伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

ホンマでっか!?

2011年07月29日 | エッセー

 「本当ですか?」は論外として、「うそっ! ホントに?」も「マジで!?」も、「それって、あり!?」も「へぇー!?」もシックリこない。やはり「ホンマでっか!?」しかない。いまや吉本を中心とする関西お笑い軍団が東京を席巻、占領した感があるが、この番組の独特のスタンスはこの関西弁に依る以外表現不能だ。
 知的なお遊び、諧謔性と探求心。トリビアリズムと博覧強記。正論と異論。常識と意外性、専門性。原則と応用、ハウツー。一般論と私論、我見。それらのギリギリの狭間で、「ホンマでっか!?」と括ってしまう。この洒落っ気を多量に含んだ鷹揚さが関西弁の妙味だ。
 出してきた品物が注文と違う。「これではありません」と全否定するのが東京。「これとちがいます(これとちゃいます)」と選択の余地を残すのが関西。商都ならではの言葉遣いである。

 フジテレビ「ホンマでっか!?TV」(毎週水曜日、夜9時~)。これが滅法おもしろい。
 司会は明石屋さんま。パネリストに磯野貴理子、マツコ・デラックス、ブラマヨなどの際物が並ぶ。
 コメンテーターは錚々たるメンバーだ。生物学の池田清彦、環境問題の武田邦彦、脳科学が澤口俊之、政治経済は宮崎哲也、教育の尾木直樹(尾木ママ)、軍事アナリストのテレンス・リー、経済の門倉貴史、イメージアップ戦略の谷澤史子などが一堂に会する。こちらもパネリストを喰うほどの個性派揃いだ。
 はじめは胡乱な番組だと見向きもしなかったが、なにかの拍子で見入ってしまった。毎年この時期、NHKラジオは恒例の「夏休み 子ども 科学 電話相談」を放送する。その伝でいけば、『水曜日 大人 よろず テレビ相談』とでもいえようか。
 なにせ池田清彦氏と言えば、構造主義生物学の大家だ。昆虫採集マニアでもあり、養老孟司御大とは旧いお友達。武田邦彦氏は環境問題のタフな論客。尾木ママは今やすっかり時の人だ。加えて、テレンス・リー。なぜ軍事評論家がいるのか。観れば判るのだが、彼は部門外の回答に妙な傍証役を演じている。これがウソっぽいくせに、なぜか納得を誘う。
 なにより、さんまが嵌まり役だ。タモリだと理屈っぽくなりそうだし、たけしなら大ウソになりかねない。やはり、居並ぶ多士済済を相手にできるのは彼をおいて外にはなかろう。あれほど自分を捨てて掛かる芸人はめったにいるものではないからだ。
 碌でもないバラエティが氾濫する中、どうせならこれぐらい捻らねば『目の肥えた』日本の視聴者にはインパクトがあるまい。ただ、鵜呑みにしてはいけない。「ホンマでっか!?」といなしておかねば、ばかを見る。第一この国は、トップでさえ平気で食言する。辞めるのなんのって、洒落にも冗談にもならない。それこそ、「ホンマでっか!?」だ。□


明日(アシタ)の前に

2011年07月28日 | エッセー

 団塊の世代は大半がリタイアしているのではないか。東洋の古事に倣えば、
〓〓意外にも、四季は春からではなく冬から始まる。東洋の古(イニシエ)の智慧は人生に準(ナゾラ)え、そう教える。 ―― 少年時代が冬。芽吹きの前、亀の如く地を這い力を蓄える時、玄冬だ。20歳から40歳までが春。青龍が雲を得て天翔(アマガケ)る、青春である。続く60歳までは夏。朱雀が群れ躍動する朱夏、盛りの時だ。そして、秋。一季の稔りを悠然と楽しむ白虎、白秋を迎える。〓〓(06年9月、本ブログ「秋、祭りのあと」から) 
 となる。しかし、今の御時世だ。かつ人それぞれに異なる事情を抱える。「白虎」も、「白秋」もさほどに容易ではない。時折、怨嗟に近い声を聞く。自らも胸中に呟くこともある。
 そんな時だ。あの名曲が蘇ってくる。(実は、カラオケの十八番でもある。ここだけの話)


「明日の前に」  作詞/作曲 吉田拓郎
 〽どれだけ歩いたのか 覚えていません
      気づいた時は 風の中
      涙がひとしずく 頬をつたう頃
      淋しい夜だけが むかえに来ました
      あ~あ人生は 流れ星
      いつ果てるともなく さまようだけです
     
