伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

脳内民主主義

2017年10月30日 | エッセー

 脳研究者の池谷裕二氏がかつて脳内の決定プロセスを議会に見立てて解説していた(「進化しすぎた脳」)。ニューロン(神経細胞)1つをひとつの議会とすると、議員はニューロン間にシグナルを送るシナプス(接合部位)で1万人いる勘定だ(1ニューロンにつきシナプスが1万ある)。膨大な議会である。脳全体ではニューロンが数千億個あるから、掛ける1万でシナプスは数十兆規模になる。想像を絶する。おもしろいのは、1つのニューロンに賛成派(アクセル役のグルタミン酸)と反対派(ブレーキ役のGABAというアミノ酸)がいること。比率は賛成派がほとんどで、反対派は10~20%。だが反対派は声が大きく、活動も激しい。だから数は少ないが、影響力が大きい。うまく全体のバランスが取れている。もしも全部が賛成派になるとどんな法案も可決される。いつでもゴーだ。と、どうなるか。すべてのニューロンがオンになって暴走を始め収拾不能に陥り、痙攣が起こる。癲癇だ。つまり、人間の脳は極めて民主主義的に意志決定をしている。
 これは実に示唆に富む。前回の総選挙を受けて、16年1月、「多数決を疑え!」と題した拙稿を上げた。多数決は「文化的奇習」だと断言する学説を紹介しつつ、
 〈多数決とは51%で49%を封殺できる制度である。こんなものが民主的といえるのか。「利害対立を煽り、社会の分断を招く機会として働いてしまう」のは先の安保法制審議を見れば明らかだ。加えて、「オストロゴルスキーのパラドックス」(政策別の多数決と政党別の多数決が異なる場合)が不可避だ。アベ政治はこのパラドックスを逆用した阿漕な遣り口だ。〉
 と綴った。脳は熟議構造になっているのに、なぜか議会は次第に即決構造に変貌しつつある。行政府による立法府の形骸化である。立法府が骨抜きにされ、単なる通過セレモニーに身を落としている。もはや実質的に国権の最高機関ではなくなっている。三権分立から行政府の突出。行政府こそが国権の最高機関であるという逆転が起こっている。それについては本年8月の拙稿「片翼飛行(承前)」で、内田 樹氏の高説に依りつつ愚考した。内田氏の洞見を再度引く。
 〈独裁というのは、「法の制定者と法の執行者が同一機関である」政体のことです。行政府が立法府・司法府の首根っこを抑える仕組みができていれば、事実上の独裁制が成立する。ですから、独裁制をめざす行政府は、「国権の最高機関」である立法府の威信の低下と空洞化をめざします。どんな重要法案でも、何時間かセレモニー的に議論しているふりをすれば、強行採決する。それを見ると、国民は「ああ、国会って、全然機能していないんだな」という印象を持つ。でも、まさにそれこそが行政府の優位を決定付けるためのマヌーヴァーなんです。結果的に立法府の威信は低下し、相対的に行政府への権限の集中が進む。〉(「アジア辺境論」から抄録)
 敬愛する東大教授で歴史学者である加藤陽子氏も同じ問題意識に立つ。近著「もの言えぬ時代」(朝日新書)で、共謀罪法案審議が中間報告という異様な手続きでなされたことや天皇退位に関する特例法が両院正副議長の差配と全体会議という奇策によって進められたことを挙げ、「内閣と国会の関係は、静かに目立たないかたちだが、実のところ大きく変容を遂げている」と憂慮する。
 豈図らんや、自民党の議席が増えれば増えるほど自民党議員のプレゼンスが軽くなるという奇怪な現象が起こっている。彼らは他でもない通過セレモニーの起立要員であり、強行採決の手数でしかない。というか、行政権が肥大する中で絶対多数の与党は限りなく存在を希薄化するというアンビバレンスにそろそろ気づいてもいいのではないか。
 なにより1票の格差是正のために縮小均衡を図るのは逆ではないか。今回は10議席減っている。その分国民の意思は捨象される。減員すれば霞ヶ関の官僚には対応に手間が省ける。「議会改革」の看板で思考停止し、拡大均衡が発想できないピットホールに陥ってはいないだろうか。
 数十兆規模の脳内議員に比して、議会制度のなんとみすぼらしいことか。賛成・反対派の絶妙なバランスによる熟議構造とはかけ離れた「いつでもゴー」体制の極まりない危うさ。ヒトはなにより先ず自身の脳内民主主義に学ぶべきだ。 □


