伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

全敗は全否定

2021年04月27日 | エッセー

「国民の皆さんの審判を謙虚に受け止め、正すべき点はしっかり正していきたい」
 「正す」積りが本当にあるのなら、スッカスカ君がとっとと辞めるべきだろう。「正すべき点」とは往生際が悪い。この期に及んで、「正さなくてよい点」があるとでもいうのか。
──   
衆院北海道2区は閣僚の収賄事件による。不戦敗。
  参院長野選挙区は野党議員の死去による。覚悟の前の敗北。
  参院広島選挙区は選挙違反による。「だまっとれん」に惨敗。 ──
 北海道は自民党が抱える痼疾の再発。長野は野党がプレゼンスを表示。広島は安倍政治へのノー。大括りにすれば、そういうことだ。3戦3敗で全敗とは大仰な、と難ずる向きもあろう。だが3戦のそれぞれが象徴的意味を持ちかつ与野党ガチンコ勝負であってみれば、全敗と言って決して綺語ではない。
 利権とネポティズム政治へのオブジェクション。北海道が自民党への、広島がとりわけ安倍への断罪だとすれば、全敗は全否定と捉えて如くはない。だから「辞めるべき」と言う。総選挙は文字通りの命がけになるし、今仕掛けても大敗北は目に見えている。ならばスッカスカ君が辞めて頭目を替えるか、与野党挙国一致内閣を選択するしかあるまい。「コロナに打ち克って」だの「緊急事態」だのと威勢はいいが、本当に国難の危機感があるのか与野党ともに疑わしい。第一、「挙国一致内閣」などとはだれひとり言わない。
 大阪に住む妹が緊急事態宣言を「空襲警報」に、巣ごもりを「防空壕」避難に準えて自嘲している。宜なる哉だ。
 一階の上爺さんはどうか。25日開票日当日、当初は党本部に来る予定だったがついに姿を見せなかった。「だまっとれん」に「だまっとる」ことにしたのか。「他山の石」を軽石代わりにしててめーの踵でも擦ったのか、杳として掴めない。
 政治学者白井 聡氏は近著『主権者のいない国』で安倍時代を「日本史上の汚点と目すべき無惨な時代」だとし、「虚しい歴史意識は、社会を劣化させ、究極的にはその社会を殺し、場合によってはそこに生きる人間を物理的に殺す」と警鐘を鳴らす。さらに、
〈「安倍政権が日本をダメにした」のではなく、ダメになった日本が安倍政権を生み出したのであり、その意味で安倍政権は現代日本にまことにふさわしい政権なのである。3.11以降、戦後民主主義の体制ははりきりと危機の局面に入り、その暗部を露にし始めた.安倍政権とは、その暗部を煮詰めた塊のようなものだ。そうしたなかで、私は、この体制は限界に達しており、その清算が国民の内発的な努力によってなされればよいが、それができなければ外的な力によって有無を言わさず清算を強制されるであろう、と繰り返し指摘してきた。コロナ危機はまさにその「外的な力」として現れている。〉(上掲書より)
 刹那、発止と的を逃さぬ槍捌きだ。「その清算」の「外的な力」がコロナだとする。意を強くするのは、昨年3月入院中に記した拙稿の愚案に通底するからだ。
〈規模の大小を問わず、国家権力を超える権力は国内には存在しない。超えるものは2つ。1つは他の、より強大な国家権力。もうひとつは自然現象、天変地異である。
 ナチスは連合軍によって潰えたし、ポルトガルは大地震によって世界の覇者から引きずりおろされた。ペストによるパンデミックは洋の東西を越えて人類を何度も危機に陥れた。
 アンバイ君がどんなに一強を誇示し、独裁を欲しいままにしても道理は同じだ。新型コロナはさしずめ天変地異か。一強を超える自然の猛々しい力を見せつけている。〉(「一寸の虫 9」から)
 刻下、コロナは変異しつつ「絨緞爆撃」を開始した。「3敗」は「全敗」であり「全否定」であるのだが、永田町の中の懲りない面々に「天変地異」は「変化(ヘンゲ)の術」を繰り出したと見るべきだろう。
 新宿に盤踞する厚化粧のオバハンは憲法違反の私権制限もものかは、「東京に来ないで!」とヒステリックに喚く。7月の都議会議員選挙で、果たして都民ファーストの会は最大与党の地位を保てるのか。このところ、このオバハンはじめいろいろな人物が物流擬きの「人流」を連呼する。人をモノ扱いにする身の毛がよだつ言葉だ。言葉は人なりである。5年経っても「7つのゼロ」は「ペット殺処分ゼロ」以外は未達成。こちらの6戦全敗も全否定だ。 □


