伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

さて、どうしよう?

2011年09月30日 | エッセー

 酢豆腐が不得要領にまとめるより、新聞をそのまま読んだ方が正確だ。
〓〓超光速、本当か 「光より速いニュートリノ」 専門家慎重
 光より速いニュートリノの発見が事実ならば、特殊相対性理論の前提を否定する「世紀の大発見」になる。だが、多くの専門家は「ひとつの実験結果だけでは信じられない」と慎重な見方を示している。
 研究グループに参加する名古屋大教養教育院の小松雅宏准教授(素粒子物理学)は「研究グループで厳密に分析を重ね、内部でやれることはやり尽くしたうえ出した結論だ」と話す。
 今回の発見について、欧米メディアも速報した。「確認されれば、革命的な発見」「衝撃的。我々にとっては、大問題になる」「物理学者は新たな理論を構築する必要に迫られるだろう」と世界中の物理学者らの驚きの大きさを紹介。だが、いずれも「もし、本当なら」との条件つきだ。
 アインシュタインの理論では、光速を超える物体は「虚数の質量」を持つことになり、その上では時計が未来から過去へと普通とは逆に進む。結果から原因が生まれることになり、「不可能」とされる未来から過去へ旅するタイムマシンの基礎となる。
 ただし、懐疑的な見方も多い。長島順清・大阪大名誉教授(素粒子物理学・高エネルギー物理学)は「過去100年にわたって何の矛盾もなく、あらゆる分野で証明されてきた定説が、たった一つの実験で否定されても誰も信用しない」。これまでも相対性理論に反する「光速を超えたのではないか」との報告はあった。しかし、よく調べるといずれもそうではなかった。長島さんは「別の実験法で複数の機関が追試することが必要」と指摘する。
 今回の実験については、研究チーム内でも正否への意見が分かれ、論文に名前を連ねることを辞退したメンバーがいる。丹羽公雄名古屋大名誉教授もその一人。「実験そのものの精度は確かだが、ニュートリノの速度を決めるのに必要な飛行距離と飛行時間の基準を全地球測位システム(GPS)に頼っている。GPSの精度が、このような精密測定実験に堪えうるのか検証が必要」と話した。
■科学者たちは公開討論を
 現代物理学の根幹を揺さぶるような実験結果が出た。物質が光より速く飛んだというのである。科学界には懐疑論が根強いが、素粒子探究の世界拠点の一つが発信した公式発表なので議論が広がるのは必至だ。
 20世紀に確立した物理学の2本柱は、相対論と量子論だ。アインシュタインが1905年にまとめた特殊相対性理論は、光速を超えるものはないことを土台に組み立てられている。
 これは「原因があって結果がある」という日常の常識(因果律)を支えるおきてであり、それを破るという想定でタイムマシンSFの着想が生まれたりしている。
 今回は、ニュートリノという素粒子が、わずかながら、このおきてを破ったというのだ。実験チームが、データの精度に自信を示しながら「拙速に結論を出したり物理的な解釈を試みたりするには潜在的な影響が大きすぎる」として、意味づけに踏み込まないのも、そうした事情があろう。
 物理学者たちの間には疑問の声が多い。
 著書「宇宙は何でできているのか」で有名な村山斉・東大数物連携宇宙研究機構長(素粒子論)は、その根拠にノーベル賞受賞者の小柴昌俊さんら日米チームが1987年に見つけた超新星ニュートリノの例を挙げる。16万光年離れた天体の爆発で出た光とニュートリノがほぼ同時期に地球に届いたが、今回の速さならニュートリノの方が数年早く飛来する理屈になるという。「見落とした実験誤差があるように思う。本当なら、超新星ニュートリノとの違いをエネルギーの差などで説明する複雑な理論をつくらなくてはならない」
 この研究が注目を集める背景には、近年の物理学が常識を超えた世界像を描きつつあることもある。その一つが、私たちが実感する4次元時空の陰に、縮こまって見えない余分な次元(余剰次元)があるのではないかという理論だ。
 今回も、一つの可能性として、おきて破りのニュートリノが余剰次元という近道を通り抜けたのではないか、という見方が出ているようだ。だが、佐藤勝彦・自然科学研究機構長(宇宙論)は「余剰次元にはみ出るのは、あるとしても重力を伝える粒子くらいだろう」とみる。
 前向きにとらえてもよいと思うのは、疑問沸騰の結果を実験チームがあえて解釈を控えつつ世に問うたことだ。科学実験には、いつも想定外の落とし穴がつきものだ。その実験の吟味も含めて、科学者たちの公開討論をみてみたい。〓〓(9月26日付朝日新聞)
 ヴァチカンがガリレオ裁判を撤回したのは、なんと1992年。ローマ法王ベネディクト16世が地動説を公式に認めたのは2008年12月。ついこないだのことだ。実に370年を越える。もちろん宗旨がらみではあるが、それほどに定説は崩れがたい。

 まずは真偽だ。実験したスイスの欧州合同原子核研究機関(CERN)は、10億分の2秒という超高精度で測定したそうだ。それでも、「最後にどうしても(光との飛行時間の差である)1億分の6秒が残ってしまった」と先述の小松准教授は言う。「しまった」に戸惑いが込められていて、微笑ましくもある。だが、「科学実験には、いつも想定外の落とし穴がつきもの」らしい。もしそうなら、“世紀の空振り”かもしれず、“世紀の賑やかし”で終わるかもしれない。
 
 真(超光速)ならば、「世紀の大発見」、「革命的な発見」であり「虚数の質量」が存在することになり、「過去へ旅するタイムマシン」も夢ではなくなる。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』に登場する“デロリアン”も荒唐無稽どころか、俄然真実味を帯びてくる。     

 偽(光速以下)ではあるが観測結果が正である場合はどうか。「4次元時空の陰に、縮こまって見えない余分な次元(余剰次元)」があるとすれば、辻褄は合う。いわば宇宙のショートカットだ。これも興味津々だ。「常識を超えた世界像」に胸が躍る。
 いずれにせよ、実験が正確であったかどうかが画竜点睛である。

 もうひとつのイシューは、この研究グループの対応だ。
 CERNの所長は、「驚くべき観測がなされ、その説明がつかないとき、科学の倫理が求めるものは、精査を進め、第三者の実験を促すために結果を幅広く公開することだ」と語った。実験結果を解釈せず、他の検証を促すという態度である。どういう意味かは解りません、どうぞお試しあれ、だ。腰が引けているようだが、事が事だけに納得はいく。しかも、実験はもともと別の目的だった。だから、瓢箪から駒でもある。朝日が「実験の吟味も含めて、科学者たちの公開討論を」と呼びかけるのももっともではないか。甲論乙駁、大いに結構。ガリレオの時代とは違う。裁判沙汰になることはない。
 まあ突き放していえば、事の真偽は学問の世界ではどうあれ市井の活計(タズキ)になんの利も害もない。フクシマが収まるわけでも、カーナビが効かなくなるわけでもない。近い将来に、タイムトラベルが叶うのでもない。なんにも変わりはしない。しかし人生意を得ば須く歓を尽くすべしの心掛けさえあれば、おつむは変わる。世界がおもしろく見えてくるはずだ。おつむが変わらないのは、おむつをしているのも同然だ。
 
