伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

贈りものは「大説」

2008年09月27日 | エッセー
 ネットサーフィンをしていると、時として魑魅魍魎の類に遭遇することがある。繁華街で無頼漢に出会(デクワ)すようなものだ。およそ憐れみを誘うほどに夜郎自大な手合いだ。
 こないだも歴史小説の意図するものについて、「司馬遼太郎のごとき知識では分からないだろう …… 」という書き込みがあった。いったい司馬遼太郎を超える博覧強記の士が存在するのであろうか。氏の編んだ対談、鼎談は尋常を超える数だ。当然、相方もその数ほどに多種多様な分野の人物群となる。生半(ナマナカ)な学識で務まるはなしではない。いったいどこが、「ごとき知識」なのであろうか。日本語が読めないのか。それとも病的な、というより自己肥大なる精神の病に冒されているのか。盲、蛇に怖じずか。「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」では、明らかに史記の文意を辱める。燕雀に礼を失するからだ。高山(コウザン)の頂は麓からは瞥見すらできない。高みを信じて登るか、自らの視界で事足れりとするか。自らを相対化する度量なくしては、半歩も進みはしない。

 たとえば「竜馬がゆく」について、あれは『司馬遼太郎の竜馬』であって実像とはちがうという見方がある。 …… 長い引用になるが、まずは以下を御一読願いたい。


「司馬遼太郎の贈りもの」 谷沢永一著 
【智の文学】
 私の見るところ日本近代文学の主導調は人間の情をこまやかに見つめて描きとる方向です。そして、人間の智に相渉ることを嫌った。すくなくとも、智を第一義とはしなかった。それに対して司馬文学は、人間の智を描こうとした。情と智、目ざすところが違った。
 智を描きたいという作家的執念が、題材を歴史にとる、という、それ以外には考えられない筋道に向かわせたのではないかと思います。
 歴史をふりかえれば、幸いなことに、大型人間が数知れず見出せる。智を描くためには、智を体現していたと見倣しても不自然でない豪傑を、つまり『新史太閤記』にいうところの「人間の傑作」を、つぎつぎと探しださなければならない。
 歴史が後世の私たちに遺してくれた畏敬すべき智の実例、そこから智の結晶を取りだす労苦によって、はじめて智を描く方法が成り立ったのだと思います。
 すくなくとも日常生活の茶飯事にかかずらわっていては、智の文学は生まれなかったでしょうね。
 歴史小説家としての技量というか腕前というか、それはもうスゴイの一語に尽きると思います。史上最高です。とびぬけて第一位です。いや、第一位と言ってもまだ足りない。
 智恵を盛る器としては、『論語』のような語録や、プラトンによる対話形式や、司馬遷やへロドトスなど、古代に特有の大河のような史的叙述や、またモンテーニュに発するエッセイなどがあります。
 しかし元来、小説はすくなくとも智を主軸とする表現形式ではないんじゃないでしょうか。その宿命を超えるかのように、司馬さんだけは智の文学をつくりあげた。だから私は例外だと思います。
 抜群のストーリーテラーは智恵を余所見に疾走するし、智恵を主眼とする立場からはストーリーが生まれにくい。司馬さんだけは両者を融合させた。容易には為し難い驚異ですから模倣はできない。 (PHP文庫 96年刊)


 かの吉本隆明を論破した強者・谷沢永一氏のいう「智の文学」とは何であろうか。知識ではない。智慧だ。智慧とは道理を踏まえ物事を的確に処理する精神活動をいう。知識を縦横に駆使する力、ともいえる。知識人から賢人への志向と置き換えてもいい。
 もちろん知識は不要ではない。司馬家の汗牛充棟はつとに有名であり、高さ11メートに及ぶ巨大な書架が、いま「司馬遼太郎記念館」を荘厳する。またその該博は余人の追随を許さない。前記の通りだ。
 また、情は排すべきではない。「街道をゆく」に、氏は綴った。

 
 同国人の居住する地域で地上戦をやるなど、思うだけでも精神が変になりそうだが沖縄ではそれが現実におこなわれ、その戦場に十五万の県民と九万の兵隊が死んだ。
 この戦場における事実群の収録ともいうべき『鉄の暴風』(沖縄タイムズ刊)という本を読んだとき、一晩ねむれなかった記憶がある。(第6巻「沖縄・先島への道」【那覇で】 朝日新聞社刊)  


 終夜ねむれない哀しみを味わうほどの感性なくして、感動の万巻を紡ぐことなどできはしない。情熱に裏打ちされない知性になど、なんの値打ちがあろう。自明の理だ。
 知と情を手挟んでこその、智なのだ。
 「歴史とは、人間がいっぱいつまっている倉庫だが、かびくさくはない。人間で、賑やかすぎるほどの世界である」(集英社文庫『歴史と小説』から)
 氏のこのことばは、実に味わい深い。知と情と智。それらの相関をみごとに言い表している。
 だから「智の文学」とは、少し手垢のついた言い方だが、「人間学」ともいえる。素材は当然、「智を体現していたと見倣しても不自然でない豪傑」、つまりは「人間の傑作」以外にあるまい。逸品は件(クダン)の「倉庫」に秘蔵されている。あとは、氏の桁外れな膂力がガラクタをかき分けてそれを掴み出すのを俟つだけだ。なぜなら、その作業は凡人には到底なし得ない神業に属すからだ。
 したがって、 ―― 『司馬遼太郎の竜馬』であって実像とはちがうという見方 ―― は当たってなくもない。伝記でさえも、自伝ならなおさら「実像とはちがう」であろう。まして生身の人間なら、「実像」なぞ判るわけがない。棺を覆いて事定まる、どころではない。河清とともに川床のあり様(サマ)が透視できるには、やはり百星霜は俟たねばなるまい。その上で、地を這う虫の目による素材の吟味がはじまる。これは「知」の格闘だ。氏の史料への徹した渉猟は高名であり、もはや伝説である。
 ことはそれに停まらない。俯瞰する鳥の目だ。地理的な鳥瞰だけではない。豊穣な歴史の造詣が織りなす時系列の視座だ。まさに時空の両軸に亘る凝視だ。例示の必要はなかろう。司馬作品のすべてが知に溢れ、情が漲り、智が結実する世界だ。

