伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

年の敷居に

2010年12月31日 | エッセー

 時事通信社が選んだ2010年の国内十大ニュースは次の通りだった。
 1位 尖閣沖で中国漁船衝突。映像がネット流出
 2位 大阪地検で証拠改ざん。検事、元特捜部長ら逮捕
 3位 鳩山退陣、菅内閣が発足。参院選で民主大敗
 4位 小惑星探査機「はやぶさ」が7年ぶり帰還
 5位 野球賭博で大関琴光喜ら解雇、力士多数が謹慎休場
 6位 円高で6年半ぶり市場介入。ゼロ金利復活
 7位 記録的な猛暑、熱中症による死者多数
 8位 宮崎県で口蹄疫、牛豚29万頭を処分
 9位 日本航空が経営破綻、改革・再生へ
10位 普天間、「辺野古」で日米合意。社民は連立離脱。 

 4位以外は、碌なニュースがない。吉凶の極端な偏りが、なにより鮮やかに今年を象徴している。29日、朝日は「斜陽の年」と題した社説を掲げた。導入部に太宰治を引き、以下のように続ける。
〓〓1945年にゼロ歳の日本ちゃんが生まれたとしよう。11歳で「もはや戦後ではない」と初等教育を終え、若々しく成長し、19歳で早くも五輪を成功させ国際デビューする。伸び盛りの25歳の時には万博も開いた。
 石油ショックなどがあって成長の速度は落ちたが、30代になると一億総中流を自任した。40歳で対外純資産が世界1位になった。さすがにもうけすぎだと言われて、プラザ合意で為替レートが一変しバブルが始まる。
 40代半ばのころ東西冷戦が終わり、その後バブルが崩壊する。50歳の時に阪神大震災とオウム事件に遭った。そのころから病気がちになり、小泉改革の劇薬も効かず65歳の今にいたる。このまま老衰するわけでもあるまいが、人の一生に等しい短い時間で目まぐるしい盛衰を経験しつつある。
 今年おそらく国内総生産で世界2位の座を中国に譲った。鶴のマークが海外への希望の象徴だった日本航空は破綻した。大学生の就職は超氷河期。所在不明の高齢者は続出し、自殺者は13年連続で3万人を超えそうだ。〓〓
 実に巧い括り方だ。団塊の世代の来し方とほぼオーバーラップする。その意味でも象徴的な世代であろうか。07年にこの世代のリタイアメントが始まり、なおさら斜陽の度が増した。このまま夕間暮れを迎えるのか。経済一流から二流へ、政治三流から濁流のまま、年を跨ぐ。大きな絵は描けるのか。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」はすでに昔日。「貞観政要」が訓(オシ)える「守成は創業より難し」が身に染みる当今である。だが、社説は「私たちはなお恵まれた環境にいる。知識や社会資本も十分に蓄えられている。それらを土台に何か新しいものを生みだし続けてい」けると結ぶ。そうありたい。「はやぶさクン」の成功は、日本のコア・コンピタンスの健在を証明したものとみたい。夜空に曳いた一条、さらに一条の閃光の航跡は母国へのエールではなかったか。そう持ち上げて、あながち過褒とはいえまい。
 
 今月4日、朝日「記者有論」に「政権危機 1947年教訓」と題する出色の論考が載った。政治学者の五百旗頭真氏の著作「日本の近代6戦争・占領・講和」に依って現政権とのアナロジーを挙げる。以下、要約。
◆1947年、第1次吉田茂内閣に代わり社会党首班の片山哲連立内閣が誕生した。保守から中道へ、内閣支持率は68.7%を記録、政権交代は当時も国民の喝采を浴びた。それがわずか8カ月で崩壊する。
◆唯一の社会主義的色彩をもつ、いわば金看板の政策と思い定めて「炭鉱国家管理問題」に全力を注いだ。結果は、労組を巻き込んでの左右両派の対立、連立与党・民主党の分裂、吉田自由党の完全野党化と経済界の離反、そして法案の骨抜き。
◆何の実質的意味もなく、政権を満身創痍にしただけの空騒ぎで終わる。これは、今日の政権の普天間基地移転とか消費増税を連想せざるを得ない。
◆政権は結局、官公庁職員の臨時給与をめぐる補正予算案が財源問題で紛糾、左派の反乱でついえるに至り総辞職を余儀なくされた。
◆政権の問題点は、「権力感覚が乏しく危機対応能力がない」片山首相が、「政略的ジャングルにからまって冷徹明敏な頭脳が混濁し始めた」西尾官房長官を「支えてやることができなかった」点にあった。内閣支持率は最後、23・7%

