伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

錦旗も印籠も要らない!

2010年10月28日 | エッセー

 人民裁判とは、社会主義国で行われた反革命、反動分子に対する裁判をいう。人民集会が開かれ、人民の名のもとに法に拠らず刑罰が決められた。革命裁判ともいうが、つまりはリンチである。剥き出しのルサンチマンと敵意、それに少なからぬ嫉妬が綯い交ぜになって集団心理が暴走した。魔女狩りにも似た集団ヒステリーの露骨な狂騒であった。心理学に属す事柄ではあるが、太古からの忌むべき人間心理と行動であろう。

 弁護士で元参議院法制局第3部長であった播磨益夫氏が、朝日新聞に「強制起訴制度 三権分立外れ、違憲では」と題して提言を寄せていた。(10月26日「オピニオン ―― 私の視点」)要旨は以下の通りである。
①国家権力の行使に当たる強制起訴制度そのものに違憲の疑いがある。
②基本的人権の保障を踏まえてもなお百%有罪であると確信するから起訴する。
③起訴は国家権力である行政権の行使であり、検察による起訴権限の乱用は最終的には内閣の責任である。
④同じ行政委員会である人事院は内閣の所轄下にあるなど、行政権行使について最終的責任は内閣が負う。
⑤検察審査会は内閣から完全に独立した行政委員会となっているので、起訴権限を乱用しても、内閣が責任をとり得ない無責任な制度である。
⑥今回の小沢氏に対する強制起訴議決は、疑いのある人は百%有罪の確信がなくても裁かれるべきだとする論理である。
⑦審査会の議決を勧告的性格にとどめ、法的拘束力のなかった改正前の規定に復元すべきだ。
 まったく異論はない。我が意を得たりである。
 行政委員会とは国及び地方公共団体の行政部門に属しながらも、独立性を保ちつつ特定の行政権を行使する行政組織である。人事院、公正取引委員会、国家公安委員会、公害等調整委員会、公安審査委員会、中央労働委員会、運輸安全委員会などである。中には、立法機能や司法機能に準ずる役割をもつものもある。検察審査会もその一つである。社会の複雑化にともない行政需要が増える。しかし時の行政府から距離を置くべき分野もあり、各種の行政委員会が生まれた。
 ① に関しては、まず一般に行政委員会の合憲性が問われる。なぜなら、一見行政府から離れているとみなされる組織が行政権を行使するからだ。ひとつは、内閣が行政委員会の委員任命権や予算権を握っていること。そして憲法65条は「行政権は、内閣に属する。」と述べ、「すべての行政権は」とはいっていない。つまり内閣がすべての行政権を持つよう求めてはいない。行政権の帰属を限定していないことが挙げられる。ほかに行政権を持つ存在を認めていると捉えられる。
 その上でなお播磨氏は、人権に直接関わる起訴権限をも行政府の外に委ねることに憲法上の疑義を呈する。実はここが最大のボトルネックである。三権分立のチェック・アンド・バランスが十全に働くかどうか。③ ④ ⑤ と関わってくる。別けても、問題は ⑤ である。「内閣から完全に独立した行政委員会となっている」の部分だ。
 検察審査会法第3条には「検察審査会は、独立してその職権を行う。」とあるのみで、「独立」とは何からの独立であるのか記されていない。指揮権の規定もなく、所轄官庁も一向に要領を得ない。まさに「内閣が責任をとり得ない無責任な制度」である。これでは、三権以外に別途の行政権(起訴権限)が存在することになる。したがって、「三権分立外れ、違憲では」との疑念が生ずるのだ。

 そして、② と ⑥ である。② は最も重要な原則だ。単に精神的な意味合いではなく、厳重に検証された証拠の上に「確信する」ゆえ起訴に及ぶ。リヴァイアサンたる国家権力の行使には慎重のうえにも慎重を期さねばならない。当然の原理原則だ。ところが、⑥ 「確信がなくても」という驚天動地の倒錯が起こっている。鞣(ナメ)していうと、『確信がもてないから、裁判で黒白つけよう』ということだ。これは、「出るとこへ出よう」とはまったく違う。『出る』に値するかどうかの判断の問題である。『出して』しまったら、つまり公訴の提起によって刑事被告人となる。推定無罪とはいえ、非常に大きな法的トポスの変更を強いられる。基本的人権に軛を嵌める結果となる。
 政治家の場合、結審まで被選挙権はそのままとはいえ、政治的ダメージは尋常ではない。レーム・ダックとなるかもしれぬ。となれば、選出した有権者の意志はどうなるのか。無罪で結審したら、誰が責任を取るのか。籖で選ばれた名も知れぬ審査会委員か。所轄していない法務大臣か。当然、検察庁は責めを負わない。
 なによりこの制度は、千人の真犯人を逃すとも一人の冤罪者を生まないとの鉄則に悖る。『法外の法』とでもいえようか。
 09年、検察審査会法は大幅に改定され、独自の強制起訴が可能となった。同年、「裁判員制度」もスタートした。いずれも司法の市民化が錦の御旗とされた。
 括っていえば、検察審査会は「違憲の疑い」があることをもって「法に拠らず刑罰が決められた」人民裁判に限りなく近いといえまいか。また、市民参加を錦の御旗にすることをもって「人民の名のもとに」「剥き出しのルサンチマンと敵意、それに少なからぬ嫉妬が綯い交ぜになって集団心理が暴走した」人民裁判に準(ナゾラ)えられないだろうか。錦の御旗はお為めごかしであるやもしれず、ために思考停止となりかけがえのない原則、鉄則が失われないとも限らない。だから、⑦ に諸手を挙げて賛同したい。

 平成の世になってまでも、錦旗に恐れ入っていては後世に嗤われる。幕末、鳥羽伏見に翻った御旗は倍する幕府軍を萎えさせ、将軍慶喜を敗走させた。大久保利通、品川弥二郎、岩倉具視の共作らしい。時代のうねりともいえるが、その智謀には舌を巻く。今度ばかりは、其の手は桑名の焼き蛤といきたいものだ。

 さてその御旗だ。金科玉条といってもいい。人をして思考停止を強いる御老公様の印籠でもある。どんな悪代官をも一発で屈服させてしまうかの印籠について、内田樹氏がおもしろい分析をしている。
■水戸黄門が自分では「印籠」を出さないのはなぜか、それについて考えたことがありますか。それは徳川光圀自身が印籠を取り出して「控えい」と怒鳴っても、たぶんあまり効果がないからです。これは助さん格さんがやってはじめて有効なのです。この二人は「虎の威を借る狐」ですから、実のところどうして水戸黄門が偉いのか知らない。「でも、みんなが『偉い人だ』と言ってるから……」という同語反復によってしか主君の偉さを(自分にさえ)説明できない。でも、子どもの頃からそう教えられてきたので.服従心が骨肉化している。この彼らの「どうして偉いのか、その根拠を実は知らない人に全面的に服従している」ありように感染力があるのです。印籠そのものには何の政治的効果もありません。でも、「助さん、格さん、その辺にしておきなさい」という命令に忠犬のように服従するそのありさまには感染力がある。「虎だ、虎だ」と言い立てると、「虎」のように見えてしまう。
 「ここにあらせられるは前の副将軍」という一方的な名乗りを裏づける客観的な証拠は、実はどこにもない(葵のご紋の入った「印籠」なんていくらでもフェイクが作れます)。そして、その何の根拠もない名乗りを信じることが自分の不利益であるにもかかわらず、ワルモノたちはたちまちその名乗りを信じてしまう。基礎づけを示さないまま、いきなりひれ伏すことを要求する人間を前にしたときに、どうしていいかわからない。それはまさに彼ら自身がやってきたことだからです。■ (新潮新書「日本辺境論」から)
 「感染力」は「虎の威を借る狐」の「全面的に服従しているありよう」から生まれる。実に鋭い。『オレは虎だ』といえば、『証拠を見せろ!』となる。展開は袋小路に入るやもしれぬ。変装だって、印籠のフェイクだって簡単だ。必要なのは虎であるかどうかではなく、「威を借る狐」の存在だ。
 だから「感染力」を防ぐには、面倒でも「一方的な名乗りを裏づける客観的な証拠」を問わねばならない。件の審査会も同様ではないか。「客観的な証拠」、存在価値そのものを、自らの手で冷徹に探らねばならない。マスコミが「狐」に化けない保証はないからだ。
 「何の根拠もない名乗りを信じることが自分の不利益であるにもかかわらず、ワルモノたちはたちまちその名乗りを信じてしまう」のはなぜか。「それはまさに彼ら自身がやってきたことだから」である。ここも唸る。「名乗り」を翳してしか生きてこなかったワルは、より大きな「名乗り」には途端にひれ伏してしまうのだ。自分の畑で、野壷に嵌まるのである。一種の戯画であり、それが観る者にカタルシスを与えるのかもしれない。だからマンガを脱するには、『名乗りの連鎖』とも呼ぶべき弊習を断ち切らねばならない。難事ではあっても、己の屹立を目指すに如(シ)くはない。
 ともあれ、装いを変えた人民裁判。時代逆行の愚は避けたい。印籠も、錦旗も歴史の遺物のままでいい。
(本稿は小沢氏擁護の意図はまったくない。第一、小沢氏の政治理念、手法、事績には毫も評価すべきところはない。政治マターではなく、制度そのものについて述べた。) □