 近現代のアポリアは智を忘れ、知を偏愛したことにある。知にバイアスが掛かると世の進歩がそれに一元化され、随所に齟齬を来たし全体が跛行を余儀なくされる。これも例示の必要はなかろう。押し付けがましい「品格」論議の書割はまさしくそれだ。

 70年、山本周五郎の「樅ノ木は残った」が、NHKの大河ドラマに採用されたこともあり話題となった。「伊達騒動」への新しい解釈を加えたものだ。甲論乙駁した。わたしは当時所属していた学生のサークル誌に、「歴史は動かない」と題する拙文を寄せた。山周の新解釈に賛同する内容であった。まことに舌足らずで恥ずかしい限りだが、この稿でいうところの「智」を提供し得ない歴史小説の無意味を述べたつもりだった。
 史料に忠実であることは当然としても、それには限りがある。「歴史は動かない」 ―― 人知の及ばない深層に歴史があるとしても、さまざまな採掘から種々の鉱脈が発見できるはずだ。過去は動かせないが、歴史のダイナミズムを捉えることはできる。その時、過去は未来を照射する光源となる。「知新」こそ「温故」の目的ではないか。そこに、作者の想像力と創造力が掛かる …… 今にして振り返れば、そんなメッセージを込めたのであろう。

 坪内逍遥が NOVEL を邦訳する際、漢籍を援用した。「小」は日常、民間に通ずる字義がある。かつ著述の形態に縛りはない。それが「小説」である。このことは以前に触れた。
 司馬文学は「日常生活の茶飯事にかかずらわ」ず、「智の文学」として実生(ミショウ)した。それは小説の「宿命」を超える「驚異」の偉業であった。「智恵を盛る器」の完成である。ならば小説ではなく、「大説」の名こそふさわしい。 □


☆☆ 投票は<BOOK MARK>からお入りください ☆☆

委員長の透かしっ屁

2008年09月23日 | エッセー
 臼井日出男。衆議院議員、自民党高村派、千葉1区選出、当選8回、69歳。中央大学経済学部卒、防衛庁長官、法務大臣を経験。先日の自民党総裁選挙で選挙管理委員長を務めた。
 プロフィールをみるかぎり、さほど特異な人物ではなさそうだ。今期で引退かとも囁かれているが、まさか最後っ屁でもあるまい。おそらく御本人は何気なしに放ったのであろうが、これがかなり強力な透かしっ屁だったのである。ただほとんど気付かれてはいないようだ。わたしはたまたまラジオで聴いていた。それだけに直撃を喰らったのかもしれない。
 きのう(9月22日)の記憶をたどりつつ再現してみる。

  ……
臼井 「選挙事務は党職員をもって当たらせます」
  ……
臼井 「まず、投票箱が『クウ』であることを確認してください」
  ……
アナウンサー 「職員が投票箱を開け、壇上の役員、そして会場の参加者に中が『カラ』であることを確かめさせるように持ち上げ、見せています」
臼井 「投票箱、閉鎖」

 いかがであろう。原稿には「投票箱が空である」とあったにちがいない。完全な読み違いとはいえないが、この場合「カラ」が適切ではないだろうか。
 しかし、絶妙ではないか。値千金のひと言ではないか。言い得て妙ではないか。当方も間違いのないようにいえば、的を射た、そして当を得た、かつ正鵠を得た発言ではないか。
 そうなのだ。これで2年連続。『空しく』ないはずがない。出来レースとも、茶番劇ともいわれたこの総裁選。投開票のクライマックスが空々しくないはずがない。投票以前にはたしかにカラ、だが投票後も紙は詰まっていても意味はカラ。あの箱の中に投じられた用紙は、空(クウ)を掴むほどに空虚な紙片に過ぎないのではないか。 ―― 『カラ』では即物的に過ぎる。やはりこの場合、『クウ』でしかあるまい。夢中夢説、すべては空(クウ)。そう考えると、実に文学的表現、発言といえる。一方、今回の総裁選をたった一言で概括、総括、集約した発言であったともいえる。臼井委員長の即妙な『誤読』、いや『読み替え』に脱帽するばかりだ。これを件(クダン)の劇の大団円での放屁、即ち最後っ屁と言わずしてなんと言おう。しかもおとぼけで、人知れず放った透かしっ屁。にくい委員長だ。

 自民党に提案がある。この際、総裁任期は1年とすればどうだろう。そうすれば、野党の喧(カマビス)しい批判はかわせる。なんなら、半年でもいい。ただし、現在の倍の40人以上の推薦者を集めた対抗馬がいなければ自動的に任期は延長されることにする。荒唐無稽と嗤うなかれ。なに、実態にルールを合わせるだけだ。

 投票が終わり、いよいよ開票である。

臼井 「投票箱、『カイサ』」
アナウンサー 「投票箱が開けられ、投票用紙が2メートル四方の机の上に広げられました」
 
 『カイサ』とは何だろう。前述の「閉鎖」から察するに「開鎖」か。しかしこれは誤読ではなく、誤用だ。開・閉の関連で開鎖と使ったのだろうが、開鎖には「開くと閉ざす」の意味しかない。この場合、「開票」で十分だ。それとも伝統ある自民党のタームでもあるのか。音読みすれば物事が厳かになるという効果を狙った浅知恵か。これは臼井委員長ではなく、事務方のミスであろう。

