伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

「一億総ガキ」化

2010年11月29日 | エッセー

 08年11月19日付本ブログ「『だれでもいい』と『どうでもいい』の間」で、無差別殺人に触れた。
〓〓このような事件が起きた場合、原因を個人に特化して事足りてはいけない。たとえ微細であろうとも自らも背景の一角を占めていることを忘れるわけにはいかない。異端視して放擲しても、この国はいっかな変わらない。病巣を抱えたまま彷徨うだけだ。すぐさま解が見つかるわけでも、策が打てるわけでもない。だが「想像力」を振り絞り、わが身に引き寄せるべきではなかろうか。次代のためだ。万物の霊長たる者の厳かな使命だ。人類の歩みは、失敗の数ほど克服を重ねてきたはずだ。拱手傍観、「どうでもいい」は責任放棄だ。
 原因は根深く多岐にわたり、かつ錯綜している。一刀両断の処方はない。とかくこういう場合に語られる歯切れのいい解決策とやらは眉唾物である。四捨五入した単純化は危険でさえある。二者を択一するがごとき二元論はなおさらだ。
 いつものことだが、軍事教練の復活を声高に唱える向きがある。これは短絡、もしくは思考停止に近い。
 腰を据えて原因を見つけ、一つ一つを丹念に分析し、プライオリティーを付け、衆知を集めて手立てを考え、果断に実行する。病の処方と同じともいえる。社会も同じく病んでいるのだから。〓〓(抄録)
 先日、「病巣」を捉える有力な投網を見つけた。極めて示唆に富む好著である。

  一億総ガキ社会 ―― 「成熟拒否」という病(光文社新書、本年7月発刊)

 著者は精神科医の片田 珠美氏。著書に『17歳のこころ』、『攻撃と殺人の精神分析』、『こんな子どもが親を殺す』、『薬でうつは治るのか?』『やめたくてもやめられない ― 依存症の時代』、『無差別殺人の精神分析』などがある。

 一国が「ガキ」のようになっている。いな、「ガキ」を抜けきれていない。これが主張だ。論点は以下の三つに要約される。

①「打たれ弱い」という病
②一億総「他責的」社会
③依存症 ―― 自己愛の底上げ

 ①については、不登校 引きこもりが代表例であろう。要因として真っ先に挙げているのが「けがをさせない教育」である。前方の障害物を取り除くカーリングに譬えて「カーリングペアレント」と呼ぶそうだ。近年瀰漫する「打たれ弱い」という病状と病理を明らかにしていく。

 ②の「他責」とは、原因と責任を他に転嫁し咎め立てることだ。自責の対極である。詳説は本文に委ねるとしてやや図式的にまとめると ―― 
 戦後民主主義社会「規範からの解放」 → すべて自分で → (ところが)自分は空っぽ → (おまけに)「あきらめるな!」「すべて可能」という煽り → 自己愛的な万能感の肥大 → 現実の自分とのギャップ → うつ・ひきこもり 又は 責任転嫁「他責」へ
 ―― となろうか。そこで語られるのが、「誰でもよかった」殺人・秋葉原事件である。
「『他責的』であるがゆえに引き起こす究極の犯罪が『誰でもよかった』殺人である。」とする。以下、抄録。
〓〓自己愛的万能感と自己評価の深刻な乖離に直面して悩むのは、思春期・青年期によくあることだ。そこから成熟して大人になるということは、ある意味では自己愛の傷つきの積み重ね、つまり誇大的な自己イメージを喪失していく「断念」の過程でもある。しかし、無差別殺人犯の多くは、その過程を頑なに拒否している。それゆえ、自己愛的イメージと現実の自分のギャップにぶつかって「こんなはずではなかった」と感じたとき、悩んだり、落ち込んだりするのを避けようとして、他者に責任を転嫁するわけである。
 ほとんどの無差別殺人犯には、もう一つの要因が顕著に認められる。「投影」である。「投影」とは、自分の内部にあることを認めたくない資質、衝動、感情、欲望などの「内なる悪」を、外部に投げ捨て他者に転嫁しようとする心の働きである。この「投影」が働くのは、「内なる悪」を自分自身で引き受けることに耐えられず、外部に追い払い、消そうとするからである。「誰でもよかった」という動機から無差別殺人を引き起こすのは、この投影ゆえである。これは、赤の他人を道連れにした「拡大自殺」にほかならない。〓〓
 「拡大自殺」とは鋭い。あれは他人を殺すことによって、必死に自分を殺そうとしていたのだ。その意味で、「代理自殺」ともいえる。「病巣」はかなり輪郭を現したといえる。

 ③の中では、「サイキック・ビル ―― 存在の医薬品化」が圧巻だ。サイキック・ビルとはボディー・ビルのもじりである。人体を人工的に造り上げるように、内面にも人為を加えようとする動向だ。スポーツ界がドーピングに塗れるように、「人生につきものの心の苦悩にまで体系的に投薬することによって『存在の医薬品化』を推し進めている」状況がすすむのか。切実な問いかけがなされる。

〓〓我々にとっての「失われた対象」 ―― 富にせよ、地位にせよ、自己愛的イメージにせよ ―― を直視できるか、どうか。「失われた対象をきちんと認識しない限り、真の再生は果たせない」のは、精神科医としての臨床経験から常々感じていることだが、個人だけでなく、社会にも国家にも当てはまる真理なのではないか。〓〓
 これは本書の基調であり、結論部分である。だれびとの人生にあっても、「失われた対象」すなわち「対象喪失」は避けられない。幼少期からの「自己愛的万能感」の喪失に始まり、それとの折り合いをつけ続けるのが一生といえる。当然のことながら、最大の「対象喪失」が最後にやってくる。
 そこで、紹介されるのが「キューブラー・ロスの『死の五段階』説」である。
〓〓死に瀕している患者二〇〇人以上にインタビューした臨床経験にもとづき、末期患者は、
  第一段階 否認
  第二段階 怒り
  第三段階 取り引き
  第四段階 抑うつ
  第五段階 受容
の五つの段階を経て、ようやく死という最大の対象喪失を受容する段階に到達するのだと述べている。〓〓
 死に限らず、この五つのステップが十全に踏まれ得ないために前記の ① ② ③ に至るのである。
 さらに「対象喪失の原点は『乳離れ』」であるとし、極めて興味深い考察が紹介される。授乳期間中に母親が赤ん坊の元を離れて、乳房が遠ざかる。そこに対象喪失の原型がある。同じ乳房が、(二つのそれぞれがという意味ではなく、二つ併せて)「良い乳房」と「悪い乳房」に分裂する。そのせめぎ合いが事の起こりだというおもしろい説だ。

