伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

討ち入り、その後

2022年12月24日 | エッセー

 先日の稿「酢豆腐の討ち入り」で「時は元禄十五年十二月十四日 江戸の夜風をふるわせて 響くは山鹿流儀の陣太鼓……」と三波春夫の『俵星玄蕃』を冒頭に引いた。三波の曲は「いざ、討ち入り」で終わるのだが、大団円はどうなったか。遂に本懐を遂げた四十七士は浅野家の菩提寺である泉岳寺の主君の墓前に吉良の首を供え焼香したことになっている。『東京とりっぷ』には「その後、吉良上野介の首は泉岳寺の僧が吉良家に届けています」とある。
 そのようにして「確信された一思想の実践」(小林秀雄)は完結し、「宗教的祭祀としての討入り」(丸谷才一)は成就した。
 本質的にはそうなのだが、史実はちがう。
 今週の朝日新聞「新書ベストテン」3位に入った歴史学者 磯田道史著「日本史を暴く」で、氏は討ち入り後の謎を見事に暴いて見せた。古文書発見への抑え難い興奮の裡にそれは語られる。以下、抄録。
〈浪士達は、まず名乗ってから焼香。小脇差を取り、上野介の首に三度当て、脇差を元の所へ置いて退」く儀式を一人ひとりがはじめた。
 浪士達は、墓石を生きている主君に見立て、吉良の首を取らせる介助のしぐさを繰り返した。その時、内蔵助が放った言葉をここで初めて完全解読しよう。「上野介殿宅へ推参。上野介殿のお供をしてここまできた。この合口は尊君の過日の御秘蔵で我らに下さったもの。只今、進上します。墓下に尊霊があれば、御手を下され欝慢を遂げてください」。つまり吉良邸討ち入りはまだ手段の段階で、大石達の最終目的は墓石を主君に見立て吉良の首に手を下させる「首切り切断」の挙行にあった。今後書かれる忠臣蔵はラストシーンが変わってくるに違いない。〉
 件(クダン)の「儀式」は一見残酷ではあるが、ギリギリ様式化されたものであったろう。儀式化は激情を整序する。しかし、今は絶えて無い。令和4年を振り返って、そう痛感する。 □