伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

片翼飛行(承前)

2017年08月29日 | エッセー

 橋本健神戸市議(自民党)は辞職するそうだ。“生活”費ではなく、“政活”費で追い詰められた挙句だ。同県県議会では野々村竜太郎号泣議員(無所属)がいた。彼も政活費だった。堺市では小林由佳市議(無所属)も同じく政活費で窮地に立っている。昨年夏には富山市議で自民と民進系市議合わせて10数人の政活費不正請求が発覚した。
 国会では今年、豊田真由子くん(自民党)が狂ったし、ずっと小振りながら金子恵美くん(自民党)は公用車の私的利用を突かれた。上西小百合くん(元維新の会)は相変わらずのトラブルメーカーで、大西英男くん(自民党)もこれまた同類。今度は上西くんではなく、こともあろうにヤジの標的を身内に向けてしまった。「ガン患者は働かなくていい」とは、いかなる時代認識なのか。こういう手合いのオツムはカンカラカンにちがいない。。
 冒頭のマエケンとお手々つないだ今井絵理子くん(自民党)や、“国境”を超える蛮勇を示した藤丸敏くん、中川俊直くん、去年は宮崎謙介くんもいた。
 「石川や 浜の真砂は 尽くるとも 世に盗人の 種は尽くまじ」ではないが、地方と国を問わず、議会・議員の『世に週刊誌の 種は尽くまじ』である。番度(バンタビ)マスコミは色めき立ち、取った鬼の首を誇らしげに並べる。訳知り顔のコメンテーターや芸人風情が正義面して嘆いてみせる。「議員、国会は劣化した」と──。だが、本当にそうか。
 (承前)とは、
 〈同じ無菌指向ならば、マスコミは永田町にこそ向けるべきだ。O157どころではない菌がうじょうじょいるというのに、国民には変な耐性が生まれつつある。これはきっとどこかの作為にちがいないのだが……。〉
 との前稿の締めを承けてのことだ。なるほど、「O157どころではない菌」とは前述の穀潰しどもではあるが、問題は「変な耐性」である。マスコミ、特にTVメディアの週刊誌紛いの狂騒が「変な耐性」を生み、かつそれを増強しつつあるのではないかという危惧だ。つまり議会へのアパシーを誘い評価を漸減させ、不信や諦念を醸成する恐れだ。言葉を換えれば、それは立法府の形骸化、骨抜きである。となると、得をするのはどこのどいつか。火事場の盗人はだれか。言わずと知れた行政府である。実態的な行政府の独裁である。「どこかの作為」とはそのことだ。してみれば、行政府の、有り体にいえば政権の詭計、詭謀こそ「うじょうじょいる」「O157どころではない菌」といえなくもない。
 飛行中に片っぽの翼を落としたら、残った片翼に命運を賭けるほかなくなる。かつ、マスコミはそれに浮力を与えようとする。そういう図だ。
 内田 樹氏は国会議員の劣化は明らかに意図的に作られた状況だと喝破する。今月発刊された姜 尚中氏との対談「アジア辺境論」でこう語る。