智慧について

2010年10月22日 | エッセー

 農耕が始まり蓄えができて、戦争が始まった。平和な期間が3メートル99センチだとすれば、戦争はわずか1センチ。400万年に及ぶ人類史の400分の1でしかない。つまりほとんどの期間、人間は平和に過ごしてきた。戦争は常に人間とともにあったのではないのだ。だから文明が生んだ戦争を、新たな英知でなくすことができる。 ―― これは、考古学者の故佐原真氏の自説であり終生の信念であった。氏はこの主張を世界に訴えていくことが、考古学研究者に課せられた最大の課題だとも言った。専門家ばかりではなく、世人が常(トコ)しなえに心中深く刻むべき遺訓の一つであろう。
 おそらく第二次世界大戦の終結あたりが区切りであろうが、戦争は遂行の対象から回避の対象に替わったはずである。「はず」の決定打が原爆であったことは論を俟たない。大括りに括ると、そうだ。21世紀のいま、戦争を回避することはあらゆる選択肢のファースト・プライオリティーである。外交も武力紛争に至る道を塞ぐことが大前提だ。外交的手法の果てに戦争を据えるアナクロニズムとは永訣するのが、ホモサピエンスとしての務めであり生き残りの道だ。
 
 72年、国交正常化交渉を巡り北京で周・田中会談が行われた。
田中総理:尖閣諸島についてどう思うか? 私のところに、いろいろ言ってくる人がいる。
周総理:尖閣諸島問題については、今回は話したくない。今、これを話すのはよくない。石油が出るから、これが問題になった。石油が出なければ、台湾も米国も問題にしない。
田中総理:具体的問題については小異を捨てて、大同につくという周総理の考えに同調する。

 田中総理の「小異を捨てて」は中国語では「小異を残して」が慣用であり、周総理もそう発言したらしい。だが、そこは阿吽の呼吸だ。それこそ小異を措いて、事を進めたのであろう。
 78年、日中平和友好条約批准書交換のため来日した小平副首相はこう発言した。「この問題は一時棚上げしても構わないと思う。10年棚上げしても構わない。我々の世代の人間には智慧が足りない。次の世代の人には我々よりもっと智慧があろう。その時はみんなが受け入れられるよい解決方法を見いだせるだろう」
 周総理と同じ文脈だ。「智慧」とはなにか。「知恵」よりもより高度な知的営為ではあろう。実利を狙った弥縫だという向きもないではないが、棚上げ自体が智慧でもあったろう。いま、30年は優に超えている。いまだ智慧は湧かず、か。

 司馬遼太郎を引こう。 
■領土とは何か。といういわば西洋の概念は、それまでの中国では茫漠としていた。多分に観念的なものながら、宇宙の宗主が中国皇帝であると思われていた。
 西洋式領土の概念は限界を設けることだが、そういう限界があれば、中国皇帝の宗主概念は、消滅してしまう。ことばをかえていえば、歴史的中国には、「あれは、わが版図だ」という、極東の古俗ともいうべき縄張り意識があっただけであった。
 中国皇帝を宗主(本家のあるじ)と仰いで朝貢してくる蕃国があれば、これをあつく接待し、使者には、貢物をはるかに上まわる高価なみやげものを持ってかえらせるという「版図外交」があっただけである。
 中国と西洋との互いに異なるこの領域・領土思想が、清末には西洋の力の優勢によって西洋式に領域思想が洗い晒されてしまい、変化した。■(「街道をゆく」19 中国・江南のみち)                                             
 版図と領域、ちがいはじつに漠としてる。だが人的繋がりを軸としたテリトリーを前者とすれば、かなり可塑的で、鷹揚なものといえる。前世紀初頭、それが仇となった。租界や租借によって国土が無残に蚕食されていった。
 一国の歴史も振り子のような力学現象をみせる。新中国となって、「西洋式に」「洗い晒され」た領域思想が無作法に露頭してきたと、わたしは視たい。78年の中越国境紛争、ロシアとの国境紛争、南シナ海での複数国との領海権紛争、そして東シナ海、尖閣諸島へ。また、「改革開放」以来の成長路線が振り子を加勢した。
 軍事においても同様だ。中国史では武は低きに置かれつづけた。清末はその旧弊に泣いた。周知のとおり、人民解放軍は中国共産党麾下の軍事部門である。いわば『党軍』だ。国軍としての位置づけは二義的なものだ。毛沢東思想に明るいわけではないが、軍事的トラウマが濃厚な背景をなすといえるのではないか。

 「智慧」に戻ろう。
 今のところ、領土問題に裁定を下す国際機関はない。隣地との境であれば出るところに出れば片は付くのだが、隣国との境は出ようにも出るところがない。ならばと力関係(国力)だけで事が決するのはいかにも能がないし、淋しい。下手をすれば武力衝突の悪夢が現実となる。前述の「アナクロニズム」が再来する。
 だから、智慧ではないのか。
 共同開発だけが智慧ではなかろう。捨ててもいいが、小異を残すのも智慧だ。中国とて文革はとっくに過ぎた。夜郎自大では世界から総好かんを喰うと、解ってきたはずだ。今回も顔半分は内に向けていると踏んで相違はない。さらに、掲げる「平和台頭論」の看板に偽りありと大いに疑念を呼んだのは相当な痛手だ。
 ただ忘れてならぬのは、人類はいまだかつて一国で13億もの民を抱えた経験がないという史実だ。わが国と指呼の間に巨大国家があり、かつ境を接しているという事実だ。さらにその国が大国への道を歩み始めた歴史的切所にあるという現実だ。いな、大国に戻り始めたといったほうが正確であろう。さまざまに栄枯盛衰があった中で、有史の過半を世界に冠する大国でありつづけたのだ。それも近々1世紀前までだ。大国主義批判が囂しいが、「主義」である以前に「大国」であったのだ。このあたりを冷厳に踏まえねば、諸説は争鳴し、ただ縄を糾うばかりだ。別けても、「勇ましい発言」に足を掬われかねない。大向こうの喝采はあっても、一時(イットキ)のカタルシスでしかない。智慧ある所業でもなく、無知のカオスが俟つばかりだ。
 英国にある国境紛争研究所は、「絶海の孤島でも、領土紛争は武力衝突を招きやすい。民族の誇りに直結し、ナショナリズムをあおるからだ」と警告する。フォークランドをレファレンスしてであろう。
 再び、司馬遼太郎の箴言を提示したい。
■ナショナリズムは、どの民族、郷党にもあって、わるいものではない。
 ただ浅はかなナショナリズムというのは、老人の場合、一種の呆けである。壮年の場合は自己についての自信のなさの一表現かもしれぬ。若者の場合は、単に無知のあらわれでしかない。■(「街道をゆく」28 から)
 一国にも、老壮青の別がある。個人の精神におけるそれもある。蓋し両国にとって、この言葉は重い。実に重い。

