このブログを始めてまもなく、以下の拙稿を載せた。
〓〓やはり、またしても一国挙げての袋だたきが始まった。異論を恐れず言おう。彼らを『糾弾』することで一件落着にしてはならない。いや、彼らの『犯罪』にすべてを収斂させて事足れりとしてはならない。時代と社会のうねりを見据えず、特異な出来事で終わらせてはならない。彼らは『ガリレオの望遠鏡』であり、平成の世は『盗賊プロクルステス』である、とは言うまい。しかし、なにかのスケープゴートにされようとしているのではないか。というより、アンシャンレジームの逆襲が始まったような気がしてならない。アナーキーな主張をしているのではない。もっとやわらかい眼がほしいのだ。なぜマスコミはいとも簡単に手のひらを返す。きのうの味方はきょうの敵か。角を矯めて牛を殺す愚は避けたい。アンシャンレジームといっても、特定の勢力ではない。人の世の潮目、風向きのようなものだ。彼らは巨力に弄ばれたドン・キホーテでしかなかったのか。
この国はいま、もがいている。60年一回りしたこの国が二回り目に呻吟している。クレーターが見えたからといって教授たちを嗤うまい。鬼子といえども、わが胎(ハラ)を痛めた子である。寝台ではなく身の丈を切り揃える恐怖を忘れまい。見えても見ていないことは日常茶飯だ。〓〓(06年6月「望遠鏡と寝台」より)
「望遠鏡を『投げ捨てた』」とは、ガリレオが行ったデモンストレーションでの学者たちの反応である。「寝台」は、「プロクルステスの寝台」である。文中の「彼ら」とは、堀江貴文と村上世彰を指す。
そして今月、幕引きを迎えた。
〓〓堀江貴文・旧ライブドア元社長 敗訴確定
旧ライブドアをめぐる粉飾決算事件で、最高裁第三小法廷(田原睦夫裁判長)は、証券取引法(現・金融商品取引法)違反の罪に問われた元社長・堀江貴文被告(38)の上告を棄却する決定をした。25日付。懲役2年6カ月の実刑とした一、二審判決が確定する。
決定に対しては異議を申し立てられるが、認められることはほとんどなく、第三小法廷が棄却した時点で刑が確定し、収監される。
一、二審判決によると、堀江元社長は、(1) 旧ライブドアの2004年9月期の連結決算で、計上が認められていない自社株の売却収入を売上高に含めるなどの手口で約53億円の粉飾をした(2)関連会社が04年10月に出版社の買収を発表した際に、虚偽の内容を公表し、関連会社の決算短信を黒字と偽った。
旧ライブドアは企業買収などで急成長。04年にはプロ野球への参入を表明し、05年にはニッポン放送株を大量に取得するなどして話題を呼んだ。堀江元社長は、同年9月の衆院選に広島6区から立候補したが落選。06年1月に東京地検特捜部に逮捕された。〓〓(4月26日付朝日)
同じ朝日は、5年前以下のような社説を掲げた。(抄録)
〓〓節度ある市場社会へ 墜落した「挑戦者」
社会に新風を吹き込んだはずの「時代の寵児」が相次いで墜落した。ライブドアの社長だった堀江貴文被告と、村上ファンドを率いた村上世彰容疑者である。
多くの一般株主をだまし、証券市場の信頼性を台無しにした罪が問われているが、単なる経済犯罪にとどまらない重い意味を持つ。これからの日本社会が目指す方向をも左右しかねないからだ。
2人を生んだ土壌には、「失われた10年」の経済沈滞からなんとか抜け出したいともがく国民の焦燥感があった。
そのためには、新しい技術や経営で未来を切り開く起業家がほしい。米国で成功したIT(情報技術)革命と、企業価値を問い直して投資家に報いる株主資本主義は、救世主のようにも映った。
学生ベンチャーとして起業し、インターネット事業を手始めに拡大路線を突っ走った堀江前社長は、Tシャツ姿の斬新さや旧世代に物おじしない言動で挑戦者の名をほしいままにした。