 また、以下の指摘も重い。
〓〓なぜ対象喪失を受け入れられなくなったのか? まず、何よりも人生における最大の対象喪失である「死」に遭遇する機会が減ったことが挙げられよう。
 わが国は世界一の長寿国になった。我々はまさに医学の進歩の恩恵に浴しているわけだが、皮肉なことに、この変化こそが、死への恐怖感を高めた。また、死をはじめとする対象喪失にどう対処していいかわからない人々を増加させる一因となった。死という究極の対象喪失に出会う機会が減ったことによって、対象喪失に対する免疫ができにくくなったことは否めない。
 核家族化によって、子どもが祖父母の死に立ち会う機会は激減した。おまけに、以前は自宅で家族に看取られながら最期の時を迎える人が多かったが、いまや、ほとんどの人が病院でたくさんの管につながれたまま心停止を宣告される。そのため、死もまた人生の一部なのだということを学ぶ機会はなくなったのである。〓〓
 
  かつて大宅壮一はテレビ時代を「一億総白痴化」と言い表した。「一億総ガキ社会」はその伝であろう。だが、こちらの方がより根深い。「餓鬼」とは際限のない飢えと渇きの苦悩をいう。「ガキ」を抜け切らないいことには、待つのは餓鬼の断末魔ばかりであろう。□


欠片のごとき雑感 5話

2010年11月23日 | エッセー

■ TPPについて
〓〓製造業の輸出強化で生きていく――。韓国は97年の通貨危機から輸出主導で立ち直ると、「国の未来図」を明確に描き、FTA推進に一気にかじを切った。日本と同様、農業への影響をいかに抑えるかが課題だが、「別途対策を準備して打撃を和らげる」と割り切った。日本の製造業がライバルと対等に戦える条件を整えるためには、「農業の未来図」を含めた国のビジョンをしっかり示すことが求められている。〓〓(11月22日付朝日)
 わが国には、票目当ての素っ頓狂な「農業者戸別所得補償制度」があるばかりだ(それも中途半端だが)。「農業の未来図」など、どこを探してもない。しかしないものの筆頭は、国民に訴えかけるリーダーの存在だ。わが信念に殉ずる覚悟で、国民に熱烈に呼びかける。そんな大芝居を打てる役者がいないことだ。敢えて挙げれば、「郵政」の時の小泉首相ぐらいか。
 〽お酒はぬるめのカン(燗)がいい …… 
 でもあるまいに、なんだかぬる過ぎないか、こちらのカンは。熱燗できゅーっといかないと、凍えた五臓六腑はシャンとしませんぞ。

■ 鯉、今昔
 苦々しい印象を受けた場面がある。先般のAPEC・首脳会議場。テレビ報道での一齣だ。
 真ん中にデジタル映像の池があり、鯉が泳いでいる。開催国の首相がどこかの女性首脳を誘(イザナ)って池のそばに。手を打てば鯉が集まる仕掛けを見せようとしたらしい。ところが、なにかのトラブルか、いっかな鯉は寄って来ない。集まったのは冷ややかな視線。赤っ恥もいいところだ。と、筆者にはいにしえのあの映像が甦った。
 目白の田中御殿。大きな池に、一匹数百万するというたくさんの鯉が泳いでいる。そこへ下駄履きの宰相が現れ、手を叩く。飼い馴らしてあるのだろう、餌を求めて鯉が蝟集する。金権政治を象徴する歴史的名場面ともいえる。それがにわかに呼び戻された。
 件の首相はロッキード事件を機に政界浄化を志し、政治の道に進んだそうだ。ならば、最も忌むべき金権政治の具象的場面を彷彿させる舞台を、なぜ設えたのか。志が本物であったなら、陋習を心底憎むなら、真っ先にあの目白の御殿が、池が、群游する鯉が、そして手を打つ音(ネ)に呼び寄せられる鯉の翕然(キュウゼン)が想起されないはずはない。おまけに目論見が外れ、一匹の鯉も近づかない。まさか金権との永訣を見せるために、そこまで演出したわけではあるまい。ならばいっそ下駄でも履けばよかったものを。
 目白の鯉は、宰相が地元新潟の鯉を宣伝するためだったという説もある。ならば、神奈川の鯉は日本の電子技術をアピールしようとしたのであろうか。だとすれば、見事にすべったというべきか。まことに鯉のいま、むかし。鯉に罪はない。

