伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

一つの違和感

2013年07月30日 | エッセー

 よこはま物語さんの後塵を拝して(今月18日付コメント)、百田尚樹著「永遠の0ゼロ」を追った。240万部を売った超ベストセラーである。さすがに読ませる。そして、泣かせる。久しぶりだ。文字が霞むほどに涙が溢れた。
 掛け値なしのストーリー・テラーだ。別けても空中戦の活写は息を呑む。果たして映画化され、12月に公開だそうだ。
 09年の作品である。明くる10年には浅田次郎著「終わらざる夏」が発刊された。どちらも戦後65年前後を、あの戦争を書き残すラスト・チャンスとして捉えたものだ。双方、逸品である。秀作にちがいない。「終わらざる夏」については、かつて触れた。(10年7月「炎陽の一書」)
 さて「永遠の0」。中身の紹介は超ベストセラーにとって無粋となろう。存外に語り口は平易、外連味はない。ただ、一つだけ違和感が残った。
 「愛」の頻出に、である。
 「愛」は作品の裏面的テーマである。いや、竜骨かもしれない。しかしこの言葉は曲者だ。当然、際疾くなる。


「一つだけ聞かせてください」とぼくは言った。「祖父は、祖母を愛していると言っていましたか」
 伊藤は遠くを見るような目をした。
「愛している、とは言いませんでした。我々の世代は愛などという言葉を使うことはありません。それは宮部も同様です。彼は、妻のために死にたくない、と言ったのです」
 ぼくは頷いた。
 伊藤は続けて言った。
「それは私たちの世代では、愛しているという意味と同じでしょう」
 (「第三章 真珠湾」末尾)

 

 戦時中、それは「敵性言語」に近かったのではないか。欧米的価値観を代弁する言葉ではなかったか。字源は「いとおしく、守りたい」との「愛し=かなし」である。キリスト教で説く神への愛とは似て非なるものだ。近代に至り、“LOVE”にこれを当てた。
 どのように、似て非なのか。それだけで一大テーマとなる。なぜなら、戦後は「愛」で溢れ返っているからだ。
 敢えて蟷螂の斧を振るうとすれば、あのころ「愛する妻のために」とは言わなかったろう。おそらく冠する字句は不要ではなかったか。「妻のため」「娘のため」で、過不足なかったはずだ。そういう土壌を共有していた。せいぜい「愛しい妻のために」、「かわいい娘のために」か。
 重箱の隅をつついているのではない。使われなかった言葉に新来の意味を付託できるのか、疑念が拭えないからだ。本当に「私たちの世代では、愛しているという意味と同じ」なのかどうか。如上の「違和感」とはそれだ。投網では一網打尽だが、捕り逃がす魚がないとはいえない。網の目を摺抜ける獲物は意外と多いのではないか。溢れ返って擦り切れた「愛」で、当時の真情が十全に掬えるであろうか。一網で打尽したつもりが、実は無理に追い込んだところに網を投げただけではないのか。
 内田 樹氏は養老孟司氏との対談で、次のように語る。
◇すべての言葉は一義的には定義できないですよね。辞書を引いたって語義が一つしかない語なんて存在しないじゃないですか。一義的に定義しない言葉は気持ちが悪くて使えないという人は、知性のあり方があまり人間的じゃないということじゃないかな。用例が一つ増えるごとに言葉の意味が変わるって当然なんです。定義に終わりがないから辞書が頻繁に改訂されるわけで、言葉の意味が一義的だったら、ぼくたちは今でも平安時代の辞書で不自由ないはずです。◇(「逆立ち日本論」から) 
 逆ならどうだろう。つまり、「頻繁に改訂」された「辞書」で「平安時代の辞書」をリファレンスしてはいないか。すべての世代に、とりわけ若い世代に伝えようとするあまり、曲者の言葉に足をすくわれかけてはいないか。「頻繁に改訂」された「辞書」で「改訂」のはるか前を「一義的に定義」しているのではないだろうか。
 本書の紹介にはこうある。
〓「娘に会うまでは死ねない、妻との約束を守るために」。そう言い続けた男は、なぜ自ら零戦に乗り命を落としたのか。終戦から60年目の夏、健太郎は死んだ祖父の生涯を調べていた。天才だが臆病者。想像と違う人物像に戸惑いつつも、1つの謎が浮かんでくる──。記憶の断片が揃う時、明らかになる真実とは。〓
 著者は「この小説のテーマは『約束』です。言葉も愛も、現代(いま)よりずっと重たかった時代の物語です。」と綴っている。ひょっとしたら、これは作者の韜晦ではなかろうか。問題は、「約束」がすべてに先んずる理由だ。溢れ返っている「愛」で一網とは、荒っぽすぎる。しかし、手持ちの網はそれしかない。だから「言葉も愛も、現代よりずっと重たかった時代の物語です」とエクスキューズしたのではないか。これほどの作家だ。「約束」に「愛」から漏れたいくつもの思念を付加した。そう考えたい。「0ゼロ」とは最も深いディメンジョンからの出発であるならば……。

 またしても斉東野語に終始したようだ。それにしても還暦ちょっと前のおじさんに、還暦ちょっと後のおじさんがいいように泣かされちまった(不覚にも3回)。悔しいが、至福の一時だった。心から、ありがとう、と言いたい。 □


追記 2話

2013年07月26日 | エッセー

 凡夫の知恵は後から顔を出す。アップ・ロードしてから、あれもこれもと書き足らなかった愚案が顔をだす。まあ、さしたる内容でもないのだが、蔵ったままでは寝覚めが悪い。よって、追記したい。
 