 科学の世界が文字通りの「管を以て天を窺う」営為だとすると、人類史には何度か天を覆った瞬間があった。コペルニクスがそうであったし、ニュートンも、アインシュタインもその陣列に連なる。肝心なのはその僥倖に立ち会えるかどうか。これはわが身の運命に属する最難事だ。
 ともあれ“世紀の空振り”であろうとも、イグノーベル賞には間違いなく値する。なぜなら同賞は人びとを楽しませ、時には笑わせ、更には考え込ませる研究に対して授与されるものだからだ。はたまた盲亀の浮木か、千載一遇の僥倖に巡り合って「世紀の大発見」ならば、ここでこうしてはいられない! どうするか?
 さて、どうしよう? □


畳替え

2011年09月28日 | エッセー

 なんとかと畳は新しい方が良い、という。そのなんとかは居座った切り、退(ド)けようともしない。ならばと、畳の方を替えることにした。二十年振りである。表替えとはいえ、なんとも清々しい。気分一新どころか、住環境の一大転換である。なにせ常住坐臥に肌身が触れ合う仲である。藺草の芳しさは野に包まれるようであり、相俟って、総身(ソウミ)の触感が変わらぬはずはなかろう。ひょっとして、なんとかとはその辺りの事情を踏まえての俚諺であろうか。となれば、にわかに危うく艶(ツヤ)めいてくる。
 畳はわが国独自の文化だ。世界に類がない。平安の代に板敷との緩衝として登場した。日本文化の原型が整う室町時代に、正座の慣習とともに広まり定着していった。今またフローリングが主流となり、畳敷は脇に押し遣られつくねんと縮まっている。なにやら遥かないにしえに先祖返りしたようで、一興でもある。
 畳は吸放湿性が共に高く日本の風土に適(ア)い、断熱効果もあるという。さらには二酸化炭素を吸うため、空気清浄機能もあるらしい。もちろん頃合いの弾力が転倒の際にクッションになる。日本人の智慧だ。
 さて、畳替えの「替え」である。洋風建築ではこうはいくまい。替えるといっても、壁紙や家具、レイアウトぐらいではないか。それ以上になると、すでにリフォームだ。壁紙では気分は変わっても、環境にまで手を加えるわけにはいかない。それが同程度の手間でできる。かつ、なんとかはそのままで。まことに平和的で絶賛に値する「替え」ではないか。
 起きて半畳、寝て一畳とはいうが、まさか一畳ではない。しかし鄙の四阿である。まちがっても御殿ではない。それでもなにやら家が若やいだようだ。屋内の空気まで新鮮で旨い。当然、外観は旧態のままだが……。

 畳は替えた。あとは己がどう変わるか。畳水練ばかりでは甲斐がない。□


監督に注目

2011年09月24日 | エッセー

 「キープしろ!」の声が、中継画面からたしかに聞こえた。9月8日、なでしこジャパンの五輪最終予選、北朝鮮戦でのロスタイムであった。結果はそこで失点し、ドロー。五輪出場は決めたものの、悔いが残った。攻撃は最大の防御。角力にしても、強くて全盛にある力士はダメを押す。だからあの局面で「キープ」はないだろうと、佐々木(則夫)監督の采配に少しばかりの憤りを覚えた。
 しかし、山雀利根であった。桶狭間の戦勝に絡んで司馬遼太郎は次のようにいう。
「信長のえらさは、この若いころの奇蹟ともいうべき襲撃とその勝利を、ついに生涯みずから模倣しなかったことである。古今の名将といわれる人たちは、自分が成功した型をその後も繰りかえすのだが、信長にかぎっては、ナポレオンがそうであったように、敵に倍する兵力と火力が集まるまで兵を動かさなかった。勝つべくして勝った。信長自身、桶狭間は奇跡だったと思っていたのである。」(「街道をゆく」43 濃尾参州記より)
 なでしこの戦いの型は変えるべきではなく、イシューはそれではない。「信長自身、桶狭間は奇跡だったと思っていた」──ここが肝心だ。WCが薄氷を履む辛勝であったことを、実は監督自身が一番骨身に染みて心得ていたのではないか。メンバーの疲労、最悪引き分けでの勝ち点計算、ロンドンへのロードマップなど様々に穿鑿はできるが、とどのつまりは『桶狭間』の認識だ。してみれば、この監督は只者ではない。「這えば立て、立てば歩めの……」ではないが、世の増幅するプレッシャーもある。くわえて国民栄誉賞もあった。そうした十重二十重の重圧の中での指揮である。並では務まらない。指揮官のあるべき姿──蓋し古今東西、人の世の画竜点睛ともいえる。蛇足ながら、つい最近わが国民は高い授業料を払わされた。

 著名な指揮者である小松長生氏がその著「 リーダーシップは『第九』に学べ」(日経プレミアシリーズ、本年8月刊)で、含蓄に富むリーダー像を語っている。門外漢の私にも驚きと納得が一杯詰まった好著である。長い引用をする。
〓〓「あれこれ口を挟んだり、手とり足とり指図しないでほしい」
「こちらが集中して忙しくしているときは放っておいてほしい」
「でも、リーダーからの指示が必要なときには、ちゃんと指揮してほしい」
 こまごまとした注意ばかりを繰り返す指揮者への、チームメンバーの気持ちを代弁すると、こうなるはずです。
 威圧して監視するようなリーダーや、いちいち口を挟まずにはいられないリーダーは、自分に自信がないのかもしれません。
 任せどころと指示する勘どころをわきまえるのが、リーダーの仕事だと思います。
「上司は自分の仕事に集中しているが、私たちのことにも気を配っている」「自分が今やっていることを上司はちゃんと把握してくれている」と感じられる職場は、仕事も円滑に回ります。
 逆に、みんながそれぞれの仕事をしているときに、上司がこまごまと指示をすると、「なんかうっとうしいな。どこかに行ってくれる? 席を外してくれる?」となるものです。指揮者の場合、席を外したくても外せないので、「気配を消した指揮」をすることになります。この、「気配を消す」というのは実は重要なのです。
 指揮台にいながら席を外す、気配を消すというテクニックは、「相手に気づかれず相手の背後に立つ」というような、忍者や武術の達人のような感覚です。
 指揮をしていて棒は動いているけれども、指揮者の気配は消える──。リーダーが気配を消しながら仕事をすると、メンバーは、「自分たちが今動かしている」と実感できます。
 指揮者が全部仕切って「おれの言うとおりにしろ」では、「自分たちは楽器を演奏するただの機械と思われているんだ、やっていられない」と思うのが自然です。
 任せるところは任せ、責任はすべて自分がとると腹をくくらなければ、「気配を消した指揮」はできません。全員が曲に没入し、弾いているのか弾かされているのかわからなくなるような環境を創るのが、リーダーたる指揮者の役割なのです。〓〓
 巷間伝わるあれこれの佐々木監督像を彷彿させるではないか。「おれについてこい!」の『大松型』はすでに苔生すほどに古い。「威圧して監視する」のではなく、「気配を消す」指揮者。時代が求めるものは相当に進化しているし、ハードルも高い。難題ではあるが、その一典型を佐々木監督は体現しつつあるのではないか。この監督は、なでしこ以上に注目だ。□


