伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

あざとい!

2019年07月30日 | エッセー

 平仮名の「れいわ」にはアイロニーが込められているそうだ。体制側の衛兵となった「新撰組」は今主権在民である以上、国民を守る意味があるという。なんとも無茶苦茶な牽強付会である。まともな歴史的知識、それも中学生レベルの学力が疑われる。「維新」から「新撰組」、歴史を逆行するつもりなのか。武士へのメタモルフォーゼに身を焦がし、京都を血の海にした徒党になにを準える気なのか。沖田総司を気取るのか、それとも土方歳三か。なんともタロウくんの意図が読めない。
 17年4月天皇直訴騒動があった時、拙稿でこう綴った。
 〈田中正造の天皇直訴に譬える向きもある。だが、天皇大権を有する明治天皇と象徴天皇とではまったく意味合いが異なる。田中は議員を辞して後越訴に及ぶが、タロウくんは国会議員だからこそ招待される特権を使った。
 動機は天皇に「現状を知ってほしかった」からだという。これは最も愚劣な発言だ。民主主義国家において、識らせたい、訴えたい事柄の最終的な受け皿は国政担当者たるべき国会議員ではないのか。憲法4条についての無知も、皇室行事に関する不見識も確かに稚拙ではある。だがそれ以上に、この人物は国政の担い手は誰なのかという基礎的自覚が致命的に欠落しているのではないか。有権者の膏血と引き換えに自らに付託された「訴え」を、なぜ他にも受け皿があるかのように装う。自らに投じられた66万余に及ぶ有権者の「訴え」を一身に受け切ってこそ国政の担い手ではないか。最終の受け皿ではないのか。〉(『不適切とは言うが』から要録)
 今回の参院選で彼は比例区に回り、東京選挙区には無名の曰くありげな約物候補を当てた。比例区特定枠を使って2人の障害者候補を受からせるためだ。だから東京で「山本太郎」票は無効となる。この辺り、なかなかセコい。結果、13万票の山東昭子は当選しても96万票獲得したタロウくんは落選の憂き目に会った。だが、それは織り込み済み、狙いは次の衆院選だ。
 2人の障害を抱える初当選議員は1人がALS、1人が脳性麻痺。移動も意思表示も介助なしにはできない。かつての八代栄太とは障害の度が極端に違う。議員席を改造し、階段にスロープを設置することなぞは容易い。イシューはそこではない。委員会審議での丁々発止の議論は可能であろうか。もちろん国会議員であるからには国政全般に関わる採決がある。国会内を経巡り、他党との駆け引き、さまざまな利害調整を強いられる場面もある。現地視察もある。秘書や介助スタッフが代替できるという意見もあろう。となれば、存在意義は限りなく希薄になりはしないか。要するに国会議員である以上は、国民すべての代表である。その職責を十全に果たせるのか、そこが釈然としない。少子化、高齢化、経済的格差の顕在化する中、世の流れは社会的弱者にかつてない目が注がれている。それは大いに結構なことだが、そのトレンドに異を唱えがたい選挙ストラテジーがまことにあざといのである。
 そうではなく、弱者を代弁し代表することこそが代議制の本旨ではないのか。この場合、フィジカルな弱者を代表するのではなくそのまま国会に送り込んでくる。その為様(シザマ)があざといというのだ。意地悪く捉えれば、究極の自己責任論といえなくもない。「押しが強く、やり方が露骨で、抜け目がない」。これがあざといの謂である。適語であろう。
 上記の旧稿で「この人物は国政の担い手は誰なのかという基礎的自覚が致命的に欠落している」と糺した。欠落はそのままだ。
  タロウ君を左派ポピュリズムであるとか、日本版バーニー・サンダースであるとの論調を見受ける。掬い取られてこなかった声を政治に反映させるポテンシャルがあるという。それは一途な左派にも、社会主義政党から高度な操舵を決断したサンダース氏にも失礼であろう。無責任でまるで整合性のない政策の羅列、MMTの礼賛など、どこにそんなポテンシャルがあるというのだろう(MMTについては4月の愚稿で触れた)。
 内田 樹氏はかつて、ある政党が政権を獲ったらどうなるか、その政党の今のありさまがそのままそっくり現実になるにちがいないと語った。あざといのは御免だ。 □


