伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

行く年に悪態2題

2017年12月27日 | エッセー

 発覚直後に拙稿で「ひとり相撲」と題して愚案を呈した(先月18日)。
 〈貴乃花と相撲協会との軋轢はつとに知られたことだ。改革への篤い志が、あるいは勘ぐれば権力闘争のルサンチマンがこの件を奇貨可居としたのではないか。親方としての対応と巡業部長としての協会へのそれに整合性を欠くからだ。県警に被害届を出したにもかかわらず、協会への報告がなぜ発覚後になったのか。ここがこの騒動の核心的イシューだ。恣意的というより意図的なサボタージュではないか。協会への面当てか、イメージダウンを狙ったか。もちろん詳しいことは知る由もない。単なる下衆の勘ぐりではあるが、どうもその気配がする。〉
 その後は「核心的イシュー」を巡って泥沼に足を取られたような膠着が続いた。巡業部長としての報告と協会への聴取。メディアスクランブルが起こり、揣摩憶測が乱れ飛んだ。たまたま『ひるおび』を見ていると、八代英輝が法律家の立場からとしてコメントしていた。被害者側に報告義務も聴取に応じる義務もない。暴行現場に居合わせた力士にも等しく報告義務がある。理事会での書面配布は法的対応として理に適っている、と。全知感芬芬のどや顔である。
 と、隣席の福本容子が
「ここ(協会理事会)は法廷ではないんですよ」
 と食らいついた。小生意気な福本がたまにはいいことを言う、と大いに肯いた。
 八代は法曹の高みから、会社だって報告するのは当たり前という世の大勢にオブジェクションを突き付けたつもりだろう。彼にはトリビアルな法律知識はあっても常識が欠けている。この場合、常識は「ここ(協会理事会)は法廷ではない」ということだ。
 内田 樹氏の卓見を徴したい。
 〈「常識」は本質的に期間限定、地域限定です。つねに、あらゆる場所で妥当する「常識」なんて存在しない。「そんなの常識だろ」というのは、ある意味で「鶴の一声」として機能する。議論を打ち切るときの決めの一言なんです。それほど圧倒的な力を持つものであるにもかかわらず、まさにその強大な権限は「今、ここ」でしか通用しないという限定性によって保証されている。僕はそれこそが常識の手柄だと思っているんです。地域限定・期間限定という条件を受け容れる代償に、その場限りの決定権を委ねられる。〉(祥伝社「変調『日本の古典』講義」から抄録)
 相撲協会に「地域限定・期間限定」の「常識」があるという前提を認めないのなら、協会を離脱するほかあるまい。だから「ひとり相撲」だといったのだ。真に協会の変革を企図するなら常識に適った大人の対応が必須だ。駄々をこねて親を呼んでくるのは子どもの対応だ。「限定性によって保証されている」ことこそが「常識の手柄」である。大人はその「限定性」を変えることにリソースを注ぐ。時を作り、時を待つ。それが大人の知恵だ。だって限定的とは可塑的と同意であるから。
 言い忘れたもう一つの常識を加えておきたい。巡業部長の責任を報告や聴取に矮小化してはならない。マスコミはこの一点にのみ終始しているかに見えるが、巡業中に不祥事が起きたこと自体が巡業部長の責任問題ではないのか。こちらの方こそ本筋であろう。真の責任とは不祥事が「起きた」ではなく、不祥事を「起こした」と捉える姿勢にこそあるのではないか。相撲道を揚言するなら、いうところの「品格・厳格」には責任の自覚が含意されているはずだ。巡業の指揮官としての不明、不徳に先ず恥じ入るべきではないか。寡聞にしてこの論点を聞かない。聴取で彼は「巡業部長としての責任は果たした」と応じたそうだ。相撲道から一番遠いのは彼ではないか。

