伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

仮想通貨 愚考

2018年01月29日 | エッセー

 出川哲朗クンをイジ゙ってやるのはかわいそうだ。事務所が取ってきた仕事を忠実にこなしたまでで、ザリガニの代わりに今度はNEM(仮想通貨)に鼻を噛まれただけだ。
 〈仮想通貨取引所「コインチェック」(東京都渋谷区)から顧客資産の仮想通貨「NEM(ネム)」580億円分が不正アクセスで流出した問題で、金融庁は29日午前、同社に改正資金決済法に基づく業務改善命令を出した。巨額の顧客資産の流出を許したコインチェックの管理体制に不備があったと金融庁は問題視しており、抜本的な立て直しを厳しく迫る。〉
 と朝日は伝える。大方は鼻を噛まれるというより、鼻をつままれたようなニュースであろう。稿者とて同様、何のことやら中身がよく見えない。ハッキング被害であることは判る。だが高名なビットコインと同じく、“NEM”がよく掴めない。カードでないのは察しがつくが、仮想通貨そのものが腑に落ちない。
 ヨーロッパ中央銀行の定義によれば、仮想通貨とは「未制御だが、特殊なバーチャルコミュニティで受け入れられた電子マネー」のことらしい。「未制御」つまり「中央銀行や公権力により発行されたものでない」ので、「法定通貨としての価値を持たないもの」ということになる。日本では一昨年できた前記の「新資金決済法」では「物品を購入し、若しくは借り受け、又は役務の提供を受ける場合に、これらの代価の弁済のために不特定の者に対して使用することができ、かつ、不特定の者を相手方として購入及び売却を行うことができる財産的価値であって、電子情報処理組織を用いて移転することができるもの」と定義されている。
 まだ隔靴掻痒。そこで旧稿が浮かんだ。08年10月「きほんの『き』」から長い引用をしてみる。
 〈 …… と整理するならば、注目すべきは「物品貨幣」だ。なぜなら、ここで、大きな飛躍が起こっているからだ。どんなに優秀なチンパンジーでも叶わない飛躍だ。二足歩行の開始に匹敵する壮挙である。はなしを四捨五入してみる。
   ―― Aは漁で鮭を獲った。鮭がほしかったBは貝殻と鮭を交換した。Aはその貝殻でCの持っていた鶏と交換した。『鮭 → 貝殻 → 鶏』の連鎖である。この中に、三つの重要な論点がある。
  一つ目は、鮭が鶏に変わる『マジック』が起こったこと。超魔術師・Mr.マリックなぞ足元にも及ばない超弩級のマジックである。この魔術は人類以外には断じて成し得ない。『二足歩行に匹敵する』人類史的進化である。この魔法は人間の生活に革命的変化をもたらした。
  二つ目に、魔法のタネは貝殻という異質のモノであったことである。鮭と鶏は喰えるが、貝殻は喰えない。貝殻自体にはほとんど値打ちはない。鮭および鶏の値打ちを象徴し代替するモノとしてある。鮭から貝殻、貝殻から鶏。そこに『大きな飛躍』があり、幻想性が潜む。つまり、猫に小判。いかな愛猫であっても、幻想性を共有することは叶わぬ。『人類以外には断じて成し得ない』幻想の共有があった。『つまるところ、カネ(金)はイリュージョンではないか 』という筆者の問題意識はここに起因する。
