伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

追悼に代えて

2019年01月30日 | エッセー

 敬愛して已まない作家 橋本 治氏が生者の列を離れた。朝日はこう伝えた。
 〈「桃尻娘」で衝撃の作家デビューを果たし、「リア家の人々」「草薙の剣」をはじめとする小説で戦後の庶民の実相をすくい取るなど、幅広く多彩な作品を発表してきた作家の橋本治さんが29日、肺炎のため死去した。70歳だった。
 東大在学中の68年、駒場祭のポスター「とめてくれるなおっかさん 背中の銀杏が泣いている 男東大どこへ行く」で注目される。イラストレーターを経て77年、「桃尻娘」が小説現代新人賞佳作に。女子高校生の一人称でつづるしゃべりの文体と衝撃的な告白という内容は、文壇も読者も驚かせた。
 斬新な古典の現代語訳でも注目を浴びた。「桃尻語訳枕草子」は「春って曙!」という書き出し。「窯変源氏物語」、「双調平家物語」(毎日出版文化賞)などで、古典文学の登場人物に親近感を与えた。
 エッセーや評論も膨大に残した。04年、日本人の思考をたどる文化論「上司は思いつきでものを言う」はベストセラーに。短編集「蝶のゆくえ」で05年、柴田錬三郎賞。「巡礼」「橋」「リア家の人々」は「戦後3部作」と呼ばれた。日本人の心性を探る試みは、18年に野間文芸賞を受けた長編小説「草薙の剣」に結実する。
 集団的自衛権や憲法改正などの時事的なニュースを受けて、本紙にたびたび寄稿やインタビューを掲載。政府や有権者にも苦言を呈した。
 18年6月に上顎洞がんの診断を受け、療養していた。18年12月の野間文芸賞は贈呈式を欠席し、編集者が受賞スピーチを代読。祝いの品は原稿用紙がいいと希望して「最後までいけるかどうかわかりませんが、あてどのない生き方が自分にはふさわしい。ちなみに次の小説のタイトルは『正義の旗』です。あ、言っちゃった」とメッセージを寄せた。〉(1月30日付、抄録)
 併せて、次の一文を添えていた。
 〈「一言で表す力」 解剖学者の養老孟司さんの話
 ともに選考委員を務める小林秀雄賞の選考のときなど意見を交わすことが多かったが、橋本さんは表現しにくい微妙なことも「ああそれそれ」という風に一言で言い当ててくれる。同じ歴史を書くのにしても、現代の感覚でとらえているのにピントを外さず、そういう意味で天才的だった。〉
 簡にして要を得る、よくできた記事だ。梗概はこれに尽きている。
 小稿には橋本作品からたびたび引用させていただいた。断りもなしにその数、15稿。感謝の言葉がない。つい先だってのこと、今月11日にも「たとえ世界が終わっても」から高見をお借りした。
 オマージュとして「野太くかつ嫋やかな知性の眼」、あるいは「快刀乱麻を断つ颯爽たる知性」と贈らせていただいた。「氏の知性はこのように首根っこを鷲掴みにする」とも述べた。養老氏の「一言で言い当ててくれる」はまさにそれだ。いうなれば、青竜刀のごとき切れ味であった。日本の極めて良質な知性が失われたというほかない。
 昭和23年の生まれ。団塊の世代のど真ん中である。70歳と10ヶ月。いかにも早いが、同じ団塊の一人として身につまされるものがある。氏が団塊の世代を先駆したように、その死もまた世代を先駆けたともいえよう。今も耳朶に残るあの学園紛争の喧噪も橋本氏と共に消え去るようで、昨夜は悲しくて哀しくてほとんど眠れず、朝刊が届くのを待ってこの駄文を呵した。
 桃尻語ででも綴れば洒落たものにはなるだろうが、生憎そんな才はない。換骨奪胎、駄洒落擬きで締め括りたい。

    とめてくれるな皆の衆 背中の桃尻泣いている 男橋本どこへ逝く
                                                                                                                                                                   合掌 □


