伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

人格ということ …… 投稿満一年に

2007年03月27日 | エッセー
 人格とは、すなわち想像力であろう。境界(キョウガイ)を超える力だ。肉体の痛みを共有することはできぬが、想像することはできる。哀しみもそうだ。苦汁も、そして時には歓びも。想像する力が国境を跨ぎ、民族を超えた時、人は人ならぬ高みに達する。

 一体いつまで償い続ければいいのか、と嘯く政治家がいる。幾世代も前の不始末をなお担(ニナ)わねばならぬのか、現役世代に何の罪科があるのか、と。
 なんと貧困なる想像力か。このようなまことに貧しい政治家を抱えざるを得ない身の不運を嘆く。一世、二世、さらに三世の苦悩は未だなくなってはいない。癒されてもいない。そこに懊悩する人がいる限り、贖罪は終わらない。終わらせてはならない。

 ひとりの在日二世が「在日」に呻吟し、抗い、やがて「在日」を超えていく。その軌跡が語られる。しずかに、淡々と。著者は作家ではない。学究の人だ。だから、外連味とは無縁だ。モノトーンの語り口といえば、そう遠くはないだろう。

 インサイダーであり、かつアウトサイダーである「在日」。二世にとってのパトリ(郷土)と祖国との絶望的な乖離。さらに、祖国は分断され、民族は引き裂かれている。底なしの悲哀を抱えながら老い、逝った一世との別れ。 ―― 同情は要らない。想像してみるだけでいい。わが身に置き換えてみればいいのだ。それを平然と「第三国人」と公言して憚らない似非「文人政治家」がいる。そんな手合いに代を語り、世を統べる資格があるのか。想像の翼を置き去りにし、もはや飛翔の叶わぬ家禽ではないか。鶏舎を忙(セワ)しなく走り回り一日一個の卵を産んで、屍肉とてたれも喰らわぬニワトリではないか。進化の鬼胎と言ってなにが悪かろう。
 「第三国人」とはGHQが使った言葉だ。GHQに他意はなかっただろう。だが、この訳語のもつ冷徹な差別感を知りつつ口にする者には、明らかな意図がある。悍(オゾ)ましい意趣が。
 象徴的な一文がある。
   ~~わたしのパトリは、生まれ育った熊本である。パトリなき「祖国」は、言ってみれば、肉体なき魂のようなものである。~~
 余計な解釈は文意を貶める。あらん限りの想像を働かせて、己が境界の果てを窮めたい。それにしても、「肉体なき魂」とは痛切な言葉だ。

 72年晩夏、「永野 鉄男」は「姜 尚中」となる。通名を捨てる。はじめて父祖の地を訪れた直後だった。彼はそれを「『自分探し』の果てに今まで抑圧してきたものを一挙に払いのけ」、「もうひとりの自分」になる「通過儀礼」だったと振り返る。
 ところで、近頃やたら「自分探し」をするニッポン人が多い。なんとお気楽な。この手垢に塗(マミ)れた流行り言葉は、体のよい怠惰の言い訳でしかない。「通名」とは、生中な仮名ではない。日本に「在」り続けねばならぬ重い現実から圧搾された澱だ。名乗るも苦渋、捨てるも苦渋の選択なのだ。「自分探し」の後の「通過儀礼」がどれほど重い決断であったことか。能天気な「自分探し」連中には想像の外だ。

 「在日」の意味を問い続ける遍歴の果てに、彼は「東北アジア」に活路を見いだす。彼の境界が飛躍した刹那だ。東北アジアに散在するコリアン系マイノリティー、つまり祖国以外に「在」る同胞は三百万人もいる。『東北アジア共同体』という次の歴史のフェーズを展望する時、その「重要なネットワークのひとつが、『在日』である」と彼は語る。これは決して夢物語ではない。現に、「東アジア共同体構想」に向けて模索ははじまっている。
 さらに、「日本が一体どこに帰属するのか」というプリミティヴな問いかけ。脱亜入欧は百年を超えた。もはや夜郎自大は赦されない。地政学というレベルではなく、真摯な歴史への問いかけが俟たれる。作為された民族観の呪縛を断ち、国家のDNAが解き明かされたなら、日本の立ち位置は自ずと見えてくる。

 やはり、彼は「大きな知性の人」だ。だから、半可通な文化人からの攻撃は已まない。しかし覚悟の前だろう。
 彼は誇る。
   ~~父母や(在日の)おじさんたちが示してくれた、逆境に対するずばぬけて「人間的な」生き様。「朝鮮(半島)は多くのものを獲得し、また多くのものを失」ったが、同時にそこには「逆境に対する人間の勝利の注目すべき物語」(ブルース・カミングス)があったのだ。~~
 講談社刊 姜 尚中著「在日」 読後、雑感。 よこはま物語さんを畏敬しつつ。 □