■ 野党の力量  
 とってもいい。今の自民党は野党らしくて、好感できる。国会運営もさることながら、小泉進次郎クンと丸川珠代クンが出色だ。
 事業仕分けを巡る先般の衆院内閣委員会。進次郎クンが蓮舫クンとやり合った。議論の中身などどうでもいい。筆者が絶賛して止まぬのは進次郎クンの見事な一本。挑発的な質問に答弁に立った蓮舫クンが、マイクを離れた直後に見せた夜叉のごとき面容だ。それはそれは怖気立った。あのまことにスリムな鶏ガラに、女性(ニョショウ)の鬼気迫る毒牙を視た。ああー、恐い。死んでも祟られる。いや、死んでから祟られる。筆者なぞ、1年や2年は不眠症に罹ってしまいそうな恐怖の面相である。だからこそ、進次郎クンの勇気に拍手を惜しまないのだ。密林に分け入り魑魅魍魎と格闘するその勇猛に頭を垂れ、ただただ無事を願わずにはいられない。ガンバレ! 進次郎。おじさんは君の味方だ。世界の正義はキミにこそある。
 つづいて、丸川珠代クンだ。かつて議事堂で鳴いていた鳩ぽっぽに、「ルーピー!」と愛のエールを送ったことは有名だ。1年生議員でありながら、自民党参議院政策審議会長代理である。加えて、面貌に似ず結構ライト(右)でキツそうな人だ。若手の星、とっても期待の持てる、それでいて決して友達にしたくない女性だ。なにせ質問がいい。錐のようにも揉み込んでくる。「総理、総理」と連呼した跳ね上がりがいたが、こちらは「あなた」呼ばわりである(友達でもないのに。きっと……)。実に小気味いい。テレビで芸人の与太話を聞くより、ずっといい。恐いもの知らずの、その蛮勇におじさんはエールを送る。ガンバレ! 珠代。君こそ、自民党の珠だ。
 野党の自民党には、歴代の野党にはなかった絶対の強みがある。それは、永らく与党であったことだ。この当たり前の事実を見過ごしてはならない。売り言葉に買い言葉。押しまくられると、つい「じゃあ、お前やってみろ!」と言ってしまう。なんだ、自民党と同じじゃないか。自民党より悪くなった。所詮は素人政府だ。などと突かれても、「じゃあ、お前やってみろ!」と返せないのだ。相手はついこないだまで「やって」いたのだし、非自民という存立の大前提を自ら崩してしまうからだ。なんとも泥沼のような二律背反である。殺し文句を封じられた色男では潰しが効かない。
 野党の自民党。いい味が出てきた。なかなか捨てがたい。

■ 詩人
〓〓小惑星の砂粒と確認=「はやぶさ」、世界初回収―微粒子1500個分析・宇宙機構
 宇宙航空研究開発機構は16日、小惑星「イトカワ」から帰還した探査機「はやぶさ」のカプセルに入っていた微粒子約1500個を調べた結果、ほぼすべてをイトカワの砂粒と確認したと発表した。小惑星の砂粒回収は世界初の快挙。今後の分析成果は、約46億年前に誕生した太陽系や地球の形成過程、生命の起源の解明に役立つことが期待される。
 開発責任者を務めた宇宙機構の川口淳一郎教授は記者会見し、「(地球帰還を成功させた時)『帰ってきたこと自体が夢のようだ』と言ったが、夢を超えたものをどう表現していいかわからない。胸がいっぱいで信じられない。長い間の苦労が報われた」と話した。〓〓(11月16日付朝日)
 「はやぶさ」『くん』」にも痺れたが、「夢を超えたもの」とはまたなんとすばらしい表現だろう。帰還そのものが夢であり、さらにそれ以上の夢を叶えた ―― 「夢を超える」。
 夢の言霊を紡ぐ。まさに詩人ではないか。なにやらこの人、はやぶさ『くん』の飛行中と比較して、最近ふくよかな顔をしていないか。「夢を超えた」人は、いい面付きになる。さらに、巧まずして詩人ともなる。なんとも羨ましい。

■ 正直の頭に
 法務大臣の更迭 ―― たしか、テレビはなべて「辞任」。朝、毎、読売は「更迭」。産経が「辞任」であった。前述の丸川クンは、さかんに「更迭」である実態を明白にしようと「あなた」に迫っていた。「あなた」は、質問の意味が解らないと不正直な答弁に終始した。
 門外漢を党内の派閥力学と選挙の論功行賞で選んだのが仇となった。これが実態だ。だから、彼は正直に本当のことを言ったのだ。法務大臣だけに正直であったのだ。正直者が馬鹿を見たのだ。正直者が割を食う不正直な世界が永田町であることを、正直に証明したのである。その功績は決して小さくはない。
 肝心なのは失言ではなく、失格(失、資格)である点だ。さらに、失格者を見抜けず選んでおいて、都合が悪くなると馘首した「あなた」の不正直さだ。
 正直の頭に『疫病』神宿るというではないか。 □


世紀の出会い

2010年11月19日 | エッセー

 やっと7合目までたどり着いた。
 「街道をゆく」
 こちらは読むだけなのだが、なんとも遅々とした歩みである。ただ今度ばかりは、漫然と進むわけにはいかない。個人的にではあるが、最大の山場に差しかかる。刮目しつつ、一歩ずつを踏み締めねばならぬ。
 「愛蘭土紀行」
 アイルランドへ、著者は対岸のリヴァプールを経由して渡る。87年のことだ。まさかビートルズに触れないわけにはいくまい。歴史家の慧眼に、彼らがどう映るか。 ―― 世紀の出会いだ。と、いえば大袈裟だろうが、わたしには頃合いの措辞である。
 出会いは、「ビートルズの故郷」「死んだ鍋」、2回に亙って記されている。

≪人の声を聴くことは好きだが、音楽をふくめた音響がにが手なのである。
 だだ、リヴァプールにゆく前にビートルズのことをすこしは知りたいと思い、幾冊かの本を読んだ。前述の理由によって、そのサウンドをきくことは御免蒙った。≫(上掲書より、以下同様)

 耳のせいにしているが、おそらくそうではあるまい。世代ははるかに違う。御免蒙るサウンドであったろうことは予測の範囲内だ。肝要なのはサウンドはなく、サラウンドな視野だ。(ちょっと失礼)
 イギリスとアイルランドとの確執 ―― というより、800年に及ぶイギリスのアイルランド支配。差別と貧困。反抗、独立。 ―― は何度も書き込まれる。ここの理解が浅いと、アイルランドはもとよりビートルズの輪郭が闡明にならないからだ。おかげで浅学菲才なわたしなぞ、大いに蒙を啓かれた。とりわけ彼らが放つ諧謔や反骨といった精神の因って来たる土壌が詳らかになった。タイトルにも使われた「死んだ鍋」である。