 国政の空白、行政の空転は許されない。ましてや一国のあり方を容易に開鎖できるものでもない。さて、新総裁殿。空振り、空元気で終わらぬよう、切に願う。 □


☆☆ 投票は<BOOK MARK>からお入りください ☆☆

小判、炎上

2008年09月18日 | エッセー
 いつかも書いた。わたしは混ぜ物、練り製品が好きである。原材料の形を留めない食い物が嗜好だ。刺し身よりは蒲鉾。ステーキよりはハム、ソーセージの類だ。焼き肉なぞは石器時代に先祖返りしたようでまったくの苦手である。射止めた獣を寄ってたかって捌き、火にかけて喰らいつく。そんな太古の図が浮かんできて、どうにもいけない。
 そこで、メンチカツだ。分けても、『きたじまメンチ』だ。オリンピック効果が、北京から一気に東京は日暮里に撥ねた。北島康介の実家・精肉店「きたじま」のメンチカツが大人気を博した。本人も好物に挙げたとあって、一時(イットキ)は行列ができ一人2パック限定の売れ行きだった。
 生来、野次馬根性では人後に落ちない。旬の話題で、後塵を拝するを潔しとしない。ともかく、喰いたい。早速、在京の娘を走らせた。翌日には生メンチがクール便で届いた。流通の長足の進歩に喝采だ。
 生来、御人好しでは人後に落ちない。旬の食物で、独り占めを潔しとしない。この人にもあの人にもと配って、結局残ったのは1個だけ。値千金の『小判』だ。
 ところがである。前菜、総菜、きみ愚妻。食卓に載ったその『小判』は、なんと黒焦げではないか! 金子(キンス)の小判ならそれでも値打ちに変わりはない。しかしコロモが炭化するほど火勢にいたぶられたメンチは、総菜を超えたひとつの科学的実験の結末でしかない。泣く泣く小刻みに噛みしめつつ、『実験』前に染み込んでいたであろう味を遠く偲ぶ羽目に。音痴なら嗤って済ませばいいが、料理オンチは始末に負えない。まことに、メンチ、僕ンチ、妻オンチである。

 メンチカツとミンチカツは同じか。これを機に調べてみた。さらに、ハンバーグとの違いも。
 メンチカツとはひき肉つまりはミンチに玉葱を加えて小判の形にし、コロモをつけて揚げた肉料理である。要するに「ミンチ」カツだ。明治期に浅草の洋食屋で発祥したとされる。「ミンチ」が転訛して「メンチ」となった。転訛の経緯(イキサツ)は寡聞にして知らないが、同じものであることは確かだ。
 やがてメンチカツは浪花へ下る。やっかいなことに彼(カ)の地では「メンチ」は語感がよろしくない。「メンチを切る」と言うと「ガン(眼)をつける」、睨みつけることになる。これではケンカが絶えない。そこで関西ではミンチカツと呼ぶようになったらしい。

 それにしても、朝青龍はだれに「メンチを切」っているのであろう。時間前の仕切りで1回。勝ち名乗りを受け手刀(テガタナ)を切って賞金を掴み、さらにもう1回。あれがいいというファンが多い。おそらく、嫌だという人も同じくらいいるだろう。わたしは前者だ。彼の評価は分かれるところだが、期せずして相撲が本来格闘技であることに衆目を引き寄せた点は評価に値する。あのガン飛ばしはその象徴である。柔道がJUDOに変貌したように、相撲がSUMOにメタモルしないとも限らない。立ち返るべきは、格式の前に格闘だ。彼は一個の格闘家として、牢固たる格式にメンチを切っているのかもしれない。

  話を戻そう。片やハンバーグとの違いについては、玉葱の触感にいたるまで甲論乙駁だが、つまるところ揚げるか焼くかのちがいに収まる。人類の歴史は「揚げる」に先だって「焼く」があったはずだ。だが、逆にハンバーグの方に高級感があるのはどうしてか。最も素朴な調理であるステーキが最上位にあり、つづいてハンバーグ、メンチカツはその下位に甘んずる。素朴は難事か。調理法の粗雑と味覚は少なくともパラレルではなさそうだ。

 なにはともあれ、メンチカツは庶民の味だ。下町が似合う。ステーキの豪華さはない。ハンバーグの気取りもない。したがって、安価だ。レストランのメニューで主役を張ることはまずない。これを食って北島が育ち、これを食ってメダルを手にした。わたしが狙えるメダルはもはやないが、せめてメダリストの気分なりとも味わいたい。今回は黒焦げとともにその機会を逸したが、また次がある。それよりも、例のオンチを改善せねば。こちらこそ急ぐ。黒焦げの小判はもう御免だ。 □


☆☆ 投票は<BOOK MARK>からお入りください ☆☆

『貞子』の一撃

2008年09月16日 | エッセー
 浅田(次郎)御大も愛犬の散歩中、この一突きをくらったそうだ。どこだかは忘れたが、随筆「勇気凛凛瑠璃の色」に激痛の体験が綴られている。ドイツでは「魔女の一撃」という。日本名の「ギックリ腰」よりは洒落ている。しかし、痛い。

 10日前、わたしもこの一撃を受けた。こんなにキツイのは7、8年ぶりであろうか。仕事中、椅子から立ち上がろうとした時である。まさに不意を衝かれた。完全に無防備であった。別に重いものを持っていたわけではない。しかし人体のパーツのうち一番の重量物である頭部を含め、上半身を常に支えているのが腰である。つまり、いつも重いものを持っているのだ。これを失念してはならぬ。

 「魔女」といえば、この国では「リング」の山村貞子である。テレビ画面ではなく床からぬぅーと両の手が伸び、否応なしに引きずり込んでいく。『貞子の一撃』である。抗いようがない。蹲って介助の手を待つほかはない。褥に張り付いた3日間を堪え、人類の進化を準えるがごとく二足歩行に挑み、整骨院での責め苦に呻き、やっと人並みに戻れたのが1週間後であった。今もって腰には厳重にコルセットが巻き付けられている。

 わたしのギックリ腰は30数年にも及ぶ年季が入っている。この長年月の経歴はわたしの唯一といっていい誇りだ。寝返り30分という猛攻と幾度も闘ってきた。十全な経験の果てに、近年は筋金も入ってきた。もちろん腰にではないが。それなりに知恵もついてきた。「来るな!」という予兆を捉えるまでに熟練していた。気象庁の緊急地震速報を凌ぐ速さと正確さ。そして迅速、的確に対処し、大過を未然に防いできた。したがって有段者の域を超え、免許皆伝の境地に達しようとしていた。同じ一撃に苦しむ輩(トモガラ)には顔で同情を装いつつ、「オレは免許皆伝だから、そんな無様なことにはならない」と心中せせら笑ってきたものだ。
 ところが、怖いのは慢心である。これは、いけない。こころに慢が忍び入ると油断を誘発する。油断は判断を曇らせる。対処を鈍らせる。排すべきは慢心である。