 これも瞥見した『林修先生が驚く初耳学』での一齣。山尾志桜里議員の不倫疑惑について、プライベートなことを論うのではなく議員は仕事をするかどうかが大事です、とコメントした。会場は意表を突く発言に納得の頷き。こちらは、つくづくこういう手合いが世論をミスリードするのだと怖くなった。
 彼についてはかつて愚稿で、「知識をネタにした御座敷芸、トリビアルな物知り居酒屋談義」と断じたことがある(15年12月『ジーニアスではないだろう』)。証拠に、溢れるほどの知識があるのに何も発信しない。世にものを問わない、訴えない。たまに物申すとこんなトンデモ発言である。トリビアに驚きはしても、感動はしない。所詮は予備校の講師である。カズオ・イシグロの『日の名残』に次のような一節がある。
 〈まことに言いにくいことながら、最近、お家どうしが──それも最高の家柄を誇るお家どうしがつまらないことで競い合うケースがあるやに聞いております。たとえばハウス・パーティなどで、まるで猿回しの猿のように執事の「芸」をみせびらかすといったたぐいのことです。私自身、あるお屋敷でまことに遺憾なケースを目にいたしました。お客様がわざわざベルを鳴らして執事を呼びつけ、これこれの年のダービー優勝馬はなんだったかなど、手当たりしだいに質問を投げつけては答えさせておりました。そのお屋敷では、どうやら、それが余興の一つとしてまかり通っているように見えましたが、そのようなことは、見世物小屋で記憶男がやることではありますまいか。〉
 TVという「見世物小屋」の「記憶男」。言い得て妙だ。夏だったか、Googleで試したことがある。放送1回分すべての質問をググってみた。全部回答が異論、反論を含め出てきた。つまりは、Googleで十二分に代替可能なのだ。「林先生!」そんなレベルでどや顔はおよしになったほうが賢明では。
 それにしても、件(クダン)のコメントは看過できない。芸人や職人なら浮気も芸の肥やしになるであろうが、議員はそうはいかない。決定的な違いがある。それは権力の行使に関わるからだ。市井の職業との根本的な相違はそこにある。たとえ共同的幻想ではあっても「選良」、選ばれし良き高潔なる者に権力を委ねるというパラダイムを私たちは採用している。彼らは選良であることがなによりも前提となる特殊な職業なのだ。なぜなら権力を行使する権限を賦与するからだ。だから選択を誤った場合に備え期限を切っている。それほどに権力は重い。まかり間違えば膏血を絞り国民を塗炭の苦しみに追い遣ることも、国土を戦渦に巻き込むことだってできる。そんな決定もしくは決定の阻止を“非”選良に託すことはできない。代議制とはつまりそういうことだ。「仕事ができれば」とはまことに浅慮という以外ない。核心的知性が抜け落ちている。「林先生!」その程度ですか! と、嘆かざるを得ない。
 八代、林両人を並べると、論語の「君子は器ならず」という訓戒が想起される。「器」とは用途がひとつに限定されることを指す。字引には「教養を兼ね備えて人の上に立つ者は、限定された一つの能力に偏ることなく、全てに対し幅広く自由にその才能を活かすべきである」との謂が記されている。この訓戒に照らすならば、この2人を君子とは呼べまい。まあ、なる気もあるまいが。
 さて、行く年の締め括りに分不相応な悪態を吐(ツ)いた。来る年は吐く相手がいないよう願いたい。皆様、どうぞよいお年を。 □


今年の一言

2017年12月24日 | エッセー

 世阿弥は『花鏡』に芸の奥義をこう記した。

 当流に万能一徳の一句あり。 初心忘るべからず。この句、三ヶ条の口伝あり。是非とも初心忘るべからず。時々の初心忘るべからず。老後の初心忘るべからず。この三、よくよく口伝すべし。

 「初心不可忘」である。並(ナ)べて、「学び始めた頃の謙虚な気持ちを忘れてはならないという戒め」が字引が示す謂である。原典は細かく初心を三つに別つ。未熟期の初心、成熟期の初心、老熟期の初心。発意(ホツイ)の謙虚、後に慢心の誡め、更に晩節の求道となろうか。
 しかし愚鈍な稿者には長らく隔靴掻痒、なんとなく腑に落ちない一句であった。初々しくあれとは一体どのような心組みをいうのだろう。漠としてとりとめがない。ところが先日、一書が蒙を啓いてくれた。
 安田 登氏。そのものズバリの能楽師である。論語を始め中国古典に造詣が深く、能を軸にした身体運用を説いている。近著『能─650年続いた仕掛けとは』(新潮新書、本年9月刊)にこうあった。
 〈初心の「初」という漢字は、「衣」偏と「刀」からできており、もとの意味は「衣(布地)を刀(鋏)で裁つ」。すなわち「初」とは、まっさらな生地に、はじめて刀(鋏)を入れることを示し、「初心忘るべからず」とは「折あるごとに古い自己を裁ち切り、新たな自己として生まれ変わらなければならない、そのことを忘れるな」という意味なのです。〉
 衝撃の一言(ヒトコト)であった。領解(リョウゲ)への誘起であった。衣を裁断する。作りかえる。つまりはイノベーションである。それで解った。端(ハナ)から仕舞までイノベーションを忘れてはならない、と訓(オシエ)えているのだ。真っ新(サラ)な事始めは当たり前だ。言葉の意味通りだ。問題はその後である。小成に甘んじる、老境に妥協する。そうではなく、常に革新だ。そう世阿弥はいった。重ねて、安田氏は「生まれ変わらなければならない」とする。誤解を懼れずにいえば、かなり具象性をもった誡めといえる。心がけでは済まない。齢(ヨワイ)相応、時代即応の変化を遂げよ。そう励ましている。だからこそ「万能一徳」となり、650年の長寿を保ち得たのではないか。
 だからといって、すぐにコマーシャリズムの骨法に援用したり、「戦後レジームからの脱却」などと短絡するのは世阿弥の原意を貶める。先ずは優れて文化の言葉であり、人間に向けられた錬磨への誘(イザナイ)いなのだ。
 ともあれ、ことし最もインスパイアされたひと言であった。新年間近、着た切り雀にどう鋏を入れるか。悩ましい年の瀬だ。 □