高名の木登り

2011年09月20日 | エッセー

 やっと濃尾平野までたどり着いた。といって、旅行ではない。「街道をゆく」最終巻<濃尾参州記>である。
 全四十三巻。間歇しつつ、足掛け四年。長いといえば、長い。本来なら読了後に記(シル)すべきであろうが、あまりの嬉しさについ筆が滑った。それゆえ、「徒然草」を以て自戒したい。


 高名の木登りといひし男、人を掟(オキ)てて、高き木に登せて、梢を切らせしに、いと危く見えしほどは言ふ事もなくて、降るる時に、軒長ばかりに成りて、「あやまちすな。心して降りよ」と言葉をかけ侍りしを、「かばかりになりては、飛び降るとも降りなん。如何にかく言ふぞ」と申し侍りしかば、「その事に候ふ。目くるめき、枝危きほどは、己れが恐れ侍れば、申さず。あやまちは、安き所に成りて、必ず仕る事に候ふ」と言ふ。
 あやしき下臈なれども、聖人の戒めにかなへり。鞠も、難き所を蹴出して後、安く思へば必ず落つと侍るやらん。(第百九段)


 司馬遼太郎にとっては遺作である。だがそれは旅が完結したのではない。この作品が大団円を迎えたわけでもない。作者の命数が尽きるとともに、なにも綴られないままの原稿用箋が残り、氏の足跡が刻まれないままの街道が残った。だから芭蕉が大坂の地で果てた時、

   旅に病で 夢は枯野を かけ廻る

と詠ったごとく、客死といえなくもない。
 ならば、筆者の「かけ廻る」「夢」を掬い余してはなるまい。「飛び降るとも降りなん」と高を括って、「あやまちは、安き所に成りて、必ず仕る」仕儀となってはなるまい。そう心得て繙きたい。
 
 司馬作品については、ほとんど渉猟した。しかし、この作品に限って読み残してきた。「週刊朝日」を定期購読する自信はない。やがて単行本になるだろうと待つうちに、つい機を逸した。なにせ25年、想像を絶する長丁場である。この連載そのものがひとつの歴史ともいえる。
 歴史といえば、氏の忘れ得ぬ名言がある。
「歴史とは、人間がいっぱいつまっている倉庫だが、かびくさくはない。人間で、賑やかすぎるほどの世界である」(「歴史と小説」から)
 「賑やかすぎるほどの世界」から街道を鳥瞰したのがこの作品だ。単なる紀行を遥かに凌駕する拡がりと奥行きはそのためだ。
 世故長けた話になるが、読後の利益(リヤク)であろうか、日本が身近になった気がする。中国、韓国、オランダ、アイルランドもそうだ。一度も行ったことはなくとも、微かな土地勘を抱けるようになった。幻想ではあろうが……。
 
 連載最終号は平成八年三月十五日号であった。作者が生者の列を離れたのは同年二月十二日、まさに今世の筆止めであった。絶筆の章末には「未完」とある。これは出版社の意匠であろうが、綴られているのは奇しくも信玄の死だ。巧まざる意匠というには、打ちのめされるほどの凄味だ。


 ついでながら、信玄はこのあと三河に攻め入ったが、野田城包囲の陣中で病を得、軍を故郷にかえす途次、死ぬ。死は、秘された。(「濃尾参州記」末文)


 「ついでながら」の六文字が胸を抉る。氏の逝去の報は衝撃だった。たまたまであったろうが、体調を崩し三日間床に臥(フ)した。
 歴史の語り部が踏み分けた彼此(オチコチ)の街道。「人間がいっぱいつまっている倉庫」が開け放たれ、諸道はみな「賑やかすぎるほどの世界」だった。
 あとは、読み手がそれぞれの「街道をゆく」のみだ。□


浜先生に学ぶ

2011年09月16日 | エッセー

 最近、よくNHKにお出ましになる。御尊顔を拝するたびに、白雪姫なんぞの童話が浮かんでくる。もちろん、主人公ではない。なくてはならぬ脇役(悪役)。杖を持ち、黒いマントを羽織った鷲鼻の(実物は違う。イメージで)……と、ここまでにしておく。ともあれお顔と同様(再び、失礼!)に、論旨は異端、極論とはいえぬが、エキセントリックではある。物言いも傍若無人とはいえぬが、かなりキツイ。
 浜 矩(ノリ)子先生──。同志社大学教授、マクロ経済分析・国際経済が専攻。
 閣僚経験のある大田弘子先生よりは、言葉の端々によほど凄みがある。そこらへんの塩梅が、近ごろ世慣れてきたNHKには受けるらしい。わたしもかねてより注目してきた先生だ。こないだ、ついに勇を鼓して(?)著作を手にした。
──「通貨」を知れば世界が読める──(PHPビジネス新書 本年6月発刊)
 同書に学びつつ、先日の本ブログ「きほんの『ん』 1/2」に補足、訂正を試みたい。

〓〓「他のものを手に入れる手段」としての価値があるもの、それが貨幣ということになる。ここが基本だ。どんどん足が長くなり、より遠くの地域まで貨幣の足が伸びるようになると、貨幣はだんだん「通貨」としての性質を帯びてくるのである。貨幣と通貨との違いを一言で表せば「貨幣に足が生えると通貨になる」ということだ。さらに、通貨を天高く羽ばたかせるもう一枚の翼が現れた。それが「金融」である。金融というのは、簡単に言えば、「金が金を生む」仕組みのことを指す。この金が金を生むという仕組みを「信用創造」という。〓〓(前掲書より摘要、以下同じ) 
 「貨幣に足が生えると通貨になる」。巧みな表現だ。その昔、江戸っ子は「天下の通用」を別名、「御足」と呼んだとも記している。まったくその通りだ。さらに翼が付くと「金融」の空へ羽ばたいていく。重ねて、巧い。
 わたしのようなド素人には、「貨幣」と「通貨」の別すら思案の外だった。教えられて、はたと気づく。まことに学者はありがたい。足が生えて「御足」とならねば、御用は果たせぬのだ。件のブログでは『貨幣の幻想性』を揚言するあまり、「足」を掬われてしまったか。