 まずは今月15日の「なぜ笑う?」から。
 近頃寅さんに扮したというか、擬したリチャード・ギア出演のテレビCMが流れる。数パターンあるが、いずれも舞台はフランス。
 例のカバンを提げ、これまたいつものスーツを羽織って、男が駅に降り立つ。あの曲が流れ、物語がはじまる。といっても、わずか30秒そこそこ。場面はレストランへ。ウエイトレスのウインクと投げキッスに、彼は何度もお返しを送る。だが、実は後ろの席にいるボーイフレンドへの秋波だった。早とちり、勘違いである。見ていた子供(満男?)が大笑いする。巧いというか、憎い造りだ。
 またしてもレストラン。秀麗なる美人に贈った飲み物を、託されたウエイターがあろうことか別席の秀麗ならざるおばさんのところへ。またしても子供が大笑い。エンディングはおばさんと三人連れでどこへやら。
 フランス産の炭酸飲料らしい。だから、『ムッシュはつらいよ』とタイトルが浮かび、『さすらいのTORA』と連なる。山田洋次監督が試写を観てお墨付きをくれたそうだ。
 なぜ、笑う? そこには、48作に及ぶ長遠なシリーズで延々と繰り返されてきた寅の恋路、その起承転結が極限にまで凝縮されている。不動の失恋パターンだ。
 寅さんについては何度も語ってきた。本ブログの主要テーマの一つでもある。しかしそれにしても、“TORA”には意表を突かれた。このCMの見事さは換骨奪胎の巧みさにある。憎いほどだ。際立つのはギアの起用。その容姿において、寅とは対極にある人物だ。TORAである。しかし立派に、寅だ。この不思議さはどうであろう。狂言も同じドタバタ・コメディーである。人間の性(サガ)に食い込んだストーリーがおかしみを誘(イザナ)う。それは措く。問題は不易の型だ。鋳型に溶かした材料を流し込めば同じものを再生産できるように(もちろん粗悪な材料では不適だが)、練り上げられた笑いの型がある。それが600年の狂言であり、48作の長寿シリーズではないか。能を起源とする狂言も、顔は面として扱い表情は作らない。だから、TORAが寅にメタモルフォーゼできる。そこを突かれた。まことに鮮やかだ。

 第2話は、昨日の「永続敗戦」。
 白井氏の著作には書かれていないのだが、高市早苗政調会長発言に言及するのを忘れていた。先日、彼女は村山談話を「しっくりこない」と違和感を表明した。さらにかれこれ十年前、彼女は「私は戦後に生まれたので、戦争責任を謝罪しろと言われても、私に謝る義理はない」と発言したことがあった。双方とも同類の言説といえる。戦争に加担していない者までが、いつまで謝罪の責を負うのかということだ。振り返ると、サンデル教授の白熱教室」にも同じ質問があった。
 「永続敗戦レジームがある限り、謝罪は要求され続ける」が、白井氏の論攷から導出される応えだ。敗戦を否認する(負けていない)以上、謝罪の必要は生じない。謝罪がない以上、それは要求され続ける。それが当然の理路だ。
 加えて、いつもエクスキューズにされるのが「戦後に生まれたので」というフレーズである。これについては内田樹氏の考究を引こう。
◇全員が共犯関係にある、というのが、国民国家における国民の有責性のあり方です。だからたとえば、戦時中の共産党員が、「私はその時戦争に反対して投獄されていたから侵略戦争に対して責任はない」ということもほんとうは言えないんだと思います。国家の行動に対しては、全員が何らかの形で責任を負っている。国民国家の行なったことについて「手が白い」国民は一人もいないんです。国民全員の政治的な行動の、あるいは非行動の総和として、国家の行動というものがあるわけですから、全員がそこにはコミットしている。だからそのコミットメントの、自分の「持ち分」に関してはきっちり「つけ」を払っていかなくてはならない。ナショナリストは国家の犯した罪を決して認めないし、左翼の人には国家の犯した罪の自分たちもまた「従犯」であるという意識がありません。◇(「期間限定の思想」から)
 こうまで真っ正面から痛打を食らうと、気も晴れ晴れとする。「『手が白い』国民は一人もいない」と解れば、「自分の『持ち分』に関してはきっちり『つけ』を払っていかなくてはならない」覚悟もできよう。時間軸に置き直しても同様ではないか。過去の国家と繋がらない国民は一人もいないはずだ。少なくとも「永続敗戦」の中に生まれ、育ったことだけは確かだ。それだけで「有責性」は充分ではないか。 □


『永続敗戦』

2013年07月25日 | エッセー

 今のところ真正なる世界政府はない。だから、国家権力が最強といえる。しかし、その国家権力を超える力が二つある。一つは別のより強大な国家権力、もしくは複数の他国によるより強大な集団である。もう一つは国土を破壊するほどの自然災害だ。都市レベルではあるが、ポンペイの例もある。ハリウッドの大作はこの類いが目白押しだ(同国にとっては他国や他国の連合軍に侵略される可能性よりもエイリアンの襲撃がよほど現実的なのかもしれない)。日本では前者は太平洋戦争、後者は3・11を想起できよう。
 言葉を理解するには、対語をリファレンスするといい。かつて大本営は退却を「転戦」と言い繕った。退却の対語は前進である。退却・前進は戦果を直截に表す。転戦の対語は局地戦、集中的攻防であろうか。これは戦術に属す。なんともあざとい。
 8・15を「終戦記念日」という。「終戦」は開戦と対をなす。経緯を表しているにすぎない。「敗戦」は戦勝の対語だ。こちらは結果をいう。終戦と敗戦には途方もない懸隔がある。あざといどころか、欺瞞に満ちている。
〓1945年以来、われわれはずっと、「敗戦」状態にある。
 『永続敗戦』 それは戦後日本のレジームの核心的本質であり「敗戦の拒否」を意味する。国内およびアジアに対しては敗北を否認することによって「神州不滅」の神話を維持しながら、自らを容認し支えてくれる米国に対しては盲従を続ける。敗戦を否認するがゆえに敗北が際限なく続く──それが「永続敗戦」という概念の指し示す構造である。今日、この構造は明らかに破綻に瀕している。〓
 白井 聡著「永続敗戦論」(太田出版、本年3月刊)の帯にはそうある。奇妙なタイトルだが、敗戦状態がそのまま続いているということだ。敗戦を隠すために「終戦」と言い繕ってきた。大本営と同じである。著者は今年36歳、気鋭の政治学者だ。
 「敗戦」の次に来るものは「占領」であり、戦勝国への「従属」である。つまり、『永続敗戦』とは「占領」と「従属」が際限なく続いている状態だ。米軍基地、とりわけ沖縄が「占領」を、日米関係が「従属」を表徴する。
 さらに「今日、この構造は明らかに破綻に瀕している」その象徴が3・11であるという。戦後のエネルギー政策はもとより安全神話、旧来の産業や政官財の構造が「根源的な見直し」を迫られているとまでは料簡していたが、それではまだ浅い。彼はこう述べる。
◇あの地震・津波と事故は、「パンドラの箱」を開けてしまった。「戦後」という箱を。それは直接的には、「平和と繁栄」の時代が完全に終わったことを意味し、その逆の「戦争と衰退」の時代の幕開けを意味せざるを得ないであろう。それは同時に、これまでの「戦後」を総括する基本的な物語(=「平和と繁栄」)に対する根源的な見直しを迫るものとなる。◇(◇部分は同書より引用、以下同様)
 「戦後」というパンドラの箱は「平和と繁栄」によって固く閉じられていた。その蓋を3・11が開け放って、現出したものが『永続敗戦』という戦後日本の核心であった。そう彼は断ずる。
 理路は深く、舌鋒は鋭い。大将首を追って戦場を駆ける抜き身を引っ提げた若武者、とでも言おうか。

