伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

日曜はお休みですか?

2007年01月28日 | エッセー
「はじめに、お客様のお名前とシリアルナンバーをお聞きします」
「名前は○○です。ナンバーは○○○○です」
 (キーを叩く音が聞こえ、やや間があって)
「では、ご質問をどうぞ」
「変なことを聞きますが……。このソフトを使って今年で10年になります。でも、記憶するかぎり日曜日にウイルスパターンの更新がされたことがありません。……日曜日にはウイルスは発生しないんでしょうか?」
「いえ、決してそんなことはありません。日曜日に配信することもございます。でも普通は月曜日にまとめて配信しております」
「え、どうして」
「月曜日から会社関係が動き始めますので、それに合わせて、まとめてですね……」
 (遮るように)
「でもそれはおかしいでしょう。個人ユーザーは、むしろ日曜日こそたくさん使うんですよ」
 (明らかに、相手の声がトーンダウン)
「あ、はい」
 (少し冗談めかして)
「日曜にはウイルスさんもお休みならいいんですが。ハッカーだって休みの日曜日には張り切るんじゃないですか?」
 (引きつり気味に)
「ホ、ホ、ホ」
「個人ユーザーのことも考えて、勤務態勢を変えたり、なんか工夫してほしいですね。ぜひ、こういう意見があったと上げておいてください」
 (多少、事務的に)
「はい、承りました」

 決して死ぬほど暇だったからではない。ずーっと前から気になっていたのだ。昨日、意を決して電話してみた。
 たしかに、ニュースになるくらいの猛者が出現した時は日曜返上で事に当たるらしい。しかしそれは年に一度あるかないかだ。ネット社会の現状を考えれば、アンチウイルスの業界にもインフラの担い手であるとの社会的使命を自覚してほしいものだ。
 早い話が、泥棒さんに日曜も旗日もないだろう。むしろそれは稼ぎ時だ。110番や119番が日曜はお休みです、となったらどうする。ましてやネットは地球規模だ。日時はまちまちだ。さらに、ムスリムの域内では金曜日が休日となる。
 どことは言わないが、わたしが使っているソフトは至極メジャーなメーカーのものだ。他社も同様かどうかは委細に調べたわけではないが、似たようなものであろう。
 そこで、『欠片の主張 その4』

  ―― アンチウイルスのメーカーは日曜・祭日関係なくワクチンを配信せよ! かつ、24時間のサポート体制を整備せよ!

  一説によると、ウイルスは1時間に20個も増殖を続けているという。暢気(ノンキ)に構えていると、ネットは穴だらけになってしまう。先行メーカーが殿様商売に胡座をかいている隙に、『カスペルスキー』に足下をすくわれかねない。その創業者は元KGB。筋金入りのプロフェッショナルだ。危機意識が違う。いまやKasperskyは世界を席巻する勢いだ。先行メーカーの諸氏よ、ぜひ一考を。
 と、ここで筆を置こうとしたのだが、ご同輩がいた、いた。国会議員の先生方である。いつのころからか、どういうわけか、国会も土日はお休みである。こちらは土曜日もだ。まことに呑気なものである。「国事多難の折」とは常套句だが、その割には悠長ではないか。仄聞するところ、土日には選挙区にお帰りになるという。「国民の声を直に聞く」のだそうだ。しかし有り体に言えば、選挙区の手入れであろう。
 頂門の一針になるかどうか。先生方に次の言葉を贈りたい。 
 「政治屋は次の選挙のことを考え、政治家は次の時代のことを考える」 米国の思想家・J.Fクラークの箴言である。
 
 さて、本稿をアップロードする前に試してみた。やはり、更新なし。ちなみに今日は日曜日である。□

納豆に恨みはない!