LAWS

2019年01月29日 | エッセー

 “LAWS”(ローズ) LAW(法律)の複数形ではない。“lethal autonomous weapons systems”「自律型致死兵器システム」の略称である。「AI兵器」のことだ。AIを使って自律的に動き、標的を自ら判断して殺傷するキラーロボット、ロボット兵器、またそれら兵器システムをいう。人間に代わるロボット兵士でもある。何度か触れた米中ロによる新手の核・ミサイルや宇宙での軍拡競争以上に狂気の沙汰である。核兵器を凌ぐ兵器ともいえる。原型的なそれは1990年代から実戦配備されているが、AIの長足の進歩によっていよいよ現実味を帯びてきた。
 今から6年前の9月、NHKが『クロ現』でロボット兵器を取り上げたことに触発されて愚稿を呵した。再掲してみる。
 〈アフガンやイラクで、アメリカはさまざまな無人兵器を実戦に投入している。数年前には無人攻撃機によってタリバンやアルカイダの司令官が爆殺された。しかし他の局面では誤爆や巻き添えで多くの民間人が犠牲になり、深刻な疑問が呈されている。操縦員の誤認や地上部隊の誤報が原因らしい。
 高度なAIを搭載し自律行動するものもあるが、ほとんどは遥か彼方のアメリカ本土の基地から衛星を介して操作される。モニターを見ながらの操作である。傍目にはテレビゲームのようだ。マイカーで基地に出勤し“戦闘”を行い、任務後ハンバーガーショップに立ち寄り、子供のサッカーの試合を観戦して帰宅する。このとてつもない日常と非日常の悪しきコラボレーション。疑問を抱き、精神を病み、退役する操縦者が後を絶たない。さらに、モニターに克明に映し出される殺傷場面。意外なことに、現地の地上軍兵士よりも心的外傷後ストレス障害に陥る確率は高いという。
 もしもロボット兵器が主流になれば、間違いなく戦争は相貌を一変する。第一、戦域は地球規模に広がる。操作が行われる米本土の基地も、敵にとっては紛れもない戦場だ。また、勝敗はどのように判じられるのか。ロボット兵器の損害の多寡をもってするのか。“生身の”兵士は残っているのに。あるいは領土の争奪という古典的レベルに先祖返りするのであろうか。さらには気がついてみれば、技術競争に収斂してしまうのか。
 愚考を巡らすに、次のようなフェーズを進むのではなかろうか。
  ① 人と人との戦い(双方がロボットを所有しないなら。もちろん武器は使う)
  ② ロボットと人との戦い(ロボットを持てる側と、持たざる側)
  ③ ロボット同士の戦い(持たざる側がきっと持つに至る)
  ④ ロボットと人の戦い(ロボットを失った側は人的リソースを総動員する)
  ⑤ 人と人との戦い(④ でおそらくロボットは敗退するだろう)
 ⑤フェーズは希望的観測に過ぎないとの反論もあろうが、“創造主”たる人間の力は決して侮れまい。つまりは、元に戻る。ここが、核戦争とまったく違う。核の場合、最終戦争となって二度と戦争は起こらない(起こせない)からだ。だが、じゃあ初めからやるなよという愚かさは甲乙つけがたい。これでは、ウロボロスそのものではないか。〉(「ウロボロス」から抄録)
 いや、実に恥ずかしい。穴があったら入りたいが、ないので恥曝しを続ける。各フェーズはもっともらしく見えるが、大事な前提が抜け落ちている。「人的損失を最小限に抑えるため」、人“格”的損失を必然的に招来することだ。せっかく前段でPTSDに触れながらそこで足踏みしてしまった。血を見ない戦いは血塗られた戦いに比して倫理的抑制を極小化するという点だ。はじめは確かにそうだ。しかし“結果”が逆襲する。PTSDがそれだ。エノラ・ゲイを先導したストレート・フラッシュ号の米軍パイロット・クロード・イーザリーは英雄と称えられたが、後精神を病んだ。原爆死した人々の幻に戦慄し苦悶したという。惨たらしいことではあるが、そこにはまだ人間がある。しかし、「高度なAIを搭載し自律行動するもの」になったらどうか。ここまで踏み込まねばならなかった。戦争への心理的、いな倫理的抑制が野放図に解き放たれるからだ。フェーズ② は容易に起こり、フェーズ③ へ進む可能性は消えるにちがいない。「核戦争とまったく違う」どころか、それは核以上に可能性が高い。浅慮に汗顔の至りである。つまり、ウロボロスになる前に他者を噛み殺してしまう。もちろんバグや損傷、誤作動による暴発もありうる。核以上に危険でもある。
 中世史を専門とする歴史学者本郷和人氏は、日本の戦争史において長刀に代わって「槍」が登場したのは南北朝時代だとする。
 〈南北朝時代になると、いかに多くの兵を集めるかということに重きが置かれるようになります。いわば「戦いの素人」(農民)が大勢集められて戦場に連れて行かれるようになるのです。(長刀は扱いが)難しい。誤って味力を斬ったり自分を傷つけたりする恐れかある。こうして槍という武器が生まれ、大勢に槍を持たせて一方向に突撃させるという戦法がとられるようになりました。槍なら遠くから相手を突けばいいわけです。そしてここから集団戦が生まれます。(農民たちに)相手と斬り合うなんてできません。だから槍を使わせます。遠くから突く。または長い槍でもって敵の頭の上からバンバン叩く。そうやって恐怖心を少しでも取り払って兵隊として機能させたのです。〉(「軍事の日本史」から抄録)
 してみれば、槍は日本版ローズの祖型ともいえる。フィジカルにもメンタルにも戦闘への抵抗を引き下げる悪知恵、悪足掻きが、ついにローズという鬼胎を生んだともいえよう。
 13年ごろからNGOによるLAWS反対キャンペーンが展開されてきた。17年からは国連で公式の政府専門家会合が開かれている。オーストラリア、中国、ブラジル、イラク、パキスタンなど26カ国がLAWSの禁止を表明した(中国は使用禁止に限って)。だが、フランス、イスラエル、ロシア、イギリス、アメリカはLAWS規制に反対だ。日本政府は昨年9月、LAWS開発の意図はないが規制すれば民生のAI技術発展を阻碍しかねないとの認識を示した。なんとも奥歯に衣着せる煮え切らない対応だ。ただ国会では昨年4月超党派議員による「キラーロボットのない世界に向けた日本の役割を考える勉強会」が開かれ、国際人道法の観点からも議論が進展している。出遅れの感はあるが、ひとまず嘉したい。
 核に次ぐ人類への新たな脅威、LAWS。核の二の舞だけは避けねばならない。 □