 なんだか、63年前を忠実に準っている雲行きではないか。歴史はそのまま繰り返すわけではないが、亀鏡ではある。今年話題の人となった坂本竜馬に因み、東洋のルソー・中江兆民の言に学びたい。
「一国の文明が進歩するかどうかは、その国民が考えるか考えないかによる。我が国の封建時代も、種々の不都合きわまることがあったが、当時、だれも『考えなかった』ゆえに当然のこととされたままであった。百姓町人はいつまでも百姓町人であり、武士には切り捨てられ、御用金と称しては金をとられ、その他、階級制度から生じる種々のおかしなこと、非人間的な習慣を、だれも怪まなかった。 これは国民が『考えなかった』からである。今も、政府は我々人民の給料によって生活する人物の集合体である。我々人民が必要な用事をさせるために庸った使用人である。にもかかわらず、彼らが人民のために働かないのは、人民の財布の盗賊ではないか」(「一年有半」から、現代語訳)
 竜馬に請われて煙草を買いに走った少年の日の想い出を、終生一つ話にしたという。連綿たる人の縁(エニシ)が織り成す歴史の妙であろう。
 ともあれ遙かな後世から、「だれも怪まなかった。 これは国民が『考えなかった』からである」と我らが断じられてはなるまい。時代の継承にいささかも疎漏なきようしっかりと考えつつ、高くはあるが年の敷居を跨ぐとしよう。

 今稿で一年の筆納めとしたい。皆さま、どうぞよいお年を。 □


池乃めだかはどっちだ?

2010年12月29日 | エッセー

 前回の伝でいく。
●小沢氏、政倫審出席の意向を表明  
 民主党の小沢一郎元代表は28日、自らの「政治とカネ」をめぐる問題で、衆院政治倫理審査会に出席し、説明する意向を明らかにした。国会内で記者団に明らかにした。
 小沢氏はこれまで、年明けに強制起訴される見通しであることなどを理由に、政倫審への出席を拒んでいた。小沢氏は「政倫審に出席しなければ、国会審議が開始されない場合、通常国会の冒頭にも出席し、説明したい」と語った。一方で、「私の政倫審出席が国会審議開始の主たる条件でないなら、(来年度)予算成立後、速やかに出席したい」とも語り、通常国会冒頭から予算案審議に円滑に入れるかどうかで、出席時期を判断する考えを示した。(12月28日 朝日)
 なーんだ、腰砕けか。小沢氏こそ、「めだか」であったかと、即断するのは早い。国会開始後に拘るのは、野党が求める審議入りの条件を逆用しているからだ。一つは小沢氏の国会招致。残る一つが仙石、馬淵両氏の更迭である。前者を呑むことで、後者を迫る。肉を切らせて骨を断つ、悪くて差し違えだ。別けても、仙石氏は「脱小沢」の急先鋒である。ここにシンパ、譲っても中間派を据えたい。それが狙いであろう。ボールは首相サイドに、かなりな癖球で投げ返された。となれば、「めだか」は菅氏か。
 仙石氏も黙っていない。強制起訴を受けて「野党が議員辞職勧告決議案を出してきたら悩ましい」と発言した。身内の弱みを晒す素振りを見せて、強烈なカウンターパンチを放った格好だ。これに党の離党勧告が加われば、刑事被告人という立場上レイムダックに限りなく近くなる。いままでのように党を割って飛び出し新党結成という手が、果たして使えるかどうか。つまり付き従う手勢はいるのか。政治的インパクトを持った勢力を形成できるか。見通しは立たない。してみれば、やはり小沢氏こそ「めだか」なのか。
 なんだかあの歌そっくりの展開ではないか。

  〽めだかのがっこうは かわのなか 
   そっとのぞいて みてごらん
   そっとのぞいて みてごらん
   みんなで おゆうぎ 
   しているよ〽

 なに、前政権党の「おゆうぎ」と変わりはしない。踊り手が小振りになりはしたが、相当に判りやすくもなった。

  〽めだかのがっこうの めだかたち 
   だれがせいとか せんせいか
   だれがせいとか せんせいか
   みんなで げんきに あそんでる〽

 なんせここの「せんせい」は「せいと」の束ねができない。自分は一人の「せいと」に過ぎないと言っている「せいと」に指図ができないのだ。このままだと、学級崩壊か。迷惑なのは学校に通わせている親御の方だ。ほとほと愛想が尽きますぞ。お安い授業料で見違えるような教育をいたしますというので、せっかく転校させたのに。……まったく。 □ 


笑い納めか?