≪ビートルズの発言が、アイルランド人のいう死んだ鍋をおもわせる。
 アイルランド人が吐きだすウィットあるいはユーモアは、死んだ鍋のように当人の顔は笑っていない。相手はしばらく考えてから痛烈な皮肉もしくは揶揄であることに気づく。相手としては決して大笑いできず、といって怒りもできずに、一瞬棒立ちになる。
 (アメリカ公演での会見で)記者が、コドモのようなこの連中に愚弄されているのである。たとえば、記者が、「ベートーヴェンをどう思う?」ときく。ばかな質問である。
 四人のなかのリンゴ・スターが答える。かれも、アイルランド系である。「いいね」と大きくうなずき「とにかくかれの詩がね」。
 これが死んだ鍋である。才能という以上に、文化としか言いようがなく、ついでながらリンゴはこのとし二十五歳だった。
 MBE勲章を授勲されるという新聞記事が出たとき、第二次大戦でそれをもらった旧軍人たちが、抗議のためつぎつぎと勲章を返上した。
 そのことについてきかれたとき、ジョン・レノンは「人を殺してもらったんじゃない。人を楽しませてもらったんだ」といった。これも、死んだ鍋である。
「勲章はどこにある」
 と、東京で記者がきいた。
「ここにあるよ」
 と、コップをあげた。コップ敷きをみせて笑った。≫

 ファンならずとも知る有名な逸話だ。さらに、次のように続く。

≪死んだ鍋というのは、問題が拠って立つ絨緞を、問題ぐるみひっぺがすようなところがある。問題だけでなく、ひっぺがすのは自分自身でもよく、相手そのひとでもいい。さきにふれた例をくりかえすと、
「……とくにかれの詩はね」
 と答えたリンゴ・スターの“死んだ鍋”は、質問者である記者が権威として敷いているべートーヴェンという絨緞を、記者ぐるみひっぺがすことで成立するのである。≫

 前述の「イギリスとアイルランドとの確執 ―― というより、800年に及ぶイギリスのアイルランド支配。差別と貧困。反抗、独立。」から、「死んだ鍋」は鋳出(イダ)されたものといえる。規模と期間に違いはあるものの四捨五入すれば、日本と韓半島に準えられもしよう。一衣帯水の位置、見分け難い容貌(特に欧米の目には)、植民と怨恨、移民、移住、差別と反骨。似てなくもない。
 リヴァプールはアイルランドともっとも因縁が深い港町だ。かつて移民のとば口になった。となれば、悲哀が漂う。著者は演歌粧(メカ)して「涙の港」という。巧い言い方だ。その子孫が人口の4割を占める。ビートルズも3人がその系譜に属する。リンゴ・スターは不明とされるが、同書ではアイルランド系とされている。となれば、メンバーみながそうなる。中でもジョン・レノンが一番激しく民族的系譜に拘った。後述するが、ジョン・レノンという一個の魂に、最も濃密に継承されているのがアイルランド民族の血の滴りではないか。

 「涙の港」につられていうと、「エリナ・リグビー」は「YESTERDAY」に比肩される古典的趣を纏った名曲である。聴くほどに、遣り場のない寂寥感に圧倒される作品だ。

≪リヴァプールの横町の軒下に、銅像がうずくまっている。
 少女の像で、そばに銅の小鳥がいる。
 像は青錆びるいとまもないほど、巡礼者たちから撫でられて、ところどころ真鍮色に光っている。ビートルズの曲目のなかに出てくる少女だそうである。
 私の少年時代の記憶のなかに、大和の当麻寺の賓頭盧(ビンズル)さまがあって、撫で仏だった。寺の濡れ縁のすみに安置されていて、ひとびとに全身をなでられていた。頭痛もちならその頭を、眼病でなやむ者ならその両眼を、というぐあいで、目鼻だちの凹凸がなくなっていた。この少女像も、タマゴのようになってしまっている。
 リヴァプールはどこか、古典化しつつある。≫

 星霜を経るという謂ではなく、位相を変えることをもってビートルズは古典化した。「涙の港」の名付けも、この曲の調べも、つくねんと座る『撫で仏』も、「泰然として錆びはじめている」(同書)街のあり様も、「古典化」という修辞が何より似合う。港湾では立ち行かず、当時ビートルズを資源とする観光立市をめざしていた。なににせよ、歴史家の眼は鋭い。銅像の摩耗に4人の若者が世界に注いだ至福の霖雨を偲び、「撫で仏」も適わぬ音律の妙薬を重ね合わせる。

 さて、ジョン・レノンについてだ。

≪私はきたやま・おさむ氏の『ビートルズ』を読みつつ、ふと遊びの連想ながら、ジョナサン・スウィフトという、自分や他人の生そのものを皮肉としてしか見なかった作家を重ねたくなった。ジョン・レノンの出生よりも二百七十余年も前にうまれたこのアイルランド人の作家もまた“残酷で人を突き放すジョーク”のもちぬしだった。となれば、よくいわれているようなアイルランド気質と関係があるのではないかという“妄想”がわいてしまう。≫
 
 精神科医であるきたやま・おさむ氏は著者が引用した『ビートルズ』のなかで、ジョンの少年時代に見いだし得る“唯一の魅力”は「残酷で人を突き放すジョーク」にあったと書いている。
 その「アイルランド気質」について、

≪アイルランド人は気骨もしくは奇骨の民族である。死神のように低温の自虐的なユーモアをもち、起きあがった病み犬のようないたましい威厳を感じさせる独特の修辞をそなえている。これらは、アイルランド人一般のものでもあるらしい。一般といったが、語弊を避けるために、典型といっておく。アイルランドにもさまざまな人がいるはずだからである。≫

 と述べる。アイルランド人の典型としてのジョンとスウィフト。その対比には唸る。付け加えれば、両者の足跡の巨大さにくらべ、どちらも不遇な最後であった。ただ、天才に属する人は往々にしてそうだともいえる。
 「ガリヴァー旅行記」は子どもにも読まれるポピュラリティーの中に、この上なく痛烈なアイロニーが綴り込まれている。それはちょうどビートルズの前代未聞のポピュラリティーが「アイルランド気質」に裏打ちされていたのと同様といえる。まことに血は水より濃いというべきか。

≪アングロ・サクソンは文学においてシェイクスピアという超弩級の巨人を生んだが、絵画においてはフランス・スペインといったラテン系のようには天才は生まなかった。また音楽においても同様だったらしい(ビートルズについては、四人のうち三人が、アイリッシュ系英国人である)。≫

