕のようにわずかばかりの平地(ヒラチ)を穿っていた。 □