先日、日本でエボラ騒動があった。羽田から新宿の病院へ直行、隔離された男性は約半日後検査の結果、「陰性」と発表された。
稿者は、どうもこの「陰性」という言葉が苦手だ。
小学校の高学年のころか、ツベルクリン反応で「陰性」の結果を知らされると、悪い告知のようでどきっとしたものだ。「陰」と『問題なし』がどうも結びつかない。
字引では日かげを原義として、陰陰(滅滅)、陰雨、陰雲、陰影、陰翳、陰気、陰険、陰惨、陰湿、陰蔽、陰鬱、陰謀と、暗い語感を纏った印象の悪い言葉が芋づるのように出てくる。下陰 夏陰、花陰、岩陰は写実的であっさりとしているが、陰行、陰徳(陽報)とごく稀に思慮深いものもある。だが陰部、陰嚢、陰毛とくれば相当下(シモ)になるが、なんとか言語化しないことには始まらない以上損な役回りともいえる。
「陰性」「陽性」は病理学上のタームではあろうが、日常の語感には馴染みがたいのではないか。個人的な欲を言えば、「○」か「×」、「OK」か「NG」にでもしてもらえぬものだろうか。叶わぬこととはいえ、犬に倣って遠吠えのひとつもしたくなる。
少し話を跳ばすと、言葉の両義性に至る。
◇私たちが話をしている相手からいちばん聞きたいことばは「もうわかった(から黙っていいよ)」じゃなくて、「まだわからない(からもっと言って)」なんですね。恋人に向かって「キミのことをもっと理解したい」というのは愛の始まりを告げることばですけれど、「あなたって人が、よーくわかったわ」というのはたいてい別れのときに言うことばです。◇
と、内田 樹氏が『先生はえらい』(ちくまプリマー新書)でおもしろい勘考を述べている。つづけて、氏が名付けた「あべこべことば」を語る。
◇例えば、「いい加減」。「湯加減どう?」「お、いい加減だよ」というときは「程度が適当である」ということですね。「いい加減な野郎だな、お前は」というときは「程度が不適当である」ということですね。挙げればきりがありません。でも、これは日本語だけじゃないんです。古今東西世界中のどんな言語にも、まったく正反対の意味をもつ語というのがあります。それも、日常的によく使う語に。◇
では、なぜか。
氏は「コミュニケーションにおいて意思の疎通が簡単に成就しないように、いろいろ仕掛けがしてある」という。その典型が「あべこべことば」だ、と。これは意外な展開だ。
◇コミュニケーションを駆動しているのは、たしかに「理解し合いたい」という欲望なのです。でも、対話は理解に達すると終わってしまう。だから、「理解し合いたいけれど、理解に達するのはできるだけ先延ばしにしたい」という矛盾した欲望を私たちは抱いているのです。相手に「君が言いたいことはわかった」と、言われると、人間は不愉快になるんです。メッセージの正確な授受ということがコミュニケーションの真の目的だとしたら、メッセージが正確に受け渡しされたときに不愉快になるというのはおかしいですね。ということは、もしかするとコミュニケーションの目的はメッセージの正確な授受じゃないのではないか……という疑問が湧いてきます。コミュニケーションの目的は、メッセージの正確な授受ではなくて、メッセージをやりとりすることそれ自体ではないのでしょうか? おそらく、コミュニケーションはつねに誤解の余地があるように構造化されているのです。うっかり聞き間違えると、けっこう深刻な影響が出るように、ことばはわざとわかりにくく出来上がっているのです。私たちがコミュニケーションを先へ進めることができるのは、そこに「誤解の幅」と「訂正への道」が残されているからです。◇
「誤解の幅」と「訂正への道」がコミュニケーションを推進する。誤解なく訂正の要がなければ、その刹那にコミュニケートは完結してしまう。「理解し合いたいけれど、理解に達するのはできるだけ先延ばしにしたい」というアンビバレントなあわいを行き来するのがコミュニケーション──これは目から鱗の洞見ではないか。なるほど、腑に落ちる。
もう一つ跳べば、メタ・メッセージに至る。本年3月に、拙稿「翁の訃報に接して」で触れた。とまれ人類の属性に係わる事柄ゆえ興趣は尽きない。