 肝心なのは括弧書きの部分だ。アングロ・サクソン、別けても英国の音楽における劣位を破り、一気に頂点に押し上げたのがビートルズである。しかしそれはより正確にいえば、「アイリッシュ系英国人」によるものだった。なお正鵠を得るなら、「アイリッシュ系」であった。さらに絞り込めば、「アイリッシュ」の血ではなかったか。先述の通り、ここが今回の「紀行」により蒙を啓かれた核心である。

 歴史と音楽、異なる世界が巡り合う。それだけで胸が躍る。「世紀の出会い」は、期待にたがわず多くの収穫を与えてくれた。だがそれにもまして、この歴史家と4人の音楽家と、ともに同時代を生きたこと、それ自体が千載一遇の佑命であった。極小とはいえ、これもまたひとつの「世紀の出会い」ではなかったか。 □


はやぶさ『くん』

2010年11月15日 | エッセー

〓〓地球に帰還する「はやぶさ」は、まさに満身創痍の状態でした。カプセルを分離してしまったら、もはや「はやぶさ」本体の役目はおしまいです。大気圏にまっすぐ突入して死んでいくだけです。
 チームを率いる川口淳一郎プロジェクトマネージャーが決断しました。
「最後に、はやぶさくんに地球を見せてやりたい」と。(中略)
 川口プロジェクトマネージャーが「はやぶさ」に「くん」をつけて呼ぶのは、このときが初めてのことでした。彼はとてもクールな男で、それまで、そういう面を見せたことがありませんでした。ですから、まわりの人たちもびっくりしていました。〓〓(NHK出版「小惑星探査機 はやぶさ物語」より)

 著者の的川 泰宣氏(JAXA名誉教授・技術参与)は、このプロジェクトの奇跡的成功は川口氏なしにはありえなかったという。 ※JAXA:宇宙航空研究開発機構
 イトカワに着陸し、サンプルを採取するため弾丸を撃ちつける。最大の見せ場だ。その発射の連絡が届いた時でさえ、歓声が沸き上がる中ただ一人にこりともせず「火薬が炸裂したかどうかはまだわからない」と冷静だった。案の定不発に終わり、カプセルには塵埃のたぐいしか期待できなくなった。(分析には12月までかかるらしい) それほどの「クールな男」から出た言葉が「はやぶさ『くん』」であった。戻ってきた「はやぶさ」は、彼にとってはすでにマシンを超えた存在であったにちがいない。血を分けた子供か、身を分かった分身か。

 擬人化について考えている。
 各種の報道によっても、また上掲書を読んでも、人類初の快挙であり ―― ほかの惑星に行って戻ってくる(しかもサンプルを採取して)―― かつ絶望的状況からの帰還であっただけにドラマティックな要素に満ちていた。
 不具合が起こり、故障があり、背水の陣が敷かれ、決行され、夢が実り、危機が見舞い、漂流が始まり、音信が途絶え、諦めと戦い、発見が叶い、遠慮が活き、再起があり、60億キロを飛び、そしてついに任務を果たし終え、故郷・地球の大気のなかで跡形もなく燃え尽きた。
 常人の畢生よりも劇的だ。「はやぶさ『物語』」といわずしてなんとしよう。人に擬するのは当然であろう。「はやぶさ『くん』」も納得だ。たださすがに学術の人、「はやぶさ『たん』」ではなかった。そうなれば、当節の「萌え擬人化」になってしまう。たしかに相模原の管制室にスタッフが籠もってオペレーションに取り組む様はオタクといえなくもないが、こちらは文字通り気宇壮大にして歴史的偉業への挑戦であった。心意気がまるでちがう。
 「萌え擬人化」はコンビニや鉄道、果ては法律にまで及んでいる。まことに珍妙としか言い条のない現象である。古代ギリシャに始まった擬人法が永い時の果てに辺境で煮詰まって、異形な進化を遂げたと見るべきか。少なくとも退嬰化の極みでないことを祈りたい。

 文芸は措くとして、日常ではペットが擬人化される。抱いた犬や猫に、ご婦人方が使う「この子」はつとに耳にする。筆者など直接この措辞に接した時は、「お前が生んだのかい。それにしちゃー、カワイイでないか!」と、必死に言葉を飲み込みつつ心中毒づいている。まったく年甲斐もない(もちろん向こうが、だ)。
 人にあらざるものを人に見立てるのが擬人化である。だから、ロボットは擬人化とはいえない。マシンが人間に近づき、替わることだ。ベクトルが逆である。ひょっとしたら件の奥様方は飼ってるつもりが、犬に擬しつつあるのかもしれない。そうだとしたら、とてつもない恐怖だ。

 ともあれ、精魂を込め命を削って造り上げたものは愛おしいに決まっている。それに輿望を担えば尚更だ。失敗と失望と失意をまるごとひっくり返して掴んだ成功。川口氏ならずとも『くん』と呼びたくなる。
 わが生涯にも、『くん』と付けたくなるようなモニュメントを残しておきたい。ひとつでいいから。 □


風が吹けば・・・

2010年11月09日 | エッセー

 むかしの道だ。強い風はたちまちに砂塵を巻き上げる。それは眼を直撃し、盲いる者が増える。かれらの多くは鍼灸按摩か三味線弾きを生業(ナリワイ)とする。だから、三味線が余計に要る。張るのは猫の皮。猫には迷惑な話だ。天敵がいなくなって喜ぶのは鼠。そこらじゅうの桶が齧られる。生活必需品が不足する。儲かるのは桶屋だ。

 風が吹けば桶屋が儲かる。

 江戸は元禄の世にはじまる浮世草子に出てくる話だ。およそ8つのステップを経る連鎖である。風と桶屋というまったく無縁のもの同士が、仕舞いには見事に繋がる。遠い浮世の市井の知恵には舌を巻く。巧まずして「ドミノ理論」を語り、「バタフライ効果」を説いている。

