かつて、神話とは何か、と愚案したことがある。
〈神話とは始原的な出来事を伝える物語だという。さまざまな事象の原初を超自然現象や超人的英雄に仮託して語る。それは洋の東西を問わない。・・・・ともあれ、なぜメルヘンなのだろう、ということに尽きる。
アマテラスは卑弥呼だという説もある。だとすれば、実名で書いてあったら造作はなかろう。稲羽の素兎とは本土移住を熱願する隠岐島民だったという。ならば、そのように記してくれていたら……と。
口承説話を果敢にデフォルメしたのであろうか。それとも、幼児にメルヘンを聞かせるような按配で作話したのであろうか。記紀神話が作られたのは8世紀だ。刻下の事象をオーソライズしようとすると、時間軸を戻すのは何時に変わらぬ道理ではないか。それも始原にまで遡及するのが神話だ。事は史前だ。有史時代でさえも定かではない。ましてや先史においておやだ。
ということは、パースペクティブが逆だ。遡るのではなく、後付けではないか。あけすけにいえば、偽造だ。である以上は、断然ファンタジーでなければならず、壮大なメルヘンに徹しねばならぬ。人は小さな嘘には欺されるが、大きな嘘には酔う。ナチスの仕掛けも、ディズニーランドのそれも、木で鼻を括れば巨大な嘘だ。
ミソロジーとは、つまりそういうものではないか。後付けのメルヘン。問題は嘘に塗り込められたメタファーや実像をどう抉り出すか、そこに知性が掛かる。〉(13年5月『メルヘン?』から抄録)
「後付けのメルヘン」から「嘘に塗り込められたメタファーや実像をどう抉り出すか」。これが核心である。してみると、
『神武天皇VS.卑弥呼』 (新潮新書、先月20日刊)
は出色である。著者は関 裕二氏。日本古代史を研究する歴史作家だ。『藤原氏の正体』『蘇我氏の正体』『東大寺の暗号』など多くのスリリングでエキサイティングな著作がある。
近年、特に新幹線や高速道の拡張により遺跡の発掘が全国均一に飛躍的に進んだ。加えて科学的な年代測定の精度も上がり、古代史の研究は長足の進歩を遂げている。
関氏は本著についてこう述べる。
〈戦後の史学界が切り捨ててしまった「神話」と「神がかった神武天皇の活躍」を見つめ直す。『日本書紀』は王家の歴史を知っていたからこそ、神話を創作し、都合の悪いことを隠匿してしまったのではなかったか。しかし、謎解きのヒントなら山のようにある。志賀島の金印も、そのひとつだ。そして、卑弥呼と神武天皇にも、大きな秘密が隠されていた……。王家の正体、日本誕生の謎を、今こそ明らかにしてみようではないか。〉
日本書紀が隠した王家の謎とはなにか。キーコンセプトは2つ。「縄文ネットワーク」と「海の民」だ。その「縄文ネットワーク」の要が奈良盆地南東端にあるにある前代未聞の巨大人工都市・纒向遺跡である。奇しくも今月、纏向遺跡で出土した2800個の桃の種から新たな発見があった。朝日はこう伝える。
<桃の種、邪馬台国と同時代? 奈良・纒向遺跡で出土 年代測定で判明──所在地論争が続いてきた邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向遺跡(国史跡、3世紀初め~4世紀初め)で出土した桃の種が、放射性炭素(C14)年代測定で西暦135~230年のものとみられることが明らかになった。女王卑弥呼の君臨した時代と重なる可能性が高い。古代中国で桃は不老不死や魔よけの呪力があるとされ、祭祀をつかさどるとされる卑弥呼との関係からも注目される。〉(5月15日版、抄録)