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ふたたび、「お前の話はつまらん!」

2007年03月23日 | エッセー
 だれかに頼まれたわけではない。自ら荷を負うて今月27日で満1年になる。実感としては半年でしかないが、桜花の候ふたたびである以上、1年経ったには違いない。なにせ体格、体力を超える重みのため、リュックの背負いの帯が食い込み両の肩には痣が残る。足は萎え、腕はつっぱり、眼は霞み、這々の体でたどり着いた1年目だ。週1のつもりが、結局は週1.5本、4.5日に1本の割合になった。どうやら80本には届いた。
 エッセイを気取ってはみたものの、牽強付会、独断、偏見、駄文、無駄話の連続。かつペダンチックで、所詮はディレタントの与太話。赤面の至り、恐懼すべし、である。跛行しつつも一年を跨節し得たのは、fulltimeさんをはじめ秀抜なるコメンテイターのお陰。皆さんに引っ張られ、後押しされてのことだ。満腔の謝意を表したい。
 海外に行く金も余裕もなく、依然として田舎町に住み続け、地獄のような職場で頤使されながら、安息のわが家に帰り着けば自若にして意気軒昂なるトドが待つ。全く以てとどのつまりだ。浅田次郎先生よろしく二重苦、三重苦は日増しに募る。友達は一人去り、二人去り、三人目は死に、あれほど従順だった飼い犬にも、最近はネグられることが多くなり……。そんな悲哀の中を揺れ惑いながらの一年来し方であった。
 拙文を書き連ねてきたのはなぜか。 ―― 「存在証明」の四字ではなかったか、と今にして考え至った。ブログという匿名の世界で存在証明とはいかにもちぐはぐだが、WEBの海に漕ぎ出(イダ)すに実名もHNもさしたる変わりはあるまい。所詮は船標(フナジルシ)に過ぎぬ。

 さて過日、同窓会なるものに参加した。約40年ぶりに高校生活を共にした面々と再会することとなった。人生の苦節、ないしは屈折をしっかと顔(カンバセ)に刻み込んだ連中が次から次へと現れ出(イ)でる。ところが面影を探し、同窓であったことを確かめるのはいと容易(タヤス)いのだが、名前が出てこない。直接聞くわけにもいかず、傍らの幹事にそっと誰何する。女性の場合は複雑で、旧姓が変わっている。この歳になると、本人も嫁ぎ先の姓(カバネ)が長い。こちらには馴染みの姓が、当人には縁遠くなっている。つくづく、夫婦別姓が合理的だと得心した。仕方がないから、ついつい下の名前で「○○ちゃん」などと呼び合うことになる。しかしかの時代は男尊女卑の『美風』未だ健在で、そのように呼んだ記憶はない。まことに珍妙なことではあるが、いい歳をコいたおじさん、おばさんが幼稚園時代にタイムスリップする仕儀となる。いやはや面映ゆい限りだ。
 男同士は口さがない。開口一番は「おお、元気か。生きてたかい」だ。「バカ、死んでるヤツが来るか!」と応じる。たしかに団塊は分母が大きい分、死んだヤツも多い。一頻(シキ)り、物故者の経緯(イキサツ)が続く。中には、さんざムショ暮らしをした挙げ句他界したスゲーのもいた。いかなろくでなしの人でなしであろうとも、同窓には違いない。腐れ縁も縁に変わりはない。偶然の別名は宿命だ。この場で語ってやることが供養だと言いつつ、酒量のせいもあってか胸が詰まった。

 同窓の『窓』とは校舎の象徴らしい。窓は採光と通風を目的とする。とすればあの頃、どんな光が差し込んでいたのだろうか。どんな風が吹き抜けていたのだろうか。だれびとも時代の外では生きられぬ。時代の光と風は入れ替わっても、「あの頃」の光と風が「われら」を形造ったことは確かだ。その光と風を、刹那、感じ取る集いであった。強引に括るとすれば、面々もまた『存在証明』を求めて参じたにちがいない。そう信じたい……。
 今日から春の甲子園。高校球児が躍る。彼らはどんな光を浴び、風を吸うのだろう。入場行進曲は「宙船」だ。それにしても、あのフレーズは重い。

   ~~その船を漕いでゆけ お前の手で漕いでゆけ
     お前が消えて喜ぶ者に お前のオールをまかせるな~~

 これは、団塊に贈る人生行進曲かもしれない。触れると火傷するほどに熱いメッセージを、このライターは託したのではないか……。

 WEBの海で文字通りの航海日誌(LOG)を綴ってきた1年。またしても、あの大滝翁の叱声が聞こえる。 ―― 「お前の話はつまらん!」□

「パブロフの犬」?