みっともない話

2019年01月24日 | エッセー

 金正恩にとって核・ミサイルは死活的に重要な切り札であり、かつ打ち出の小槌でもある。狙いは体制保証と経済発展だ。トランプがほしいのはレガシーである。内政の行き詰まりを外交で糊塗しようするのは古今東西の三流政治家が採る常套手段だ。金正恩はトランプの足元を見て巧みに焦(ジ)らしつつベネフィットを引き出そうとしている。
 プーチンにとって北方領土は死活的に重要な切り札であり、かつ打ち出の小槌でもある。狙いは戦利確定と経済発展だ。安倍晋三がほしいのはレガシーである。内政の行き詰まりを外交で糊塗しようするのは古今東西の三流政治家が採る常套手段だ。プーチンは安倍晋三の足元を見て巧みに焦(ジ)らしつつベネフィットを引き出そうとしている。
 気味悪いほどのアナロジーだ。ただ、片や2度目の柳の下を目論見、片や25回目のペンディングを“固く”約束したその回数には格段の開きはあるが。なんともみっともいい話ではない。
 なぜ顰みに倣うのか。石原慎太郎と亀井静香が奇しくも声を揃えて呼ばわったように「トランプのポチ」ゆえであろう。この場合、就任期間のタイムラグは考慮の外だ。内実を問題にしている。フェイクで塗り固めた反知性主義者の道行(ミチユキ)は古今東西変わりはない。
 火器管制レーダー照射問題についてマスコミは囂しいが、極めて皮相な論議がつづく。どちらに非があるか、軍事オタクを引っ張り出して当方の無謬が繰り返しアナウンスされる。しかし、問題はそこではない。同じ陣営にある隣国となぜこれほどまでに信頼関係がないのか。それこそ問われるべきではないか。自衛隊幹部が「今の韓国軍を『友軍』と呼ぶことはできない」と言ったそうだ。韓国軍も同じ言葉を返すだろう。安全保障を下支えする味方意識すらない。慰安婦、徴用工すべて然りだ。すべて信頼の輪が寸断していることに基因する。なぜか──。カネで解決した気になっているからだ。
 昨年11月の小稿「大法院判決」から賢者の言を引きたい。


 いくらカネを積んでも、いくら取り決めを巡らしても、敗戦の処理は終わってはいないという現実。30年に及ぶ被征服民のルサンチマンは軽く考えない方がいい。内田 樹氏はこう語る。
〈自分を相手の立場に置いてみる想像力があれば、「謝罪は済んだ。われわれには咎められる筋はない」という態度を示されたら「そういうことなら永遠に許さない」という気分になることくらいわかるはずである。今の歴史認識問題は事実関係のレベルにあるのではない。解釈のレベル、さらに言えば感情のレベルにある。経験則は「無限の謝罪要求」は「もう謝ったからいいじゃないか」という自己都合ではなく、「あなたの言い分には十分な理がある」という「自分の立場をいったん離れた承認」によってしか制御できないことを教えている。〉(「内田 樹の大市民講座」から抄録)


 こういう論調には屈辱外交という言葉が必ず返ってくる。屈辱とはなにか。決別したはずの過去への道、戦争への道に引きずり込まれることこそ屈辱ではないのか。外交にはそれ以外に「屈辱」の名は見いだせない。屈辱、みっともない話。つまりは人類的宿痾に屈服させられ恥辱を受けるからだ。 □