 智慧とは、外交を軸とする官民にわたるソフトパワーの総結集であろう。相手方の意図を的確に捉えるインテリジェンス(情報ではなく)も大事な智慧だ。知識を積み上げただけで智慧にはならない。知識を自在に駆使するのが智慧だ。さらに、物理的手段、武力に『逃避』しないという軛を嵌める決断でもあろう。まさにソフトパワーによる背水の陣だ。背後には呪わしい黒々とした濁流が渦を巻く。一歩も、いな半歩さえも後退はできない。
 21世紀の名将韓信はいるか。素人集団であるいまの政府でないのは衆目の一致するところだ。いまさら手際の悪さを論っても生産的ではない。デッサンもしていないのに、いきなり絵の具を塗れといっても無理だ。官房長官の仙石氏がかつて安倍総理辞任にぶつけた名言「あんな子どもに総理大臣なんかやらせるからだ!」の伝でいけば、「あんな子どもたちに政府なんかやらせるからだ!」となろうか。

 再びの大国への坂が易かろうはずはない。当方とて、越して行く先はない。しかも、「わずか1センチ」でも、絶対に譲れない。だからこその智慧だ。 □


新しい幕が開く

2010年10月19日 | エッセー

 先週の日曜日、スーパーへ買い物に行った。駐車場に車を置いて、入り口へ向かう。

(ん、んー。サ、財布を忘れた!)

 しばし、立ちすくむ。
(マズい。どうにも、これはマズい! さて、どうしたことだろう?)
 立ったまま、黙考に及ぶ。
(まぁ、自分を置き忘れて来たわけではないからよしとするか。)
 これは、なおマズい。言い繕うにもほどがある。言い訳にも節度があろう。かねてから、ちがった意味で自分を忘れることはよくあるにしてもだ。
 単なる物忘れか? 実は、これで3度目だ。前2回も店はちがうが、入り口直前で気が付いた。もう「単なる」とは言い難かろう。
 と脳裏に、ある忌まわしい言葉が浮かぶ。
(いや、いけない。それは考え過ぎというものだ。)
 しかし最近、会話にやたら代名詞が増えたような気がする。「あれの、それはどうなった?」などと。それは件の忌まわしい言葉の兆候だという。だが反面、『?人力』がついてきた証だと、かつて赤瀬川原平氏は言ったが、はてさて。
 長考、何分に及んだであろうか。泣く泣く、わが家へ取って返した。

 もしこれが何を買いに来たかを失念した場合と比べれば、どうであろうか。
 アリストテレス流にいえば目的こそ肝心 ―― 人間の営為には目的があり、目的の最上位には「最高善」がある ―― であるから、なんら心配すべき現象ではない。人間の営為を逸脱してはいないのだ。はなはだ卑小きわまりない目的とはいえ …… 。
 しかし、2度の往復ははなはだしい非効率を生む。功利主義には悖る。だが、自らが未到の領域に歩み込みつつあると自覚し得たのは、大いなる収穫ではないか。あながち不利益とばかりは言い切れぬ。

 …… お判りであろうが、さきほどからサンデル教授の顔がちらついている。

 カントならどうだろう。定言命法でいけば、貨幣経済のもとでは財布(カードであろうとも)を持ち歩くことは立派な道徳律になる。財布を以て物を得ようとしない泥棒さんは、明らかに仮言命法に当たり不道徳の極みだ。筆者の場合、我を忘れて窃盗行為に走ったわけではないので、道徳的ではないまでも非道徳ではない。かつ、財布を忘れたのは完全なる自由意志である。だれの強制も受けていない。自由に忘れたのだ。この際だ、意志に問題ありなどと野暮なことはいうまい。ともあれ、カントもパスだ。

 となると、三方丸く収まるではないか。なーんだ、なにも心配は要らない。しかしこの牽強付会、やはり無理がありそうだ。相当、無理だ。土俵の上でフィギュアースケートをしようってとこか。やはり、「これはマズい!」か? 
 ここまできて、あの曲が耳朶によみがえる。

 「僕の人生の今は何章目ぐらいだろう」
  〽よかれ悪かれ言いたいことを全部言う
   気持ちいい風を魂に吹かす
   今はどの辺りだろう
   どの辺まで来ただろう
   僕の人生の今は何章目ぐらいだろう
      ・・・・・・・・・・
   朝が、昼が、夜が、毎日が、
   それぞれに いとおしい
   ・・・・・・・・・・
   いつまでも 図々しく
   どこまでも 明日はつづく〽
   (作詞・作曲 トータス松本/歌 吉田拓郎)

 もう一人、忘じ難き哲人がいた。アラスデア・マッキンタイア教授である。教授ならどうだろう。碩学は語る。「われわれは物語の探求としての人生を生きる」と。
(んー、これならいい。これはいける!)
 とすれば筆者畢生の『物語』の、その何幕目かが開(ア)きはじめたことは確かだ。
 さて、どんな役を見つけるか。客の入りは少ないが、見得のひとつも切ってみせるか。
(本稿は新しい幕が開く記念として綴った) □


阿久根の乱

2010年10月17日 | エッセー

 変わった市長もいるなという程度で、さして関心もなかった。ところが、ついにリコール成立。これは、にわかに注目だ。

 この市長、防大の出身である。だから、まさか蒙昧とはいえまい。ただ、奇人ではある。
 ―― 自衛隊には『ある金持ち組織』のために工作をおこなう所があるという話を聞いたことがあり、天皇家や吉田、岸、児玉などが含まれている。
 自民党や民主党の活動資金は麻薬資金で、特別な遺伝子がある支配者層に人類は飼われている。
 そもそも孝明天皇は伊藤博文から暗殺された。伊藤はその子も殺した上に自分の手下、大室寅之助にすり替えた。これが明治天皇の正体だ。今の天皇家はまさしくどこの馬の骨とも分からない家系である。
 9・11テロは自作自演であるとする主張に賛同する。 ――
 このような空言、珍説はおよそ奇人でなければ吐かない。奇矯さは人目を引くための方便であるのか、それとも心理に宿るなにものかの表出なのか。興味はあるが、本稿の主題ではない。
 彼は市議を1期勤め、のち市長となり、いま2期目(1期途中で不信任、出直し選挙で再選)である。市長となってからのゴタゴタを列挙してみる。(個々の説明は省く)

◆全職員給与明細公表
◆市職員降格処分問題
◆張り紙はがし職員の免職
◆労働組合事務所の明け渡し通告
◆市職員の上申書の提出
◆副市長選任問題
◆「辞めてもらいたい議員」投票
◆議会への出席拒否
◆予算特別委員会で各課長に「答弁禁止」の指示
◆市議会特別予算委員会への出席拒否
◆議会の問責決議に「生意気です。能力も志もない人間が議員をやっちゃいかんのです。邪魔です。やめてもらいたい」とブログに
◆議会不招集と専決処分連発
◆自ら会長職を求め市体育協会に圧力
◆ネット選挙問題
◆障害者差別ともとれるブログ記述
◆報道規制問題
◆裁判所批判
◆裁判官の月給だと主張する一覧表をブログで公開