2007年03月17日 | エッセー
 かつてロシアの生理学者パブロフ博士は、犬を使った実験中に条件反射の現象を発見した。後に大脳生理学に新分野を開き、1904年ノーベル生理・医学賞を贈られる。「パブロフの犬」、条件反射の別名である。

 気象庁の予想が狂った。桜の開花予想日を間違えた。コンピューターへのデータの入力ミスが原因だった。14日には記者会見を開き、責任者が頭を下げて詫びた。と、その時だ。「パブロフの犬」が『条件反射』のように浮かんだ。
 ここのところ、謝罪会見での低頭を何度見たことだろう。西部球団、東京ガス、早稲田大学、全日空、ちょっと前には関テレ、アパグループの女社長などなど、ほとんど毎日のように続く。
 「心よりお詫び申し上げます」と言って立ち上がり、しばらくの間、深々と頭を下げ続ける。謝罪会見での低頭平身。嘘かまことか、専門の振り付け師までいるらしい。
 しかし、おかしな話だ。桜の開花が4・5日ずれて、だれに実害があるというのだろう。せいぜい、イベント屋か菓子屋、弁当屋さんの仕入れが多少の影響を受ける程度だろう。大損を被る者などいない。ましてや、死傷者など出るはずがない。頭を下げてまで詫びを入れる事柄であろうか。
 あれはおそらく条件反射だ。机の上にたくさんのマイクが並び、記者が大挙して押しかけ、カメラが放列をなす。そのようなシチュエーションで失態を報告する時、条件反射のように身体が動き例の起立とあの辞儀をしてしまうのではないか。
 謝られて気分を害する者はいない。何はともあれ、とりあえず頭を下げておけば無難だ。金の掛かることではない。報道を観る側も、一時(イットキ)は溜飲を下げられる。そんな思惑が働いているのかもしれない。今や、あの光景はすっかり定着した。
 1世紀半も前なら、謝罪会見などない。もとより低頭平身もない。代わりは切腹だ。となれば、屍(シカバネ)累々の惨状を呈することになる。今は、お気楽なものだ。責任の取り方が実にお手軽で人道的、かつ平和的でさえある。

 長い引用で恐縮だが、お付き合い願いたい。
   ~~以前、ある評論家から言われたことがあるのですが、「姜さん、日本の報道は、気象学と植物学と動物学で成り立っているよ」と。多分他の国ではないことでしょう。「桜が咲きました」というニュースが番組のトップになるようなことは。ほかにも、春一番が吹いたとか、タマちゃんがどうしたとか。正月の帰省ラッシュや夏休みの成田空港といった歳時記的なものも多いですね。ハワイから真っ黒に日焼けして帰ってきた人たちに、レポーターが「ご苦労様です」って言うけれど、「ご苦労様」なのはレポーターですよね。これは何を表しているかというと、やっぱり日常が安定しているということです。昨日と同じように今日があるし、今日と同じように明日が続くだろうと信じられているわけです。それをテレビで確認するということです。つまりテレビというメディアは『日常性を再生産するボックス』なのです。しかしテレビが本質的にそういう保守的なメディアであるとするならば、テレビを見て日常性の構造を疑ってみる、という発想はなかなか生まれてこないだろうし、またテレビによって、現状を変えていこうというインセンティブを作り出せるかというと、それも難しいと思います。だからこそ、やっぱり違う媒体、たとえば活字メディアのようなものが必要になってくるのだと思います。幸いにしてメディアは自分で選ぶことができます。複数のメディアとアクセスできる状況を自分自身で作っておくこと。それが今、メディアの受け手には必要とされているのではないでしょうか。~~ (姜 尚中著「ニッポン・サバイバル」集英社新書)

 「テレビを見て日常性の構造を疑ってみる、という発想はなかなか生まれてこない」 ―― 非常に鋭い。テレビメディアは本来、保守的なのだ。家庭での視聴が前提である以上、特定の思想やポルノ、暴力は排除される。それらが送られて来ても、ニュースやドラマという枠内である。臨場感は作れるが、臨場はできない。勿論法の縛りもあり、テレビメディア自体が災害時以外に、非日常性を発信することはない。あくまでも『日常性を再生産するボックス』でしかない。天気はその「日常性」そのものだ。そう考えると、気象庁の予報ミスは「日常性」を揺るがす大失態となる。やはり『頭を下げてまで詫びを入れる事柄』なのか……。しかし、事はサクラである。杉花粉ではない。繰り返すが、なんの実害もない。目くじらを立てるほどのことではあるまい。あるいは、「やっぱり日常が安定している」日本の、平和な情景のひとつとして括るか……。
 桜花の候はすぐそこだ。またしても日本列島、花見でごった返す。サクラが咲くと宴会に繰り出す。これも、わがニッポン国民固有の「パブロフの犬」、つまりは条件反射であろうか。□