  むかしインドで王様が臣下に、頭に載せた油壷から一滴もこぼさずに町中(マチナカ)を歩けと命じた。こぼしたら首を断つ、と。「油断」の来由である。「油」と「断」の間を、内容を端折り言葉をくっつけた表現である。正確には『零油断首』か。肝心なのは、断たれるのは油ではなく首である点だ。注意力の散漫が命取りになることのメタファーであろうか。ともかく、慢心による油断。今回の七転八倒はこれに尽きる。

 腰痛に苦しむ日本人は半数以上に上る。分けてもギックリ腰は罹患率が高い。オヤジの権威が失墜したいま『地震 雷 火事 ギックリ腰』ではないか。忘れたころに『貞子』の手は伸びる。ビデオテープをダビングして済む話ではない。第一、いまやDVDの時代だ。 □


☆☆ 投票は<BOOK MARK>からお入りください ☆☆


2008年8月の出来事から

2008年09月07日 | エッセー
<政治>
●福田改造内閣
 「居抜き内閣」として発足した福田政権で初の内閣改造。閣僚17人中13人が交代、自民党幹事長に麻生太郎氏を起用(1日)
●小沢氏3選固まる
 野田佳彦氏が民主党代表選への出馬断念。小沢代表の無投票3選が確実に(22日)
●総合経済対策
 物価高や景気減速を受け、事業規模11兆5千億円の対策を政府・与党が決定。公明党が求めた所得税と個人住民税の定額減税も08年度内の実施を明記した(29日)
●新党「改革クラブ」結成
 渡辺秀央氏ら民主党離党組の参院議員を中心に4人で旗揚げ(29日)
―― いずれも9月1日の『政変』でニュースバリューが著しく低減した。

<国際>
●中国でもギョーザ中毒
 日本で被害を出した天洋食品製のギョーザを食べた中国人が同じ農薬成分による中毒を起こしていたことが発覚(6日)。中国当局は内部犯行の可能性が高いとみて、集中捜査を始めた。
―― 展開も含め、大方の予想通りではないか。

●グルジア紛争
 分離独立を目指す南オセチア自治州にグルジア軍が進攻すると、分離派と関係の深いロシアも軍事介入(8日)。ロシアは同自治州とアブハジア自治共和国の独立を承認、欧米と対立を深めた(26日)
―― グルジアの前大統領はシェワルナゼ氏だ。ゴルビーとタッグを組み、旧ソ連で新思考外交を推進した名外相である。氏はインタビューに答え、「米国がミサイル防衛(MD)にこだわる限り、ロシアは今回のような強硬措置を取り続けるだろう」と語った。明瞭で骨太な分析である。
 MDは対ロシアではなく対イランだと強弁しても、この国の民族的本能をなだめることはできない。それにしてもMDは『保安官』ブッシュの余計な置き土産だ。
 さらに同氏は「現在の米ロ関係は『新冷戦時代』であり、ロシアのグルジア派兵は、その一例に過ぎない」と述べている。こんな先祖返りは御免被りたい。

●アフガニスタンで邦人拉致
 東部ジャララバード近郊でNGOペシャワ一ル会の伊藤和也さん(31)を武装グループが拉致(26日)。翌日遺体が見つかった。
―― わが身を厭わず現地に貢献している人に対してなんと惨いことを。 …… それは同感だ。しかし社会的攪乱を狙うテロリストにとって、そういう人こそ最大の邪魔者なのだという現実がある。人間を手段化する忌まわしい逆転の思想を抱えた勢力があることもまた現実だ。

●米民主党大統領候補にオバマ氏
 米民主党全国大会で初のアフリカ系大統領候補に指名。副大統領候補にバイデン上院議員を選出(27日)
―― 9月1日付拙稿で触れた。

<社会>
●北京五輪開催
 第29回競技会には史上最多の204力国・地域から選手、役員約1万6千人が参加。日本が9個の金メダルを獲得。中国が51個を手にして初のトップに(8~24日)
―― 先月8日と24日、開会と閉会の日に、2度話題にした。2年後には「上海万博」が控える。東京オリンピックから大阪万博までが6年。テンポは速いが、軌を一にした歩みだ。こんどは長丁場である。治安を含め「進歩」が問われる。
 なお、北島康介の「なんも言えねぇー」は4年前の「チョーうれしい!」を凌ぐ。ことしの「流行語」大賞、最右翼だ。ただ上には上で、「あなたとは違うんです!」という強力なライバルがついこの前現れた。どちらが勝つか、「なんも言えねぇー」

●大分県教委、採用取り消し決める
 教員採用汚職事件を受け、08年度に採用された教員のうち21人が得点のかさ上げで不正に合格したとし、9月上旬めどに(29日)
―― 前稿で触れた。

<哀悼>
●赤塚不二夫さん(漫画家)72歳(2日)
―― 8月7日、朝日は次のように伝えた。
〓〓赤塚不二夫さん葬儀  
 マンガ家の赤塚不二夫さんの葬儀が、7日午前10時半から東京都中野区の宝仙寺で営まれた。交流のあったマンガ家や芸能人、ファンら約1200人が、「ギャグの神様」との別れを惜しんだ。
 祭壇には穏やかな表情の遺影とともに「天才バカボン」「ひみつのアッコちゃん」などのキャラクターの絵が飾られた。ひつぎには、原稿用紙や鉛筆、愛猫「菊千代」との写真などが納められた。
 赤塚さんに才能を見いだされたタレントのタモリさんが弔辞を読んだ。「あなたは生活のすべてがギャグでした。あるがままを肯定し、受け入れ、人間を重苦しい陰の世界から解放しました。すなわち『これでいいのだ』と。私もあなたの数多くの作品の一つです」と声を震わせた。〓〓
 九州で「発掘」したタモリを世に送り出すため、東京のわが事務所に住まわせる。自由に使わせ、冷蔵庫にはいつもビールが整然と並んでいる。減ればいつの間にか補充されている。当の家主は仕事場のソファーで寝る。そんな生活が1年以上も続いたそうだ。つとに有名な逸話である。ただ礼を言ったことは一度もない。これは知る人ぞ知る話だ。弔辞の中でそのことに触れた。言えば他人行儀になる、だから避けた。「だが、いまは言います。『ありがとうございました』と」
 「私もあなたの数多くの作品の一つです」これも、いい言葉だ。さすがはタモリだ。
 「さすが」はもうひとつあって、手に持った弔辞は白紙だったとのこと。アドリブを身上とし、話芸に新しい地平を開いた芸人の矜恃か。数時間後の「笑っていいとも」 …… なにごともなくいつもと変わらぬタモリがいた。

