シャーロック・ホームズは「起きて然るべきことがなぜ起きなかったのか?」と問いを立てて推理していく。「横綱不在でもなぜ場所は低迷しなかったのか?」と起きて然るべきことがなぜ起きなかったのかと疑問を呈すると、小結・貴景勝の大活躍があったからだと即答が返る。簡明すぎる推理だ。つまりは、大相撲の興行面において横綱の在不在は関係がないという有力な推論が成り立つ。横綱が不在であれば星の潰し合いやダークホースの登場で意外性のある展開が起こり、むしろ盛り上がるからだ。
しかし、如上の見解には違和感を持つ向きがあるにちがいない。大相撲は単なる興行ではなく、より神聖なものではないのか。横綱以下のヒエラルキーが整序されてこその大相撲である、と。あるいは敵失に付け込むのはスポーツマンシップに悖る、鬼の居ぬ間の洗濯では値打ちが半減する、とも。そこで、碩学の卓見を徴したい。
〈相撲とは何か。プロスポーツなのか、格闘技なのか、見世物なのか、伝統芸能なのか、神事なのか。いずれの要素も相撲には含まれている。そして、そのどれを除いても、相撲はもう相撲ではない。相撲は発生的には呪鎮儀礼であり、中世以来久しく異形異能の人々を受け容れる遊行の芸能集団だった。そこにスポーツマンシップや市民的常識を求めることは、たとえそれが抗いがたい歴史的趨勢であったとしても、どこか「筋目が違う」という気が私にはする。「だったら、八百長も賭博もありなのか」と凄む人がいるから、それ以上は言わない。けれども、相撲にコンプライアンスや透明性やNHK的な「お行儀の良さ」を求めるときに、相撲は古代から継承してきた何かを失うことになるだろう。〉(「内田 樹の大市民講座」から)
スポーツと興行、伝統芸能と神事、それらが渾然一体となったアマルガムが相撲である。「そのどれを除いても、相撲はもう相撲ではない」のだ。それを現代の価値観で捌こうとすれば、当然フリクションを生む。その一つが“貴の乱”だったかもしれない。となれば、貴景勝は“乱”のエンダーになったといえなくもない。
ともあれ、過剰適応による勝利至上主義の汚い“大”横綱・H鵬がポーズするだけでこれだけ大相撲は沸く。裏返せば、一強がどれほど後進の活躍の芽を摘んできたことか。いかばかり大相撲を沸かないものにしてきたか。横綱、就中一強の不在には大いなる意味があるというべきだ。永田町のあの一強にも通ずることだが……。 □
「隗より始めよ」という。上杉鷹山がすぐ浮かぶ。殿様でありながら羽織袴から下着に至るまですべて衣は木綿、食は一汁一菜。朝餉は粥2膳に香の物、昼と夕餉には干し魚にうどんか蕎麦。酒は嗜まず。これぞ「隗より始めよ」である。寛政期、出羽米沢藩主として質素倹約を掲げ、農村振興、殖産興業を主導し見事に藩政改革を成し遂げた。その高名はつとに知られるところだ。ジョン・F・ケネディが大統領就任時、日本で最も尊敬する政治家にその名を挙げたことは長く語り草となった。武田信玄の名言を元にして家臣に与えた「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」という教訓も人口に膾炙している。
「江戸の三大改革」がある。いずれも質素倹約がいの一番に掲げられ、諸改革が実行されていった。最初の享保の改革、将軍吉宗は自ら肌着は木綿と決め、鷹狩りの羽織も袴も木綿で通した。一汁一菜、一日二食を貫いた。2番手の寛政の改革、老中松平定信も自ら倹約に徹した事例はないものの江戸時代一の堅物と言われただけあって賄賂はすべて拒否した。