 〈独裁というのは、「法の制定者と法の執行者が同一機関である」政体のことです。要するに行政府が立法府・司法府の首根っこを抑える仕組みができていれば、形式的には三権分立でも、事実上の独裁制が成立する。ですから、独裁制をめざす行政府は、何よりもまず「国権の最高機関」である立法府の威信の低下と空洞化をめざします。単に政府与党が議会の過半数をとればいいというものではないのです。どんな重要法案でも、何時間かセレモニー的に議論しているふりをすれば、強行採決する。それを見ると、国民は「ああ、国会って、全然機能していないんだな」という印象を持つ。でも、まさにそれこそが行政府の立法府に対する優位を決定付けるためのマヌーヴァーなんです。国会の審議をメディアはさかんに「茶番だ」とか「セレモニーだ」とか「プロレスだ」とか言っていましたが、そういう言葉づかいで立法府の空洞化を批判すればするほど、結果的に立法府の威信は低下し、相対的に行政府への権限の集中が進む。〉(抄録)
 これは腑に落ちる。肺腑を衝き、脳髄を直撃する。独裁とは「法の制定者と法の執行者が同一機関である」政体だとのひと言には、腫れ上がるほど膝を打った。だから独裁と民主制は親和的だという。おや、と戸惑う見解だ。内田氏は民主制と独裁制は対立概念ではないとし、
 〈民主制というのは「主権者は誰か」についての次元の話であって、統治が「どういうかたちであるか」についての話ではありません。民主制の対立項は、王政や貴族制や帝政といったものです。主権者が国王であれば王政、国民であれば民主制。ですから、国民は主権者だが統治形態は独裁制であるということは論理的にはありうることなのです。現に、二〇世紀における代表的な独裁制は、どれも民主的手続を経て生まれました。〉(同上)
 と続ける。主権者と統治形態は次元の違う話なのだ。同列に捉えるから足許を掬われる。民主制で安心してしまって、まさか独裁はあるまいと高を括る。そこにつけ込まれる。まことに警世の慧眼である。肝に銘ずべき卓説である。
 行政府の独裁は対立法府に止まらない。実は司法にも及んでいる。気に入らない裁判官を合法裡に更迭しているのだ。14年に大飯原発運転差し止め判決、15年に高浜原発再稼働差し止めの仮決定を出した福井地裁裁判長は名古屋“家”裁に移動。直近では大阪朝鮮高級学校を高校授業料無償化制度の適用除外にした国の対応を「違法」とした大阪地裁裁判長は大阪国税不服審判所長の下役に追いやられている。遣り口が露骨だ。飛行機に準えるなら、尾翼も失った片翼飛行か。
 同書では「国力」について、姜 尚中氏が「凡百の国際政治学者が束になってかかってもひねり出せない至言」と舌を巻く鋭い考究も示されている。蓋し、甚深の哲学的叡智から導出される言説は徒や疎かにはできまい。陰湿で巧妙な独裁への足音を断じて聞き逃してはならない。
 今日、NKがミサイルを北海道越しに北太平洋に打った。稿者はずっとグアムへの発射はないと確言してきたが、そう来るとは虚を突かれた。今年4月に「首相のトンデモ発言」「トンデモ発言 続報」と題する愚稿でも述べた通り、緻密なマヌーヴァーに長けたNKが刻下一国の存亡を賭けたグアム攻撃などするはずはない。だから今日の発射はグアムの辻褄合わせだ。ただNKに言いたいのは「敵に塩を送るな!」である。アンバイ政権が喜ぶだけだ。「やっぱり私でなきゃダメでしょ」と完璧に虚仮にされておきながら、漏れない危機対応のフリをする。寝首を掻かれて危機対応もないものだ。何度も引くように、吉本の池之めだかではないか。
 片翼飛行の果てにはなにが待つか──。だからこそ、「同じ無菌指向ならば、マスコミは永田町にこそ向けるべきだ」。 □