悲劇の人

2019年01月18日 | エッセー

 巨星堕つ、故梅原 猛氏は『水底の歌』にこう綴った。
 〈特別な人は、死んでも再びこの世に生き返ってきた。そういう特別な人のみが神に祀られたのであった。特別な人とは、どういう人間か。日本では、神になる人は、いつも恨みをのんで死んでいった人間ばかりである。藤原広嗣、崇道天皇、菅原道真、平将門、崇徳上皇など、すべて、悲劇の人であった。そして私は聖徳太子も大国主命と共にそういう人間であることを明らかにした。今また、柿本人麿もそうだという。〉(抄録)
 朝廷に反乱を起こし鎮圧された藤原広嗣、暗殺事件への関与で皇太子を廃された早良(サワラ)親王(崇道天皇)、有能を嫉まれ讒訴により左遷された菅原道真、東国独立で朝敵とされ討ち取られた平将門、保元の乱に敗れ讃岐に流された崇徳上皇。「すべて、」才あり立志の末に潰えた「悲劇の人であった」。秀吉、家康よりも、信長に衆目が集まるのはその悲劇性ゆえであろう。絶頂、あるいはその直前に斃れる。そこに言い知れぬドラマツルギーを仮託してきたのが日本人である。つまりは日本人の琴線に最も強く触れるのだ。
 元祖スー女であり、元横審委員であった内館牧子氏は大相撲を「摩訶不思議な格闘技」であるという。それは、① 神事 ② スポーツ ③ 伝統文化 ④ 興行 ⑤ 国技 ⑥ 公益財団法人 の「相容れ難い六つの要素」が混在しているからだとする。
 大きく括ると、① ③ ⑤ と ② ④ ⑥ の2群に別れよう。双方はアンビヴァレンツである。アンビヴァレンツでありながら混在するところに大相撲の「摩訶不思議」があり、魅力がある。女人禁制は① と④ のフリクションであろうし、“ルール内なら勝てばいい”と“横綱らしい勝ち方”が整合しないのは② と⑤ の鬩ぎ合いかも知れない。貴の乱は③ と⑥ の敢え無い勘違いだったといえなくもない。ともあれ截然たる区分を要求するのはガキの理屈だ。しっかりと腰を割って双方を受け止める。それが大人の知恵ではないか。してみれば、白鵬は② を優先して① を忘れたのであろうし、稀勢の里は② は差し置いて⑤ に殉じたともいえよう。
 武蔵丸以来18年ぶりの日本人横綱は絶頂に達したと同時に涙を呑んだ。出身地の牛久市長までが泣いた。共感はあっても非難は聞かない。なぜか──。「悲劇の人」は琴線に触れるからだ。こればかりは白鵬には叶わない。記録はやがて破られるが、記憶は共有され永く生きつづける。 □


なぜ フランス? 