上掲書の発刊から僅か半月、まさか桃の霊力ではあるまい。これで邪馬台国畿内説は圧倒的なアドバンテージを得た。さらに「海の民」と初代天皇・神武との関わり。奴国と邪馬台国、それにヤマトとの三つ巴の攻防。しかも神武は奴国の縁者であった。その彼がなぜヤマトの王に? そこに「王家の正体、日本誕生の謎」があるという。「神の国」発言で高名なシンキロウ元総理が聞けば仰天、卒倒するにちがいない古代史の腑分けが展開される。実にスリリングでエキサイティングだ。
「海の民」とくれば、網野史観が浮かぶ。網野善彦は日本を「農業社会」「稲作社会」とし弥生時代から江戸時代までは「農業国」であったという“常識”を「事実と異なる虚構であり、そこから描かれる日本社会像は大きな偏りを持っているといわなくてはならない」と断じている(『海民と日本社会』)。内田 樹氏も網野史観を踏まえ、近著『街場の天皇論』で源平合戦は海部(アマベ 海の民・平家)と飼部(ウマカイベ 陸の民・源氏)との鬩ぎ合いだったと仮説を立てる。平清盛は東シナ海全域に跨がる一大海洋王国を志向し、反対勢力が挙って源氏を担いだ、と。さらにもう一人。豊臣秀吉である。耄碌による暴挙と酷評される朝鮮出兵を内田氏は、
〈秀吉は別に朝鮮半島に用があったわけではない。半島経由で明王朝を攻め滅ぼし、後陽成天皇を中華皇帝として北京に迎え、親王のうちの誰かを日本の天皇にする計画だったのである。秀吉自身は寧波に拠点を置いて、東シナ海、南シナ海を睥睨する一大海洋帝国を構想していた。〉(上掲書より)
と論じる。こちらはもっと気宇壮大だ。したがって、
〈列島住民はその二つの道のどちらを取るべきか逡巡した。これは世界史的にはかなり例外的なことのように思われる。ある時は海洋国家を志向し、あるときは陸の国に閉じこもろうとする。日本は文字通り「海のものとも山のものともつかぬ」両棲類性の国家なのである。〉(同上、抄録)
と語る。大きく括れば、江戸時代が陸の国。竜馬や勝海舟が海の国を志向したといえる。内田氏の見立てはこうだ。
〈日本社会の海民性が際立つのは、中央政府の支配力が衰え、中枢的な統制が弱まった時である。なぜ日本では馬車が発達しなかったのか。答えはもちろん「水上交通が発達していたから」である。ではなぜ日本列島では水上交通が発達していたのか。それは海民と天皇の間に深い結びつきがあったからである。〉(同上)
振り出しに戻るようだが、「海民と天皇の間に深い結びつきがあった」その淵源が神武に繋がる。それは「両棲類性」の原初でもある。当たり前すぎるほど当たり前だが、本邦は四囲をすべて大洋が取り巻く海の国だ。「瑞穂の国」だけで済む話ではない。かつそれは未だ現代的イシューでもある。
ともあれ神武を追えばヤマトが、つまりは日本の生い立ちが見える。二代目梅原猛の出現であろうか。 □
拙稿をお浚いしてみる。
本年2月、中野信子女史の新著『シャーデンフロイデ』を取り上げた。
〈副題に「他人を引きずり下ろす快感」とある。今風なら“メシウマ”(他人の不幸で今日もメシがウマい)、古典的には“他人の不幸は蜜の味”となる。エンビー型嫉妬とジェラシー型嫉妬のうち、前者に当たろうか。・・・・日常にはびこる同調圧や排除の論理。行き着く先はテロリズムの狂気。それら現代が抱えるアポリアの深層に迫る好著である。〉
嫉妬のうち、他者を引きずり下ろして優位を守ろうとするものをエンビー型嫉妬という。シャーデンフロイデが誘因となるか。続けてこう綴った。
〈同書から連想すると、教育現場の実態がネガのように浮かんでくる。シャーデンフロイデの蠢動だ。内田 樹氏は
「できるだけ校則に従わない、できるだけ教師に無礼に接する、できるだけ時間割り通りに動かない、教室ではできるだけうるさくして、他の子どもたちの学習を妨害する」のは、市場原理が学校に入り込んだ結果、「『最少の学習努力』をさらに最少化する手立て」