昭和、平成、そして

2017年12月18日 | エッセー

 先日更新した免許証には期限が「平成32年」と記してある。元号表記である以上やむを得まいが、平成はあと16ヶ月で幕を閉じる。昭和はいよいよ遠景に退く。来年は昭和では93年、大正は遙か僻遠だ。
 はたして元号は時代を表徴するのだろうか。思想家・内田 樹氏は「世代的記憶」、「共同記憶」についてこう語ったことがある。
 〈一九六〇年代のはじめにリアルタイムでビートルズを聴いていた中学生なんかほとんどいなかった。にもかかわらず、ぼくたちの世代は「世代的記憶」として「ラジオから流れるビートルズのヒット曲に心ときめかせた日々」を共有しています。これはある種の「模造記憶」ですね。記憶というのは事後的に選択されるものであり、そこで選択される記憶の中には「私自身は実際には経験していないけれど、同時代の一部の人々が経験していたこと」も含まれると思うのです。含まれていいと思うのです。自分が身を以て経験していないことであっても、同世代に強い感動を残した経験であれば、それをあたかも自分の記憶のように回想することができる。その「共同記憶」の能力が人間の「共同主観的存立構造」を支えているのではないかと思うのです。〉(「東京ファイティングキッズ・リターン」から抄録)
 戦争、高度成長、バブルは「私自身は実際には経験していないけれど、同時代の一部の人々が経験していたこと」といえる。あるいは、「“先行世代”が経験していたこと」といえる。しかし「同世代に強い感動を残した経験であれば、それをあたかも自分の記憶のように回想することができる」とすれば、「強い感動を残した経験」をあたかも「“その時代”の記憶」として「回想することができる」のではないか。過去の「強い感動を残した経験」を「事後的に選択」された「模造記憶」として時代の区割りに使えるのではないか。それは附会というより、「共同主観的存立構造」に適うものといえよう。その逆はないにしても(まさか元号が時代を規定はしないが)、元号は時代を表徴し得る。「昭和」と聞いただけで「共同記憶」が喚起されるように、さて「平成」はどんな「世代記憶」を呼び起こすのだろう。昭和の二の舞だけは避けたいのだが。
 次代といえば、今年の新書ベストワンには講談社現代新書『未来の年表』を一推ししたい。拙稿では8月に同名のタイトルで取り上げた。著者河合雅司氏は人口減少を「静かなる有事」と呼ぶ。ノイジーな有事にはやってる感を装っても、音も立てずに忍び寄る有事には目をつむる、というか見もしない永田町の面々にとても未来を預けるわけにはいかないだろう。
 飛躍するようだが、酉年の仕舞に歴史を鳥瞰してみたい。
 社会の主導的、基底的価値観で時代を大括りするとどうなるか? ぶっちゃけていえば何を最優先にするのか、である。社会のモチベーションに何があるか? 『○○大事』の○○である。腰だめもいいところだが、さあお立ち会いである。
◇ヒメ・ヒコ制を抜けて古代国家の成立から江戸末期まで──上一人(カミイチニン)より下万民(シモバンミン)に至るまで、雲上人、殿上人から水呑百姓に至るまで『お家大事』の時代であった。世継ぎがいなければ婿を迎える。娘もいなければ取子取嫁。「家」の存続こそが最優先課題であった。天皇家の系譜、藤原氏の栄華、平家の盛衰、戦国、幕藩体制。すべてのリソースは「お家大事」に注がれた。日本史のほとんどは「お家大事」の時代であったといってよい。
◇明治維新から敗戦まで──「家」から『お国大事』の時代へ。日本史に日本列島と等身大の「国家」がはじめて出現した。欧米の植民地支配に対し「お国」を鎧うことで抗した時代だ。しかし緊急避難は常態と化し、やがて暴走を始め、遂に破局に至る。死を鴻毛の軽(カロ)きに比(ヒサシ)す。累々たる屍と潰滅した国土だけが残った。
◇敗戦後から平成──アメリカが乗っ込んできて「お国」は退き、『お金大事』へ。高度経済成長、エコノミック・アニマル、Japan as Number One。金権政治、やがてバブルに。だがバブルは弾けても、依然「お金大事」は続く。安全神話は潰えても、まだ懲りない面々は原発をまたしても動かそうとする。なんのことはない。「お金大事」が大手を振っているからだ。ブラック企業は若い血を吸い、大企業は安全を棚上げにしてコストを削る。少子高齢化という必然の流れ。今や独身者は大人人口の半数となり、一人暮らしは全世帯の4割となった。「お家大事」なぞ今は昔。研究者・荒川和久氏の話題を呼んだ造語「超ソロ社会」の到来である。さらに、見えてきた資本主義の終焉。パラダイムシフトが緊要なのに、旧態にしがみつく永田町。病膏肓に入るか、負債を後継世代に先送りして目先の「お金大事」に狂奔するアホノミクス。おまけに、「お国大事」に先祖返りする魂胆まで露わになってきた……。
 と、まあこんな具合である。
 『人間大事』こそ大事中の大事のはずだが、人類史上未だ実現されてはいない。これ以上の当たり前はないのに、なんだかんだと理屈をつけては後回しにされてきた。見果てぬ夢か、まぼろしか。うかうかしていると、万物の霊長の座を“ポスト・ヒューマン”(今月8日「シンギュラリティ」参照)に乗っ取られてしまう。 □