 冷戦時代、アメリカが掲げた外交政策の柱が「ドミノ理論」であった。一国が共産主義化すれば周辺国をドミノ倒しのように次々と赤化してしまうとして、武力介入を正当化した。ベトナム戦争はその典型である。転じて、ある事件につづいて同類の事件が連鎖的に発生する場合にもこの言葉を使う。吉事のドミノなら歓迎だが、往々にして悪事が連鎖する。

 「バタフライ効果」とは力学の世界だ。「カオスな系では、初期条件のわずかな差が時間とともに拡大して、結果に大きな違いをもたらす。そしてそれは予測不可能である」現象を、比喩として表現している。それが、「ブラジルで蝶が羽ばたけばテキサスでトルネードを引き起こす」である。別パターンで、北京の蝶とニューヨークの嵐、アマゾンの蝶とシカゴの大雨もある。
 芝居がかった措辞だが、つまりは蝶の羽ばたきのような微動が遥か時空を異にしてトルネードのごとく極大化される。それは予想不能で、かつそのようなものとして混沌の世界はあるとの知見だ。こちらも前者同様、人生観、世界観に転用される。

 してみると理論と名は付かずとも、浮世草子ははるか300年も前に易々(ヤスヤス)と両論を手挟んでいたといえる。まことに、いにしえの庶民の知恵は高高としていた。

 さて浮世草子の顰みに倣って、次のように並べるとどうだろう。

 普天間 → 尖閣諸島 → 北方四島

 なんと南洋から北端まで、日本列島3000余キロを一跨ぎに縦断する。
 
 普天間が吹けばロシアが儲かる。

 ではないか。
 はじまりは普天間だった。前首相の軽率極まりない空手形から、普天間で長年月の鬱積が大風となって吹き荒れた。沖縄全域を巻き込み、奄美にも及んだ。前政権は脆くも自壊した。
 見落としてならないのは、この風が日米の間に割って吹き込んだことだ。51番目の州と揶揄されるほど(実態的にはそうともいえる)強い紐帯を誇った両国間に、懸隔が生じ得ることが露呈した。過去、経済面で摩擦が生じたことはあったが、安全保障で齟齬をきたした局面は皆無だ(安保条約の改定は次元が異なる。この場合はその実際についてだ)。今年4月、オバマは露骨に首相(当時)を去(イ)なした。アメリカにとっては、普天間とは基地問題ではなく戦略マターなのだ。前首相は、憐れなほどこの認識に欠けていた。大きく外交を仕掛け米戦略を問おうとはせず、イシューを移転先に絞った。順序が逆だ。ガキの使いに等しい。
 バランス・オブ・パワー(軍事的なそれ)は、現にある。その積み木細工を作り替えようとすれば、慎重のうえにも慎重を期さねばならない。 ―― 言うまでもなく、筆者は現状を是とするものではない。変えるには大きな図と深謀遠慮を要するといっているのだ。 ―― たとえ悪しきバランスであろうとも、崩れれば件の風にもバタフライにもなり得る(イラクの泥沼が想起される)。その不安を肌で感じ取っていたのはアメリカだ。
 「首相に就任して学べば学ぶにつけ、沖縄の海兵隊などによって抑止力が保たれている現実を知った。(認識が)浅かったと言われれば、その通りかもしれない」この発言には失笑する。いな、憫笑すら誘われてしまう。「現実」とは「保たれている」現実ではなく、保たれなくなるかもしれない現実だ。学習機能が壊れた頭脳には、辞任直前になっても合点がいかなかったらしい。あれから4カ月、尖閣問題発生で、トリガーは自分ではなかったかと誰より肝を潰したのは彼であったもしれない。 …… ならばまだ救い道はあるのだが、次期引退を撤回するようではもはや付ける薬がない。
 普天間の膠着は『太平洋への出口』に隙(バランス・オブ・パワーの)を作った、もしくは隙を見せたといえる。揺さぶったのか、好機を逃さなかったのか。したたかに南の果てで鎧袖が擦過した。時を措かず、誘われたのか、奇貨居くべしと見たか、北の果てには珍客が蹌踉い出(イ)でた。

 普天間のバタフライが尖閣を時化に巻き、はては国後にトルネードを引き起こした。見事な「バタフライ効果」ともいえるし、奇天烈な「ドミノ理論」ともいえる。本邦流に言えば、風が吹けば桶屋が儲かる、か。「カオスな系では、初期条件のわずかな差が時間とともに拡大して、結果に大きな違いをもたらす。」なんにせよ、「カオスな系」ならではの現象である。 □


疫病神

2010年11月04日 | エッセー

 この上なく乱暴な話をする。単なる感情論だというなら、その通り! と応えよう。感情のない人間はロボットでしかない。

 この男がアタマをとって以来、碌なことがない。
 まずは口蹄疫が襲い、参院選で大敗し(他人事ながら)、円高で苦しみ、尖閣で揉め、北方で揺れる。特にあとの二つはワン・ツー、ダブルパンチだ。そのほか巨細漏らさねば、紙幅が追いつかない。
 もうそろそろ気づいてもおかしくはない。つまるところ、この男は疫病神にちがいないのだ。人気ほしさのパフォーマンスとはいえ、四国お遍路が一の得意。憑いた疫病神を落とそうとでもいうのだろうか。それにしてもしょぼい。可哀想なくらいしょぼい。学校は東工大理学部を出たらしいが、理系と八十八箇所とどうリンクするのか論理的に展開してほしいものだ。

 近ごろでは見かねた大番頭がしゃしゃり出て、これまた物議を醸している。なにせ党内ガバナンスさえろくすっぽできない腰抜けが、一国のリーダーシップなぞ執れる訳がない。猿にさえ解る理屈だ。(猿の世界はカシラを頂点にした厳格なヒエラルヒーをなす)

