伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

菜の花 素描

2016年04月27日 | エッセー

 ことしは桜を見そびれた。だが、晩春の菜の花には間に合った。
 可憐とはいえない。無骨でさえある。楚々ともいえず、群棲に息を呑む。艶やかな桜木の後を受け、野を黄(キ)の絨毯が敷きみつ。主役にはならずとも、春の書割には重用される。
              
    菜の花や月は東に日は西に

 蕪村は、夕間暮れの天空に行き交う二筋の火先(ホサキ)を菜の書割に鮮やかに写し取った。桜ではおのれが立ち過ぎてできぬ芸当だ。

   〽菜の花畠に、入日薄れ、
     見わたす山の端、霞ふかし。

 なぜか琴線を掠るこの唄は『朧月夜』と題する。菜の絨毯はまたしても脇役だ。

 菜は、爪と木を会意し木の実をもぎ取る「采」を字源とする。食に出自をもち、今なお膳に供される。だから色香からは遠いのかもしれぬ。
 蝦夷地の干鰯(ホシカ)と瀬戸内の綿畑。菜の花が群れ咲く淡路島の沖を奔る北前廻船。金肥を求めて高田屋嘉兵衛の船が征く。やがて物語はロシアへと舞台を拡げる宏壮な展開をみせる。司馬遼太郎の大作『菜の花の沖』だ。
 氏の命日を「菜の花忌」と呼び、東大阪市の「司馬遼太郎記念館」や周辺が菜の花で飾られる。作品名に来由するとともに、野に咲く黄色い花を愛でた文豪を偲ぶ慣わしだ。一昨年この記念館を訪った晩冬、その名残を目にした。胸奥に納めた忘れ得ぬ一葉となった。
 
 今月二十三日、「天声人語」は熊本地震のある被災者の声を伝えていた。

 被災後、身近な鳥の姿に目がいくようになった。昼間に鳴くウグイス、巣作りに励むカラス、夜に飛ぶフクロウ。「今まで時間に追われて気にさえしてこなかった自然の営みが、震災後はいとおしく感じるようになりました」

