伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

竹島の無意識

2019年02月27日 | エッセー

 竹島は1946年(昭和21年)GHQが連合国最高司令官指令によって日本の施政区域から外した後、韓国が実効支配を始めた。6年後の1952年(昭和27年)1月韓国が李承晩ラインを引いた際、韓国側水域に含められた。1954年(昭和29年)には駐留部隊を派遣。1965年(昭和40年)日韓基本条約締結で李ラインは廃止となるが、韓国領として実効支配は続いている。
 領有権を巡っては、日韓双方が新羅、百済時代の古文書まで持ち出してチキンレースを続けている。政治学者白井 聡氏は、
 〈そのような時代(さしたる関心をもたなかった時期)における文書の記述を「歴史上綿々と続いてきた我が国による領有の証拠」として取り上げるという行為は、現代の物の見方を過去に投影する倒錯でしかない。〉(「永続敗戦論」から)
 と嘆く。「歴史上綿々と続いてきた」のは「さしたる関心をもたなかった時期」であり、歴史のグラデーションに無理やり着色しても決して生産的ではない。だから、それは措く。問うべきは「竹島問題」の意味だ。
 作家佐藤 優氏は近著「世界史の大逆転」でこう語る。
 〈韓国の無意識のレベルはどのあたりにあるのか。外交のプロたちが戦略的に構築していることがうまくいかない場合、その基底にある、国民の無意識に目を向けるべきでしょう。〉
 慰安婦・徴用工も含め今、「外交のプロたちが戦略的に構築」してきたことがことごとく「うまくいかない」深い泥濘にある。だからこそ「基底にある、国民の無意識に目を向けるべき」なのだ。
 括ってしまうと、韓国による実効支配は韓国併合を反転させた再現である。ミニマムな規模で、かつ象徴的に“韓国による日本併合”を突き付けているのだ。因果応報、ポジとネガを入れ替えた写し絵といえなくもない。したがって、日本が領有権を主張すればするほど“日本併合”が補強されるという構図になっている──。これが竹島を裏打ちする韓「国民の無意識」ではないか。これは単なるディレッタントの与太話、たわいない郢書燕説ではある。しかし、30年余に亘る被侵略とルサンチマンは金で片がつくほど柔ではない。揣摩を拡げなければ掴み損ねる核心があるのではなかろうか。
 では、現実的にどうするか。政治学者姜 尚中氏は内田 樹氏との対談「アジア辺境論」でこう述べた。
 〈独島あるいは竹島の領土問題にしても、あんなちっぽけな岩礁みたいなところについて、角突き合わせている。あれも無意味でしょう。僕はこんな問題は棚上げして置いとけばいいと思ってる。〉
 受けた内田氏は、
 〈括弧に入れておいて、「そのうちに何とかしましょう」でいいじゃないですか」〉
 と応じた。まことに明快。併せて、原発事故により
 〈「尖閣とか竹島どころじゃない。巨大な国土が居住不能になった。〉
 として地続きの国土が抛棄される愚昧を抉り出している。これまた明快なる頂門の一針である。
 さらに、上掲書で佐藤氏が意表を突く視点を提示している。
 〈韓国はいまのところ、半島国家ではなく島国です。軍事境界線の北へは行けないわけですから。これが半島国家になると、そうとうの影響力をもつようになります。朝鮮半島の統一、もしくは統一しないまでも軍事境界線が取り払われ、韓国が地政学的に半島国家になって大陸国家性を強めていくことは、非常に大きな不安定要因になりかねないわけです。〉
 大陸国家には主観的、革新的、排他的志向があるとされる。華夷思考ともいえる。億年単位で大陸や列島が移動するという話ではない。長くて数十年スパンの予測可能な変化である。文字通りの「アジア辺境」に押し遣られ、大陸国家から排他的圧力を受ける。日米同盟を金科玉条とするだけで対応できる事柄ではない。本邦政府の要路にはNK問題の先に横たわる如上の問題意識はあるのか。姑息な統計操作の「問題意識」よりも、こちらの問題意識こそ肝腎ではないか。国家百年の大計には過去百年への刮目が欠かせない。
 もうすぐ「三一運動」100年を迎える。 □