であるという(『内田 樹による内田 樹』から)。続けて、
「子どもたちは、全員で全員の学習努力を引き下げ合うことによって、『ウィン=ウィン』関係が成立することに気づきます。自分の学習努力を最少化するためには周囲の子どもたちにも勉強しないでもらわないと困る」
と語る。絵に描いたようなエンビー型嫉妬であり、シャーデンフロイデの忠実な表出ではないか。〉
と、温習した上で重ねてみる。
日大アメフト部による反則タックルはシャーデンフロイデの極みではないか。エンビー型嫉妬の忠実な具現ではないか。〈「他の子どもたちの学習を妨害する」のは、市場原理が学校に入り込んだ結果、「『最少の学習努力』をさらに最少化する手立て」〉を盲目的に講じたのではないか。
「市場原理」は勝利至上主義とパラフレーズしてもよい。ただスポーツを学生集めのタクティクスに使ったり、大学スポーツをNCAA(全米体育協会)のように産業化する動きがあるのは「市場原理」そのものといえる。いずれにせよ、監督も選手も特異な失態を演じたというより特異な社会を体したというべきであろう。スポーツの危機という以前に社会の危機を先鋭的に象徴したとみてよい。監督の指示云々は二義的なイシューでしかない。監督は愚かにも世のありように先走っただけだ。
「何十年とアメフトと関わってきたが、あんなプレーははじめて見た」と、コメンテーターは口を揃える。だが、「あんなプレー」はこんな社会の生き写しであることを忘れないほうがいい。木を見て森を見ない愚は避けるべきだ。
「看過できない危険行為」だと文科大臣はコメントした。公用車でヨガに通う便宜も看過できない気もするが、教育の歪みが大学という最終フェーズで鬼子を産した事実は断じて看過すべきでない。監督は辞任しても問題は沙汰止みにはならぬ。
大学の学術性を測る有効な物差として、発表される論文の数がある。今、日本はOECD加盟35カ国中最下位である。かつてはアメリカに次いでいたが、今世紀に入り下降の一途。イギリス、ドイツ、中国に抜かれ、韓国、台湾にも後れを取り、ついに先進国で最低となった。本邦の高等教育はカラダもアタマもスカスカになりつつある、いやなったというべきか。反則タックルはそれら2つのスカスカをまんまと体現して見せた。どっかでボタンを掛け違えている。
そこで、愚稿をもうひとつお浚いしておきたい。昨年12月、『昭和、平成、そして』から抄録。
〈社会の主導的、基底的価値観で時代を大括りするとどうなるか?
◇ヒメ・ヒコ制を抜けて古代国家の成立から江戸末期まで──上一人(カミイチニン)より下万民(シモバンミン)に至るまで、雲上人、殿上人から水呑百姓に至るまで『お家大事』の時代であった。「家」の存続こそが最優先課題であった。天皇家の系譜、藤原氏の栄華、平家の盛衰、戦国、幕藩体制。すべてのリソースは「お家大事」に注がれた。日本史のほとんどは「お家大事」の時代であったといってよい。
◇明治維新から敗戦まで──「家」から『お国大事』の時代へ。日本史に日本列島と等身大の「国家」がはじめて出現した。欧米の植民地支配に対し「お国」を鎧うことで抗した時代だ。しかし緊急避難は常態と化し、やがて暴走を始め、遂に破局に至る。死を鴻毛の軽(カロ)きに比(ヒサシ)す。累々たる屍と潰滅した国土だけが残った。