 戦後民主主義に対しても容赦はしない。
◇戦後日本においてデモクラシーの外皮を身に纏う政体がとにもかくにも成立可能であったのは、日本が冷戦の真の最前線ではなかったために、少々の「デモクラシーごっこ」を享受させるに足るだけの地政学的余裕が生じたからにほかならない。この構図にあてはまらない、言い換えれば、戦略的重要性から冷戦の真の最前線として位置づけられたのが沖縄であり、ゆえにかの地では暴力的支配が返還以前はもちろん返還後も日常的に横行してきた。日本の本土から見ると沖縄のあり方は特殊で例外的なものに映るが、東アジアの親米諸国一般という観点からすれば、日本の本土こそ特殊であり、沖縄のケースこそ一般性を体現するものにほかならない。東アジア政治史研究者のブルース・カミングスは、「朝鮮半島がすべて共産化したと仮定した場合には、日本の戦後民主主義が生きつづけられたかどうかも疑わしい」と述べているが、これこそ、われわれが見ないで済ませようとしてきた(そして、沖縄にだけは直視させてきた)事柄にほかならない。◇
 抜き身の一閃だ。「日本が冷戦の真の最前線ではなかった」機運は、「朝鮮半島がすべて共産化した」場合の対極である。「デモクラシーの外皮」はそのような歴史的僥倖が招来したものだ──。
 団塊の世代から数世代(二世代か?)を跨ぐと、これほど皮膚感覚が違うものか。戦前・戦中を潜った世代が、団塊の世代に毛穴から染み込ませた戦後デモクラシーへのキラキラとした高揚感。それはもはやない。いや、感覚ではない。パースペクティヴがそもそも異なる。冷徹な追究。まさに抜き身だ。

 白刃は憲法改定へ向かう。
◇平和憲法の改定によって敗戦のトラウマを払拭すること、言い換えれば、「敗戦の否認」をやり遂げること。これが実現されるとき、「戦後」は「清算」されると同時に「完成」する。◇
 一刻も早くトラウマを消したい。改憲勢力の動機とはそれだ。
 内田 樹氏の記号についての洞見を借りれば、現行憲法は「戦後の記号」といえよう。内田氏は「記号とは『それが何であるか』ではなく『それが何でないか』をいう」とする。彼の勢力にとって、現行憲法は戦前的価値観ではないものとして前景化している。だから日本文化の連続性を阻害するものとして、アイデンティティ論議が必ず纏わりついてくる。
 憲法改定は「敗戦の否認」を完遂させる。『自前』であれば敗戦の汚名を返上できる。白を切り通して(負けてないと言い続けて)、逃げ果せる(今までのこと<=戦後>は結果オーライ)。「清算」と同時に「完成」とはその謂だ。
 しかし大方が改憲の根拠を『押し付け』に求めるのは、敗戦を前提にした言説ではないか。『押し付けられた』と言えるためには、敗戦『しなければならない』。だがこれはアンビヴァレンツを生む。では、どうするか。その事情を彼はこう抉る。
◇事あるごとに「戦後民主主義」に対する不平を言い立て戦前的価値観への共感を隠さない政治勢力・・・・彼らの主観においては、大日本帝国は決して負けておらず(戦争は「終わった」のであって「負けた」のではない)、「神洲不敗」の神話は生きている。しかし、かかる「信念」は、究極的には、第二次大戦後の米国による対日処理の正当性と衝突せざるを得ない。それは、突き詰めれば、ポツダム宣言受諾を否定し、東京裁判を否定し、サンフランシスコ講和条約をも否定することとなる(もう一度対米開戦せねばならない)。言うまでもなく、彼らはそのような筋の通った「蛮勇」を持ち合わせていない。ゆえに彼らは、国内およびアジアに対しては敗戦を否認してみせることによって自らの「信念」を満足させながら、自分たちの勢力を容認し支えてくれる米国に対しては卑屈な臣従を続ける、といういじましいマスターベーターと堕し、かつそのような自らの姿に満足を覚えてきた。敗戦を否認するがゆえに敗北が無期限に続く。それが「永続敗戦」という概念が指し示す状況である。◇
 つまりアンビヴァレンツを解消するには、方法は二つ。「もう一度対米開戦」する「筋の通った『蛮勇』」(勿論、戦勝が必須である)を振るうか、「いじましいマスターベーターと堕」すかだ。後者の結果として「永続敗戦レジーム」が成立した──。

 粗粗は先日の本ブログ「貧乏神と賢人二人」で紹介した。領土問題をはじめ論点は多岐に亙る。後世畏るべし、否、今すでに畏るべしである。
 ところで、読んでいるうちになんだか懐かしくなってきた。白井氏の父は元早大総長、自身も同大出身だ。この猛々しさは明証できないが東大とはちがう。いかにも早稲田だ。スチューデント・パワーが吹き荒れた喧噪の中で聞いたかつての口吻。苛烈な議論が切り結ばれ咆哮が行き交った日々。中身は違うが、60年代末の疾風が吹き過ぎたかのようだった。
 括りに、彼はガンジーの言を引く。
「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである。」
 独立運動に向けた呼びかけであろう。白井氏の論究も、「世界によって自分が変えられない」ために違いない。 □