      いろんな言葉にまどわされました
      枯葉の舞う音も 覚えています
      一人でいてさえも 悲しい町で
      愛をみつけても 言葉がないんです
      あ~あ人生は 一人芝居
      いつ終わるともなく 続けるだけです
     
      貧しい心で生きてみます
      こわれた夢も抱きしめて
      傷つけあうよりも たしかめあって
      やさしい鳥になり 空へむかいます
      あ~あ人生は はぐれ雲
      いつ消えるともなく 流れて行きます
     
      時には自分をふりかえります
      話しかけます 涙のままで
      あふれる悲しみを笑いに変えて
      さすらう心根を 歌にたくして
      あ~あ人生は めぐりめぐる
      いつ安らぐのかも夢の彼方へ
     
      あ~あ人生は めぐりめぐる
      いつ安らぐのかも夢の彼方へ〽 


 76年、フォーライフでのファースト・アルバム「明日に向って走れ」に収録されている。だが前年の紅白で堺正章が歌っているから、75年以前に彼にトリビュートしたのかもしれない。いずれにせよ、35、6年を遡る。27、8歳、今様にいえば「アラサー」のころだ。
 なんと『枯れた』詩であろう。この枯淡に、ついつい50歳代の作品と見紛ってしまう。早成といってしまえば身も蓋も無いが、ただならぬ才能に今にして驚嘆する。長年月を越えて開けられたタイムカプセルのようだ。
 メロディーには仄かにカントリーが滲む。余談だが、拓郎にはカントリー調の秀作が多い。門外漢には知り得ぬが、奥深いところで通底するのか。あるいは、彼固有の天稟なのか。
 研ナオコがカバーしている。上手に唄いこなす堺正章よりうんといい。抑揚を押し殺した彼女の歌い振りの方がふさわしくもある。

 「明日の前に」とは、「時には自分をふりかえります」であろう。決して「今日」の話ではあるまい(失礼)。
 “ふりかえる”と、禍福は糾える縄のごとしか。さらにふりかえると、浅田次郎氏(日本ペンクラブ会長)作「ハッピー・リタイアメント」が微笑みかけてくる(09年12月、本ブログ「この冬一番のプレゼント」で取り上げた)。展開は実にトリッキーだが、テーマは司馬遷が史記に刻したこの箴言だ。
 氏は自作について、インタビューで次のように語っている。
「『禍福は糾える縄のごとし』と言ってね。悪いことばっかりの人生なんてほとんどない。その逆に、良いことばかりの人生もめったにない。幸福と不幸はどなたでも等量。それが、糾える縄のごとく、良いことがあったり、悪いことがあったり、きれいにいく人もいるけど、人生の前半が悪い糸ばかりで、後半が良い糸ばかりっていう人もいる。かと思うと、その反対もすごく多い。四十までブイブイ言わせていたやつが、くすぶっちゃってどうしようもなくなっている。その逆に、四十までどうしようもなかったやつが妙に跳ねてる。私の年になるとそれがよくわかる」
 その通りであろう。身につまされる。だがあえて付言を許されれば、とどのつまりは大団円ではないか(それがいつだかは判らない妙味ではあるが)。オボコのままではつまらない。ボラとなり、トドで締めくくりたい。今日もまた「明日の前に」と、ふりかえりつつ……。□


二つの別れ

2011年07月26日 | エッセー

 この7月には、二つの印象的な別れがあった。21日にはアトランティスが帰還し、スペースシャトル30年の歩みにピリオドが打たれた。3日後の24日にはアナログTV放送が終了し、こちらは58年の歴史に幕を下ろした。
 スペースシャトルも着想からは57年を経過している。無理無体な勘定だが、ほとんど同じ年季といえなくもない。「水平着陸可能、再使用型宇宙往還機」が開発のコンセプトであった。69年のアポロ11号月面着陸の、なんと前年に研究が開始され、間髪を入れず時のニクソン大統領が正式決定した。なんとも緻密で雄大な計画である。このあたり、この国の底知れぬ強さであり魅力だ。
 2回の失敗を除くと、133回にわたりスペースとのシャトルを成し遂げた。バドミントンの羽根もそうだが、機織りの杼(ヒ)もシャトルという。形からいえば、こちらがふさわしい。もちろん、できた織物はISSだ。米ロを中心とした“I”、インターナショナルの夢が織り込まれている。向後十数年は、ロシアのソユーズ頼みだ。いかなアメリカも、負んぶに抱っこするしかない。いい図ではないか。米ソ冷戦時代が霞んで見える。
 