2019年01月14日 | エッセー

 今月11日、朝日は次のように報じた。
 〈JOC竹田会長を訴追手続き 仏当局、五輪招致汚職容疑
 2020年東京五輪・パラリンピックの招致を巡って、日本オリンピック委員会の竹田恒和会長が汚職に関わった疑いがあるとして、フランスの検察当局が竹田会長の訴追に向けた手続きに入っていたことが明らかになった。ルモンドによると、手続きに入ったのは昨年12月10日。五輪招致が決まる前に180万ユーロ(約2億3千万円)の贈賄に関わった疑いがもたれているという。
 フランスの検察当局は、竹田会長が当時理事長を務めていた招致委員会が、シンガポールのコンサルタント会社に支払った約2億3千万円について、汚職などの疑いで捜査していた。
 この問題では16年9月、JOCの調査チームが報告書を発表。日本の法律や仏刑法、IOC倫理規定に違反しないと結論づけた。日本の刑法では民間人が金銭のやりとりをしても汚職の対象とならないが、仏刑法では対象となる。〉(抄録)
 この一報に接した時、江戸の敵を長崎で討つとはさすが誇り高きフランスと感じ入った(もちろん長崎の鐘は「ゴーン」と鳴る)。だが同時に、「なぜフランスなのか?」という疑問が湧いた。フランスははたして当事者なのか。IOCはローザンヌに本部を置く。だからスイスの司直が動くのなら解る。まさかクーベルタン男爵がフランス出身だからか。そんな馬鹿な。舞台はシンガポールで、資金はセネガル人に渡っている。そこからフランスのIOC選考委員に送られたという話は聞かない。セネガルはかつてフランスの植民地であったが、独立してすでに半世紀を超える。土足で踏み込むわけにはいくまい。なのに、なぜフランスの検察が動くのか。腑に落ちない。それにIOCといえども一民間機関である。内規で縛るのは判るが、フランスでは公権力がなぜ民間機関に介入するのか。これもまた合点が行かぬ。マスコミの報道は囂しいが、これら2つの問いかけに明確に答えるものを寡聞にして知らない。そこで、ない頭を絞ってみた。
 件(クダン)のセネガル人の父親は有力なIOC委員。フランス国内に活動拠点をもっていて、フランス当局はロシアのドーピングに絡み収賄とマネーロンダリングの罪で起訴している。この父や息子がもつフランスの口座を通して資金がIOC担当委員に送金された疑いがある。つまり、フランス経由で贈賄が行われた疑惑だ。だからフランスは黙ってはいられない。フランス刑法は犯罪の全てではなくたとえ一部でも自国領土内で実行されていれば適用されるという。行為者の国籍を問わない属地主義が徹底された形だ。フランスはゲルマン人の一派であるフランク人とガリア先住民とでできあがった国である。それはイギリスやドイツと違い、同化主義として今に引き継がれているともいえる。ともあれかつて融合が進むにつれ属人主義から属地主義へ変わっていったらしい。融合のためには出自ではなく今いるこの場所こそファーストプライオリティである。それが裏返れば、何人(ナンビト)であろうとも自国での犯罪は許さないという潔癖への指向が生まれたのであろうか。
 もう一つ。フランスの刑法では民間機関同士でも贈収賄罪が成立する。しかも第三者を介した間接的な金の提供、事後の成功報酬までもその対象となる。日本ではイノセントであってもフランスではそうはいかない、紛れもない有罪である。
 フランスでは、刑法は公法ではなく私法である。公法は公権力と私人との関係を律する法である。私法は私人同士の関係を律する法である。前者は憲法・行政法・刑法が該当し、後者は民法・商法・会社法が当たる。ところがフランスではローマ法の伝統に倣い、刑法は私法に分類される。ローマ法では公法は国益を保護するもの、私法は個人を保護するものとされた。犯罪は私的なものであり、訴訟は私的な手続きであった。ローマは勢力拡大に伴い、帝国のコントロール下にありさえすれば強権的な支配よりは市民保護を優先した。私法に重きが置かれた所以である。国が前面に出ない代わりに大きな社会的勢力には公的性格を担わせる。ノブレス・オブリージュに通底するかもしれぬが、民間団体にも清廉を求めた結果がフランス独特の贈収賄罪に繋がったとするのは牽強付会に過ぎようか。
 「フクシマはアンダーコントロール」と首相が大嘘を吐き、そのうえ金で買ったとなればTOKYO2020は一敗地に塗れる。だから雑魚の魚交じりなぞ、陸なことはないのだ。
 以下、内田 樹氏の肺腑を衝く達識に耳を傾けたい。なぜ、東京開催が決まったのか? 
 〈東京の際立ったアドバンテージは「安全」にあった。でも、「東京はテロのリスクが少ないから」というメディアの解説を聞いた覚えがありません。なぜ、そんな当たり前のことを報道しないのか。それを口にしたら、なぜ、東京だけは例外的に安全なのか? という問いが続くからです。それは日本がこれまて海外の紛争に軍事介入したことがないので日本を標的にするテロ組織が存在しないと答えるしかない。まさか、日本の対テロ、防諜機関はあらゆるテロを事前に阻止できるのだと答えるほど図々しい政治家も警察官僚もいないでしょう。軍事介入しなかったのは、日本国憲法第九条がそれを禁止していたからです。招致成功の最大の理由は憲法九条の効果です。でも、招致派の人たちは誰も憲法に対する感謝を口にしませんでした。それどころか、「自分たちのプレゼンがうまかったから」というようなばかばかしい理由を挙げた。首相をはじめ招致派のほとんどが改憲派です。自分たちが否定している当の平和憲法から恩恵を受けながら、それをまるで自分の手柄のような顔をして、招致の「成功」の勢いを借りて平和憲法を廃絶しようとしている。大恩ある日本国憲法に対するこの「忘恩」の態度に僕は我慢がならない。〉(「街場の戦争論」から抄録)
 2億3千万円が招致を決めたのではない。平和憲法67年間が五輪を呼び寄せたのだ。そう心したい。 □  