マスコミの片手落ち

2017年08月25日 | エッセー

 またしてもO157が囂しい。冷やしキュウリではなく、今回はポテサラだという。発症者は現在12人、マスコミは連日感染源や感染ルートについて執拗に報道している。
 この手のニュースに接するたび、いつも不可解なのは非発症者に触れないことだ。災害や列車事故などの場合だと必ず生存者も被害者と同等に扱われる。なのに、なぜ食品事故では非発症者に無頓着なのだろう。今回も同じものを食した人は数百人いたはずだ。レジをチェックすればすぐ判る。原因の解明も大事ではあるが、99.数パーセントのノープロブレムがあったことにもっと目を向けるべきだ。圧倒的に多くの“平気な人たち”がいたのだ。
 原材料が汚染されていた、いや輸送過程で、もしかして調理中に、あるいは手袋に、ひょっとしたら客が分け取る時に、などなど切りがない。そんなことを言い立てた日には、とどのつまり無菌施設で野菜や家畜を育て、無菌状態で処理し、無菌で輸送し、無菌室でマジックハンドでも使って無菌操作で加工調理し、無菌ブースに陳列し、客は全身消毒の後無菌服を着て無菌の個室で喰え、ということになる。笑ってはいけない。無菌指向の果てには、そんな戯画が待っている。
 養老孟司御大の卓説を徴したい。
 〈不安であることを悪であると見なす世の中が、べつにマトモだとも思えない。不安は動物に作りつけられた性質で、それがなければ動物は安全には生きられない。ゆえに、不安は消すのが当然だという反応をするのは、じつは理性的ではない。しかし近代合理主義は、あらゆる不安を消すことをモットーとしているのである。核家族は老人を排除し、いまでは子どもすら排除する。不安を排除し、奇跡を排除し、タバコを排除する。黴菌を排除し、ゴキブリを排除し、最後に人間を排除するのは、時間の問題であろう。〉(新潮社「養老孟司の大言論」から)
 「あらゆる不安を消すことをモットー」とするとは無菌指向そのものだ。それは「べつにマトモ」ではなく「じつは理性的ではない」から、近代合理主義はついにど壺に嵌まってしまう。それが如上の戯画だ。
 さらにもう一人。内田 樹氏の高説も傾聴したい。
 〈現代人のひよわでデリケートな消化器でも耐えられる無菌で安全な食品を製造するために要するコストと、「食べられるもの」と「食べられないもの」を自力で選別できる(無理すれば「食べられないもの」でも食べてしまえる)身体を養成する教育コスト両者を比較すれば、どちらが費用対効果にすぐれているかは考えるまでもあるまい。〉(朝日新聞出版「内田 樹の大市民講座」から)
 遠藤クンのカレーCMではないが、「コスパ良すぎ!」はどっちか。“平気な人たち”の存在は示唆的だ。といって別に、埼玉・群馬両県で「自力で選別できる身体を養成する教育」がなされているわけではあるまい。「ひよわでデリケートな消化器」ではない「現代人」がまだまだ支配的に存在している事実を注視したい。捨てたものではないのだ。不衛生でいいわけではないが、非発症者にも同等のニュースバリューを措くべきではないか。
 同じ無菌指向ならば、マスコミは永田町にこそ向けるべきだ。O157どころではない菌がうじょうじょいるというのに、国民には変な耐性が生まれつつある。これはきっとどこかの作為にちがいないのだが……。 □


白目

2017年08月23日 | エッセー

 あまり知られていないことだが、意外にも白目をもつのは人間だけである。