3番手天保の改革、老中水野忠邦もといきたいところなのだが、これがそうではない。幕閣での昇進に多額の賄賂を使って猟官運動をしている。またさらなる出世のために国替え工作をすすめ、領地の一部を賄賂として差し出したのではないかとの疑いもある。他に、改革中の腹心による疑獄(収賄か)が後に発覚している。加えて失脚後転封が科された時、領民からの借金を踏み倒そうとして大規模な一揆を起こされてもいる。ともかく、カネ塗れなのだ。綱紀粛正、奢侈禁止を厳命しながら「隗より始め“ず”」なのだ。幕閣入りから改革中に至るまで、容赦ない部下の切り捨て、その意趣返し、叛逆にも遭っている。汚れたカネと非情な人使いと切り捨て。1番、2番手のイノベーターとは月とすっぽん、雲泥の差がある。
と、ここまで来れば誰のことだかお判りいただけよう。九仞の功を一簣(キ)に虧(カ)くという。仰ぎ見る高き山を築くのにモッコあと1杯分の土、つまり一簣が足りない。功成り名を遂げようとした絶頂で頓挫する。その不用心と慢心を誡める言葉だ。
「隗より始めよ」を下世話にいえば、「言い出しっぺ」となろうか。尾籠で恐縮だが、「臭い!」と喚いたヤツこそ放屁した本人だというわけだ。臭いから要らないといった当人が、なんのことはない、一番要らない臭(ニオ)いの元だったことになる。大きな釣り鐘、打てばゴーンと大音響かと期待が膨らんだ。だが、とどのつまりはカーンと缶蹴り擬きの音だった。嗚呼。 □
eスポーツがスポーツといえるのか、疑問を呈する向きがある。稿者など、ゴルフがオリンピックの正式種目に復帰した時(20世紀初頭には正式種目だった)は随分違和感を覚えた。野球だってオリンピックには似つかわしくない異物のように感じた。ボウリングがソウル五輪で公開種目になった折もなんでもありかと半ば呆れた。いずれもプロが花形であり目指す頂点であって、「参加することに意義がある」五輪とは異質の存在と捉ええていたからだ。ただ、運動性においては他の種目に劣るものではない。スポーツと言って努まちがいはない。
それらと比するに、eスポーツだ。指は動かすだろうといっても、パチンコだって同じだ。限りなくゲームに近いのではないか。いや、ゲームだろ。
「エレクトロニック・スポーツ」、電子機器を使った競技である。欧米では二十数年前から高額賞金が掛かった世界大会も開催されてきた。年収1億以上稼ぐプロもいて、視聴者数は4億人近いとされる。今年のアジアオリンピックではデモンストレーション競技として実施された。
“sports”(スポーツ)とは、ラテン語の“deportate”(デポルターレ)を語源とする。“portate”は「荷を担う」の意で、“deportate”はその否定形。「荷を担わない」、つまり「働かない」ということだ。これが古代フランス語“desporter”に転じて、『仕事ではなく、気晴らしをする。楽しむ』となり、15世紀前半のイギリスで“sport”『貴族階級の遊び』へと繋がっていった。括れば、「遊び」だ。それが出自である。後、競争の要素が高まりルールが生まれて今日に至る。遊戯性と競技性、それがスポーツの属性である。身体性や精神性、教育的要素は後付けの理屈だ。
であるなら「電子機器を使った競技」は「遊び」を出自とし、コンペティションを行うのであるから立派なスポーツ、“eスポーツ”といえる。ならば、将棋は、カードゲームは、とくるなら出自に戻り属性に照らせばスポーツといえよう。局所的な身体性は付属的要素に過ぎないのだから。
極論と嗤う勿れ。出自を忘失し、一方の属性(競技性)にのみ引き摺られ肥大化して、商業主義に塗れ勝利至上主義に呑まれ迷路にのたうつ「スポーツ」が見るに忍びないのだ。今までにも『スポーツおバカ』と題して3回愚案を巡らしてきたのはそれゆえである。
16年1月『スポーツおバカ』で、「健康のためスポーツのし過ぎに注意しましょう」とのタモリの名言を引き勝利至上主義がスポーツを蝕むと嘆いた。
