伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

今年の一推し

2020年10月31日 | エッセー

 帯にはこうある。
 〈作家40年、初の読書論! 
 読書にまつわるあたりまえを疑って、いま、本当に必要な「読む力」を見につける
 あなたの、その「読み方」、いつ習いました? 
  誰もが学校で教わった「文章の読み方」。でも、それでは読めない」ものがある? 
  小説、エッセイ、ノンフィクション──。
  高橋源一郎が好きな作品を一緒に読みながら、「読むきほん」を学び直す、大人のための授業。〉
 
   高橋源一郎
    「読む」って、どんなこと?
    NHK出版 2020年7月刊

 ハウツー物ではない。そんなものをこの作家が書くわけがない。屈折、いや苦節40年にして世に放つリーディング・リテラシー教本、いわば読書に先立つ読書、メタ読書である。
 〈問題山積みの文章だけが、「危険!近づくな!」と標識が出ているような文章だけが、それを「読む」読者、つまり、わたしやあなたたちを変える力を持っている、わたしは、そう考えています。そして、残念なことですが、「学校で教える文章」には、そういうものは、ほとんど出てこないのです。その理由? 簡単ですよね。それを「読む」読者、つまり、わたしやあなたたちを変えてしまうような力を持った「文章」は、教室に置いてはいけないからです。だって、「変わって」しまった生徒たちは、どうなるか。みんな、「そこ」にはいられなくなる。だって、もう「変わって」しまったのだから。なにもかもちがって見えるし、なんだか落ち着かないはずです。だとするなら、彼らはどうするでしょうか。教室の「外」へ出て、なにか新しいものを発見しようとするに決まっているからです。〉
 主意はこれに尽きる。蘇るのは、養老孟司氏の次の言葉だ。
 〈あくまでも読書は自分で考える材料にすぎないと考えています。つまり本は結論を書いているものではなく、自分で結論に辿り着くための道具です。私自身は本について、「本屋さんとは、精神科の待合室みたいなものだ。大勢の人(著者たち)が訴えを抱えて並んでいる」と思っています。〉(「養老訓」から)
 「精神科の待合室」とは言い得て妙だ。「本は読んでも本に読まれるな」という。清水幾太郎が遺した言葉だ。ショーペンハウエルの著作から着想したそうだ。ショーペンハウエルはいう。
 「自分の思想を持ちたくないなら、その最も安全で確実な方法は、暇さえあれば本を読むことである」
 「書物から読み取った他人の思想は、他人の食い残し、他人の脱ぎ捨てた古着に過ぎぬ。」「読書というのは、他人に考えて貰うことである」
 「暇さえあれば直ぐに本に向うという生活を続けて行くと、精神は不具廃疾になる」
 養老氏よりもっと強烈だ。
 いずれもこの一推し本に通底する。
  「好きな作品を一緒に読みながら」が効いている。なにせオノ・ヨーコの奇怪な一文が紹介されて釘付け。さらにAV女優が登場し、「え! えぇー! えーーー! えーーー?」と打ちのめされる。加えて坂口安吾、武田泰淳と、グルーヴの只中へ。これらがとば口で引用された小学校一年生国語教科書「あたらしいこくご 一 上」の『てびき』15項目と対比しつつ繙かれていく。実に圧巻だ。
 今し、読書週間である。まずは、メタ読書から始めてみてはいかがであろう。 □


どこの国の話?