  三つ目に、『信用の環(ワ)』があったこと。実はこれこそが核心である。貝殻の幻想性を超えるものとして信頼関係があった。Bの持っていた貝殻をCを含む他人が物資の交換手段として受け入れてくれる、とAは信じた。これが前提である。この信頼が魔法を喚んだ。ところが、信頼は時として裏切られる。だから、信用の行為には『賭け』がつきまとう。たとえば、貝殻には祟りがあるという噂が流れたとする。だれも受け取らなくなった貝殻は、たちまちにして貨幣としての機能を失う。幻想性を帯したモノを信用することは賭けでもあるのだ。
  物品貨幣としての貝殻は物資そのものではない。決して鮭でも鶏でもない。さらに貝殻ですらない。だから、実体を装う幻想である。幻想に寄りかかることは無から有を産むこと。つまりは『マジック』であり、同時に『賭け』である。幻想は時として誇大する。そこに危険が宿り、諸悪の根源となる。
 先日、ある記事が目に留まった。「経済危機の行方」と題する、東大経済学部教授・岩井 克人氏の小論である。以下、抜粋。
──資本主義全体が投機であり、本質的に不安定だと私が考えるのは、実は資本主義を支える貨幣それ自体が純粋な投機と考えるからだ。貨幣の存在は、物々交換の手間をはぶき、経済を大いに効率化した。しかし、貨幣それ自身に、本質的な価値はない。それを何かと交換に他の人が受け取ってくれると予想し、また、その人も他人が受け取ってくれると予想しているから、持っているにすぎない。だから、隠された形ではあるが、貨幣自体が投機なのであって、結局、貨幣の信用は「みんなが貨幣であると思っているから貨幣だ」という自己循環論法で支えられているにすぎない。そう考えると、貨幣は効率化をもたらすが、半面、大変な不安定をもたらす可能性をも持つ二律背反的な存在になる。──(10月17日付朝日新聞)
  「貨幣それ自体が純粋な投機」 ――
 目から鱗である。霞が晴れた。だから、本質を剔抉してくれる学者はありがたい。貨幣が『幻想性を帯したモノ』である以上、それを『信用することは賭けでもある』。賭け、すなわち投機は不安定だからこそ成り立つ。一寸先が闇だからこそ機会を投げるのだ。貨幣は生来、「効率化」と「不安定」化の「二律背反的な存在」としてある。この「貨幣の純粋な投機としての不安定性の問題」を克服する、貨幣に替わるなにものかは出現するのだろうか。世紀を跨ぐ課題であろう。電子マネーの試みはあるが、所詮は貨幣の代替物でしかない。イリュージョンが転位しただけだ。〉
 一つ目の「鮭が鶏に変わる『マジック』が起こったこと」、二つ目の「魔法のタネは貝殻という異質のモノであったこと」の2点については人類の属性として不変である。「『人類以外には断じて成し得ない』幻想の共有」である。ちょうど去年の今日拙稿で紹介したハラリの「サピエンス全史」で、核心だと指摘した『認知革命』そのものである。これがなかったらすべては始まらなかった。「異質のモノ」がついに『異次元のコト』に移った。ネットという電子空間を往き来する電子情報になった。「三つ目に、『信用の環(ワ)』があったこと」。これは「特殊なバーチャルコミュニティ」に当たる。
 と、準ると「きほんの『き』」に変わりはないということになる。さらに岩井教授が指摘した「貨幣それ自体が純粋な投機」であり、「効率化をもたらすが、半面、大変な不安定をもたらす」こともそのままである。仮想通貨が投機の対象になる道理である。
 してみると、「仮想通貨」が掴めないのはどうも「仮想」なる2文字で煙に巻かれたのではないか。通貨の正体は同じなのだ。
 仮想通貨を保管するネット上の場所をウォレットという。長財布のことだ。当然紙幣を連想させる。小銭入れや巾着とは似ても似つかない。稿者のような持たざる者にとっては端っから馴染みがないわけだ。 □