オペラ歌手のハミング

2007年03月13日 | エッセー
 名前は忘れたが、かつて三島由紀夫の「潮騒」を『オペラ歌手の鼻歌』と評した作家がいた。そんじょそこらの鼻歌ではない。堂宇を揺るがす大音声の持ち主が、ハミングまじりにわが家のキッチンに立つ。そんな図が浮かぶ。姜 尚中著「ニッポン・サバイバル」集英社新書 先月初版。ネットで連載されたものを一冊にまとめた。ことし、最初の一押しだ。アンバイ君の中学では社会化の副読本に使ったらしいが、中学生にはキツイ。ただし、アンバイ君には熟読、玩味願いたい。やはり高校生か、もしくは大学生にこそ相応しい。
 難しいことをやさしく言えるのが、真の実力だ。難しいことをむつかしく語るのは並の技。本ブログのように、易しいことをむつかしく捏(コ)ねくり回すのは下の下の仕業だ。
 読者の意見にコメントする形で話は進む。論点は、次の10項目 ―― 金  自由  仕事  友人  メディア  知性  反日  紛争  平和  幸せ ―― 。
 今日的課題と根源的問いかけが、著者の経験を織り交ぜながら綴られる。語られる内容は、極めて鋭い正論。奇を衒わぬ常識論。深い学術的識見が滲む卓論。全編、抑制の効いた穏やかな語り口だ。
 たとえば、
   ~~ワイドショーというのは、ある『翻訳機能』を果たしているのだと思います。私たちにとって、ほとんど理解不可能なショッキングな犯罪が起きたとします。しかしそれに物語を与え、私たちが潜在的に受け入れやすいストーリーに仕立て上げる。視聴者が見たときに、「え~っ、やっぱりそうなの!?」と思うように翻訳をする。「このやっぱりね」という感覚。これがワイドショーの効果なのです。だからワイドショーには、作り手と受け手の間に、ある種、共犯関係があるのだと思う。しかし物事はそんなに短絡的ではありません。~~
 テレビメディアの虚構性については本ブログでも何度か指摘した。わが意を得たり、だ。だから、
   ~~戦争や平和、国家の仕組みやルールに関わるようなシリアスなテーマが話題になる時代には、白黒をハッキリさせるような威勢のいい意見が結構、受けがいいようです。~~
 したがって、
   ~~気をつけたいのは、安易な回答には飛びつかないということです。情報に対してはつねに『疑わしい』という健全な懐疑の念を持っておくことが大切だと思います。~~
 とくれば、快哉だ。生意気で、かつ不遜極まりな言い方だが、実に波長が合う。それもそのはず、ほとんど団塊の同輩といっていい存在だ。同じ時代の空気を吸い、同じ世の変遷を経巡ってきている。