 災害だけではあるまい。たとえば病。己(オノ)が命と正対せざるを得ない時、人は「自然の営みが、」「いとおしく感じるように」なるのではないか。

   〽春風そよふく、空を見れば、
     夕月かかりて、にほひ淡し。
 
 凜と張り詰めた琴線は野の花にも誘(イザナ)われ、黄昏の淡いにほひをも逃さない。いのちと自然はそれほどに踵を接している。そう気づかされた暮春の菜の花であった。 □


スポーツおバカ その2

2016年04月25日 | エッセー

 今年のスポーツ界。2月は清原のおクスリ、3月は巨人の野球賭博、4月はバドミントンの闇カジノと事件が相次いだ。例によってスポーツおバカなアナリストたちが囂しく講釈を垂れているが、どれもこれも本質を外した脳天気な与太話ばかりだ。
 核心は、スポーツは人格の陶冶にいささかも資するものではない、という一事に尽きる。その一事を極めて解りやすい形で提示した教訓的事例である。巷間に流布せられた『スポーツ万歳』の鼻を明かした快事ともいえる。
 今年1月、『スポーツおバカ』と題する拙稿を呵した。「健康のためスポーツのし過ぎに注意しましょう」というタモリの名言を引いて、主に身体面から「勝利至上主義」を難じた。
「心身二元論が勝利至上主義に背中を押された時、薬物ドーピングも技術ドーピングも鎌首をもたげる。勝利至上主義は物欲、名誉欲の海に浮かぶ氷山だ。不沈を誇った巨大な神・タイタニックでさえ一溜まりもなかった。海がなければ船は浮かぬ。浮かねば動けぬ。動けば遠近(オチコチ)の氷山が待ち構える。まことに難儀な航海ではある。」
 と慨嘆し、
「スポーツを無思慮、無批判に受け入れる“スポーツおバカ”たち。タモリの箴言『健康のためスポーツのし過ぎに注意しましょう』に、さてなんと応える。」
 と括った。わずか3か月、今度は内面的ピットホールである。
 「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」と古諺にいう。ローマの詩人はそうあれかしと祈るように諭したのであったが、後生が定言命題だと誤解した。この誤解を最も悪辣に用いたのがナチスであった。挙句、「健全なる肉体」に特化した兵士は唯唯としてナチズムなる「健全なる精神」を盲目的に注入されるに至った。本邦の戦後教育にも古諺の残滓は尾を引いている。鉄拳教育や勝利至上主義、親の功名心の隠れ蓑には決まってこの古諺が多用される。
 しかし、事は逆であろう。「健全なる肉体は健全なる精神に宿る」のだ。武道とスポーツの違いはここにある。命の遣り取りから始まった武道とは違い、遊びを原初とするスポーツに精神性が端っからビルトインされているはずがないではないか。スポーツに随伴して語られる『物語』は後付けの小理屈でしかない。
 ジャーナリストで立教大学講師の森田浩之氏は、社会の伝統的価値を反映する物語として「共同体としてのスポーツ」があるという(『メディアスポーツ解体』NHKブックス)。「努力、忍耐、地道、ひたむき、リベンジ、一丸、友情、団結、決意、気迫、恩返し、成長」これらの常套語がアスリートの成功(または失敗)に仮託され、社会の伝統的価値が体現されるという物語だ。テレビメディアがスポーツ番組で放つ悪臭の元はこれか。
 となると、タモリの箴言は書き換えた方がいいかもしれない。さしずめ、「人生のためスポーツのし過ぎに注意しましょう」ではどうだろう。 □