因みに、英語でも「陰性」を“ネガティブ”という。あちらでも事情は同じか。“ポジティブ”・「陽性」が人権を蹂躙した隔離を生んだと、随分ネガティブな議論を起こしている。難儀な話だ。 □
今月22日の朝日新聞から抄録する。
〓【核不使用、日本再び賛同 保有国不参加、溝深く 国連共同声明】
核兵器の非人道性と不使用を訴える共同声明が国連で発表された。賛同国は155カ国と過去最多になり、非人道性の視点から核問題を捉えることへの関心の広がりを示した。日本も昨年に続き賛同した。一方、核保有国や「核の傘」の下にある国々の大半は賛同せず、核軍縮を巡る国際社会の溝が依然として深いことを浮き彫りにした。
核保有国や、「核の傘」に入って核抑止を安全保障政策に採る国に受け入れられないのが、「いかなる状況においても核兵器が二度と使用されないことが、人類の生存そのものにとっての利益」との一文と指摘されている。声明に加われば、有事の際に核で反撃する可能性を残すことで相手の攻撃意欲を奪う「核抑止」を放棄することになるという。
この日、オーストラリアが発表した別の声明も注目された。核兵器の非人道性への理解を示し、ニュージーランド提案の声明を「歓迎」。ただし、同時に「核兵器の廃絶は、核保有国による実質的で建設的な関与を通じてのみ達成可能」とも主張。核兵器の非人道性を訴えるところまではNZと同じだが、「安全保障と人道の両面について認識がなされることなしに、核兵器を禁止するだけでは、核廃絶は保証されない」と明記し、安全保障問題には触れないNZ声明とは一線を画す。
今回、日本は両方の声明に賛同した。外交関係者の間では、「NZのものは将来的な核の非合法化も視野に入れるものだが、オーストラリアのものは核兵器禁止へ向かう流れを止めようとするもの」とみられている。〓
一読して疑念が湧いた。NZ声明は核兵器を絶対悪とする立場だ。原理主義的ともいえる。片や、豪州声明は現実主義的だ。必要悪の立場といえなくもない。リゴリズムとリアリズム、あるいはラディカルとグラデュアルともいえよう。ベクトルは踵を返すほどではないにせよ、交わらないベクトルのようにも見える。つまりは、似て非なるものである。
お隣同士で、どちらもイギリス連邦加盟国であり英連邦王国に属す兄弟国である。しかも両国ともに欧米の核実験により嫌というほど辛酸を嘗めてきた。なのに、なぜこうも違うのか。疑念とはそのことだ。
双方とも1769、70年に相前後して、英国人ジェームズ・クックによって開かれた。文化的背景は共通するものの、国土はまるで違う。NZは島国。豪州はブラジルに次ぐ世界第6位の大国だ。NZの28倍、人口も5倍。オーストラリア大陸は6大陸の一つで、世界で唯一、一大陸で一国を成す。だから、小国のナーバスな危機意識と大国にある気宇の壮大が核への対応を別ったのであろうか。一理はありそうだが、付会ともいえそうだ。
同じ君主を戴く国ゆえに、戦争ではイギリスに与してきた。第一次世界大戦では“オーストラリア・ニュージーランド軍団”を結成して、オスマン帝国軍との激戦を潜った。第二次世界大戦でも連合国側に立って参戦し、日本軍と戦った。朝鮮戦争、ベトナム戦争、イラク戦争(NZ軍は途中撤退)にも共に参戦した。それほど命運を一にしてきた両国が核で割れた。85年のNZによる核兵器搭載艦艇の寄港拒否、87年の「ニュージーランド非核法」の成立は象徴的だ。これによりアメリカはNZの防衛義務を停止、NZはアメリカの「核の傘」から離脱した。51年から続いたANZUS(米豪NZ3国相互防衛条約)は実質上米豪2国間の条約となった。爾来、NZは独自の反核路線を歩む。
何があったのか。
実は50年代後半、NZ女性の母乳からストロンチウム90が検出されるという事態が発生した。米英による核実験の影響が遂に人体に及んだのだ。これが非核市民運動に火を付け、政府を動かし、如上のような展開となった──。これで疑念が晴れた。遼東の豕、牽強の愚案と嗤われようと、すっかり晴れた。
内田 樹氏はこう語る。
◇「複雑系」というのは単純に言ってしまえば「入力と出力が一対一的に対応しているわけではない」システムのことです。株式市場における投資家の行動から鳥の渡りまで、現実世界のほとんどすべての事象は複雑系です。