2010年12月24日 | エッセー

「今日はこれくらいにしたるわ」
 ケンカを売っておきながら逆にボコボコにされる。やおら立ち上がり、ズボンの埃を払い背広をピンと着直して捨て台詞を吐く。舞台、ズッこけ。ベッタベタ、いかにも大阪テイスト。吉本新喜劇、池乃めだか、お得意のギャグである。
 なんだかそれを連想させる受け答えだった。

「ヨンピョン島での訓練が強行されれば、われわれは、第2、第3の、予想もつかない軍事的な打撃を加える。その火力の強さや範囲は、先月23日の砲撃よりも深刻な状況をもたらすだろう」
 これが今月17日、韓国軍の砲撃訓練に対する北朝鮮の警告だった。そして20日訓練実施の後が、
「全面的な統治危機に直面した(李明博政権)当局と低落した軍部の体面を取り戻すための宣伝用挑発」であり、「幼稚な火遊びにいちいち対応する一顧の価値も感じなかった」
 であった。

 「幼稚な火遊び……」には笑った。泣くほど笑った。いつものおばさんだったか、おじさんだったか忘れたが、脳天の血管が切れそうなアナウンスであった。事前事後のこの落差、ギャグにしてはできすぎだろう。池乃めだかも真っ青だ。ブラフの極みといえなくもないが、裏に隠されたしたたかな計算は笑って済ませない。相手の出方を読み切っている。まさに瀬戸際、寸止めである。とても今年の笑い納めにはなりそうもない。
 明日の日にでも瓦解するといわれ続けてきたこの国。世界のジャーナリズムを嘲笑うかのように、どっこい突っ立ったままだ。この冬1番の寒波に乗せて「今日はこれくらいにしたるわ」と、聞こえてきそうだ。□


無理矢理に合点

2010年12月21日 | エッセー

 「ごめんなさいよ」 「お先に失礼」 「いえ、お構いなく。先を急ぎますんで」と、振り切りつつ爪先だって読み進まねばならぬ本もある。立ち止まろうものなら、たちまち奈落の底だ。自慢ではないが、理系音痴では人後に落ちない。
 9月に出てかなり売れているというので、無謀にも読んでみた。

  「宇宙は何でできているのか」 村上 斉著 幻冬舎新書

 肉屋に行って、野菜を探すに似ている。どだい理解などというものではない。メンチカツに潜り込んだ玉葱の欠片を愛おしく噛みしめつつ、これぞ野菜だと無理矢理合点するようなものである。
 帯にはこうある。
〓〓物質を作る最小単位の粒子である素粒子。誕生直後の宇宙は、素粒子が原子にならない状態でバラバラに飛び交う、高温高圧の火の玉だった。だから、素粒子の種類や素粒子に働く力の法則が分かれば宇宙の成り立ちが分かるし、逆に、宇宙の現象を観測することで素粒子の謎も明らかになる。本書は、素粒子物理学の基本中の基本をやさしくかみくだきながら、「宇宙はどう始まったのか」「私たちはなぜ存在するのか」「宇宙はこれからどうなるのか」という人類永遠の疑問に挑む、限りなく小さくて大きな物語。〓〓
 「基本中の基本をやさしくかみくだきながら」とは慈悲深いお言葉なれど、かみつぶしてペースト状にでもしていただかねば当方の喉を通らない。それでもなんとか嚥下できたいくつかを挙げてみたい。

 著者は素粒子物理学の専門家。東京大学数物連携宇宙研究機構(IPMU=文科省肝入りの研究拠点)の初代機構長である。研究と併せて、市民講座など啓蒙運動にも取り組んでいる。
 まずは当方の認識不足から。
〓〓この10年間、宇宙研究の分野では、さまざまな実験を通じて、驚くべきデータが次々と出てきました。そのデータを踏まえて理論も発展し、斬新でユニークなアイデアが数多く生まれています。その結果、それまで私たちが考えていた宇宙像は革命的に変わってしまいました。いま起きている宇宙論の変化は、「天動説」から「地動説」への転換に匹敵するほどのインパクトがあると言っても、決して過言ではありません。〓〓
 宇宙像に革命的な変化があったとは露知らなかった。まあ、膨れたり縮んだり、始めがあったとかなかったとか、そんなところを行きつ戻りつするのが宇宙論だろうと高を括っていた。ところがどっこい、加速器の加速度的(失礼)発展などが奏功し長足の進歩があったのだ。
〓〓「マイクロ波宇宙背景放射の異方性」の発見によって、宇宙がビッグバンから始まり、137億年かけて現在の大きさまで膨張したことが完全に裏付けられました。〓〓
 宇宙の、地球ではなく、宇宙の年齢は137億歳。これはもう定説である。識らずにいれば、「天動説」レベルで置いてきぼりを食うところだ。くわばら、くわばら。

〓〓ビッグバン直後の宇宙は、それ以上は小さくできないほど小さいものだったでしょう。これは、まさに「素粒子の世界」だと思いませんか? したがって、宇宙の起源を知ろうと思ったら、素粒子のことを理解しなければいけません。逆に、大きな宇宙を調べることによって、小さな素粒子についてわかることもあります。自然界の両極端にあるように見えながら、この2つは切っても切れない関係にあるのです。みなさんは、ギリシャ神話に登場する「ウロボロスの蛇」をご存じでしょうか。自分の尾を飲み込んでいる蛇のことで、古代ギリシャでは、「世界の完全性」を表すシンボルとして描かれました。〓〓
 極大と極小の一致。小を極めれば大に至り、逆もまた同然。これは興味をそそる。だが、決して哲学の話でも人生訓でもない。歴とした科学の世界である。その一端が本書で覗ける。全編を底流するテーマでもある。なににしても、「ウロボロスの蛇」とは絶妙な譬だ。