● 河野澄子さん(松本サリン事件被害者)60歳(5日)
―― 河野義行さんは妻の看病と冤罪との戦いという二重の苦悩と向き合った。「わが家にとっての松本サリン事件の終わる日というのは、妻が治った日、あるいは死んだ日。ですから松本サリン事件は、これで終わった日になる」とのコメントは印象的だ。法的な決着ではひと一人の人生は償えない。
 法治国家で発生したみっともない冤罪である。捜査力とマスコミのふたつの貧困がある。「千人の真犯人を逃すとも一人の冤罪者を生むなかれ」との大原則に、再度襟を正すべきであろう。
 夫の無実をだれよりもはっきりと知っていたのは、妻の澄子さんであったにちがいない。ただそれを表現する能力を奪われたのが悲しい。
※朝日「8月の出来事」には取り上げられていない

(朝日新聞に掲載される「<先>月の出来事」のうち、いくつかを取り上げました。見出しとまとめはそのまま引用しました。 ―― 以下は欠片 筆)

◇◇◇「出来事」とは直接関係ないが、今月の朝日新聞の中から注目すべき記事を抄録してみた。(一部割愛)
〓〓「わかりやすく」の危うさ  鷲田清一さんに聞く  (8月4日付)
 「わかりやすさ」が人気だ。政治の世界でも教育の場でも。でも、何でも「わかりやすく」でいいのだろうか。危うさは?
<苅部>複雑なはずの問題について、正否を単純に断じる議論を「わかりやすい」と歓迎する風潮が、政治の領域をはじめ、世の中にあります。
<鷲田>我々の社会は一種のサービス社会です。サービスに対して要求度が高くなり、ユーザーとしてクレームをつけるようになりました。
 「わかる」とか「わかりやすさ」には2種類あると思います。一つは、ふだん漠然と思っていることや、もやもやと考えていたことを、他人が別の言葉でポンと言ってくれ、認めてくれる。だからベストセラーになるんです。安心できるんですね。もう一つは、わかっていたつもりのことが全部ちゃらになる。一から組み替えないといけない、と突きつけられる。
<苅部>前者は、小泉元首相にみられたワン・フレーズ・ポリティクスにも通じますね。
<鷲田>彼が使う言葉は、国民の多くが日常の中で感じていたものです。その強度を上げて、ややこしいものは全部抜きにして、ドンと出す。ニュアンスや複雑さへの配慮をあえてせず、それが社会で受けるところに、何か人々の深いいらだちや暴力性の澱を感じます。じゃあ、後者のわかりやすさがいいかというと、こっちも危ない。全部語り直すというのは、幼稚というか性急というか。世界を全部変えてしまおう、みたいな……。
 思考の熱狂をあおっちゃいけないんです。どんな時代でも、誰もが反対しにくい思想があると思うんですが、今ほどそれが並列でいっぱいある時代は珍しいのでは。エコっていうと反エコは言えないし、クールビズも私は抵抗したけどだめ。
 結論が出なくてもいい、出ないまま、それでも決定しなければならないのが私たちの社会生活だとすると、それをしばらく延期するところがあってもいい。気が晴れない、もやもやしている、そういう時に人は「わかりたい」って思うんだけど、「わかった!」っていうカタルシスを求めてしまうと、問題設定も答えも歪んでしまう。
<苅部>異なる価値や利益を追求する者どうしが、どうやって共存するか。それが政治の役割だとするなら、当然、討論や調整に時間がかかることになる。その手間を省き、とにかく「民意」に沿ったように見える決定を、手あたり次第に行うのは政治の自殺でしょう。世論調査の結果に合わせて政策を打ち出し、人気を得る方法もたしかに民主的ではある。でも、そこで前提とされる「民意」が、本当に人々が思っている内容なのか。全体の利益と重なるのか。その検討が飛ばされてしまう。
<鷲田>すべてが説明できるとは限らないという苦痛をヒリヒリと感じ、息を詰めていないといけないということもあるんです。わからないことへの感受性をどう持ち続けるか。答えを急いで出さず、問いを最後まで引き受ける。じっくり考えたり、寝かせたり。すぐにわかろうとしないで、機が熟すのをじっと待つ。それも大切じゃないでしょうか。
※わしだ・きよかず 49年京都市生まれ。大阪大教授などを経て07年から阪大総長。専門は哲学、倫理学。近年は現実社会の諸問題をその発生の現場から思考する「臨床哲学」を試みている。著書に「ちぐはぐな身体」「普通をだれも教えてくれない」「『聴く』ことの力」「『待つ』ということ」「思考のエシックス」など。
※かるべ・ただし 65年生まれ。東大教授。日本政治思想史。〓〓
―― これは非常に重要な警鐘ではなかろうか。特に、ワン・フレーズ・ポリティクスの危険性、ポピュリズムの欺瞞性、思考の熱狂への危惧。中吊り広告のキャッチコピーはティピィカルだ。それらの象徴でもある。
 電車だけに止まらず世のすべてが中吊り化しつつあるとしたら、まことに猥雑で殺伐とした風景ではないか。

〓〓天声人語  (8月13日付)
▼日本人の07年の平均寿命が過去最長を更新した。女性は23年続けて世界一の85.99歳、男性も3位の79.19歳。▼三大死因のがん、心臓、脳の病で亡くなる人が減っているそうだ。医療や年金制度のほころびで「長生き地獄」とまで言われるが、長寿そのものは古今東西を問わぬ喜びであろう▼女優の桃井かおりさん(57)が、過日の毎日新聞で「こじゃれた長生き」について語っていた。「わたし、死んだら死体の役で使ってほしいの。そこまで俳優やりたいのね……120歳ぐらいまで生きたら性別もなくなって、おじいさんもできるかもしれないし」〓〓
―― 桃井かおりの発言は実に凄みがある。このように肚の据わった役者はちかごろ絶えて久しい。「長生き地獄」を乗り切る秘伝は、このような心構えにあるのかもしれない。
 それにしても、小学校一回り分の男女差はどうしたことか。きわめて生物学的事由によるものか。日本で女性の平均寿命が延び始めたのは水道の普及に符節を合わせるそうだ。おとこの寿命を延伸させるのは何の普及によるのだろう。メタボ退治や禁煙でないことを切に願う。