頭隠して尻隠さず

2021年04月25日 | エッセー

 頭隠して尻隠さず、雉の草隠れともいう。草叢に頭だけツッコんでも尾っぽが外に出ていたんじゃ見つかってしまう。「悪事や欠点の一部だけを隠して、全体をうまく隠しおおせたつもりでいるさま」と岩波国語辞典には載っている。
 朝日新聞4月23日付1面には、
〈温室ガス46%削減、表明 30年度目標 首相「50%へ挑戦」
 オンラインによる米主催の気候変動サミットに出席し、日本政府の新たな目標を各国の首脳に伝えた。〉(要録)
 とある。随分な気炎である。しかし7面には、こう報じている。
〈削減目標の達成には、排出量の約4割を占める電力部門での大幅削減が欠かせない。政府は今夏、「エネルギー基本計画」の改定を予定しており、30年度の電源構成も見直す。自民党では今月、原発の新増設を推進する議員連盟が発足。顧問には安倍晋三前首相や甘利明・元経済産業相が名を連ね、「カーボンニュートラルの達成には原子力はマストだ」(甘利氏)と強調した。〉
 威勢のいい啖呵で頭を隠したつもりでも、原発復権の尾っぽが途端に露わになった。加えて、やれ原発だ、改憲だとの声がするとまたしても安倍がしゃしゃり出てくる。病気ですっ込んだのではなかったのかい。政治学者白井 聡氏はこう抉る。
〈河井夫妻の審理は進行しており、安倍自身に刑事責任の追及が及ぶ事態は現実味を帯びてきた。要するに、この半月(引用者註・昨年8月)ほどの健康不安をめぐる演出は、「民意によって追い込まれての退陣」という現実を誤魔化し否認するための手の込んだ工作にほかならなかった。この工作は、安倍個人の自己保身という次元をはるかに超えて、深刻に罪深いものだ。というのは、そこに懸けられているのは、民衆の力を否認し、民衆に自らを無力だと感じ続けさせることにほかならないからである。〉(「主権者のいない国」から抄録)
 森友の巨悪は高級官僚という頭は隠せても、近畿財務局職員(赤木俊夫さん)という権力機構の尾っぽから露見した。かつて日本会議に鋭く斬り込んだジャーナリスト青木理氏は安倍の本質を「空疎と空虚、そしてそれと不釣り合いに高いプライド」としたが、稿者はこれに「嘘」を加え『アンバイ四欠陥』としたい。してみれば、「手の込んだ工作」は合点が行く。普通一国のトップリーダーが病院へ行くのに大層な車列を組んで行くか。しかも適当にリークしてマスコミに撮らせるか。内外ともに求心力を損じる愚策だ。あの時、変だなと首を傾げたものだ。これなぞ差し詰め「頭隠して尻『も』隠さず」だ。「あんな男」でも、否だからこそ悪知恵は人一倍働くらしい。
 3度に及ぶ緊急事態宣言もそうだ(実は今度で5回目、先月の拙稿「仏の顔も4度」を参照されたい)。やってる感の頭は隠せても、路上呑み、公園呑みの尾っぽは隠せない。若けーもんばかりを狙い撃ちにしても尾っぽは隠せない。いやむしろ尾っぽにされた若けーもんの反逆といえなくもない。
 19世紀後半のニューヨーク、アイルランド移民で料理の腕前が優れ「子どものように善良な人」と讃えられたメアリーという名のメイドがいた。ところが20歳のころ、小規模な流行だった腸チフスを拡散させたとして以来23年間も隔離された。実は、彼女は感染はしているが発病はしない健康保菌者(不顕性感染)だったのだ。「チフスのメアリー」、「無垢の殺人者」と呼ばれる。この「チフスのメアリー」を引いて、生物学者の池田清彦氏が近著「近代優生学の脅威」(前回も徴した)で次のように語っている。
〈まさに今「未発症者を介した感染拡大」という現実に直面する私たちにとって、「チフスのメアリー」・「無垢の殺人者」と呼ばれたその女性の身に降りかかった悲劇は大きな教訓となります。原因は何より「無症状の感染者」という未知の存在を、社会が正当に扱うことができなかったことに尽きると思います。メアリーへの非人道的な行為は、彼女一人の問題ではありません。新型コロナウイルスの感染拡大が続く現代においても、そうした状況はまったく変わっていないからです。人間は「未知の存在」に直面したとき、対象を隔離・排除することで安心します。チフスのメアリーや新型コロナウイルスの感染者のように、見えている「誰か」を危険な存在だと見なし、排除することで、目に見えない病気の恐怖から逃れようとする心理が働くのです。〉(上掲書より抄録)
 途轍もなく甚深な達識である。劇的な頂門の一針である。ウイルスの排除と人の排除をどう断ち切るか、類的アポリアでもある。池田氏はフランスの哲学者ミシェル・フーコーの言を引きながら重要な警告を発する。
〈近代的な権力は医学・公衆衛生と相互に依存し合いながら発展してきました。臣民の生を掌握し抹殺しようとする君主の「殺す権力」を一つの特徴とする君主制のような古い権力に対し、近代以降の権力は「生活や生命を向上させる公衆衛生の管理・統制を通じ、福祉国家という形態で出現する」わけです。人びとの生に積極的に介入し、それを管理することで民衆の支配を行う、こうした特徴をもつ近代の権力を、フーコーは「生権力」と言います。今回の新型コロナウイルス感染拡大による緊急事態宣言は憲法が保障する個人の自由や権利を制約するものでした。いわば、国家による公衆衛生の管理と個人の人権とがぶつかり合ったかたちです。〉
 現代の国家権力は公衆衛生を口実にして国民を支配しようとする。つまりはそういうことだ。ヨーロッパの箴言に「地獄への道は善意で敷き詰められている」とある。百歩譲って善意であるにしても、ベクトルは確実に地獄へ向いていることだけは夢寐にも忘れてはなるまい。隠せない尻から断じて目を離してはなるまい。 □