〓〓実は「原子以外のもの」が、宇宙の約96%を占めている ―― それがわかったのは、2003年のことでした。では、原子ではない96%は、いったい何なのでしょうか。残念ながら、それはまだわかっていません。ただし、名前だけはついています。その一つが、「暗黒物質(ダークマター)」と呼ばれるものです。しかし、正体は不明でも、それが「ある」ことはわかっています。かつてのニュートリノがそうだったように、その存在を前提にしないと辻褄の合わない現象がいろいろとあるからです。〓〓
 乱暴に言うと、辻褄が合うのが科学だろう。だとすると、宇宙のエネルギーの73%を満たしているのは、これまた得体の知れない「暗黒エネルギー」と呼ぶものになるそうだ。「その存在を前提にしないと辻褄が合わない」からだ。「暗黒物質」に「暗黒エネルギー」といっても黒魔術ではない。正体不明を「暗黒」と呼ぶに過ぎない。算数でいえば、代数 Xといったところか。
 書中での「何かがわかると、また新しい謎が登場します。」との述懐は、慣用句に近いとはいえやはり印象的だ。「わかる」までは、Xで料簡するほかない。わかれば、次のXが生まれるにせよ。

 なんともおもしろいのが、自然界には「右」と「左」に本質的な違いがあるという話だ。ノーベル賞受賞者の南部陽一郎氏の「自発的対称性の破れ」――素粒子の対称性がなにかの拍子に崩れる――という理論から、
〓〓自然界にはこういう現象がたくさんあるということを、南部さんは教えてくれました。素粒子の世界だけではありません。たとえば人間に左利きより右利きのほうが多いのは、パリティ対称性の破れではなく、おそらく自発的対称性の破れによるものでしょう。本来、利き腕の右左は「どちらでもいい」はずです。ところが、たまたま何かの拍子に右利きが少しだけ多くなり、それが次の世代に遺伝していくうちに、右利きが圧倒的多数派になったのだと思われます。〓〓
  と続く。だから左巻きのわたしなぞはどう受け取ってよいものか、しばし長考だ。
 「何かの拍子」とは何の拍子だ? などと訊くのは野暮というものだ。それが判れば苦労はなかろう。

 付け加えると、湯川秀樹、小柴昌俊、小林誠、益川敏英、前出の南部陽一郎などの日本人ノーベル賞受賞者。どなたがどれほど凄いのか。雲を掴んでばかりいたが、同書により雲間にうっすらと空を望めるようになった。まことにありがたいことだ。

 今月18日付朝日の天声人語はすこぶるよかった。特に結びに痺れた。
〓〓開会式(筆者註・今年の報道写真展)に招かれた宇宙飛行士の山崎直子さんが、しばし見入ったパネルがある。オーストラリアの星空で燃え尽きた「はやぶさ」だ。「ただいま」の閃光を残して天の川に砕け散る探査機。地平線に棚引く雲たちが「おかえり」と迎えている。何度も泣かせる機械である。〓〓
 本書を読んであの一閃がしきりに甦った。健気な機械に、また泣けた。□


大国に戻る

2010年12月15日 | エッセー

 億面もなく、駄文を引きたい。
〓〓一国の歴史も振り子のような力学現象をみせる。新中国となって、「西洋式に」「洗い晒され」た領域思想が無作法に露頭してきたと、わたしは視たい。78年の中越国境紛争、ロシアとの国境紛争、南シナ海での複数国との領海権紛争、そして東シナ海、尖閣諸島へ。また、「改革開放」以来の成長路線が振り子を加勢した。
 軍事においても同様だ。中国史では武は低きに置かれつづけた。清末はその旧弊に泣いた。周知のとおり、人民解放軍は中国共産党麾下の軍事部門である。いわば『党軍』だ。国軍としての位置づけは二義的なものだ。毛沢東思想に明るいわけではないが、軍事的トラウマが濃厚な背景をなすといえるのではないか。
 ただ忘れてならぬのは、人類はいまだかつて一国で13億もの民を抱えた経験がないという史実だ。わが国と指呼の間に巨大国家があり、かつ境を接しているという事実だ。さらにその国が大国への道を歩み始めた歴史的切所にあるという現実だ。いな、大国に戻り始めたといったほうが正確であろう。さまざまに栄枯盛衰があった中で、有史の過半を世界に冠する大国でありつづけたのだ。それも近々1世紀前までだ。大国主義批判が囂しいが、「主義」である以前に「大国」であったのだ。このあたりを冷厳に踏まえねば、諸説は争鳴し、ただ縄を糾うばかりだ。別けても、「勇ましい発言」に足を掬われかねない。大向こうの喝采はあっても、一時(イットキ)のカタルシスでしかない。
 再びの大国への坂が易かろうはずはない。当方とて、越して行く先はない。〓〓(10月22日付本ブログ「智慧について」から抄録)
 エジプトもメソポタミアも、さらにギリシャ、ローマも世界史から降板して久しい。比するに中国は、「近々1世紀前まで」人類が歩んだ「有史の過半を世界に冠する大国でありつづけたのだ。」だから「大国への道を歩み始めた」というより、「大国に戻り始めた」との視点はわが拙作の竜に睛を点ずるものとしたい。
 この認識が欠けたり薄いところに、自尊の裏返しとしての歪な敵愾心や嫉視が生まれるのではないか。第一どう抗っても、中国文明の恩恵なくして日本文化は成り立ち得なかった。維新から勘定してたかだか1世紀半ぐらいの先発を鼻にかけても、珍奇な夜郎自大でしかない。その成れの果ては惨めだった。健忘は日本人の個癖とはいえ、ついこないだのことだ。記憶から失せるには早すぎる。
 