 24日は日本国中、大騒ぎだった。地デジが現実になった!
 かねてよりわたしは、地デジ化にはラジオ復帰で対抗すると嘯いてきた。だがその昔、わたしは産道に定見、信念の類いを置き忘れてきたらしい。案の定食言し、すでに買い替え、対応済みであった。ただ1台だけ、大事に残しているアナログテレビがある。といよりも、断じて捨てられないのだ。
 『ナショナル Panacolor』である。2段の木製(木彫?)箱型タイプ。角が取れた丸みのあるブラウン管。両サイドがスピーカー。下段はテレビ台を兼ねた観音開きの、ビデオデッキなどを入れる収納ボックス。今ではとんと見かけないタイプだ。あるいは、すでに淘汰されたか。
 ところが、である。同型のテレビが『男はつらいよ』に登場するのだ(型式は不明。しかし何度も見比べて同型であると確かめた)。昭和63年に封切られた第40作「寅次郎サラダ記念日」、秋吉久美子がマドンナを演じた作品である。その作中、お馴染みのとらや(くるまや)の居間に置かれている。──余談ながら、あの居間のテレビは実によく時代を背負(ショ)っている。1、2作ごとに型が変わる。時代の変化を計る大事な舞台装置なのだ。『寅さん』の隠れた魅力だ。──なんとわが家に、その“名機”(同型機)が鎮座ましますのだ。
 だから倹しい和室の隅にはあるものの、どうして「隅に置け」ましょうや。邪険に片付けられましょうや。もはや文化史的遺産、世界遺産とはいわないまでも家宝にはちがいないのだ。お偉方にオーソライズされずとも、他人(ヒト)は見向きもしなくても“一級の文化財”である。自慢ではないが、わが家に金はない。高級調度品も、貴金属の類いも皆無だ。ただしこの文化遺産をもって唯一、最高の誇りとするのである。(エヘン!)
 わが家の“名機”はいたって元気だ。ビデオの再生専用で使おうかとも考えたが、近いうちにチューナーを付けてテレビとしても『復活』させるつもりだ。
 7月24日、『ナショナル Panacolor』に正対して正午を迎えた。カウントダウン……ついにその時が来て、画面はブルーバックに変わった。なぜか、込み上げて来るものがあった。ふと、『テレビが来た日』が過(ヨギ)った。
 翌日、恐る恐る“名機”のスイッチを入れてみた。『サンド・ストーム』である。砂嵐に58年の歴史がかき消されていた。何かの潮目なのだろうか。いや、そうしなければと、しきりに気が急(セ)いた。□


遊語披露

2011年07月23日 | エッセー

 すぐに“疲労”して失せてしまいそうだから、凡愚の脳天に浮かんだ“ことば遊び”のいくつかを急ぎ書き記しておきたい。


■「カンばる」 かんばる(まったく不要ではあろうが、訓みを付ける。以下同様)
 能力も人格もなく鼻つまみなのに、なかなか辞めないこと。地位に恋々としがみつくこと。

■「枝の細道」 えだのほそみち
 進んではみたが、道が先細り、行き止まりのようなので、引き返そうかと悩むこと。

■「間男子」 まだんし
 「間断」なく上司の尻拭いをしつづける人。 (注)間男ではない。

■「万里窮す」 ばんりきゅうす
 昇ったのはいいがハシゴを外されて、大恥をかくこと。

■「あずみに置けない」 あずみにおけない
 意外にも、上司に逆らう気骨があること。

■「与謝野る」 よさのる
 簡単に鞍替えすること。信条や同志的結合に疎いこと。

■「レン掘る」 れんほる
 2番でいいのよといいながら、わが子が1番の通信簿を取り墓穴を掘ること。『人類の進歩』に理解を欠くこと。

■「武ちゃんマン」 たけちゃんまん
 “全部ダメ、早く辞めろ”と、反乱する地位の高い人。北野武ではない。 

■「松ちゃん」 まっちゃん
 高圧的な突っ込みをする人。権力を笠に着て威張り散らす人。ダウンタウンの松本人志とは別人。

■「前払い」 まえはらい
 水を貯めるダムは嫌いなくせに、だれかれとなく献金だけはもらって貯めたため、前方から足を払われた人。もしくは、ガセメールや金でずっこけること。