 白眼とも書き、しらめとも読む。強膜のことで、角膜の黒目を含め眼球全体を強くガードし外光をシャットアウトする。
 白目や白い目で見ると悪意が隠(コモ)るし、白目を剥くと命に係わる。白眼視は争いの元、白眼青眼は人間の高が知れ切ってしまう。白目勝ちはそのままだが、勝ちすぎると三白眼だ。黒目が上に偏り左右と下が白目、凶相とされる。有名なのは張作霖。持って生まれた三白眼で巧妙に敵を威嚇したと、浅田次郎氏は『中原の虹』に記している。だが当今ではアニメでさかんに描かれ、好評価に転じてもいる。でもやはり睨むのは白目であるし、概して白目は分が悪い。
 「目は口ほどにものを言う」は定番の俚諺だが、はたして「ものを言う」のは黒目にちがいない。しかし、目線を決め目付きをアレンジするのは白目だ。黒目しかなければ目線なぞ生まれようもない。ならば、裏返せば本当に「ものを言う」のは白目だといえなくもない。
 こんなややこしい「進化」はなぜ起こったのか。野生の動物は視線を知られると獲物を先取りされる恐れがある。次の行動を読まれてしまう。弱肉強食の修羅道でこれは致命的だ。しかも視界は極大にしておきたい。だから白目をもたない。
 人間はどうか。先日引用したゴリラ研究のオーソリティー・京大総長の山極寿一氏はこう語る。
 〈人間の体の奥底には、互いに協力しないと安心は得られないことが刻み込まれ、社会性の根深い基礎になっています。安心は決して一人では得られません。安心をつくり出すのは、相手と対面し、見つめ合いながら、状況を判断する「共感力」です。協力したり、争ったり、慮ったりしながら、互いの思いをくみ取って信頼関係を築き、安心を得る。人間だけ白目があるのも、視線のわずかな動きをとらえ、相手の気持ちをよりつかめるように進化した結果です。〉(朝日新聞本年元旦号のインタビューから)
 人類はセキュリティを犠牲にしてコミュニケーションを採ったといえる。白目の秘密はそこにある。
 かといって、目を見て話すのがよいとは限らない。欧米ではそれが礼儀とされるが、エチオピアでは目を合わせると非礼になる。アメリカ・インディアンも同じ。かつて日本では殿様の顔すら見てはならなかった。所変われば品変わるだが、なべて「口ほどにものを言う」からかもしれない。
 さて、内田 樹氏の忘れがたい言葉に「師の視線」がある。こうだ。
 〈技芸の伝承に際しては、「師を見るな、師が見ているものを見よ」ということが言われます。弟子が「師を見ている」限り、弟子の視座は「いまの自分」の位置を動きません。「いまの自分」を基準点にして、師の技芸を解釈し、模倣することに甘んじるならば、技芸は代が下るにつれて劣化し、変形する他ないでしょう。それを防ぐためには、師その人や師の技芸ではなく、「師の視線」、「師の欲望」、「師の感動」に照準しなければなりません。師がその制作や技芸を通じて「実現しようとしていた当のもの」をただしく射程にとらえていれば、「いまの自分」から見てどれほど異他的なものであろうと、「原初の経験」は汚されることなく時代を生き抜くはずです。〉(「寝ながら学べる構造主義」から)
 師匠を見るのではなく、師匠の視線にフォーカスする。師匠が欲望し感動するもの、つまりは師匠が「実現しようとしていた当のもの」を過たず見つづける。そこに真のブレークスルーがあり、伝承がある。まことに肺腑を衝く洞察である。
 白目あればこそ視線は生まれる。それはコミュニケーションを通じた「共感力」を駆動し、ついには師弟相伝の高みへと誘(イザナ)う。ともあれ人類の進化は奥深い。 □