 拙稿(件のブログ)では次のように述べた。
──世界の基軸通貨はドルである。ドルの『マジック』を裏書きする『信用の環』は、アメリカという超大国を軸に回っている。その軸がぶれた。当然、『環』が揺らぐ。それが今の「債務ショック」に連動する世界株安とドル売りだ。地球規模で経済がガタつきはじめている。──
 これは大甘だった。まさに山雀利根。穴があったら入りたい。
〓〓71年8月、当時のニクソン大統領はテレビおよびラジオを通じて「ドルと金との交換停止」を宣言する。いわゆる「ニクソン・ショック」である。ここに、27年間に及んだブレトンウッズ体制は崩壊し、ドルは基軸通貨の座からの退位を余儀なくされた。
 だがアメリカは、金本位制というくびきから逃れられた解放感からか、無限にお金の出てくる「打ち出の小槌」を振ることをやめようとはしなかったのだ。そしてそうなれば、際限のないインフレも起こってくるのはまさに必然であった。この当時のアメリカにおいて、「パックス・アメリカーナを維持する」ということと、「限りない成長を追求する」ということの両方を追おうとすることの自己矛盾に、誰も気づく者はいなかったのか?
 85年9月22日、ニューヨークのプラザホテルに当時のG5各国が集まった。ここで取り交わされたのが「プラザ合意」である。プラザ合意とは一言で言えば、これ以上のドル高を是正することで各国が合意する、ということであった。アメリカのご都合主義のとばっちりを食うことに対して、その他の国々が拒否権を発動した場面だったと言っていい。アメリカは最終的に譲歩せざるをえなかった。このことが持つ意味は重要だ。要は、アメリカがドルの行方に関する第一義的な決定力を失ったということである。その意味で、プラザ合意の成立は基軸通貨国としてのアメリカの威信の低下を大きく決定づけたイベントだったと言っていいだろう。〓〓
 とっくに「世界の基軸通貨はドル」ではなくなっていた。はるか71年に「退位」していたのだ。そして85年、地に堕ちた。ミリタリーによる「パックス・アメリカーナを維持する」ことは細々とできても、「限りない成長を追求する」位置取りからは完全に外れた。それでものアメリカの強大さは、団栗の背くらべで抜けているに過ぎず(つまり、分母と分子が同じように大きいだけ)、幻影もしくは残映である。と、そこの認識が甘かった。だから、「ドルの『マジック』を裏書きする『信用の環』は、アメリカという超大国を軸に回っている。その軸がぶれた。当然、『環』が揺らぐ。」などと、能天気をいっていられたのである。時間軸が、どだいズレ過ぎている。敢えていえば、経過が緩慢であったともいえるが。

 さらに、愚考を引こう。
──『信用の環』がなければ『マジック』は起こせない。G7が慌てる道理だ。『マジック』なしならどうする? 物々交換に戻るか。空想を超えるほどに現実から遠い。それとも71年にまで遡及し、ニクソン・ショックを帳消しにしてブレトン・ウッズに戻るか。さらに不可能だ。世界の経済規模は当時の比ではない。アメリカは即座に沈んでしまう。道連れは世界だ。「貨幣に替わるなにものか」も、いまのところ妄想の域を出ない。世界が多極化へ向かう象徴的動きだ、との鳥瞰図もある。その通りであろう。しかし道程(ミチノリ)は遥か霧の中だ。──
 「いまのところ妄想の域を出ない」も、赤っ恥だ。
〓〓単一通貨というのは単純に「一つしか通貨がない状態」である。ユーロ圏の国々はユーロという一つの通貨を共有している。他に通貨はない。これが単一通貨体制である。一方の共通通貨とは、「国々がそれぞれフランやマルクや円といった独自通貨を持っていながらも、それとは別に、共通して使う第三の通貨を持つこと」である。たとえばノーベル経済学賞を受賞したスティグリッツは、SDR(特別引き出し権)をそういう第三の通貨に格上げしていこう、という考え方に近いことを主張している。
 どこの国家にもまったく立脚していない、人為的に作られた独立した決済手段としての共通通貨を創設するという発想は成り立ちうる。基軸通貨の「呪い」……基軸通貨というのは、流動性と希少性という、本来は両立しない二つの特性を両立させなければならない。だが、どこの国にも属さない共通通貨なら、このジレンマについても対応はやりやすくなるだろう。ジレンマが消えてなくなることはないだろうが、少なくとも、国益と基軸通貨国の責任との板挟みになって四苦八苦するという問題は発生しない。〓〓
 「妄想」ではなく、模索は始まっている。「共通して使う第三の通貨」、「SDRをそういう第三の通貨に格上げしていこう」、「人為的に作られた独立した決済手段としての共通通貨を創設するという発想は成り立ちうる」。拙稿にいう「貨幣に替わるなにものか」そのものではないにせよ、やはり教えられることばかりだ。SDRは知ってはいたが、グレードアップする展望までは持ち得なかった。マエストロに脱帽だ。
 畳み掛けるように、
〓〓これまでは、通貨の世界は集約の論理で動いてきた。基軸通貨は一つが当然。通貨統合で通貨の数は国の数より少なくなる。この流れでここまで推移してきた。だが、これからもそれでいいのか。通貨の数が減ったことで、欧州の経済事情は改善されたか。ドルという一つの基軸通貨の延命に必死になることで、グローバル経済はその健全度がはたして高まると言えるのか。〓〓
 と、ドラスティックな問いかけがなされる。EUとユーロ。この世界史的挑戦を踏まえると、応えに窮する。
 
 先生はTPPについては懐疑的だ。
〓〓TPPは、環太平洋の国々が協定を結んで自由貿易圏を作ろうというものであるが、要は、特定地域の囲い込み政策である。特定の国々だけで特定の地域を経済圏として囲い込もうというのであるから、いわば集団的鎖国主義である。基本的に閉鎖主義的な対応なのである。その意味で、TPPが実現すればそれだけ貿易の自由度が高まるという発想はおかしい。それどころか、TPPの外に残されるものにとっては、TPPが存在する分だけ、貿易は不自由になる。
 通貨と通商の世界における自己防衛的囲い込みが、地球経済をズタズタに分断していく。それが最悪のシナリオだ。〓〓
 「集団的鎖国主義」とは、なんとも痛快ではないか。剣道でいえば、突きの一撃。練達の士でもかわすのは難しい。
 ほかには、先生の持論である『1ドル=50円』説。「ドルは基軸通貨である、という『誤解』が、1ドル50円を受け入れられない心理的障壁として立ちはだかっているのである」と、経団連にケンカを売る気っ風に『男気』まで感じてしまう。「日本人は、まるでDNAに刷り込まれてでもいるかのように、円高を忌避する」とも仰せになっている。
 さらに、ユーロとドイツの因縁。「『3D』型のグローバル通貨秩序」などなど、新書とはいえ、感興溢れ中身は重い。
 まことに、「浜の真砂は尽くるとも世に勉学の種はたへせじ」と洒落て、稿を閉じる。□