■「仙石る」 せんごくる
 “先刻”までいたのに、雲隠れすること。何を考え、何をしているのか判らないこと。

■「鳩ぽっぽ」 はとぽっぽ
 まだ、いる人。


 学習効果があるのかないのか、60年安保を筆頭に旧政権党は剥き出しの権力に懲りている。何度も大失敗をしてきたように、生来は金が好きな政党だ。霞ヶ関の扱いにも慣れている。
 ところが、現政権党は金はさほどに好きではないらしい。一部ではこれに目のない人がいて確執もあるが、表向きはそうだ。だが金に淡泊な分、権力はめっぽう好きだ。上から下まで、この政党には権力志向が芬々だ。2年前落とせもしない空手形を切りまくって、やっとこれを手に入れた。だからブンブン振り回す。ろくすっぽな習練もしていないものだから、ついにはてめーの足を斬りつける羽目になった。漫画のような話だ。いつまで、カンばるのやら……。

 クッソ暑い今日この頃、ぼやいてみれば少しは涼しくなろうというもの。……いや、余計に暑くなったか。(漏れも、切り込み不足もある。別案、妙案をいただければ、幸甚、幸甚。)□


盛夏

2011年07月21日 | エッセー

 盛夏。……なぜかときめく。
 わずか二十三度、地球が傾いているために夏になる。その盛りだ。
 
 少年の日、夏にはふんだんに時間があった。夏休みの到来だ。
 紺碧の天空に盛り上がる入道雲。澄明な大気のなかで、山々も高々と聳える。夜空には星々が散り敷かれ、満天が耀(カガヨ)う。
  鰻登りの寒暖計をにらんで、噴き出る汗を拭う。てんこ盛りの西瓜を頬張り、山盛りのかき氷にエイッとばかり匙を挿(サ)す。ころは盛夏、忘れ得ぬ一齣だ。
 何度挑戦しても仕舞いには決まって追いかけられた、山のような宿題。疎ましい憂鬱の種。あれさえなければ、どれほど晴れ晴れしかったことか。
 
 高く舞い上がる花火。盛夏を寿ぐ華の宴だ。夏祭り。年に一度の盛大なひと出。人いきれ。踊りも跳ねる。振る舞い酒。声高な談笑。夜更けてなお、高揚はつづく。
 盆を挟み、人の動きが慌ただしくなる。列車も道路も、下りは溢れるほどだ。ふるさとの匂い。懐かしい顔。地に縁する人がこんなにいたのか……。久闊、そして再会。人の輪が大きく膨らむ。

 野にある草も盛んに生い茂る。夏草だ。

   夏草や 兵どもが 夢の跡

 奥州平泉への訪(オトナ)いが夏だったからではない。陽に焼かれ燃え滾る夏草なればこそ、兵どもの猛々しい息遣いを芭蕉は聴いたのだ。冬枯れた野草では武士(モノノフ)の威風はそよとも吹きはすまい。盛夏が生んだ名句だ。

 東洋の智慧は朱雀を夏に配する。よろずに派手で、利発で、俊敏で、活動的だ。今年もやって来たが、いつもと巷の様子はちがう。それでも声を限りに囀り、朱い羽根を忙しなく動かして自在に飛び回りたいにちがいない。
 人とておなじ。須臾の間(マ)でも、遠い少年の日の盛夏が戻らぬものか。そう、一瞬の夏でいい。□