2007年01月22日 | エッセー
 決して納豆に恨みはない。貴重な栄養食品として、隅にも置けない扱いをしてきた。尤もわが家の総菜の数はきわめて限定的である。所有する皿が少ないという以前の事由による。したがって納豆は主役格である。隅などに置きようもない。
 その納豆、喰い続けて2週間。それも三食の度にだ。納豆にはなにも含むところはない。怨恨を抱く筋合いはない。憎いのはあの放送局だ。それにまんまと乗せられた連れ合いだ。その愚妻になだめ、すかされ、時にはおどされて食い続けたわが身はやるせない。情けない。面映ゆい。
 異変に気づいたのは3、4日経ったころだ。いかに貧相な献立とはいえ、これほど連続することはかつてなかった。訊いてびっくりである。ただ、食い続けたとて毒にはなるまいと割り切ってはみたものの、やはり飽きる。飽食とはなにも品数のことでも量のことでもないと合点した。一品でも夢でまでうなされる飽食は可能なのだ。 以下、朝日新聞から。
  ―― 「あるある大事典2」21日の放送中止
 フジテレビ系の関西テレビは20日、1月7日放送分の情報番組「発掘! あるある大事典2」で架空の実験結果やデータ、専門家のコメントをねつ造して放送したことを発表、千草宗一郎社長(62)らが謝罪した。納豆のダイエット効果を取り上げたもので、放送後、全国の店頭で納豆の品切れが続出していた。同番組は21日の放送を休止。今後について協議、検討するが、フジ内部から「番組継続は難しい」との声もあり、打ち切りは濃厚だ。(2007年1月21日)
 「テレビにだまされてはならない」とは本ブログで何度も語ってきた。「百聞は一見にしかず」の落とし穴についても述べた。しかし当の本人が野壷にはまったのでは、まったく面目ない次第である。ご愛読いただいている方にとっては『納豆食う』(お粗末!)いかない顛末であろう。いや、情けない。
 わが家にとって不二家の不祥事は問題ではない。不二家と縁が切れて十数年になる。だが、テレビ局と縁を切るわけにはいかない。腐れ縁であろうとも、縁は縁である。ならば、テレビとの付き合い方を重々に弁えねばならぬ。
 そこで、養老孟司氏の怖ろしい話を引用する。

 私が育ってきた時代と、いまの子どもが育ってきた時代で、第一に決定的に違うことは、テレビのあるなしです。お母さんが忙しいものだから、小さな子どもがテレビの画面をジーッと見ている。子どもは、テレビの画面に引き入れられている。テレビの画面の中では、ご存じのように、人間が出てきて言葉をしゃべっている。何人もの人物が出てきて、その中でいろいろなことが起こる。そこで唯一外されているのは誰か。見ている子どもです。そして子どもがそれに対して怒ろうが、笑おうが、何を話しかけようが、テレビは考慮に入れない。いっさい子どもの働きかけには関係なしに自分で実行していきます。こういう体験が積み重なっていくと、世の中で起こっている事件は、だんだん現実感がなくなります。すべてテレビの中の出来事と同じで、しかも自分はそれから離れているという感覚になります。それはきわめて自然な成り行きです。最近は離人的な訴えをする若い人が多くなってきているという。「離人症」というのは、自分のことであっても、あたかも他人のことのように感じられる病です。何か遠いのです。学生のレポートを八○○枚採点していたときのこと。レポートは、家族について書かせたものです。それを読んでいて驚いたことがありました。その中に「じつは私はいま、ときどき自分の家族が口をきいているロボットか人形のように見える」という告白をしているレポートが二枚ありました。これが典型的な症状の一つです。とにかく見たところは人間だし、しゃべっていることも違和感がないし、しかもちゃんとしゃべっているのだけれど、どうしてもそれがある現実感をもって自分に訴えてこない。テレビの世界が移ってきて現実の世界となり、現実の世界の登場人物が機械人間となる。私たちの学生時代には、これを精神科で分裂病の初期に発現する症状だと習いました。これは現代社会にきわめて普通に起こることです。そういう社会をわれわれがつくってきたのです。 <1999年、(財)教育調査研究所主催のセミナーでの講演から>

 これは実に恐い話だ。年末から年頭にかけて衝撃を呼んだあのおぞましい事件も、宮勤も酒鬼薔薇聖斗も、さらにはオウムも、上記の事情となにか通底しているのかも知れない。これに比べれば、納豆事件など取るに足りない。少なくとも健康を害することはない。むしろテレビのウソに蒙を啓く教育的効果の方が大きい。と、これは弁明にあらず。世の出来事もネバリが出るまで何度も掻き回せば、風味が違ってくる。納豆と同じように……。□

こいつぁ、春からキレがいい!