同年4月には『スポーツおバカ その2』と題し、スポーツは人格の陶冶にいささかも資するものではないと実例に則して述べ、「スポーツ万歳!」と能天気に礼賛するアナリストを糾弾した。
本年1月には『スポーツおバカ その3』で、巧拙優劣を競うものである以上フィジカルに限らずメンタルにおいても能天気に「スポーツ万歳!」とはいかないと三度目(ミタビメ)の遠吠えを放った。
競技者を“player”という。“play”の原義は「遊び」である。オランダの歴史家ヨハン・ホイジンガは人間の本質的機能を「ホモ・ルーデンス」と見定めた。「遊ぶ人」である。法律、経済、生活様式などの社会的システムの淵源は遊びにあるとした。“sports”と同根である。「競技性」は生存本能が馴致されたものであろうが、「遊戯性」は開放されることで人類を霊長に押し上げた。今、これが逆転している。たかが遊びが雲散し、優勝劣敗が跋扈している。この逆転の構図を影絵のごとく浮き立たせたのがeスポーツの手柄ではないか。「あんなものはスポーツではない」という疑義が「スポーツとは何か」という反問を喚起したのだ。
スポーツに対比されるのは武道である。思想家にして武道家である内田 樹氏はこう述べる。
〈武道の根本にある原理は、「武道は武道家の消滅を目指す」ということになる。スポーツとしての武道はその競技人口の増大を一つの目標にしている。向かう方向が「スポーツ」と「武道」はまったく正反対なのである。武道は「不祥之器」すなわち「本来、存在すべきではないもの」という負の宿命を刻印されている。「勝つことは光栄ではない」。武道修行の目的はあくまで効果的な防衛と敵の殺傷にある。しかし、まさにその「勝つための」技術的努力そのものが、結果的に「勝つことを求めない」という武道の自己否定を導き出すことになるのである。〉(「私の身体は頭がいい」から抄録)
防衛と殺傷は本来的に不要であらねばならない。警察機能と同等だ。しかし、そうはいかない現実がある。自己否定を目指してひたすら存在せざるをえない。このアンビヴァレンツに呻吟するのが武道だ。それは「遊び」とはまったくの対極にある。対極を対置すれば此岸が闡明になるゆえに、炯眼を徴した。
蛇足ながら、「流行語30選」に追加してほしい候補が一つある。今年のハロウィンでの渋谷センター街理事長のひと言。
「あれはハロウィンではなく変態仮装行列だ」
これはいい。「変態仮装行列」、是非これをお願いしたい。変態と仮装、こんな形で若者たちがガス抜きをしてくれる。権力の要路にある方々はどれほどお慶びか。半世紀前、ほど近い新宿駅で同じ10月下旬に何があったか。新宿騒乱である。渋谷で軽トラが横倒しにされたなどというレベルではない。理事長は続けて「放置すればテロに繋がる」と言ったが、「テロに繋がる」はずがないから「行列」に終始したのだ。「テロ」は見事に「仮装」に「変態」したと見るべきだ。新宿の騒擾から50年弱、隔世の感どころか隔世、隔絶した。ひょっとしたら、「変態仮装行列」もスポーツか。「競技性」を抜かれた「遊戯性」。実に平和的だ。 □
7日、『2018 ユーキャン新語・流行語大賞』にノミネートされた30語が発表された。以下の通りである。
あおり運転/悪質タックル/eスポーツ/(大迫)半端ないって/おっさんずラブ/GAFA(ガーファ)/仮想通貨/ダークウェブ/金足農旋風/カメ止め/君たちはどう生きるか/筋肉は裏切らない/グレイヘア/計画運休/高プロ(高度プロフェッショナル制度)/ご飯論法/災害級の暑さ/時短ハラスメント(ジタハラ)/首相案件/翔タイム/スーパーボランティア/そだねー/ダサかっこいい/U.S.A/Tik Tok/なおみ節/奈良判定/ひょっこりはん/ブラックアウト/ボーっと生きてんじゃねーよ!/#MeToo/もぐもぐタイム