 北朝鮮問題についての考察も至極納得のいくものだ。
   ~~この国際社会の信任を裏切るような暴挙(北朝鮮のミサイル・核開発)は、けっして錯乱状態から衝動的になされたものではなくて、かなりしたたかな戦略的読みをもって練られた、局面打開のための北朝鮮流の瀬戸際外交であることは間違いありません。~~ ※( )内は本ブログ筆者の註
 そして、
   ~~国交が回復し、人が交流し、文化がまじわることによって、北朝鮮がもっとも恐れる目に見えない『自由のウィルス』がばらまかれ、独裁国家は崩壊していく。大切なことは極端から極端にブレないことです。今回、「やられたらやり返せ」と思った人もいたのではないでしょうか。同じように、もっと大きな危機に直面すれば、パニックを起こし、自分で自分のことを制御できなくなる人も増えるでしよう。そしてそれはさまざまなメディアを通して増幅され、やがて匿名の巨大な恐怖の固まりとなって、ときには非合理的な行動へと走らせてしまう可能性がある。それが戦争の始まりです。今、私たちにできることは、あくまでも冷静に事態を見守ることです。~~
 さらに、
   ~~日本が核を持ったらどうなるか。先制攻撃論を日本が実行に移すのではないかというリアリティが周辺諸国に広がり、当然、東アジアに連鎖反応的に核のパワーゲームが出てくる可能性があります。さらに、中国や韓国、場合によっては北朝鮮も入れて、これらの国々は100年前とはまったく違っているということです。みんな膨大な軍事力を持っている。だから、もしこれらの国々と戦争になったら、たとえ日米安保条約があっても、日本はたいへん不利な状況です。~~
 このリアリズムが大事中の大事だ。日清・日露から太平洋戦争への流れを俯瞰すれば明らかだ。夜郎自大になった目には彼我の戦車を鎧(ヨロ)う鉄板の厚みさえ見えなくなる。ノモンハンでは漫画のような悲劇が繰り広げられた。戦争・戦備こそ具体以外の何ものでもない。具体に即さないものを空論というのだ。だから、次の指摘は非常に重い。
   ~~戦争や武力によって問題が解決する、と非常に真面目に想定することのほうが馬鹿げていると思います。それがいかに滑稽なことであるかはイラク戦争をみて、みなさんもおわかりでしょう。一時的に国民の溜飲を下げることができても、結果的に武力の連鎖を生むということを多くの日本国民がしっかりと受け止めないといけません。~~
 このような筆者の姿勢はすべてのテーマに通底する。
   ~~最近、私が気になっているのは、実際に世の中で起きている問題を全部心理的な問題に還元してしまう ―― そんな考え方が蔓延していることです。私はそれを『ココロ主義』と呼んでいます。「どうしたら戦争がなくなるんだろう?」という問題を考えたとき、「みんながやさしくなればいいんだ」と言う人がいますよね。心のスイッチを切り替えれば、世界が違って見えるはずだ、というわけです。そういったもっともらしい、そしてわかりやすい言葉には、たしかにある種の力があります。何か一時的に非常に気持ちのいい状態になる。幻想を垣間見ることができる。でも、実際にそれで世界は変わるのかというと、じつは外側の世界は一向に変わらない。現実には、経済的な格差、宗教的な対立など、さまざまな問題が解決されなければ、戦争はなくならないのです。~~

 憲法についての指摘は鋭く、かつ重い。が、前稿に引用したので割愛する。その他、仕事、友人、幸せ の章は味わい深いフレーズで溢れている。寅さんのセリフも引用される。養老孟司氏の論調と響き会う個所もある。特に次の一節はグサリと刺さる。
   ~~私にいわせると、他者に関心を持たないで、自分の幸せを社会や世界と切り離して考えること自体が、じつはものすごく非現実的です。世界と切り離された幸せなんてディズニーランドのようなものです。一歩外に出れば否応なしに現実が待っています。~~
 この人は、大きな知性の人だ。勝手ながら、同輩に持てたことは僥倖といえる。「いい本、めっけ!」である。また、こうしてお勧めできることも幸運のひとつにちがいない。□