複雑系としての社会には二つの側面があります。「先がどうなるか正確に予見することはできない」ということ、これはぼくたちにある種の無能感をもたらす場合があります。もうひとつは「わずかな入力の変化で劇的な出力の変化が生じることがある」ということ。これは「レバレッジ」に行き当たりさえすれば、一人の力で宇宙全体さえ動かせるという多幸感をもたらす場合があります。この無能感と多幸感の「あわい」を遊弋すること、それが複雑系としての社会を生きる人間のマナーだとぼくは思うのです。◇(文春文庫「「東京ファイティングキッズ・リターン」から)
ストロンチウム90の検出は「わずかな入力の変化」であったろう。しかし、「劇的な出力の変化」が生じた。“アマゾンの蝶”、バタフライ・エフェクトだ。敷衍すれば、「レバレッジ」を掌中にして「一人の力で宇宙全体さえ動かせる」。まさに気宇壮大ではないか。
血は水よりも濃し、という。だが同族でも袂を分かった二国を徴すれば、乳は血よりも濃しというべきか。母乳の一滴が国の行く末さえも別つ。国土、風土論、地政学的考察よりも、稿者にはよっぽどエキサイティングだ。
余談ながら、広島選出の岸田外相はNZ外相と事前交渉し、「願望」と「政治的」という2つ語句をNZ声明に追加してもらったと伝えられる。核不使用は「人類の願望から発想された政治的な意志、メッセージ」に過ぎないというのだ。願いであり、具体的な政策ではないといいたいらしい。これで被爆国でありながらアメリカの「核の傘」にある非整合が超えられ、NZ、豪州両声明に賛同できたという。
なんとも姑息だ。猿知恵に等しい。この内閣は親分に倣って子分どもも解釈を変更するのが大のお得意、すこぶるお好きらしい。国民はノーベル平和賞にノミネートされようかというのに、政府はイグ・ノーベル賞にも鼻であしらわれる。マララ・ユサフザイさんの爪の垢でも煎じて飲めばいかがか。
母乳の一滴は子の滋養であるばかりでなく、まことに平和の滋養でもあるにちがいない。 □
M島前法相の場合だと、「これは“内輪”の問題です。外からとやかく言われる筋合いのものではありません」と、白を切る手もありました。途轍もなく無理筋ですが、先だっての憲法解釈の変更に比すれば造作もありません。豪腕のアンバイ総理ならきっとおできになります。
公職選挙法 第199条の2には、
──公職の候補者又は公職の候補者となろうとする者は、当該選挙区内にある者に対し、いかなる名義をもつてするを問わず、寄附をしてはならない。──
とあり、本人には50万円以下の罰金が科されます。
その寄附とは、同法第179条において、
──この法律において「寄附」とは、金銭、物品その他の財産上の利益の供与又は交付、その供与又は交付の約束で党費、会費その他債務の履行としてなされるもの以外のものをいう。──
と定義されています。
今や団扇ごとき物が「財産上の利益」といえるのか。M島前法相ご自身も仰っていたように、ゴミ箱直行の物品がなぜ「利益の供与」になるのか。
去る7月1日、総理は閣議決定後の昂揚を抱きつつこう訴えられましたよね。
「我が国は戦後70年近く、一貫して平和国家としての道を歩んできました。しかしそれは、『平和国家』という言葉を唱えるだけで、実践したものではありません。自衛隊の創設、日米安保条約の改定、そして国連PKOへの参加。国際社会の変化と向き合い、果敢に行動してきた先人たちの努力の結果であると考えます。」
そうです。変化に向き合わなければならないのです。団扇、扇子から扇風機へ、そして今やエアコンの時代です。私たちを取り巻く社会の変化をもっと率直に見てほしい。「国際社会の変化と向き合い、果敢に」集団的自衛のために地球の裏側にまで行こうかといっているのに、団扇が財産だなんてアナクロニズムもいいところです。ですから、団扇なんぞは断じて財産上の有価物に当たるはずはないのです。難題山積の刻下に、永田町内で“内輪”揉めしている場合か。なぜ、そう押し切られなかったのか、残念でなりません。
O渕前経産相のケースは6点にもわたって問題点を指摘されました。でも、最大の疑惑とされるのは「観劇会」の収支の食い違いですね。でも小林幸子の歌に酔いしれ、梅沢富美男の芸に痺れ、大いに“感激”した人たちがいたことも事実です。5月の記者会見で、総理はこう国民の琴線にお触れになりましたね。