 さて問題は、戻り方だ。
 当然、一国には固有の歴史があり文化があり、民族的DNAがある。地政学上の条件がある。別けても大国である。悠遠な歴史の凝(コゴ)った国である。間尺も間拍子もまるで違う。そこは、いの一番に押さえておかねばならないだろう。つまりは中国型というか、中国的原理があるはずだ。それを詳らかにするのは筆者が担げる荷ではない。知も能も遠く遠く及ばぬ。コンシェルジュに頼るほかはあるまい。
 好著がある。 ―― 石川 好著「中国という難問」(NHK出版 生活人新書) ―― である。08年の作だから尖閣は出てこないが、新書ながら重厚な内容を盛った中国論だ。何点か取り上げてみる。(同書からの引用部分は≪ ≫で括った)

 北京オリンピックの開会式。天駆ける少女の口パクやCGによる豪勢な花火の映像、実はすべて漢族の子どもに民族衣装を着せていた少数民族のオンパレード。世界のメディアは「嘘」の演出だと難じたが、これこそ「中国型」を象徴する場面だったと氏は捉える。「嘘」ではなく、氏は「虚」というキーワードを持ち出してくる(音は同じ)。

≪中国史にあっては、「虚」をあたかも「実」の如く演出する精神の遺伝子のようなものが中国人の中に堆積されていて、それが時として表面化し、中国社会を包み込む魔力を発揮する。またその逆に「実」が「虚」でもあるという反転が常に起こる歴史の生理のようなものがこの国を覆っている。≫

 なにやらコピー商品の大氾濫も著作権への極度な鈍感も、その原像が仄見えるようだ。それはさておき、虚は「墟」の字源である。

≪「虚」とは何を意味する文字なのか。白川静の説によれば、「虚は墟(都のあと)のもとの字である。虚は廃墟(建物・市街などの荒れ果てた跡)の意味から現存しないもの。『むなしい』の意味となり、中味がないので『うそ、いつわり』という意味にも使われる」のだという。≫

 現存せずとも、かつて確かにあった。それが、「虚」である。 

≪なくなっているものこそ「理想」あるいは、本来あるべき姿ではないか。もともとなかったのではなく、始まりにはあったのだ。始まりは無ではなく有だったのだ。そのあったものが、なくなった、という意味はよくよく考える必要がある。中国古代の伝説は、すべて「虚」から始まっているのではないのか。その結果、虚を作ること、虚を継続して創作することこそが、時代時代の中国史を串刺しにする連続性ではなかったのか。じつは中国において、この西洋文明がいうような「理念」に相当する言葉が「虚」なのだと私は考えたのである。≫

 したがって、

≪オリンピック開会式での少数民族偽装パレードに話を戻すと、それが「うそ」を演じていたにしても、もともとあったはずのことを再現していたのだから、「うそ」にはならない。つまり、「虚」を演出していたのだった。≫

 となる。城址にかつての城を普請するとしよう。材料も違い、結構も異なるかもしれない。元の城そのものではない。が、贋作とはいえまい。原姿の再現と呼んで憚りあるまい。
 さらに論はすすむ。

≪毛沢東はいかなる「虚」を作り出したのかという中国史にかかわる問い。それは中国は少数民族も参加した、人民主導による連合政府(新民主主義国家)を将来は作るという虚である。それが成立した後に、人民解放軍は晴れてその連合政府の軍となる、と毛沢東は言った。すなわち党から国家の軍に移行するという、中国史にかつてなかった人民による政府を作ると約束した。これが毛沢東の中国共産党が作り出した「虚」である。その「虚」を実現するために、「銃とペンを手放すな」という方法を、コピーライター毛沢東は語り、共産党はこれを独占実行していると思われるのである。≫