自戒を込めて

2011年09月14日 | エッセー

 朝日新聞の「わたしの紙面批評」(9月13日付)に、内田 樹氏が瞠目すべき小論を寄せていた。以下、摘要してみる。
〓〓情報格差が拡大している。一方に良質の情報を選択的に豊かに享受している「情報貴族」がおり、他方に良質な情報とジャンクな情報が区別できない「情報難民」がいる。格差は急速に拡大しつつある。
 朝日などの全国紙がいまよりはるかに多くの読者を誇っていた時代、情報資源の分配は「一億総中流」的であった。(しかし、反面=欠片 註)市民たちは右から左までのいずれかの全国紙の社説に自分の意見に近い言説を見いだすことができた。
 その「情報平等主義」がいま崩れようとしている。理由の一つはインターネットの出現による「情報のビッグバン」であり、一つは新聞情報の相対的な劣化である。人々はもう「情報のプラットホーム」を共有していない。それは危険なことだ。
 インターネットでは、「クオリティーの高い情報の発信者」や「情報価値を適切に判定できる人」に良質な情報が排他的に集積する傾向がある。そのようなユーザーは情報の「ハブ」になる。そこに良質の情報を求める人々がリンクを張る。逆に、情報の良否を判断できないユーザーのところには、ジャンク情報が排他的に蓄積される傾向がある。
 「情報の良否が判断できないユーザー」の特徴は、話を単純にしたがること、それゆえ最も知的負荷の少ない世界解釈法である「陰謀史観」に飛びつく。ネット上には、世の中のすべての不幸は「それによって受益している悪の張本人」のしわざであるという「インサイダー情報」があふれかえっている。「陰謀史観」は彼らに「私は他の人たちが知らない世の中の成り立ちについての“秘密”を知っている」という全能感を与えてしまう。ひとたびこの全能感になじんだ人々は、それ以外の解釈可能性を認めなくなる。マスメディアからの情報を世論操作のための「うそ」だと退ける。彼らの不幸は自分が「情報難民」だということを知らないという点にある。〓〓 
 実に鋭い。炯眼の閃光に射竦められるようだ。特に、『難民』の生態を指摘する最後段には身震いする。論理の単純化とインサイダー情報に寄りかかる全能感。情報格差の生む大きな陥穽だ。しかも自らの在り様(ヨウ)を知らない不幸。先日石川県の海岸で、夫の誕生日のサプライズにと妻が掘った落とし穴に、こともあろうに夫婦もろとも落ち込んで二人とも死亡するという事件があった。妻が目印を見失ったらしい。なんとも悲惨で愚かしい顛末だが、嗤ってはいられない。情報格差の穴と似てなくもないからだ。
 本ブログなぞは、さしずめ『ジャンク』ブログの最たるもの。大いに自省、自戒せねばなるまい。
 小論の前半は情報事情の変遷を素描している。「貴族」と「難民」とはいかにも内田氏らしい語法だが、掴みと括りは的確この上もない。ネットのなりたちからすれば、「排他的に」集積、蓄積されるとはいかにも皮肉ななりゆきだ。
 「人々はもう『情報のプラットホーム』を共有していない」替わりに、テレビメディアの跋扈とその質的劣化も憂うべき傾向である。
 世は刻一刻と複雑の度を増している。「想定外」も頻発する。だから単純化は、時として大向こうを唸らせ惹(ヒ)き寄せる。しかし、輻湊する現実を一刀両断できるわけがない。下手をすれば跳ね返った刃がわが身を苛むだけだ。複雑な内蔵を医(イヤ)すに一刀も両断も用をなさない。小刀(メス)と細やかで雑多な用具と、優れた技量と用心深い施術こそ必要だ。頭の芯を痛めて考え続けても、容易に解は掌にできない。だが、思考放棄や停止は身を滅ぼす。まずはその前提から出発したい。だから学ばねばならぬ。学ばぬは卑しと知りたい。
 「ここだけの話」は、そこらじゅうの噂と同じだ。ユダヤ人は「陰謀史観」の常連だ。近ごろでは『都市伝説』なる新手の「インサイダー情報」もある。内田氏のいう「全能感」は、思考放棄の対価にちがいなかろう。『放棄』して空いたままの穴を、それで塞いでいるのか。夜郎自大な頑迷が知的荊棘をさらに荒蕪にするばかりだ。

 付け加えたい。現代の病弊はまだある。シニシズムである。冷笑主義だ。これが瀰漫しつつあるように感じられてならない。
 米国の著名なジャーナリストであった故ノーマン・カズンズ氏は次のように言った。
「シニシズムは知的裏切り行為である」
「悪魔よりもシニシズムの方がずっと嫌いだ」
 広島の平和記念公園には「ノーマン・カズンズ記念碑」が建つ。原爆投下の惨状に衝撃を受け、ヒロシマのルポルタージュに健筆をふるった。さらに原爆孤児の養育や被爆者の義援金活動にも情熱を燃やした。広島市特別名誉市民でもある。ジャーナリストの亀鑑、その言は重い。
 病的な暗さを纏うシニシズム。欠落しているのは愛情だ。それは「単純化」とも「全能感」とも踵を接する。知性に巣喰う癌細胞といえなくもない。“コーン”という乾いた音とともに行き来するテニスボールのような弾みがないのだ。もっともわたしの頭のようにスッカラカンゆえの“コーン”でも困るが。ともあれ、シニシズムからはなにも生まれない。これだけは確かだ。
 人生意を得ば須く歓を尽くすべし──先日も引いた。驚き、「歓を尽くす」軽やかさ。精神の青春度、知的健康度はそこにあるとみたい。□


「歴史はすさまじい」

2011年09月09日 | エッセー

 この(十津川の)大山塊は地肌を見るかぎり瓦を積みあげたような粘板岩から成っていて、風化がしやすいらしい。その上にやわらかい土が載っているために連続した豪雨には弱いように見えるが、それにしても明治二十二年の八月十八日から三日間、滝のように降った豪雨は異例で山々が土崩して、辷り落ち、各所で渓流を埋め、流れをせきとめ、にわかにできた湖が大塔村、天川村をふくめて五十いくつにもなったというぐあいで、このため水没・流出・倒壊した人家は数知れず、死者は百六十八人、罹災者は二千六百人にのぼった。
「旧形二復スルハ蓋シ三十年ノ後ニアルベシ」
 と、この惨状を視た奈良県の書記官が知事に報告した文書の中にあるが、一部では一郷の再起はもはや望みがないとさえいわれた。
 一郷が合議のすえ、二千六百人が村をすてて北海道の荒蕪の地に新十津川村をつくるべく移住するのはこの直後である。
 まことに山郷の歴史はすさまじい。


 上記は、司馬遼太郎著「街道をゆく」21<十津川街道>からの引用である。
〓〓台風12号──紀伊半島に被害
 村ごと孤立 死者35人・不明54人に 台風12号
 奈良県十津川村では土砂崩れが多発し、山肌から崩れた大量の土砂が川へ流れ込んだ。土砂に押され、川の流れが変わってしまい、濁流が一気に対岸の民家をものみ込んだ。十津川村野尻地区の村営住宅2棟が倒壊、水に消えた。
 台風12号で大きな被害を受けた和歌山県と奈良県で5日、新たな犠牲者が相次ぎ判明し、両県の死者は27人、行方不明は52人となった。被災地ではライフラインの復旧が進まず、人口約4千人の奈良県十津川村がほぼ全村孤立状態になるなど、同県と和歌山県で1万人弱が外部とのつながりを絶たれている。〓〓(9月6日付朝日新聞から)
 「異例」に降り続く豪雨、土砂崩れ、せき止め湖(土砂ダム)の発生、孤立、罹災、行方不明、死者。121年前と変わらぬ惨状に、どちらがどちらの記述か見紛うばかりだ。この度も、
「旧形二復スルハ蓋シ三十年ノ後ニアルベシ」
 であろうか。司馬遼太郎が「まことに山郷の歴史はすさまじい」と恐懼した天変が、1世紀余を越えて再び彼の地を襲った。