またも非正規か

2019年01月11日 | エッセー

 トランプ大統領は“Mr.Withdrawal”(ウィズドロール=撤退)と呼ばれる。就任早々のTPP離脱。つづくパリ協定離脱。昨年5月にはイラン核合意から離脱。10月にはINF(中距離核戦力全廃条約)離脱の方針表明。都合4件の“ウィズドロール”である。世のありようを分断は悪へ、結合は善へと誘(イザナ)うは人類史の道理である。アメリカ独り、この矩(ノリ)から外れるはずはなかろう。けれどもさすがはトランプのポチ、わが宰相はIWCから離脱した。なんとも能天気な猿真似といえなくもない。
 逆にあくまでも固執するのがメキシコ国境の壁だ。これだけは頑として譲らない。予算を人質に取られても偏執する。なぜか? 敬愛する作家橋本 治氏が実に鮮やかに解(ホド)いている。
 〈トランプは、「国家を会社のように経営する」って言ってたけど、会社と国家は違います。会社は、不必要な数の社員を雇用しないけど、国家における「社員」に当たる国民は、必要不必要は関係なくて、「国民」としてカウントされるものは全部「国民」だもの。国民の人員整理は出来ない。それをするとなると、「あいつを非正規の社員にしろ、正規社員の数を減らせ」ということになる。「不法移民の締め出し」は、社員の解雇と同じことで、「あれは正社員じゃないから正社員と同様に扱う必要はない」ということは、人種差別を見事に肯定しますね。経済重視で「国家も会社であればいい」という考え方は、容易に人種差別を導き出す。〉(『たとえ世界が終わっても』から)
 炯眼に畏れ入る。翻って本邦はどうか。バブル崩壊後過労死問題も浮上する中、平成不況で企業はコスト削減の切り札として正規から「非正規」社員へとシフトし始める。ところが08年金融危機により世界的不況に見舞われる。今度は掌を返して、調整弁とばかりに派遣切りを始めた。同年暮には日比谷公園に派遣村が生まれた。トランプ流の日本版である。爾来10年、団塊世代の大量リタイア、顕在化する少子化、労働人口の永続的減少によってついに海外から労働力を呼び込まざるを得なくなる。財界支持層からのやんやの催促に応えた形だ。昨年末、エイヤーでスカスカの外国人材拡大法(入管法改定)を抜け駆け成立させた。アンバイ君は右派支持層を慮って移民政策ではないと強弁する。
 ともあれ、一見トランプとは逆方向のようである。しかし、「国家を会社のように経営する」スタンスは同等だ。アンバイ君の言うように移民ではないとすれば、「外国人材」は調整弁でしかなくなる。それは今までの外国人技能実習制度の為体(テイタラク)が如実に示している。人をコスト視することと変わりはない。今回は国を挙げての「非正規社員」補填策である。いつ何時、会社経営さながらに「派遣切り」が始まらないとも限らない。橋本氏の指摘通り、人種差別と踵を接する愚策である。でないというなら、まず受け入れを十全に整えるべきだ。あんなスカスカ法のどこに人へのリスペクトがあるというのか。
 突飛だが、あちらがトランプだとこちらはさしずめ花札か。こいこいの7月は萩に猪だ(聞いたところ)。萩は魔除け、猪は戦捷を表す。まことに縁起もよろしく、高得点の札である。奇しくもその7月は参院選。萩とくれば山口(すげぇーこじつけ)、だれかさんの地盤である。早速武者震いの一つや二つはしたかろうが、おっとどっこい、所変われば品変わる。ギリシャ神話では猪は悪役の代表格。「エリュマントスの猪」である。狩猟・貞潔の女神アルテミスが地上に送った巨大で凶暴な猪。エリュマントス山に棲み、畑を荒らし回った。農民では手に負えず、英雄ヘラクレスが格闘の末、ついに生け捕りにした。その伝でいくなら、賢明な国民こそヘラクレスであろう。精魂込めて作ってきた民主の畑を、これ以上傍若無人な猪に荒らし回られてはかなわない。こればかりは“ウィズドロール”願いたい。 □


漁業を潰すな!