 もし国会で「君は疫病神か?」と糺せば、「論理的な、まともな質問をしてください。聞くに耐えない!」と抗うだろう。
 昨今の窮まった荊蕀(ケイキョク)は、論理の及ばないところに投げ込むしかないのだ。この状況、推移を括ろうとすれば、「疫病神」を持ち出すのが最も相応しい。逆に、なぜこうも災厄が続くのか、論理的な説明ができるものならしてほしい。
 比較するのもおこがましいが、秀吉の天下統一と時を同じくして日本中の山野から湧くように金銀が出た。これは吉事だが、論理的に説明がつくか。所詮は、人物の徳(その時期に巡り合わせた幸運も含めて)に帰するしかあるまい。
 護るべき長が普天間で呻吟する時、一顧だにくれず、一言(イチゴン)だに発せず洞ケ峠を決め込んで、転んだ途端にむっくと鎌首をもたげる。こんな男に徳などのあろうはずはない。前任者は碌でなしではあったが、人でなしではなかった……と信じたい。辞めると言っておきながら、性懲りもなくまた色気を見せている。これは碌でなしのすることだ。しかし9月の党首選でみせた言動を斟酌すれば、人でなしとまでは言い難い。だが洞ヶ峠から蹌踉い出たこの男は碌でなしであり、かつ人でなしとでもいいたくなる。(人でなしとは、一義的に恩義、人情を解しない者をいう)
 口癖のように、「失われた20年」を繰り返す。以前にも述べたが、負の遺産を背負(ショ)ってますといえば免罪符になるのか。そんなに覚悟のない者は端(ハナ)から出張るな、といいたい。旧政権とて清濁併せもちつつも大きな舵を切ってきたのだから、まるまるダメ出しでは立つ瀬がなかろう。第一、選んできた国民をバカ呼ばわりするに等しい。大覚悟があるなら、尻拭いなどとは口が裂けても言うものではない。御里も知れるし、人品の高(タカ)もすぐに知れきってしまう。そんなことだから、いとも簡単に疫病神に化けてしまうのだ。

 小沢氏起訴の案件、その真偽は措くとして、カネ塗れを槍玉に挙げられつづけた1年であった。(小林千代美衆院議員は辞職、中島正純衆院議員は離党。いずれもカネで!)かつて事あるごとに自民党をあげつらった図式と同じではないか。攻守が替わっただけだ。おまけに、企業・団体献金の再開である。後期高齢者医療制度の改定にしても明らかな後退、改悪だ。あれほど数の横暴を糾弾してきたのに、陣替えしたら有無をいわせず多勢で押しまくる強引な議事運営。利権だの利益誘導だのと吼えていたくせに、今度は自分たちが露骨な選挙結果による予算のさじ加減を始める。さらに党首選で端無くも見せてしまった構造的な派閥の対立。なんだかいまや自民党の方が一時の(ほんの一瞬ではあったが)民主党のような清新ささえ漂う、といってあながち外れてはいまい。なんのことはない、際限なく(大盤振る舞いだが、かつての、としておこう)『自民党化』しつつあるのではないか。
 いったい、どこが変わったのだろう。政権が変わっただけで、政治はより劣化した。変えたくて変えたけど、変わらずに薮蛇だった。とどのつまりが疫病神のお出まし、といったところか。

 疫病神とくれば、映画化された浅田次郎著「憑神」(07年7月本ブログ「トワイライトはお好きですか?」で取り上げた)を出さないわけにはいかない。幕末、旗本である別所彦四郎を貧乏神、ついで疫病神、最後に死神が襲う。この順序は厄害の強さであろう。バブルが弾けて以来、この国には貧乏神は居着いたままだ。かてて加えて、こんどは疫病神である。
 余談ながら、貧乏神と死神は『神』であるが、疫病神には嫌われ者という意味もある。三神のうちで唯一、人格にも適用される『神』である。二神は憑くが、この神は人であっても化身ができる。つまり、憑かれ憑くのだ。この平成の疫病神は両意を具える。
 件の旗本は、自ら上野戦争を死地とすることで(己の意志で死を選ぶことで)最強の死神に『勝利』する。

〓〓 雨にしおれた二柱の憑神は気の毒だが、ひとこと言うておかねばなるまいと彦四郎は思った。
「わかっていただけたか。人間は虫けらではないのだ」
 緋色の手綱を返すと、別所彦四郎は馬の尻に鞭を当てた。

 これには唸る。亡霊はこの作家の十八番(オハコ)だが、神霊というこの世ならぬものに勝利を宣して、この作品は終わる。人間は神の掌(タナゴコロ)に弄ばれる虫けらではない。神霊は自らの死を知らぬが、人間は死するを辨(ワキマ)える。この分別こそが神霊をも超えるのだ。 〓〓(上記ブログより)
 確かにそうなのだが、国民挙って尖閣諸島と北方四島で玉砕するわけにはいかない。だから疫病神が死神にランクアップするまでに、なんとかせねばならない。エクソシストにお出まし願おうにも、宗旨がちがうと効き目はなかろう。さて、いかに。
 次の総選挙が望まれるが、それこそ旧政権と同様みすみすおいしい多数を手放すはずはない。アタマを挿げ替えようにも、残っているのは輪を掛けたカスばかりだ。となれば、霊験を抑え込むしかない。疫病神の骨抜きだ。足したり引いたり、数の尾っぽを振り回さぬよう機に臨み変に応ずるほかあるまい。それにしても、難儀なことよ。 □


黄門と馬場の間

2010年11月01日 | エッセー

 近所で目にする看板にヒントを得て、『水戸肛門』科を探すという話が浅田次郎御大のエッセー(小学館「つばさよ つばさ」)に出てくる。結局見つからず、ならばと近回りの『ダスキン玉川』を捜し当てて大いに溜飲をお下げになったという顛末。なんとも『笑』撃的作品である。(以前、名前だけ紹介した)
 このようなこだわりは職業的特性を超えたパラノイア、あるいは一種の疾病であろう。恐れ多いが、今回は御大の後塵を拝してみたい。
 ―― 水戸黄門とジャイアント馬場との間を探る。
 前稿のコメ・レスからの発展的飛躍である。飛躍はいいにして、なにが発展なのか自分でも解らぬままに書いている。