出生前診断

2021年04月21日 | エッセー

 拙女が身籠もった時、出生前診断を受けるというので恐る恐る訊いてみた。で、結果がよくなかったらどうするのか、と。
「ダウン症だったら、前もって勉強しとかなくちゃね」
 即答であった。なんと、人工流産はまったく選択肢になかったのだ。すげー手前味噌ながら、この時ばかりはわが身を恥じわが娘を誇った。恐縮ながら親バカと言われても、この時ばかりは。
 今月1日の朝日はこう報じた。             
〈新型出生前診断(NIPT)について、厚生労働省の専門委員会は最終報告書案をまとめた。認定施設をクリニックなど小規模な医療機関にも広げる。今夏にも施設基準などを議論する。
 NIPTは陽性が確定した妊婦の約9割が中絶を選んでいるとの調査がある。「命の選別」につながるとの指摘もあり、日本医学会が109カ所を認定してきた。だが、ここ数年で学会の認定を受けない施設が急増。検査結果のみを伝え、妊婦やその家族が混乱するケースなどが報告され始めた。報告案では、専門的な医療機関と連携する形で産婦人科のクリニックも認定できるよう提言。ただ、認定外施設をどう規制していくかには踏み込んでいない。〉(抄録)
 生物学者の池田清彦先生は筋金入りのリバタリアンだけあって、人為と作為に満ちたNIPTには反対の立場だ。以下、近著「近代優生学の脅威」から。
〈実は一九七〇年代前半までの日本では、「社会のコストを増大させないために、親は遺伝性疾患をもつ子どもを産まないように努力すべきだ」という主張が、さほど珍しいものではありませんでした。〉
 その優生学的発想がここに来て、尖鋭化して再現されているとする。
〈世界的な少子高齢化と財政基盤の脆弱化のなか、新自由主義的な政策で弱者を切り捨てたり、ときには相模原市の殺傷事件のように抹殺を試みたりする者が現れるのは、消極的優生学の現代的な顕現といえるでしょう。〉
 優生学には2つある。遺伝的欠陥を持つ人の生殖を規制する「消極的優性学」、出生前に優秀とされる人の生殖を促進する「積極的優性学」。ナチスのホロコーストやT4(精神・身体障害者に対する強制的な安楽死政策。相模原事件の植松聖はこれを掲げた)、ハンセン病患者の隔離は前者に、同じくナチスのレーベンスボルン(アーリア人増殖のための施設)は後者に当たる。本邦では1941年に決定された産めよ増やせよの「人口政策要項」があった。「一家庭に平均5児を 一億目指し大和民族の進軍」と煽り立てた。現今のNIPTは「積極的優性学」が逆立した「命の選別」ではないか。
 池田先生はこう警鐘を鳴らす。
〈すべてが少しずつ変わっているときには、「社会が恐ろしい方向に進んでいる」ことに誰も気がつきません。同じような悲劇を繰り返さないためにも、「優生学によって人類がどれほどの過ちを犯してきたのか」という歴史を、我々はもっと深く知る必要があるでしょう。(略)学問としての体裁は整っていないものの、明らかに優生学的な傾向をもつ考えが、現在さまざまな領域で顕現しつつあります。それを仮に「現代優生学」と名付けるとするならば、その広がりに大きく寄与しているものの一つが「遺伝子」の存在です。〉
 遺伝学の向上が優生学のゾンビを誘起したとすれば、世紀を跨ぐパラドックスである。物理学の極みが原爆であったようにといえば過言であろうか。
 今、わが誇り(再び恐縮)の娘は制御不能の子育てに奮闘中である。 □


ファイト!