3分の1は知らない。聞いたことも、見たこともない。「おっさんずラブ」なぞはおそらくTVドラマ発だろうし、「ダークウェブ」はネット関連、「Tik Tok」はインスタグラムの発展型、「ダサかっこいい」は流行りの歌絡みかなと察しはつく。だが、朝ドラ、大河をはじめTVドラマはまったく見ないし、ネットはするがダークには無縁。今時の流行り歌はひどくインパクトに欠けるから聴きもしない(ビートルズやフォークの洗礼を受けた団塊世代には口当たりがよすぎる)。「ボーと生きてんじゃねーよ!」はNHKに登場するキャラクターの決め台詞らしい。これはなんだか面白そうなので、観てみたい。
8語については小稿で話題にした。
「悪質タックル」は5月、『反則タックル』と題して。
「仮想通貨」は1月と2月、『仮想通貨 愚考』『仮想通貨 <承前>』で。
「金足農旋風」は8月、『金足農のお手柄』とのタイトルで。
「君たちはどう生きるか」は3月、『君たちはどう生きるか』と同題にて。
「首相案件」については、加計学園問題に関連して8月に『偶感2題』で取り上げた。
「スーパーボランティア」は8月、『マンオブザイヤー』として紹介した。
「なおみ節」は9月『大坂なおみの意味』と掲げて愚考した。
ただ振り返って心残りなのが、「ご飯論法」と「翔タイム」の2語。この2つは触れるべきだった。遅ればせながら以下、フォローアップしたい。
「朝ごはんは食べたましたか?」と問われて、「パンは食べましたが、ご飯は食べてません」と答える。「ご飯」には食事と米飯の2意があるのを利用して素っ惚ける論法である。俗にいう「ご飯論法」だ。子どものころによくやった言葉遊びである。これを大の大人がやっちまった。
5月、高度プロフェッショナル制度の審議中、当時の加藤勝信厚生労働相がデータの提示を拒んだ。再三責め立てられて窮した挙句、「原本を要求されたと誤解していた。資料表なら対応できる」と答弁した。この子ども騙しが「ご飯論法」だと糾弾された。原本=ご飯、資料表=パンとでもなろうか。根拠薄弱だったデータを出して糾弾されるのを避けようとしたのだろう。案の定、数人からの聴き取りを大多数のように誤魔化していたことが後に判明した。天網恢々疎にして漏らさず、である。
加藤答弁には2つのことがいえる。
こんな幼児レベル、子ども騙しの言い訳をするのは、この大臣は幼児レベルの「バカではないのか?」。あるいは、質問者を見くびって「バカにしているのか?」のどちらかである。この2つより他には考えようがない。
立場上、国民の代表を「バカにしている」とは口が裂けても言えない。それを公言した途端、大臣の首を失うことになる。それは禁句だ。ならば、この大臣は「バカだ」ということになる。では、なぜこんなのを大臣に任命したのか。任命したトップは「バカではないのか?」。あるいは、彼を「バカにしているのか?」のどちらかである。重要閣僚を「バカにしている」とは口が裂けても言えない。それでは任命しておいて大恥を掻かせ晒し者にすることになる。当然、任命責任を問われる。それは言えない。ならば、このトップは「バカだ」ということになる。では、このトップを押し上げている国民は「バカではないのか?」。あるいは、この宰相を「バカにしているのか?」のどちらかとなる。「バカにしている」者をトップに押し上げるはずはない。それでは自家撞着だ。であるなら、国民は「バカだ」という結論に至る──。
以上の理路はどこか可笑しいであろうか。飛躍しているだろうか。稿者としては石橋を叩いて辿ったつもりなのだが、この盆暗アタマにはどうにも判断がつきかねる。
「オ、オ、タニさーん」はついに新人王の栄冠を手にした。遡る6年前の12年3月、拙稿「私的イチロー考」と題して愚案を述べた。