2020年10月30日 | エッセー

 今年のノーベル平和賞は国連機関WFP(世界食糧計画)に決まった。コロナ禍での活躍もあり、納得できる選択だ。中東イエメンでは3人に1人、1000万人近くが深刻な食糧不足にあり、200万人が暮らすパレスチナ・ガザ地区でも7割が同様な状態にあるという。別けても子どもだ。5年前の統計によると、15歳未満の子どもが世界で19.2億人。その内、極度の貧困下にいる子どもが3.8億人、19.8%に当たる。戦争・紛争地、発展途上国、自然災害が散在する世界では肯んじ得ずとも納得はできる。まあ、世界は広いしそれもありかとつい高を括ってしまう。
 ところがである。この足元、本邦日本国において子どもの貧困率がなんと13.5%にも達しているのだ(18年現在、17歳以下)。7人に1人が食うに食えない状態にある。しつこいようだが、GDP世界第3位のこの国でだ。さらに1人親世帯では48.1%と一気に跳ね上がる。
 相対的貧困率という指標がある。世帯の可処分所得を人数の平方根で割って調整した所得を貧困線(中央値の半分)とし、それに満たない人数の割合である。可処分所得とは、所得から所得・住民・固定資産税、社会保険料を差し引いたものをいう。18年で貧困線が127万円、これ以下で生活している相対的貧困率は15.4%である。アンケートを採ると、母子家庭では42%が「大変苦しい」と応えている。
 世界でみると15年時点で、日本の相対的貧困率はOECD(経済協力開発機構)36カ国中28位。世界最大の債権国で個人金融資産規模も世界一。山間地を分け入っても舗装が尽きないほどインフラが整備されたこの国でだ。
 相対的貧困率、子どもの貧困率ともに世界の遥か下流にある。だから、「どこの国の話?」となる。
 大雑把に括ると、中間層が細り社会の二分化・階層化が進んだことが理由だ。しかも貧困層の子どもは教育機会を奪われる傾向が強く貧困層の連鎖が起こっている。これはもう人権問題でもある。
 実は話はこれで終わらない。もっともっと惨い現実がある。国債1000兆円、これだ。関空の建設費が1兆円。全国に関空が1000カ所できる計算だ。それでも、国債とは国が国民から借りる借財であって国民は貸し方である。心配することはない。などと、与太を飛ばす輩がいるが、とんでもない勘違いだ。たしかに今この国に住まう現役世代ではないかもしれぬが、将来の国民、つまりは子供や孫、ひ孫に玄孫その次と未来世代からの借金である。てめーの退職金は全部前借りしてもうない。万策尽きて、将来世代の財布に手を突っ込む。彼らの給料を差し押さえる。社会保障費も奪い取る。まだ生まれてもいない世代を含め、ものが言えない後継世代に親やジジババがこんな理不尽を強いているのだ。これを児童虐待といわずしてなんとする。孫がいる者は目の前にそのいたいけない幼子(オサナゴ)を置いて見てほしい。年金支給日にオモチャを買って片がつく話ではない。相続放棄が叶わぬ借銭を寄って集(タカ)って遺そうとしているのだ。かつてのサラ金地獄さながらではないか。アホノミクスはこれを国家規模でゴリ押ししたものだ。愚慮、愚挙といわざるを得ない。別名、財政ファイナンスという。近ごろではこれをMMTなどと小洒落て言うがなんのことはない、トンデモ経済学、マッドエコノミクスの類いだ(昨年4月の拙稿で触れた)。今年度予算102.7兆円のうち32.6兆円、3分の1は国債で賄われている。今般のコロナ対策30兆円もすべて国債だ。なんだかなーである。
 せめて大人が成し得るものは永田町や霞ヶ関に巣くう政治屋や胥吏には期待できないグランドデザインを引くこと、もしくはその端緒を開くことではあるまいか。新しい生活様式などというお為ごかしではなく、定常経済へのパラダイムシフだ。「どこの国の話?」ではない。世界でも恥ずかしいほど多くの子どもを貧困に喘がせているこの国の話だ。国家百年の大計とは、詰まるところ子どもに夢ある未来を遺すに如くは無い。借金まみれの夢無き未来では死んでも死にきれない。 □