2021年04月16日 | エッセー

 4年前のこと。夏の甲子園を前に舌戦を仕掛けた監督がいた。
「僕ね、『文武両道』って言葉が大嫌いなんですよね。あり得ない」
「野球と勉学の両立は無理。『一流』というのは『一つの流れ』。例えば野球ひとつに集中してやるということ。文武両道って響きはいいですけど、絶対逃げてますからね。文武両道は二流」
「他校の監督さんは『楽しい野球』と言うけど、嘘ばっかり。楽しいわけがない。『楽しく』という餌をまかないと(選手が)来ないような学校はちょっと違う」
 厳しい生活規律、携帯電話は禁止どころか解約。典型的なスパルタである。
 私立下関国際高等学校野球部、坂原秀尚監督。創部以来半世紀余、出場停止を喰らうほど荒れていた弱小校を熱血指導でついに甲子園まで連れて来た名高き監督である。面貌も鋭いが舌鋒も鋭い。矛先はどこを向いていたか。お隣の福岡県立東筑高等学校野球部、青野浩彦監督であった。
「考えさせる大人の野球を実践。日本一短い練習で、日本一強いチームに。すべては1本の道につながっている。野球と勉強、どちらも絶対にあきらめない!」
 この大会で6度目、金看板通り東京六大学を始め名門大学への進学者を毎年送り出している。
 直接対決はなかったが、下関国際が2回戦敗退。東筑は1回戦で姿を消した。如上の攻防について敬愛する政治学者白井 聡氏が近著にこう記している。
〈両監督の言葉の端々が示唆しているのは、一口に高校球児と言っても、野球が自己実現のための複数の手段のなかの一つである生徒と、野球が自己の存在証明のための唯一の手段である生徒がいるという現実である。両者の差異は、多くの場合、階級に関係している。 この論争をめぐる世論の反応の多くは、私の見る限り青野監督の「正論」に単純に肩入れするものだった。けだし、「支配階級の思想は、いつの時代にも支配的思想である」(マルクス)。総中流社会が過去のものとなり、再階級社会化が進行しているにもかかわらず、階級闘争の存在を否認するのが当世の主流思想なのであろう。あまつさえ、かき氷すらをも禁欲した「管理主義」の下関国際が、さほど禁欲的でない敵を相手に敗れたことを嘲笑する現象も見受けられた。
「闘う君の唄を闘わない奴等が笑うだろう」(中島みゆき「ファイト!」)。
 嗤うことだけが生き甲斐となった者たちが増え続けるこの国の現状を、それは映し出している。自らの尊厳を懸けた闘いにただの一度も挑んだことのない者が、夜更けまで続けられる素振りのバットが風を切る音に「闘う君の唄」を聴き取ることなどできようもない。誰も耳を傾けない唄は、やがて誰も歌わなくなる。その時に出現するのは、尊厳なき社会である。〉(「主権者のいない国」講談社、本年三月刊)
 白井氏がいう「階級」とは近年の新自由主義により新たに生まれた格差社会の謂である。市場主義が非正規雇用を誘発し、人口の3割が家庭を持てないという膨大な貧困層を作った。アメリカ型の遍頗な格差が生じ、「新しい階級社会」が顕現した。「再階級社会化」とはそのことだ。
「あたし中卒やからね 仕事をもらわれへんのやと書いた 女の子の手紙の文字は とがりながらふるえている」
 「ファイト!」はこの呟きから始まる。格差社会への痛撃ではないか。続いて、児童虐待を目の当たりにし怖くて逃げ出した私。
「私の敵は私です」
 他責が瀰漫する世に撃たれた頂門の一針と受け止めたい。
「勝つか負けるかそれはわからない それでもとにかく闘いの 出場通知を抱きしめて あいつは海になりました」
 回遊魚の定めに託した人生の劇。
「出てくならお前の身内も住めんようにしちゃる」
 と罵声を背中に受けつつも、田舎から東京を目指す私。手には汗に滲んだ東京行きの切符。逃げるんじゃない、都会の大海原で「自らの尊厳を懸けた闘いに」挑むんだ。そこに何度か繰り返される敢闘のエール。
「ファイト! 闘う君の唄を
 闘わない奴等が笑うだろう
 ファイト! 冷たい水の中を
 ふるえながらのぼってゆけ」
 演歌ではなく怨歌、いやソウル、魂歌であろうか。「闘う君の唄」をお前も歌え。「ふるえながらのぼって」いるなら歌えるはずだ。さあ、喉が裂けるほどに歌え。
 白井氏の問い掛けは世を抉り、中島みゆきのアンサーは心を抉る。□