「まさに紛争国から逃れようとしているお父さんやお母さんや、おじいさんやおばあさん、子供たち。彼らが乗っている米国の船を今、私たちは守ることができない。そして、世界の平和のためにまさに一生懸命汗を流している若い皆さん、日本人を、私たちは自衛隊という能力を持った諸君がいても、守ることができない。」
日常の憂さを忘れ、過酷なストレスから「逃れようとしているお父さんやお母さんや、おじいさんやおばあさん」そして手を引かれた「子供たち」。「彼らが乗っている」明治座という救いの「船を今、私たちは守ることができない」。それでいいのでしょうか。公選法だの政治資金規正法だのと、規矩準縄に囚われていていいんですか。現前するストレス社会の脅威から、せっかく国民的歌手や芸人という「能力を持った諸君がいても、守ることができない」。はたしてそれでいいのでしょうか。と、なぜ「美しい国」日本人の美しい心根に訴えようとはなさらなかったのか、残念でなりません。
経産省といえば元経産官僚の古賀茂明氏が、アンバイ政権についてこのように語っています。
◇重要なのは、相当先までの政治日程を組み込み、スケジュールから逆算して、かなり前から手を打っていくことだ。民主党政権に見られたような場当たり的なやり方ではない。そして何よりも、政策課題の内容の検討はもちろん、広報戦略の検討に安倍総理自らが直接関与することによって、政策と広報が統合された形の戦略が出来ている。実は、この方法は、競争力のある民間企業と同じだ。今の時代、部下がお膳立てした広報戦略に社長が乗るだけの企業は生き残れない。重要課題についての決定に社長がリーダーシップを発揮するのは当然だが、広報戦略についても同時に社長がトッププライオリティを置いて決定していくことが求められる。
その戦略転換を支えるのは、「国民は愚かで単純である」という哲学だ。具体的に言えば、①ものすごく怒っていても時間が経てば忘れる ②他にテーマを与えれば気がそれる ③嘘でも繰り返し断定口調で叫べば信じてしまう、ということを基本にしている。◇(角川Oneテーマ21「国家の暴走」から)
随分失礼な物言いで、辛辣ですね。でも、「実は、この方法は、競争力のある民間企業と同じだ」は図星ですね。内田 樹氏も、こう論及しています。
◇そもそも国民国家は「利益を出す」ためにつくられたものではない。「存続し続けること」が第一目的なのである。「石にかじりついても存続し続けること」が国民国家の仕事のすべてである。もし「私の経営理念は利益を出すことではなく、会社を存続させることです」という会社経営者がいたら、「バカ」だと思われるだろう。だから、ビジネスマインドで国家経営をされては困ると私はつねつね申し上げているのである。短期的利益を言い立てて、原発再稼働を推進している人たちは総じてビジネスマインドの人々である。 国民経済というのは「日本列島に住む一億二千万人の同胞をどうやって養うか」という経世済民の工夫のことである。それを考えるのが統治者の仕事である。◇(晶文社「街場の憂国論」から)
間、髪を容れず。この度の更迭人事は鮮やかでした。しかし「ビジネスマインド」ではあっても、総理らしくない。国の基本法である憲法さえも、その解釈を変える。体操でいえば最高難度Gをもお見せになるのに、その下位にある法律など解釈変更は難度Aでしかないでしょう。
たとえば、「観劇会」に“強制性”はなかったとか。収支の不記載は単なる形式犯であって、そんなことで有望な人材の芽を摘んでいいのか。それでは角を矯めて牛を殺す。さらに一定の条件(一例を挙げれば、「時の政権の存立が脅かされ、国民の生命、自由と幸福の追求権が根底から覆される明白な危険があり、かつ政権の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がない場合」)を満たせば、「買収」が可能になる公選法の解釈変更など、今こそ総理お得意、十八番のG難度の得意技を繰り出すべきではないでしょうか。総理ともあろうお方が野党に“間隙”を突かれるとは、まことに残念です。 □