 などなどである。溜のないヒステリックさを感じる。そして、
●有効署名が確定=市長リコール、住民投票へ―阿久根市
 鹿児島県阿久根市の竹原信一市長の解職請求(リコール)運動で、市民団体「阿久根市長リコール委員会」が市選挙管理委員会に提出した署名簿の異議申立期間が12日、終了した。期間中の異議申し立てはなく、提出された1万197人分の署名の有効性が確定した。(朝日 10月12日)
 …… となり、
●阿久根市長リコール住民投票、12月5日に 選管決定
 鹿児島県阿久根市の竹原信一市長(51)の解職請求(リコール)手続きを進める市民団体「阿久根市長リコール委員会」(川原慎一委員長)は13日、市選管に対し、解職の是非を問う住民投票の本請求をした。これを受けて市選管は住民投票を11月15日告示、12月5日投開票と決めた。議会を招集せずに専決処分を繰り返し、片山善博総務相からも否定された「竹原流改革」の手法が問い直される。(朝日 10月13日)
 …… 事態に立ち至った。
 対する市長は、「リコールによって市民が市政に関心をもつことは良いことである」とコメントし、再出馬の意向だ。
 市議時代に、委員会による北海道調査を物見遊山だと蹴ったことで問責決議を受けている。ルサンチマンとはいわぬまでも、対立は根深い。最初の市長選は、職員給与の削減を訴えて当選した。返す刀で議員定数を一挙に約3分の1に削減しようとして議会と争った。漁業で繁盛した市がいまや人口半減、瘦せ細る市勢が彼の行革路線を後押ししたことは事実だ。ギリギリに尖った阿久根の“コイズミ”が大向うの喝采を受けたともいえる。
 ただ、手法は独善的でイリーガルでもあった。片山総務相も違法性を指摘する。専決処分の連発には、議長にも招集権を与えるように地方自治法の改正を求める声が挙がっている。二元代表制である地方自治の瑕瑾を埋める手立てになりそうだ。さらに予想外の副産物も。
●結構人気「議員力検定」 地方議員、議会批判に焦り?
 議会活動にかかわる知識を問う「議員力検定」の人気が地方議員の間で高まりつつある。「議員はこんなに多く必要なのか」などと厳しい声があるなか、検定で裏付けられた「議員力」を議会改革につなげたい考えだ。来春の統一地方選に向け、有権者にアピールする狙いもあるようだ。
 「鹿児島県阿久根市長の(議会軽視の)振る舞いの背景には、住民の議会への不信もあるんです」。山口二郎・北海道大教授が語りかけると、首都圏や東北地方から集まった地方議員ら約100人が耳を傾けた。
 「日本の議会政治を考える」という勉強会が8月、東京都内で開かれた。主催したのは、学者らがつくる「議員力検定協会」。(朝日 10月16日)
 現金なものだし、なにやら寒寒しくもある。

 さて、タイトルに戻ろう。
 「応仁の乱」とはいっても、「戊辰の乱」とはいわない。「戊辰の役」とはいっても、応仁の役」とはいわない。「大塩平八郎の乱」とて同じくだ。規模、期間ではない。「乱」とは秩序が乱れることであり、変革の呼び水とはなっても変革そのものではない。「天狗党の乱」のようにストラテジーなく、単なる暴発に終わった徒花もある。
 朝日は13日の社説で「首長と議会の対立は各地に起きている。ともに怠慢や行き過ぎがないか、住民がチェックすることが求められている。阿久根市の試行錯誤も、住民に期待される仕事をしていくための契機として生かしてもらいたい。阿久根市民の経験は、地方自治を鍛える一つの過程といえる。」と評した。賛成だ。だから筆者は、あえて「乱」と呼びたい。
 「阿久根の乱」は、「天狗党の乱」の二の舞を演じてはなるまい。少なくとも竹原氏には、『平成の大塩』の片鱗なりとも見せてもらいたい。天狗の申し子で終始せぬよう、切に祈る。 □


時事の欠片 ―― 出藍の誉れ

2010年10月14日 | エッセー

●将棋:コンピューターソフト、女流王将破る 開発35年、進歩示す
 四つのコンピューター将棋ソフトを組み合わせたシステム「あから2010」と清水市代女流王将(41)の特別対局が11日、東京都文京区の東京大工学部で行われ、「あから」が勝った。将棋ソフトが女流将棋界の第一人者を破り、その進歩を改めて示した。
 情報処理学会が日本将棋連盟にもちかけて実現。「あから」は仏教用語で10の224乗のことで、将棋で可能な全局面数に近いという。将棋ソフト「激指」「GPS将棋」「ボナンザ」「YSS」が多数決で指し手を決めるシステムだ。
 持ち時間は各3時間。「あから」は角交換を誘って振り飛車にした。清水女流王将が途中で疑問手を指してしまい、86手で「あから」が勝利を収めた。
 清水女流王将は「奇抜な手はなく、途中からは人間と指している気持ちに。悔しい気持ちもありますが、ソフトの開発に携わった方々の努力に尊敬の念を抱きました。今後も人間とコンピューターが切磋琢磨して強くなれれば」と語った。
 情報処理学会のメンバーの松原仁・公立はこだて未来大教授は「35年前に将棋ソフトの開発を始めて、ここまで強くなり、苦労をすべて忘れるほどです」と感慨深げだった。
 日本将棋連盟は05年、所属棋士に対し、将棋ソフトと許可なく対局しないように通達。連盟公認のソフトと棋士の対局は、07年に渡辺明竜王が「ボナンザ」を破って以来だった。(毎日 10月11日)

 プロのタイトルホルダーにコンピュータが初めて勝った。これは快挙であり、紛れもない出藍の誉れではないか。屈折しつつも、苦節35年。見事な成長を遂げた。
 注目すべきは、「四つのコンピューター将棋ソフトを組み合わせたシステム」。加えて、「将棋ソフト『激指』『GPS将棋』『ボナンザ』『YSS』が多数決で指し手を決める」手法だ。これは3人寄れば文殊の知恵を、1人分優に凌ぐ。女流王将といえども、トップ・アマを4人も向こうに回せば勝ち目は相当引っ込む。
 4つのソフトを走らせるのは、合計169台の東京大学クラスターマシンである。クラスター爆弾は困るが、このクラスターは大いに結構だ。最強のマシン群である。滅法な桁が並ぶ「あから=阿伽羅」も、かくありなんである。
 多数決による合議制。「[機械」(ソフトも機械として括ると)にあるまじき所業。これが、なんともほほえましい。4つの意見が真っ二つに割れた場合、どうなるのか。素人には測りかねる。それにしても機械同士が鳩首協議するとは、いかにも人間的ではないか。市井の凡眼には、そう見える。「途中からは人間と指している気持ちに」なったのも、頷けるというものだ。
 膨大なデータを基に複雑な計算が加味され、果てもないシミュレーションが繰り返される。基本はそうだろう。人間の思考に学ぶところから出発した機械(ハード、ソフトともに)が、いまや先達に堂々と伍する。どころか、超えようとしている。否、超えた。これを出藍の誉れといわずして、なんとしよう。機械に負けたなどと、無粋なことは言うまい。“あから”さまに(失礼)ぶっちゃけると、ソフトを書いているのはいまだに人間だ。ただ、それを機械に預けて独走させるところが妙趣ではあるが。
 清水女流王将はかつて少女時代、羽生に勝ったという伝説の持ち主である。その女史が序盤に仕掛けられた「三角戦法」 ―― 筆者は駒の動きが解る程度のへぼ将棋ともいえないレベルのためほとんど理解の外だが、奇手とはいえないまでも相当にサプライズな一手だそうだ ―― に調子を狂わされたらしい。天声人語は「秒読みに焦り、長時間の大局に疲れ、練達の士も過ちを犯す」と同情する。女史が美形でしかも和装であったために、筆者なぞは同情どころか泣涕しそうになった。
 まさかの戦法を繰り出すところはいかにも人間業だが、人類と違いこちらは疲れを知らぬ。せいぜい放熱が尋常を超えるぐらいのことだろうが、これとて空調がサポートする。負け方だけは、いまだ人間の域には達しまい。ざまぁ見ろ、だ。まったく負け惜しみにもなってないが、ここは一番、「出藍の誉れ」とエールを送って人間味を見せつけておかねば。□


山城の不思議

2010年10月12日 | エッセー

 城マニアではないが、名所、古蹟を訪(オトナ)うと必ず城、もしくは城跡がある。
 城は山城から始まり、平山城へと移り、平城に至った。ここでは、平山城、平城は措く。山城についてだ。
 山城の場合、いつも不思議なのは、なぜあそこなんだろう、ということだ。
 
 山城は、防御の拠点であった。武器、弾薬、糧秣、資金を集積しておき、非常の時に備えた。普段、領主は麓で起居する。屋形、館と呼ばれた。戦況を見て、籠城する。ために難攻不落、峻険な山頂や山腹が選ばれた。しかしそれとて地理的な孤立が過ぎると単なる疎開や不戦でしかなく、戦略的意味をなさない。籠城も戦略のひとつである。それを大筋にして勘案し、居が定められた。これが戦国初期までの築城である。