『おもかげ』

2017年12月15日 | エッセー

 あまりの符合に身が竦んだ。浅田次郎の新刊『おもかげ』はメインステージがICUなのだ。実はこのところ体調が極めて悪い。9年前と昨年のICUの悪夢再来かと怯えていたところだった。小説をこれほど身につまされて読んだことは一度もない。小説という仮想がわが身の現実とシンクロナイズする。偶然と打棄るには生々しすぎる。
 昨年12月から本年7月にかけて毎日新聞に連載された作品の単行本化である(今月5日毎日新聞出版から発刊)。
 〈忘れなければ、生きていけなかった。
 浅田文学の新たなる傑作、誕生――。
  定年の日に倒れた男の「幸福」とは。
  心揺さぶる、愛と真実の物語。
 商社マンとして定年を迎えた竹脇正一は、送別会の帰りに地下鉄の車内で倒れ、集中治療室 に運びこまれた。
  今や社長となった同期の嘆き、妻や娘婿の心配、幼なじみらの思いをよそに、竹脇の意識は 戻らない。
  一方で、竹脇本人はベッドに横たわる自分の体を横目に、奇妙な体験を重ねていた。
 やがて、自らの過去を彷徨う竹脇の目に映ったものは――。〉
 出版社のHPにはこう紹介されている。「横たわる自分の体を横目に、奇妙な体験」、ここが肝文だ。原文中にはこうある。
 〈これはいわゆる体外離脱などではなく、そうと見せかけた幻想ということになりはすまいか。異常をきたしている脳の機能か、幻覚作用のある薬品が、みごとな仮想現実を作り出しているのである。〉
 〈僕の上には、ありうべからざることが起こり続けている。
 夢や妄想の類ではない。どう考え直したところで、明らかな実体験である。だから「夢のような体験」という言い方はできるが、「リアリティーのある夢」ではない。
 たとえば僕は今、赤坂見附駅のプラットホームに立っているのだが、見えるもの聴こえるもの肌に感じるものすべてが、現実だと断言できる。
 しかし、病院の集中治療室に瀕死の僕が横たわっているのもまた事実で、いわゆるパラレルワールドが存在する、とでも考えるほかはなかった。〉
 ゴーストはこの作家の十八番(オハコ)である。ただ本作では体外離脱というスタイルを取っている。とはいうものの、綯い交ぜに綴られているゆえ同等と見ていい。再三の引用になるが、内田 樹氏の炯眼を徴したい。
 〈浅田次郎の小説も、すごく幽霊が出てくるの。その幽霊は、壁の一枚向こう側にいる。自分たちの日常の論理や、言語が通じないんだけど、非常に親しいものなんだ。それとの関わり合いを構築していくことが、人間の生きていく意味なんだ、っていう。村上春樹と浅田次郎だけだよね、作品の幽霊出現率が九割超えてる作家って。
 手触りがあって、これが現実だと僕らが思ってる現実が、本当は現実の全部じゃなくて。その周りにカッコがある。自分たちの“現実性”みたいなものを成立させている外側があるってことは、みんな知ってるの。外側には回路がある。その回路から入ったり出たりするんだけど、そこに出入りするものっていうのは、こちらの言語には回収できないし、こちらのロジックでも説明できない。でも、明らかにあるの。そのことをちゃんと書いてる人たちが、やっぱり、哲学でも文学でも、ずっとメインストリームなのよ。〉(『どんどん沈む日本をそれでも愛せますか?』より)
 「壁の一枚向こう側」がこの作品では集中治療室に横たわる「瀕死の僕」のすぐ「向こう側」であろう。「外側」にある「回路」だ。
 また、養老孟司氏は近著で「プラトンは史上最初の唯脳論者だった」(『遺言』)という。現実がイデアの「似像(ニスガタ)」だとは、イデアが脳の産物である以上その通りではないか。「異常をきたしている脳の機能か、幻覚作用のある薬品が、みごとな仮想現実を作り出している」とはその事情を指すともいえる。加えて、「パラレルワールド」はSFではなく量子力学でもその理論的可能性が論じられている。決して荒唐無稽な作り話ではない。
 つまり、『おもかげ』が描く世界は単なるドラマツルギーを超えた「外側の回路」だといい得るのではなかろうか。広辞苑を引くと、「おもかげ」とは「目先にないものが、いかにもあるように見える、そういう顔や姿や物のありさま」との謂が始めに載っている。「顔つき」は二番手だ。巧いタイトルである。
 再来年、平成は改まる。昭和、とりわけ戦後の焼け跡は遠景に退いていく。続く高度成長期。団塊の世代が生きた時代。それらが行きつ戻りつ書割のように入れ替わり舞台は回る。この小説のもうひとつの読みどころだ。舞台を回すのは地下鉄。替えがたい脇役だ。「地下鉄に乗って」を筆頭に浅田文学には地下鉄は欠かせない存在だ。今作はさらにメタファーが潜む。それも味わい深い。
 「泣かせの次郎」という。いっちょ前のすれっからしが簡単に術中に嵌まって堪るか。そう心得つつ読み進んだ。前評判にそぐわずなんてことはなかった……最終頁から3頁前までは。
 そこで、遂に泣かされてしまった。拭っても拭っても活字が霞む。ジジイがジジイに泣かされて世話はない。「泣かせの次郎」の金字塔だ。 □