『殿、利息でござる!』

2016年04月22日 | エッセー

 奇妙奇天烈と驚くべきか、摩訶不思議と訝るべきか。「殿、御乱心!」は聞かない話ではないが、「殿、利息でござる!」はついぞ耳にしたことがない。 
 来月14日公開予定の映画のタイトルである(舞台となった宮城では7日に先行公開)。内容を関連サイトから摘要して紹介してみる。
──原作は『武士の家計簿』の原作者である“平成の司馬遼太郎”との呼び声も高い磯田道史著『無私の日本人』所収の一編「穀田屋十三郎」。監督・脚本は『アヒルと鴨のコインロッカー』『ゴールデンスランバー』等を手掛けた中村義洋。主演は阿部サダヲ。共演に瑛太、妻夫木聡、竹内結子、松田龍平ほか、多彩な豪華キャストが集結。また、フィギュアスケート世界王者でソチオリンピック金メダリストの羽生結弦が役者として出演を果たし、スクリーンデビューを飾っている。
 殿様にお金を貸して、利息で庶民を助ける……ウソのようなホントの話。傾いた宿場町の貧しい生活を立て直すため、庶民が「殿様に金をお貸しし、その利息をとる!」という大胆極まりない妙案を思いつき、打ち首覚悟で藩に提案! 3億円もの銭を集めるために、仲間とともに奮闘する姿を描く奇想天外な物語です。これが実話というから驚き!
 キャッチコピーの「ゼニと頭は、使いよう」が表すように、銭に苦しめられる庶民が、みずから銭を使って、知恵と工夫でいかにこの難局を乗り切るか? 中村監督の手腕が光る、痛快な作品になる事は間違いなさそうです。──
 “平成の司馬遼太郎”とは大盤振る舞いの気があるが、古文書のフィールドワークと造詣の深さでは一頭地を抜く。生業が学者だから文学的な薫りはないが、史実に基づいた堅牢な作品になっている。他作と同様『無私の日本人』もそうだ。歴史に埋もれた哲人、偉人を膨大な史料の山から掘り出して鮮やかに学びの光を当てる。その手腕は絶賛に値する。今作に収録されている他の2編もタイトル通り、『無私の日本人』の誇るべき典型である。
 早とちりしがちだが、通途の大名貸とは違う。内容は読んでの(または観ての)お楽しみだが、基金仕立てにしているところがミソだ。本質的な動機はなにか。「無私」と関わるイシューである。映画では描き切れないであろうから、原文を引こう。
◇江戸時代の日本人の公共心は、世代をタテにつらぬく責任感に支えられていた。(そんなことをしては、御先祖様にあわせる顔がない。きちんとしなければ、子や孫に申し訳ない)という感情であり、平八は、ひたすら、そこに訴え、早坂屋を説き伏せた、といってよい。すでに江戸時代も後半にさしかかっている。「家意識」は、この小さな宿場町の人間にもすっかり浸透していた。家意識とは、家の永続、子々孫々の繁栄こそ最高の価値と考える一種の宗教である。この宗教は「仏」と称して「仏」ではなく先祖をまつる先祖教であり、同時に、子孫教でもあった。子孫が絶え、先祖の墓が無縁仏となることを極端に恐れた。江戸時代を通じて、日本人は庶民まで、この国民宗教に入信していった。室町時代までは、家の墓域を持つことはおろか、墓に個人の名を刻むことさえ珍しかったが、江戸時代になると、「誰が墓を守るのか」が問題になり、「墓を守る子孫」の護持が絶対の目的となった。それゆえ、「現世のおのれか、末世の子孫か」と、迫られれば、たいていの人間は後者をとった。◇
 拠金を渋る“早坂屋”を説得する場面である。上(カミ)は将軍から下(シモ)民草までを貫く「家意識」が私利を超えて無私に至るモチベーションとなった。維新と先の敗戦という歴史の切所では、これが国家的規模で表顕したといえる。
 もう一つ。この物語の面白味はお役人との攻防である。いわば官僚組織との戦いだ。今に尾を引く本邦の宿痾でもある。
◇江戸時代は、かつてないほどに、行政の手続きを、ややこしくした時代であった。人類史上、これほどまで、わざとのように、行政書類を煩雑に処理する社会もめずらしい。それには、戦いがなくなった時代に、武士が多すぎたことも関係していた。「相役である」と、一人でできる役職を二人以上で担当させ、多くの武士を役につけた。また、「月番である」と、わざわざ月当番にして仕事を回した。「そのほうが、権を専らにする者が出でぬ」そう信じられた。この武士の世界では、誰かが突出して権力をふるうことを極端に嫌った。そのため、この武士のつくる「政府」では、小さく、うすい権限をもった人間が、そこら中にいて、誰がきめているのか、よくわからない。わざと、わからないような組織にしていた。だから、行政上のきめごとをしようとすれば、複雑なルートをたどって、あちらこちらを書類がまわり、ものすごい数の武士が判子を押すことになった。結局、誰が決めているのかわからなくなり、たらいまわしもふえた。◇(抄録)
 雄藩伊達家の財政を取り仕切る萱場杢。この百戦錬磨の怪物を松田龍平が演ずる。繁雑を極める絵に描いたような官僚組織。対(ムカ)うは阿部サダヲ演じる「庶民」の旗頭、穀田屋十三郎。これは見物(ミモノ)だ。
 それにつけてもアベノミクスである。政府と日銀が野合して際限なく吐き出される通貨と国債の累々たる山また山。金融危機は必定(ヒツジョウ)か。事が起こる頃にはアンバイ君もマックロ君ももうそのイスには座っていないだろう。後世にツケを回してトンズラだ。彼らには国家規模の家意識は毛筋ほどもないと見える。あるのはちまちまとした祖父伝来の家意識のみ。穀田屋十三郎の爪の垢でも煎じて飲むべきだ。
 ともあれ封切りが待ち遠しい。

<跋>
 長い休載、ご心配をおかけしました。3月29日払暁、突如連行、収監されました。以来二十数日間、物相飯を喰らいつつ、四六時中白衣の獄卒たち(失礼、別名「天使」ともいうらしい)に監視され血を抜かれ無理やり訳のわからぬ液体を注入される日々が続きました。まあ、経緯については気が向けば書くかもしれません。辛抱の甲斐あって昨日やっと自由の身となり、娑婆の空気を咳き込むまで吸っております。いきなりエンジン全開とはいきませんが、今稿より1000本めざしリスタートします。今後ともご愛読のほど、よろしくお願いいたします。 □