〓〓かっこつけ方「団塊」に学べ  (8月21日付)
残間 里江子プロデューサー  
 幼いころから多くの仲間とひしめき合って生きてきた団塊世代にとって、自然に身についたコミューン(共同体)的な感覚が冷たい風(不況、先行きの不透明感:筆者)にも吹き飛ばされないという自信を支えている。
 奇妙な自信のもう一つの支えは、貧乏の体験だ。高度経済成長を担った団塊世代には、経済の谷底にずっとうごめいてきたという記憶はない。だが、物心つくころは、戦後の貧しい光景があちこちに広がっていた。飢餓も含めて、貧乏や困窮の味は、疑似体験にせよ誰もが知っている。団塊の人たちにとって、これから吹きつけるだろう冷たい風も、人生のスタート時の大変さに比べれば物の数に入らないと思えてしまうのだ。
 団塊世代の価値観の軸は、カッコいいか悪いか。分かれ目は知的(に見える)かどうかだ。自分の感性や考え方に共鳴してくれるはずの友人が、カッコいいと評価するか、どうか。この(単純な)価値観が、冷たい風に抗するのに意外と力を発揮するのではないか。こんな経済情勢下で「富裕層の皆様に」などというささやきかけに乗るのは、まことにカッコ悪い。みんなが生活に苦労しているのに、自分だけがいい目にあっていると感じるのは、本当にカッコ悪い。そう思うのはまさに、暮らしを身の丈サイズに合わせる団塊の知恵だと思う。
 明日は檜になろうとずっと思い続けてきた団塊世代は、同時に「ダメでもともと」の潔さももっている。団塊にとって、ともに座右の銘である「あすなろ」と「ダメもと」は、格差に苦しむ若い世代にとっても希望の言葉となるのではないか。
※50年生まれ。アナウンサーや雑誌編集者を経て独立。生活・地域振興やマーケティングなどに詳しい。〓〓
―― NHK第1放送、土曜日午前中の「どよう楽市」のパーソナリティーをしている。「生意気なヤツだな」という印象をもっていたが、書いていることはもっと生意気だ。当たっているだけに …… 。

〓〓エコブームについて 【国民に道徳を押しつけるな】  (8月31日付)
養老孟司さん 東京大学名誉教授
 エコがブームになっている最近の状況を見て、気になってしょうがないことがある。それは、官僚や政治家が国民に対し、「もっと省エネを」「環境のために我慢を」などと説教をしたり道徳を強調したりしている点だ。「欲しがりません、勝つまでは」と国民に言わせた、戦時中の精神運動を思い起こしてしまう。
 地球温暖化対策として政府は今、「二酸化炭素を1人1日1キロ減らそう」と国民に呼びかけ、省エネ型家電への買い替えやクールビズなどのキャンペーンにお金をかけている。
 僕も温暖化に関係する政府の会議のメンバーを務めていたとき、環境省から「委員自らが削減に協力を」と、リストを渡された。目を通すと、「ハイブリッド車に乗り換え、屋根に太陽光発電装置を取り付けるのが効果的」という結論になっていた。どうして、そこまで企業に「奉仕」しなければならないのだろうか。
 そもそも、買い替えを進めることは「環境に優しい」のだろうか。買い替え前のモノはゴミになるし、再利用や再資源化されたとしても輸送や処理過程で相当のエネルギーが使われる。車の場合、乗る回数を減らす方が環境にいいはずだ。環境への負荷がトータルでどう変わるのかわからないまま買い替えを促進することは、大量消費・大量廃棄にもつながりかねず、これほど効果不明の「怪しい」対策はない。
 温暖化の責任を消費者にかぶせる風潮も問題だ。1970年代のオイルショックのとき、国民は省エネに取り組み、つつましく生きた。今振り返れば、省エネ型の社会に変わるチャンスだった。しかしその後、石油が安くなると車や冷蔵庫がどんどん大型化し、宅配便やコンビニといった業界が急成長した。国全体が経済成長と便利な暮らしを目指した結果、エネルギー消費が増えてしまった。それなのに、今になって官僚たちが「国民の努力が足りない」と言い出してキャンペーンに必死になるのは、責任逃れにほかならない。
 また、精神運動によって支えられたエコブームは、問題の本質をゆがめてしまう。世界の政治リーダーたちが本当に世界中の二酸化炭素を減らしたいなら、石油に対して、消費の抑制よりも生産調整に取り組むべきだ。消費の抑制は、自分が節約した分をだれかが「いいように」使ってしまえば、効果がないからだ。
 石油の生産量を毎年1%減らして50年後の半減を目指すといった、「もとを断つ」総量規制の方が単純で確実だ。しかしリーダーたちは消費抑制という不確実な手法に逃げ込んでいる。その方が自分たちにとって楽だからで、本気になっていない証拠だ。その結果として国民が道徳を押しつけられている。これが今のエコブームの姿である。
 もちろん省エネは必要である。しかし、国民が精神運動に突き進んで自己規制するような社会は、ストレスがかかって何とも息苦しい。官僚や政治家が今やるべきことは、国民への説教という楽な道を選ぶことではなく、国際交渉の場で堂々と生産調整を主張するといった、本気の対策に乗り出すことだ。〓〓
―― 責任転嫁、精神運動、総量規制。まさに「一刀両断」である。この、身も蓋もなさが氏の魅力だ。
 前掲の「思考の熱狂をあおっちゃいけない」との鷲田総長の重い警句を踏まえる時、養老氏の存在はまことに貴重だ。沸点を回避する冷却水となり、潮流に抗して定点を守る錨ともなる。 □


☆☆ 投票は<BOOK MARK>からお入りください ☆☆

セプテンバー・クレイジー!!