 今では山容は変わらぬまでも、裾野に展開する街区は一変している。交通網は隔世して別物となり、地理的状況は旧態を留めない。前述の「不思議」は、ここからくるのであろうか。いや、もっと深みに不思議はあるのではないか。
 たしかに航空写真でも見せられれば、そこがこの上ない適地であると判るのだが、素人目にはそうはいかない。しかし、専門家はいにしえの選択眼に驚嘆する。
 一族郎党の命運が懸かった見立てである。武将の眼力には、現今の人間には見えないものが見えていたのだろう。正確な地図などない時代である。連なる山々を望み、野を見晴るかし、川の流れを織り込んで、俯瞰図が描(エガ)けたのではあるまいか。自在な鳥の目をもっていたのでなければ、合点がいかぬし辻褄が合わぬ。

 山野の景観を戦略的に視る能力は、――デベロッパーなら換金の対象として視る能力には長けているであろうが、ここでいう「戦略的」とは言葉の本来の意味である――いまや自衛隊にしか残存すまい。しかし戦国の武士たちのそれは、機械の助力を介さない本能に近いものであったろう。当今では不思議としか言いようのない才だ。
 必要に応じた能力を獲得し得るか否かがあらゆる生き物の生存原理であってみれば、今やその種の能力が不要となり退化してしまったことに感謝せねばなるまい。ただ、依然として人間は山野に包(クル)まれて生きている。この属性は万古に不易だ。ならば、今風の視認と判断の能力が俟たれるのではないか。われらの住まう大地を、今とこれからの必要に応じ過たず見抜く力だ。エコなどという軽々しい標語じみたものではなく、もっと腰の据わった生き続けるための眼だ。遥かな後世が不思議がり、感謝してくれるかもしれない眼力だ。 □


蓮舫クン、謝り給え!

2010年10月08日 | エッセー

 
●ノーベル化学賞、根岸英一氏・鈴木章氏ら3人に
 スウェーデンの王立科学アカデミーは6日、今年のノーベル化学賞を、根岸英一・米パデュー大特別教授(75)、鈴木章・北海道大名誉教授(80)、リチャード・ヘック・米デラウェア大名誉教授(79)に贈ると発表した。3人は金属のパラジウムを触媒として、炭素同士を効率よくつなげる画期的な合成法を編み出し、プラスチックや医薬品といった様々な有機化合物の製造を可能にした。
 日本のノーベル賞受賞は17、18人目となる。化学賞は6、7人目。
 業績は「有機合成におけるパラジウム触媒クロスカップリング」。
 薬でも液晶でも、分子の骨格は炭素同士の結合でできている。炭素同士をいかに効率よくつなげるかは有機化学の大きなテーマだ。その方法の一つとして1970年代ごろから注目を集めていたのが、異なる二つの有機化合物の炭素同士をつなぐ「クロスカップリング反応」だった。
 クロスカップリング反応は「世界中のありとあらゆる化学メーカーが恩恵を受けている」(三菱ケミカルホールディングス)という。
 授賞式は12月10日にストックホルムである。賞金の1千万クローナ(約1億2千万円)は受賞者3人で分ける。(朝日 10月6日)

 化学といえば、筆者にははるか彼方の無縁の世界だ。化学記号には苛められ、泣かされた。あの判じ物の群れを諳(ソラン)じ、かつ書き出せるなどというのはおよそ人間業ではあるまいと、いまだに固く信じて疑わない。同時に、そういう異才、ないし偉才には躊躇なく敬服する。
 下馬評にあったiPS細胞の山中伸弥氏は選に漏れた。一つはここが注目点だ。鈴木、根岸両氏とも、30~40年前の研究成果である。「平和賞」と違い、俎上に上がるまでかなりの長年月を要する。山中教授は未だし、ということか。
 問題はこのタイムラグだ。70年代は、まだ日本が『上を向いて歩』いていた時だ。今は、どうか。決して楽観はできない。基礎研究の不足、若手研究者の人材難や若年層の理科離れ。危惧されて久しいが、改善の兆候はいっかなない。
 なにせ、政権党の看板議員から「(科学分野で)なぜ、2番ではいけないのか?」などという痛罵を浴びせられる国柄に成り下がっている。資源に乏しいわが国は、「科学技術創造立国」が国是ではないのか。
 拙文を引こう。
〓〓江戸時代は地方の藩ほど教育に力を入れた。『教育立国』である。別けても佐賀は格別であった。というより、ファナティックであった。エリート教育である。定められた年齢に至ると試験がある。合格できないと家禄を減殺される。300諸侯のなかで、これほどに苛烈を極めた藩はない。教育ママどころの騒ぎではない。家名を掛けての猛勉強である。当然、賂(マイナイ)など寸毫も入り込む余地はない。
 維新後、大蔵卿として殖産興業を推進した大隈重信。司法卿として近代司法制度を確立した江藤新平。どちらも佐賀の常軌を逸した誅求の教育が生んだ逸材である。歴史の奇観でもある。〓〓(08年7月、本ブログ「壱万円が泣いてらー」から)
 藩領の地理的条件を超えるものとして、科学技術といい教育といっても同意として援用した。(幕末、佐賀藩は天然痘対策の牛痘ワクチン、本邦初の製鉄所の建設や初の蒸気船独自建造など科学技術にも藩を挙げて注力し、際立った成果を挙げている)現代の日本とて変わりはあるまい。世界の「辺境」で「立国」していく活路こそ、「科学技術創造」ではないのか。
 ここのところ受賞がハイペースだからといって、能天気に喜んでばかりはいられない。前述のタイムラグを忘れてはなるまい。只今、現今の、足元をしっかりと見定めねばならない。朝日も社説で「事業仕分けでの研究への厳しい評価が、若い研究者の意欲をそいだことも指摘されている。」と書いた。まったくその通りだ。

 もう一つ、注目すべき点がある。特許を取らなかったことだ。この恩恵は大きい。両氏の研究は産業と直結し、市民レベルに直ちに反映した。これは稀に見る特色である。全国400万の高血圧に苦しむ人びとに実益をもたらした(鈴木氏本人も服用しているそうだ)。ディスプレイの開発も同じくだ。だからといって例えばニュートリノのように、門外漢にはまったくチンプンカンプンの研究が無益だといっているのでは断じてない。
 身近な話をしよう。「カラオケ」である。決して、イグノーベル賞の話題ではない。いまや堂々たるグローバル文化のひとつであり歴史的発明となった最大の誘因は、特許権が設定されていなかったことだ。「発明者」は複数説を含め諸説ある。ただ、だれも特許を取っていない。発明者と目される人たちはその後浮沈はあったものの、元流しの一人も、元エンジニアの一人も今もって無名だ。生活は市井のそれを出ない。巨万の富よりも、創造にこそ喜びを見いだす潔い生き方があるのだ。日本人の亀鑑でもある。

 さて件の「政権党の看板議員」クン。国会議事堂の中で、130万円もするイタリア製高級ブランドに身を包み、ファッション紙の写真撮影をしている場合だろうか(8月下旬、明らかな国会ルール違反だ)。なにを浮かれているのだろう。赤絨毯はファッションを魅せるためのものではないだろう。頭(カシラ)がカン違いなら、手下もとんだ勘違いだ。まあせいぜいキミは、ミスドのCMギャグにされるのがお似合いだ。
 ノーベル賞を称賛しない者はいない。この吉報を喜ばぬ者はいない。キミに教えておこう。(ここだけの話だ。ほかならぬキミだから言うのだよ!)ノーベル賞は各分野の「1番」に贈られるものだ。決して、断じて、まちがっても「2番」へのトリビュートではない。
 悪いことは言わない。「子曰く、過たば改むるに憚る勿れ」(論語)ではないか。今からでも遅くはない。
 蓮舫クン、謝り給え! □