喧嘩両成敗

2017年12月13日 | エッセー

 中近世のわが国には世界史上まことに珍しい処罰があった。喧嘩は理非を問わず双方とも等しく処罰する。つまり、「喧嘩両成敗」である。
 中世後半、所領の境目を巡る紛争が頻発する。世は実力社会、訴訟に拠らず実力で決着をつけようとする故戦防戦(上位者に無断で私的な闘争を仕掛け、それを防ぐ戦い)が横行した。やられたらやり返す。「目には目を、歯には歯を」という同罪刑法は洋の東西を問わない。中世の人びととて同じだ。ただその先が違った。報復をしないのはルール違反、甘受や赦しは不正とされる同罪刑法と袂を分かち、なんと両成敗としたのだ。
 報復は過剰となり、果てしない連鎖を呼ぶ。理非を問い始めれば切りがなく、時日を費消するばかりだ。なにより急を要するのは秩序維持である。内輪騒動は外敵に隙をつくることになる。ここは上位者が強圧的に即決するに如くはない。それが両成敗であった。ただ肝心なのは、故戦応戦というように“戦”闘に及んだ場合の処分である。武力解決への咎めであった。だから堪忍、我慢して穏便に振る舞った者は免罪された。現代刑法とはかけ離れた法原則であるが、中近世を生きた先達の智慧ではなかったか。
 さて、日馬富士暴行事件である。早とちりしないでいただきたい。日馬富士と貴ノ岩を「両成敗」といっているのではない。そうではなく、両方とは日馬富士と貴乃花親方である。日馬富士は文字通り暴力をふるった。相撲協会という上位者に無断で私的な闘争を仕掛けた。「故戦」である。対するに貴乃花は相撲協会をネグレクトして警察に訴えた。公権力による暴力装置で「防戦」した、といえば牽強付会か荒唐無稽か。
 なぜ稿者はこんな郢書燕説に至ったのか。事態の推移を見てほしい。大相撲界は秩序維持の対極にある。揣摩憶測が乱れ飛び、カオス同然だ。メディアスクランブルも一因ではあるが、主因は貴乃花の狷介にある。「相撲道」を金看板に古風(イニシエブリ)に学ぶと公言する割には今回の対応はまるで同罪刑法ではないか。「報復をしないのはルール違反、甘受や赦しは不正」という同罪刑法の丸写しだ。奇しくも相撲の擡頭期と重なる「喧嘩両成敗」というわが国先人の智慧にどうして考え及ばないのだろう。浅識というほかない。
 もちろん相撲協会のヘゲモニーに問題なしとはいわない。それは前々稿『憐憫の情』で述べた通りだ。臭いものに蓋をせよというのでもない。隠蔽は傷を大きくするだけだ。丸く収めるのでもない。両成敗は痛み分けもいいところだ。ましてや鉄拳制裁などは西南戦争後の陸軍に始まって未だにスポーツ界に残る悪弊である。澱を除くのは当然だ。
 愚慮を巡らせると、喧嘩両成敗は抑止力としても、いやむしろそれにこそ史的意義をもったのかもしれない。協会としても学ぶべき智慧があるはずだ。
 ついでにもう一くさり。白鵬とアンバイ君とのアナロジーについてである。
 此度(コタビ)の騒動の発端は白鵬である。日馬富士が過剰に『忖度』した。森友、加計も忖度だった。
 一相撲取りの分を弁えないインタビューでの言い種や万歳、ルール無視の物言い。行政府の分に過ぎた立法府との一元化。立憲主義を無視した独裁的手法。
 両人に鮮明な一強の驕り、増上慢。横綱にあるまじき薄汚い取り口とヤジまで飛ばす宰相としての品格のなさ。
 星勘定第一主義と数の力至上主義。
 共に密かに狙うTOKYO2020での現役晴れ舞台。
 そして、衰えない人気と支持率の復調。見栄えの良さと巧みなやってる感の演出。下支えするポピュリズム……。
 酷似といってもよかろう。双方の大向うは喜劇的にナメられている。 □