〈いままでの日本人メジャーリーガーたちは「世界標準にキャッチアップ」するため、太平洋を渡った。それぞれに当否はあったが、キャッチアップの域を出ない。たとえ大成できたとしても、彼方にある世界標準を目指す限り「辺境の限界」を超えたとはいいがたい。決して、「世界標準を新たに設定」したわけではないからだ。つまりは、力試しの大リーグだった。
ところが、イチローはちがう。大袈裟にいえば、「世界標準を新たに設定」した。年間200本安打記録の更新はその象徴であるが、肝心なのはその中身だ。記録が、大リーグ流ではない独創によって生まれたことだ。振り子打法は確かに独創的だが、長打による力業の得点という価値観を塗り替えたことはもっと独創的だ。大リーグで、シングルヒットの威力と魅力を高々と打ち立てた。〉
この伝でいくなら、『二刀流』は中断はしたものの「大リーグ流ではない独創」(ベーブルース以来絶えて久しい)を「高々と打ち立て」ようとしたといえる。「世界標準」への挑戦であり、大リーグという大興行にねじ込んだ「翔タイム」といって過言ではなかろう。幕間劇に終わらぬよう、再来年を期してほしい。そう切に願う。
大賞は12月3日に発表の予定。平成最後の流行語大賞だ。『最後』とつくと、「そだねー」と感慨一入である。 □
朝まだきのしじまを破るのは小鳥の囀りだ。居残る暗がりの中で、新聞受けがコトンと咳払い。陽の光がしだいに確かになり、人の発する音が陋屋の内外(ウチソト)で起ち上がってくる。
すーっと、またもや眠りに誘(イザナ)われる。この刹那が極上だ。
決まって七時半、にわかなざわめきに目を覚ます。
ボールを蹴る音、壁に当たる音。追いかける靴音。女の子の叫声、男の子の喚声。まだ来ぬ友を呼ばわる声。
拙宅の斜向かいに少しばかりの空き地がある。小学生たちが集団登校する出発地だ。毎朝の騒動はそこで起こる。だれも咎めない。当たり前だ。昔ならいざ知らず、今となっては貴重な未来のさんざめきなのだから。彼ら以外に、だれが後継するというのか。
約十分ののち、群れは隊伍となって遠ざかる。今度はこちらの番だ。やおら床を離れる段取りに入る。といって特別なことはない。今日の予定を検める。さしたる用件はない。ならばともう少しの朝寝(アサイ)を欲しがるわが身との格闘である。なにせ朝は重いのだ。
老いてなお馬齢を重ねることは障害を漸次抱えることだ、とどこかで読んだ。有り体にいえば、高齢者は障害者になる道行、となろうか。心身の障害を認知と呼んだり、介護度に振り分けるのはその露わで別の表現だ。そこまで行かずともそのとば口に向かいつつあるのかと、朝の重さに切なさが先走る。
「後ろの人、聞こえますか?」をメタメッセージという。メッセージのコンテンツに先立つメッセージだ。だから、ふと考える。あの毎朝の騒動は今日という日のメタメッセージではないか、と。中身はいずれにせよ、「みなさん、今日が始まりますよ」。そう寄こしているのではないか。いや、待て。ひょっとしたら、「朝が重い人、人生が始まりますよ」なのかもしれない。だって、どれほど年を取ろうと今が一番若いのだから。「若かった」時はあっても現在形で語れる「若い」は今、この時でしかあるまい。
春はあけぼの。やうやう白くなり行く、山ぎはすこしあかりて、むらさきだちたる雲のほそくたびきたる。
清少納言はあけぼのの細やかな移ろいに春の核心があるといった。転じて、春を一世のはじまりとすれば、あけぼのの移ろいはあのさんざめきの顚末か。
小学生たちよ、ありがとう。今日も健やかであれ。 □
先日のこと、近所の小2に算数の質問をされた。
「工夫して計算」の章
▼ 26+7
/\
4 3
(26+4)+3=33