「あー、そこの君はどう読む?」

2010年10月07日 | エッセー

 哲学書で30万部とは驚異的だ。

   これからの「正義」の話をしよう
   Justice <今を生き延びるための哲学>  
   マイケル・サンデル著 早川書房 本年5月発刊。

 難解な哲学があらんかぎり平易に綴られている。「白熱教室」に劣らずエキサイティングだ。「教室」でもそうだが、繰り出される「質問」の数々は枝葉を切り落として問題の哲学的核心をあらわにし、思考をぐいぐい牽引する。
 本ブログ「あー、そこの君はどう考える?」の伝で、「あー、教授自身はどう考える?」の回答が慎ましくではあるが明かされている。「教室」では明言されなかったところだ。
 「正義」の話は大枠三つにわたって語られる。自己流にまとめれば、

1 効率 <最大幸福原理(功利主義)> ベンサム、ミル
2  自由 <リバタリアニズム(自由至上主義)> カント、ロールズ 
3 美徳  <目的論的思考>  アリストテレス、マッキンタイア

となろうか。
 「知の興奮」は本書に当たっていただくほかはないが、痴人説夢を承知のうえで、わたしなりの「知の興奮」を記したい。

 論考は1、2、3と進み、3に対して次のようなアンチテーゼが持ち出される。

〓〓カントとロールズにとって、正しさは善に優先する。人間の義務と権利を定義する正義の原理は、善良な生活をめぐって対立する構想のすべてに中立でなければいけない。道徳法則に到達するためには、偶発的な利害や目的を捨象しなければならないと、カントは主張する。
 ロールズの持論では、正義について考えるためには、特定の目的、愛着、善の構想を脇においておかねばならない。それが、無知のベールに包まれて正義を考える際の重要な点だ。
 正義に対するこのような考え方は、アリストテレスの考え方とは相容れない。彼は、正義の原理は善良な生活に関して中立でありうるとも、あるべきだとも考えていない。逆に、正しい国制の目的の一つは、善い国民を育成し、善い人格を培うことにあると主張する。善の意味について熟考せずして、正義について熟考することはできないと彼は考える。その善とは、社会が割り当てる地位、名誉、権利、機会のことだ。
 アリストテレスの正義についての考え方をカントとロールズが拒む理由の一つは、自由の入る余地がないと考えるからだ。〓〓

 四捨五入すると(九捨一入に近いが)、「美徳」を掲げれば「自由」が引っ込むということだ。押し付けられてはかなわないというのだ。 ―― ついでながら、語られる「正義」とは正しい判断の謂と了見しておけばいいのではないか。だから文中「正しさは善に優先」とある「正しさ」とは、カント流の正しさ、「偶発的な利害や目的を捨象」し「特定の目的、愛着、善の構想を脇に」おいた、つまりは完全な素の状態での「自由」である。 ――
 「自由」と「美徳」のアンビヴァレンツ、このアポリアをどう乗り越えるか。そこに登場するのがマッキンタイア(29年生まれ、徳倫理学を主導するアメリカの哲学者)である。

〓〓どうすればコミュニティの道徳的な重みを認めつつ、人間の自由をも実現できるだろうか。人間に関する主意主義者的な見方があまりに貧弱だとすれば ―― 人間のあらゆる責務が本人の意志の産物ではないとすれば ―― 、位置を持ちつつも自由な自己として自分を見るにはどうすればいいのだろうか。
 アラスデア・マッキンタイアはこの問いに力強い答えを提示する。彼は、人間が道徳的行為者として目的と最終目標に至る方法を説明している。主意主義者的な見方に代わる考え方として、マッキンタイアは物語的な考え方を提唱する。人間は物語る存在だ。われわれは物語の探求としての人生を生きる。「『私はどうすればよいか?』という問いに答えられるのは、それに先立つ『私はどの物語のなかに自分の役を見つけられるか?』という問いに答えられる場合だけだ」
 これまでに生きられたあらゆる物語はある種の目的論的特性を帯びていると、マッキンタイアは述べる。物語には外的な権威に押しつけられた確固たる目的や目標があるという意味ではない。目的論と予測不能性が共存しているのだ。〓〓

 「人間は物語る存在だ。われわれは物語の探求としての人生を生きる。」これには正直、ぶっ飛んだ。マッキントッシュは齧ったこともあるが(冗談、失礼)、マッキンタイアは知らなかった。暫し、身動きできないほどに唸った。実存主義に近いものを感じるし、東洋の香りさえする。因果律、因果論。いうならば自律的因果。それもうんと前向きな、もっといえば未来に跳び上がる因果とでもいうような、きわめてポジティブなものを。
 ともあれ、これならアポリアを一跨ぎにできる。常人には限りなく敷居の高い「主意主義者的な見方に」見事に取って「代わる考え方」であり、少なくとも「自由の入る余地」が生まれ、「カントとロールズが拒む理由の一つ」は消える。

 さらに、2の考え方では膠着してしまう問題群が提示される。
◆家族の責務 ―― 「たとえ悪い親でも、面倒を見る義務が子供にはあるというならば、道徳的要求はリベラル派の互恵主義と合意の倫理を超えることになる。」つまり育ててもらってもいないし、親を選んだ訳でもない。では、道徳的要求の根拠は?
◆フランスのレジスタンス ―― ナチス占領下にある故郷の村を空爆することに躊躇するパイロット。大義であっても同胞を殺さなのは臆病や弱さとして非難されるより、「爆撃の実行は、特別な道徳的過ちになる」と考える彼の人格は敬服されるべきではないか? 「合意の倫理では把握できない」(後出)事例だ。
◆エチオピアのユダヤ人救出 ―― イスラエルはユダヤ人を優先して空輸した。カント流でいけば全難民のくじ引きしかないが、イスラエルは不平等な差別的行為だと非難はされなかった。他国から「同胞」意識が受け入れられたのではないだろうか? 「同胞に感じる誇りと恥、連帯の要求は、われわれの道徳的・政治的体験によく見られる特色」(後出)の一例である。
  …… などだ。「忠誠のジレンマ」である。

〓〓公的な謝罪と補償、歴史的不正に対する共同責任、家族や同胞がたがいに負う特別な責任、仲間との連帯、村やコミュニティや国への忠誠、愛国心、自国や同胞に感じる誇りと恥、兄弟や子としての忠誠、そうした事例に見られる連帯の要求は、われわれの道徳的・政治的体験によく見られる特色だ。そうした要求なしには、生きることも、人生の意味を理解することも難しいだろう。
 だが、道徳的個人主義の論法でそれらの要求を説明するのも、同じくらい難しい。合意の倫理では把握できないからだ。そうした要求はわれわれの責務のうえに成り立っている。物語る存在、位置ある自己としてのわれわれの本性を反映しているのだ。
 そうしたことのすべてが正義とどのようにかかわるのか、疑問に思えるかもしれない。その疑問に答えるために、そもそもこの方向にわれわれを導いた問いを思い出してみよう。われわれはこれまで、人間の義務と責務はすべて意志や選択に帰することができるか、解明しようとしてきた。私は、できないと主張してきた。われわれは、選択とは無関係な理由で連帯や成員の責務を負うことがある。その理由は、物語と結びついており、その物語を通じてわれわれは、自分の人生と自分が暮らすコミュニティについて解釈するのである。〓〓

 「その物語を通じてわれわれは、自分の人生と自分が暮らすコミュニティについて解釈する」。またも脱帽だ。余計な講釈は不要で無用だ。
 哲学は彼岸の学問ではない。だからまぎれもない此岸で、サンデル教授は語る。「知の興奮」は生の興奮に直結するからだ。
 さて、教授に成り代わって僭越ながら、「あー、そこの君はどう読む?」 □


時事の欠片 ―― 冗談は顔だけにしてくれ!