スマホ脳

2021年04月11日 | エッセー

 昨年コロナ禍の7月『携帯、不携帯のすゝめ』と題し、感染予防アプリ「ココア」は監視・管理社会へのとば口になると警戒を呼びかけた。副題は『ココアは甘くない』とした。その後大いにずっこけて沙汰止みとなった。ざまあみろだ。
 今年になって、そのざまあみろがあらぬ方角から飛んで来た。今ベストセラーの
    「スマホ脳」(新潮新書、昨年11月刊)
 である。著者はアンデシュ・ハンセン、スウェーデンの精神科医である。スマホへのアンチテーゼだろうし、おおよその内容も分かる。そう高を括って読み始めたが、豈図らんやことの重大さに打ちのめされた。一言に約めれば、こうだ。
「人間の脳はデジタル社会に適応していない」
 そのわけは、 
〈今のこの社会は、人間の歴史のほんの一瞬にすぎない。地球上に現れてから99.9%の時間を、人間は狩猟と採集をして暮らしてきた。私たちの脳は、今でも当時の生活様式に最適化されている。脳はこの1万年変化していない──それが現実なのだ。〉(上掲書より)
 という。すげー卓袱台返しだ。不携帯どころではない、捨携帯だ。携帯が登場した頃は電磁波が人体に与える影響がさかんに喧伝されたが、それがイシューではない。スマホやSNSへの依存は脳の機能を蝕む、ぶっちゃけて言えばバカになるってことだ。その触りは以下の通りだ。
〈複数の作業の間で集中を移動させることで、気持ちがよくなる。これは私たちの祖先が、この世のあらゆる刺激に迅速に対応できるよう、警戒態勢を整えておく必要があったせいだ。わずかな気の緩みが命の危機につながる可能性があるのだから、何事も見逃さないようにしなければいけない。集中を分散させ、現れるものすべてに素早く反応すること。人口の半数が10歳前に亡くなるほど危険だった時代に、それは決定的な違いだった。脳はそうやって進化してきたのだ。ドーパミンという報酬を与えてマルチタスクをさせ、簡単に気が散るようにした。〉(同上)
 意外なロジックに一驚、二驚、三四がなくて五驚してしまった。稿者なぞは今以て落ち着きがないと某君に叱られるが、むしろ落ち着きがない方が褒められるのである。非常識が常識に取って代わるカタルシスだ。
 人類は集中の分散で99.9%の歴史を生き延びてきたが、知的作業を始めた0.1%の直近でその中核的ファクターである記憶機能が要求される事態に至った。分散を属性としている脳を集中に切り替える。これは至難の業だ。といったことが進化や脳科学の豊富な知見を元に語られていく。特に子ども。「バカになっていく子どもたち」というタイトルで章を立て詳説している。要点を列挙すると──
▼驚くべきことに、スティーブ・ジョブズは自宅ではiPadはそばに置くことすらしない、そしてスクリーンタイムを厳しく制限している
▼タブレットで小さい子どもは発達が遅れる可能性がある
▼テクノロジーがごく幼い子どもにも良いとする誤った考えは、子どもたちを小さな大人として見ている点にある
▼2歳児は本物のパズルをすることで指の運動能力を鍛え、形や材質の感覚を身につける