2007年01月17日 | エッセー
 初春の13日、朝日新聞オピニオンの欄にキレ味鋭い投稿が載った。「笑点」でお馴染みの落語芸術協会会長・桂 歌丸氏である。以下、抜粋。

■ お笑いブーム ―― 透けて見える世の危うさ  桂 歌丸(落語芸術協会会長)
 このお正月の寄席は連日満員の盛況でした。お笑いも大ブームです。テレビはお笑いタレント総動員で、テンポの速い漫才やコントで、それこそ笑いっぱなしにさせてくれる。
 でも、どうでしょう、私は見ててくたびれちゃう。見た後に何も残らない。そして、聴いた後ジーンとくる、ほのぼのとする、そんなものが欲しくなる。寄席の盛況は皆さんのそんな気持ちの表れじゃないか。となると、落語ブームも、ただ喜んでばかりはいられないのかもしれません。ギスギスした世の中の反動じゃないかとも思うんです。
 余裕のない、シャレの通じない世の中になってきました。去年を振り返っても、悲しいことや腹立たしいことがありすぎて、一つ一つあげられないくらい。
 大体、政治家に笑顔がない。特に野党の幹部。自民党の方がまだ表情に余裕がある。外国の政治家は必ず冗談を言います。笑わせること、人を楽しませることを大事にしてる。日本でやったら「不謹慎だ」って言われるでしょうが、政治家にもユーモアや人間味が欲しいですね。吉田茂、福田赳夫、大平正芳。みんな落語好きでした。今はいません。後援会の方々は時々団体で寄席に来るけれど、政治家本人は来ない。オペラや歌舞伎もいいけど、時には寄席にいらっしゃい。
 結局、大事なのはコミュニケーションなんです。落語は1人で演じますが、登場人物の会話で話が進みます。お客の顔を見ながら、反応を見ながらします。コミュニケーションの芸なんです。一方、漫才はぶつ切りの笑いを連続するだけで、最後のせりふは必ず「もうええわ」でしょ。コミュニケーションを断ち切ってしまう。議論の必要なし、問答無用。こういう笑いに浸り続けるのは、考えてみると、危険なことじゃないですかねえ。笑いに限った話ではありませんよ。

 一読して唸ってしまった。キレ味、抜群だ。そこいらの評論家なぞ顔色なしだ。
 「見ててくたびれちゃう」とは、流行(ハヤリ)の言葉でいえば笑いに『品格』がないことも一因ではないか。品格の一つが『知的な香り』だとすると、タモリが『ボキャテン』、『トリビア』、『ジャポニカ』とウィングを広げるのはこの辺りが狙いか。タモリほどの芸人が、いまどきのお笑い事情に唯々諾々と身を委ねている筈がない。
 落語ブームを「ギスギスした世の中の反動」と見るのは決して手前味噌ではないだろう。もともと政治ネタが十八番(オハコ)の噺家である。いわゆる「洒落のめす」のはお得意だ。『大喜利』の回答者時代、何度も絶品に快哉を叫んだものだ。
 報道によると、民主党の党大会で例のテレビCMに大変なブーイングが起こったそうだ。以下、毎日新聞の記事。
  ―― CMは嵐の海を行く帆船でかじを取っていた小沢一郎代表が突風で飛ばされて倒れ、菅直人代表代行、鳩山由紀夫幹事長が脇から支える内容。同日の常任幹事会で「地元で大変不評だ。どういうコンセプトなのか」(平岡秀夫衆院議員)などの批判が出たほか、党大会では「小沢氏の昨年の入院騒ぎを思い出しヒヤッとした」(中野寛成前衆院副議長)との指摘も。(1月16日付)
 「政治家に笑顔がない。特に野党の幹部。」とは、言い得て妙だ。まさかアゲインストに吹っ飛ばされて笑っているわけにもいくまい。「コンセプト」ではなく、スクリプトがよくないのだ。どこの脚本家かは知らぬが、スクリプトが正直すぎたようだ。でも正直の頭に神宿るともいうし、難しいところではある。
 吉田茂とくれば、「あなたは何を食べて生きているのですか?」との質問に「わしゃ、人を食って生きとるよ」がすぐに浮かぶ。これほど「人を食った」返答はない。名言・迷言には事欠かない名宰相であった。福田赳夫、「天の声も時々変な声がある」。総裁選で予想外の敗北を喫した時のことだ。同じ『天の声』でも知事のそれはいただけない。大平正芳、これはもう極めつき。「あー、うー」である。「声なき声」の元祖か。巧まざるユーモアからして、このお三方が落語ファンであったとは十分頷ける。
 「オペラや歌舞伎もいいけど、時には寄席にいらっしゃい。」とはオオイズミ君のことであろう。もっとももはや、『どこへ』『いつ』行こうとも文句を言われる筋合いはなくなったのだが。
 続いての落語と漫才の対比。「もうええわ」はコミュニケーションの断絶であるとの切り込みには唸る。意表を突かれ、かつ納得である。何事によらず、断絶は悪に通ずる。「議論の必要なし、問答無用。こういう笑いに浸り続けるのは、考えてみると、危険なこと」とはひとつの警抜な文化論だ。
 養老孟司氏は、「コミュニケーションの基礎になっているのは、それぞれの脳が出している表現です。その表現の典型的なものが言葉です。人間はこういう大きな脳を持つことになって何をしたかというと、まず社会をつくりました。その社会の中ではコミュニケーションがどうしても必要で、それが脳と脳を繋いでいる」と述べる。(大和書房「まともバカ」より) 若干の差はあるものの、平均1350グラムの脳と脳を繋ぐのがコミュニケーションである。これが切れると、人の世が立ち行かなくなるのは道理だ。「切れ」やすい人間が増えているのはその兆候かも知れない。
 師匠のはなしは実にキレる。無類のビール党であるわたしに言わしめれば、『スーパードライ』よりキレ味鮮やかだ。□