病跡学から

2018年01月24日 | エッセー

 前稿のつながりで黒澤時代劇を挙げると、どうしても『影武者』が真っ先に浮かぶ。主演の差し替えが話題を呼び、ストーリーの巧みさと壮大なスケールで不朽の名作となった。天下取りを目前にして斃れた武田信玄の物語である。
 映画では敵から狙撃されて亡くなるのだが、実際は病死であった。病を押して出陣した三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍に大勝した後、いよいよ信長を挟撃しようとした矢先に朝倉義景が撤退してしまう。袋の鼠にしようとした信長を取り逃がしてしまったのだ。この朝倉の寝返りに悲憤慷慨したことで信玄の病状は一挙に悪化し死に至った。
 さてその病だが、結核、胃潰瘍、胃癌、肝硬変と諸説ある。その中で、病跡学のマエストロである若林利光氏は胃潰瘍の可能性が最も高いとする(PHP新書『戦国武将の病が歴史を動かした』)。病跡学とは歴史に名を残した人物の病気とその業績との関連を解析する学問である。フィジカルな痕跡は辿りようがない。古文書を渉猟し医学的な推論を重ねていく。信玄側近の手紙には「肺肝を苦しむ」とあり、結核説が浮上。『甲陽軍鑑』には「膈(カク)」とあり、みぞおちの痛みを伴うストレス由来の胃潰瘍が疑われる。あるいは酒豪ゆえの肝硬変も大いにありうる。が、ともあれ若林氏は、
「胃がんよりも、吐血のない時は平常状態を保てる、つまり症状に変動のある胃潰瘍であったという説に分がある。また、精神的な大ショックの直後の悪化ということからも、ストレスにより悪化しやすい胃潰瘍の可能性の方が高いと考えるのが妥当ではないだろうか」(上掲書より)
 と胃潰瘍説を採る。だからどうしたと言う向きもあろうが、歴史の主人公が人間である以上疾病が生涯を、別けてもその切所を左右し寿命を握るのは道理であろう。一概に病とはいっても、種類によって病態は異なる。VIPであればなおのこと、その違いは歴史に大きな「跡」を刻む。病跡学が重要となる所以だ。
 信長、秀吉に続き遂に戦国の覇者となった家康最大の武器は74歳という健康長寿であった。武田信玄53歳、上杉謙信49歳、加藤清正50歳、池田輝政50歳、その他名立たる武将はほとんどが50を後先に病で世を去っている。寿命の差が戦国という修羅場で決定的な要因となっている。「病が歴史を動かした」ことに疑いはない。
 天下分け目の関ヶ原。東軍勝利の決定打は西軍・小早川軍の叛逆であった。戦前に内通はしていたものの決断に時間がかかった経緯に若林氏は着目して、こう語る。
 〈小早川秀秋は精神異常の果てに死んだという説があるが、興味本位と切り捨てることはできない。むしろ真実を伝えている可能性が高い。なぜなら肝硬変があると、肝臓で脳に有害な物質の代謝がうまく行われなくなって、肝性脳症といわれる脳の障害が起こるからである。そのため、精神に異常を来すことがあるのだ。秀秋に若くして肝硬変があったのはまぎれもない事実で、これが重要なのだが、秀秋は関ヶ原の戦いの時には、すでに肝性脳症のために判断能力が低下していたと考えられるのだ。家康の天下を生んだのは、小早川秀秋のアルコール性肝硬変だった。〉(上掲書より抄録)
 さて、刻下永田町では俄に憲法改正が政治日程化してきた。アンバイ君は2020年施行と大見得を切っている。逆算すれば、今年9月の総裁選で3選され年内に発議し来春までに国民投票といきたい。来年は天皇退・即位のビッグイベントや統一選、参院選、10月からの消費税10%があり、3分の2超を維持できるかどうか危なっかしい。だから今のうちにと、異様に前のめりになっているらしい。だが、それだけであろうか。ここで持病の潰瘍性大腸炎を持ち出すのは穿ち過ぎか。確かに治療法が進み一生の宿痾とはいえなくなっている。しかし、17歳からの持病がそう易々と完治したとは考えずらい。寛解にとどまっているのではないか。何らの根拠もない憶測ではあるが、小早川秀秋の故事を知るにつけ悪い連想が頭を過ぎった。疾患は違えど、病が思慮を阻碍する例として。病は気からというが、気は病からもありではないか。アンバイ君は後継世代に2つの負の遺産を残そうとしている。1つは膨大な借金の山。そしてもう1つは戦争の危機だ。一国の船頭が己の痼疾ゆえに舵を切り損ねたとなれば、万死をもっても報いがたい。どうか如上の連想が杞憂であることを切に願う。 □ 