11年7月に地デジが始まって3年が過ぎた。鈍感なのだろう。やたら人物のアップが増えたことに、最近気づいた。解像度が上がったとはいえ、国会中継などのアップが不要な場面、あるいは芸人などのアップに耐えられない面相に至るまで、やたらに“寄る”。街場でインタビューに応えるおばちゃんにまで寄る。見られたくない小皺まで克明に映る。迷惑な話だろう(たぶん)。
皺も突き抜ければ、皮膚の細胞に至る。さらにタンパク質、原子へと進む。1ミリメートルの10億分の1、ナノのさらに下、ピコである。月から地球の蟻が見えるレベルだという。驚きだが、実はそこまでアップができる。三菱、東芝など国内500社が共同で開発したX線自由電子レーザー施設=SACLA(さくら)である。兵庫県にあり、12年より供用を開始している。
一方、今年東大と日本電子が開発した電子顕微鏡は「分解能」(いわばアップ度)は0.045ナノメートルで世界一の性能を誇る。1590年頃オランダで発明されて以来420余年。手立てはレーザーにせよ電子にせよ、微に入り細を穿つ試みは極北に達した感がある。
ならば、カメラを天空にターンさせればどうだろう。望遠鏡だ。1608年にこれもオランダで発明された。顕微鏡とわずか20年弱のあわいしかない。加えて大小ともにオランダとは、なにかの因縁か。翌年ガリレオ・ガリレイが倍率3倍の手作り望遠鏡を夜空に向けて、人類の眼は大きなターンを始めた。
ハワイ島マウナ・ケア山山頂にある“すばる望遠鏡”は、国立天文台の大型光学赤外線望遠鏡である。06年、かみのけ座の方向に天体観測史上最も遠い銀河を発見した。その距離、なんと128億光年。光年ともなれば、素で45億年にしかならぬ地球の歴史を文字通り天文学的に凌駕する。さらに21年には日米加中印の5カ国共同で世界最大の天体望遠鏡がハワイに造られる。解像度は宙に浮かぶハッブル宇宙望遠鏡の10倍を超え、宇宙人を見つける日も近いと噂されている。なんとも言葉を失うほどに壮大だ。
今や、極小も極大も物理的には見え過ぎるほどに見える。ただ未だに見えぬのが人の世のありようだ。大は人類、小は己に至るまで舌先は三寸あっても、一寸先は闇である。カメラは寄れても、厚顔の奥にある性根までは掴みかねる。
齢、60余歳。アップに間違いなく不適なわが面貌を見詰めて、心眼の卑小なるを今更に恥じ入る。嗚呼。 □
週番のように台風が来る。忙しいのは気象予報士の面々である。別けても注目は森 朗(アキラ)氏であろう。森田正光氏が主宰する気象ビジネスの会社に属している。森田氏は『洗濯指数』などで話題を取ったお天気キャスターの魁である。天気予報を気象庁のお堅い発表から、民間の身近で多弁なインフォメーションに解放した功労者だ。森氏はその門下である。
TBSの“ひるおび!”でよく見かける。台風の動く模型や雲に擬した綿、衛星写真、ヨーロッパの気象情報などを駆使して、決して流暢にではなく訥々と語る。予想が外れると、司会の恵が“ホンジャマカ”のツッコミ感覚でいじる。コメンテーターたちもツッコミに追い打ちをかける。答えに窮したり、言い訳に逃げたり、その遣り取りも普通の天気予報にはない面白味を添えている。それでいてかなり高度な気象知識をやさしく提供している。なかなかのものだ。
一見茫洋とした面相に加え、声は明瞭だが滑舌はよろしい方ではない。気象予報士らしからぬいじられキャラ、ユルキャラである。そこが人気を呼んでいると聞く。
ところが、頼まれもしないのに突如舞い戻ってきたタレントの岡本夏生がこう咆えた。2月のことだ。
「“ひるおび!”のお天気キャスター、腐ってる。なんだあのぶっさいくなヤツがね、モタモタモタモタしたしゃべりで、こっちは真剣に聞いてるんだよ。もっとシャシャシャシャシャシャシャとしゃべろ、バカヤロー。本当にイラつくんだよ」
如上の工夫した説明や訥弁を「モタモタモタモタ」と言ったのだろう。「シャシャシャシャシャシャシャ」が予報士の理想らしい。だが、「真剣に聞いてる」は大いなる驚きだ。岡本夏生はよっぽど天候に左右される生活をしているのだろうか。売れなくなって農業でも始めたのか、それとも漁師か。ワカメの天日干し、もしかしてレタスの栽培か。まさか天候によって精神や膝、腰その他体の節々に重大な変化が生じるお気の毒な病なのであろうか。失礼ながら、あのオツムには気象知識のレクチャーを「モタモタモタモタ」と感じるほどの知性の高速回転はあるまい。いずれにせよ、「腐ってる」のはどちらかは自明の理である。