シンギュラリティ

2017年12月08日 | エッセー

 情報テクノロジーは指数関数的に変化し2029年にはコンピュータが人間の知能を超え、2045年までにはシンギュラリティを迎えると予測するのはアメリカの未来学者レイ・カーツワイル氏である。シンギュラリティ(技術的特異点)とはAIと人類が融合し、人類が生物学的思考能力を超えて新たな無限の進化過程に入る時点をいう。団塊の世代に馴染みの言葉でパラフレーズすれば、『一点突破全面展開』の“一点突破”ともいえよう。
 AIを使うといっても、ただ使うのではない。人間の体内、脳内に組み込まれるという。
 〈AIの重要なアプリケーションは、われわれの神経系つまり脳に入っていって、あたかも実際に目や耳や皮膚から情報を受け取ったかのような感覚を提供し、ヴァーチャル・リアリティー(VR=仮想現実)ないしオーグメンテッド・リアリティー(AR=拡張現実)を、脳内に構築することです。
 新皮質の最上層をクラウドにつなげる。つまりクラウドの中には、人工的な新皮質が存在することになります。これは脳の新皮質と同じ働きをしますが、ちょうど200万年前に、突然、脳の新皮質拡大が行われたのと同じように、新たな量的拡大をするわけです。〉(NHK出版新書、吉成真由美インタビュー・編「人類の未来 AI、経済、民主主義」から)
 と彼は語る。約200万年前突如サピエンスの前頭葉が拡大した。伴って頭蓋骨が郭大して出産のリスクが高まったが、それを超えてサピエンスは新皮質を拡張した。これによって言語が誕生し、アートや音楽がそれに続いた。そのいわば太古のシンギュラリティが再来するというわけだ。
 吉成氏は、
 〈人類が遺伝学、ナノテクノロジー、ロボット工学などを取り入れることで、「ホモ・サピエンス」という存在から、知能、身体能力、判断力などを飛躍的に伸ばした「ポスト・ヒューマン」という存在になっていくこの急速な流れは、もはや止められないとも言われる。〉(上掲書より)
 と述べる。本年1月の拙稿『サピエンス全史』で取り上げたユヴァル・ノア・ハラリ氏も同著で「超ホモ・サピエンス」という表現で同趣旨の論究をしている。人類は自然選択に替えて生物工学、サイボーグ工学、非有機的生命工学を駆使して新しい進化の過程に入るとし、
 〈未来のテクノロジーの持つ真の可能性は、乗り物や武器だけではなく、感情や欲望も含めて、ホモ・サピエンスそのものを変えることなのだ。
 今日、ホモ・サピエンスは、神になる寸前で、永遠の若さばかりか、創造と破壊の神聖な能力さえも手に入れかけている。〉
 と将来を展望した。
 吉成氏はポスト・ヒューマンを望見して幸福感が変わるのではないか、あるいはその問いかけ自体が無意味になるのかと自問し、テクノロジーに対し進歩の方向をコントロールするしかないのかと戸惑いを隠さない。
 一方、吉成氏はシンギュラリティへのオブジェクションも紹介している。「21世紀の世界の良心」と呼ばれるアメリカの哲学者ノーム・チョムスキー氏の洞見である。
 〈AIの業績というのは、膨大なデータとコンピュータの高速な計算力に頼ったもので、それらは、何を求めるべきかを知っている人間がデザインしたプログラムによって、ガイドされているのです。
 実際の知能の働きとはかけ離れています。やってはまずいということはないですが、ブルドーザーだってあったらまずいということはないですから。しかし、これが何かまったく新しい知能になるという見方には、まるで根拠がないと思います。
 人間の話となると、「シンギュラリティ」などと称して、まったく非理性的になってしまう。われわれは他の生物を考える場合は、非常に理性的なんだけれども、自分たちのこととなると、突如として非理性的になってしまう傾向があります。〉(「サピエンス全史」から)
 「自分たちのこととなると、突如として非理性的になってしまう」とは鋭い。なぜだろう? やはり一神教ではないか。被造物が創造主の玉座を奪わんとする。絶対の禁忌を超える蠱惑のとまどい。遂に創造の領域に歩み込もうとする罪悪のうずき。それらふたつの昂揚が綯い交ぜになって理性を押し黙らせてしまうのではないか。「創造説」の横領は神への謀反である。理性を捨てねば叶わぬことだ。
 それに比し、立つ世界が違う養老孟司氏は実に単刀直入だ。
 〈道具だったはずのコンピュータがなぜ人を置き換えるのか。コンピュータにできるようなことしか、ヒトがやらないからであろう。〉
 と近著「遺言」(新潮新書)で語る。鷲掴みにして投げ捨てるかのようだ。シンギュラリティについては、
 〈いまのわれわれが考える程度のことはすべて考え、理解してくれる。さらにその上に、現在のわれわれが理解できないことまで、ちゃんとやってくれるヒトを創ることができれば、現代人は用済みである。論理的にはこれで話はお終いである。どうするかって、それ以上考えても意味はない。あとのことは、そうして創られた神様に考えてもらえばいいからである。コンピュータの世界におけるシンギュラリティーを心配するなら、人類の全知全能を傾けて、「人神」を創った方がよほどマシではないか。〉
 末尾の啖呵はなんとも豪快だ。昨年5月の愚案『先駆的ラッダイト』に逆説的に通ずるようで意を強くする。愚稿にはこう記した。
 〈ホーキングが警告した通り、「真に知的なAIが完成することは、人類の終焉を意味する」。クライシスを回避する手立てはあるか──。
 そうだ、「創世記」だ。今のうちにAIに徹底的に学ばせる。聖典にはじまり関連文書を少なくとも「10万」点は入力し、自己学習を最低「3千万回」させる。“ディープラーニング”だ。つまり原罪を深々と刷り込んでおくのだ。AIに原罪を背負(ショ)わせる。〉