悪風、已まず

2020年10月28日 | エッセー

 大阪府池田市の市長が市長室付近に簡易サウナを設え、3日と空けず使っていたそうだ。自転車型運動器具も置いていたらしい。腰椎椎間板ヘルニアのリハビリのためだったという。同市は人口10万余、昨年大阪維新の会から立候補し初当選した44歳の市長である。「猛省し、撤去。電気代は払う」と神妙に頭を下げたと報じられている。
 内田 樹氏はかつてこう語った。
 〈官吏や政治家は「市民」ではない。市民の人権を保護する規則は彼らには適用されない。官吏や政治家は他人の私権を制限する権能を持たされているのである。他人の私権を制限する権利を持つものに、他の市民と同じ私権を認めるわけにはゆかないではないか。〉(「期間限定の思想」から抄録)
 自民に劣らず、維新の会には失言をしたり、顰蹙を買ったり、不祥事を起こす議員が後を絶たない。どこかに重大な欠陥を内包しているとしか考えられない。確かなことは「他の市民と同じ私権を認めるわけにはゆかない」という規矩準縄以前の弁えが欠落しいることは確かだ。だって、そうではないか。レフェリーがボールを蹴ったのでは身も蓋もない。
 ところが世にはもっと悪玉がいて、レフェリーそのものを取っ替えて意のままに試合を運ぼうと企むから始末に負えない。法制局長官を差し替え、検察庁人事に介入し、学術会議を壟断する。海の向こうの大統領と瓜二つだ。共通するのは行政権による立法・司法権の隷属化、つまりは独裁である。だから、司法権に属する政治家や官吏は従順で無能なほどいい。彼らが世の批判を浴びれば浴びるほど、行政権なかんずく官邸の権威を高からしめてくれるのだ。それを日本政治史上に拭いがたい汚点、目を覆う汚物として残したのが前政権である。件(クダン)の市長なぞはその悪弊の感染者である。美風は容易に吹き渡らず、悪風は難なく世を席巻する。
 桜を見る会を私物化し、市長室を私物化する。軽重はあれど、悪風已まず。
 昭和史に造詣が深い作家・評論家の保阪正康氏が近著で示唆に富む一文を綴っている。
 〈二・二六事件の折りに青年将校に襲われた新聞社が幾つかあるが、このとき主事、編集局長クラスが応対に出たのは朝日新聞東京本社だけだった。あとはたいていが庶務部門の責任者だったのに、朝日では緒方竹虎がいきりたつ青年将校の前に出た。毅然として応じ、受け入れられない要求をはねのけた。作家の三好徹は、緒方はその後の時局の推移を読み、いずれ本格的な戦争になるだろうと見て、戦争に敗れたあと戦意昂揚の役割を演じさせられた新聞は責任をとることが要求されるだろう、そのときに責任をとるのは自分一人で……と考えていたと証言している。こういう人物を肚の据わったというのだろう、「良心」といいかえてもいいと三好は分析している。〉(「昭和史の本質」から)
 のち緒方は戦中、情報部門の閣僚に転身し戦争推進に加担することになる。戦後はA級戦犯容疑者指名、公職追放、4年後解除と苦難が続く中政界に復帰し、吉田茂の後を襲って自由党総裁に。さらに保守合同へとヘゲモニーを取っていく。だが、合同ひと月余にして急逝した。「時局の推移を読み」、「戦争に敗れたあと」の責任の所在まで射程に入れる。並みな人物ではない。
 悪風に軽々となびく腰軽ばかりが群棲する政官に、緒方のごとき「肚の据わった」偉材を見出しがたい不運と先行世代としての怠慢に恥じ入るばかりだ。 □