ミスマッチCM

2017年10月26日 | エッセー

 ミスマッチの可笑味を狙うのはCMの伝統的手法である。近ごろ傑出した3本がある。
 まずは、『からだすこやか茶W』である。脂肪と糖を摂り過ぎないようにと呼びかけ、「からだすこやか茶~~ダブル~」と歌って締める。これが正直、健やかではないのだ。幾つかあるパターンの中で、特に半チャーハン篇、野菜炒め定食篇が出色。中折れ帽を被りグラサンをかけた中年男が嗄れた声で、しかも少し小節を入れて歌う。風体からして品がなく、健やかからはほど遠い。いや、遙かに遠い。調べてみると、このオッサン、名は横山 剣。当年56歳、ロックバンド・“クレイジーケンバンド”のボーカルだという。なんともミスマッチだ。
 次が『docomo iPhone8』。ソファーに大きな腹を抱えたハリセンボンのはるか。もうすでにかなりの違和感あり。隣に、夫役の角野卓造。すげぇー年の差婚である。あまりにも突飛すぎて、初めの頃はこの関係性が掴めなかった。母親役(どっちの母親かは判別不可)が「角野卓造じゃねーよ」の春菜。見間違えられるのだから卓造の母親だとすると、もう幻視、幻覚の世界だ。綾野 剛ははるかの弟か。ひょっとして卓造の、か。どちらにせよ、まったく似ても似つかない。月とすっぽんほど違う。ともあれ、無理やりなキャスティングがとんだ異次元を作り出す。ミスマッチの怪だ。
 なんといっても極めつきは『明治 R-1』の吉田沙保里だ。歴とした男優・大森南朋(オオモリ・ナオ)を相手に見つめ合い、手を取り合い、労りの言葉を囁く。「なおクン」と呼べば、「さおりん」と応える。超古典的な演出だ。驚きの表情で見つめる両親。志賀廣太郎と木野 花。どちらも演技派の渋い役者だ。名優たちの中で、果たしてさおりんが堂に入っている。少しもぎこちなさはなく、実に巧い。霊長類最強の女が見事に手弱女を演じ切っているのだ。ところが、なぜか薄気味悪い。はっきり言うと、キモカワイイ。ミスマッチのマッチングか、マッチングするミスマッチか。見るたびに、正視できない異様なインパクトに襲われる。さおりんに比べると、前記2本も霞むほどだ。
 番外編として付け加えたいのが選挙CMのアンバイ君。空虚な言葉を羅列した後、「是非あなたの声を聞かせてください」とくる。過半を超える総理不支持があり、モリカケでは国民の代表である野党の声を聞かなかった当の本人が何を今さら。ミスマッチの結果もさることながら、ミスマッチもいいとこ、いや、フェイクCMそのものだった。こんなごまかしのミスマッチCMは御免蒙る。
 意表を突くミスマッチ。笑いを誘うミスマッチ。先入観を打ち砕くミスマッチ。おまけがウソつきミスマッチ。可笑味を狙うCMは大歓迎だが、世をおかしくするCMには要注意だ。 □


逆 “ナッシュ均衡” (承前)