 「一郷が」「村をすてて」「移住する」といえば、会津が連想される。ただし、こちらは人災であった。
 再び、「街道をゆく」を繙きたい。41<北のまほろば>から。


 会津は戊辰戦争における最大の標的にされた。戊辰九月二十二日、会津鶴ケ城は落城し、(松平)容保は新政府軍に降伏した。会津藩の石高は最末期には役料をふくめて四十五万石とされたが、戦後没収され、下北半島に移された。石高はわずか三万石だった。もっとも下北半島では米がほとんど穫れないために、その三万石も名目にすぎなかった。いわば、会津藩は全藩が流罪になったことになる。
 会津人たちはこの地を、「斗南」というあたらしい名でよび、以後”斗南藩”と称することになった。斗南の斗は北斗七星のことである。斗南とは北斗七星の南ということで、名はまことに雄大であった。もともと会津藩士の数は、戸数にして四千戸といわれた。斗南に移ったのは、そのうちの約二千八百戸、約一万四千人といい、べつに四千三百戸、一万七千という説もあって、正確なことはよくわからない。
 斗南藩のみごとさは、食ってゆけるあてもないこの窮状のなかで、まっさきに田名部の地に藩校を設けたことだった。おもしろいのは、かつての日新館が藩士だけの教育の場だったのに対し、田名部での日新館は、土地の平民の子弟にひろく開放されたことだった。この教育を通じて、この地方に会津の士風がのこされたといわれる。
 農地の開拓は、大半失敗した。北海道に屯田兵として移住したり、遠くアメリカ合衆国のカリフォルニアへ移民した人達もいる。


 原発事故は人災である。143星霜を経て、再び人災による所払いに直面している。山郷にあらずとも、なんとも「歴史はすさまじい」と呪いたくもなる。
 といって、なにも因縁話をするつもりはない。いなむしろ、宿痾を越えてさらに征く人間の力。それも地団駄踏んで、歯噛みする渾身の抗い。一敗地に塗れなお這い上がる執念に、ただ懾伏するのだ。十津川とて同様だ。父祖の地を去る。それは血を吐く決断であったにちがいない。しかし彼らは悲運に身を委ねつつもしたたかに生きた。理不尽を踏み拉いて活路を拓いた。この人間の膂力は神をも凌ぐといって不遜ではなかろう。実は、人間の方こそ神神しいのではないか。すさまじいのは、きっと人間だ。
 直近の報道によれば、大震災以来岩手・宮城・福島の3県で8万3千人が県外に転出したという。「歴史はすさまじい」が、人間もすさまじい。そう信じたい。□


知恵者はいる!

2011年09月05日 | エッセー

 知恵者はいるものだ。素人の夢想はそのままで立ち枯れるのに、プロパーは夢想に枝葉を付け根を生やし大地に植え付けようとする。
 かつて「WEB2.0」が高言されたころ、「ネット民主主義」の可能性が取り沙汰された。本ブログでも取り上げ、新しい直接民主制の擡頭に期待を寄せたことがある。しかし現実は甘くない。ネットの進展は跛行的だし、むしろカオスの様相を呈してきた。私の中では夢想は立ち枯れた。替わって、哲人政治やその現代版としての臨調制度、選挙制度の改革、二大政党制への疑問、専門家による公開討論などへイシューが移った。
 そこに登場したのが、【創発民主制】である。
 主唱者は伊藤 穰一氏。40代半ば、気鋭のIT起業家である。日本におけるインターネット普及・伝承の第一人者であり、08年には米ビジネスウィーク誌で「ネット上で最も影響力のある世界の25人」に選ばれている。現在米マサチューセッツ工科大学(MIT)メディアラボ所長であり、郵政省、警視庁等の情報関連委員会の委員や、経済同友会メンバーなど八面六臂の活躍だ。
 以下、かいつまんでその概要を紹介したい(〓〓部分、ネットに掲載されている論文を借用した)。あくまでも摘要である。正確には本文に当たっていただくほかない。

〓〓スティーブン・ジョンソンは、その著書『創発』の中で、収穫アリの集落が幾何学的な問題も含むきわめて難しい問題を解決する驚くべき能力を示すことを述べている。以下は、アリの研究者デボラ・ゴードンへのインタビューからの引用である。
 彼女はいう。「ここで実際に起こったことをごらんなさい。アリたちは、集落から正確にいちばん遠く離れた地点に墓地を作りました。さらに興味深いのは、ごみ捨て場の位置です。彼らは、集落と墓地からの距離を最大にするまさにその地点に、ごみ捨て場を作ったのです。何か彼らが従っている規則があるみたいですね。つまり、死んだアリはできるだけ遠くに置く。それからごみ捨て場はできるだけ遠くに置き、しかも死んだアリの近くには作らないようにするといったようにね」
 ジョンソンは、それを監督しているアリはどこにもいないという。アリがこの種の問題を解くのは、彼らがごく単純ないくつかの規則に従いつつ、直近の環境および隣接者たちといくつかのやり方で相互作用するなかから創発してくる行動なのだ。
 ヒトの胎児がより高次の秩序へと発達するのも、一連の規則に従って、直近の隣接者たちと相互作用するというこの同じ原理を通じてなされる。最初の細胞が2つに分裂するさい、半分は表の側になり、残りの半分は裏の側になる。次に分裂する時は、四半分になった細胞たちが、表の側になるか裏の側になるかを決める。そして表の表になるもの、表の裏になるもの、等々が決まるのだ。この分化と特化は、まったく即席ともいえるやり方で細胞たちが複雑な人体を創り出すまで続く。肝細胞は、近くの仲間たちもまた肝細胞であることを感知し、DNAコードを読み取って、自分が肝細胞になることを知り、自分に期待されている役割を正確に理解している。全知の制御などどこにもなく、きわめて多数の独立した細胞たちが一定の規則に従いながら、近くの細胞たちとコミュニケーションしあい、彼らの状態を感知しているだけなのだ。
 ジェーン・ジェイコブズは、『アメリカ大都市の死と生』の中で、アメリカの都市計画において、近隣住区の性質を変えるような計画がトップダウンで実施される場合には失敗する傾向があると述べている。大きなアパートを建てることでゲットーの質を改善しようともくろんだほとんどの大プロジェクトは、目的を達成できなかった。逆に、うまくいった近隣住区は、通常、創発的なやり方をもっと使って開発を行ってきた。ジェイコブズの言うところでは、歩道と街路にいる人々の間の相互作用が、近隣住区の運営にとって集中的統制よりはるかに適した街路文化を生み出す。したがって、計画当局は、ブルドーザーで都市問題を解決しようとせずに、うまくいっている近隣住区を研究して、積極的な創発行動がもたらされる条件をまねようとする方がよいのだ。〓〓
 アリと胎児と都市。単純な動きが相互作用の末に高度な秩序を作り上げる。いわばボトムアップの妙、現場の知恵だ。これを「創発」と呼び、政治への適用を説く。