羹に懲りて膾を吹く

2011年07月20日 | エッセー

 最近、やたらと耳にする言葉に「再生可能エネルギー」がある。ついこないだまでは「自然エネルギー」が盛んに使われていたのに、にわかな宗旨替えであろうか。
 さまざまな仕訳があるが、エネルギーは「枯渇性エネルギー」と「非枯渇性エネルギー」に大別される。
 「枯渇性エネルギー」は、化石エネルギーと原子力エネルギーに2分される。どちらもやがては枯れる。ただその期間ははなはだ異なる。
 これに対し、「非枯渇性エネルギー」は「再生可能エネルギー」とも呼ばれ、自然界の現象をエネルギーに変える。使用後も枯れることはなく、自然界で再生される。枯渇性燃料を代替し、温暖化対策にも資するとされる。「自然エネルギー」「バイオマス エネルギー」「廃棄物エネルギー」に分かたれる。
 自然エネルギーは、太陽光(熱)、風力、水力、潮汐、海流、波力、地熱など。
 バイオマス エネルギーは、なたね油、砂糖きびアルコール、わらアルコール、藻オイルなど。
 廃棄物エネルギーは、ごみ焼却熱、下水汚泥発酵メタンガス、し尿発酵メタンガスなど(政府は現在、これを再生可能エネルギーとはしていない)。
 このうち、自然エネルギーが再生可能エネルギーと同義に使われてきた。後者が一般化したとして、政府はこれを用語とする方針だ。だが研究者の中に、真に再生可能であるのはバイオマスだけだとする異論もある。太陽光、風力の「自然」は使い切りで元には戻らない。電気に転換後は光も風も失せてしまう。無尽蔵ではあるが、再生できるわけではない。循環と再生の理に適うのはバイオマスのみだという。もっともである。
 「エネルギー保存の法則」に照らせば、風力発電とは自然から風を奪うことであり、太陽光発電は地球にまんべんなく降り注ぐ太陽光を奪い太陽エネルギーの循環を寸断することになる。メガ・ソーラーなぞは紛れもない自然破壊だ、との見解もある。さらに、すべての化石燃料を太陽光で代替するには国土面積の1割を占有する必要があるとの試算もある。狭い国土で、はたして可能か。
 時系列は定かでないが、3.11以降頓(トミ)に「再生可能」が声高になってはいないか? 問題を逆に立てると、なぜ「自然」を避けるのか、どうして次数を上げるのか(「再生可能」が「自然」より高次にある)、である。
 以下、邪推をしてみる。
 地球温暖化論議とともに「自然」は金科玉条となった。錦の御旗である。だから、こちらこそ都合がいいはずだ。しかし原発の推進には同じ枯渇性エネルギーでも格段にスパンの短い化石エネルギーの代替と、CO2削減の切り札としての温暖化対策が喧伝されてきた。原発は双方を満足させ、地球の「自然」を護る寵児として一石二鳥の大役を一身に担った形だ。人工の究極的存在である原子力が、皮肉にも逆位の立ち位置を与えらえれたことになる。
 だから「脱原発」には、原発に刷り込まれた「自然」のイメージが邪魔になるのではないか。「自然」を錦の御旗にした国策が自家撞着を問われかねない。これを惧れたのかもしれない。だとすれば、羹に懲りて膾を吹くではないか。とんだ目眩ましだ。
 ところが、もう一つの「膾」を忘れていた。高速増殖炉だ。フランスなどの核先進国が撤退するなかで、日本はあくまで追い続けてきた。「もんじゅ」で足踏みはしているものの、これはどうするのか。ひょっとしたら「膾」どころか、こちらこそ本当の「羹」かもしれぬ。しかも、この夢の炉こそ文字通りの『再生可能』エネルギーだと呼ばわってきたのではないか。この呼称にこだわる限り、またしても自家撞着を来(キタ)す。

 54年国家予算に、はじめて原子力研究開発費が計上され、破格の2億3500万円(ウラン235に因んだという)が付いた。重い腰を蹴り上げられるようにして、日本が原発のとば口に至ったのだ。立役者は若き中曽根康弘氏であった。以後、日本の原発推進の旗を振りつづける。ところが先月、誰あろうその中曽根氏が自然エネルギー派に豹変した。神奈川県主催の経済会議にビデオ・メッセージを寄せ、「原子力には人類に害を及ぼす一面がある。自然の中のエネルギーをいかに手に入れて文化とするかが大事だ。太陽光をさらに活用し、日本を太陽国家にしていきたい」と語った。これぞ、「にわかな宗旨替え」。まさに老いてなお「風見鶏」ではないか。
 先日国会で、菅首相は中曽根氏を「首相を辞めた後は、日本と政治のことを非常に深く考えられている方だ」と、尋常ならざる尊崇の念を披瀝した。なるほど、定見なき政策の漂流は風見鶏の生き写しなのだ。そんなことだから、上記のごとき邪推もついしてみたくなる。□