▼紙とペンで書くという運動能力が、文字を読む能力とも深く関わっている
▼タブレットでは算数や理論科目を学ぶために必要な運動技能を習得できない
▼複雑な社会的協調を理解し参加するために前頭葉は訓練を必要とするがデジタルライフに脅かされる
▼スマホを使う人のほうか衝動的になりやすく、報酬を先延ばしするのが下手だ
▼報酬を先延ばしにできなければ、上達に時間がかかるようなことを学べなくなる
▼紙の書籍で読んだグループの方がダブレット端末との比較で、内容をよく覚えていた
──などなどだ。
 もちろん個人差はあると著者はいう。しかしデメリットやリスクを識っておくにしくはない。
 早速娘にこの本を送ったところ、わが子からデジタル機器を遠ざけ始めたそうだ。「テクノロジーがごく幼い子どもにも良いとする誤った考え」が衝撃だったらしい。頑強な抵抗は受けているが「バカになっていく子どもたち」の仲間入りはさせたくないのだろう。
 今のこのご時世、必読の一書と言ってよい。 □


大阪見回り隊

2021年04月06日 | エッセー

 「まん防」改め「重点措置」の実施に伴い、大阪で飲食店の見回りがスタートしたそうだ。『見回り隊』という。「摘発が目的ではない」とするが、どんなに物腰柔らかく立ち入り検査しようと科料に繋がる以上は「摘発」と同義とみざるを得まい。
 『見回り隊』とくれば、「京都見廻組」が連想される。さすが維新の会の府知事である。陳腐で危険極まりない発想ではないか。
 幕末、京都で討幕派が暴れまくった。「京都見廻組」は治安維持のため幕府が派遣した治安維持組織であった。同類の新選組は街中を担当し、見廻組は官庁街を管轄下に置いた。組士は旗本の二男、三男の中から剣術に優れた者が募られた。成功したかに見えたが、鳥羽伏見で大敗し、結局は霧散する。見回り隊と見廻組、なんだか同じ軌跡を辿りそうで胸苦しい。
 朝日新聞の調査によれば、昨年10月から本年3月までクラスターは高齢者施設での発生が突出している。続いて医療機関、企業と続き、飲食店は最下位である。なのに目の敵にされ、スケープゴートとして血祭りに上げられる。なんの因果か、同情を禁じ得ない。
 政治学者白井 聡氏が新著で舌鋒鋭い指摘をしている。
〈新型コロナによる危機はサイパン陥落の反復である。対米英開戦を決断することによって戦前の国体の墓掘り人となった東条英機首相は、サイパン陥落をもって退陣に追い込まれた。だから、安倍晋三が演じてきたのは東条の役どころということになろうし、東条の後継首相、小磯国昭が戦局の収拾(つまりは敗戦の受容)を求められていたにもかかわらず結局何もできず在職八ヵ月で虚しくも総辞職に至る成り行きを、菅義偉は反復しているように見える。〉(「主権者のいない国」から)
 これもまた見廻組と同じ轍だ。先駆け、決戦よりも殿、「敗戦の受容」は至難の業だ。凡庸には務まらぬ。さらに暗愚に限って強権を発動したがる。とどのつまりは軍場の露と消えゆく。この際だ。市中見回りではなく、早めに身の回りを片づけた方がよろしいのではないか。 □