毎朝読んで

2007年01月12日 | エッセー
 元旦には三大紙の社説を読むことにしている。朝日と毎日は同じトーンだった。以下、要約。

■ 朝日新聞 ―― 戦後ニッポンを侮るな 憲法60年の年明けに
 自民党の改憲案で最も目立つのは、9条を変えて「自衛軍」をもつとすること。安倍首相は米国との集団的自衛権に意欲を見せる。
 自衛隊のイラク撤退にあたり、当時の小泉首相は「一発の弾も撃たず、一人の死傷者も出さなかった」と胸を張った。しかし、交戦状態に陥ることをひたすら避け、人道支援に徹したからだ。それは、憲法9条があったからにほかならない。
 昨年はじめ、うれしいニュースがあった。英国BBCなどによる調査で、日本が「世界によい影響を与えている国・地域」で、国家として堂々のトップ。「国民総カッコよさ」は世界で群を抜く。アニメ、漫画、ゲーム、ポップス、ファッション、食文化……。どの分野でも日本が世界やアジアをリードしている。
 軍事に極めて抑制的なことを「普通でない」と嘆いたり、恥ずかしいと思ったりする必要はない。安倍首相は「戦後レジームからの脱却」を掲げるが、それは一周遅れの発想ではないか。 むしろ戦後日本の得意技を生かして、「地球貢献国家」とでも宣言してはどうか。 

■ 毎日新聞 ―― 「世界一」を増やそう 挑戦に必要な暮らしの安全
 桜島大根は世界一大きいダイコン。法隆寺は世界一古い木造建築。野球の王ジャパンは米大リーグを抑え世界一。「男はつらいよ」は世界一長い映画シリーズ。東京競馬場の大型映像スクリーンは世界最大。トヨタの「カローラ」は生産台数世界一。そして、世界一の長寿国。この世界一のリストをどんどん増やしていこう。
 日本は少子高齢化とグローバリゼーションの荒波にもまれている。50年後、日本の人口は9000万人を割ってしまう。日本の1人当たり可処分国民所得は、長らく世界一だったが、近年、米国や北欧諸国に次々と抜かれつつある。「失われた15年」を取り戻すためには、目標と志を高く掲げる必要がある。私たちは、たくさんの世界一を生み出してきた。実績が日本人の能力を証明している。浮足立つ必要はない。
<注>「失われた15年」とは、1990年から2005年まで、日本経済がバブルの崩壊とその処理に追われた15年間。バブルの処理とは、バブル期に過剰になった金・人・設備を整理すること。処理しきれない部分は国民が負担することになった。