 遅ればせながら、今カズオ・イシグロを読んでいる。代表作『わたしを離さないで』で、頻りに「シンギュラリティ」が浮かんできた。もちろんクローンとは異なる。しかし、神ならぬ人を問うことは同じだ。クローンからの逆照射か、シンギュラリティという名の暁闇への照明弾か。避けては通れない。 □


憐憫の情

2017年12月04日 | エッセー

 日本相撲協会のトップは八角信芳理事長。元横綱で八角部屋の親方である。事業部長、巡業部長ほか各部の部長も元関取、親方衆が就く。片や、日本野球機構のトップは斉藤 惇コミッショナー。米国資産運用会社KKRジャパンの会長。証券畑を歩んできた名立たる実業家である。各球団社長もオーナー企業からの出向が肩を並べる。
 違いは明らかであろう。首脳陣の出自がまるで異なる。才覚はあるにせよその道とは無縁だったリタイア組が相撲協会を回している。野球機構は野球とは無縁であったが、ことマネジメントについてはプロ中のプロが取り仕切っている。平時はともかく、一旦緩急あらば歴然たる相違が表出する道理だ。
 江戸に入って相撲人気が高まり、浪人や力士自らが勧進元となって各地に相撲興行集団が生まれた。力自慢の大男たちだ。当然、集団間で争いが起こり暴力沙汰が相次いだ。幕府は相撲禁止令まで繰り出すが、人気はいや増して高まる。遂に幕府は寺社奉行の管轄下に置くことで相撲興行を認めることになる。その時の条件が相撲集団の責任体制の確立であった。「角力会所」はそれを受けた自主組織であり、力士経験者を年寄(長老というほどの謂か)と呼んで運営に当たらせた。秩序維持が最優先である。管理下に置くために幕府公認の株仲間制度を援用したといえる。これが相撲協会の淵源である。生い立ちからしてすでに手前普請なのだ。
 刻下の騒動につけ、とかく相撲協会の不手際や弱腰を批判する声がある。だがしかし、相撲はプロでも集団の切り盛りはアマ同然の連中がやっているという内情をもっと斟酌してやるべきではないか。それに力士の現役時代は短い。年寄とはいっても世間のトップ層に比してずいぶん若い。八角理事長54歳、斉藤コミッショナー78歳である。協会の理事クラスも同様だ。相撲の中でのみ育ち、いわばいきなり社会人デビューしたも同然なのだ。それこそ押し出しはよくても中身が相応しているとは限るまい。そのことにエクスキューズを与えてもいいのではないだろうか。
 ともあれ野球のようにはいかない。後援会があり谷町はいても、オーナーは依然として親方である。造りが違う。それでもなお外の風を招き入れていく方途は探るべきであろうが、大向うにも堪え情が要る。切っても切れない仲である。憐憫の情だ。大相撲は今、時代とのフリクションに喘いでいるのだから。
 囂しいわりにはついぞ聞かないイシューに触れてみた。 □


今日はこれぐらいにしといたるわ!