ジェンダー・マイノリティ

2020年10月22日 | エッセー

 平沢勝栄は国が潰れると言い、白石正輝は足立区が滅ぶと言い、杉田水脈は生産性がないと言った。電通の調査ではLGBTの人口比は7・6パーセントだという。彼らにとって900万余の日本人はすでに捨象されているのか。となると家族観や社会観のはるか手前、彼らの人間観は癒やし難く歪んでいると断ずるほかない。ホロコーストにも通底する狂気の徒輩だ。
 養老孟司氏の洞見を徴しよう。
 〈実は人は放っておけば女になるという表現もできます。Y染色体が余計なことをしなければ女になると言っていい。本来は女のままで十分やっていけるところにY染色体を投じて邪魔をしている。だから、男のほうが「出来損ない」が多いのです。それは統計的にはっきりしています。「出来損ない」というのは偏った人、極端な人が出来ると言ってもいいでしょう。いろいろなデータをとると、両極端の数字のところには常に男が位置しています。身長、体重、病気のかかりやすさ、何でもそうです。たとえば畸形児のような形で出産直後に死んでしまう子も男の方が多い。一方で女性のほうが安定した形になる、バランスがいいということです。極端な社会的行動も男が多い。異常犯罪は男のほうが多いし、暴力犯罪にしても男が女の十倍です。運動では男性の記録が勝る。これも極端だからです。
 生物学的にいうと女のほうが強い。強いということは、より現実に適応しているということです。それが一番歴然とあらわれるのは平均寿命です。身体が屈強なはずの男よりも女の方が長持ちします。現実に適応しているからです。現実に適応しているということは、無駄なことを好まないということです。コレクターというのはそもそも基本的に男の世界です。余計なものを集めるのは男が圧倒的に多い。女性の頑固さというのは生物学的な安定性に基づいているのではないでしょうか。システム的な安定性を持っていると言ってもいい。〉(「超バカの壁」から抄録)
 「出来損ない」と「現実に適応」、「両極端」と「安定」。これら属性の絶妙な按配によって生物、とりわけヒトは生き残ってきた。「出来損ない」ゆえに未踏の地に挑んだし、「現実に適応」したゆえに集団は安定した。牽強付会すれば、属性の振れ幅の大きさゆえにヒトは遂にヒエラルキーの頂点に達したといえる。つまり、LGBTとはそのワイドな振れ幅を象徴するものだ。言い方を変えれば、文化的多様性が生物的次元ですでに内包されていたのだ。でなければ、あらゆる文化的営為の多様性は生まれてはいない。男が女に、女が男に同期できずに芸術は成立するであろうか。多様性を複雑化と置換すれば、複雑化の原初的形態である。ぶっちゃけて言えば、なんでもありーので構えなければなんでもありーのの現実に対応できない。括れば、性別の後にLGBTがあるのではなく、性別の前にそれはあった。性別が崩れて生起したのではなく、性別が星雲状態のさまをいう。とはいっても、上記の徒輩にはまったく理解が及ばぬであろう。だって、「出来損ない」なのだから(杉田水脈は文字通りのそれだ)。連中が呪文のように唱える「生産性」。そのアンチテーゼとして似ぬ京物語を呈してみた。
 物語といえば、寝物語もある。戦場へ奥方を帯同できない武士の制約から稚児小姓を侍らせる武士の風儀が生まれた。成り上がりの秀吉にはその慣習がない。ある時、側近が気を利かせて小姓を同衾させた。夜が明け、側近が稚児に「殿はいかがであったか」と尋ねる。すると、殿は開口一番「そちに姉はおるか」とお聞きなり、そのまま打っ遣られたと。秀吉は飛んだ無粋であったというわけだ。
 もう一つ。馬鹿の一つ覚え「生産性」は、市場原理主義の成れの果てだ。要は金になるかどうかがすべて、ならぬものは不要という妄念である。それだから、人権まで考えが及ばない。朝三暮四という長いスパンに思考が及ばず、朝四暮三の短絡に搦め捕られてしまう。まるでサル並だ。ディグニティーに悖る話である。
 ユヴァル・ノア・ハラリは語る。
 〈「生物学的作用は可能にし、文化は禁じる」というのが、有用な経験則だ。生物学的作用は非常に広範な可能性のスペクトルを喜んで許容する。人々に一部の可能性を実現させることを強い、別の可能性を禁じるのは文化だ。生物学的作用は男性どうしがセックスを楽しむことを可能にする。一部の文化は男性がこの可能性を実現することを禁じる。文化は、不自然なことだけを禁じると主張する傾向にある。だが生物学の視点に立つと、不自然なものなどない。可能なことは何であれ、そもそも自然でもあるのだ。自然の法則に反する、真に不自然な行動などというものは存在しえないから、禁じる必要はない。実際には、「自然な」と「不自然な」という私たちの概念は、生物学からではなくキリスト教神学に由来する。「自然な」という言葉の神学的意味は、「自然を創造した神の意図に一致した」ということだ。〉(「サピエンス全史」から抄録)
 「一部の文化は男性がこの可能性を実現することを禁じる」典型がナチスだ。同性愛を不道徳と決めつけ、排斥は強制収容所への収容にまで及んだ。国家のために戦う勇猛な兵士たり得ず、優秀なるアーリア人の子孫を残せない国賊であると。冒頭に記した「ホロコーストにも通底する狂気」とはこのことだ。かつて差別が人類の向上に資した例を知らない。
 国を潰し、自治体を亡ぼし、生産性を奪うのは誰か。彼らの無知と邪念こそ赦してはなるまい。 □


憲法前文の輝き

2020年10月19日 | エッセー

 日本国民は、常に平和を念願し、人間相互の関係を支配する高遠な理想を深く自覚するものであつて、我らの安全と生存をあげて、平和を愛する世界の諸国民の公正と信義に委ねようと決意した。 我らは、平和を維持し、専制と隷従と圧迫と偏狭を地上から永遠に払拭しようと努めてゐる国際社会に伍して、名誉ある地位を占めたいものと思ふ。

 その人は、この言の葉の群れに戦後を生きる真摯な決意が輝いているという。それは国境を超える脱国家、脱国民、すなわちグローバル時代を高々と見据えたヴィジョンだ。
 地が果てるところ、北西アフリカの沿岸にあったノン岬をポルトガルのエンリケ王子が遣わした探検隊が踏破したのは1434年であった。その先にはなにもないとの迷信は打ち破られ、「大航海時代」が幕を開けた。第1次グローバル化だ。
 イギリスの技術士ジェームズ・ワットが蒸気機関に鮮やかなイノベーションを起こしたのが1769年であった。人類が手にしたこの新しいエネルギーは瞬く間に欧州を席捲し、社会構造を劇的に変えた。「産業革命」という名の第2次グローバル化だった。
 情報通信・交通が想像を絶する発達を遂げ、ヒト・モノ・カネが世界中を駆け巡る。第3次グローバル化は20世紀の末葉に産声を上げた。その語の正確な意味でのグローバリゼーション、地球時代が到来した。
 前文が遥か半世紀後を前提としていることに改めて驚く。

第1条 締約国は、国際紛争解決のために戦争に訴えることを非難し、かつ、その相互の関係において国家政策の手段として戦争を放棄することを、その各々の人民の名において厳粛に宣言する。 
第2条 締約国は、相互間に発生する紛争又は衝突の処理又は解決を、その性質または原因の如何を問わず、平和的手段以外で求めないことを約束する。