飛蝗男

2017年08月18日 | エッセー

 緑一色のダボダボの民族衣装。顔も頭部も緑に塗り、額からは2本の触角らしき細長い棒。背景は薄茶色の砂。ゴム草履らしきものを履いて大股に踏ん張り中腰に構える。不似合いな白い腕(カイナ)にこれまた真っ白な長い虫網をしっかと掴み、斜に構えて眼光鋭く獲物を狙う──。
 これが表紙の写真である。著者本人だ。なんとも異様な。
   バッタを倒しにアフリカへ 光文社新書、本年5月刊
 著者は前野 ウルド 浩太郎。本書の紹介によると、
 〈昆虫学者(通称:バッタ博士)。1980年秋田県生まれ。神戸大学大学院自然科学研究科博士課程修了。博士(農学)。京都大学白眉センター特定助教を経て、現在、国立研究開発法人国際農林水産業研究センター研究員。
 アフリカで大発生し、農作物を食い荒らすサバクトビバッタの防除技術の開発に従事。モーリタニアでの研究活動が認められ、現地のミドルネーム「ウルド(○○の子孫の意)」を授かる。著書に、第4回いける本大賞を受賞した『孤独なバッタが群れるとき──サバクトビバッタの相変異と大発生』(東海大学出版部)がある。〉
 とある。後段でほぼ察しが付くであろう。「本書は、人類を救うため、そして、自身の夢を叶えるために、若い博士が単身サハラ砂漠に乗り込み、バッタと大人の事情を相手に繰り広げた死闘の日々を綴った一冊である」と<まえがき>にある通りだ。若干37歳、「人類を救うため」との大志は絶賛に値する。だが、次の「自身の夢」とは子どもの頃から抱き続けた「バッタに食べられたい」との大望であったというから首を傾げてしまう。傾げたついでに一読した。
 予想をはるかに裏切るおもしろさだ。「道行けば、ロバが鳴くなり、混雑時」「一寸先はイヤミ」「ラスト・サスライ」などの洒脱なタイトルに軽妙な書きぶり。リーダブルではあるが、中身は熾烈を極める。フィールド調査といっても、なにせ炎熱の地獄・サハラ砂漠だ。命懸けである。加えて、アフリカといえども人間の社会。諸般の「大人の事情」が渦巻く。さらに自然は気まぐれ、都合よくバッタの大量発生は起こらない。思惑通りに研究成果が出せない。研究費は枯渇してくる。万策尽きて遂に無収入状態に。
 モーリタニアの現地人所長が励ましをくれる。
「いいかコータロー。つらいときは自分よりも恵まれている人を見るな。みじめな思いをするだけだ。つらいときこそ自分よりも恵まれていない人を見て、自分がいかに恵まれているかに感謝するんだ」(同書より、以下同様)
 コータローは『上を向いて歩こう』を引いて、
「上を向けば涙はこぼれないかもしれない。しかし、上を向くその目には、自分よりも恵まれている人たちや幸せそうな人たちが映る。その瞬間、己の不幸を呪い、より一層みじめな思いをすることになる。私も不幸な状況にいるが、自分より恵まれていない人は世界には大勢いる。その人たちよりも自分が先に嘆くなんて、軟弱もいいところだ。これからつらいときは、涙がこぼれてもいいから、下を向き自分の幸せを噛みしめることにしよう」
 と受ける。
「苦しいときは弱音が滲み、嘆きが漏れ、取り繕っている化けの皮がはがされて本音が丸裸になる。今回の苦境こそ、一糸まとわぬ本音を見極める絶好の機会になるはずだ。血が滲むくらいの努力じゃ足りない。血が噴き出すくらいの勢いでいくしかない」
 肚を決めたあとだ。見事な逆転劇が展開する。故郷の秋田に錦を飾り、晴れて現職を手にする。一面、ポスドク(博士課程修了後の研究者)の苦闘記、成功譚でもある。
 しかし道半ば、コータローの歩みはこれからが本番である。結びは次の言葉だ。
「こんなにも多くの人々に心配をかけ、応援してもらえる博士はそうそうおるまい。多くのご支援、ご声援は本当にありがたかった。モーリタニアの人々、日本の家族、友人、諸先輩、在モーリタニア日本大使館、嬉し恥ずかしファンの方々をはじめ多くの人たちに支えていただいた。そして、忘れてはいけない。我がバッタ研究チームのメンバーと、私を優しく包んでくれたバッタたちよ。皆々様にありったけの感謝の気持ちを表し、あとがきとする」
 感謝の言葉が実に爽やかで、胸を打つ。感謝ある限り、コータロー君は本物だ。前々稿から前稿と続き、今稿で紹介した『バッタ本』も自信を持ってお薦めできる好著といえる。
 ともあれバッタとは、まことにマニアックな話だ。となると、ゾウムシの採集・研究における第一人者である養老孟司氏に触れないわけにはいかない。氏はこう語る。
 〈実は人は放っておけば女になるという表現もできます。Y染色体が余計なことをしなければ女になると言っていい。乱暴な言い方をすると、無理をしている。だから、男のほうが「出来損ない」が多いのです。それは統計的にはっきりしています。「出来損ない」というのは偏った人、極端な人が出来ると言ってもいいでしょう。生物学的にいろいろなデータをとると、両極端の数字のところには常に男が位置しています。身長、体重、病気のかかりやすさ、何でもそうです。良く言えば男性の方が幅広いとも言えます。〉(「超バカの壁」より抄録)
 「極端な人」の極めつきは、「バッタに食べられたい」ではないか。してみると、コータロー君は男の中の男といえなくもない。飛翔する「虫」の「すめらぎ(皇)」 『飛蝗男』に喝采を送り、大成を祈りたい。 □