2008年09月02日 | エッセー
 9月1日、夕飯を食いながらNHKのテレビニュースを見ていた。始業式の日である。当然、注目は大分県だ。

〓〓大分県の教員採用をめぐる汚職事件で逮捕された元校長の長男で、採用取り消しの対象となった男性教師が勤めていた大分市の小学校で2学期の始業式が行われ、校長が教師が辞めることを児童に説明しました。
 大分県の教員採用をめぐる汚職事件で、大分県教育委員会は、ことし採用した小学校や中学校の教師ら21人を対象に不正が確認されたとして採用の取り消しを決めています。
 このうち、贈賄の罪で起訴された佐伯市の小学校の元校長、浅利幾美被告の長男が勤めていた大分市の小学校で、2学期の始業式が行われ、式に先立って校長が「先生は都合で仕事を辞めることになりました」と児童に説明しました。
 長男は、5年生の担任をしていましたが、夏休み中にみずから退職し、児童たちに母親が自分の合格のためにわいろを贈ったことなど事件について詳しく話したということです。
 始業式のあと、長男が担任をしていたクラスの児童が体育館に残り、校長が新しい担任の教師を紹介し「きょうから新しい歴史が始まります。歴史をつくるのは皆さん自身です」と話して、前向きな気持ちで2学期を迎えようと呼びかけました。〓〓(正確を期すため、NHKオンラインニュースから引用)

 たまらず吹き出した。まさに噴飯物だ。そして、無性に腹が立ってきた。この発言は許せない。堅白同異も極まれりではないか。
 「きょうから新しい歴史が始まります。歴史をつくるのは皆さん自身です」とはなにごとか! 「お前、気は確かか!」と叫びたくなった。マスコミの取材に大向うを意識したのか。それはともかく、この校長は頭がおかしくなったにちがいない。エイプリル・フールならぬ「セプテンバー・クレイジー」だ。
 「歴史」とはなにか。歴史に汚点を残したのはお前たちだろう。大人たちではないか! しかもその中の選良たる教師たちだ。校長よ、その大人たちの代表として、まずお前が児童たちに詫びよ。大人社会の醜さを率直に反省し、児童たちに無用の気遣いをさせたその非を謝するべきではないか。
 「新しい歴史」とはなにか。汚点や膿はすべて清算できたのか。聞くところによれば、高校の採用はもっとひどい実態らしいが、いまだにメスは入っていない。汚れた歴史に蓋をして、なにが「新しい」歴史だ! 
 歴史を「つくる」とはなにか。なぜ「皆さん自身」なのだ? 出直すべきは、お前たちの方ではないか! なにを血迷っている。無辜の子どもたちに、なにを押し付けようというのか。責任転嫁にもほどがある。

 中国戦国時代の思想家に公孫竜がいる。いわゆるソフィストである。白馬は馬に非ず、と言った。白とは色、馬とは動物。二つを繋いだ白馬は馬の概念とは違う、と。同じ伝で、堅いのは触覚、白いのは視覚。二つは別々の感覚であるから、「堅くて同時に白い石」は成り立たぬと言った。「堅白同異」の来由である。のちに詭弁を暴かれ、追放され憤死した。
 件の校長、公孫竜を地で行くか。ならば、末路は見えている。
 学校は何のためにあるのか。教師は誰のためにいるのか。すべては子供たちのためだ。決してその逆ではあり得ない。原点はこれ以外にない。ここを御座なりにした時、すべてに齟齬をきたす。

 不機嫌な顔でテレビを観ていると、荊妻が福田首相辞任の速報に素頓狂な声を挙げた。セプテンバー・クレイジーの次はセプテンバー・サプライズか。賑やかなことだ。 □


☆☆ 投票は<BOOK MARK>からお入りください ☆☆

『アメリカ オリンピック』が始まる

2008年09月01日 | エッセー
 ウサイン・ボルトが胸をポンとひとつ叩き両手を拡げてゴールを駆け抜ける。9秒7の壁を破る9秒69、ワールドレコードで圧勝。北京五輪、名場面のひとつだ。「だから、どうした?」と訊かれれば二の句が継げない。ところが、こちらの決勝は「だから、どうした?」では済まない。なぜなら ――
 「アメリカは大きな国だ。そのトップを選ぶにも1年をかけてじっくり練り上げる。さらに世界最強の国だ。プレジデントはオーバーキルの核ボタンを握る。いわば人類の生殺与奪の権を掌中にしている。その人物を選ぶ権利が他国には認められていない。これはおかしいとの議論がある。もっともなことである。夢想に属する話だが、核保有国のトップは自国民のみならず、他国民も挙(コゾ)って選出する仕組みを考えるべきだ。国連事務総長とは訳が違う。なにせ世界の死命を制する人物である。他人事ではない。」(2月3日付本ブログ「2008年1月の出来事から」)
 北京は28競技、参加国204、選手数は1万人。こちらは1競技、2人きりの競り合いだ。たがその結果は優に204ヶ国を超え、地球規模の影響を及ぼす。同じく4年に一度の開催。問題は、前記のごとく参加国が米国だけに限られることである。
 先日、予選は終わった。あとは11月の決勝。ひとりの人間が全米の、否、実質的に全世界の政治的頂点を目指す。バラク・オバマが勝てば初めてのアフリカ系大統領の誕生だ。I Have a Dream ―― 45年前ワシントンDCのリンカーン記念公園でマーチン・ルーサー・キングが語ったその夢が、ひとつの結実を迎えるかも知れない。「夢」はキングの夢であると同時に、人類の夢でもあろう。米国史を画すだけではなく、世界史にエポックを穿つ出来事となるだろう。