『用心棒』復活

2018年01月18日 | エッセー

 中学のころ、映画館の近くに住んでいた。ある時広告用に大きな湯飲みが配られて、わが家にも1つ届いていた。胴に「用心棒」と黒々と書かれていた。なんだか凄いらしいとは聞いたが、それきりだった。映画館で実物を観たのは学生時代である。完膚なきまでに打ちのめされた。爾来、熱烈な黒澤ファンであり続けている。
 ついおとつい、朝日新聞出版から隔週刊『黒澤明DVDコレクション』が創刊された。没後20年を迎える世界のクロサワ。その全30作品が復刻される。毎号、作品を多角的に紹介するマガジンが付く。まさか購読しない手はない。その第1号が『用心棒』である。もう何回目になるだろう。ゆんべは確か5、6回目の『用心棒』に見入った。
 昨年5月拙稿「チャンバラ映画」で、木村拓哉主演の『無限の住人』を評する中で『用心棒』に触れた。
 〈“用心棒”といえば、黒澤映画『用心棒』が想起される。主演は三船敏郎。モノクロながら迫真の殺陣は未だに脳裏から離れない。当時異色の時代劇だった。というか、東映を軸とするチャンバラ時代劇を一刀両断したエポックメーキングな作品であった。台詞も当時としては随分現代風だった。
 世界のクロサワと比較するのは可哀相だが、今風が極まると先祖返りしてしまうのかと苦笑してしまった。なんのことはない、チャンバラ映画だ。意匠は今風でも、まことにえげつないチャンチャンバラバラだ。斬り落とされた手首はモノクロだけに『用心棒』の方がむしろリアルだ。なにより役者の腰が低い。謙虚のそれではなく、フィジカルに低い。
「テレビ出身の人の歩幅はどうしても狭くなるんですが、映画の人の歩幅は大きいんです。」
 今年1月に亡くなった松方弘樹の言葉である。朝日の連載コラム「折々のことば」で哲学者の鷲田清一氏が紹介していた。
 当時、三船は41歳。木村は当年44歳。育ってきた畑が違うとはいえ、その存在感は悲しいくらい違う。〉(抄録)
 あらためて如上の愚考が間違いではなかったことに意を強くした。殺陣、リアルな絵面、腰の低さ、歩幅、三船の圧倒的な存在感。どんな世界でも名作は色褪せない。創作の刹那に、すでにして古典だ。
 マガジンがいい。仲代達矢が駆け出しのころ、『七人の侍』にエキストラで採用された。たった3秒の通行人である。ところが黒澤から徹底的にダメ出しされ、大恥をかくことに。2度と黒澤作品には出ないと固く意を決して6年。売れてきたころ、声がかかった。何度も断るが、遂には監督から直々に呼び出され出演を強要される。それが『用心棒』であった。
 そうインタビューで仲代が語る。さらに彼が監督に『用心棒』のモティーフを訊ねたところ、
「俺はヤクザが大嫌いなんだ。でも、警察に任せていたってヤクザはいなくならないだろう。だからヤクザ同士を喧嘩させて、全滅させるっていうのが発想だよ」
 と応じたそうだ。これで胸にストンと落ちた。喉に刺さっていた小骨が抜けた。
 黒澤は作品に常に社会への問いかけを込めていたはずだ。社会的イシューを離れて、『用心棒』を通途に「エンターテインメント時代劇の最高傑作」と括ったのではなにか腑に落ちない。隔靴掻痒であった。それが氷解した。『用心棒』のドラマツルギーがやっと見えた。
 戦後山口組の全国展開に伴って、縄張り争い、仇討ち、跡目争いなどヤクザは血塗られた抗争を繰り返してきた。中でも『仁義なき戦い』のモデルとなった第1次広島抗争は1950年頃から始まっている。監督の炯眼に映らないはずはない。絵面がリアルなだけではなく、実は中身もリアルだった。役立たずの岡っ引き、ヤクザと八州廻りとの癒着。「警察に任せていたって」が際立ってくる。作品の豪放磊落が深刻なメタファーを包んだというべきか。鈍感な稿者なぞは能天気にエンターテインメントに酔いしれていたということになる。しかしそれこそが映画の骨法ともいえるのではあるが。
 監督はもちろん、三船を始め山田五十鈴、東野英次郎、志村喬、司葉子、藤原鎌足、加藤大介などほとんどの出演者は生者の列を離れた。残っているのは仲代一人ではなかろうか。55年とはまことに永い。だが作品は時代を跨ぎ、世紀を超えて生きつづける。今もって桑畑三十郎は砂塵の中に現れ、ワルたちを斬りまくり、そして肩で別れを告げ、去って行く。いつだってそうだ。役者名利に尽きるというものだろう。 □


