といっても吉田沙保里のことではない。旧稿を引く。
〈ついぞ凡人が考えもしないことを大まじめに考えるのが学者というものであろう。「赤ん坊はなぜかわいいのか?」を探究したのがアメリカの言語学者ノーム・チョムスキー氏であった(もっとも赤ん坊の時から小憎いほどの面相であれば、すでに救いがたいのだが。)。(15年7月「首を振らないハト??」から)
チョムスキー氏はインタビューでこう応えている。
〈ほとんどの種では、幼児は早くから独り立ちするのに対し、人間の幼児は非常に長い期間親に頼って育ちます。その理由として挙げられているのは、人間の脳が急速に大きくなる一方、女性が無事にお産をするためには、赤ちゃんの脳の大きさには限界がある。したがって、子供が生まれてからの成長期間が長くなって、子供は自立するのに時間がかかる。そうなると、大人が世話したくなるような何かを子供が持っている必要がある。当然、進化は、思わず抱き上げたくなるような、世話をしたくなるような姿をした子供に有利になり、彼らが選択されて残っていく。もしそういう気持ちが大人に起こらなければ、子供や幼児は死んでしまいますから。「かわいい子」という表現があるように、大人をして世話をしたくなるようにさせる何かを、幼児は持っているんですね。〉(NHK出版新書「知の逆転」から)
人間は脳が勝負である。進化とともに大きくなったが、二足歩行に伴って母体の腰が小さくなり産道がはなはだ狭くなってしまった。脳の成長を待つと産道を通過できなくなる。そこで頃合いのところでお出まし願うことになった。それでも母子ともに命がけの難産である。人類の宿命ともいえる。雑把に言えば、みんな未熟児で産まれてくる。だから「子供は自立するのに時間がかかる」。しかも産むのも人手を借りねばならず、新生児を育てるのも同様だ。となれば、「大人が世話したくなるような何かを子供が持っている必要」があり、「思わず抱き上げたくなるような、世話をしたくなるような姿」、つまり「かわいい子」として世に現れ出(イ)ずる──。そういうことだろう。
画蛇添足を恐れずにいうと、赤ん坊は「かわいい子」であると同時に『霊長類最強』でもある。人為をまったく纏わない天衣無縫。小さい態(ナリ)のくせに大人を翻弄する。泣こうものなら、おむつか、いや乳かと周りはきりきり舞い。笑おうものなら、一発で大人をしてでれでれの腑抜けにしてしまう。なんとも憎いほどの人心収攬の凄技であることか。まさに「霊長類最強」とはこのことだ。
百聞は一見にしかずという。だが、写真や動画では「一見」に当たらない。実物を見るのが「一見」である。先日、娘の娘と初見参となった。実物は、やっぱり「霊長類最強女子」であった。 □