2010年10月04日 | エッセー

●障害者郵便割引不正:証拠改ざん 大坪容疑者ら「全面的に争う」
 大阪地検特捜部主任検事による証拠品改ざんを隠ぺいした事件で、犯人隠避容疑で最高検に逮捕された前特捜部長、大坪弘道(57)と前副部長、佐賀元明(49)の両容疑者が2日、接見した弁護人に「全面的に争う」と無実を主張していることが分かった。佐賀前副部長は「検察側のストーリーに乗らず徹底抗戦する」と強調したという。
 一方、大阪地裁の渡部市郎裁判官は同日、大坪前部長と佐賀前副部長の拘置を認める決定をした。期限は11日までの10日間。(毎日新聞 10月3日)

 苔生したギャグだが、「冗談は顔だけにしてくれ!」と言いたい。「検察側のストーリーに乗らず」とは、よく言えものだ。ついこないだまで「検察側のストーリー」を書きまくってきたのは、どこの誰だろう。目糞、鼻糞を笑うといって下品であれば、猿の尻笑いとでもしておこう。
 第一、FDの改竄にしたところで、当初の「ミステーク」説が通用するなどと本気で考えていたのだろうか。だとすれば、幼稚この上もない。天網恢恢疎にして漏らさず。まずは高1漢文の勉強からお復習いしてほしいものだ。
 逮捕された主任検事もどうしたことだろう。「割り屋」といわれ自供させるのが得意だったそうだが、攻守ところが代わると一日二日で口を「割り」、あっけなく認めてしまった。やはり、ウソは「割り」に合わないのだろうか。
 「高1漢文の勉強」といったのは、この成句には瑣末ながら忘れ難いエピソードがあるからだ。
 高校1年の漢文の授業の時。いつものように、机の上で櫓に組んだ手に顎を乗せて居眠りをしていた。おそらく肘が滑ったに違いない。頭の支えが抜けて、ハタと目が覚めた。咄嗟に、指されたと勘違いした。目の前には教科書が衝立のように立ててある。件(クダン)の成句が目に飛び込んできた。やおら立ち上がり、一頻り意味を説明して、安堵しつつ腰を下ろす。教師はキョトンとしている。みんなの視線が集まる。一瞬の間をおいて、教室に哄笑が弾けた。完全な一人相撲だったのである。以来、「天網恢恢……」だけは忘れはしない。生き様の規範たり得たかどうかは疑わしいが。
 ともあれ検事たる者、子供騙しの言い訳が通用するはずがないことぐらい、なぜ解らぬのだろう。逮捕された検事諸氏よ。拘置所内で壁面し、天網恢恢疎にして漏らさず、と出所まで寝る間も喰う間も惜しんで唱えてみてはいかがか。まあ、馬の耳に何とかではあろうが。
 極め付きは以下の記事だ。

●取り調べの可視化を申し入れ
 大阪地検特捜部による証拠改ざんの隠ぺい事件で、逮捕された前副部長の弁護士が、前副部長への捜査が適切に行われているか検証できるよう、取り調べの様子をすべて録音・録画する「可視化」の実施を、4日、最高検察庁に申し入れました。
 佐賀前副部長の弁護士は、最高検察庁に、前副部長に対する取り調べをすべて録音・録画するよう求める申し入れ書を出しました。この中で、弁護士は「厚生労働省の局長だった村木厚子さんの無罪が確定した事件では、密室で行われた取り調べが批判された。今回の事件でも、捜査が適切に行われたか検証できるようすべての取り調べの様子を録音・録画すべきだ」としています。(NHKニュース 10月4日)

 当人の意志にないことを弁護士が言い出すはずはない。これはまるで、泥棒に追銭ではないか。居直り、開き直り、尻捲り。盗人猛々しいとはこのことだ。冗談は顔だけどころか、存在そのものが冗談に見えてくる。
 こうなれば掛け値なしで、冗談は顔だけにしておいてくれと願わずにはいられない。顔が冗談なのは愛嬌にもなるが、存在が冗談では人間一般への重大な背徳となるからだ。 □


「あー、そこの君はどう考える?」

2010年10月01日 | エッセー

【教授】それぞれ、心臓、肺、肝臓、膵臓、腎臓の臓器移植を待つ5人の患者がいるとしよう。移植以外に生き延びる術はない。君は医者だとしよう。困った。と、隣の部屋で五体満足な男が居眠りをしている。さて、どうする?(場内、笑い) 彼から5つの臓器を取り出して移植するかい? そうすれば、1人の命と引き換えに5人の命を救うことができる。賛成する人は? 
 うーん、ほとんどいない。みんな反対なんだね。先程の質問、ブレーキの効かなくなった電車が工事をしている5人の所へ突進しようとしている。知らせる方法はまったくない。だが、手前に別の引き込み線がある。そこに入ることはできる。しかし、そこでも1人が工事をしている。君が運転手だとしたら、どちらにハンドルを切る? これには、賛否が分かれた。でも今度は反対する。2つの質問は、どこが違うのだろうか? 
 ほかに意見のある人は? あー、そこの君。どうだ? 
【学生】ぼくは、5人の患者のうち1人が死んだら、その患者の残る4つの臓器を移植して4人を助けることができると考えます。
【教授】なるほど! 実にすばらしい考えだ。 …… ただし、1つだけ難点がある。君の意見が、私の哲学的な質問を台なしにしたことだ。(場内、哄笑)

 この調子で授業が進む。教授とは、もちろんマイケル・サンデル=ハーバード大学教授。「白熱教室」の一齣だ。先般、日本での講義が実現した。以下、新聞報道から。
●東大 白熱教室 サンデル教授、安田講堂で「知の興奮」  
 救命ボート上の飢えた漂流者たちが、死にかけた仲間の1人を殺して食べるのは許されるのか。貧富の格差を縮めるために高所得者の富を奪うのは、道徳的に正しいことなのか。正義や道徳をテーマにした哲学の命題を、現代の身近な問題に引きつけて語る米ハーバード大のマイケル・サンデル教授(57)の特別講義が25日、東京・本郷の東京大学で行われた。生命倫理、格差問題、戦争責任などをめぐり、参加者との白熱した議論を通じて教授が伝えようとしたものは。
 サンデル教授は、米国の放送局が講義を番組化し、NHK教育テレビでも4月から放送され反響を呼んだ「ハーバード白熱教室」の講師。5月に発売された講義録の邦訳版『これからの「正義」の話をしよう』は、哲学書としては異例の約30万部のベストセラーとなっている。
 今回の講義は同番組の“日本出張版”として、東大との共催の形で実現した。会場の安田講堂には東大生350人をはじめとする約1100人の聴衆が集まり、ほぼ満席の盛況ぶり。NHKによると、550人の一般視聴者枠には6183通の応募が殺到した。
 ハーバード大きっての人気授業として知られるサンデル教授の講義は、ユーモアを交えた対話で話を進める「ソクラテス型」だ。「収入の格差自体は不公正と思う?」教授が問いかけると、会場から次々と手が挙がる。問いかけは、さらに身近なものに。「イチロー選手の年俸は、日本の教師の平均年収の約400倍、オバマ米大統領の42倍。私は野球が大好きでイチローは偉大な選手だと思うが、道徳的に見て公正か。国家が課税して再分配することは正しいだろうか」
 具体的な事例の提示に、議論は白熱。「自分の才能で得た財産について、自発的に寄付するのは構わないが国家が課税によって強制的に奪うのはよくない」「いや、大金持ちの収入の半分を取り上げても痛くもかゆくもないし、それで多くの貧しい人たちが幸福になる」。参加者同士が直接議論することも促しながら講義は盛り上がっていく。
 最も会場が沸いたのは、家族が重い罪を犯した場合にとるべき態度から説き起こされた、世代を超えた道徳的責任をめぐる話題だ。教授は問う。現代日本の若者は、戦前日本の過ちの責任を負うべきなのか。原爆投下について、オバマ大統領は謝罪すべきなのか。
 議論は分かれた。「生まれる国は選べない。自分がかかわれない話に責任を負わされるのは納得がいかない」という意見に対し、「今の世代が過去を土台にしている以上、過去の世代の過ちは今の世代が償うべきだ」とする主張がぶつかる。教授は再質問を重ねて的確に論点を整理しながら、それぞれの意見が依(よ)って立つ道徳的立場をあぶり出していく。
 「正義とは何か」という問いに対し、サンデル教授は3つの答えがあるとする。1つ目は、英の功利主義哲学者、ベンサム(1748~1832年)に代表される「最大多数の最大幸福が正義である」とする答えだ。2つ目が、独哲学者のカント(1724~1804年)が掲げた「人間の自由な選択を尊重すること」。そして3つ目が、古代ギリシャの哲学者、アリストテレス(紀元前384~同322年)の「何が美徳であるかを明らかにし、それをつちかうことが正義である」とする考えだ。
 しかし、サンデル教授の講義は、3つのどれかが正解だとはしない。講義の主眼は、過去の哲学者が重ねた議論を参照しながら、答えが出せない問題について深く議論することにある。
 教授は言う。「哲学の問題は哲学者たちだけのものではなく、われわれの日常生活に存在しているのです」
 講義は前後半に分けられ、計約3時間20分。予定時間を約1時間20分も超過する盛り上がりぶり。教授は「友人は『日本人は積極的な議論ができない』と言っていたが、非常に刺激的ですばらしい議論ができた」と感想を述べた。「知を愛する」という哲学の語源そのままに、普通の人間の生活に哲学の思考を応用する教授の講義は、日本の受講者にも、知の興奮と深い感銘を与えたようだ。
 終了後、降壇する教授への満場総立ちの拍手は何分も鳴りやまなかった。傍聴した記者もわれ知らず立ち上がり、手をたたいていた。「白熱教室」という名前通りの熱い討議だった。(産経ニュース 8月30日)