穴あけ問題

2013年07月22日 | エッセー

 かつてはもう少しよく聞こえたような気がする。耳が遠くなったのかしらん。それにしても、ほとんど雑音、轟音である。その中にアナウンサーの声を選って聞き取るのは至難の業だ。さらに競技時間が世界一短いときている。大一番ともなると、ワァーという巨大なノイズの渦中に必死で助けを求める叫び声を探すようなありさまとなる。勝ち負けはなんとか判る。だが途中の成り行きはまったく闇の中、いや渦の中だ。後でアナウンサーが勝負の展開をトレースしてやっと絵が描ける。
 先日、夏場所が終わった。この時間帯はテレビが観られない。いつも変わらずラジオ桟敷だ。十四日目の白鵬・稀勢の里戦などは始めから終わりまで轟音の只中、旅客機が着陸する滑走路にいるようなものだ。なにかすごいことが起こっているらしいのだが、なんだかさっぱり聞き取れない。この騒ぎようでは白鵬が負けたな、と察しはつく。一頻りの度外れた喧噪のあと、ひとりアナウンサー氏が上ずった声で事の顛末を伝えた。それにしても、天下のNHKが放送専用ブースの一つくらい作れないものか。臨場感を狙うにしても、行き過ぎだ。ブースでアナウンスし、会場の音をミキシングすればいい。野球中継に比して、最近そう憤ることがある。受信感度の問題ではない。ネットラジオでも同じだ。古(イニシエ)の常套句「かじりついて聞く」よ、再びであろうか。NHKの意図が奈辺にあるかは別にして、ふと浅慮を巡らしてみた。
 知のマエストロ・養老孟司氏は視覚と聴覚についてこう語る。
◇耳と目のいちばん大きな違いは何かというと、耳は時間を追っていくということです。お喋りがそうで、必ず時間がかかるんですよ。ところが、目は一目でわかるんです。時間性がないでしょう。◇(「記憶がウソをつく!」から)
 時間性の有無が視聴覚を別つ。視覚には時間は要らない。なるほど。しかし、物事の判断には時間性が必須となる。
◇「百聞は一見に如かず」という諺があるものだから、パッと見てわかることが大事だと皆さん思っているかもしれませんが、物事を理解するためには、どうつながっているかの因果関係が重要なんです。その点、耳の聴こえない人はこれが苦手です。疑問形がわからないでしょ、因果関係が把握しにくい。耳が聴こえない子どもに疑問文を教えるにはどうしたらいいかというと、文章を穴あけ問題にする。「このブランクを埋めなさい」と。抜けているのは見てわかる。何か大事なものがあって、ここが抜けているなという形で、まず疑問を教えていく。疑問文というのは論理の基本なんです。◇(「耳で考える」から)
 聴覚は因果関係の理解に関わる。意表を突く深い考究だ。してみると立ち会いから軍配が上がるまでの、実態的にはミュートといえる巨大なノイズは因果関係が隠された状態といえる。「このブランクを埋めなさい」と問いかけられているようなものだ。ここにある種の苛立ちと因果を辿る知的な愉楽が潜むのではないか。しかも長い時間ではない。長くて三十秒、すぐに「疑問」は解ける。「百聞は一見に如かず」のテレビには真似のできない芸当だ。もしテレビがそんなことをしたら、抗議が殺到する。
 さらに、音に特化したラジオの属性がある。言葉による伝達である以上、端っから知的である。相撲を知らない人や日本語を解さない人にとっては、ラジオによる中継はほとんど意味をなさない。
 などとNHKの肩を持ちつつ、来場所の稀勢の里に期待をつなぐ。ぜひとも十五回の巨大なノイズを聴きたい。ほとんど雑音、轟音でいい。いや、そうではないか。ノイズの起きる間もなく軍配が上がり、続いて度外れた喧噪が湧く。こちらが望ましい勝ちっぷりか。どちらにしても、ラジオ桟敷には「穴あけ問題」だ。 □


恰好の教科書

2013年07月18日 | エッセー

 「愛する人が襲われたら、あなたはどうしますか」
 これは「反戦」への一撃の封殺法として多用されるフレーズである。「もちろん身を挺してその人を守るように、国を守るために戦争に行くのも当然だ」と来る。だが、トリックに嵌まってはならない。一つには例外的事例を言挙げして原則全体の瑕疵とするなら、あらゆる規範は成り立たなくなってしまう。科学の定理とはちがう。電話は詐欺に使われるからといって、掛かってきた電話のすべてに出ないわけにはいかない。二つ目に公と私の範囲の別。自衛権と警察権の混同である。国境の侵犯とわが家の事件とはトポスが違う。後者はまさか防衛省に通報はしない。110番に決まっている。つまり、問題の立て方自体に『問題』がある。
 軍備の必要をいう「戸締り論」もある。決定的な違いは副作用の有無だ。他国との軍拡競争へ至る可能性、産軍複合体による戦争への誘惑、テロの標的になる危険性など、戸締りにはない副次的弊害が伴う。これも、あーそうですかというわけにはいかない。しかし「平和を望むなら、戦争を準備せよ」との格言もつとに高名で、かつ重い。
 字引によれば、平和主義とは暴力的手段を拒絶して平和的手段で平和の達成をめざす主義主張である。紛争解決手段としてあらゆる暴力的手段を排する信念でもある。ところが平和主義といっても、トルストイの絶対・無条件・普遍的平和主義から条件付・平和優先主義まで幅は広い。非暴力にも、非暴力無抵抗主義と非暴力抵抗主義(ガンジー、キング路線)がある。
 さらに反戦・非暴力の根拠となると、殺人を禁止する「無危害原理」から根源的な出発をせねばなるまい(なによりもまず、戦争は殺人であるから)。最大多数の最大幸福を掲げるベンサム流功利主義に抗し、カントが「定言命法」を駆使して熱烈に援護した「義務論」の高邁は可能か。比するに、怜悧な損得勘定(費用と便益)を要する古来の「帰結主義」に陥穽はないか。
 加えて、なぜ正当防衛は免責されるのかという問いかけ。そこに主張される生存権も決して無制限には妥当しない。ならば「二重結果説」はどうか。善なる結果(我が命を守る)の副産物としての悪しき結果(暴漢の殺害)は免責されるのか。進めて、開戦に決定権を持たない民間人への攻撃は許されるのかという問い。正当防衛の権利が責任を負わない非戦闘員に向けて行使できるのか(すでに「非戦闘員保護の原則」はジュネーブ条約に定められている)。権利と責任の鬩ぎ合い。敷延すると、従軍する兵士の殺人行為への根源的懐疑など。一口に平和主義と言っても、実に多様な論点と問題群を抱えている。
 紹介が後先した。

 平和主義とは何か (中公新書、本年3月刊)