2017年10月21日 | エッセー

 小選挙区で特に支持する政党や候補者がいない場合、どうするか? 棄権や白紙では有力候補への信任になってしまう。なんとか自らの1票を活かしたい。今日の朝日新聞にはこうある。
 〈まず、自分が求める候補者の資質や政策に基づき、最も合うと思う候補者を選ぶ方法だ。他人の行動を踏まえ、合理的に利益の最大化をめざす「ゲーム理論」が専門の船木由喜彦・早稲田大政治経済学術院教授は、この方法を「誠実投票」と呼ぶ。
 そういう候補者がいたとしても当選が極めて難しいと判断した場合、勝機がある別の候補者に投票することで一票を生かす「戦略的投票」(船木教授)がある。例えば、A、B、C、Dの4候補者のうち、自分が支持する候補者Cが最下位で、他の3人から大きく引き離されている場合。「誠実投票」でCに票を投じると「死票」になる可能性が高い。このため、AとBが接戦で、Bが自分の考えにより近い候補者であれば、Bに投票する方法だ。〉
 前稿では、立候補者側にナッシュ均衡を援用した。舟木教授は投票者側から捉えている。「戦略的投票」がそれである。「誠実投票」では玉砕となる。「相手がどう出ても自らが損をしないように行動する時の均衡状態」、つまりナッシュ均衡の逆用だ。自らの主張に適う最善の「誠実投票」も、自らの主張に“殉ずる”次善の棄権や白票も捨てて、自らの主張をウェイティングする“次々善”の選択。これが「戦略的投票」である。
 「孫子」は九地篇で、
 〈敢えて問う、敵、衆にして整えて将に来たらんとす。之を待つこと若何。 曰く、先ず其の愛する所を奪わば、則ち聴かん。兵の情は速やかなるを主とす。人の及ばざるに乗じ、虞(ハカ)らざるの道に由り、其の戒めざる所を攻むるなり。〉
 と説く。寡兵を以て衆兵に対するには速攻、敵の急所を衝けという。不備、不測、無防備に付け入れ、と。2大政党制を前提とした小選挙区制は衆兵同士の差しの勝負である。寡兵は想定外、勝負にならない。なお伍するには寡兵同士が合従連衡するに如くはないが、それが適わねば擬似的なそれをつくるほかない。衆兵が「虞らざるの道に由」るのだ。それが逆“ナッシュ均衡”である。
 ともあれO沢氏の豪腕によって採用された小選挙区制が諸悪の根源である。以前は中選挙区制。大中小の語並びで「小」と名付けたのであろうが、実態は『単』選挙区制である。1人しか当選しない。死票累々、民意切り捨て、最低の制度だ。
 番度(バンタビ)問題となるのが低投票率。小選挙区制の歪みが極大化する。同じく今日の紙面で朝日は「小選挙区制のもと、第1党は全有権者の3分の1以下の得票率でも、圧倒的な議席数を占める傾向がある。低投票率はそうした選挙結果の乖離に拍車をかけている」と指摘する。以下、抄録。
 〈2014年の衆院選の投票率は小選挙区で52・66%で、戦後最低だった12年の59・32%をさらに下回った。自民党は単独過半数に到達。「安倍1強」を盤石にした。ただ、低投票率とあいまって、全有権者に対する得票の割合を示す絶対得票率は小選挙区で24・49%、比例区で16・99%にとどまった。明確に支持を示した人は小選挙区で4人に1人、比例区では6人に1人だった自民が全議席の6割を占めた計算だ。〉
 「4人に1人」「6人に1人」で民意といえるのか。そんなもので単独過半数とは国家的詐欺に等しい。かといって、旧に復するにも多数を取らねばならぬ。難儀なことだ。だから、「戦略的投票」で“次々善”の選択をしようということになる。
 今夕から台風21号が列島を縦走する。投票率は下がるだろう。凶と出るか、吉と出るか。アンバイ君がほくそ笑む顔なぞ見たくはない。民意が吹き攫(サラ)われる狂風ではなく、国家的詐欺を追い返す神風となるか。後者であることを切に願う。 □


「ナッシュ均衡」か?