昭和は遠くなりにけり

2019年02月24日 | エッセー

  降る雪や明治は遠くなりにけり
 中村草田男が昭和6年に詠んだ句である。雪の中20数年ぶりに母校の小学校を訪(オトナ)うと、校舎はそのままなのに子どもたちの服装はすっかり現代風に変わっていた。白く塗り込められていく光景とともに明治という一時代も遥か遠景に退いていく。西暦では掬いきれない時の移ろいに俳人の心が見事に応じた、蓋し、名作である。
 つい見落としがちだが、間に大正を挟んでいる。緩衝を措かねば時代の移ろいは実感を伴わぬものらしい。詠嘆には離隔が必要なのか。だが大正はわずか15年という勿れ。「大正デモクラシー」といわれる一時代を画した。元禄文化を生んだ元禄は17年でしかない。次の元号と昭和の間には平成の30年がある。緩衝、離隔には十分な長さだ。だから、これからこそ「昭和は遠くなりにけり」といえる。
 はたして元号による括りに意味はあるのか。思想家内田 樹氏は西暦だけでなく複数の時間軸をもつのは文化的に豊かなことだという。ある元号からその時代を鮮明にイメージできるのは「一種の文化資産」であり、「世の中が変わったことを集団的に合意するための伝統的な装置。味のある文化的な仕掛けだ」とも語る(先月22日の朝日新聞で)。さらに「人間には、世界共通の時間ではなく、民族や集団に固有の刻み目が入った時間の中で生きたい、という欲望があるのではないでしょうか」とも論じている。
 さて平成にはどのような「固有の刻み目」が入るのか。
 〈「平成の多様性、寛容の精神で発展を」 
 皇太子さまは23日、59歳の誕生日を迎えた。この日に報道されることを前提に21日、東京・元赤坂の東宮御所で記者会見に臨んだ。平成という時代を「人々の生活様式や価値観が多様化した時代」と回顧し、「この多様性を寛容の精神で受け入れ、お互いを高め合い、更に発展させていくことが大切」と述べた。〉(朝日より)
 ダイバシティと寛容。実に的確な時代把握だ。これに逆行する当今の国の舵取りへのオブジェクションといえなくもない。これは心強い。純正な意味で天皇家こそリベラルのロールモデルかもしれない。
 新しい元号は4月1日に発表される。エイプリルフールである。実はこれが曰く因縁のある日なのだ。以下、小稿より。
 〈エイプリル・フール ―― むかし、むかし、日本では戦国時代のころだ。フランスの王様が1年の始まりを1月1日に変えた。それまでは、3月25日が新年だった。4月1日までが春の祭り。永く続いた慣習だった。おそらく農作業の流れに由来したものだったろう。王様はそれを無視した。民衆は反発し、4月1日を「嘘の新年」として、腹立ち紛れのどんちゃん騒ぎを始めた。逆ギレした王様は騒いだ連中を根こそぎひっ捕らえ、処刑してしまった。「四月バカ」という冗談めかした呼び名とは逆に、由来は相当に陰惨で血なまぐさい。〉(08年4月「月極のエイプリル・フール」から)
 平成を惜しむあまりまさか「腹立ち紛れのどんちゃん騒ぎ」は起こるまいが、昭和は腹立たしいほどに遠くなる。 □