 1928年、第一次世界大戦後10年を経て結ばれた「パリ不戦条約」である。前文との見事な一致に粛然とする。十幾星霜を越え、欧州から極東に舞台を移して、人類知の結晶は成った。だから押しつけというなら、人類によるそれだ。これ以上の光栄がどこにあろうか。これを凌ぐ高邁とは何であろうか。
 その人は前文の「諸国民」に拍手を贈る。呼びかけるのは「諸国家」ではなく、共に地球に生を受け、老い、病み、苦しみ、喜び、そして死にゆく「人」、国家という鎧ではなくその中に息づく「人」である。何の違いがあるものか。だから「諸国民の公正と信義」に信頼が置けるのだという。
 〈その信頼に基づいて、我が身の安全、それどころか生存までも、相手に委ねてしまうというのです。何たる勇気、何たる良識でしょうか。〉
 その人はこの決意は「驚異的」だと称賛を惜しまない。最強の勇気は最深の良識、つまりは人間知に発するにちがいない。亡国の奈落から顔を上げ体を起こし、再び両の足で大地を踏みしめた時、この身以外すべてを失ったわれらが先達に原初の共存に生きるほかの選択肢があったろうか。生き延びるには捨て身で群れるしかないのだ。それを前宰相は「いじましく、みっともない」ことだと罵った。それは虚勢と怯懦、夜郎自大の裏返しでしかない。彼は人類が群れることで生き延びてきた史実を知らないのであろうか。義務教育が授ける極めてプリミティブな知識なのに。
 〈相手が善き人びとであるという全幅の信頼に基づいて生きていく。そのことこそ、安全と生存を保持するための切り札だ。そう宣言しているのです。実に崇高な理念です。このような決意の下に運営される国家は、間違いなく、国境を超えることができます。〉
 「国境を超える」21世紀──。
 〈脱国民化し、国境を超えて手をつなぎ合う。確かに難問です。ですが、実は、我々の手元には、この難問を解くための完璧な手引き書があるのです。超国境型国家たるための完全なマニュアルが存在するのです。それが日本国憲法です。特に、その前文です。これほど、今日的なメッセージはないでしょう。これほど、一国主義を全否定した宣言はありません。これほど、破グローバルを徹底糾弾する言葉はありません。〉
 陽光の如く目を差す憲法前文の輝き。だが、決して盲いさせはしない。その輝きは世界の暗闇を切り裂く暁光だ。そうその人は言い切った。
 その人とは「われらが先達」であり、今を生きる「日本国民」でもある。いや、違う。健忘症のこのわたし自身であらねばならない。

※文中「その人」とあるのは、直接的には経済学者浜 矩子氏を指す。引用は近著「『共に生きる』ための経済学」(平凡社、先月刊)から抄録した。 □


ちいさい秋

2020年10月15日 | エッセー

 サトウハチローがみつけたのはちいさい秋だった。微かなもずの声に、わずかな隙から忍び込む風に、煤けた風見鶏のとさかに掛かったはぜの葉ひとつに。
 オリンピックの二年前、サトウハチローは大きな四季が容赦なく刈り取られていく醜態を見詰めていたにちがいない。焦りに身を捩っていただろう。だからこそ、ちいさい秋をみつける感性を呼び覚まそうと言の葉に望みを託した。そう推したい。
 してみれば、贈られた童謡賞は的外れであったか。さらには平安の歌人(ウタビト)よろしく、風の音に秋の到来を聴く叙情とも遠い。「誰かさん」は作者自身でありながら、瞭らかに誰かに訴えかけている。野山を覆って燃えあがる紅葉、潤沢な海山の稔り、炎暑を越した人心の充溢。そのような錦秋が小さいはずはない。では、予兆か。だが、それらしい措辞は凡愚の目には見えない。
 歌意は「ちいさい秋」という形容矛盾に潜む。アンビヴァレンスの煩悶を担うのは大人だ。眼前に拓けた大きな秋。でも、ちいさい秋さえ掬し得ない柄杓では堪能はできない。ならば、大人の童謡。そう読みたい。
 牽強付会と斥けられるのは覚悟の前だ。しかし、それこそが韻文の手柄ではないか。