2017年10月17日 | エッセー

  容疑者2人に対して、取調官が別々にこう迫る。
「2人とも自白すれば、どちらも16年の刑。2人とも黙秘すれば、2年の刑。どちらか一方が自白し片方が黙秘すれば、自白した者は無罪放免となり黙秘した者は30年の刑」
 さて、どうなる? もちろんベストは2人とも黙秘だが、そうはならない。隔離された中で、互いに読み合いを始める。相手が自白するか黙秘か、それは判らない。自分が黙秘しても相手が自白すれば30年。それは危ない選択だ。自分が自白しても最悪16年か、うまくいけば無罪。で、2人とも同様に思案し各自自白して16年の刑。これが結末である。無罪、2年、16年、30年の選択肢の内、最良の選択ではないと判っていても最後は16年を選ぶ。無罪は言うに及ばず、ベストチョイスの2年も逃してしまう。
 有名な「囚人のジレンマ」である。〈お互い協力する方が協力しないよりもよい結果になることが分かっていても、協力しない者が利益を得る状況では互いに協力しなくなる、というジレンマである〉と説明される。「ゲーム理論」の説明によく使われる例だ。「ゲーム理論」はアメリカのノーベル賞受賞者ジョン・ナッシュが大成させた学説である。相手がどう出ても自らが損をしないように行動する時の均衡状態を「ナッシュ均衡」と呼ぶ。「ゲーム」とは駆け引きの謂である。人間関係を数理の俎上に載せたともいえる。理屈通りにいかない人の世を理屈で解くとでもいおうか、なんともおもしろい。
 予測は自民圧勝である。敵失によるのは明らかだ。野党の自堕落は「囚人のジレンマ」であろう。囚人とはまことに失礼だが、K望の党を巡るドタバタは「相手がどう出ても自らが損をしないように行動」したとしか見えない。その「ナッシュ均衡」を引き起こしたのはK池氏の「排除」だ。取調官になったつもりがとんだ仇になった。
 突飛だが、本邦には三方一両損の故事がある。
 左官の金太郎が3両拾った。落とし主である大工の吉五郎に届けるが、吉五郎はいっぺん落としたものは自分のものではないと強情を張って受け取らない。裁きを委ねられた大岡越前守は自らの財布から1両を足して4両とし、両人に2両ずつ渡して三方1両損。これにて一件落着という話である。金太郎には善行の褒美、吉五郎には頑固の咎めと一徹への折り合い。見事ではあるが、越前守はなぜ謂れのない損をしたのか? ポケットマネーを出すのは明らかに職掌を超える。勘ぐれば、越前守は1両以上のベネフィットを狙ったのではないか。それはお上への慫慂である。お上は蛇でも鬼でもない、情けのわかる頼もしき父親のごときものだ、と。つまりはパターナリズムの宣揚である。ならば、1両なぞ安い。
 約めれば、取調官は「ナッシュ均衡」を呼び、越前守はそれを超えた。K池氏は越前守ではなかったということか。それにしても気鬱なことである。 □


「人間やけん」

2017年10月12日 | エッセー

 「文句言われて、カチンとくるけん。人間やけん」と、逮捕前、彼は取材に応えた。6月に起こった東名高速でのワゴン車事故である。夫婦が亡くなった。ひょっとしたら事件かも知れない。未必の故意が疑えるからだ。追尾され、回り込まれ、無理やり追い越し車線に停車させられた。容疑は自動車運転死傷処罰法違反だそうだ。
 「人間やけん」が、砂を噛んだように気味悪い。人間は感情の動物だと言いたいのだろう。だから理性を振り切って感情のままに行動することだってある、と。惨事を引き起こしたエクスキューズがこんな薄っぺらな人間観だったとは遣り切れない。砂を噛むのがまだましだ。
 もし仮に彼が服役中にこのワーディングで更生を諭されたとしたら、どうだろう。「人間やけん失敗もするばってん、心ば入れ替えて生きんしゃい」などと。「湯はいい加減」と「アイツはいい加減」。内田 樹氏がいう「あべこべことば」である。氏は「コミュニケーションにおいて意思の疎通が簡単に成就しない」ための仕掛けのひとつだと深い考察を加えているが、悪用は狡い。「人間やけん」もそうだ。エゴイスティックな自分ファーストになったり、寛容の他人ファーストにもなる。コンテクストと発語の状況を吟味せねばならない。
 「国難突破」という。ずいぶん大時代な言葉だ。これもまた砂を噛んだように気味悪い。内外ともに国は危殆に瀕していると言いたいのだろう。だから立法府を振り切って行政府の意のままに行動することだってある、と。解散を打ったエクスキューズがこんな薄っぺらな国家観だったとは遣り切れない。砂を噛むのがまだましだ。コンテクストと発語の状況を吟味せねばならない。エゴイスティックな政権ファーストではないか、と。
 お気づきであろうが、後段で前半をリフレインすると砂を噛んだように気味悪い符合となる。件(クダン)の容疑者は事故を何度も繰り返し、保険会社のブラックリストに載っていたそうだ。多数を獲ると、掲げた公約とは別の本音をゴリ押しする。民意の横取りだ。もう何回になるか。いい加減、国政のブラックリストに載っていてもよさそうだが。 □