料理番組の不思議

2019年02月19日 | エッセー

 たとえばNHK『きょうの料理』。
「このまま弱火で10分間煮込みます」
(講師と司会が隣のレンジに移動)
「はい、こちらに10分煮込んだ鍋があります」
「次に……」
 と、このお馴染みの場面だ。かねてよりト書きの部分が不思議でしょうがなかった。
 生放送の時代ならいざ知らず、録画放送なのだから10分待てばいいではないか。10分後に録画を再開すれば済む話だ。なんなら、鍋の中の変化を早送り画面で編集するのも手だ。ところが隣に10分後の鍋がある。スタッフは逆算して前もって煮込んでいるはずだ。ご苦労なことだが、材料を2倍使っていることになる。なぜ、こんなムダなことをするのだろう。
 日本の食品ロスは年間646万トン。当たり前だが、10トン大型ダンプカーで64万台分。辺野古埋め立てに使う土砂が22万台分だから、その約3倍だ。国連による食糧援助が320万トン、その2倍である。さらに国民1人当たりでは世界1。最悪である。各方面で食品ロス削減に向けたムーブメントが起こってはいる。飲み会では“乾杯後30分、お開き10分前にはお酒ではなく料理を楽しみましょう!”という『3010運動』も農水・環境省から提唱されている(大きなお世話のような気もするが)。例年大量の売れ残りが出ることから、今年のバレンタインデーでは製造を見直す動きもあったそうだ(板チョコの欠片すら降って来ないこちとらにはまったく無縁のことだが)。
 そんな中で、茶の間への影響力がもっとも大きいTVメディアが平気で食品をロスしている。これはなんとかならないか。自らも、そしてなにより将来世代のアセットを先食いする愚を冒してはなるまい。
 ロスといえばもう一つ、見過ごせない大きなロスがある。亥年選挙に因めば、投票権を行使しない棄権である。これは食品ロスに劣らない民意のロスだ。前回平成28年の参院選での棄権者数は約4800万人。有権者の46%、約半数ともいえる。いや棄権もそれなりの意思表示だとの意見もあるが、それは浅慮というもの。巨大な民意がドブに捨てられているのだ。その成れの果てがアンバイ一強政治の“暗黒時代”である。棄権者数は無党派層とほぼ同比率である。ここが動けば世の中は変わる。確実に変わる。
 19世紀前半のイギリスでは選挙は公開投票で行われていた。記名投票である。誰が何に投票したかオープンにされる。日本国憲法15条、投票の秘密とはまるで逆だ。もちろん後、英国でも威圧や不正防止のため秘密投票に移行したが、投票とは先ず何より国を支える構成員としての資格、責任能力を示す公的行為であった。新聞で報道され、選挙人名簿にも記録されたという。普通選挙ではなく制限選挙であった事情も背景としてはあるが、選挙は権利ではなく責務、義務であったのだ。その原点に立ち返るなら、棄権は背任に通ずるといえる。ともあれ、夥しい民意ロスだ。どんどん政治は国民から乖離していく。
 美味しい料理を伝える裏で食品ロス、民意ロスの挙句にチョー不味い永田町料理。喰えたものではない。 □


バカの壁

2019年02月17日 | エッセー

 養老孟司先生の「バカの壁」は、言わずと知れた超ベストセラーである。戦後日本の歴代ベストセラー4位、400万部以上を売り上げた。腰だめでひと言に約(ツヅ)めれば、頭でっかちになるな! との警鐘である。先生がよく例示するのは、解剖の実習中に学生が発した「このライヘ、教科書と違います」との言葉だ。テキストの原論に囚われて遺体にある個別性が見えなくなる。ちょうどそれは、ベッドの長さに応じて旅人の足を引き伸ばしたり切り揃えたプロクルステスの寝台の蛮行と相似する。そして意識化、脳化社会の成れの果てを暗示している。
 この度のトランプによる国家非常事態宣言の報を耳にした時、養老先生の「バカの壁」が頻りに浮かんだ。国家緊急事態法を三豕渡河したとしか考えられない。テロや戦争ではなく平時の予算確保に非常事態を宣言する。連邦議会がもつ予算決定権を迂回して、なにがなんでもメキシコ国境に壁を作る。機略などではなく詐略に等しい。公約をベッドに国家緊急事態法を旅人の足に置換すると、まるっきりプロクルステスではないか。ギリシャ神話の盗賊が現代のアメリカで息を吹き返したかのようだ。
 脳、要するに意識だけが肥大化して現実から乖離してしまう。それを脳化社会と、養老先生はいう。エビデンスのない移民排斥のために物理的な壁を作る。壁は象徴なのか、それとも物理的な有用性があるのか。他の手段による移住または制御があるのではないか。そういう現実に相応したフレキシビリティを公約が失って、異様に脳内で肥大する。神国日本が肥大して彼我の戦力を正確に測る眼を盲いてしまった愚に似ている。まさにプロクルステスの寝台、つまりは「バカの壁」ではないか。
 報道によると、安倍首相からトランプはNKミサイル問題でノーベル賞候補に推されたそうだ。どうも十八番のフェイクではなく、首相が米政府から非公式に依頼され昨秋ノーベル賞関係者に話を持って行ったらしい。“トランプのポチ”、極まれりである。違った意味で、“バカの双璧”と呼べよう。
 「民主党政権の暗黒時代」はトランプの下品で扇情的な悪口雑言と瓜二つ。「自治体の6割が自衛官募集に非協力」と「自衛隊、憲法明記を」との事実誤認ととんでもない論理飛躍は、移民制御と国境の壁との無理やりな堅白異同にそっくりだ。次から次へと続く閣僚やスタッフの解任は不適格大臣の温存と夜郎自大では同等だ。総じて横柄な国会対応、行政府による立法府の蚕食はトランプの議会敵視と同類だ。プチ・トランプか、トランプのポチか。まことに別ち難い。
 メキシコ国境に立つ見上げるほどの高い壁。バカの壁もこれほど高いのか。嘆息、頻りである。 □