 読売は憲法問題。いつものスタンスなので本稿では割愛する。朝毎二紙は、さしずめ『上を向いて歩こう』か。『自信ノスヽメ』である。
 「いざなぎ景気」とはいうものの、いっかな下々には恩恵がない。百年俟てども河清(ス))まず。団塊世代の好きな曲第3位は「川の流れのように」だそうだが(朝日新聞調査、後述)、「川下理論」はどこへいったのだろう。どこかのダムで滞留しているのであろうか。ホワイトカラー・エグゼンプションどころか、『ホワイトカラー・エクソシスト』で悪魔払いを願いたいところだ。このままだと、あの忌まわしい「労使」という名の『階級闘争』の亡霊が息を吹き返すかもしれない。一億総中流はもはや昔日に後退し、十重二十重(ハタエ)の格差社会が蟠踞しつつある。
 もう一つのイシュー、憲法問題は第9条問題に集約される。朝日の主張は頷(ウナヅ)ける。焼け野原に立って、「軍事に極めて抑制的なこと」を『普通』であると宣言したところから出発したはずだ。ここが第一ボタンだ。ここを掛け違えてはならない。アンバイさんの「一周遅れの発想」には奇妙な先祖返りが潜んでいるのかもしれない。政治的な隔世遺伝とでも言おうか……。

 さて、朝日は元旦号で、「団塊 特集」を組んだ。
 「団塊の世代」とは昭和22~24年の3年間に生まれた700万人を指す。前の3年間19~21年生まれが300万人。後の3年間25~27年生まれが500万人だから、突出した塊だ。世界的にも事情は同じで「ベビー・ブーマー」と括ることもある。
 平成19年は昭和でいえば82年。22年生まれが還暦を迎え、今年から定年退職していく。経済成長を支えてきた世代がステージを去る。労働人口が減少することに加え、技と知恵の継承が課題となる。下手をすると「ものづくり」の水準が低下しかねない。 ―― これが「2007年問題」である。企業の8割は、定年の延長や若年者への技術研修などで手を打っているそうだ。だから、この問題に危機感をもつ企業は3割と少ない。さらに、退職金とあり余る時間を当て込んで、旅行・移住・リフォームなど15兆円超の経済効果も予測されている。ネガもあれば、ポジもありか。
 「団塊 特集」では、団塊5100人へのアンケート結果をまとめている。浮かんできた団塊の世代像は「社会憂えるビートルズ世代」だそうだ。
 好きな曲 ベスト3 ―― ①イエスタディ ②イマジン ③川の流れのように
 感動した本 ベスト3 ―― ①竜馬がゆく ②徳川家康 ③風と共に去りぬ
 「イマジン」については昨年12月8日付の本ブログで記した。「竜馬がゆく」は革命、「徳川家康」は建国、「風と共に去りぬ」は戦乱。この四つが並ぶと「社会憂える」世代像がくっきりと浮かぶ。なにせ、学園紛争とベトナム反戦の洗礼をうけた世代だ。社会性が希薄である筈はない。ゲバ棒、全学連、ジグザグデモ、団交、機動隊、安田講堂、新宿駅、アジ、立て看、ベ平連、ロック、フォーク、長髪、ノンポリ、同棲時代 などなど……。ほとんどが死語となったが、こうやって並べていくとあの頃の汗と涙がやおら立ち戻ってくる。
 「イエスタディ」は団塊世代に限ったことではない。20世紀最大のヒット曲であるし、地球のどこかで常に演奏されているという。ルーツはバロック音楽。勿論、ポールにそのような素養のある筈はない。ジーニアスたる所以か。ただ、団塊世代が多感であった時に活動期と重なった。世界のベビー・ブーマーが熱狂し、歴史は創られた。
 「川の流れのように」は昭和最晩年の曲だ。団塊の世代が四十路に達するころ。一息入る時期だ。ふと、ふり返りたくもなる。そのような心象風景に嵌ったのではないだろうか。
 アンケート結果の項目は ―― 成長支えた自負・年金に怒り/学生運動に誇り・右傾化警戒/家庭を犠牲・結婚退職ともに後悔、とまとめている。ほぼ『想定の範囲内』だ。異論は、ない。
 ついでに紹介すると、朝日新聞では「知的好奇心が旺盛なビートルズ世代の水先案内人 ―― どらく」なるウェブサイトを開設したそうだ。小さな親切、大きなお世話でもあるが、書き手自身が団塊世代であってみればそれもありか、だ。
 冗長になった。締め括ろう。
 団塊の世代は、その圧倒的なマンパワーで間違いなく今後20年の日本の動向を握っている。これは確かだ。オールを離せるわけがない! □