 著者は松元 雅和氏。慶応大学法学部卒、35歳。政治思想が専門の島根大学准教授である。曲なりにも平和を志向する浅学非才のわたしにとって、恰好な『平和学習の教科書』といえる。
 松元氏は平和主義への哲学的アプローチの重要性について、こう述べている。(◇部分は上掲書より引用、以下同様)
◇哲学の世界において、問いに対する答えの真偽は、結論それ自体ではなく、結論に至るまでの議論の健全性と妥当性にかかっている。聞き心地の良い間違った結論と、耳障りだが正しい結論があるならば、哲学者は後者を選ぶべきだろう。イギリスの哲学者J・ロックが言うように、「議論こそは真理を広める唯一の正しい方法なのであり、強力な議論と立派な推論とがやさしく、丁重に、正しく用いられることほど、真理を広めるのによい方法はないのです」(「寛容についての書簡」)。◇
 道徳原則を数学的原理と同様アプリオリに問い詰めたカントのように、平和への、また反戦への本源的な理路を探るべきだ。ブームやムードや生半な論議で始末できるほど「平和」は柔ではない。現に同書では、以下三つの強敵と対峙していく。
 まずは、正戦論。別けても、自衛権ははたして正戦であるかとの論究は目を引く。また「克服しえない無知」と呼ばれる概念。「交戦国のいずれも自国の正当性を主張する場合、とりわけその主張がやむをえない思い違いに端を発する場合、その国の非を責められるのかどうかという問題」は、正戦論の変わらぬ悩みであると指摘する。併せて、絶対平和主義であったキリスト教がなぜ正戦論を生んだのか。この考察も興味深い。
 次が、現実主義。国連はあるものの世界はいまだ無政府状態にあり、アクターは依然として国家である。したがって国家の安全保障が最優先であり、パワーは必要手段であるとする。しかし、安全保障は際限なき軍拡を誘発するジレンマを免れない。だが、現実主義は平和主義にとって手強い論敵だ。「平和を望むなら、戦争を準備せよ」。この重いアンビヴァレンツこそ、「現実」を雄弁に語る。
 三つ目が、人道介入主義だ。比較的新しい『ライバル』といえる。ところが、人道介入にもジレンマがある。「善行原理」が「無危害原理」と衝突するからだ。よく引き合いに出される 「善きサマリア人の義務」は「無危害原理」のハードルを下げる試みである。それでもなお氏は「人道的介入もまた、暴力の一変種にすぎないという単純素朴な事実」を指摘し、「暴力手段を常態化させ、暴力に暴力で相対するという文化を醸成」する可能性があるという。
 全編、冷静で誠実な語り口で貫かれている。好著だ。終段で「平和優先主義」の採用を提案している。暴力的手段に例外的使用の余地を残しつつ、非暴力を原則とする。さらに市民的防衛や非軍事介入などの非暴力戦略を採る。極めてリーズナブルな選択だ。
 締め括りの言葉は印象深い。
◇戦うのか、戦わないのか、どちらの選択肢を最終的に選ぶかはある程度は論理の問題であるが、ある程度は決断の問題である。何かを選ぶということは、代わりに何かを諦めるということだ。非平和主義の諸学説と同じくらい、平和主義は私たちに相応の責任と覚悟を求める。反戦平和を唱えたからといって、何か厄介な重荷を下ろしたかのように感じるのは誤りである。◇
 非戦のためには、「戦う」選択に要する「責任と覚悟」に倍するそれらが求められるはずだ。「反戦平和を唱えたからといって、何か厄介な重荷を下ろしたかのように感じるのは誤りである」とは、鋭い。反戦平和を揚言することが、ある種の思考停止を誘(イザナ)ってはいないか。「議論の健全性と妥当性」を打棄って安手の結論に安住する事が、怠惰な『行動停止』も招来していないだろうか。襟を正さずにはいられない。 □


なぜ笑う?

2013年07月15日 | エッセー

 こんな片田舎にも、時として文化の風が吹く。先日、人間国宝・野村万作、萬斎による狂言の公演があった。演目は、「六地蔵」と「附子(ブス)」の二題。会場は満席、二時間に亘り古典芸能の薫風に浸(ヒタ)った。というより、浜辺で聴く潮騒のような笑いが何度も繰り返した。面白いというより、可笑しい。そのはずだ。六百年前の、いわばどたばたコメディーである。
 「六地蔵」は田舎者が都の詐欺師に欺されかける話、「附子」は使用人が主人を手玉に取る話である。前者には都鄙の差別と狡智を破る凡知が、後者には即妙の取り繕いに権威への反撥が含意されていよう。
 鍛え上げられた野太い声と隙のない所作、足拍子は絶妙な効果音だ。まさにどたばたの音だ。能と二つで悲喜劇の両面を担う。それにしても遙か古(イニシエ)の笑劇が、今なおなぜ笑いの波を起こすのだろう。それは人間の奥深いありように材を採っているからではないか。
 当今、純真を弄ぶ詐欺は電話を使って横行する。“狂言”強盗そのものだ。権威、権力との相克は史上常に今日的課題であった。笑うに笑えず、笑えぬが笑ってしまう世に棲む人の性(サガ)。それを抉るから、この芸能は時空を超えたのではないか。はじめの自己紹介『このあたりの者でござる』は、匿名で事を普遍化する工夫ではないか。はたして今を時めく「お笑い」がどれほどの余命をもちうるか。こちらは単に“クレージー”なだけではないか。それも世のありさまといえなくもないが。彼我を商量しつつ、家路についた。 □


見事に??

2013年07月13日 | エッセー

 「皆さんご覧ください。家が軒並み見事に壊されています」
 カチンときた。「見事に」とはなにか。それは褒め言葉ではないか。
 93年7月13日夕方の民放ニュースで、奥尻島に入った若手アナウンサーがそう声を張り上げた。すぐに放送局に電話し、担当者に苦言を呈した。
 約10分後、東京のアンカーが「先程現地からのレポートで、不適切な発言がありました」と詫びた。なかなか対応が早い。感心しつつやがて、エンディングに。再び現地から。また件のアナウンサーが出てきて、「見事に」を繰り返した。ああ、と空(クウ)を睨んだ。寸意は現場には届いていなかったのだ。
 北海道南西沖地震から20年が経つ。あのレポーターはどうしているだろう。すでに中堅どころか。地震の教訓は措くとして、言葉についてだ。
 逆ではあるが同類といえるものに「ヤバイ」がある。矢場からきた言葉だが、危険の謂から強い驚きに転じ、「この味、ヤバイ!」などと使う。これはなんとか合点がいくが、「見事」はどうにもいけない。ましてや民放といえどもアナウンサーだ。言葉を生業とする職業だ。模範であるべきだ。そんな真似事のような義侠から、大きなお世話を焼いた。
 柳田国男に倣うと、晴(ハレ)と褻(ケ)が無分別になっていることが背景の一つかもしれない。晴が日常化している。晴が限りなく褻に近接しているともいえる。飲食は歴然たるもので、祭でしか供されなかった食い物が今やスーパーでパック詰めで並んでいる。コンビニに行けば、24時間世界の酒が飲める。衣服はカジュアル化して、クールビズと称して国会でさえノーネクタイだ。だからであろうか、最近は婚礼がとびきり豪華になっている。ゴージャスな会場で、グルメ三昧。カップルの登場は空中から。そうでもしなければ、晴が際立たないのである。
 昨今の敬語問題も、如上の逆転現象といえなくもない。家族が友達化し、フォーマルでの言葉遣いなど身につけずに育った世代が直面しているともいえる。つまりKYだ。先人は「すり鉢」を「当たり鉢」というように、反語を使ってまで忌み言葉を避けてきた。そのデリカシーはもはや消えたのであろうか。
 さらに蛇足を描く。
 日本語の起源は縄文時代以前に遡るという。さまざまな言語が混淆したピジン語だそうだ。最近の調査によれば、日本人のDNAには実にさまざまな民族の混血が視られるらしい。多民族が交わればとりあえずのピジンが生まれる。そして弥生人の渡来。飛鳥に始まる中国文化の受容。永い熟成を経て、明治の文明開化。西欧の流入。さらに敗戦と、当今のグローバリゼーション。今またピジン化の渦中にあるともいえよう。となれば、1万年を越えた先祖返りか。その巨大なカオスの中で玉石が混淆されている。そんな括り方もできるのではないか。
 もちろん、言葉は世に連れる。大きく肯んじ、おもしろがる向きもある。しかし水面下の氷山を忘れてはならない。社会も人心も動いている。それを掴まねば、見事とはいえない。 □