プロならしない<承前>

2019年02月14日 | エッセー

 今日の「天声人語」にこうあった。
 〈『一九八四年』で知られる作家のジョージ・オーウェルは若い頃、パリで貧乏生活をしていた。ホテルの仕事にありつき、その厨房での様子を『パリ・ロンドン放浪記』で書いている。客ならば絶対に読みたくない描写である▼ステーキはテーブルに運ぶ前に、コック長が検査をする。指先で皿をぐるりと拭き、肉汁をなめて味を確かめるのだ。手を洗うこともなく、それが何度も繰り返される。スープの中につばを吐くコックの話も出てくる▼1920年代、後の作家がもぐり込まなければ、世に出なかったかもしれない舞台裏である。〉(2月14日付)
 この前々日、「不適切動画」と題した小稿にこう記した。
「何かの意趣返しのようには見えない。………確実にいえるのは、プロならこんなことは絶対にしないということだ。そんな天に唾する発想自体ありえない。仕事に誇りがあるなら、なし得ないことだ。」
 おや? である。1920年代とはいえ、遥かおフランスとはいえ、プロは“不適切”調理を繰り返していたのか。たかがブログの愚考とはいえ、口を噤んでいるわけにはいかない。そこで、『パリ・ロンドン放浪記』に当たってみた。
 オーウェルが就いた厨房は客席とは違い、ゴミが山積しパン入れにはゴキブリがたかる劣悪な環境であった。その中で追い立てられるように働く。一方、華やかな表舞台では客たちが優雅にお食事。客を単なる金蔓だと見下げているコックたちが平然と如上の所行に及んだ──。これがオーウェルの描いた「舞台裏」である。だからプロも加わった上流志向社会への背徳、「何かの意趣返し」であったのだ。「不適切動画」は背徳とは異質である。天声人語子は少し舌足らずだったといえなくもない。
 〈パリで肉料理ひとつに、まあ十フラン以上払ったとすれば、まずこういう具合にいじられたと考えてまちがいない。うんと安いレストランなら、話はちがう。そこではこんな手数はかけず、手でいじったりはせずに、ただフォークで鍋から皿に移すだけだから。大体において、食べ物には高い金を払えば払うほど、それだけ余分な汗と唾をいっしょに食わされることになる。ホテルやレストランに不潔はつきものである。清潔さが、時間や見てくれの犠牲にされているからだ。ホテルの従業員は仕上げだけに夢中で、それが食べ物だということなど考えている暇はない。従業員にとっては、医者にとって瀕死のガン患者が「症例」なのと同じように、料理はただ「注文」にすぎないのである。………不潔さを別にしても、オヤジは思う存分客から金をかすめとっていた。食べ物の材料はあらかたは非常な粗悪品で、ただコックが格好のつけかたを知っているだけだったのだから。………オヤジはわれわれに対してばかりでなく客に対してもケチだった。たとえば、これだけの大ホテルに、塵とりつきの掃除機というものが一つもないのである。だから、ほうきとボール紙で片づけなければならない。それに従業員用トイレときたら中央アジア並みで、手を洗う場所も、食器を洗う流し以外にはなかった。〉(岩波文庫『パリ・ロンドン放浪記』、小野寺 健訳から)
 物の序で
、司馬遼太郎の「街道をゆく40」から。
 〈清潔好きな社会も、無頓着な社会も、単に慣習にすぎない。ヨーロッパでも中世までは、衛生的とはいえなかったらしい。都市でも、家々の糞尿は、毎朝、路上に投げ捨てられた。ひとびとが次第に衛生的になるのは、どういうわけか、プロテスタンティズムのひろがりと無縁ではなかった。決定的には、十九世紀になって衛生思想や防疫思想が、医学的裏付けをもって普及してからといっていい。ただ、日本列島に住むひとびとは、奇妙なことに、上代から清潔好きだった。ただ日本文化の清潔好きは、世界に衛生思想が普及したために、民族の奇癖というものではなくなった。幕末に蘭方医学を学んで明治まで生き残った医者たちは、たいていが衛生学が好きだった。〉
 パリで公衆トイレが一般化したのは20世紀初頭。オーウェルが訪(オトナ)った「1920年代」のパリの「舞台裏」もまだ「無頓着な社会」の中にあったというべきであろう。
 オーウェルが目にしたステーキやスープは「表舞台」のお品。チェーン店の白滝や魚の身はアルバイト自身の具象。前者は背徳、後者は絶望──。ということで、愚稿に直しは不要としたい。 □ 
*本稿は投稿の翌々日、正確を期すため一部加筆訂正しました。