奇想は跳ねる

2011年07月16日 | エッセー


 「我々は『独立国に外国の軍隊が長期に駐留し続けていることは不自然なことだ』という常識さえ見失いつつあるのではないか。」寺島実郎氏がこう警鐘を鳴らしたのは5年前のことだ。駐留の根拠は日米安保条約にある。
 振り返れば、戦後の国内政治はこの条約に対する立ち位置の鬩(セメ)ぎ合いであった。冷戦は終結しても、「周辺」という新手の脅威を措定して条約は延命した。
 怪我の功名といえば過言になるが、普天間の迷走は日本列島に食い込んだ日米安保の堅牢を逆証明したともいえる。寺島氏のいう「常識」がいかに成し難いものかをわれわれに突き付けてもいる。
 突飛な仮定だが、もしも安保条約の履行が著しく米国の国益に反する事態が発生したらどうだろう。想定を超える状況の変化が起こって、米国が条約を反故にする場合だ。日本を護らないどころか、牙を剥いて襲いかかってきたら、どうする。件の「常識」が最も不幸な形で露わになったとしたら……。想像を絶する出来事は、時として絵空事を超える。
 安保堅持から、即時廃棄、段階的廃棄。かつて喧しかった論議が、近ごろではとんと聞かれぬ。非「常識」がとっくに常識になったのであろうか。
 唐突な「脱原発」宣言に、奇想が跳ねた。原発を駐留米軍に見立てると、「安保、反対!」のシュプレヒコールが微かに甦ってくる。またも、いつもの繰り返しか。まずは常識から詮議しようではないか。□


なでしこジャパン

2011年07月15日 | エッセー


 胸のすく快挙、壮挙だ。女子W杯準決勝。鬱陶しい日本に一陣の涼風が吹き抜けた。
 大和は日本の古称であるから、「なでしこジャパン」とは大和撫子の逆さ読み、和洋合体だ。かといって、「ピンクジャパン」ではまことによろしくない。「ジャパンなでしこ」では落ち着かない。やはりこれしかないか。明治期に、横文字に手古摺る様を皮肉った「ギョエテとは おれのことかと ゲーテ言い」という川柳がある。なんだか一脈通じる可笑し味がある。昨今、男子はますます草食系動物に擬せられ、女子はいよいよ肉食(ニクジキ)の猛禽にメタモルしつつある。なでしこジャパンがその一典型だとすれば、美称との落差がさらにおもしろい。
 日本経済の未開の推進力として女性、別けても専業主婦を代表とする有償労働をしていない女性に着目する識者がいる(藻谷浩介著「デフレの正体」)。女性の有償労働者数は生産年齢人口の実に45%でしかない。なにも外国人労働者を連れて来ることはない。教育水準が高く、もちろん日本語が自由で、高い能力を持つ大和撫子がわんさといるのだ。この層が働くだけで家計所得が増え、税収が増し年金も安定する。内需拡大だ。デフレの元凶ともいえる生産年齢人口の減少は一挙に解決する。デフレへの起死回生策だという。さらに先進国を含め、若い女性が働くと出生率が下がることはなく、むしろ逆に高くなるそうだ。まさに一石二鳥ではないか。TPPよりもこちらの環境整備が急務だ。
 決戦が近づいた。その猛々しい戦いは、草食系に替わる新しいヒーローの登場かもしれない。□


半畳を入れる

2011年07月12日 | エッセー

 冷房設備のない体育館の中に、テントが並ぶ。そこでの寝起き。きっと蒸された空気が澱んでいることだろう。同情を禁じ得ないが、一介の民草にはどうにもならない。こちらもエアコンを切るか? 体感は同じうしても、情を同じうするには至るまい。ならば、まっとうに起居できる境遇に感謝しつつ当方の持ち場を守るしかなかろう。
 拙(マズ)い芸に野次を入れられた太夫が、それも万度(バンタビ)に及ぶと平気になる。「今じゃ、鑓(ヤジリ=野次ること)も食べ慣れた。存外に旨いものだ」と悪態をつく。江戸の落とし噺のひとつだ。なぜかこの太夫、どこかの御仁に似てないか。
 四ケ月を越えて、なお目鼻がつかない。洒落ではなく、半畳を入れた程度の避難所暮らしが続く。赤絨毯の連中はいっかな持ち場を守らない。事ここに至っては、永田町こそ真っ先に冷房を切るべきではないか。扇風機は一部屋に一台。外気を入れるのはいいが、雑音となるゆえに団扇、扇子は自粛。死なれては困るから、百歩譲って飲み水だけはよしとしよう。
 同情するなら金をくれの伝で、復旧への予算の工面に避難所と同じ体感で取り組ませてはどうか。さすれば、よほどに身に染みよう。酷暑で汗みどろの国会審議。甲論乙駁にも早々に決着がつくにちがいない。鑓も精度が勝負。暑くて、慣れるほどには飛ばせまい。芸なしの太夫に旨いなどと能天気を言わせる余裕はない。文字通りの白熱国会。サンデル教授も絶賛だ。□