 ここは同書の白眉であろう。
 「もともとなかったのではなく、始まりにはあったのだ。始まりは無ではなく有だったのだ。そのあったものが、なくなった」。書中語られてはいないが、堯舜の代という「墟」が、つまりは「虚」が始まりのはずだ。「虚を継続して創作することこそが、時代時代の中国史を串刺しにする連続性」だとすれば、「社会主義市場経済」も壮大なる「嘘」であり、「虚」というほかあるまい。
 さて提起した「戻り方」とは、つまり「銃とペンを手放すな」である。

≪文に頼る政治を行ったがゆえに中国は動きがにぶくなり、清朝も崩壊したわけだが、その「文」に代わり「武」を優先させているのが現代の中国共産党である。≫
≪「ペンを手放すな(独占せよ)」とは、自分の言葉、考え抜いた詩文、あるいは政治論文の中に中国の未来のすべてがあるという意味で、彼はそう自負していたに違いない。≫
              
 拙論の「軍事的トラウマが濃厚な背景をなす」がゆえの「銃」。「ペン」とは狭義には毛沢東思想であろうが、広義には中国共産党の指導性を指すだろう。それを「手放すな(独占せよ)」である。それが「中国型」の核心部分だ。
 同書の冒頭で、氏は次のように言う。

≪中国はあまりに「大きく」、「広く」、「深く」、「多い」。中国は「鳥の眼」を持って、「虫の眼」を持った魚のように動きながら見ないことには、その実体を捕まえることはできない。≫

 宜なるかなである。氏はその能力を具えた優れたコンシェルジュの一人に相違ない。
 西欧型、西欧的原理に適うことのみが進歩ではあるまい。前世紀末から、それに対するオブジェクションが世界的規模で渦巻いているではないか。ましてや、「間尺も間拍子もまるで違う」のが中国である。中国型、中国的原理を押さえずしては間合いもなにも取れたものではない。この稿で取り上げたのは本書のごく一部である。中国はわれわれの理解を超えて、「あまりに『大きく』、『広く』、『深く』、『多い』」。独尊のように見える裏で、世界の目を意識するしたたかさも合わせ持つ。まことに懐が深い。単純な割り切りは百害あって一利なしだ。
 中国を識ることは、これからの最重要な対外リテラシーともいえよう。「井蛙の見」ではなるまい。これとて彼の国の智慧だ。 □


成田屋っ!

2010年12月09日 | エッセー

●海老蔵さん、無期限出演自粛=1月の「初春花形歌舞伎」は中止―松竹
 歌舞伎俳優の市川海老蔵さん(33)が飲酒トラブルで大けがを負った事件を受け、松竹の迫本淳一社長は7日夜の会見で、海老蔵さんの今後の出演を「期限を定めず見合わせる」と発表した。(12月7日 朝日)
●「だらしなさに負けた」=左目充血、表情神妙
 「自分のだらしなさに負けた」。歌舞伎俳優の市川海老蔵さん(33)は7日、神妙な面持ちで会見に臨んだ。左目は充血し、暴行の名残がある。謝罪や反省の言葉を繰り返す一方で、自分は被害者であると強調し、当面は飲酒しないと表明した。 「舞台に穴を開けた」「おごりが招いた」。約10秒間頭を下げると、マイクを持ち、おわびの言葉を並べた。(12月8日 朝日)

 会見の会場を埋めた報道陣は500人という。異様というほかない。国家の一大事と見紛うばかりだ。テレビのニュースやワイドショーでも連日大々的に報道される。異常というほかない。この国の住人は、よほど芸能情報に渇しているのであろうか。壮大なる井戸端会議であり、ある種の狂騒状態、お祭り騒ぎである。「事件」よりも「騒ぎ」がもっと深刻ではないか。
 本ブログで再三再四書いてきたが、芸人やスポーツ選手へ過剰に倫理感を求めるべきではない。特に今回の場合、彼は明白に被害者である。「一声、二顔、三姿」のうち、大事な二つめを傷つけたことは役者名利に悖るが、それは早い話、てめぇーの問題だ。世間が目くじら立てる筋合いではない。松竹の無期限出演自粛も、なんだか角を矯めて牛を殺すの愚策ではないか。むしろ、「改心させ、早く治させて、一日も早く皆様にお目にかけますから、しばしご猶予を」ぐらいのことは言ってほしい。どうも話の持って行きようが逆さまな気がしてならぬ。まったくもって、垢抜けない対応だ。

 「傾(カブ)く」が、歌舞伎の原点である。戦国末から江戸初頭、人並み外れた異形と世の常ならぬ突飛な振る舞いに現を抜かす者を指して「かぶき者」と呼んだ。『いかれた連中』といったところか。そのDNAが蠢いた、と視てやりたい。軽度ではあるが、先祖返りといえなくもない。それを、一国存亡の危機のごとく大騒ぎに騒ぐ。まことに天下太平、能天気、ほかにすることは一杯あるだろうと言いたくなる。