 オバマは演説の名手と評される。筆者、日本の生活が長すぎて原語では理解がゆかぬ。そこで、新聞報道を便(ヨスガ)に事情を探ってみる。
〓〓米民主党の大統領候補に指名され、米史上初のアフリカ系(黒人)大統領をめざすバラク・オバマ上院議員(47)は同党全国大会最終日の28日夜(日本時間29日午前)、コロラド州デンバーのフットボール競技場で8万人余りの観衆を前に指名受諾演説を行った。「米国をチェンジ(変革)する時だ」と訴え、ブッシュ政権の8年間との決別を呼びかけた。
■ オバマ演説 5つのキーワード  
①PROMISE(約束)32回
 「アメリカの精神、アメリカの約束こそが、今後の道が確かでない時も我々を前進させ、違いを乗り越えて結束させてきた」
②CHANGE(変革)17回
 「いまこそ我々がアメリカを変革する時だ。そして、それこそが私が合衆国大統領に立候補している理由だ」
③WORK(働く、労働)35回
 「懸命に働き・奉仕し・文句を言わない。それが私の知っている米国人たちだ」
④FAMILY(家庭、家族)11回
 「勤勉さと自己犠牲を通じ、個人が自分の夢を追求しつつ、『ひとつの米国』という家族として結束でき、次世代の夢も保証できる ―― そうしたアメリカの約束こそが、この国を際だたせてきた」
⑤WASHINGTON(ワシントン=既存政治の意で)11回
 「我々が必要とする変革はワシントンからは来ない。変革がワシントンに来るのだ」
※28日の指名受諾演説から。単語の回数は複数形や派生語を含む。〓〓(08年8月30日付朝日新聞から)

①「約束」
 メイ・フラワー号でアメリカ大陸へ渡ったピルグリム・ファーザーズにとって、アメリカは「約束の地」であった。ピューリタンたちが旧約聖書の「出エジプト記」を再現した、宗教の名による入植であった。この肇国の歴史はアメリカの琴線である。「アメリカの精神、アメリカの約束」とは、すなわちそのことだ。神に授けられた国が最も繁栄し、世界に冠たる地位を占めることは救いの証となる。32回登場した「約束」は、8万の聴衆はもとより全米の人びとの琴線に触れる言葉だ。見事に勘所をおさえている。
②「変革」
 予備選からのキャッチフレーズだ。同じワン・フレーズでも。どこかの宰相のそれとは一味も二味もちがう。直接的には8年ぶりの民主党政権の復活を指す。二大政党制の良質な部分が機能するかかどうか。皮肉にも、変革を可能にしたのは『世界の保安官』ブッシュその人だ。
③「労働」
 サブプライム問題に象徴されるアメリカ経済の陰りが背景にある。失業率が8%を超える州も出てきた。虚業、マネーゲームから目覚めよ、とのメッセージも滲ませたのか。罪深き人間は質素に暮らし、ひたすら勤勉であり、隣人愛に生きる。それでこそ神の救いはある。極めて宗教的なトーンだ。だが世界のパラダイム・シフトをどう捉え、どう処するのか。一筋縄ではいかない難問が横たわる。
④「家族」
 これもピューリタニズムに裏打ちされたメッセージだ。新味というか、首をひねるのは、「『ひとつの米国』という家族」のフレーズ。ミシェル夫人も演説のテーマを「ワン・ネーション(1つの国家)」にするらしい。
 ひっかかるのは国を家族に準(ナゾラ)え、ネーションと呼ぶ点だ。司馬遼太郎はかつて講演の中で次のように語った。
 〓〓地生えの国がありますね。日本もそうですし、韓国も昔から国です。フランスもスペインもイギリスも、たいていは地生えできています。一方でアメリカ合衆国のように人工的につくられた国もあります。地生えの国々をネーションと呼び、人工的につくった、つまり法によってつくられた国をステートと呼ぶことにします。もっとも、ネーションとして始まった国々もやがてステートにならざるをえなくなります。フランス革命以後、国家というのは、一個の法人であり、憲法その他の法律により、隅々まで治められる。それが近代国家というものでした。〓〓
 まさか先祖返りではあるまい。アメリカ国籍を持つ人はいても、「アメリカ人」はいないと、よく耳にする。ネイティヴはインディアンだけだ。それでも敢えて「家族」で括り、「ネーション」と呼びかける。それほどにこの国の骨格は弛んでいるのであろうか。
⑤「ワシントン」
 ②と同義である。「変革はワシントンからは来ない。変革がワシントンに来るのだ」は、いかにも「アメリカ」だ。永田町の連中がこんなフレーズを口にしても、キザかギャグでしかなかろう。
 オバマの弱点は経験不足とされる。これはバイデンを副大統領候補に据えることで補えると読んだ。しかし、「ワシントン」との自家撞着はないか。
 さらに、マケインの健闘だ。ここにきて、にわかに接戦の様相を呈してきた。一部の分析によると、ヒラリー・クリントン支持者の27%がマケイン支持に回ったらしい。これがマケイン急追の実態だそうだ。敵の敵は味方、これもいかにも「アメリカ」だ。

 オバマはケニア移民を父としスウェーデン系白人を母として、米本土ではなくハワイで生まれた。幼少期を再婚した母親と義父の国インドネシアで送り、コロンビア大、ハーバード大学へと進む。卒業後は人権派弁護士として名を挙げ、社会運動に参加。04年、上院議員に当選した。黒人奴隷の末裔でも、アメリカンドリームの体現者でもない。言わばハーフで、エリートコースの完走者である。ほとんどのアメリカ人にとって共感の土壌はないだろう。だからこそ、「アメリカ」を言挙したのかもしれない。① ③ ④は特にそうだ。小憎いほどに巧みだ。さらにこの出自が巷間に浸透すれば、初の黒人大統領に拒絶反応を示す1割弱の米国民にどう影響するか。『障害物競走』は予断を許さない。

 「アメリカでは薪割り下男と大統領と同格であるというぞ。わしは日本を、そういう国にしたいのだ」
 「桂さん、幕府はどうしたって倒さなければいけない。なぜかといえば、アメリカの大統領は、下女の給料の心配をしてるんですよ。日本の将軍で、下女の給料を心配した者が一人としてありますか。これだけでも、徳川幕府は倒すべきです」
 司馬遼太郎著「竜馬がゆく」に登場する坂本竜馬のことばだ。英傑の直感は見事に民主主義の本質を捉えた。彼は将来に大統領制を構想していたという。なんと気宇壮大な。このような人物を歴史にもちえたことは一国の誇りである。あとは宗家が竜馬の理想を裏切らぬよう願うばかりだ。

 いよいよ始まる『アメリカ オリンピック』! 胸をポンとひとつ叩き両手を拡げてゴールを駆け抜けるのは、はたしてどちらか。 □


☆☆ 投票は<BOOK MARK>からお入りください ☆☆