畑の昆布

2011年07月10日 | エッセー

 各地、異例の速さで梅雨が明けていく。いつもなら陰湿な時季から開放されて昂揚感が沸くところだが、ことしに限っては心中いっかな晴れ渡らない。むしろ、ことさら身構えて季節を跨ぐ。
 電力不足が焦眉の急だ。氷も夏の風物とはいかず、節電と炎暑との攻防戦で踏まねばならぬ薄氷となってしまった。早くも政府は重篤な熱中症に罹ったかのように、エネルギー政策でもふらふらと蹌踉(ヨロボ)いはじめた。
 国会で「恥知らずな史上最低の首相」と断じられたご当人は、「他人に失政を押しつけて責任を免れようとするのは、恥の文化に反する」と射返した。しかし悲しいかな、その矢は的を大きく逸(ソ)れた。
 恥を知るとは、少なくとも言い訳をしないことではないか。彼らが掲げた「政権交代」とは、前政権の「失政」をリカバリーすることではなかったか。つまりは、成り代わって「責任」を取ることではないのか。その覚悟が本物なら、いまさら言い訳も愚癡も無縁なはずだ。「政権交代」の金看板が泣こうというものだ。
 この人物、言い訳、言い逃れだけは一流だ。「責任を免れよう」とは、よく言った。免れまいとするからこそ、一刻も早くその座を明け渡せと旧政権は迫っているのではないか。
 江戸末期の滑稽本に、「尻から剥げる嘘つき」という落とし噺がある。──松前(北海道)の土産に鰊と棒鱈と昆布を船便に託したと、ある男が旦那筋に嘘をつく。荷が届かないと責められ、窮した男は今年は日照りが続いて蝦夷地の畑で鰊や昆布が育たなかったと嘘を重ねる。ついに見透かされて、「背中や尻が剥げてきて、もうここに座っていられんようになった」と這々の体で逃げ帰った。──
 鰊は陸(オカ)で泳いではいない。昆布は畑には生えない。いかに遙かな蝦夷地とはいえ、知れきった嘘だ。早晩、背中も尻も剥げる。だが失せるだけ、この男の方がましともいえる。当今の皆の衆(シ)は『畑の昆布』でまんまと言いくるめられ、挙句、嘘つきには尻が剥げても居座られたままだ。
 容赦ない日差しが続く。棒鱈を作る分にはよかろうが、どっこいとんだ木偶坊では洒落にもならぬ。□


虚仮の一心

2011年07月06日 | エッセー

 7月3日、朝日新聞に興味深い記事が載っていた。要点を抜き出してみる。 
〓〓<ザ・コラム>原子力のゴミ 放射能の時間、人間の時間 
◇地下深くに建設される高レベル放射性廃棄物の処分場がとても危ない場所であることを、どうすれば後世まで伝えられるか。知らずに掘り返したり開けたりすれば、そのときの社会に深刻な被害をまき散らす。
◇1万年、あるいは300世代。それくらい先の人にもわかる方法はないか。同じ長さをさかのぼってみると、石器時代だ。今の言語はどれもすっかり変わっているだろう。絵を残してもどう解釈されるかわからない。
◇パリ郊外の昔ラジウム抽出工場があった町では、放射能のせいで引っ越すはめになった小学校がある。またフランスはラジウム入りの医療器具、化粧品など各種製品を第2次大戦前まで大量に販売した。今では残存放射能が問題になり、監督官庁が追跡している。
◇鳥取県境の人形峠で、放射性を帯びた残土が野となり山となっていた。撤去まで18年もかかった。「忘れる、ほったらかす、行方不明になる、解決にもたつく」事例が、フランスでも日本でも目立つ。1万年どころか、たった数十年でこの有り様だ。
◇放射能の時間と迷走や暴走を繰り返す人間の時間。この二つの時間に折り合いをつけるのは難しい。
◇2009年、米原子力規制委員会(NRC)はネバダ州に計画されている高レベル放射性廃棄物最終処分場について、1万年ではなく100万年後の放射線レベルまで考慮する方針を示した。
◇100万年前といえば、原人ピテカントロプスの時代だ。放射能を管理するために当てにできるものがあるとすれば、それは科学や社会の進歩よりも、ヒトが落ち着いた社会を築ける生物に進化することかもしれない。〓〓