2年B組学級レポート その3

2007年03月08日 | エッセー
 いきなりですが、先週、大きな騒動がありました。
 保健係のサワヤナギ君が失言したのです。ことの発端はインフルエンザの予防接種でした。予約を取るのが保健係の役目です。外の組より接種をする人を増やそうと、彼はがんばりました。ところが、女子生徒のリーダー的存在であるシマフクさんが副作用が恐いと予約を断ったのです。するしないの押し問答の末、ついにサワヤナギ君はキレました。「女はツエーからインフルエンザだって寄りつきゃしねー」と言ってしまったのです。今度は、シマフクさんが逆ギレ。女性をバカにしている、差別だ、セクハラだ、と騒ぎ始めたのです。やっぱり強いのですよ、女性は。クラスの半分は女子生徒です。シマフクさんに引っぱられて女子生徒みんなが彼に詰め寄りました。万事休す。ついにサワヤナギ君は泣く泣く彼女たちに謝りました。それでも怒りは収まらず、矛先は任命したアンバイ君に向けられました。しかし、アンバイ君は彼をかばいました。「保健係としての情熱に期待して、これからも頑張ってもらおう」と。男子生徒の中にも、サワヤナギ君は保健係にふさわしくないと主張する人もいました。だけど、アンバイ君のガードは固く、保健係はそのままになりました。一時は授業もできないくらいの大騒ぎでしたが、女子生徒たちも諦めたのか、そのうち静かになりました。お母さんにこのことを話すと、「口は禍(ワザワイ)の門」と言っていました。お父さんは「綸言汗の如し」という難しい格言を教えてくれました。一つ偉くなった気がしました。ボクも気をつけよーっと。
 「制服問題」のことは前回(その2)報告しました。私服を制服に変えようという提案です。それでイジメや校内暴力がなくなればいいのですが、そんなに簡単にはいかないでしょう。でも、アンバイ君は妙に本気です。生徒規則を大急ぎで書き換えて、毎日のように先生たちと直談判をしています。顔に似合わず硬派の彼はやる気満々です。最初は面倒臭がっていた先生たちも、今はすっかりその気になっています。だけどデザインや経費の問題、ついでに長髪を禁止して丸坊主にしたら、なんていう意見も出て前途多難です。しかしアンバイ君は強行突破しそうです。ボクには迷惑な話ですけど、気が弱いから黙ってます。
 おじいさんが校長だったこともあって、アンバイ君は人一倍、この学校に愛情が深いようです。まだはっきりとは言ってませんが、どうも学校の運営を大きく変えたいようなのですね。つまり、学級崩壊や校内暴力をくい止め、学校を侵入者から守るために正式にガードマンを配置しよう、と計画しているらしい。おまけに、系列のほかの学校で構内暴力や学級崩壊があったら、こちらからガードマンを派遣しよう、と。大きなお世話なんですけど、彼には信念があるようです。たしかに学校も、最近アブなくなってきてますけど、それはヘンですよね。警棒を持ったガードマンが学校中にうじゃうじゃいるなんて。おかしいですよね。それに、これは大きな問題なので、理事会の決めることです。それで、理事会の決定を求めて全校生徒とその保護者に署名活動をしよう、と言い出しました。高校受験で忙しいのに、そんなことやってられませんよね。なーんか暴走気味です。
 正月休みに、駅前のゲーセンで、この学校の男子生徒が大勢で女の子をナンパするという事件がありました。中学生にふさわしくない行動だと、謹慎処分になりました。でも、またしても顔に似合わずというか、アンバイ君は男気を発揮しています。「ナンパはしたけども、強制はしていない」と言い始めたのです。なんだかよ分からない理屈です。この学校のメンツを落とすようなことは決して認めたくないのでしょうね。素直に認めた方がよっぽど男らしいのに。
 <その2>でレポートした『給食廃止』の後始末のこと。またひとつ問題が起こりました。オオイズミ君に逆らってB組を出て行ったエットー君をあっさり受け入れたのです。なにせ幼友達で大の仲良し。「セイちゃん」「シンちゃん」と呼び合う間柄です。いくら親友でも、とみんな不満だったのですが、学級委員の権限で戻してしまったのです。このあたり彼は聞く耳を持たない、といった頑固さを見せつけました。

 話題を変えましょう。アンバイ君の悪口ばかり並べることになってしまいますから ―― 。
 先日、家庭科の料理実習でサンドイッチを作りました。受験と関係のない授業は、なんだかとても楽しいですね。
 パンにバターをぬって、マスタードも薄くのばして具をはさみます。レタスやきゅうり、ハムに卵焼き。それにスライスしたトマト。ボクは嫌いだから入れません。あと、それぞれが工夫して具を入れていきます。ビーフカツをはさむ人、チキンの人、キウイ、ツナ、ポテトサラダ……それぞれです。最後にしっかり押さえて形を整え、食べやすいサイズに包丁を入れます。と、その時です。アンバイ君の作っていたサンドイッチにみんな、笑い転げました。あんまりたくさん具を挟んだものだから、押さえた拍子に中身がほとんど外に飛び出してしまったのです。押さえるのも力を入れ過ぎたようです。両手でギュッと、パンの真ん中を。当然ですよね。おまけに、マスタードを入れ過ぎ。出てきた具が芥子まみれで、真っ黄色。辛いのが目と鼻を刺して、アンバイ君は涙を流しているではありませんか。ひとしきり、みんな笑いました。家庭科のコイズミ ジュンコ先生は「あんまり欲張らず、具は一つか二つに絞ったほうがいいわね」とおっしゃっていました。あれ、またアンバイ君の悪口になってしまった。ボクがチクッただなんて言わないでくださいよ。

 C組との仲直りでカッコよくデビューしたのですが、そのあとは人気が落ちる一方。アンケート好きなアサヒ君が調べたところによると、アンバイ君にダメ出しをした生徒は半分を超えたそうです。かたっぽには2年B組はこのままではいけない、うんと変えるべきだという生徒たち。かたっぽには今までのまま、というよりオオイズミ君よりも前の方がよかった、あのころに戻そうよという生徒たち。両方から、アンバイ君は挟まれています。なんだか、サンドイッチに似てますね。
 その点、オオイズミ君はよかったですね。「変える、変える」の一点張り。「変化なくして前進なし」で、わき目も振らずでした。オオイズミ君の場合は、サンドイッチではなくて、ホットドッグ。中身はウインナーソーセージが一本。まあ、レタスの切れっぱしがちょこっと付いてる程度。だから、丸かじりでした。微妙な味わいはなくても、豪快にパクリでした。
 それに引き換え、サンドイッチは辛いですね。あの時、アンバイ君の作ったサンドイッチからあふれ出した具はなんでしょう。しかも芥子まみれ。彼の『地』がついに表れたのでしょうか。頑固で硬派が、実は彼の地なんです。辛いのは大好きです。ラーメンだって、中学生のくせにコショーをたっぷりかけて食べるんです。優しいお顔に辛いもの好き、これがいいんだという人もいるんですよ。どうも彼は人まねはやめて、地で突っ走るつもりのようです。はたして人気は戻せるでしょうか。それとも、人の目なんか気にしないで、やりたいことを断固やるぞ、とでも……。