◇敗戦後から平成──アメリカが乗っ込んできて「お国」は退き、『お金大事』へ。高度経済成長、エコノミック・アニマル、Japan as Number One。金権政治、やがてバブルに。だがバブルは弾けても、依然「お金大事」は続く。安全神話は潰えても、まだ懲りない面々は原発をまたしても動かそうとする。なんのことはない。「お金大事」が大手を振っているからだ。ブラック企業は若い血を吸い、大企業は安全を棚上げにしてコストを削る。少子高齢化という必然の流れ。今や独身者は大人人口の半数となり、一人暮らしは全世帯の4割となった。「お家大事」なぞ今は昔。さらに、見えてきた資本主義の終焉。パラダイムシフトが緊要なのに、旧態にしがみつく永田町。病膏肓に入るか、負債を後継世代に先送りして目先の「お金大事」に狂奔するアホノミクス。おまけに、「お国大事」に先祖返りする魂胆まで露わになってきた……。〉
「お金大事」がとどのつまり、ボタンを掛け違えさせたというべきか。かてて加えて、「お国大事」への先祖返り。これはもう一国挙げての反則タックルだ。 □
もうそろそろだろうが、梅雨の気配はまだない。麗らかな陽気に誘われて海辺を訪った。凪ではあるものの細い波頭(ナミガシラ)が揺蕩うように岸に寄せ、海原は日の光を浴びて一段と群青の度を増していた。
春の海終日のたりのたりかな
蕪村は丹後の海を詠んだらしい。白砂青松によく似合う。ひねもすには、厳冬とのきっぱりした決別が含意されているのか。晴る(ハル)時季の到来を嘉しているのか。なんといっても、この句は繰り返される擬態語が万言を一身に担う。人口に膾炙する所以だ。
春の海。のたりと寄せ、のたりと返す波。まことに長閑だ。しかし、それは時として凶暴な悪鬼と化す。大時化の波だ。さらに悪逆無道な魔神となって陸(オカ)を陵辱することがある。津波だ。津と呼ばれた船着き場を跡形もなく嘗め尽くす。七年前の惨劇は未だ癒えない。
海が宿す狂気。この星に住まう者が担い続けねばならない定めである。といって、並びなき俳人を揶揄するつもりなぞ毛頭ない。ただ一望の嫋やかな海を前に昨今の非道な事件が脳裏を掠め、人間の狂気と二重写しになったのだ。あるいは、人間界の理不尽と春の海との絶望的な落差に狼狽えたのかもしれない。
水平線に至るまで、舟一艘浮かんではいない。目を凝らしても、鋼を纏った遠洋船とてどこにもいない。無粋なほどに海一色だ。釣り人も見当たらない。こんな春の海では魚とて釣り餌には目もくれず、のたりのたりと潮の流れに身を委ねているのかもしれぬ。微風が朧気な磯の香を運んでくるばかりだ。
のたりと揺蕩う春の海。こんな日ばかりではないと、歩きづらい砂浜に足を絡まれつつ妙な自戒をしてみた。 □
5月10日、TBS『ひるおび』でのひとこま。
(柳瀬秘書官と面会したなら名刺を交換したのでは、との恵の問いかけに)
八代英輝 「愛媛・今治側から秘書官の名刺が提示されればもっと早く問題は済みますよ、と言ってるんです」
室井佑月 「出せないんだよ。力がある人が作ったストーリー(愛媛・今治側とは会っていない)をアイツが壊したと言われるから(もらった名刺を)出さないのは当たり前に決まってるじゃん」
八代「そういう可能性はあるが、当たり前じゃんと自分の意見が正しいと言い切るのはおかしい」
恵 「(八代発言が)子どもを諭すようでした」
明らかに八代は度を失っている。この国際弁護士とやらは自らの発言を卓袱台返しにされて切れている。有り体にいえば、ど素人に意表を突かれてたじろいでいる。同じような場面が3月にもあった。拙稿『だから言わないこっちゃない』を引く。相撲協会と貴乃花との角逐についてだ。
〈『ひるおび』で八代英輝がコメントしていた。被害者側に報告義務も聴取に応じる義務もない。暴行現場に居合わせた力士にも等しく報告義務がある。理事会での書面配布は法的対応として理に適っている、と。全知感芬芬のどや顔である。
と、隣席の福本容子が
「ここ(協会理事会)は法廷ではないんですよ」
と食らいついた。八代は法曹の高みから、会社だって報告するのは当たり前という世の大勢にオブジェクションを突き付けたつもりだろう。彼にはトリビアルな法律知識はあっても常識が欠けている。この場合、常識は「ここ(協会理事会)は法廷ではない」ということだ。〉