 虚仮の一心で、いまだに核廃棄物の処理にこだわり続けている。かつて2度、テーマにした。初回が07年2月、「奇想、天外へ!」。2度目が本年5月、「昔の伝でなぜいかない?」であった。最初の問いかけ──核廃棄物、もしくは廃棄核兵器をロケットに詰めて、宇宙の果てに飛ばしてはどうか。できれば、ブラックホールめがけて。──を、3年繰り越して受けた形だ。もちろん、フクシマが機縁となった。
 「この類いのプラン、誰かが着想したにちがいない。しかし、俎上に載らないのはなぜか。」との自問自答のいくつかのうち、
〓〓なんらかの倫理観が働いた?
 『宇宙的』倫理観とでもいおうか。宇宙を汚してはいけないという抑制が働いた。ただそうだとすると、なぜ地球はゴミだらけで平気なのか。養老孟司氏の言に、「部屋の掃除をしてキレイになっても、掃除機の中はゴミだらけ」というのがある。大気圏内では、所詮右のモノを左に持って行っただけではないのか。ならばと、大気圏外にぶっ放そうという発想はオカしいのか。〓〓(「奇想、天外へ!」より)
を、再度吟味した。
〓〓地球は「無限性」に満ちていた。なかでも海は、すべてを受け容れるプラネット・アースの「無限」であった。あるいは空も無窮の空間であり、地もまた無尽の母性であった。ありとあらゆる塵芥(チリアクタ)の類(タグイ)はそれら「無限」に向けて放出され、またガイアの懐へ戻された。そこには倫理的抵抗感はなかったはずだ。なにせ、相手は無限で無窮で無尽だったのだから。〓〓(「昔の伝でなぜいかない?」より)
との『地球の無限性』に寄りかかった「昔の伝」──ありとあらゆる塵芥の類はそれら「無限」に向けて放出され、またガイアの懐へ戻された──が、地球的問題群の顕在化とともに使えなくなったと述べた。では、──「無限性」を宇宙にスライドさせ──『無限』の宇宙に放つのか。それは、今や俎上にも載らない。なぜか? 未来学者ローレンス・トーブの洞察を孫引きしつつ、──人類の「霊的成熟」が宇宙処理の技術的失敗という恐怖と打算を超えた──と括った。

 ややこしい話だが、「昔の伝」のうち「ガイアの懐へ戻」す手はいまだに核廃棄物に使われている。というより、今のところ術はこれだけだ。重ねて拙文を引く。
〓〓最終処分とは地中深く埋めることだ。地質を調べ、地下300mの硬い岩盤に封じ込めるのであろうが、どっこい地球には地震というものが起こる。いかな岩盤とて勝てる相手ではない。さすれば早い話、人類は放射能を枕に寝ている仕儀となる。半減期はプルトニウム239が2万4千年、ウラン235は7億年。気が遠くなる数字に、笑ってしまう。
  さて、その半減期である。レントゲン撮影に使うエックス線。これも放射線ではあるが、装置の電源を切ればばそれで終わり。しかし、原発で作られた核分裂生成物はそうはいかない。放射線を出さなくなるまで待つしか手はない。放射性元素の原子数が崩壊によって半減すれば概ね安心できる。これを半減期という。要するに無害化するまでの期間である。〓〓(「奇想、天外へ!」より)
 そこで、冒頭の<ザ・コラム>である。核心は、
 「放射能の時間と迷走や暴走を繰り返す人間の時間。この二つの時間に折り合いをつけるのは難しい。」
の部分ではないか。なにせスパンが違い過ぎる。「1万年、あるいは300世代」どころか、「100万年」3万世代までを想定するとは流石アメリカだと、感心ばかりしてはいられない。話がデカすぎて、壮大なるウソと大差ないともいえる。しかし「半減期はプルトニウム239が2万4千年、ウラン235は7億年」となると、途端に定規の目盛りは変わる。これだけ人間離れした時系軸を前にすると、先日(5月31日「とんでもニュースを見て」)引用した「原発一神教論」も宜なる哉だ。
 太陽の余命があと50億年とすれば、地球のそれもほぼ同じであろう。「7億年もの間、核を枕に寝続けるのか。そのうちに巨大地震でも来て地中の核物質が噴きだし、本物の『猿の惑星』にならないとも限らぬ。」も、あながち痴人説夢とはいえまい。「ヒトが落ち着いた社会を築ける生物に進化する」まで待つか。だが海路の日和はあるのか、ないのか。
 やはり、「最初の問いかけ」にまた戻ってしまう。……虚仮の一心、行きつ戻りつだ。□