 文化文政に隆盛を極めたが、天保の改革は歌舞伎にとって受難であった。大火事を機に江戸三座が移転の憂き目に遭い、五代目の市川海老蔵は「贅沢禁止令」に背いた科で江戸を追放される。今が十一代目、五代の隔たりを挟んでなにやら因縁めいた事の顛末ではないか。いや、おもしろい。芝居掛かるとはこのことか。
 そういえば、記者会見での彼の物腰。特に声の抑揚といい、間といい、いかにも芝居染みていて胸がすく心地だった。馬鹿騒ぎの中で、唯一真っ当に感じられたのは錯覚であろうか。鵜の目鷹の目の手合いに、巧まずして痛烈なカウンターパンチになっていたのではないか。にわか芸人ばかりが跋扈する当今、断然、筋目が違う。腐っても鯛だ。

 今や、世間の方こそよほど傾(カブ)いている。海老さまよ、心配めさるな。こんなことは芸の肥やし。なんにも詫びることはない。夜遊び、牛飲、大いに結構。一日も早く重要無形文化財と世界無形遺産を両肩に背負(ショ)って、六方踏んで大見得切って、大向こうを唸らせてほしい。そうすれば、おじさんも、おばさんも声を限りに叫ぶだろう。
「よぉ、成田屋っ! 待ってました!」 □


歩き目線

2010年12月07日 | エッセー

 はじめ、かったるい番組だなという印象だった。

   NHK 「世界ふれあい街歩き

 何度か観るうち、贔屓になった。
 総合では、毎週金曜日午後10時から45分間放送される。名所にも訪れるが、おもに都市の街並みを歩く。ステディカムという揺れを抑えた特殊カメラで、人が歩く目線で撮る。番組の案内によれば、 ―― 「自分で街を歩いている感覚」を疑似体験してもらおうという趣向の旅番組 ―― とのことだ。
  時には、ふと路地に入り込んだりする。民家に招じ入れられたり、船に乗ったり、マーケットを物色したりと、ほどよい散歩感覚を演出する。
 中嶋朋子、高橋克実、西村雅彦、矢崎 滋らの俳優陣がナレーションを努め、時折街ゆく人とことばを交わす(アフレコだが)。これがなかなかいい味をだしている。

 冒頭の「かったるい番組」から飛んでみる。
 司馬遼太郎の「街道をゆく 33」に、こんな行(クダリ)がある。

≪江戸弁というのは母音がみじかく、子音を強く発する。民衆の啖呵などでいっそう威勢を出すために、形容詞や動詞のあたまに、「掻っ」ということばをつけて景気づける。ただし、武家や商家ではつかわない。“耳を掻っぽじって聞きやがれ”などという。“めしを掻っ食う”といえば、大刺青の男が、真夏にもろはだぬぎでめしを食っている情景までうかぶ。スリが財布を”掻っさらう”といえばあざやかだし、体がだるいといえばいいのに“掻ったるい”といえば、小気味いい。いまはふつうの日本語のなかに入って、大阪の球団の応援団の囃子言葉なども”掻っ飛ばせ”などというが、こういう言い方は、もとは江戸の職人や人夫のあいだで多用されたのである。≫

 天下無双の博覧強記に対して盲蛇に怖じず、遼東の豕も甚だしいが、「“掻ったるい”といえば、小気味いい」に引っ掛かった。「威勢を出す」ための接頭語を、まさか「怠い」に付けるのはおかしくはないか。大いに恐れ入りつつ調べてみると、江戸ができる遥か前の平安時代に発することばだった。
 「かひなだゆし」 ―― つまり「かいな(腕)が、だる(怠)い」 ―― が音便化して「かひだゆし」、促音化して「かったるい」となったらしい。
 つい筆が滑ったのか、あるいは別意があるのか、詮索は身のほどを超える。

 ともあれ「かったるい」と感じたのは、この番組の術中であったのかもしれない。なにせ「自分で街を歩いている感覚」が狙いで、売りだ。旅番組ではいままでにない視点だ。ふつうは鳥瞰するか、遠望するか、未踏のアイポイントから撮る。絵葉書風のいわゆる名所旧跡巡りだ。だがこれはNHKが技術の粋を使って、生活の場で、いうなれば『歩き目』線で撮ったところがなんとも新鮮ではないか。

 偉大な発見や創造は、得てして学舎の奥の院ではなく日常の生活の場でなされる。「万有引力の法則」はリンゴの落果であったし、「運命」はドアのノックであった。さらに溯ると、古代ギリシャでは「アルキメデスの原理」がつとに名高い。純金の王冠と贋作を見分けよという王命に苦渋するアルキメデス。ある日、いつものように風呂に入る。と、バスタブから溢れる湯に「浮力の原理」が閃いた。嬉しさのあまり、裸で街に飛び出したそうだ。
 豁然たる啓示はさりげない日常にあった。決して高みではなく、さりとて低からず。頃合いの、人の目線。そう、『歩き目』線。『歩き目』です(アルキメデス)! 
 すげぇー無理矢理な駄洒落で、頭突きかまわし蹴りを食らいそうだが、これでもNHKへのエールのつもりだ。
 大晦日の「一日民放」、どんちゃん騒ぎは論外だが、この局には好番組が多い。そのひとつとして触れてみた。 □