“ひるおび!”でお天気コーナーが終わると、政治向きの話題などは無縁のごとくすごすごと画面から消える。ところが、森氏は慶應義塾大学法学部政治学科を卒業している。いつどのようにして畑違いに進出したのか、謎といえなくもない。現在55歳。ああ見えて、20歳の年の差婚をなすっている。もちろん奥方が年下である。加えて、以前天気監修役でテレビドラマにも出演なさったとか。ああ見えて(しつこいか?)、やるときはやる御仁であるようだ。
キャスターといい、コメンテーターという。政治、経済、教育、医療、スポーツ、芸能など、さまざまな分野にいる。それぞれのエキスパートであり、オーソリティーであろう。しかし何を発言しても、たちまちその正当性を問われる分野はお天気キャスターを措いて外にはあるまい。明日の天気は明日に、台風は数日経てば、今年の夏は2ヶ月もすれば明白になる。政治は甲論乙駁であるし、経済は数年、教育に至っては10年は要する。医療もスポーツも推して知るべし。芸能は端っから鵺のごときものである。
さすればお天気キャスターとはなんとも厳しく、かつ知的果報に満ちた生業であることか。内田 樹氏は知性について以下のように論述している。
◇私たちは知性を検証する場合に、ふつう「自己批判能力」を基準にする。自己の無知、偏見、イデオロギー性、邪悪さ、そういったものを勘定に入れてものを考えることができているかどうかを物差しにして、私たちは他人の知性を計量する。自分の博識、公正無私、正義を無謬の前提にしてものを考えている者のことを、私たちは「バカ」とよんでいいことになっている。
私は知性というものを「自分が誤り得ること」についての査定能力に基づいて判断することにしている。平たく言えば、「自分のバカさ加減」についてどれくらいリアルでクールな自己評価ができるかを基準にして、私は人間の知性を判定している。さまざまな社会的不合理を改め、世の中を少しでも住み良くしてくれるのは、「自分は間違っているかも知れない」と考えることのできる知性であって、「私は正しい」ことを論証できる知性ではない。◇(「ためらいの倫理学」より)
お天気キャスターは、「自分の博識、公正無私、正義を無謬の前提 」にすることから構造的に免れている。30分、200メートル単位の気象データが揃う時代だ。前提が違う。「バカ」になれようはずはなく、もし「バカ」になるなら即座に暴かれる。
それでも“外れ”る。「リアルでクールな自己評価」を、巧まずして日常的に突きつけられているといえよう。
如上の論攷は、まことに森キャスターに相応しい。今や“ひるおび!”お天気コーナーの売りとなった“森いじり”は、生きた「知性というもの」の教則本ではないか。
女心と秋の空。森キャスターなら、きっと前者の予測確率が圧倒的に高いにちがいない。なにせ、20歳の年齢差を易々と超えて“心”を読み切った人だから。 □
たしかどこかで見た顔だと、記憶を辿るとやっぱりあの人だった。3人のノーベル賞受賞者のひとり、中村修二氏である。
まずノーベル賞受賞者なぞは雲の上の人である。面識などあろうはずはない。なべて枯れたお顔が多い。あるいは田中耕一氏のように篤実なお顔もある。ところが失礼ながら、ヒールでも務まりそうな面貌がこの中村氏である。気骨漲るといおうか、重ねて失礼ながら喰えないご面相である。
9、10年前のこと。氏は青色発光ダイオードの発明に対する会社からの報酬を廻り裁判を起こしていたのだ。05年に東京高裁で和解が成立し、2万円だった報奨金は8億4千万で決着した。社員技術者の待遇改善、報酬の高額化に道は開いたものの、氏は「納得していないが、研究開発の世界に戻る」と啖呵を切った。