 サンデル教授はコミュニタリアニズム(共同体主義、共同体の役割を重視する)を代表する論客で、道徳や正義を主張する。だから、リバタリアニズム(自由至上主義)やリベラリズム(社会自由主義)には批判的立場に立つ。しかし、授業で押し付けがましいところは一切ない。建学以来三百数十年にして、初めて講座を一般公開したことでも知られる。
 日本での出張講義は1時間半に編集され、9月26日にNHK教育で放映された。高視聴率を取ったにちがいない。まさに「知の興奮」、安田講堂が沸きに沸いた。だが欠伸をした学生がひとり、一瞬映った。かわいそうに彼は万世に恥を残すことになりそうだ。
 サンデル方式を自分の授業で実践し始めたという大学の先生。意見続出に今の学生たちを見直したと語る高校教諭。ぜひ国会で議員を相手に授業をお願いしたいとねだるトンチンカンな国会議員。などなど、感銘はひろがった。
 と、これで終わっては因業をもって任ずる筆者としては収まりがつかぬ。いつものように斉東野語を放たねば。

 流暢な英語での受け応えは、さすが東大生であった(一部は日本語)。かつ、堂々としている。レスポンスも速い。しかし、内容に若干の未消化が残る。
 前半の設問については、「正義」が舶来の概念である点が不問にされている。司馬遼太郎を引こう。
■ 裏切りと寝返りというのは、キリスト教国に育ったひとびとが日本史を理解する上で、解釈にくるしむところであるらしい。私は、日本人に正義という倫理が、稀薄にしか成立していなかったためであると思っている。正義というのは、宋学によってはじめて日本人の一部が南北朝時代に知った。また戦国末期から徳川初期にかけて、切支丹によって濃厚に知るにいたる。豊臣末期から徳川初期にかけてのおびただしい殉教は、裏切りが日本人の天性ではなかったことを証明している。ただ歴史の上からみれば、裏切りや寝返りという行為は、対決が激化するとき、一種の生態的な調整作用に似た働きをして、流血の量をよりすくなくした、ともいえなくもない。源平の争乱、関ケ原ノ役、戊辰戦争において、そのことを見ることができる。源平以来、武家の正義 ―― 正確には論理 ―― はその所領の保全のみが軸になっていた。このことは、関ケ原、戊辰戦争にまでつづき、大名たちが離合し、集散する場合の個々の判断の基準は、つねに正義ではなく、勝ちそうな側につく。ということであった。( 「街道をゆく」18 越前の諸道 から) ■
 西洋でいう“不正義”が、「一種の生態的な調整作用に似た働きをして、流血の量をよりすくなくした」という価値観が存在しうること。これは、1番目のベンサム流の正義とは似て非なるものだ。次元の異なる観点の提示となる。
 また、宋学、儒教における五常の「義」 ―― 欲望を追求する「利」との対立概念 ―― から前半の「収入の格差自体は不公正」か否かを捉えてはどうか。おそらくサンデル教授は3番目のアリストテレスの正義観で括るだろうが、そこから東西思想の比較へと思索は深まるかもしれない。あるいは、
■ 世間と思想は補完的だ。世間の役割が大きくなるほど、思想の役割は小さくなる。同じ世間のなかでは、頭の中で世間が大きい人ほど「現実的」であり、思想が大きい人ほど、「思想的」なのである。ふつう「現実と思想は対立する」と思ってしまうのは、両者が補完的だと思っていないからである。これは思考には始終起こることである。男女を対立概念と思うから、極端なフェミニズムが生まれる。男女は対立ではなく、両者を合わせて人間である。同じように、ウチとソトを合わせて世界であり、「ある」と「ない」を合わせて存在である。ともあれ私は、「反対語」という、ありきたりの概念はよくないと思う。基本的な語彙で、一見反対の意味を持つものは、じつは補完的なのである。異なる社会では、世間と思想の役割の大きさもそれぞれ異なる。世間が大きく、思想が小さいのが日本である。逆に偉大な思想が生まれる社会は、日本に比べて、よくいえば「世間の役割が小さい」、悪くいえば「世間の出来が悪い」のである。「自由、平等、博愛」などと大声でいわなければならないのは、そういうものが「その世間の日常になかった」からに決まっているではないか。それを「欧米には立派な思想があるが、日本にはない」と思うのは勝手だが、おかげで自虐的になってしまうのである。(養老孟司 著「無思想の発見」から)■
 との炯眼を踏まえれば、より本質的な意味で「わたしの哲学的な質問を台なしに」する応じ方があったのではないか。
 せっかくの東洋世界での講義である。サンデル教授の土俵をひっくり返すとまではいかなくとも、大揺れに揺するぐらいの対応、ないしは反抗を期待したのだが …… 。断っておくが、講義のテーマは事前に判っていたのだし、ハーバードでの教室はつとに有名なのだから準備はできたはずだ。

 後半の設問、特に原爆投下についての謝罪の問題。これはいささか落胆した。
 戦争責任一般と原爆投下の責任とは明らかにトポスが違う。原爆のそれは、国家間の責任、謝罪という枠を超えている。ここが外せないポイントだ。それは国に対してではなく、人類に対してだ。なぜなら、広島、長崎への原爆投下は人類への罪悪だ。オーバーキル、すなわち人類を根絶やしにする魔性の凶器が原爆だ。
 兵器が人類規模のものである以上、オバマは人類の名において謝罪すべきではないか。広島の「原爆慰霊碑」に刻まれた碑文の精神は、人間、人類の名において誓ったものではないのか(諸説はあるものの)。「謝罪」が原体験世代と後続世代との継承に収斂され、つまりは足元を掬われて皮相に終始した。被爆国の、もっともラディカルであるべき学生の反応としては食い足らない。
 手ぐすね引いて待ち構える学生の1人や2人はいてもよかった。たとえ、返り討ちにされ八つ裂きにされたとしても。もし往時の団塊の世代だったとしたら、教授をただは帰さなかったろう。少なくともその意気込みで臨んだであろうことは、同世代の“欠片”として断言しうる。
 
 西周は“PHILOSOPHY”を「哲学」と訳した。漢籍の「士希賢」(=賢哲が明らかなる智を希求する)から、「希哲学」と翻じたのである。すなわち「愛智」であり、その至福である。してみれば、「知の興奮と深い感銘」の渦を巻き起こす「白熱教室」は『現代の産婆術』、サンデル教授は、さしずめ『現代のソクラテス』といって過不足はなかろう。
 ああ、こんな授業に出会っていたらもっと真面目に勉強したのに、と繰言を独り言(ゴ)ちてももはや手遅れではあるが。 □