 来月からは3年生。高校受験が目の前です。気ばかりあせりますが、ステップ バイ ステップで取り組んでいきます。
 えーと、それから、こないだ授業で憲法の勉強をしました。その時、社会科の先生が紹介してくれた副読本が難しいけど、おもしろかったので紹介します。東大の偉い先生が書いた本です。名前はカン サン ジュン先生。その中に、こんなところがありました。
  ~~今の日本は戦闘行為以外はもう何でもできるのです。憲法を拡大解釈すれば何でも許される。しかし戦闘行為だけはできません。9条という皮一枚の縛りがあるおかげで、自国の兵士も死なず、また他国の人を殺さずにすんでいる。この教訓はものすごく大きいと思います。最大限に拡大解釈をしたとしても、戦闘行為には走らないですむ ―― その点においては、この平和憲法は使い勝手があるのです。9条のおかげで、人を死なせないし、殺さないですみます。これがどれだけ幸せなことか。その現実を重く受け止め、もっと真摯に考えてみるべきじゃないでしょうか。~~
 本の名前は「ニッポン・サバイバル」、集英社新書です。あと10年もすれば、ボクたちが社会の主力です。難しいことは分かりませんが、日本がサバイバルできて、平和なままでバトンタッチしてほしいですよね。
 終わりに、受験勉強が忙しくなるので「学級レポート」はしばらくお休みします。読んでくれた大人の皆さん、どうもありがとう。以上、団塊キッドでした。□

PLEASE MISTER POSTMAN

2007年03月04日 | エッセー
 もうガマンならない! ええーかげんにせい! 
 電話の呼び出し音 ―― 。
「はい、○○郵便局です」
「郵便のことで話があるんですが、責任者と替わってください」(やや、間があって)
「ただいま、局長は出張中ですので、副局長と替わります」(待機のベル……)
「副局長の○○でございます。どのようなことでしょうか?」
「○○町の○○です。まただよ、君。また」
「誤配達でしょうか」(なかなか勘のいい人だ。それともいつものことなのか)
「今年で2回目。今日は一度に5通だよ。ひどいじゃないか」
「大変申し訳ありません」
「4年前にも抗議したんだけども、いっかな改善されてない! あれから5回も6回もあったんだよ。どーなってんだよ、まったく」(字面にするとゾンザイだが、穏やかに話しかける。かつ、紳士的に。ちなみに、4年前はこうではなかった。「お前んとこは文盲を使ってんのか!」とほんの少しカゲキな言い方で優しくゲキレーしてあげたものだった。最近は随分と人間ができてきた)
「大変申し訳ありません」(同じ科白だ)
「たんびにオレが持って行ってるんだよ」」
「大変申し訳ありません」(また同じ科白だ)
「いいかい、オレんとこに間違って入るってことは、先方にオレんとこの郵便が誤配される可能性もあるってことだよ」
「その通りです。本当に申し訳ありません。今からお伺いして、お詫びをさせていただきます」
「今日は用ありなんだ。あしたにしてよ。ただ、君たちの『すいません。申し訳ありません』を何回聞いても埒は明かない。キチンとした対応策を考えていらっしゃい」
「は、ええ」(明らかに戸惑いが感じられる)
 これで電話は終わった。説明を加えると、同じ町内に同じ姓が2軒ある。(言うまでもないが、『団塊』ではない)下の名前もゼンゼン違う。偏も旁もちがう。距離にして300メートル。番地はトーゼン違う。道路を挟んだ別の街区だ。