毬栗

2017年10月06日 | エッセー

 秋の味覚ベスト3は1位さんま、2位クリ、3位マツタケだという。3位は端っから縁がない。1位は盛大な煙とともにすでに食した。2位は今荊妻が渋皮向きに奮闘中で、一両日中には口に入るだろう。旨いものにありつくのは難儀なことだ。さすがに毬は外して店頭に並べてあるが、それも外すとなるとおそらく気を失う。よく似たのが殻斗(カクト)動物のウニである。どちらも美味は殻に鎧われ、さらに櫛比する棘が外敵を防ぐ。好物に祟り無しとはいっても、好物に辿り着くまでに祟りが張り巡らされている。自然の妙というべきか。
 実はヒトの脳内にも棘がある。脳内物質のことだ。フィジカルには脆弱なヒトは集団をつくることによって生き延び、ついには万物の長となった。サルでも群れるが、ヒトは並みの集団ではない。高度な社会性をもっていたことが決定的に違った。
 敬愛する脳科学者 中野信子先生は、その社会性の核心にサンクション(懲罰)があり、「いじめ」の根因はそこにあると、今月刊の「ヒトは『いじめ』をやめられない」(小学館新書)で述べている。通途の「いじめ論」にはない目から鱗の卓説が展開されている。だがいじめは同書に当たっていただくとして、脳内で社会性を操る脳内物質についての学識が実に示唆に富む。
 オキシトシンは「愛情ホルモン」、セロトニンは「安心ホルモン」、ドーパミンは「快楽ホルモン」だと先生はいう。この三つ巴が“棘”となってサンクションを生む。フリーライダー(タダ乗り、ズル)への棘だ。外敵は集団に結束を生むが、フリーライダーは亀裂を生む。この最強の敵への防御の棘である。特に興味をひくのはセロトニンだ。日本人はこれが圧倒的に少ない。セロトニントランスポーターS型という低セロトニンを誘発する遺伝子割合がアメリカ人の倍近くある。だから、少ない。
 セロトニンが少ないと、どうなるか。「安心」していられなくなる。不安感が募る。リスク想定が先立ち、事ごとに慎重を期す。つまりは保守的で、心配性、空気を読み、多勢順応、伝統墨守、引っ込み思案で、石橋を叩いて渡るを旨とする。まさに日本人だ。
 さらにおもしろいのは、いつからこうなったか。中野先生は江戸時代からだという。
 数理社会学では特定の遺伝子が拡散するスピードは1世代で1%だとする。最短で20世代、400年の計算になる。荒ぶる戦国の代(ヨ)が終わり、元和偃武(ゲンナエンブ)の江戸時代からだ。しかも宝永、安政の大地震など甚大な災害が多発、集団で助け合わねば生き延びられない。生きる便(ヨスガ)の稲作は労働集約型。したがって、
 〈江戸時代の日本では、みんなと協力する人、そしてあまり目立たず、リスクに対して慎重で、裏切り者がいたら糾弾するという人のほうが、生きやすい国だったと言えるでしょう。生き残る戦略は環境条件が異なると変わります。今の遺伝子から遡って考えると、農耕中心の平和な江戸時代が長く続いたからこそ、日本人にとって生存するための適応戦略は、慎重戦略となり、そのためにセロトニントランスポーターS型の比率がこれだけ突出したと考えることができます。〉(上掲書より)
 と語る。「生き残る戦略は環境条件が異なると変わ」る。確かに戦国時代とは民族が入れ替わったかのような変化が起こった。「安心ホルモン」が少ないがゆえの内向的日本人は400年の産物といえる。しかし、低セロトニンは頭ごなしに否定し去ってよいものでもあるまい。ユーラシア大陸の辺境国家ゆえに編み出された生き残り戦略といえなくもないからだ。
 しかし、こうもいえる。棘で護られたコアには人間性の精髄がある、と。あらゆる差異を超えたヒトに天与の美質が。……殻斗と棘に鎧われた件(クダン)の美味と同じように。 □