今回の「当たり前じゃん」は上記の「常識」である。さまざまな権威に取り囲まれ喘ぎつつ生きる市井の民草の本音である。だから、「自分の意見が正しいと言い切る」のだ。だって圧倒的なアドバンテージをもつ官邸という権威に抗するには、自説に強弁のバイアスをかけるほかはあるまい。権威の側はそのハンデを負う覚悟と度量がなければならない。そうではない狭量な権威は街頭のヤジに、すぐ「こんな人たちに負ける訳にはいかない」などと応じてしまう。
『ひるおび』での室井の立ち位置は街場における多少目端が利いたママさん世代、あるいはよく噛みつく声高なおばさんである。よって、恵の「子どもを諭す」発言は明らかに室井のトポスを見誤っている。『ひるおび』自体がたかがTVメディアでの井戸端会議ではないか。公聴会でも学術会議でもなければ、ましてや「法廷」でもない。その井戸端会議に室井は市民目線という主要な役回りを担っている。アンカーマンの恵だって、たかが芸人風情ではないか。なんの権威も纏わず、お笑いの感覚でツッコミを入れて場を取り仕切ることこそ真骨頂ではないのか。お前が八代に同調して室井をいじってどうする。井戸端会議の売りがすっ飛んでしまう。
ただでさえ劣化の甚だしいTVメディアではあるが、その上「全知感芬芬のどや顔」が大手を振るのはさらに癪に障る。で、ひとまずは室井くんにエールを送った次第である。 □
少しさかのぼる。
舞鶴の土俵で騒ぎが持ち上がったのが4月4日。福田元次官のセクハラ報道が4月12日。約1週間であった。だからハロー効果が働いたのか、舞鶴の火に油が注がれたようになった。
下りてくださいのアナウンスをした行事は相撲協会の訓(オシエ)に忠実すぎた。暴力追放の訓はいっかな力士に浸透しないのに、人命第一という至極当然の常識を忘れるほどにこちらは身につき過ぎた。皮肉なものだ。
返す刀は「女人禁制」に向かった。そこにセクハラ報道が“油”になった格好だ。相撲協会は臑に疵持つ身だ。マスコミは水に落ちた犬を打つがごとく集中砲火を浴びせた。しかし落ち着いて考えれば、女人禁制は歌舞伎だって同じではないか。双方、大衆文化にカテゴライズされる伝統技芸である。すぐに性差まで持ち出して口角泡を飛ばすほどのイシューになるのか、むしろたじろいでしまう。
それぞれにそれぞれの歴史を負うている。歌舞伎の女形は、それゆえにこそ表現できる女性性がある。贔屓が昂じて相撲は桟敷が修羅場と化した時期もあった。先月の拙稿で触れた綱吉の「服忌令(ブッキリョウ)」が災いしたやもしれぬ。伝統あればこその負い目だってある。
それをいやいや今の時代はと声高にジェンダーフリーを呼ばわるのは自らの知的高位を喧伝しているようで、なんとも鼻持ちならない。そんなことで騒ぐよりもっと大きな格差があるだろうに、とつい呟いてしまう。
碩学の言を引こう。内田 樹氏はかつてこう述べた。
〈フェミニズムが近代的システムの硬直性や停滞性を批判する対抗イデオロギーであるかぎり、近代文明に対する一種の「野生」の側からの反攻であるかぎり、それは社会の活性化にとって有用であると私は思う。だが、有用ではありうるが、それは決して支配的なイデオロギーになってはならない質のものである(ヒッピー・ムーヴメントや毛沢東思想が、支配的なイデオロギーになってはならないのと同じ意味で)。それは「異議申し立て」としてのみ有益であり、公認の、権力的なイデオロギーになったとき、きわめて有害なものに転化する、そのようなイデオロギーである。私は、フェミニズムが社会を活性化する対抗イデオロギーにとどまる限り、その有用性を認め、それがある程度以上の社会的影響力を行使することに対しては反対する。これはおそらくフェミニストからすると「いちばん頭にくる」タイプのアンチ・フェミニズムであるだろう。〉(「ためらいの倫理学」から)