不適切動画

2019年02月12日 | エッセー

 「不適切動画」なるものが騒動になっている。大型チェーン店のアルバイト店員が仕事中の悪さを動画に撮りSNSに投稿、それが拡散した。セブン-イレブンでは口に含んだおでんの白滝を吐き出し、その手で商品棚のタバコを躍りながら触る。くら寿司ではおろした魚をゴミ箱に捨て、また取り出してまな板に戻す。中華チェーン・バーミヤンでは中華鍋の炎でタバコに火をつける。ファミマでは商品やペットボトルのキャップを舐める。カラオケのビッグエコーではお客に出す唐揚げを床に擦りつける。そんなシーンがネットにアップされた。大枚の損害賠償に問われるかもしれない。
 すべてアルバイト店員。何かの意趣返しのようには見えない。仲間内のおふざけか。それにしても、なぜこんな悪行が横行するのだろう。
 確実にいえるのは、プロならこんなことは絶対にしないということだ。そんな天に唾する発想自体ありえない。仕事に誇りがあるなら、なし得ないことだ。魚を捌くことも、おでんを煮込むことも、中華鍋を振ることも本来は職人およびプロの仕事である。それが小売り網の展開や食の大衆化のため職人技がパーシャルに簡易化され統一したクオリティーの部材で供給されマニュアル化され、ずぶの素人にも可能になった。大手コンビニでは誰でもできるように接客もマニュアル化された。大型チェーン店のファーストプライオリティは人件費コストのカットにある。かくてかつてのプロの仕事は修業不要、能力・適性不問の作業に化けてしまった。そしてここが肝心なところだが、ずぶの素人はいくらでも代替可能であるということだ。「君の変わりはいくらでもいるよ」である。往古製造業で起こったように、サプライが大衆化し仕事が万人化すると、労働者のレゾンデートルは限りなく希釈化する。アルバイト店員は、入れ替えも増減も意のままなチェーン店の商品と同等に扱われていくのだ。そのような事情と境遇を彼らは売り物を台無しにすることで表現しているのではないか。動画に登場するあの白滝も魚の身も唐揚げも彼ら自身の具象だ。もちろん、意図せずにだが。後先考えないおバカなおふざけに、そんな含意を掬ってみたい。
 もうひとつ。アルバイトの先に夢があるならこんなことは絶対にしないということだ。アルバイトが学問や仕事、将来の夢を紡ぐ里程として明確に位置づけられているなら、なし得ないことだ。想像するに、不適切動画の主人公たちに夢はなかったのではないか。
 大括りな話をすると、将来世代に先送りされる国債という名の膨大な借金。それはすでに太平洋戦争末期の対GDP比を超えている。加えて加速度的に減少する生産年齢人口と、増加する高齢者人口。経済成長なぞ望むべくもない。統計偽装によるアベノミクス偽装は、アベノミクスそのものが国民への偽計であることを満天下に晒した。一国にも紡ぐ夢はないのだ。
 ともあれ、「不適切」とはいっても世の深層を「適切」に切り取っているといえなくもない。 □