スポーツおバカ その3

2018年01月13日 | エッセー

 ドーピング・トラップなるものが起こった。日本では初めてだという。ドーピングについては16年1月に「スポーツおバカ」と題し、
「心身二元論が勝利至上主義に背中を押された時、薬物ドーピングも技術ドーピングも鎌首をもたげる」
 と述べた。キー・センテンスはタモリの名言、煙草の警告表示を捩った「健康のためスポーツのし過ぎに注意しましょう」であった。
 同年4月には「スポーツおバカ その2」として愚考を呵した。
 〈今年のスポーツ界。2月は清原のおクスリ、3月は巨人の野球賭博、4月はバドミントンの闇カジノと事件が相次いだ。例によってスポーツおバカなアナリストたちが囂しく講釈を垂れているが、どれもこれも本質を外した脳天気な与太話ばかりだ。
 核心は、スポーツは人格の陶冶にいささかも資するものではない、という一事に尽きる。その一事を極めて解りやすい形で提示した教訓的事例である。巷間に流布せられた『スポーツ万歳』の鼻を明かした快事ともいえる。〉
 件(クダン)の箴言は「人生のためスポーツのし過ぎに注意しましょう」とマイナーチェンジした。
 そして今回である。
 嫉妬心には「ジェラシー型」と「エンビー型」があるとされる。「アイツには負けたくない」と競争心を燃やし、追いつき追い越そうするのは前者。アイツを引きずり下ろしてオレの優位を守ろうとするのが後者。明と暗、前向きと後ろ向き、成熟と未熟といえよう。S君の場合はもちろん後者のエンビー型嫉妬である。内田 樹氏は、
「競争的環境では相対的な優劣を競います。つまり、自分が優れているということと、他者が劣っていることは、結果的には同じ意味になります。であれば、自分以外の人間ができるだけ無能で愚鈍であることを願うことは避けがたい」(岩波書店「『意地悪』化する日本」)
 と語る。「競争的環境」が先鋭化したものが勝利至上主義であろう。だから、事ここに至ったのは不思議ではない。自然の成り行きといえなくもない。ドーピングを巡るルールでいけば、もはや自ら身を守るほかないらしい。油断禁物、もう練習場から水筒の管理をせねばならない。いやはや難儀で滑稽な話だ。他人(ヒト)を疑わねばスポーツは始まらない。まことに、「人生のためスポーツのし過ぎに注意しましょう」ではないか。
 フィジカルに限らず、メンタルにおいても能天気に「スポーツ万歳」とはいかない。巧拙優劣を競うものである以上、勝利至上主義が属性として付き纏う。そのことを夢寐にも忘れるわけにはいかない。そこを迂回すると、とたんに「スポーツおバカ」に成り下がる。
 大相撲にも過剰適応の挙句に勝利至上主義の毒に塗れた力士がいる。横審は彼が多用する張り差し、かち上げに注意を喚起した。それに関し先日テレビで、北野たけしが「ルールで禁じられていないのだから、文句つける方がおかしい」と反論していた。ちょっと待て、だ。意図的かどうか、たけしは「禁じ手」と混同している。禁じ手はもちろん御法度だ。ならば、禁じ手以外は許されるのか。そうではあるまい。「武士は食わねど高楊枝」である。あえて自ら横綱相撲という「高楊枝」を使ってみせるところに大相撲最高位の意地と誇りがある。横審はそういっているのではないか。張り差し、かち上げは下位挑戦者の奇襲戦法だ。かといって、ランク別に技の適否が決められているわけではない。そんなことは当たり前だ。ややっこしくていけない。子どもじゃあるまいに。だからそれは大人の判断だろ、という話ではないか。横綱は大人の中の大人だ。ウソかほんとか、ともあれそういう前提で綱を張っているはずだ。それが解らないなら綱の資格はない。たけしのロジックは稚拙というほかない。喧嘩論法で危なっかしい。
 ドーピング・トラップというエンビー型嫉妬に張り差し、かち上げの勝利至上主義。「スポーツおバカ」の跳梁跋扈に要注意だ。 □