鳥 供養

2010年12月01日 | エッセー

 豚インフルならわかるが、鳥インフルは解しかねる。風の中で生きている鳥がカゼを引く。考えてみれば、なんとも不思議な話だ。水の中で生きている魚が水疱瘡に罹るようなものだ(無理やり過ぎるか)。

●鶏の殺処分始まる=国と県が対応協議―鳥インフル疑いで
 島根県安来市の養鶏農家で高病原性鳥インフルエンザ感染の疑いがある鶏が見つかったことを受け、県は30日、発生農場の鶏の殺処分を始めた。2日程度かけ、炭酸ガスで約2万3000羽全てを窒息死させる。県によると、ウイルス感染が確定する前に殺処分するのは全国で初めて。殺処分した鶏は焼却する方針だ。 
 県は同日、危機管理対策本部を設置。感染拡大防止のため、幹線道路、農場周辺など計9カ所で車両消毒を実施した。また、発生農場から10キロ以内の他の養鶏場の鶏についても移動を制限している。
 鳥インフルの疑いを受け、松木謙公農林水産政務官は同日、県庁を訪れ、溝口善兵衛知事と今後の対応を協議した。溝口知事は「国の指示を仰ぎ、連携しながらこの問題に万全を期したい」と話した。面会後、松木政務官と溝口知事は発生農場近くの消毒ポイントを視察した。(11月30日付 朝日) 

 すばやい対応だ。口蹄疫発生の日に、5時定刻に退庁したどこかの知事とは大違いだ。
 2万3千羽の焼却処分とは破天荒な規模だ。壮大なる焼き鳥である(失礼)。焼き鳥には垂涎の筆者としては、ぜひお招きいただきたかった。死ぬほど食える。だが、死にはしない。人様には無害である。ぜひとも島根県の溝口知事にはテレビカメラを呼んで、焼き鳥にかぶりつき頬張ってほしかった。
 そのむかしカン違い男がカイワレ大根を食べてみせ、問題なしだとアピールしたことがあった。それに比べれば、断然すげぇーパフォーマンスになる。肉食と草食、手づかみで喰らいつくのと箸で楚々と口に運ぶ(それほど上品ではなかったが)のとでは格段に印象が異なる。それは難局に立ち向かう男の意気込みと力量を圧倒的に訴えるにちがいない。大根食って悦に入るような草食系男子よりは、肉食系男子こそ漢(オトコ)の名にふさわしい。

 脱線ついでにいうと、焼き鳥について筆者は徹して『タレ派』である。通は『塩派』であるなどとは、世迷い言にしか聞こえぬ。上質の素材ならそれだけで旨いのは当たり前だ。素材で勝負するのではなく、素材の非力をカバーし、でき得ればそれ以上の味覚を供する。それがタレである。生来の才能に恵まれぬ者がどう生き延びるか。そこに苦汁があり、重ねた苦汁は人生に滋味を添える。屈折、煩悶のわが人生に重ね合わせ、焼き鳥はタレに限ると、頑なな嗜好を貫く今日このごろである。

 拙稿を引きたい。話は飛躍する。
〓〓ちかごろ、世の中は挙げて滅菌・無菌指向である。医療・理容器具、食品、プール、公衆浴場、温泉、台所・調理用品、建築物、農業、工業、果てはクリーンベンチに至るまで滅菌・無菌だらけである。ついには病膏肓、社会そのものを無菌室にでもしようと企む向きもある。しかし、水清ければ魚棲まずだ。曲がらねば世が渡られぬ、ではないか。無菌室には入りようがない雑菌の塊である筆者など、無菌などとは滅相もない。清浄無垢の空蝉など身の毛のよだつ地獄でしかない。〓〓(本年7月9日付本ブログ「『紅白』も中止!」から)
 大相撲の賭博問題に絡んでの管見である。もちろん、病原菌は訳がちがう。衛生上の対策は当然必要だ。ただ異様で異常な「滅菌・無菌指向」が文字通りの風声鶴唳に至っては、無用な殺生が繰り返されることにはならないか。杞憂を願いつつ、蛇足を描いてみた。

 凩の吹く夜寒は赤提灯に駆け込んで、焼き鳥で一献。おじさんには、これが堪らない。ともあれ、1日も早い終熄を祈るばかりだ。

 鳥だけに、あっちこっちに話柄が飛んだ。いやはや、トリ留めもない。トリ散らかったまま稿を閉じる。 □