上記の例題を説明してくれという。君、訊く相手を間違ってないか。天下に怖れなき算数音痴の拙者になんと向こう見ずな。しかし、退いては団塊の沽券に関わる。盲蛇に怖じずで、やおら答えようとするも
/\
4 3
これが判らない。「さくらんぼ計算」というのだそうだが、なぜこんな面倒くさいことを年端の行かぬ小2にさせるのか。調べてみると、繰り上がりのある足し算を10単位のまとまりを作って「それといくつ」で答えを求めていく計算方法だそうである。 /\ はさくらんぼの枝分かれを象る。なんとも分かったような分からぬような。そんなもの、丸覚えで暗算させればいいのにと首を傾げる。引き算となるとこうだ。
▼ 42-7 は、
/\
30 12 と分けて
12-7=5 次いで
30+5=35
まとめると、 30+(12―7)=35 となる。または
42-7 を
/\
2 5 と分けて
42-2=40 次いで
40-5=35 となる。
まことに奇妙奇天烈。子どもによってはやたら分け過ぎちまって置き忘れたり、足したり引いたりでこんがらがったりする子もいるそうだ。これは勉強に名を借りた児童虐待ではないか、と義憤が湧いてきた。「さくらんぼ計算」は約10年前に始まったそうで、賛否両論だが否定的意見が多いらしい。推進派の意見はこうだ。
──「さくらんぼ計算」が理解できると、数を集まりとして考えられる。さくらんぼ計算ができると、足し算引き算が驚くほど簡単にできるようになる。10が4つで40、100が6つで600と、集まりで掴めると掛け算の理解が早い。旧来の方法論に固執することなく、新たな考え方を柔軟に取り入れるのは子どもにとって役立つ。──
キモは /\ と ( )。分解と合体。微分と積分。分析と総合。近代的思考へのとば口ということか。
その昔、稿者は小4の時、算盤を拒否した。これからは電気計算機の時代(「電子」といわないところが古い!)、算盤は必要ないと頑なに忌避した(単に面倒くさいゆえの口実だったか。多分)。九九も“2・1が2”から“5・9 45”までしか覚えなかった。6の段以降はひっくり返せば同じではないかと。ツケは見事というか惨めに回ってきて、著しく計算能力に遅れを生じ今日に至っている。
今考えてみると、算盤は形を変えた「さくらんぼ計算」ではないか。桁は小枝、珠はさくらんぼである。九九だって、インドの九九・九九の圧倒的計算力に太刀打ちできない。ましてや“5・9 45”止まりの半端者は論外だ。計算機の予想だけは僅かに擦ってはいるものの、リープフロッグした算盤で失ったものは比較にならないほど大きい。
小2君には苦し紛れに「こんな教え方は変だよ」と啖呵を切ったものの、なんだか恥ずかしくなってきた。
「もののふの矢橋の船は速けれど急がば回れ瀬田の長橋」
京へ行くには琵琶湖横断の渡し船がショートカットだが、比叡おろしで危ない。やっぱり陸路で橋を渡って行く方が安全で早い。稿者などさしずめ強風で転覆した渡し船の客。哀れにも今も溺れ続けている。
桜からさくらんぼはできない。木が違う。桜花の後にいつまでもさくらんぼを待っている愚か者こそ拙者であろうか。小2君、やっぱり訊く相手を間違っていたようだ。 □
韓国大法院が元徴用工への賠償請求権を認めた判決について、参議院外交防衛委員会の中曽根弘文氏は「国家の体をなしていない」と切り捨てた。行政府が決めた国際条約を立法府がひっくり返す。そんなことでは民主国家の基(モトイ)たる三権分立は無いに等しいと言いたいのだろう。
稿者の見方は逆だ。三権分立がキチンと機能しているからこそ行政府にオブジェクションを突き付けられるのではないか。文在寅大統領の元々の意向に沿ったとの推察もあるが、現職としては対日関係で板挟みを強いられることになりあながちそうともいえまい。この判決に参加した大法院裁判官13名のうち李明博・朴槿恵政権で任命されたのは6人、現政権で任命されたのは7人。反対意見は2名で、1名は文大統領の任命である。是にせよ非にせよ、現政権を“忖度”した結果とは毛頭いえない。