 再びのオリンピック。半世紀を経てオリンピックは回帰しても、首都は四季を駆逐し無慚に乾ききった姿を晒している。東京タワーはスカイツリーにモニュメントの座を譲り、曇を串刺しにしてもなお届かないスカイに爪先立っている。大都市に闖入したトリックスターのように。
 見えない疫病の影は人心を否応なく蝕んでいく。大きな秋は観光地の見世物に身を窶し、土産物として叩き売られている。ちいさい秋なぞ出る幕もない。
 「誰かさん」は電子の網を駆け回る不特定で無数のアバターにすり替わった。つまりは誰もがいるようで、誰もいなくなった。
 サトウハチローから十年目、泉谷しげるは「季節のない街に生まれ」と身を託った。それでもまだ、身をつつむ「秋の枯葉」はプロムナードを覆っていたし、「今日ですべてがはじまるさ」と逆立(ギャクリツ)した希望を抱くことはできた。
 今、希望はないのか。ちいさい秋は後景に退いたままか。いや、絶望はよそう。それは人為への敗北宣言だ。もう一度ちいさい秋を手繰り寄せよう。そう、「めかくし鬼さん 手のなる方へ」だ。枯葉のさざめきが手を鳴らしている方へ。「誰かさん」は他ならぬわたし自身であろう。そう心したい。
 うら寂しいメロディーに気を逸らされてはなるまい。この歌が背負う荷は重いが、ちいさい秋が跳ね返せないほどではない。そう信じたい。 □


ジジイにも言わせてやれ

2020年10月12日 | エッセー

 世はブーイング一色である。
 〈池袋暴走、無罪を主張 初公判、89歳被告「車に異常」
 東京・池袋で昨年4月、乗用車で母子を死亡させ9人に重軽傷を負わせたとして、自動車運転死傷処罰法違反(過失運転致死傷)の罪に問われた旧通産省工業技術院元院長・飯塚幸三被告(89)の初公判が8日、東京地裁であった。飯塚被告は「アクセルを踏み続けたことはないと記憶している。車に何らかの異常が生じ暴走した」と起訴内容を否定。弁護人は「過失はない」と無罪を主張した。〉(10月9日付朝日から)
 リンチや集団リンチを防ぐために司法制度は生まれたともいえる。横行するとルサンチマンの連鎖で集団は瓦解する。言葉は時代めくが江戸時代の「仇討ち」も厳格に制度化された幕府公認の処罰であった。親の敵ならよいが、子の敵は認められなかった。恨みっこなしが原則で、返り討ちにあった討ち手側、仇人側双方ともさらなる仇討ちは許されなかった。連鎖は厳禁だった。意趣返しの制度化である。世を挙げてのブーイングに司法制度への原初的認識が揺らいでいるのではないかと危惧してしまう。
 古代バビロニアの「ハンムラビ法典」にある「目には目を歯には歯を」とは酷い印象があるが、重要な法原理である。「目には」歯を以て報じてはならない。「歯にも」同様。歯を折った相手の腕を切り落としてはいけない。刑罰は同等でなければならないとするものだ。実はもう一つ意味があって、殴られて殴り返さないのはルール違反となる。殴り返さないように強いるのも不正である。罪はキッチリ裁かねばならない。でなければ、集団は潰える。前段の制度化を補強する原則でもある。だから、半沢直樹の『倍返し』はおかしい。あんなものが人気を博する世の風潮が怖くはないか。件(クダン)のブーイングに『倍返し』指向を捉えるのは穿ち過ぎか。
 「十人の犯人を逃がすとも、一人の無辜を罰するなかれ」といい、さらに「疑わしきは被告人の利益に」という。なぜか。人が人を裁くことへの謙虚を訓(オシ)えている。加えて権力の恣意を誡め、その行使は抑制的であることを求めているのだ。ジョン・ロックに始まる人権思想はトマス・ホッブズのリヴァイアサンへの手枷であり足枷である。権力への盾が人権だ。当然、法体系もその運用も軸足は人権に措く。ところが、恣意の極みである「国策捜査」はいまだに絶えない。
 「軸足は人権に措く」典型がデュープロセスである。法の正しい手続きを踏まなければ罰せられないとするレギュレーションである。立証に瑕疵があれば無罪となる卓袱台返しだ。事件があったことは明らかなのに現場の採寸をしたり、事細かに記録を取るのはデュープロセスのためである。これも推定無罪原則から生まれた規律といえる。多勢に振り回されない人権感覚の涵養こそ肝要(ダジャレ、失礼)であろう。
 無罪主張は裁判の引き延ばしを図り、逃げ切りを企図するものだとの見方もある。案外当たっているかもしれないが、それも法廷闘争のタクティクスとして許容の範囲にある。
 以上の論旨を踏まえれば、あのじいさんが無罪を主張するのは法原則に適い、決して責められるべきものではない。なのにTVメディアに登場する法律家でさえ付和雷同、法原則に触れたコメントは聞かない。だから、ジジイにも言わせてやれ、だ。 
 「上級国民だから扱いを優遇されている」とのブーイングもある。これも疑問符がつく。市場主義の成れの果て、向上心を伴う嫉妬・ジェラシーではなく、優位者を引きずり下ろそうとする嫉妬・エンビーの臭いが強くするからだ。同時に、そう推察させる検察も問題だ。民情への無知のなさか。方法はいくらでもあろうに、まことにセンスに欠ける。穿てば、起訴猶予へ持っていく瀬踏みともとれるが……。
 高齢者運転への社会的対応も切迫したイシューだが、今稿のモチーフからは遠いので割愛する。
 お前の与太には被害者への同情が欠片もないとの痛罵を浴びそうだが、そのメンタリティーが集団リンチのそれに踵を接するがゆえに敢えて愚案を呈した。「シャラップ!」と言えるのは唯一被害者親族であることは百も承知だ。終わりにもう一回。
「ジジイにも言わせてやれ」 □