ゴリラに学ぶ

2017年08月12日 | エッセー

「人間は原則として、みんなで集まって食事をするでしょう。テーブルを囲むこともあれば、鍋をつつくこともあり、あるいは銘々皿にとって食べることもある。ただし、いずれの場合でも共通しているのが、みんなの顔が見える状態で食べることです」
 こういう話はゾクゾクする。確かにサルはてんでにどこかを向いて喰っている。みんなでエサを囲んでお食事なんて図はない。
 語っているのは山極寿一(ヤマギワジュイチ)氏。現 京都大学総長。霊長類学・人類学者であり、ゴリラ研究の第一人者である。お相手は元 大阪大学総長で哲学者の鷲田清一氏。書名はレヴィ・ストロースの『野生の思考』におまけをつけて、
   『都市と野生の思考』 (インターナショナル新書 今月刊)
 である。“野生の思考”を山極氏が、“都市の思考”を鷲田氏が担う。紹介にはこうある。
──哲学者とゴリラの破天荒対談。これぞ知の饗宴! 旧知のふたりが、リーダーシップのあり方、老い、家族、衣食住の起源と進化、教養の本質など、多岐にわたるテーマを熱く論じる。
 京都を舞台に、都市の思考と野生の思考をぶつけ合った対話は、人間の来し方行く末を見据える文明論となった。──
 鷲田氏によれば、山極氏はフィールド調査で「来る日も来る日もゴリラの糞を計量し、水洗いしてから、新聞紙の上に拡げ、竹べらでかき分け内容物を分析するという『糞分析』を四年間、さらにゴリラの一集団を二年間ひたすら追跡し、その間に調査した巣は三四七五」(上掲書より、以下同様)という猛者である。鷲田氏は「私利私欲は一切抜きにして、傍から見れば何の役に立つのかさっぱりわからないような研究に、どうして正月も盆もないほど必死に取り組めるんだろう、そう思わせてこそ本物です」とオマージュを贈る。対話の帰趨は、やがて教育のあり方に。鷲田氏は、
「結局、教育を投資と考えるから間違うのです。国が大学に対して行うのは投資、個人が授業料を払うのも自分に対する投資という具合にね。教育から投資という概念を外さないといけません」
 と、核心を突く。
 目次は、
   第1章 大学はジャングル
   第2章 老いと成熟を京都に学ぶ
   第3章 家と家族の進化を考える
   第4章 アートと言葉の起源を探る
   第5章 自由の根源とテリトリー
   第6章 ファッションに秘められた意味
   第7章 食の変化から社会の変化を読む
   第8章 教養の本質とは何か
   第9章 AI時代の身体性
 と並び、いずれもゾクゾクのつるべ打ちだ。別けても、人類は他の霊長類とは真反対に「食を公開にして、性を秘匿した」との論攷。一体、なぜか? それは読んでのお楽しみである。
 もう一つ。男は中年になると腹が出て頭が薄くなる。浅田次郎流にいうと「ハゲ・デブ・メガネの三重苦」である。それは、なぜか? 子どもに親近感を持たせるためだという。キューピーのようなものだ。いかめしいと寄りついてくれない。つまりは文化を孫に隔世代で伝承するためだそうだ。そういわれると対象者は未だいないもののにわかに自信が、生きる希望がふつふつと湧いてくる。山極先生、ありがとう。
 ついでにもう一つ。ファッションはオスを起源とする。オスライオンのたてがみ、オスゴリラの背中にある白い毛はオスを象徴する「変更不可能な装飾品」である。山極氏はそれを「人は変更可能なもので補った。それがボディペインティングだったり、羽飾りだったり、毛皮を着ること」だったとする。受けて、鷲田氏は
「ヨーロッパのファッションはもともと、男性が自分の地位や社会的な力を誇示するためのものだったのです。それが一九世紀の初めあたりに、女の人がファッションシーンの中心になって大転換が起こった」
 と語る。はたしてそのわけは? お後は、どうぞ本書にて……。
 衝撃の発見、甚深なる洞察、分厚い知性からの警鐘と展望。ともあれ、今年の新書ベスト3にはまちがいなく入る名著である。前後するが、冒頭で交わされるゴリラに学ぶリーダー論は震えるほど教訓に満ちている。 
 サルだって反省する。永田町には反省のふりだけするサルもいる。この際だ。ゴリラに学ぼう、人の道を。 □