豚コレラ

2019年02月10日 | エッセー

 この度の豚(トン)コレラで、合計12000頭余りの豚が殺処分にされた。自衛隊をはじめ作業に携わったメンバーは相当精神的にダメージを負ったらしい。苦労を多としたいが、豚はもっと憐れだ。どうせ最後はみんな屠(ホフ)られるにしても、生殺与奪を人間の恣(ホシイママ)にされる身のなんと哀しいことか。なぜそうなったのか。
 ユヴァル・ノア・ハラリは農業革命に絡み、約(ツヅ)めれば『人間は遙かな太古、神つまり創造主になった』とサハリはいった。細かくは次の通り。
「紀元前9000年ごろまでに小麦が栽培植物化され、ヤギが家畜化された。エンドウ豆とレンズ豆は紀元前8000年ごろに、オリーブの木は紀元前5000年までに栽培化され、馬は紀元前4000年までに家畜化された。」(「サピエンス全史」から抄録)
 人間が神のごとくに新たな動植物を造ったというわけだ。新種にとって人間は創造主である。豚も同じく紀元前6000年以上前から、ユーラシア大陸の東西で猪を家畜化して造られた新種の被造物である。ハラリは次作の「ホモ・デウス」でも重ねて述べている。(引用は抄録)
「他の動物たちにしてみれば、人間はすでにとうの昔に神になっている。私たちはこれについてあまり深く考えたがらない。なぜなら私たちはこれまで、とりたてて公正な神でも慈悲深い神でもなかったからだ。」
 さらに、
「人間と動物の関係は新しい段階に入った。農業が始まると、新たな大量絶滅の波が引き起こされたが、それよりなお重大なのは、地球上に完全に新しい生命体、すなわち家畜が誕生したことだ。」
 そして、
「飼い主たちは自分の行動をどのように正当化したのか? 農耕民は自分たちが家畜を利用し、人間の欲望や気まぐれのなすがままにしていることを知っていた。彼らはこの行動を、世界はさまざまな生き物から成る議会ではなく、偉大な神々あるいは唯一神が支配する神政国家だと主張し始めた。」
 と語る。「神政国家」を「支配」する神とは、もちろん人間である。被造物たる豚が創造主たる人間の「欲望や気まぐれのなすがままに」されている因果をハラリはそう解(ホド)いた。
 今回の感染源は猪だった。ならば、神による本来の被造物たる猪が矩を踰えた驕慢な人類への逆襲に出た、と見るべきか。各県では豚コレラに対処した返す刀で今度は猪対策に乗り出したという。猪にはとんだ亥年になったものだ。 □


橋の下

2019年02月09日 | エッセー

 先日、あるローカル紙にこんな記事が出ていた。
 〈5カ月間失踪の△△△△人ガード下で生活か 入管難民法違反疑い ○○署が逮捕
 ○○署は6日、入管難民法違反(不法残留)の疑いで、△△△△国籍で住所不詳、無職××・××・×××容疑者(24)を現行犯逮捕した。同容疑者は元外国人技能実習生で、5カ月間失踪し、○○市内のガード下で見つかった。現場には生活用品が残されており、一定期間、暮らしていたとみられる。
 逮捕容疑は、在留期間が終わる2018年11月1日までに必要な手続きを行わず、不法に国内に残留した疑い。同署によると「(期間が過ぎているのは)分かっている」と容疑を認めているという。
 ○○署によると、×××容疑者は15年10月から○○市内の建設会社で働き、18年9月2日に失踪した。ガード下に男が座っているとの通報を受け、駆け付けた署員が逮捕した。
 発見されたのは、▽▽▽ボウル(○○市◇◇◇町)から北東約150㍍のガード下。ふとんや衣類、バッテリーがあり、寝食した形跡があった。容疑者は「ずっと過ごしていた」と話しているという。〉
 「お前は本当はうちの子じゃない。近くの川の、橋の下で拾ってきたんだ」
 往年、よく耳にしたフレーズだ。今なら児童虐待になるかもしれぬ。24歳の△△△△人は「うちの子」ではなかった。「拾って」、そのまま○○署へ連れて行かれた。なんとも憐れではある。
 4月からの外国人材受け入れ拡大でガード下が賑わうことがないよう、関係者には手厚い受け入れを願いたい。それにしても、なんとも逞しい。照明があり、電気毛布まで備えていたらしい。サバイバル・ライフ、ここにありだ。柔な現代日本人などそのうち超されるにきまっている。
 橋の下、どうでもいい場所を譬えることばでもある。掃き溜め、その辺、そこいらへん。みな同列だ。とともにそれは少年にとっては遊び場でもあり、身近にある異界でもあった。時として上を轟音が走り抜けるのだが、過ぎ去れば一転しじまが戻り、やがて川のせせらぎが覆う。人は来ない。陽はまだらに遮られ、風はおもむろに揺蕩う。いつも蠱惑が待ち受ける場所だった。
 ガード下はサラリーマンのオアシスでもある。なんと言っても名高いのは新橋ガード下居酒屋街だ。戦前、戦中、戦後復興とともに歩んだ街である。銀座の近隣にありながら、こちらはいたって庶民寄りである。だが、かつては裕次郎が通った高級店もあったそうだ。
 意外にも、最近では橋の下が音楽祭などのイベントに多く使われるという。やはり構造が異空間なためではないかと、我田引水をしたくなる。教会か保育園か、日常にはない空間だ。
 ×××君はやがて△△△△へ送還されるだろう。通報者を恨むだろうか、それともどうでもいい安価な労働力扱いした日本の雇用事情を憎むだろうか。後者にちがいない。最長5ヶ月に及ぶ異界生活はこれでやっとピリオドが打たれた。故国での実生活が待っている。茨の道に幸あれとエールを送りたい。 □