初春2冊

2018年01月08日 | エッセー

 食い意地が張っているためか、年明けすぐに読んだのは食に関する讀物だった。法政大学教授でコンテンツツーリズム学会会長の増渕敏之氏による『おにぎりと日本人』(洋泉社、昨年12月刊)である。
 石川県にある弥生時代の遺跡からおにぎりは出土している。約2千年前だ。稲作の伝来と時を同じくする。つまり、米食と同時におにぎりはにぎられ始めたことになる。
 おにぎりは神への供え物を出自とし、ついで兵士の携行食となり、やがて大衆化していった。まずはその歴史を語る。「むすぶ」とは? 梅干し、味噌、塩、海苔の来由と出会い。「おにぎり」か「おむすび」か。自衛隊にまでつながる軍隊とおにぎりの縁。陸軍と海軍の違い、白米への拘り、アスリート泣かせのハンガーノック(低血糖症)への即効性、寿司とのアナロジー、運動会と遠足との因縁など興味深い話題が続く。垂涎の展開だ。
 形の4類型と具の地域性。“コンビニおにぎり”を生んだセブンイレブンの挑戦とツナマヨ誕生秘話。括りには、全国統一を成し遂げたコンビニおにぎりが地域性を取り込みつつ多様化している現状を伝える。これに関しては、15年8月の拙稿『これは革命だ!』で取り上げたローソンの「てっぺん盛り」が一例であろう。
 ともあれ、国民食ともいうべきおにぎりに実に多様な視点から論攷が加えられている好著である。別けても刮目したのは、同じく米を食文化の主軸とする中国、韓国におにぎりがなかったという考察である。最近は受け入れられつつあるようだが、長らく嫌われる食べ物だった。氏はこう述べる
 〈中国人の感覚からすると、おにぎりは、非常に賤しい、あるいは貧しい食べ物に映るらしいのだ。施しを受けるものが受け取る、食べ物以前の食事、あるいは災害などの非常時にやむを得ず食べるもの、という感じだ。まずは、米を素手で触ることである。また、「冷や飯」を食べるなど冗談ではないという。そして、中国は箸の発明により、人類でもっとも早い時期に手食を捨てた文明である。中国に近い朝鮮半島も似たようなものだったろうと想像される。中国人がおにぎりを苦手とする理由は、冷えているからだ。冷えた米を食べる習慣は、中国にはない。韓国も基本的には同じである。〉(上掲書より抄録)
 これは意外だ。少なくともつい最近まで、おにぎりは日本にしか存在しなかったことになる。源氏物語にも登場するおにぎりは、太古より世界に冠たる日本のファストフードであった。トランジスタだけではなく、弥生の代(ヨ)から日本人は創意と工夫に富んでいたわけだ。大いに意を強くした初春(ハツハル)の一書であった。
 ところが、もう1冊はそうはいかない。こちらは心胆を寒からしめる一書となった。真山 仁著『オペレーションZ』(新潮社、昨年10月刊)。サイトにはこう紹介されている。
 〈国の借金は千兆円を超え、基礎的財政収支は赤字が続く。国債が市場で吸収されなくなった時、ヘッジファンドが国債を売り浴びせた時、国家破綻は現実となる。総理は「オペレーションZ」の発動を決断し、密命を帯びたチームOZは「歳出半減」という不可能なミッションに挑む。官僚の抵抗、世論の反発、メディアの攻撃、内部の裏切り者──。日本の未来に不可欠な大手術は成功するのか? 明日にも起こる危機。未曾有の超大型エンターテインメント!〉
 著者は新聞記者、フリーライターを経て、04年『ハゲタカ』でデビュー。同シリーズはドラマ化され、大きな話題を呼んだ。その他著書多数。東日本大震災や原発などに材を取り日本の課題を問いかけ続けている。氏は朝日新聞のインタビューでこう語っている(新年号)。
「お金が足りないのだから削りましょう。国民にも我慢してもらいましょう、ということです。我々は没落貴族で、もう荘園はなく、ワンルームに住んでいて預金も封鎖されるかもしれないような状況なのです。小説で極端なことを書くことで『確かにこれは問題だ。そこまで予算を削減するならば、増税してくれ』という国民の声を待っていたんですけどね……。
 原発事故のときのように、財政問題でも『だまされた』とか『知らなかった』と言わせたくないのです。今を生きることは大切だけれど、人間は未来に何かを残すために生きています。最初に誰かが言わないと、誰も動かない。小説家として、自分たちの世代の責任として、真剣に伝え続けたいと思っています」
 「2025問題」は昨年8月『未来の年表』で触れた。団塊の世代は「没落貴族」の中心にいる。もう「知らなかった」では済まされない。まことに重い小説だ。
 荒唐無稽などではない。エビデンスがしっかりした物語だ。いわばノンフィクションと表裏をなすフィクションとでもいえよう。登場人物は、あああれだな、とピンとくるものばかり。だました張本人である前総理や最後に寝返る財務大臣、ふむふむアイツだなとよく判る。官僚の名は知らずとも類型としてマエカワさんもサガワくんもキャスティングされている。ところが、当の主人公である江島内閣総理大臣が永田町に見当たらないのだ。まったくいない。一人として心当たりがない。だからフィクションだともいえるし、ことの至難さを象徴しているともいえる。ここだけが唯一のフィクションだ。この欠落こそが日本国のデフォルトのメタファーかもしれない。
 「オペレーションZ」は成るか、日本のデフォルトは回避されるのか。結末は……それはいえない。本屋でもAmazonにでも、どうぞご随意に。あるいはダチョウ倶楽部よろしく「聞いてないよォ!」(古い!)でいきますか? 
 なんにせよ、新春の2冊。嬉しくもあり嬉しくもなしであった。 □