先祖返り

2021年04月04日 | エッセー

〈荒っぽく括ると『ネットによる現金書留』、それが仮想通貨とブロックチェーンである。もちろんお札やコインはそのままでは送りようがない。ネット用の現金に換える。1500種あるとされるが、例えばビットコインがそうだ。色も形もない電子情報である。しかし「幻想の共有」により仲間内では通貨として使える(仲間は世界的規模に拡大しつつある)。中央集権的な管理がなかった太古の貝殻と同じだ。兌換もできるが、兌換せずとも相手方がビットコインでOKならそのまま使えばいい。だから現金と同等だ。しかし電子マネーは現金の代替物でしかない。〉
 18年2月ビットコインについて投稿した「仮想通貨 愚考<承前>」の抜粋である。大括りするとデジタル通貨、大分けすると「電子マネー」(法定通貨=円やドルなどを基準としたプリペイドカード、スイカ他)と「仮想通貨」(法定通貨を基準としない独自通貨、ビットコイン他)とになる。
 つまり、デジタル通貨 ➔ 電子マネー & 仮想通貨 だ。
 肝は、通貨が「中央集権的な管理」から離れ世界的規模の「仲間内」に移ること。国家から市民へ。つまり『通貨の市民革命』である。とはいってもアナーキーに陥らないために、相互監視の仕組み=ブロックチェーンが用意されている。またビットコインの発行枚数は2400万枚と上限が定められているが、煩雑になるゆえ割愛する。
 さて、仮想通貨といえども自然に湧いてくるものではない。大量のコンピューターを駆使してサイバー空間に作り込んでいく。それをマイニング、日本語では「採掘」という。これには電気が要る。それも想像を遥かに超える大量だ。一節では、スロヴェニア一国の電力消費量に匹敵するそうだ。世界各地で電気の供給量と料金の違いがある。金融センターであるニューヨーク、ロンドン、上海、香港、東京などではどだい無理。そこで新疆ウイグル自治区やカザフスタンなどのいわば辺境地域に白羽の矢が立てられた。石炭、石油の化石燃料を使った安い電力があるからだ。ところが高まる需要は乱開発や環境破壊を呼び起こす。懸念は的外れだという見方がある一方で、ビル・ゲイツをはじめ気候変動問題を悪化させると憂慮する声が上がる。むしろ後者が大勢だ。
 最先端のビットコインを「採掘」するために、野山をリアルに『採掘』する。なんとも珍妙な先祖返りではないか。普及するEVのために必然的に発電量を増やさざるを得ない逆立と同じである。ではFCV(燃料電池自動車)はどうか。問題は水素だ。電気分解で作るにせよ、化石燃料やバイオマスからにせよ電気が要る。これでは前車の轍を踏んでいることにならないか。
 「猫に小判」という。何度か触れてきたが、ユヴァル・ノア・ハラリがいう唯一「認知革命」を起こしたサピエンスにして初めて超えた範である。地球史上、最大の革命といえなくもない。小判は猫にとっては単なる金属でしかない。ヒトは小判に貨幣の幻想を見て取る。一番近いチンパンジーにだってそれはできない。仮想通貨は現代の『小判』である。貨幣の幻想性に加えてサイバー空間の幻想性が重なる。二重の幻想性だ。新しい認知革命が迫られているともいえる。時代に置き去りにされてはなるまい。と同時に、新時代の貨幣が古(イニシエ)の工法によって生み出されるという希有な先祖返りに一驚を喫する。なんだか面白くなってきた。 □


今日はなんの日?