またしても“おや??”な人

2017年10月04日 | エッセー

 「ここがロドスだ、ここで跳べ!」はイソップ童話にある高名な箴言だ。ここで跳べなければ、ロドスでも跳んでいなかったことになる。真実は時空を超える。穿てば、ロドスで跳んでいたようにしかここでも跳べないはずだ。
 政党が理念を掲げる。政権を取ったらこうなります、と。しかし、「ロドスで跳んでいたようにしかここでも跳べないはずだ」。凄惨な内部粛正を繰り返しつつ権力の座を獲得した政党は、今度は一国をおどろおどろしい密告社会に変えるにちがいない。金に塗れた政党は金権政治を一国に敷き満つるに相違ない。利権に縛られた政党が一国に錯綜した利害の網を被せるだろうことは想像に難くない。理論闘争に明け暮れる政党がダイバーシティに著しく欠ける息苦しい社会をつくるのは疑いない。掲げる理想とは似て非なる、刻下のその政党自身のありようを一国単位に拡大し再現するに決まっている。つまりは民主的な政党運営であれば民主的社会に、強権的であれば強権社会に、排他的であれば排他的社会に──。政権獲得の暁に政党の色合いが急変するはずはないからだ。「漆剥げても生地は剥げぬ」といい、「病は治るが癖は治らぬ」という道理だ。
 「踏絵」だという。政策協定書だ。一瞬の希望は紙風船か。「希望の党」が「詭謀(キボウ)の党」に様変わりしそうだ。『ストップ! あべ』だけでいいではないか。大義なき野合といわれようと構うことはあるまい。第一、大義なき解散を打ったのは政権側だ。言えた義理ではあるまい。大義なき解散を迎え撃つこと自体が立派な大義だ。ところが、都知事はあわよくばソーリへの色気が芽生えたか、はたまた主導権の不安が過(ヨ)ぎったか。策士策に溺れるか。「排除」が裏目に出たようだ。
 「呉越同舟」という言葉がある。誤解があるようだが、単にライバル同士が同舟することではない。同舟すれば敵同士でも運航に協力せざるを得ないとの謂だ。そういうシチュエーションをつくるのが策士である。だが排除でいくとゾーイングが進んで、「漁夫の利」を掻っ攫(サラ)われてしまう。
「我れ寡(スクナ)くして敵は衆(オオ)きも、能く寡(カ)を以て衆(シュウ)を撃つ者は、即ち吾が与(トモ)に戦う所の者約(ヤク)なればなり。」(「孫子」虚実篇)
 「約」とは兵力の集約である。分散は負けだ。本気でストップをかけるのなら、もっと大きな仕掛けができたはずだ。「踏絵」は自らの狭量を踏まれているに等しい。
 パルチザンに関して、内田 樹氏はこう語っている。
 〈革命闘争というのは、はじめから終わりまで、とっても楽しいものでなければならない。同志とともに過ごす時間が楽しくて楽しくて、この時間がいつまでも続くようにみんなが願うような、そういうものであるべきなんです。そうじゃないと革命闘争なんかできるわけない。地下に潜伏して、弾圧に怯えて過ごす時間でも、同志と一緒だから楽しいというのでなければ身体が保ちません。革命を一緒にやれる人であるかどうか、その判断基準はその人と一緒にいると自分も勇気づけられる、自分の知性の回転が滑らかになる、自尊感情が基礎づけられる、そういうことだと思うんです。〉(「日本霊性論」から)
 もちろん選挙戦は潜伏闘争とは違う。だが「同志と一緒だから楽しい」、「勇気づけられ」「知性の回転が滑らかに」なり、「自尊感情が基礎づけられる」ことは戦いの成否に直結する要件である。今はたして彼(カ)の党は「楽しくて楽しくて、この時間がいつまでも続くようにみんなが願」っているだろうか。揣摩憶測に満ちる中枢は疑心暗鬼の政党をつくり、専横的な運営は独断的な社会をつくることになるのではないか。○○ファーストはファースト・プライオリティではなく、○○以外の排除だったのかと大きな失望を招きはしないか。
 ロドスから戻ってきた男は大記録を出したと胸を張った。ウソでないならここもロドスだ、ここでも大記録は出るはずだ。でないなら、ここで跳んでいるようにしかロドスでも跳んではいなかったことになる。──またしても“おや??”な人である。 □