縄文は深い

2013年07月10日 | エッセー

 当地でも、梅雨が明けた。
 町の遠景に、なだらかな裳裾を引いて山が聳える。書割は抜けるような紺碧の大空だ。入道雲の巨魁が湧き上がり、稜線を縁取る。真っ白な噴煙だ。絵に描いたような夏模様である。陽水が『少年時代』で詠う「夏模様」は追憶だが、こちらは紛れもない眼前のパノラマだ。梅雨で鬱っしていただけに、見るだに浩浩たる解放感を味わう。
 それにしても、暑い。天涯にまで広がる青空は、容赦なく照りつける酷暑の陽と二つ乍らでしか訪(オトナ)わない。天然の定めだ。
 今月朔日山開きした富士山には、世界遺産登録もあってか御来光を求めて人々が群がった。日本一の高山の頂に長蛇の列ができる。奇っ怪ともいえる光景だ。なぜそれほどまでに日本人は太陽を崇めるのだろう。話は縄文にまで遡る。
 弥生人が渡来し本邦を席巻しても、縄文の文化は今日に至るまで連綿と続いている。否、「縄文文化は日本文化の原点」である。そう提起するのは、建築学者で評論家の上田 篤氏だ。近著『縄文人に学ぶ』(新潮新書、先月刊)に詳しい。作品は小振りだが、ひょっとすると『葬られた王朝』以上にエキサイティングかもしれない。
 確かに縄文時代は弥生以降の優に五倍を越える。それほど長遠に亘った時代が後の歴史に痕跡を残さないわけがない。
 大坂万博、太陽の塔。スタッフの一人であった著者がその模型を見た時、岡本太郎に「これは何ですか?」と訪ねた。言下に帰ってきた応えは、「縄文だ!」であったそうだ。巨匠の目は過つことなく、太陽と縄文との直結に日本の原風景を捉えていた。
 狩猟を事とした石器人は大動物を狙って移動した。ために恒常的な社会をなさず、大動物の絶滅と運命を共にした。山海の大自然の中で採集を専らとした縄文人は定住し、母系でステディな社会をつくった。さらに両者を截然と別ったのが、火の神格化だった。竪穴住居は居住空間であるより、炉の種火を不絶火として護る「聖なる空間」であったと、氏はいう。だから靴を脱いで家に入るという世界に例を見ない「奇習」はここに始まったと、氏は重ねる。
 火は日に通じる。縄文人は火は「太陽の子」、超自然の力が宿る神と見た。爾来、本邦独自の聖火思想が今日へ連綿と連なっていく。例えば囲炉裏、家屋の結構、鍋料理。すべて縄文の遺風だ。
 上田氏は記紀神話を通して、アマテラスを縄文人の血統とみる。本来は「天(アマ)すなわち海(アマ)を照らす」職名だったという。天を観て暦を勘定し、漁のために気象を測る。前記のごとく、縄文人は海の民でもあったからだ。後世、縄文の遺習は天皇の日の出遙拝へと至る。
 と、ここまでくれば富士山頂の蝟集は合点がいく。1万数千年の時空を超えて縄文の血が騒ぐにちがいない。なんとも血は水より濃いというべきか。
 上田氏は同著で、縄文時代1万年とはとてつもなく長い時間だと語る。中国史4千年、エジプト王朝5千年を遙かに凌駕する長期間に「土器や竪穴住居をはじめとする一定の文化がつづいたのは稀有のことだ」とし、知恵と平和の時代だったと賞讃する。その実相を考究したのが同書だ。野蛮で未開で闇のような時代として済ませてきたが、浅学を恥じ大いに蒙を啓かれた。
 別けても印象的だったのは「縄」についての言及だ。何本もの糸に縒りを掛けて綯えば驚異的な結束力と牽引力を持つ。それが縄であり綱だ。出雲の「国引き」神話に登場する「三身の綱」はその感歎の歌ではないか、と。「石器人にとって最初の『工業製品』が石器だとしたら、縄文人にとっての最初の『工業製品』は縄だったかもしれない」と述べる。縄文の「縄」だ。
 石器はすでにないが、縄や綱は今もって生きている。どころか、必須の『工業製品』だ。御来光同様、まことに縄文は深い。 □


貧乏神と賢人二人

2013年07月07日 | エッセー

 下り坂に腰を押すつもりはないが、かつて語ったようにこの男は紛れもなく貧乏神だ。
 先月の東京都議選、武蔵野市で民主現職の松下玲子氏が落選した。接戦の末、自民の新人に敗れた。ここは「民主王国」といわれるほどの民主党の牙城。この男の地元でもある。付きっ切りで応援したが、結果はこの通り。やはり貧乏神だった。
 今般の参院選、東京選挙区では民主党は候補を1人に絞った。劣勢を考えての差配であろう。ところが、外された現職が無所属で立候補した。党の正式決定に抗っての行動だが、またもこの男が追従した。そこで、次の記事となる。
〓民主・細野氏「菅さん黙ってて」 大河原氏支援に不快感
 民主党の細野豪志幹事長は5日、菅直人元首相が参院選東京選挙区で党公認を取り消された大河原雅子氏の支援を表明したことについて「菅氏は代表経験者。立場を踏まえて行動してほしい。しばらく黙っていてほしい」と不快感を示した。東京都内で記者団に語った。
 民主党は東京選挙区での共倒れを避けるため、公示直前に公認を鈴木寛氏に一本化した。一方、菅氏は5日の自身のブログで「昨日は大河原さんの出陣式に参加。公認を外された悔しさをばねに頑張っている」と書き込んだ。〓(7月6日付朝日新聞)
 「公認を外された悔しさ」とは、一体なんという言い草だろうか。党の正式決定の場にいたかいなかったは別にして、「代表経験者」である以上少なくともこの男は党の『公』側にいるのではないか。この党には意味不明の言動を繰り返す別の「代表経験者」もいるが、こちらは離党しているのでそれなりに筋は通っている。片や自民党には引退後堂々たる闇将軍はいたが、こんなゾンビのなりそこないはいなかった。政治上の功罪は措くとして、退いた後はそれぞれに高風であったといえる。
 それはともかく、上記の記事を読んで刹那に蘇った記憶がある。10年6月、3年前だ。この男が組閣した時に吐いた言葉。
「小沢さんはしばらくの間静かにしてもらう」
 まさに因果応報、自業自得とはこのことではないか。昨年小選挙区で落ちて比例区で復活。首相経験者として、まったくみっともない。まともな感覚では比例当選は辞退すべきだろう。その前に、重複立候補はしない。貧乏神から疫病神へ、さらに死に神へ。とどのつまりがゾンビのなりそこないか。