あの時の記憶だ。投じた一石は波紋を呼び、企業内技術者の億単位に及ぶ発明対価の要求が相次いだ。企業側で報酬制度の見直しが進んだ反面、特許の所属を廻る特許法の改正論議にも火が付いた。報酬や特許という莫大な「技術者の夢」が稔れば、経営体力が削がれ競争力が萎え、「会社が潰れる」という悪夢が経営側を見舞う。昨年6月安倍政権は産業界に配慮して、「成長戦略」なるもののひとつとして特許法の改正に着手。特許を社員から会社に移し、同時に社員との合意による報酬に関する社内規則を定めるとする内容だ。一見もっともだが、力関係を考えれば社内規則がフェアに定められるかどうかは眉唾だ。経営側にエクスキューズを用意させているともいえる。今時の臨時国会にその改正案が提出されるそうだ。
受章を「日本の誇り」と讃える総理は、中村氏を抜きにしてはありえなかった授章理由の業績に心中さぞ複雑であろう。ひょっとして面当てだと受け取っているだろうか。いや、そのようなデリカシーは端っから持ち合わせてはいないだろう。お為ごかしの特許法改正案はあきらかに経営者マインドの発想である。劣悪な研究環境を憂える視座があれば、「日本の」などとは恥ずかしくて口には出せないはずだ。まことに宰相における無二の資質は厚顔無恥といわざるをえない。
同じ伝でいけば、憲法9条を保持する日本国民が今年のノーベル平和賞候補の最右翼にあることは安倍総理にとって心中いかがであろうか。きっと「ダメよ~、ダメダメ」に違いあるまい。総理にとってはイグノーベル賞でしかあるまいが、過去のどのような平和賞に比して最も政治的インパクトがある授章ではないか。
成ったとして、一体だれが授賞式に参じるのであろう。象徴天皇の御幸はないとして(これも相当な面当てだが)、やはり日本の顔は総理であろう。ならばどの面下げてオスロにいらっしゃるのか、苦衷を察するに余りある。
内田 樹氏が近著「憲法の『空語』を充たすために」(かもがわ出版)で以下のように語っている。
◇自衛隊は海外で人をひとりも殺していません。先進国の中で、このような素晴らしい実績を誇れる国は他にほとんどありません。その「無事故記録」を今日も一日一日と更新している。
憲法九条に平和賞が与えられれば、軍事的なフリーハンドをめざしている国内の改憲運動は一時的には冷水を浴びせられることになる。九条が維持されるということになると、平和主義の旗、を改めて掲げた日本に対して軍事的威圧を与えている隣国に対しての国際社会からの批判はいっそう強化されるでしょう。
重要なのは、憲法九条がノーベル平和賞を受賞した場合、顕彰されるのは憲法条文そのものではなく、憲法九条をさまざまな空洞化の圧力に抗して、なんとか必死で守り抜いてきた日本国民の歴史的努力だということになるからです。憲法そのものが受賞するのではない。憲法の趣旨をよく汲んで、その困難な課題をなんとか現実化したという功績について日本国民が受賞するのです。憲法九条そのものが仮にGHQのニューディーラーたちの作文であったとしても、あるいは日本を軍事的に無力化するというクールでドライなアメリカの戦略の帰結であったとしても、これを七〇年守り続けてきて、空文ではないものにしたのは、誰でもない日本国民です。
「武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」という条項に関しては、軍事力を行使しない一日が過ぎるたびにとりあえず一00%実現されている。これはほんとうにたいしたことなのです。日本の憲法には「戦力を放棄する」と書いてあるけれど、「あの事件」や「あの衝突」はどうなんだ。あれは「武力による威嚇または武力の行使」ではないのか、というような抗議や疑惑を今の日本は世界のどこの国からも突きつけられていない。そんな国は、世界にも例外的なのです。
先の大戦での占領地や植民地での非道についてはいまだに戦争責任を問われ続けていますけれど、「そんな昔の話を蒸し返すな」と言っている人たちは、「そんな昔」から後七〇年間にわたって「そんな話」が一つとして加算されていないという驚くべき実績の前にもう少し居ずまいを正すべきでしょう。◇(抄録)
圧倒的な説得力を持つ論攷だ。実に腑に落ち、溜飲が下がる。「『無事故記録』を今日も一日一日と更新」とは言い得て妙ではないか。
ともあれ、ノルウェーへの総理苦渋の渡航が一日も早からんことを祈るのみである。
行方に注目だ。 □