子どもの笑顔が減った!?

2020年10月07日 | エッセー

 マスクの一つ確かな効用は、口や鼻のウイルスの入口に直接手で触れるのを防ぐことだ。ところが、一つの確かな効果が一つの確かな逆効果を生んでいる。「保育園から笑顔が消えた!」 、そうAERAは伝える。
 〈コロナ禍で子どもたちに異変 
 「あーん」に反応できない、「あーん」ができない、笑顔が減った、反応が薄い……。続くコロナ禍で、保育現場で子どもたちに異変が起こっている。感染予防対策で大人たちが着けているマスクで、表情がわからないことが背景にある。
 「聞いていないのかな」横浜市内の保育園の園長は、最近、1、2歳の子どもと接しているとき、子どもが無表情のままなのが気にかかっている。コロナ禍になって、乳幼児の様子が少し変わってきた。毎日、子どもと向き合って声をかける。そんな時、子どもがぽかーんとしていることがあるのだ。以前なら、反省したり、笑顔を見せてくれたりしていたのに。「心に響いていないんじゃないかと思うときがあります。いまは私たちがマスクを着けていて顔の半分が隠れているからかもしれません。保育士は、エネルギッシュな子どもたちをまとめて、引き付ける技を持っています。マスクを着けていると、その力も半減します」と。
 東京目黒区では複数の園長から、「先生がマスクをしていると、怒っている、喜んでいるという感情が子どもに伝わらなくて心配だ」との意見。東京文京区の小児科クリニック院長も乳児への影響を実感している。「笑わない赤ちゃん、静かな赤ちゃんがコロナ禍に増えたと思います。」 〉(10月5日号から抄録。抱っこや友だちごっこなど接触せざるを得ない保育内容についての記述は割愛した。)
 代替手段としてフェイスシールドやマウスシールドが提案されている。永劫に続くわけでもあるまいが、450万年の歴史がある保育が「新しい生活様式」に包摂される同調圧力は「なんだかなー」である。なお、450万年の保育史については8月に、「同調圧力」については4月の「コロナの空騒ぎ」他に愚案を呵した。さらに、「なんだかなー」の阿藤快氏は、残念なことに先月「心臓病になるように進化?!」に記した通りの軌跡だった。
 まさかなのだが、マスクをしていてもAIを使った顔認証システムを使うと認識精度99.8%だという。サングラスも帽子もOK。ディープラーニング、畏るべしである。この畏るは容易に怖るに転ずる。監視社会は管理社会へと直結する。先陣を争う中韓を見よ、だ。マスクではなくてサングラスでも息苦しくなる。さぞお疲れであろう。
 同調圧力もさることながら、マスク着用を日本人が存外に抵抗なく受け入れたのは近年いや増す無菌指向があるのではなかろうか。とはいっても、消化管の中には120兆から180兆個の腸内細菌が棲み着いている。たとえ身体の外側を無菌に保っても、120兆を超える内側の細菌はどうする。消化管を切り取るか。元気であれば命は要らないとでも言うか。そんなバカな。どだい無菌指向は無理なのだ。清濁併せ呑んで共存していくほかない。現にそうしてきた。それを今さら無菌ならぬ『無ウイルス』でいけとは、そんなご無体な。
 6日に国交省が発表した全国1万3千人を対象にしたアンケート調査によると、オンライン飲み会を続けたいと答えた人は16%に止まったそうだ。他にオンラインによる会議・授業・講義・習い事・レッスンは軒並み否定派が肯定派を上回り、食料品・日用品以外のネット購入については肯定派が約6割に達したという。古来より対面が前提であった営みは、オンラインでもそう易々と代わりはできそうもない、保育においておやである。
 子どもたちから笑顔が消える。それは未来から笑顔を奪うことだ。大人にとって重い思案だ。 □