 気が滅入りそうだから、話柄を転じる。後生畏るべし、否、今すでに畏るべしについて。(実はこのフレーズ、かつて使った)
 白井聡。若干36歳、新進気鋭の政治学者だ。父親は早稲田大学前総長・同大名誉教授の白井克彦氏。戦後の日本を問い、「永続敗戦」を提起している。先日(7月3日)、朝日新聞に登場した。核心部分だけをピックアップしてみる。
〓「そもそも多くの日本人の主観において、日本は戦争に『敗けた』のではない。戦争は『終わった』のです。このすり替えから日本の戦後は始まっています。敗戦を『なかったこと』にしていることが、今もなお日本政治や社会のありようを規定している。私はこれを、『永続敗戦』と呼んでいます」
 「だからアメリカに臣従する一方で、A級戦犯をまつった靖国神社に参拝したり、侵略戦争の定義がどうこうと理屈をこねたりすることによって自らの信念を慰め、敗戦を観念的に否定してきました。必敗の戦争に突っ込んだことについての、国民に対する責任はウヤムヤにされたままです。戦争責任問題は第一義的には対外問題ではありません。対内的な戦争責任があいまい化されたからこそ、対外的な処理もおかしなことになったのです」
 「昨今の領土問題では、『我が国の主権に対する侵害』という観念が日本社会に異常な興奮を呼び起こしています。中国や韓国に対する挑発的なポーズは、対米従属状態にあることによって生じている『主権の欲求不満』状態を埋め合わせるための代償行為です。それがひいては在特会(在日特権を許さない市民の会)に代表される、排外主義として表れています。『朝鮮人を殺せ』と叫ぶ極端な人たちには違いないけれども、戦後日本社会の本音をある方向に煮詰めた結果としてあります。彼らの姿に私たちは衝撃を受けます。しかしそれは、いわば私が自分が排泄した物の臭いに驚き、『俺は何を食ったんだ?』と首をひねっているのと同じです」
 「被害者意識が前面に出てくるようになったきっかけは、拉致被害問題でしょうね。ずっと加害者呼ばわりされてきた日本社会は、文句なしの被害者になれる瞬間を待っていたと思います。ただこの被害者意識は、日本の近代化は何だったのかという問題にまでさかのぼる根深いものです」
 「江戸時代はみんな平和にやっていたのに、無理やり開国させられ、富国強兵して大戦争をやったけど最後はコテンパンにたたきのめされ、侵略戦争をやったロクでもないやつらだと言われ続ける。なんでこんな目に遭わなきゃいけないのか、近代化なんかしたくてしたわけじゃないと、欧米列強というか近代世界そのものに対する被害者意識がどこかにあるのではないでしょうか。橋下徹大阪市長の先の発言にも、そういう思いを見て取れます」〓
 「『主権の欲求不満』状態を埋め合わせるための代償行為」とは、身震いするほど深い洞見ではないか。靖国、侵略定義、慰安婦、歴史認識、中・韓、ヘイトスピーチ、それらのリゾームを見事に剔抉している。穎才の出現といえる。「維新」のネーミングがあべこべであると何度か指摘したが、白石氏の考究も橋下発言に維新『前』を嗅ぎ取っている。やはりあべこべ、オーパーツだ。

 もう一つ。先月29日に(2013参院選)「批判の声はどこに行ったか」と題して、作家・橋本 治氏が朝日新聞に寄稿していた。要約してみる。
〓安倍政権が高い支持率を得ている理由はいたって分かりやすくて、この内閣がその目標を「景気回復」の一点に絞っているからだ。
 はっきりしているのは、日本人の関心が「景気回復」に集中していて、内閣の思惑に反して、「憲法改正」への関心も問題意識も高くはない。安倍内閣を支持する日本人の過半数は、「景気がよくなること」にしか関心がないのだ。
 この内閣に対する表立った批判の声がほとんど聞こえて来ない理由を考えると、あっけに取られてしまう。「アベノミクス」を言って展開する内閣を批判することは、「あなたは景気回復を望まないのか?」と問われてしまうことにつながるからだ。誰がそれを言うわけでもない。なんとなくそんな雰囲気になっていて、口がつぐまれてしまう――そのような構造になっているとしか思えない。
 だから、値上がりした株が乱高下を始め、円安の事態がストップして逆転を始めれば、「アベノミクス」に対する批判の声が上がる。しかしだからと言って、「アベノミクス」が失敗したとして、それ以外に日本人が望む景気回復を実現させる方策があるのかと言ったら、これまた分からない。安倍首相の失政を望む声があったとしても、その声の主に「じゃ、景気回復を望まないのか?」と問えば、おそらく「望まない」という声は返って来ないだろう。
 もう一度「どうして日本から時の政治に対する批判の声が上がらなくなったのか?」を考える。それはもしかしたら、敗退した民主党政権のせいではないかなどと。
 政治の世界では「実効性のない理屈ばっかり言っていてはだめだ」になって、だからこそひたすらに威勢のいいことを言う新政党も出現した。安倍内閣の「すぐやる課」的な矢継ぎ早な実行力も、「言うだけじゃだめだ」的な雰囲気の反映だろう。だから、「批判するだけじゃだめだ」という空気が広がって、言論は後退してしまったんじゃないだろうか。
 しかし、国民は政治家とは違う。政治家なら「批判するだけじゃだめだ」は通っても、国民に「批判するだけじゃだめだ。対案を出せ」というのは無理な話だろう。国民というのは、「政策は政策として、でもなんかへんじゃないの? 疑問を解決してほしい」と政治家に言えるもので、政治家はその声を聞いて事態の改善を図るべきものだ。だからこそ、うっかりと国民の声を聞いてしまう安倍内閣は、したい「暴走」をせずに微妙な踏み止まり方をする。
 その点で、批判の声はちゃんと生きている。だから「言うだけじゃだめだ」などという声を怖れずに、言うべきことは言うべきだと思う。言うべきことが足りないから、なんだかよく分からない状況になっているんじゃないだろうか。誰もが口を開くネット時代になったんだから、もう少し「言うべきことはなんだ?」と考えるべきなんじゃないだろうか。 〓
 いつに変わらぬ独自で深くかつ鋭い視線だ。「うっかりと国民の声を聞いてしまう安倍内閣は、したい『暴走』をせずに微妙な踏み止まり方をする」などは、さすがに巧い。「うっかりと」とは言い得て妙、この宰相の向こう気の強さと内蔵する脆さを絶妙に言い表している。
 コラムニストの天野祐吉氏はこの橋本発言を受けて、「いまこの国は景気さえよくなれば、憲法を変えようが原発を再稼働させようが『ええじゃないか、ええじゃないか』の空気にあふれている」と自身のコラム(朝日[CM天気図」)で綴っている。だからこそ、「『言うべきことはなんだ?』と考え、「言うべきことは言うべきだ」。なぜなら「国民というのは」「へんじゃないの?」「と政治家に言えるもの」なのだから。
 年間予算を有権者数で割ると、ざっと90万円。掛ける6年分で、優に500万を超える。話題のGNI=280万(昨年)に倍する相当な高額だ。予算決定権は丸々ないにしても、歳費で計算すると参院半数で6年間分は約240億。有権者1人で、240万円になる。いずれにせよ、21日には、「言うべきこと」を大枚の金子に相当する紙片に託す。徒や疎かにはできない。 □