 馬場がテレビドラマ「水戸黄門」の大ファンだったというのは正確ではなく、「黄門」しか観なかったのが実態らしい。放映分はすべてビデオ録画していたそうだ。こちらもパラノイアの臭いがする。「黄門」の何が馬場の琴線に触れたのか。
 お銀さんはおそらく例外扱いしたであろうが、風車の弥七やうっかり八兵衛などのキャラの強い脇役は好まなかったらしい。初期作品の単純明快な勧善懲悪を善しとしたそうだ。ドラマツルギーとしては、プロレスも同様にヒールが必要だ。最強決定戦も沸くが、極悪非道なヒールとの因縁、怨恨試合はなお沸いた。リングと同じくヒーローとヒールの『(脳天唐)竹』を『割』ったように簡明な対決を望み、枝葉(エダハ)を付けるのを嫌ったのだろう。
 プロレス世代である筆者個人としては、やはりK-1よりプロレスだ。長じてその「ドラマ性」にいよいよ飽いたころ出てきたK-1は鮮烈で、抜き差しならぬ迫真性を感じた。スピーディーで、時代の風にも合っていた。格闘に特化したリングに嵌まりもした。しかし今となっては、やはりK-1が捨象した「ドラマ性」が懐かしい。
 「ドラマ性」とは、生の八百長を意味しない。どこまでがそれで、その先からがそれではないのか。あるいは全くそうではないのか、全くそうなのか。模糊たる作り物らしさ、うそっぽさ、もしくは本物らしさを指す。ヒールとの対決があり、『血』が流れ、場合によっては傷害にも及び、場外乱闘があり、離反があり野合があり、怨恨や因縁が生まれ、規格ちがいの巨人や怪人、正体不明の覆面が登場し、かつ興行がつづくというプロレスのありよう全体をいう。
 振り返ると、馬場よりも猪木が好みだった。猪木は派手だし、工夫があった。比するに、馬場は鈍重で体躯のみで勝負をしているように見えた。見栄えのいい技も、どっと沸くパフォーマンスもなかった(眉庇のようにして「ぽぉ!」はあったが、意図したパフォーマンスとはいえない)。勝ったというより負けなかった、相手が自滅しただけのような印象だった。だが、若気の至り。そこに込められた深謀遠慮が見抜けなかった。
 黄門様は旅の隠居、ただのじじいにしか見えない。いや、共を従え大きな面をしてどう見ても徒者ではないのに、ただのじじいを演じる。やはりというか、ところが実は「先の副将軍……」と、これが最大のドラマツルギーである。
 片や、ず抜けた大男である。しかしあばらは剥き出し、腕は不釣り合いに細い。つまり、独活の大木である。総身に知恵どころか、滋養が回りかねているのではと心配になる。ところがどっこい、負けない。やたらに強い。技は飛び切りの荒技である。破壊力、抜群。一撃必殺。しかし、簡単には出さない。殴られ蹴られ締められ捩られ飛ばされて、それでも耐える。耐えて耐えて、耐え抜いて、大向こうが痺れを切らすすんでの所でやおら繰り出す。まさに、黄門様と同じドラマツルギーではないか。これが馬場の琴線を掻き毟らぬはずはなかろう。
 
 詳説は省くが、以下、主な技を列挙する。
◆16文キック ―― 馬場といえば、これだ。実際は16文なかったそうだが、語呂でこうなった。
◆32文人間ロケット砲 ―― いわゆるドロップキックであるが、馬場の場合は16×2でこう呼ばれた。大一番の見せ場でのみ使った。
◆河津落とし ―― もと相撲技。力道山の技に工夫を加えた。2人とも倒れるのでどちらのダメージか、意外性があった。
◆脳天唐竹割り ―― 力道山の空手チョップを応用した。師匠から相手が死んぢまうから止めろと、忠告されたらしい。大きくジャンプして振り下ろす手刀にはど迫力があった。
◆股割き ―― 2メートルを超える長躯にして初めて成せる技だ。名前のごとく単純な技だが、相手は苦痛に呻いた。
◆ココナッツクラッシュ ―― 抱え込んだ相手の頭を自らの膝に叩きつける。相手はもんどりうって投げ出される。(ヤシの実割り)
◆アトミック・ドロップ ―― 相手の尾てい骨を自らの立て膝に落下させる。あそこは鍛えようがなかろう。(尾てい骨砕き)
◆ランニング・ネックブリーカー・ドロップ ―― 相手をロープに振って返ってくるところに走り込んで、相手の首に腕を掛けて倒れ込む。後頭部をマットに打ち付けてダメージを与える大技。(首折り落とし)
 ……などだ。
 別けても「16文キック」は最強の決め技だった。しかも余人を以て代え難い、天賦の芸当であった。馬場の代名詞でもある。ところが、お立ち会い。はたして、あれはキックであったろうか。
 挙げた片足を心持ち曲がった分だけ伸ばしはするが、「蹴った」とは言い難い。相手は決定的に打ちのめされてしまうが、その破壊力は自業自得に因る。早い話が、猛スピードで壁に突っ込んでいるのだ。決して矛ではない。むしろ盾だ。『矛盾』した揚げ句、盾が勝つのである。防衛の極みに勝利があるともいえる。ここに妙味と滋味がある。数多いプロレスの技の中で、突出する地位を占める所以である。しかも、使い手は一人に限る。痺れるようないい話ではないか。大いなる、いつもの牽強付会ではあるが、やっと見つけた『ダスキン玉川』級のチェイスである。(ちなみに『馬場肛門科』でググると、溢れんばかりに出て来る。なにかの因縁か?)
 となれば、入り乱れての武闘、騒擾に一喝でケリをつけるあの「印籠」とそっくりだといえなくもない。しかも極めて防衛的で、盾にも擬せられよう。シンパシーはここにもあったといえる。
 
 諸説はあるものの、巨人軍から退団したことで「一人でも」巨人だ!」が命名の由来だそうだ。(ジャイアンツとジャイアント)おそらく、贔屓筋の作り話だろうが、一番合点がいく。
 いまどきは現世(ウツシヨ)の方が意外なことばかりで、リングの「ドラマ性」ぐらいでは人は見向きもしなくなった。でもK-1では絶対に味わえないドラマを堪能できたのは僥倖ともいうべきであったと、今にして感謝している。 □