「未来の年表」

2017年08月08日 | エッセー

 少子高齢化なぞ、まだ甘い。そんなものではない。実態は「“無子”高齢化」へにじり寄っている──。これには意表を突かれ、度肝を抜かれた。
 確かにそうだ。少子化と高齢化に因果関係はない。子どもが増えたからといって、年寄りが減るわけではない。それぞれが別々の要因による現象を併記しただけだ。ならば、少子高齢化の先に待ち受けるのは無子高齢化しかあるまい。さらにその先には無人化の闇が広がる。
 この一連の推移は島嶼部に顕著だという。33年後2050年には有人離島のうち1割が無人化し、他国からの違法占拠が懸念されるという。はたして海上保安庁は防御できるか。すでにもう徴候が見えるが、少子化が進み、警察、消防、自衛隊とともに海保も人員確保が難渋を極めるであろう。そのもう15年後、2065年からは本土においても外国人による不法占拠があちこちで始まる──。さて、どうする。
   「未来の年表」 講談社現代新書
 は実に刺激的だ。単なる予想ではない。政府や政府関係機関が公表した各種の膨大なデータを蒐集し、丹念に分析した結果だ。歴としたエビデンスがある。副題は「人口減少 日本でこれから起きること」。かの「増田レポート」は数値的な予測であったが、こちらは時系列に沿って生活空間に可視化している。
 著者は産経新聞社論説委員で大正大学客員教授の河合雅司氏。本年6月の発刊だが、ここにきて俄然注目を集めている。
 いくつか年表を挙げると、
a. 2020年 女性の2人に1人が50歳以上に(3年後)
b. 2024年 3人に1人が65歳以上の「超・高齢者大国」へ(7年後)
c. 2025年 ついに東京都も人口減少へ(8年後)
d. 2030年 百貨店も銀行も老人ホームも地方から消える(13年後)
e. 2039年 深刻な火葬場不足に陥る(22年後)
f. 2040年 自治体の半数が消滅の危機に(23年後)
g.  2045年 東京都民の3人に1人が高齢者に(28年後)
 a. 実は今年、女性人口に占める高齢者が3割を超えた。日本は『おばあちゃん大国』だ。
 b. 巷間「2025」年問題と呼ばれるが、正味の団塊の世代(1947~49年、昭和22~24年生まれ)が全員後期高齢者になるのは24年である。3割だ。たちまち医療や介護の費用負担がさらに深刻となる(下手をすれば窮地に)。稿者なぞ、とても肩身が狭い(生きていれば)。河合氏は「人類史上において経験したことのない『超・高齢者大国』の出現である」と語り、「25年以降もずっと続く課題である」と事は一過性ではないと警鐘を鳴らす。
 c. 数字は冷酷だ。オリンピックのお祭り騒ぎ果てて、大東京がしぼみ始める。
 d. 老人ホームは意外だが、地方の生産年齢人口が不足し地域経済力が立ち行かなくなる結果である。
 e. は悲惨だが、すでに前兆は現れている。今も1週間待ちは随所にあるし、火葬まで預かる「遺体ホテル」と呼ばれるサービスがあるという。また、都市部では霊園の不足も顕著になる。まことにハカない(儚い)。
 f.  はd. の帰結であり、g. はついに大東京までもが「超・高齢者都市」となるわけで、今年生まれた子どもたちはどんな東京を見るのだろう。
 「無子高齢化」ともう一つ、目を奪われた言葉があった。「静かなる有事」だ。<はじめに>で、河合氏は、
 〈日本が人口減少社会にあることは「常識」。だが、その実態を正確に知る人はどのくらいいるだろうか? 人口減少に関する日々の変化というのは、極めてわずか。ゆえに人々を無関心にする。だが、それこそがこの問題の真の危機、「静かなる有事」である。それを明確にしておかなければ、講ずべき適切な対策とは何なのかを判断できず、日本の行く末を変えることは叶わないはずだ。〉(抄録)
 と述べる。「講ずべき適切な対策」として、本著の後半で「10の処方箋」を提示している。いずれも傾聴すべき高見であり、発想の基盤がやはりパラダイムシフトにあることは大いに納得できる。
 〈拡大路線でやってきた従来の成功体験と訣別し、戦略的に縮むことである。日本よりも人口規模が小さくとも、豊かな国はいくつもある。〉
 「戦略的に縮む」、ここが核心だ。蓋し、今の大人世代にとって必読の好著である。特に、アホノミクスの連中こそ謹聴すべきではないか。
【いかなる世代も未来世代の生存可能性を一方的に制約する権限をもたない。】(加藤尚武)
 きょうの朝日新聞「折々のことば」で鷲田清一氏が引いたことばだ。氏はこう綴る。
 〈以前の社会では「世代間のバトンタッチ」が倫理の基調としてあった。倫理の中に未来世代の安寧を願う心持ちが強く込められていた。未来世代へのそういう配慮が、『現在』を優先する社会では背後に退くと哲学者は言う。〉
 環境に関する警句なのだが、本題にそのまま通じる。「『現在』を優先する社会」とは、目眩ましを連発するアホノミクス政権そのままではないか。「未来世代」にどう「バトンタッチ」するか。どうせ先に死ぬからと打棄(ウッチャ)っておくのか、死んでも死にきれぬと悩むのか。後生がよいのは、さて、どちらか。 □