二十四節気

2019年02月07日 | エッセー

 今週の月曜日、4日は立春だった。今年は「暦の上では今日から春ですが、まだまだ寒い日がつづきます」という常套句が交わされなかった。昼夜でかなり寒暖差はあったものの、日本列島は一様に春の陽気。代わりに、「暦通りの暖かさ」が強調された。
 二十四節気は古代中国の中心、華北で作られた。白川 静の「字統」によれば、「季」とは農耕に関する儀礼をいった。季節は農作業の標(シルベ)だったといえる。ところが、太陰暦では太陽の運行による季節の変化とマッチしない。下手をするとひと月もずれる。農に限らず諸般に不具合が生ずる。そこで、太陽の位置によって1年を24に細分した。その意味では太陽暦といえなくもない。それが二十四節気である。「節」には切れ目を入れるとの字義がある。
「立春、雨水、啓蟄、春分、清明、穀雨、立夏、小満、芒種、夏至、小暑、大暑、立秋、処暑、白露、秋分、寒露、霜降、立冬、小雪、大雪、冬至、小寒、大寒」
 黄河流域の大陸性気候がモデルであるから日本の季節感とは違う。しかし1年間の切れ目、節気に変わりはない。太陰暦であろうとも、だ。明治5年の新暦移行までは旧暦に合わせて二十四節気を決めていた。それがおよそひと月繰り上がった。定規の測りはじめを動かしだけで、目盛りのピッチがずれたわけではない。
 如上の事情を踏まえて邪推するに、「暦の上では」の「暦」とは旧暦にくっついていた二十四節気のことではないか。「暦」と「二十四節気」を混同した。ピッチは同じなのだから新暦に合わせれば済む話で、「暦の上では」は言わずもがなであろう。むしろ「二十四節気の上では」というべきである。
「二十四節気の上では今日から春ですが、まだまだ寒い日がつづきます」
 というように。
 「二十四節気通りの暖かさ」に能天気なコメンテーターは温暖化の影響ではないかと与太を飛ばしていたが、アメリカでは超弩級の寒波が襲っている。トランプ大統領は「温暖化は一体どうなってるんだ?」とツイートしたそうだが、こちらも劣らず与太のような気がする。
 若いころは二十四節気など気にも留めなかった。むしろ古くさくて面倒くさかった。どうでもいいだろうと打棄っていた。今、なんだか引っかかる。人生の「霜降」、いや「大雪」、それとも「小寒」に差しかかったからか。嗚呼。 □


筒香提言に大拍手!