2017年12月02日 | エッセー

 チンピラに囲まれてボコボコにされる。
 やおら立ち上がり、
「よっしゃ、今日はこれぐらいにしといたるわ!」
 チンピラ一斉にズッコケる。

 お馴染み吉本新喜劇、池之めだかの鉄板ギャグである。
 毎度のことではあるが、某国首相は「国民の生命を守るため万を全期す」とストックフレーズを繰り返す。此度(コタビ)のNKミサイルもそうだ。先だっての選挙では、「この選挙は北朝鮮の脅威から、いかにして国民の生命と幸せな暮らしを守るのかを決める選挙です」と呼ばわった。「幸せな暮らし」と勝手に決めつけるとは、一体何を根拠に言っているのか耳を疑う。ついこないだ「保育園落ちた 日本死ね」が話題になったばかりではないか。刻下本邦が抱える「不幸せな暮らし」が「幸せな暮らし」を圧倒的に上回っていることは、真っ当な頭脳の持ち主であれば容易にかつ瞬く間に断定できる。
 それにしても、である。「国民の生命」と「暮らし」は本当に守られているのか? 
 EEZ内への落下はこれで7回に及ぶ。EEZ(排他的経済水域)とは国連海洋法条約に基づく沿岸から200海里(約370㎞)内に設定されるエリアである。その水域では海上、海中、海底及び海底下にある水産・鉱物資源と海風などによる自然エネルギーについて探査、開発、保全及び管理を独占的に行う権利がある。主権が及ぶ領海ではないものの、経済については他国の侵害を排除する権利を持つため「主権的権利」と呼ばれる。つまり、自国の漁船なら漁ができる。他国の漁船は入っても構わないが、漁をしてはいけませんということだ。だから日本の船は大手を振って魚を捕れる。現に捕っている。そこにミサイルは落ちた。これで漁民の「暮らし」は守られているといえるのか。「主権的権利」は維持されているといえるのか。7回の落下時にたまたま本邦漁船がいなかったから事なきを得たが、「国民の生命」が奪われたかもしれない。いや、「国民の生命」が危機に晒されたことは疑いない。だから、事実上「北朝鮮の脅威から」「国民の生命」と「暮らし」は守られていないのだ。それをあたかも「これから」の話にする。起こったことに蓋をして、これから起こるかもしれない話にする。これはレトリックではなくトリックではないか。池之めだかの鉄板ギャグそのものである。ボコボコにされたことは認めず、相手の捨て台詞を横取りする。「これぐらいにしといたる」はボコボコにした側のチンピラが言う言葉だ。「フクシマはアンダーコントロール」を筆頭にする某首相の詭弁と瓜二つだ。丸め込まれてはならない。Jアラートや頭を保護して頑丈な建物に避難などの対応マニュアルは危機を煽る、あるいは危機に蓋をする目眩ましだ。地下シェルターならまだしも、子供だましに過ぎない。米軍の本土上陸に備えた竹槍作戦よりもなお程度が低い。
 「わたしどもの対応ではNKの脅威から国民の生命と暮らしが守られま“せんでした”。戦略を練り直します」というべきではないのか。「圧力外交は愚策でした。何の効果もありませんでした」と認めるべきではないのか。なのに、ボコボコにされているのになおも高飛車に出る。池之めだかとまったく同等の思考回路である。ただし向こうはギャグ。こちらは本気。オー・マイ・ガアッ! だ。
 佐藤 優氏はこう述べる。
 〈反知性主義を簡単に定義するなら「実証性や客観性を軽視もしくは無視して自分が欲するように世界を理解する態度」です。新たな知識や知見、論理性、合理性、客観性、他者との関係性などを等身大に見つめる努力をして世界を理解しようとせず、自分に都合のよい物語にこだわるところに反知性主義の特徴があります。〉(「あぶない一神教」から)
 敵(カタキ)同士は互いに似てくるという。NKのボスも当方の一強さんも妙に似てくるから不思議だ。だからといって下々まで似せるわけにはいかない。
 ……といったところで、
「よっしゃ、今日はこれぐらいにしといたるわ!」 □