謹賀新年

2018年01月01日 | エッセー

 AFLACがCMで犬将軍を使っていると聞いて取り止めた年賀状の原案があります。保険屋から剽窃したとなっては癪でございます。とはいっても結構気に入っておりましたのでお蔵入りは忍び難く、本稿に載せることにしました。

 

 このイラストに添えようとしたコメントは以下の通りです。

    外にも「犬公方」の代(ヨ)、
  日本の人口シェアは世界一(五%)でした!
  人類の二十人に一人が日本人。
  マンパワーに溢れていました。
  また「生類憐れみの令」と
  武器の厳格な管理は
  命を慈しみ暴力を防ぎ
  徳川三百年の太平を堅固にしました。
  綱吉は名君だったと近年再評価されています。 
  今を生きる私達も後世にしかと遺る
  歩みを刻んでいきたいものです。


 犬つながりといえば、「上野の西郷さん」を忘れるわけにはいきません。見たことも見ることもありませんが今年の大河は西郷さんだとか。 

    

    明治新政府への不満がくすぶる中、
  西郷は反政府のヒーローとして人気が高まりました。
  そこで新政府が打った奇手が、
  帝国憲法発布に合わせた大赦による名誉回復でした。
    さらに、持ち上がった銅像建立に一工夫。
  それが大きな髭を剃り、軍服ではなく着流しに犬を連れての散歩姿。
  勇壮な英雄は人畜無害な「上野の西郷さん」にメタモルしました。


 「歴史は勝者がつくる」といいます。名君は暗君に。スーパースターは巷のアイドルに。さらに、その逆も。真に必要なものは複眼と鳥瞰(去年の干支から)の視座。朝日の元旦号で経済学者と対談した藤井聡太四段は、
「AIの強さが絶対的になっても、『なぜその手を選んだのか』という過程は説明できません。それを言語化することも、棋士の役割の一つになると思います」
 と語りました。これは指し手の解説との意味に止まりません。AIに本質的に欠けるメタ認知を突いているともいえます。中学生、畏るべし。光は未来世代にありです。

 戌年のはじめにちょいと遠吠えをしてみました。前後しましたが、新年のお祝いを申し上げ、皆さまにとって幸多き一年でありますようお祈りいたします。
 稿者 拝 □