「カネで買えないモノはない」。堀江被告はうそぶいた。市場原理は拝金主義に行き着くのか。そんな懐疑に国民がとらわれている。
人々が自由な意思で利益を求め、競いあう。経済活動に活力を与え、豊かな社会へとつながる。そんな考え方に支えられた市場主義は本当に人を幸せにするのか――。日本でも資本主義の夜明けの時代に論争が戦わされていた。
明治の思想家、福沢諭吉は、独立と自由を重んじる「市場社会」を理想とした。その考えは、共感の一方で「利己主義に陥る」「人を無情で冷淡にする」といった反論も浴びた。政治思想史学者の故坂本多加雄さんは著書の『市場・道徳・秩序』で、そう指摘している。〓〓(06年6月12日)
同じ06年7月、内田 樹氏の「私家版・ユダヤ文化論」(新潮新書)が発刊された。翌07年に、第6回小林秀雄賞を受けた作品である。受賞を知って読んだのは、ホリエモンが記憶から薄れかけていたころだ。
■パリ・コミューンの騒擾はコミューン派内部のユダヤ人とヴェルサイユ政府軍側のユダヤ人の共謀によるものであり、第三共和政は安全にユダヤ化されたブルジョア政体であり、金権主義的フランスでは「すべては証券取引所から出て、証券取引所に帰す。すべての行為は投機に還元される」。
このドリュモンの近代社会批判は(悪いのはすべて「ユダヤ人の陰謀」という説明の部分を除くと)、今日、日本のマスメディアが垂れ流している社会批判の記事のスキームに酷似している(「ほとんど同じ」といっていいくらいだ)。そこで憎々しげに語られるのは、何よりもまず、ブルジョア的な拝金主義、成金趣味、出世主義、パリ万国博覧会に象徴される科学技術万能主義、軽佻浮薄な都市文明……に対する本能的な嫌悪と恐怖である。翻って、ドリュモンが情緒たっぷりに哀惜してみせるのは「老いも若きもが教会で一緒に祈ることによって知り合い、無数の伝統的な絆で結ばれ合い、支え合い、愛し合っていた社会」である。緑滴る田園、大地に根づいた農夫の暮らし、全員が慈しみ合い愛し合う村落共同体、教会を中心とする敬虔なカトリック信仰、「ノブレス・オブリージュ」の美徳を体言する王侯貴紳、愛国心溢れる勇猛なる兵士……などが表象する失われた古き良きフランス。■(上掲書より)
朝日の社説との酷似に驚く。「すべては証券取引所から出て、証券取引所に帰す」とは、いかにも象徴的だ。
「ブルジョア的な拝金主義」は、「『カネで買えないモノはない』。堀江被告はうそぶいた。市場原理は拝金主義に行き着くのか。」に対応する。「成金趣味」は、高級外車やグルメ三昧、芸能人とのゴシップ、競走馬など挙げれば切りがない。「出世主義」をプロ野球球団やニッポン放送の買収に看てもいいし、それは政界への挑戦に極まったといえなくもない。「パリ万国博覧会に象徴される科学技術万能主義」は、そのまま「米国で成功したIT(情報技術)革命」に乗った「インターネット事業」であった。「軽佻浮薄な都市文明」は、根城とした六本木ヒルズに表徴させてもいい。「失われた古き良きフランス」は、福沢が受けた「利己主義に陥る、人を無情で冷淡にするといった反論」の後景に擬えることができよう。
ドリュモンは反近代主義ロマンティシズム、つまりは懐古趣味の反ユダヤ主義者である。もちろん、内田氏の念頭にホリエモン事件はなかった。ただ一般にホリエモンをユダヤ人に模して批判するレトリックがあることは、上記内田氏の論詰がドリュモンから1世紀を経た今でも適用され得る理路の確かさと、批判者の知的未熟さを端無くも顕してはいないか。
判決の後、彼は「先を行くことはリスクを伴う」と語った。その言葉を信じたい。「見えても見ていないことは日常茶飯だ」からだ。さらに、「人生ゲームの駒が一つ進んだ感じ」とも語った。その言葉を預かりたい。「鬼子といえども、わが胎を痛めた子である」からだ。さばさばした表情が印象的だった。その顔で、帰ってきてほしい。□