笑点の間抜け

2020年10月05日 | エッセー

 長く欠かさず見てきたが、6月中旬ごろからピタッと見なくなった。日曜夕方の『笑点』である。コロナのためにリモート形式になってからも見つづけてはいたが、やはりおもしろくない。間が悪いのだ。テクニカルな問題だろう。大喜利で、春風亭昇太と出演者との遣り取りに微少ではあるが余計な間が入る。言葉は逆だが、それが垢抜けしない間抜けに見える。間の世界に生きる落語家がこれほど間にノンシャランでは夏の小袖に二本棒、間抜けもいいところだ。出演者同士のヨコの遣り取りも同等だ。しかも居室からでは寄席という異空間の非日常性が台無しだ。これではまるで噺家のテレワークだ。それに司会を含めメンバーがみんな二線級。最年少の林家三平にしてもアラフィフ。かつての躍動感も当意即妙の知恵の輝きも失せてしまった。遅蒔きの唐辛子、足が向かないのは当たり前ではなかろうか。
 日本は「間の文化」といわれる。「間抜け」を始め、「間」が入る言葉は数多い。「人間」はサンスクリット語の漢訳で人の世を意味したが、江戸時代以降「人」そのものを意味するようになったという。江戸になり定常社会が続いた。人の世が個々の関係性により強く収斂されていく。大きな括りである人間つまり世間から意味の代替化が起こったか。不足の謂もある。「間に合わない」はそれだ。空白も「間」だ。床の間は物理的スペースである。歌舞伎で見得を切るのも空白の挿入ではないか。山ひとつを神とするのはアニミズムの変成だが、山は人為を隔て、里を遮る大きな「間」ともいえる。
 「間」は俗字で、元来は「閒」(門構えに月)と書いた。門扉の隙間から月が見える様を言った。だから、間が抜けるのは風雅に掛けるのか。おもしろくないはずだ。おもしろくはないが、高みに立てばおもしろくなることだってある。
  〽 間抜けなことも 人生の一部だと
      今日のおろかさを 笑い飛ばしたい 〽
 吉田拓郎「全部だきしめて」のフレーズである。黒胡椒の一振り、微かではあるがシニシズムがまぶしてあるような……。
 トランプが感染した。これぞ間抜けなトリックスターそのものだ。マスクの適否は措くとして、大統領選を目前にして「間に合わない」「空白」を作ってしまったようだ。でも、トランプのことだ。無理筋な早期回復で「強い男」を演出するかもしれない。バイデンは油断しない方がいい。
 笑点とトランプには太平洋という巨大な間があるが、間抜けの「間」はほとんどない。ただし笑点の間は人畜無害だが、トランプの間は強烈な毒性を帯びている。一国内に超え難い断絶の壁をつくった。その毒性とは反知性主義のことだ。思想家内田 樹氏は最新著「日本習合論」(ミシマ社、先月刊)でこう繙く。
 〈あなたは「私が見ているものとは違うもの」を見て、私を批判した。事実は一つではない。「あなたが見ている事実」があり、「私が見ている事実」がある。人生いろいろ。私だって「私が見ている事実」が唯一の事実であるとは言わない。だから、あなたも「自分が見ている事実」が唯一の事実であると言うのを止めなさい。これがポスト・トゥルースの時代における支配的な考え方です。
 「自分の好きなように世界を見ていればいいじゃないか」というのは、二十一世紀になって「ポスト・トゥルース」の時代に登場してきた新しい考え方です。こういう考え方を僕は「反知性主義」と呼んでいます。知性には汎用性がない。知性にはことの理非や善悪を判定する力がないという考えのことですから、「反知性主義」と呼ぶしかない。〉(抄録)
 感情にまかせた発言が先走り客観的な事実は後ろに隠れる。発言に事実が追従する奇怪な現象だ。それがポスト・トゥルースである。「知性にはことの理非や善悪を判定する力がない」とする反知性主義の別名であり、現代社会が生んだ鬼胎でもある。トランプはその最も尖鋭化した典型だ。本邦のポチ政権はその忠実な継承者だった。文書改竄は「発言に事実が追従した」実例である。憐れにも、今またポチのポチもその毒性を律儀に承継する。学術会議問題は「知性にはことの理非や善悪を判定する力がない」とする反知性主義のあられもない露出である。根因はこれだ。しかし議論は法的整合性や手続きの表層に終始している。間の抜けた話だ。
 事実に対し「巨大な間」を措く。そこに生じた分断がアメリカや日本の未来に資するわけがない。 □