2019年01月05日 | エッセー

 昨年12月8日未明、まるでパールハーバーを準るように改正漁業法が成立した。奇襲擬きの強行採決であった。朝日はこう伝えた。
 〈首相が「70年ぶりの抜本改革」と力を込めた漁業法改正案。企業の技術や資本を生かして、漁業を「成長産業」へ転じるのが狙いだが、現場の漁業者からは「海や漁村の荒廃を招きかねない」と懸念の声も上がる。
 主な柱は、船ごとに漁獲量を割り当てる資源管理の導入と、養殖・定置網の二つの漁業権の「地元優先」枠をなくすことだ。後者には、漁業への企業参入を促す狙いがある。
 沿岸で養殖などを営むのに必要な漁業権の免許はいま、地元漁協などに最優先で与えられている。歴史を踏まえ、「沿岸の海を使い、守るのは地元」という了解があったからだ。
 「古い仕組みが企業に参入をためらわせていた。漁協でも企業でも、きちんと漁場を使う人に権利を与えるための改正だ」と水産庁は説く。〉(抄録)
 「漁業権の『地元優先』枠をなくすこと」、これが問題だ。否、最大の禍根である。戦前は漁業権が売買されたり担保にされていた。金満大地主が漁民の足元に付け込んで漁業権を買い占め、漁民が一転安賃金の雇われ漁師に成り下がる。そんな悲劇が相次いだ。それでは漁業が守れない。戦後4年目、漁業権の貸付、売買を禁止する「漁業法」が成立した所以である。それをまた解禁するという。全人口の0.12%、15.3万人(17年現在)の漁業従事者は大手企業や外資の雇われ漁師に成り下がるリスクに直面する。風前の灯火を荒々しく吹き消すつもりか。極小勢力では票田に値しないと切り捨てるのか。それでいいのか。
 農業と漁業は第一次産業の双璧である。ただし、決定的な違いがある。それは肥飼料コストがゼロであることだ。太古の狩猟採集そのものではないか。巻き網で掬い上げた万余の鰯のうち、漁師が育てた鰯が一匹でもいるか。一匹残らず大海が育んだ鰯である。漁業には飼育コストは一銭も掛かっていない。基本はそうだ。当今養殖は2割を占めるが、環境悪化などにより減少傾向にある。漁獲による魚の飼料は大海原にあり、人為はまったく介在しない。その意味で鉱物資源に近い。放牧は今や人間のアンダーコントロールにある。第一、広さが桁違いだ。肥料は農業の生命線であり、自然栽培は試験官程度の試みでしかない。
 だからこそ、漁業権はダイバシティが織りなす大海原の“飼育力”を享受する海の入会権である。まさに自然の恵みを享ける特権である。万年、千年スパンで育まれてきた海の恵みをせいぜい1年ベースの当期利益を至上とする民間企業に預けていいものか。そんなことより、プラゴミ対策を考える方がよほど生産的だ。
 ヒトの誕生を250万年前とすると、農業を始めたのが1.2万年前。人類史の0.005%に過ぎない。農業ではなく意外にも、ヒトはその歴史の99.995%を狩猟採集で生きてきたわけだ。ヒトの祖型は農業時代ではなく、狩猟採集時代に形づくられたとみていい。ユヴァル・ノア・ハラリは、
「サピエンスは、種のほぼ全歴史を通じて狩猟採集民だった。私たちの現在の社会的特徴や心理的特徴の多くは、農耕以前のこの長い時代に形成された。」(『サピエンス全史』から)
 という。現代の物理的豊かさに相反する疎外感や鬱などの心理的不適合はそこに起因するのではないかと問いかけている。さらにこう語る。
「古代の狩猟採集民は、知識と技能の点で歴史上最も優れていた。平均的なサピエンスの脳の大きさは、狩猟採集時代以降、じつは縮小したという証拠がある。狩猟採集時代に生き延びるためには、誰もが素晴らしい能力を持っている必要があった。農業や工業が始まると、人々は生き延びるためにしだいに他者の技能に頼れるようになり、『愚か者のニッチ』が新たに開けた。」(同上)
 農工業のお陰で厳しい生存競争に自ら直面することなく、能なしでも生き延びられる隙間が増えた。『愚か者のニッチ』とは手厳しい。ましてや脳が縮んだとは、いやはや。
 ともあれ、現代に唯一残るといっていい狩猟採集の営みである漁業は人類の人類たる属性に関わる産業である。市場原理に委ねていいものでは断じてない。国政を会社経営と同一視する『愚か者』に『ニッチ』を与えてはなるまい。 □