2021年04月02日 | エッセー

「県内で聖火リレー予定者の辞退が相次ぐ中、荊妻が急遽聖火ランナーに選ばれました。日時は5月15日、午後3時から。駅前の国道、200メートルを走ります。今日からトレーナーがついて練習が始まります。激励、よろしく!」
 昨日午前8時、家族友人10人に一斉送信したメールである。妹と娘には即刻見破られた。「あの体では20メートルがやっと。200メートルなんて自殺行為だ」と。悴を含め残り8人からは早速頑張ってというメールが寄せられ、今日がなんの日かやっと気づいたそうだ。なんとも素直な人たちだ。裏返せば日ごろ稿者がいかに信頼されているかの証でもある(エヘン!)。
 かつて現役の頃、近くの浜に体長6メートルのクジラが打ち上げられたと同僚に囁いたことがあった。「ここだけの話だけど」と。案の定、「ここだけ」が連鎖して他社を含め十数人が浜に押し寄せるハプニングが起こった。反響の大きさに、さすがに身を隠す羽目になった。
 年に1度、稿者にとってのビッグイベントである。そのエイプリルフールとは一体なにか? 旧稿を引いてみたい。
 〈エイプリル・フール ―― むかし、むかし、日本では戦国時代のころだ。フランスの王様が1年の始まりを1月1日に変えた。それまでは、3月25日が新年だった。4月1日までが春の祭り。永く続いた慣習だった。おそらく農作業の流れに由来したものだったろう。王様はそれを無視した。民衆は反発し、4月1日を「嘘の新年」として、腹立ち紛れのどんちゃん騒ぎを始めた。逆ギレした王様は騒いだ連中を根こそぎひっ捕らえ、処刑してしまった。「四月バカ」という冗談めかした呼び名とは逆に、由来は相当に陰惨で血なまぐさい。〉(07年4月「絶筆 宣言」から)
 王様が新たに採用したのはは現行太陽暦に当たるグレゴリオ暦であった。理屈に敵った改暦である。そんなことは知らない民衆は長い習慣を棄てるよう強要されて猛反発。それが「嘘の新年」のドンチャン騒ぎだった。
 と、ここまで来てなにかが二重写しになってくる。そう、昨今の何とか宣言とそれに抗う路上・公園呑みとバカ騒ぎ、年寄り連中のカラオケ浸り、時短要請と時短破りのイタチごっこだ。お上による飲食店の時短は民衆の「長い習慣」を棄てよと迫るものだ。時短はそれなりに「理屈に敵った」ものではあろうが、何度も出したり引っ込めたりされるといい加減辟易する。仕舞いには罰金を獲るという。「騒いだ連中」に「逆ギレした王様」同然ではないか。かてて加えて、本邦の王様とその取り巻きたちはご法度破りの宴会に精を出す。顰蹙の大量買いだ。民衆のドンチャン騒ぎも宜なる哉だ。調べてみたが、件の「フランスの王様」や臣下には破廉恥なご法度破りの記録はない。
 万策尽きかけた後手後手内閣、今度は「まん防」(蔓延防止等重点措置)らしい。
  〽 マンボウ マンボウ
   なるほど僕は
   進歩には縁がないが
   そういう君は
   やすらぎに縁がないね 〽
 吉田拓郎「マンボウ」の一節(マンボウは魚、「まん防」の駄洒落。失礼)。「進歩」には無縁だが、「やすらぎ」は手放せない。それが大衆の心だ。スッカスッカ内閣に言う。もっと悩め、ない知恵でももっと絞れ! でなければ、君たちには「縁がない」とじきにそっぽを向かれるぞ。 □