続 夫唱婦随

2017年08月02日 | エッセー

 歴史に「もしも」はないという。本当にそうか。内田 樹氏は「『すでに起きたこと』を『まだ起きてないこと』として“かっこに入れる”想像力」を「マイナスの想像力」と呼び、
 〈歴史にもしもはないと言う人がいますが、僕はそう思わない。「もしもあのとき、あの選択肢を採っていれば」という非現実仮定に立って「もしかすると起きたかもしれないこと」を想像するというのは、今ここにある現実の意味を理解する上で、きわめて有意義なことなんです。〉(「日本戦後史論」から)
 と述べる。端っから「もしも」を外すと、そこで思考停止する。「今ここにある現実の意味を理解」する筋道は塞がれる。こむずかしい理屈ではない。「もしも生まれてこなかったら」から人生への問いかけは始まる。大多数の人が1度は経験する。
 もしも「まだ森友問題が惹起していない」とかっこに入れると、本年4月“瑞穂の國記念小學院”は開校され権力は否応なく腐敗するという「今ここにある現実の意味」は前景化しなかったであろう。芋蔓のように加計学園問題が浮上することもなかったであろうし、支持率の急落も官僚機構の忖度構造も露わになることはなかった。
 7月27日聴取のため大阪地検へ出発する際、籠池氏は
「きょうはロッキード事件で、田中角栄さんが逮捕された日ですね。縁のある日に私は出向くことになりますけど、きちんと一点の曇りなく、説明できるものは説明していきたい」
 と語った。大仰な物言いはキャラだとして、本人の意図せざる含意が汲み取れる。「金権政治」の成れの果てが前総理の逮捕だった。41年を経て、今回の逮捕劇は「一強政治」「忖度政治」の成れの果てではないか。いや、深層では『戦前志向勢力』の最初の躓きといえなくもない(稲田辞任を含め)。前者が昭和史的意味だとすれば、後者は平成史的意味を帯する。
 となると、あのキャラと言動は捨てがたい。どころか、不可欠である。衆目を集めるにはあれぐらいのインパクトは必要だ。感動や感激が叩き売られる現今においては(TVでは「深イイ話」や「スカッとジャパン」の類いが引きも切らない)、抜きん出て芝居めかねば人は振り向かぬ。即興の句でも一ひねりするのも道理だ。
 さて案の定、前稿に「悪しき夫唱婦随」との評をいただいた。しかし、「悪しき」だからこそなお「皮肉では決してない。全き真情の吐露である」と述べたのである。「良き」であれば、当たり前の話だ。なお盲従との指摘もあろうが、如上の「平成史的意味」を校量すれば怪我の功名といえる。
 臆面もなく食言するならば、「大いなる皮肉」といえなくもない。「皮肉」にコノテーションを託してみる。
 自民改憲草案の24条には現行憲法にない新たな項が追加されている。
──家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない。──
 家族のかたちが劇的に変わった事実に目をつぶって「自然」とはなんだろう。「自然」だから「尊重される」のは必然で、互助は義務だという。戦前志向の典型的な表出だ。教育勅語には「夫婦󠄁相和シ」とある。ならば、籠池夫妻の夫唱婦随こそ『戦前志向勢力』にとって格好のロールモデルではないか。縄目の恥辱をも厭わぬ夫唱婦随に彼(カ)の勢力から憐憫の声は聞こえてこない。なんと情(ジョウ)のないことか。
 籠池夫妻の逮捕は詐欺容疑である。だが、それは決して本丸ではない。本丸は大阪地検が受理しているもう一つの告発、財務省近畿財務局職員らの背任容疑である。これこそが本丸だ。外してはならない画竜点睛だ。アンバイ夫婦の『不肖不随』(前稿)をどう炙り出すかだ。
 あすは内閣改造。決して当たってほしくない予想だが、小泉の進ちゃんをサプライズ人事で抜擢するかもしれない。でもそんな目眩ましに騙されてはならない。「もしかすると起き」なかった「かもしれないこと」を「想像するするというのは、今ここにある現実の意味を理解する上で、きわめて有意義」だとの洞見を噛み締めたい。「もしも」夫妻の存在がなかったらとの問いかけを忘れてはなるまい。その意味で、一強の揺らぎを誘った籠池夫妻の夫唱婦随を多としたい。加計問題も含め、安手の幕引きを断じて赦してはならない。 □