フェミニズムについての論攷ではあるが、「声高にジェンダーフリーを呼ばわる」手合いとは踵を接する。なにより女人禁制批判が「社会を活性化する対抗イデオロギー」になるかどうか、甚だ疑わしい。大衆文化を批判する視点が常に高みに位し「知的高位を喧伝」しようとするからだ。百歩譲って「異議申し立て」にはなったとしても、「公認の、権力的なイデオロギー」になってはならない類いのものであるからだ。それは必ず個を圧殺する。
女性首長が土俵上で授章することにどれだけの社会的正義が結実するのだろう。大衆文化を開けて通してやって、代理で構わないではないか。実現すべき喫緊の社会的正義は他に山ほどあるはずだ。
世の中、一から十までキッチリ割り切れる整合性に充ち満ちているわけではない。そんなのは息苦しくて仕方ないはずだ。訳の分からない禁忌の一つや二つあって当たり前だろう。だって、世間には訳の分からない人間がわんさか集まっているのだから。 □
白鳥由栄(ヨシエ)、「昭和の脱獄王」との異名をとった男だ。26年間に脱獄4回、逃亡期間は累計3年に及んだ。昭和11年、青森刑務所を針金で手製の合鍵を作って開錠し脱獄。昭和17年、秋田刑務所をブリキ板に釘で加工した手製の鋸で鉄格子を切断し脱獄。昭和19年、網走刑務所を味噌汁で手錠と視察孔を錆びさせて外し、関節を脱臼させて監視口をくぐり抜け脱獄。昭和22年、札幌刑務所を金属片で作ったノコギリで床板を切り、食器で穴を掘って床下からトンネルを掘り脱獄。なんとも凄まじい。
吉村昭の『破獄』(昭和58年)は白鳥をモデルにした作品である。第36回読売文学賞を受賞した。ドキュメンタリー・タッチではあるが、グイグイ引き込んでいくサスペンスに満ちた秀作である。のち緒形拳の主演でTVドラマ化されたり、昨年4月にはビートたけしが主役を演じた。
平成の仕舞に突発したため印象には残るが、白鳥と比するに平尾龍磨はとても「平成の脱獄王」とは呼べまい。塀のない刑務所から逃げて小学校の塀で御用となった。巧妙な潜伏の割にはシャレのような幕切れだった。先月、『天網恢々疎にして漏らさず』と題した拙稿を呵した。やはりこの一件も「漏らさず」に終わった。
上記愚稿では憲法“改悪”をこの箴言に託した。憲法記念日を前にした朝日新聞の世論調査では自衛隊明記について、
〈安倍首相が9条改正の理由を「『自衛隊は違憲かもしれないけれども、何かあれば、命を張って守ってくれ』というのはあまりにも無責任」と述べていることについて尋ねると、この改正理由に「納得できない」55%が「納得できる」の37%を上回った。〉
との結果を報じている。
「『自衛隊は違憲かもしれないけれども、何かあれば、命を張って守ってくれ』というのはあまりにも無責任」とのストックフレーズに騙されてはいけない。では自衛隊の存在を憲法に明記すれば、“責任もって”「何かあれば、命を張って守ってくれ」と言うつもりなのか。売り言葉に買い言葉。稿者のように学者でもない市井の一民草にはこの伝でいくしかあるまい。「命を賭して任務を遂行する者の正当性を明文化することは改憲の理由になる」とも言う。「無責任」と「正当性」は「根拠がほしい」と置換できる。自衛隊員を死地に送るためにお墨付きを手中にしようと企んでいるとは穿ち過ぎか。
〈「納得できない」55%〉はまだまだ少ない気もするが、改悪の塀は高くなりつつはある。小学校の塀に飛びついた刹那に引きずり下ろされた捕り物劇が永田町でも再演されることを切に願う。 □