2019年02月03日 | エッセー

 少年野球では「お茶当番」なる半ば強制的な係があるらしい。ベンチでの給水補給や体調を崩した子どもの手当が本来の目的だが、子ども、監督、コーチのために食事やお茶も用意する。果ては監督、コーチの雑用までこなす。今では食事とお茶の提供が本務で主に母親が当たる。親馬鹿が昂じて大変な負担を背負(ショ)い込んでいるわけだ。
 少年野球そのもののフィジカルな危険性も指摘されている。未成熟な少年期に1つだけの競技に特化すれば障害を受けるリスクが高まる。これから長年月を掛けて使っていくポテンシャルを先食い、あるいは失ってしまうわけだ。
 加えて少年野球にまで勝利至上主義がはびこり、チームの内外ともに熾烈な競争に晒されている。もはやスポーツ本来の「遊び」はどこにもない。昨年の小稿から引くと、
 〈競技者を“player”という。“play”の原義は「遊び」である。「競技性」は生存本能が馴致されたものであろうが、「遊戯性」は開放されることで人類を霊長に押し上げた。今、これが逆転している。たかが遊びが雲散し、優勝劣敗が跋扈している。〉(11月「eスポーツ<承前>」から)
 というわけだ。それがあってか、野球人口は少子化の6~10倍の速さで減少しているそうだ。スポーツのもつ遊戯性と競技性のアンビヴァレンツ。積年のアポリアではある。
 そのような状況を憂い、DeNAの筒香嘉智が立った。先月15日、堺市で行われたシンポジウムで整形外科医らにより提案された「学童野球独自のルールの変更」10項目を支持すると言明した。さらに25日、都内の日本外国人特派員協会で記者会見し提言を後押ししたのだ。
 10項目は以下の通り。
1. 投球数規制70球、試合回6回 / 2. 練習時間規制1日3時間 / 3. 試合数規制年間100試合以内 / 4. トーナメント制ではなくリーグ制の大会 / 5. 塁間投捕間距離の改正(もっと短く、投手有利な条件へ) / 6. 盗塁数規制 / 7. カウント1―1からの開始 / 8. お茶当番、応援の緩和 / 9. 監督不要(サイン指示なし) 10.パスボールなし
 注目されるのは4. であろう。筒香は「勝利至上主義の弊害」を強く主張する。「目先の勝利ではなく、子供たちの将来を見据えた野球環境を作ること」を訴える。「負けたら終わりのトーナメントではメンバーも固まり、連投や肘、肩の故障も増える」。だからこそリーグ制をというわけだ。これは特大ホームランである。野球を子どもたちの心身の成長につながるものにしたい、子どもたちの笑顔が戻る楽しいものに、それが願いだと語った。プロ野球選手にしておくのはもったいない。いや、プロ選手だからこそ、いやいや『日本の4番』だからこそ値千金の発言である。NPBも捨てたものではない。鈴木大地スポーツ庁長官の御賢察とイニシアティブに期待したい。
 勝利至上主義の成れの果てはどうなるか。思想家内田 樹氏の箴言を徴したい。
 〈「競争勝者には報奨を、敗者に処罰を」というルールで集団を管理していれば、いずれ人々は自分以外のすべてのメンバーが自分より愚鈍で無能であることを願うようになる。その方が自己利益が増大するのですから、そう考える。でも、そうやってお互いが自分以外のすべてのメンバーの成長を阻害し合っているうちに、集団そのものが「使えない人間」たちで埋め尽くされてしまう。〉(「ローカリズム宣言」から)
 成れの果てにあるのはシャーデンフロイデの狂い咲きだ。昨年のアメフト“反則タックル”がなによりの実例である。
 
タモリの名言が甦る。「健康のために スポーツのし過ぎに注意しましょう」 往時のタバコのパッケージの捩りである。さらに、「子どものために スポーツのさせ過ぎに注意しましょう」とでもなろうか。
 もう1点。事は少年野球だけではない。少年どころか、幼児期からの特訓、これは如何なものか。おそらく福原愛あたりから始まったのではなかろうか。浅田真央、内村航平、吉田沙保里、張本智和、さらには大坂なおみ、貴景勝などなど、挙げれば切りがない。マスコミはドラマ仕立てで褒めそやし、視聴率を稼ぐ。親は選べないといってしまえばそれまでだが、大成はごくわずかではないか。陰には的を外れ力尽きた矢が山積しているにちがいない。大坂なおみの影響を受けてラケットを振る子どもがにわかに増えるのはまだカワイイ。問題は、何十、何百番目かの泥鰌を狙ってまなじりを決する親馬鹿が出てくることだ。被害者は子どもだ。それを忘れてはなるまい。ともあれ、筒香提言は核心を突いている。手が腫れ上がるほど拍手を送りたい。 □