〓〓直接民主制は大規模になれないし、教育のない大衆は統治を直接担当するには不向きと考えられたので、より「指導者として適切」な人物が大衆の代表者として選ばれたのである。代表民主制はまた、指導者たちがさまざまな複雑な政治問題に関して明確な意見がもてるように専門化し集中することを許す。複雑な政治問題は、教育も関心もない人民がそのすべてを直接理解するとは期待できないとしても、解決されなければならないからである。〓〓
 氏は時代のアポリアに、専門分野から真っ向斬り込んでいく。「WEB2.0」に準えれば、「民主主義2.0」ともいえる。

〓〓よりインテリジェントなインターネットでは世界の不均衡と不平等を是正するための新たな民主的方式が利用できるようになるとして、インターネットの擁護者たちはそれを模索してきた。だが今日の現実のインターネットは、多くの人々が思い描いたような平等な民主的インターネットとはほど遠い、騒々しい環境になりはてている。それはまだ、インターネットのツールとプロトコルが、より高度な秩序を生み出すようなインターネット民主制の出現を許すにたりるほど進化していなかったためだ。
 だが、世界は、創発民主制をこれまでになく必要としている。代表民主制の在来の諸形態は、今日の世界に生じている諸問題の規模や複雑性や速度にはほとんど対処できない。互いにグローバルな対話を行っている主権国家の代表たちは、グローバルな問題の解決については、ごく限られた能力しかもっていない。
 一枚岩的なメディアとそれが行っているますます単純化された世界描写は、合意の達成に必要とされるアイデア間の競争を提供できない。
 新しい技術によって可能になった創発民主制は、極度に複雑化した世界でわれわれが直面している諸問題の多くを、国家的規模でもグローバルな規模でも解決しうる可能性を秘めている。
 われわれは、ツールとインフラをより安価で使いやすいものにして、より多くの人々にザ・ネットへのアクセスを提供するよう努め、民主的対話のこの新形態が、どのようにすれば行動に転化し、既存の政治システムと相互作用し合うようになるかを探求しなくてはならない。
 市民がコントロールできる世界的なコミュニケーションのネットワークというビジョンは、いわば技術的な理想主義によるビジョンで、「電子アゴラ」とでも呼べるものである。最初の民主社会であったアテネでは、アゴラは市場であり、またそれ以上のものであった。人々が会って話をしたり、ゴシップを流したり、議論をしたり、お互いを評価しあったり、政策についてディベートをして相手の弱点を批判したりする場所でもあった。しかし、もう一つ別のビジョンにたてば、ザ・ネットの誤った使われ方も考えられる。つまり理想的な場所という見方の影にある円形刑務所、パノプチコンである。
 新しい技術は、より高度の秩序をもたらし、その結果として、複雑な諸問題に対処しつつ現行の代表民主制を支援、変更、もしくは代替しうるような、新しい形の民主制が創発してくる可能性がある。新しい技術はまた、テロリストや専制政治体制をエンパワーする可能性ももっている。これらのツールには、民主制を高度化する力もあれば劣化させる力もあるため、われわれとしては、よりよい民主制のためにこれらのツールが開発されるよう、できるだけ影響力を発揮しなくてはならない。〓〓
 民主的なネット世界への足踏み。だが、複雑系の現代に無能を晒す代表民主制。「アイデア間の競争」を阻害するマスメディア。閉塞する現況を打破する方途はあるか。そこに提唱されるのが、「創発民主制」である。まったく異次元からの曙光である。
 一言に括れば、──ネット技術による草の根からの熟議とボトムアップによる直接民主制──となるか。
 「既存の政治システムと相互作用」の模索は当然として、「電子アゴラ」はアテナイへの先祖返りのようで興味深い。つまりはネットによる直接民主制である。
 アメリカで芽生えつつある「審議型世論調査」──ある大きな問題いついて、市民が一カ所に集まり、数日間議論した上で世論としてまとめる──をネット化しようとの提案も魅力的だ。マスコミのお仕着せ情報や大勢、雰囲気ではなく、市民が自ら情報を集め、思考を深め、より質の高い議論が交わされる。政治家に決めてもらうのではなく、草の根から選択するシステムだ。
 そうなると政治家は不要か。氏は政治家は指導者ではなく、進行役、世話役、管理人という役割になるだろうという。先述の「監督しているアリはどこにもいない」だ。このあたり、かつての私の夢想と軌を一にする。そこで肝心なのが「アイデア間の競争」である。「民主」は賢明な市民による多様性の上にこそ成り立つからだ。

〓〓アイデア間の競争は、民主制が、多数支配の合意の下に、少数者の権利を守りつつ市民たちのもつ多様性を容認していくうえで不可欠だ。アイデア間の競争過程は、技術の進歩とともに進化してきた。
 たとえば印刷機は、大衆により多くの情報を提供することを可能にし、ついには人々がジャーナリズムと新聞を通じて声を発するための手段となった。だが、おそらくそれは、企業が経営するマスメディアの声によって置き換えられてしまった。その結果、多様性は減少し、アイデア間の競争は、より内にこもってしまった。〓〓
 さらに、「投票権の委任制度」。政策課題ごとに、エキスパートに投票権を預けるシステムだ。まずは知り合いで信頼できる人に。委任された人はより高度なエキスパートにと、票を渡していく。マエストロにしたところが、分野が違えばど素人も同然なのが複雑系の現代社会だ。意表をつく刺激的なアイデアではないか。
 当然、プライバシーは死活的な生命線だ。ネットの潜在的な弱点でもある。この点についても、綿密な考察がなされている。
 本年、中東を席巻したジャスミン革命の嵐。氏はインタビューに応え、若者たちの無力感を振り払い「勇気」を与えたものはソーシャルメディアであったとして、「創発民主主義の重要な実験台」だと捉える。
 また、「注意すべきなのは、短期的な変化の影響はみんないつも大きく見積もり過ぎるのに、中長期的変化については小さく見積もり過ぎるということです。僕らの世代では無理かも知れませんが、今の若い子たちの時代にはそういう方向に行くんじゃないか」と期待を投げかける。だからこそ、氏は脳髄を締め上げる思索と壁を穿つ行動を繰り返す。
 本来の意味でドラスティックな改革がなければ、行く手の闇は深まるばかりだ。であるなら、氏の構想は目から鱗だ。私のような凡愚の脳天にも軽やかに響き渡る。
 先日も紹介した社会学者の宮台信司氏の言──日本は「引き受けて考える社会」ではなく、「任せて文句を言う社会」だ。任せられる側は「知識を尊重する社会」ではなく、「空気に支配される社会」である。──を脱する方策もここにあるのではないか。
 やはり、知恵者はいるものだ。人生意を得ば須く歓を尽くすべし。まずは、「創発民主主義」に歓呼を挙げたい。□