希望を

2019年01月01日 | エッセー

  世界で800万部を売り上げた『サピエンス全史』で、ユヴァル・ノア・ハラリはその超絶する学識と炯眼で人類史を俯瞰してみせた(2年前の1月、拙稿で紹介)。今度は返す刀の切っ先が未来に一閃し、人類の行く末を通暁する。続編『ホモ・デウス』(河出書房新社)である。
 この長講をひと言に括れば、「サピエンスは自らをアップグレードし、神たるホモ・デウスを目指すが、かえって墓穴を掘る結果になる」となる。
 サピエンスは有史以来背負ってきた宿業ともいうべき「飢饉・疫病・戦争」の3つの課題を21世紀初頭までにほぼ克服した。克服の意味を「この先何十年も厖大な数の犠牲者を出し続けることだろう。とはいえ、それらはもはや、無力な人類の理解と制御の及ばない不可避の悲劇ではない」(上掲書より、以下同様)とハラリは語る。(戦争については前々稿で触れた)
 だが、渇望、野心は熄むことを知らない。ホモ・サピエンスの生命と幸福と力を神聖視し自らを地球の支配者とする「人間至上主義」と科学が協働し、「不死と至福と神の如き力」の獲得、すなわち「神の人(ホモ・ゼウス)」の高みへと駆け登っていく。
 そこに待ち受けているものはなにか。人知を凌駕したAIは大多数のサピエンスからその存在価値を奪い、「無用者階級」へと貶める。一握りの特権エリート層だけが残り、ホモ・デウスにアップグレードしていく。彼らが無用者階級を支配し、切り捨てて生き残りを図る。ここに人間至上主義は潰え、新たに登場するのがデータ至上主義だ。
 データをあらゆる意味と権威の源泉とするデータ至上主義の大量急速なデータフロー。人間は対処不能となり、その構築者からチップへ、さらにはデータへと落ちぶれ、挙句は急流に呑み込まれ消えていく。もはや人間の経験は神聖ではなくなり、データ至上主義は物事の正邪を決める宗教と化し、至高の価値は「データの流れ」に措かれる。
 振り返れば、農業革命以来サピエンスは「家畜」という新種の動物を生み、なおあらゆる動物を支配下に措いてきた。だからハラリは「他の動物たちにしてみれば、人間はすでにとうの昔に神になっている。私たちはこれについてあまり深く考えたがらない。なぜなら私たちはこれまで、とりたてて公正な神でも慈悲深い神でもなかったからだ」とし、因果は巡り、今度は「データ市場主義は、ホモ・サピエンスが他のすべての動物にしてきたことを、ホモ・サピエンスに対してする恐れがある」というのだ。「墓穴」とはこの謂である。
 以上が『ホモ・デウス』のギリギリ削った梗概である。決して明るくはない。否、絶望的に暗い。しかし、生命はデータ処理だけでは捉えきれないことやいつまでも未解明な「意識」は知能以上に支配的要因であることを挙げ、こう結ぶ。
「本書で概説した筋書きはみな、予言ではなく可能性として捉えるべきだ。こうした可能性のなかに気に入らないものがあるなら、その可能性を実現させないように、ぜひ従来とは違う形で考えて行動してほしい。」
 希望はある。未来は変えられる。そうハラリは呼びかける。では、どうするか。敬愛する橋本 治氏の卓説『負けない力』を徴したい。
 氏は悲観を楽観に変えるものとして「対話」に目を向ける。それは、
 〈自分一人で考えていると、どうしても「自分対全世界」というような考え方になってしまいます。なぜかと言うと、「自分」も一人なら「全世界」も「全世界」という一つの塊だから、「自分対全世界」という一対一対応が自然と頭の中に出来上がってしまうからです。〉
 として、その理由に言及する。
 〈「全世界」というのは、分かりやすいのが取り柄なだけの漠然とした一つの概念です。「自分」と一対一対応にしてしまうのには、無理があります。実は、「全世界」なるものは、「大勢のいろんな人によって出来上がっているもの」です。それをそのまんまにしておくと扱いにくいから、便宜的に、手のひらに収まるような「一つの小さな概念」にしてしまったのです。最大の困難というのはここに由来するはずです。〉
 言葉は平易だが、氏の知性はこのように首根っこを鷲掴みにする。「一つの小さな概念」という陥穽を脱するものはなにか。氏は続ける。
 〈行き詰まっているかもしれない「世界」や、あなたの周りの「外部」は、ギュッと固まった一つの概念ではなくて、一人一人の人間の集まりなのです。あなたも「一人の人間」なら、あなたの周りにいるのもあなたと同じような「一人の人間」で、すごいことに、この「世界」はそういう無数の「一人の人間」によって出来上がっているのです。「世界」は、そういう対話が可能な無数の「一人の人間」の集まりとして出来上がっているのです。もしかしたら、現代日本の最大の困難は、「世界」を、あるいは「自分の外部」をただの「一つの塊」と思ってしまって、「対話が可能な人間達」が作り上げているということを忘れてしまったことによるものかもしれません。あなたが「一人の人間」なら、「あなたの外部」を作っている人達も、それぞれがみんな「一人の人間」なのです。あなたと「一対一対応」をするものは、抽象的な「世界」とか「外部」というものではなくて、「一人の人間」なのです。〉
 目の前の一人と語り合う。そこにしかパラダイムシフトへの突破口はない。そう橋本氏はいいたいのではないか。ハラリが求める「従来とは違う形」とはこれであろう。ホモ・ゼウスの罠に嵌まらぬ秘策は対話にある。希望はきっとそこにある。(年明けに「希望」を探って) □