赤信号、みんなで渡る?

2013年07月02日 | エッセー

「〇〇してもらっていいですか?」
 最近よく耳にする。Aさんに出勤を依頼する場面で、BさんがAさんに、
「今度の土曜日、出勤してもらっていいですか?」
 と訊く。Aさんに出勤してほしいのに、これでは出勤するのは架空の第三者Xさんになる。つまり本来出勤すべきBさんが、Xさんが出勤する許可をXさんに代わってAさんに求めている。
「今度の土曜日、<Xさんに>出勤してもらっていいですか?」
 と同意を求める。これなら問題はない。しかし、例文の意図はちがう。出勤するのはAさんである。Aさんに出勤を求めている。丁寧に言っているつもりだろうが、やはりおかしい。トポスがずれている、否、ずらしている。意地悪くいえば、自分が前面にでないで第三者を楯に使う卑怯な物言いである。
 この識者は以前何度か触れたことがある(10年3月、「ためさずガッテン」など)。日本語・フランス語教師で、日本語話者に警鐘を鳴らし続けている野口恵子氏だ。女史は近著『失礼な敬語』(光文社新書、先月刊)で以下のように述べている。(◇部分は同書より引用、以下同様)
◇「~してもらってもいいですか」は、依頼の表現「~してください」の敬意の度合いが下がって、命令のようにも聞こえるということで、使いづらくなったためだろう。「~してください」に代わる言い方として、「~してもらえますか/いただけますか」「~してもらいたいのですが/いただきたいのですが」「~してくださいますか」その他いろいろある。それにもかかわらず、皆、申し合わせたかのように、「~してもらってもいいですか/いただいてもよろしいでしょうか」を使うようになった。不思議な現象だ。いや、不思議でも何でもないのかもしれない。言葉はうつるものだし、意識的にほかの人の言葉つかいを真似ることもあるからだ。
 自分が何かをしたいときにその許可を求める「~してもいいですか」の変形であるが、相手の行動を促す表現として用いられるため、紛らわしいだけでなく、傲慢な物言いにもなる。なぜならば、形の上では許可を求めているにもかかわらず、相手に判断を委ねるわけではないからだ。
 「いいですか」と聞かれているのだから、「よくないです」と答えてもよさそうなものだが、それはまず許されない。許可を求めるという下手に出た表現でありながら、暗黙のうちに強制していることになる。◇
 上司が部下にこれを使うと、強制そのものになる。ネタを明かすと、かなり前から荊妻が多用していた。急な用ありを定時外に自宅で受け、シフトをやり繰りする。その電話のやり取りを耳にすることがよくあって、どうもおかしいと気づいていた。それが上掲書でそのまま取り上げられていたのだ。我が意を得たり。高々とこの本をかざし、噛んで含めるように教えを垂れた。恐れ入ったか。へん、ざまー見ろだ。いたく反省した様子で、「その本、貸してもらっていいですか」ときた。まことに救い難い。
 実は、トポスをずらす言い方は前々からある。子供ができると、嫁は姑を「おばあちゃん」と呼ぶ。近年ではお笑い芸人をはじめとして、妻を「嫁」と言う。これも同類だ。迂回戦術か照れ隠しであろう。この程度なら御愛嬌だ。しかし、「暗黙のうちに強制している」とは辛辣だ。慇懃無礼の典型ともいえる。
 『失礼な敬語』とは、巧いネーミングだ。本来失礼を避けるべき敬語が逆効果になるとの謂である。「敬語」について内田 樹氏が卓説を語っている。再度の引用をしてみる。


 「敬」という漢字の原義は「身体をよじる」という意味だ。人間がどういう場合に身体をよじるのかを想像してほしい。足が地面に固着しているときに、何か「危ないもの」が接近してくると、人間は身体をよじる。死球をぎりぎりで避けるバッターの姿を想像すれば分かる。「敬する」とは本質的にそういうことだ。「それから逃れることができないが、じかに接触してはならないもの」とかかわること、そのときのマナーを古代の中国人は「敬」という字に託した。「敬語」というのは、「自分に災いをもたらすかもしれないもの」、権力を持つもの(その極端な例が鬼神や皇帝だ)と関係しないではすまされない局面で、「身体をよじって」、相手からの直接攻撃をやり過ごすための生存戦略のことだ。(「街場の現代思想」から)


 とすれば失礼な敬語とはさしずめ、よじり過ぎて転んだか、腰を痛めたことになろうか。同書では他に、
 「よろしくお願いします」「~いただきます」「させていただく」の多用
 「れ足す」「さ入れ」「を入れ」などの余計な一文字
 「~れば」「大丈夫」の怪
などについて鋭い指摘がなされている。言葉は世に連れるものとの言い分もあろうが、女史はこう語る
◇誤用が大手を振って歩き始めたのは、信号で言えば、ある日突然、黄色信号を青信号と同じものと見なすことになったのと同じだ。そうなると、そのうちに赤信号も青信号と同じ扱いになる。「交差点に好き勝手に進入して、あとは適当にやってください」と言われたようなものだ。待ち受けるのは、目を覆う光景である◇
 頂門の一針といわねばなるまい。赤信号、みんなで渡ればなお怖い! □