 明くる日 ―― 。
「おじゃまいたします」(名刺を差し出し)
「この度は誠に申し訳ございません」
「へい、へい」
「公社になりましてから、嘱託を使ったりしておりまして……。皆さまに御迷惑をおかけしております」
「そーんなことは知ったことではないでしょう。言い訳にもなんにもならない」
「まー、なんとか、ここはひとつ穏便にですね……」
(ここから、長広舌が始まる。冷静に、かつ優しく)
「穏便とはなんですか? 君はなんにも分かってない。オレの名前はとっくに要注意人物としてブラックリストに載せられているんだろうが、そんなことはどうでもいい。穏便とは、迷惑の裏返しでしょ。迷惑としか感じ取れない、その感覚がおかしいんだよ。これからキビシイ市場競争にさらされる君たちにとっては、こーいうクレームは、むしろありがたいことではないか。
 死人が出たわけではないのに、期限を過ぎた牛乳を使ったばっかりに不二家は潰れかけてんだよ。それが企業のキビシさでしょーが。あなた方の品質とはなんですか? 郵便をキチンと間違いなく配ることでしょう。そんな言い訳をするんじゃー、民営化は覚束ないねー。いいかい、君たちはプロだよ。ボランティアで配ってるんではないんだよ。もっとプロ意識を持ってもらいたいねー。。
 それに個人情報にウルサイ御時世。郵便といえば、プライバシーの塊ですよ。つい他所(ヨソ)の郵便とも知らず開けてしまったらどうすんの。開けないまでも差出人を知られるだけでもマズい場合だってあるでしょう。局員への教育はどーなってんだろうねー。機械が仕分けをするとはいえ、最後は人間が配るんだからね。ヒューマンエラーをどう防ぐのか。考えてるの?」
「ええ、あの。重々、注意を呼びかけましてですね、同姓のお宅には赤いシールを貼るようにしておりまして……」
「あのね。JRの『指差し呼称』ってゆうの知ってる? キチンと確かめて、意識づけるために始めたんだけど、あれだって長くやっているとマンネリになる。無意識に指で差して口が動くようになる。そうなると、意味がない。今、見直しにかかってるそうだよ。だから、もっと抜本的というか。だから、電話で話したでしょ。キチンとした解決策を考えてくれって」
「はい。ええ、はい」
「たとえばだよ、配る人間を変えたらどうなの。同じ人間が配るから間違えるんでしょう。だったらあちらの〇〇とこちらの〇〇を配る人間を変えるんだよ。配達範囲の線引きを変えるんだよ。これなら、ほとんど誤配は防げる」
「ははー、それはいいですね」
「感心してもらっても困るんだけどなー。君たちが考えることだろうに」
「ぜひ、その方向で検討させていただきます」
「それからむこうの〇〇さんとこに、ウチの郵便が行ってないか、問い合わせしたの?」
「あっ、まだ聞いておりません。申し訳ございません」
「まったく呆れるねー。電話してから24時間経ってるんだよ。時間は十分あったはずだ。なのに忘れる。そういうセンスが問題なんだよ。顧客のニーズにどう対応するか。もう本当に『親方、日の丸』を卒業しないと、ダメだよー」

 そんなところで話は終わった。極めて、友好的に ―― 。ましてや、暴言など一言もなかった。誓って。「郵便屋は手紙を配る機械」などと、口が裂けても言うわけがない。
 わが家を辞した後、その足で先方に行き、問い合わせをしたそうだ。むこうへは誤配されていない旨、連絡があった。(ホントかな。疑わしきは郵便屋さんの利益に、か)さらに、2日後、配達区域の変更をしたと電話があった。やればできるのだ。
 さて、話がここまでくると、忘れてはならないものがある。
 「PLEASE MISTER POSTMAN」である。勿論、「アーリー・ビートルズ」の名曲だ。原曲は別のグループの作だが、ビートルズのカバーの方が有名になった。カットインのドラム、バックコーラスの絡み、ジョンの重量感溢れるメインボーカル、珠玉の逸品だ。40年経っても全然古くなってはいない。
 カノジョからの手紙を、今や遅しと待つ心境。〇〇町の名うてのクレーマーこと団塊の欠片にだって、蘇ってくる情景の一つや二つ、いや三つや四つはある。ただ、相当にセピア色だが……。
 欠片風につまみ食いをしてみる。

 郵便受けに、入れる前に ――
Wait oh yes wait Mr.Postman

  ―― よくよくお確かめを! 特にクレーマー〇〇への手紙は要注意!
Mr.Postman look and see oh yeah
If there’s a letter in your bag for me

There must be some words today
From my girl-friend so far away
  ―― まあ、今それはないがねー。おそらく請求書の類い……?

 誤配は困るよ。キチンと届けてくれないと。ムカツクのはヤだよ。 ――
You don’t stop to make me feel better
By leaving me a card or a letter

 何度も確かめて、間違いないように ――
Check it and see one more time for me

 それに、速いにこしたことはないよ ――
Deliver the letter
The sooner the better

 ねえ、郵便屋さん。ちょっとー!……ちょっと、ちょっとー!! ――
You gotta wait a minute
Oh yeah you gotta wait a minute wait a minute
Oh yeah…………

 筆者の歌声に載せてお届けできないのが、なんとも残念である。□