再び、まぼろしか

2011年09月01日 | エッセー

 井中の蛙(ア)大海を知らず。盲蛇に怖じず。分不相応にも、定番の童謡に私的で独断的で妄想じみた解釈を試みたことがあった(「赤とんぼ」について)。斉東野語の類である。恥のかきついでに億面もなく摘要してみたい。
〓〓「まぼろし」とは、童謡にしてはいかにも膚質のちがう言葉ではないか。字引には、 ―― 実在しないのにその姿が実在するように見えるもの。幻影。はかないもの、きわめて手に入れにくいものの譬え。 ―― とある。
 1節は、母に背負われて見た夕焼け空に群れ飛ぶ赤蜻蛉であろう。いつとは特定できぬまでも、むかし、幼少の「いつの日か。」であった。
 3節は、可愛がってくれた子守りの姐やが15で嫁ぎ、主家への音信も「絶えはてた。」杳としてその後は知れぬ、と振り返る。
 4節は、長じて今また夕間暮れ、竿の先に止まる赤蜻蛉をじっと見詰める。去来するは少年期の一齣、懐かしき情景 …… 。
 大掴みでは、そのような歌意であろう。 …… 「疑念」は2節だ。
 山裾に広がる桑畑で、小籠を提げて、母とともに桑の実を摘んだ。あれはまぼろしであったろうか。
 なぜ「まぼろし」なのか。1、3、4節の明晰性に比してなんとも心許ない。「幻想の中での出来事だったようにはっきりしない」と、通途に受け取っていたのでは脈絡が切れはしないか。なぜ母との思い出の情景だけが霞むのか。
 〽小籠に摘んだは〽 「秋の日か。」か、あるいは「母さんと。」とでも続けば、自然なものを …… 。
 明澄な世界であるべき童謡には、「まぼろし」は似つかわしくない。童心には早すぎる言葉ではないか。露風はこの言葉になにを託したのであろうか。抒情に纏われた謎があるのか。「疑念」は膨らんだ。
 ――露風は5歳の時、母親と生き別れた。
 早熟の天才、ガラス細工のように鋭敏な少年の感性に、この出来事がなにものも残さないはずはない。焦がれるわが子に、父は近在から姐やを呼んだ。それが3節へとつながる。
 だから、「まぼろしか。」とは 「まぼろしのように儚い、定かならぬ記憶」と片付けて済む言葉ではない。わらべの唄に不似合いな言葉をあえて使うには、相応のわけがあったと考えるべきではないか。
 母との情景は遠い昔の記憶ではあるが、こころにくっきりと残像を宿してきた。しかしその後、母は去り、母との懐旧はあの一齣が最後となった。生別という人為の別離は、つねにあの情景をまぼろしとして追い遣るよう迫り続けた。でなければ、思慕が身を焼いてしまうからだ。
 あるいは、
 母は去った。いま蘇る母との幼年期の一齣は、そうあってほしかったという願望が紡ぐ情景であり幻影であるかもしれない。記憶の底に沈殿しているあの母の残像は、母への思慕がつくり出したまぼろしの似姿ではなかろうか。
  …… 想像が過ぎるであろうか。1節の「いつの日か。」の延長にあるトポスとはうけとりがたい。だから、奇想を天外より呼び寄せてみた。〓〓(09年5月付本ブログ「まぼろしか」より)
 幻影。ないにもかかわらずあるように見える。ないとして追い遣るか、あるとして暖めつづけるか。母性へのアンビヴァレンスが「まぼろし」に凝(コゴ)ったのではないか──。まあ、ディレッタントの戯れ言である。似ぬ京物語だ。ではあるが、馴染んだ唄にいつも挟まっていた違和感を抜き取ろうとの足掻きではあった。もっとも違和感そのものが的外れであったかもしれないが……。
 さて、「まぼろし」である。司馬遼太郎著「街道をゆく」39<ニューヨーク散歩>に、おもしろい挿話がある。氏とは旧知で、生粋のアメリカ人で日本留学の経験もあるマーガレット・鳴海という才媛が登場する。


 マーガレット・鳴海は物言いの魅力的な女性で、日本語を話すときは、英語がもつ攻撃性を、ピアノから琴に変えるようにして切りかえる。
「寅さんとその家族って、リアリズムじゃないでしょう?」
 と、ひかえめに言った表情を、いまでもおぼえている。(中略) 
 容易ならざる質問で、煮つめてゆくと、江戸っ子は実在するか、というむずかしい主題になる。
 言いきってしまえば、長兵衛さん(欠片註・落語の主人公で、左官の親方)のような江戸っ子など、存在しない。が、ひょっとすると東京の下町のどこかで存在しているのではないかという願望が、百年、二百年、もたれてきた。つまりその熱っぽい願望がリアリズムに類似する化合物になって、つねに立ちのぼってきた。その気分が古典落語になったり、“寅さんとその家族”(『男はつらいよ』)という、長期シリーズをつくらせてきたのである。
 マーガレット・鳴海は、屈しなかった。
「だって、あの映画でリアリズムは“社長”だけでしょ?」
 そのくせ、マーガレットは新作が出るたびに、私同様、待ちかねて観る。


 『タコ社長』だけがリアリズムだとは呵々大笑だ。年中、愚痴をこぼしつつ手形に追われている町工場の親仁。現に、映画館の隣の席は手形の束を握った同類かもしれない。「熱っぽい願望がリアリズムに類似する化合物」になったとはいえ、やはり寅さん及びその家族は長兵衛さん同様「存在しない。」ならば、まぼろしではないか。 
 「そのくせ、マーガレットは新作が出るたびに、私同様、待ちかねて観る。」とは、訳もなく嬉しくなる。

 「寅さん」シリーズ第17作「寅次郎 夕焼け小焼け」は名作の呼び声が高い。舞台は兵庫県龍野。三木露風の出身地だ。もちろん、「赤蜻蛉」の里だ。マドンナは太地喜和子。鬼籍に入って久しいが、上質な色香が印象的だった。日本画壇の耆宿に扮する宇野重吉。飄とした演技がなんとも嵌まっていた。遥かな星霜を越えて再会するかつて焦がれた縁(エニシ)のひと。老いてなお楚々たる麗人。大女優・岡田嘉子の存在感が光った。
 寅さんがアイスキャンディーをしゃぶりながら橋を渡ってゆく。河原では子どもたちが水と戯れ、歓声が湧く。その遠景に「桑の実を小籠に摘んだ」山と裾が映し込まれ、「赤蜻蛉」が薄く流れる。長いシーンではないが、焼き付いて離れない。

 タイトル通り、今回はまぼろしのように話柄が移ろった。□