日本はどうか。08年アメリカ公文書によって、安保条約の違憲性が争われた砂川事件で合憲の判決をくだした最高裁判決にアメリカからの圧力が掛かっていたことが判明した。かつて拙稿で「白井 聡氏がいう『永続敗戦レジーム』のグロテスクで象徴的な一場面だ。はたして本邦は独立国や主権国家と名乗りうるのか、まことに恥ずかしくなる」と述べた(16年5月「2つのムラ」)。
白井氏は「『戦後』の墓碑銘」で病根をこう抉り出した。
〈この国には、表向きの憲法を頂点とする法体系と、国民の目から隔離された米日密約による裏の決まり事の体系という二重体系が存在し、真の法体系は当然後者である。言い換れば、憲法を頂点とする法体系などに、大した意味はないのである。官僚・上級の裁判官・御用学者の仕事とは、この二重体系の存在を否認することであり、それで辻褄が合わなくなれば二重体系があたかも矛盾しないかのように取り繕うことである。この芸当に忠実かつ巧妙に従事できる者には、汚辱に満ちた栄達の道が待っている。日本のそれこそ万邦無比たる所以は、この傀儡性に社会全体が無自覚であり、メディアを含む支配層が全力を挙げてこれを否認するところにある。〉(抄録)
「栄達の道」を歩んできた代表的人物である中曽根氏には「二重体系の存在を否認」することが「仕事」である。実態的に三権分立が空洞化している悍しい実相に目を閉じるのは当然だ。
対米関係について日本の司法が統治行為論を盾に正面から向き合ってこなかったのはつとに知られた事実である。特定秘密保護法、PKO法権限の拡大、集団的自衛権を含む安保法制での恣意的な憲法解釈。憲法99条「憲法遵守義務」を無視して行政府の長がその改正をこともあろうに国会で呼ばわる。行政が司法を蚕食しているのは明らかだ。そしてなにより沖縄を筆頭に、日米地位協定は日本を平気で尻目に掛けている。「国家の体をなしていない」のは日本の方ではないか。
さらにもう1点。いくらカネを積んでも、いくら取り決めを巡らしても、敗戦の処理は終わってはいないという現実だ。その現実がこの判決に先鋭的に表出されている。大法院判決が突き付けているのはその現実だ。「国際法に照らしてあり得ない判断」(首相)を導出する背景にこそ目を凝らすべきではないか。「あり得ない判断」にはあり得ない事由が潜んでいるはずだ。それを解(ホド)くのは木で鼻を括るように去なすより、鬼の首でも取ったようにマウントを取るよりずっと大人の対応ではないか。国際法に悖るために蒙る不利益をなお超えるプライオリティとは何か。30年に及ぶ被征服民のルサンチマンは軽く考えない方がいい。
内田 樹氏はこう語る。
〈自分を相手の立場に置いてみる想像力があれば、「謝罪は済んだ。われわれには咎められる筋はない」という態度を示されたら「そういうことなら永遠に許さない」という気分になることくらいわかるはずである。今の歴史認識問題は事実関係のレベルにあるのではない。解釈のレベル、さらに言えば感情のレベルにある。どうすれば被害者からの無限の謝罪要求は停止できるのかというプラグマティックな問いに私たちは向き合っている。そして、経験則は「無限の謝罪要求」は「もう謝ったからいいじゃないか」という自己都合ではなく、「あなたの言い分には十分な理がある」という「自分の立場をいったん離れた承認」によってしか制御できないことを教えている。〉(「内田 樹の大市民講座」から)
本邦の宰相にひと言。「国際法に照らしてあり得ない判断」と言う前に、「憲法に照らしてあり得ない判断」をしてはいないかと、自らを省みてはいかがか。 □