これで括って納得しようか……

2007年01月06日 | エッセー
 団塊の世代には記憶にあるだろう。NHKの連ドラ「おはなはん」。第17回芸術祭奨励賞を受章し、樫山文枝を一躍スターダムに押し上げた。昭和41年、奇しくもちょうど41年前のことになる。男勝りのお転婆が明治・昭和をまっすぐに駆け抜ける。まだまだ右肩上がりだった時代相ともマッチして随分と人気を博した。
 残念ながら、未だ『女勝り』という言葉はない。もう数十年、いやもう数年は要する。いやはやどうにも、また、してやられたのだ。このミュージシャン、男勝りといわずしてなんと言おう。本ブログの9月30日付「秋、祭りのあと」でも触れた。だが、このままにしておくわけにはいかなくなった。昨年11月にリリースされた「宙船(そらふね)」の勢いが止まらない。瞬く間にヒットチャートを駆け昇ってしまった。
 大晦日には、禁を犯して紅白のTOKIOを観た。長瀬が熱唱し、演奏もそつなくこなしているのだが、やはり御大の凄みはない。悲しいくらい、ない。彼らに『女勝り』を期待するのが、どだい無理か。家元を超えるのは並や大抵ではない。サビで、御大は拓郎の『怒鳴り節』よろしくシャウトする。終(ツイ)ぞ聴いたことのない歌いっぷりだ。これが凄みの一つではあるのだが、圧倒的なのは歌詞だ。『永遠の嘘をついてくれ』で痛打を食らったのだが、今度は足にきそうなカウンターブローだ。
 
  その船を漕いでゆけ お前の手で漕いでゆけ
  お前が消えて喜ぶ者に お前のオールをまかせるな  (「宙船」から)

 これは団塊への叱咤と激励にちがいない。2007年問題への一つの回答でもあろうか。小癪というか、小憎いというか。『男の一分』も危うい今時の男どもに、ここまで啖呵が切れるだろうか。よくぞ言ってくれるものよ。団塊の同士諸兄、意気に感じよ。もう一度、オールを手挟(タバサ)め。断じて離すな。潰れて堅くなった手肉刺(マメ)の上に新しい手肉刺をこさえようではないか。その疼きはきっと新鮮なはずだ。

 昭和45年、スチューデントパワーの嵐の中で吉田拓郎は叫んだ。

  古い船には新しい水夫が
  乗り込んで行くだろう
  古い船をいま 動かせるのは
  古い水夫じゃないだろう
  なぜなら古い船も 新しい船のように
  新しい海へ出る
  古い水夫は知っているのさ
  新しい海のこわさを  (「イメージの詩」から)
 
 この曲のなかで鬨の声が挙がったところだ。『オール』の奪取を宣言した瞬間だった。日ならずして『オール』を手にした一団が、いまそれを手放す時節(トキ)を迎えようとしている。『新しい水夫』に坐を譲るのか。それでいいのか。 ―― 「宙船」は遙かに時を超えたアンサーソングではないか。とすれば、御大、なかなか味なことをしてくれたものだ。ただ、合点(ガテン)はいっても納得がいかぬ。『団塊の一分』が納得しないのだ。

 昨年暮れのコンサートで、拓郎は『つま恋』の裏話を披露した。「リハで、50センチの距離で素っぴんの彼女を見た。…… いよいよ、本番で彼女が登場する。ぼくはたまらず叫んだ。『あいつは誰だ!』」宜(ムベ)なる哉(カナ)、ことし、五十路半ばに達する。 ―― いや、これは筆が滑った。お詫びの上、訂正しない。してみると、御大も団塊ネクスト。半分、納得できようというものだ。
 あとの半分はどうする。カウンターブローがまだ効いている。このままでは『団塊の一分』が立たぬではないか。
 いかに男勝りとはいえ、おはなはんは女の一生を歩む。勝りつつも女に徹した。しかし、御大・中島みゆきはどうも事情が違う。ひょっとして、御大のなかには『おとこ』が棲んでいるのではないか。あとの半分の納得を得るため、こんな括(クク)り方をするのは失礼千万。それは承知の上だ。勿論、『女勝り』の秀作、絶品も数多ある。しかし、こんな『おとこ唄』を創造できる才能とは異質であるに相違ない。こうでも括らねば、『男の一分』が立たぬではないか……。□