暴走列車

2019年07月26日 | エッセー

 ありそうなタイトルだが、同名の映画はない。暴走する列車を描いた作品ならいくつもある。中でも『暴走機関車』(1995年)と、『暴走特急』(1995年)、それに『アンストッパブル』(2010年)の3作が印象深い。いずれもアメリカ映画である。
  『暴走機関車』(原題:Runaway Train)は当初、黒澤明がハリウッド進出への突破口として企画したものだ。だが、脚色やキャスティングを不満として降りた。後ハリウッドが独自に完成させ、原案・黒澤明とクレジットされたのだが本人は作品を批判した。
 脱獄を繰り返す囚人と彼の殺害まで企てる刑務所長との攻防が描かれる。囚人は耐えきれず仲間と共にまたも脱獄。ディーゼル機関車に身を隠してアラスカからの“Runaway”である。ところが機関士が心臓発作を起こし転落。フルパワーのまま機関車は暴走を始める。鉄道会社は脱線させて止めようとするが、失敗。ついに所長が機関車に乗り込み囚人との格闘に。非常停止ボタンを押すことを拒み、仲間を後続車両に移して連結器を開放。囚人と所長の2人だけを乗せて機関車は雪原に消えていく。
 せっかく機関車にまでたどり着き停止させることができたのに、暴走に身を委ねる。まことに印象的なラストシーンであった。
 『暴走特急』(原題:Dark Territory)はロッキー山脈を征く豪華列車がテロリストに乗っ取られ、たまたま乗り合わせていた元海軍対テロ専門家が立ち向かうというヒーロー映画である。手に汗握る展開の末、乗客の命は救われるが大陸横断特急は大爆発する。列車は緊迫の舞台とはなるが、運行の停止は直截的なテーマとはならない。
 『アンストッパブル』(原題:Unstoppable)はいかにもハリウッドらしいパニック映画である。実話から着想したそうだ。有害化学物質を積んだ39両編成の貨物列車を引っぱる最新鋭ディーゼル機関車が登場。作業員のミスから無人で走り出す。次第に加速しついに暴走状態に。行く手には急カーブのある市街地が迫る。外側には燃料集積所が広がっている。脱線すると大惨事になる。今いる農村地帯で脱線させて被害を極力食い止めようとする具申は却けられ、燃料タンクを撃ち抜く試みも失敗。別の路線に引き込もうとしても嘲笑うように本線上を突破していく。最後尾に別の機関車を食らいつかせはしたが、減速はしても停車には至らず。元々貨車のブレーキが故障しているため、外からは止められない。ついにトラックを併走させ、新米車掌が機関車に飛び乗ってブレーキをかけ、停車に成功する。
 粉々に砕け散った『暴走特急』は措くとして、他の2作品は悲劇を回避した。急所はただひとつ、制動は外側からではなく内側でなされたことだ。『Runaway Train』は自らそれを放棄して大雪原への“Runaway”を果たす。『Unstoppable』はそれを成して“un”をむしり取った。どちらも外的掣肘の無効を表徴している。いや、むしろ逆効果を含意している。
 あちこちで暴走を始めた社会も道理は同じではないか。 □


吉本騒動の「情況」

2019年07月24日 | エッセー

 先月29日の本稿で『闇営業と闇社会』と題し吉本騒動について記した。骨子は以下の4点。
1. 闇営業は吉本と芸人との関係であって、オーディエンスには関係ない話だ。巨大プロモーターの収奪構造こそイシューではないか。
2. 闇社会との繋がり。これは「芸人に倫理感を過剰に期待すべきではない」の一言に尽きる。
3. いま芸人がテレビ界の花形のようなとんでもない誤解の内にある。職業に貴賤はないが、立ち位置はあるはずだ。
4. 本物の芸人ならこれはヤバいという職業的勘働きがあって当然だ。
 1.については、松本某や加藤某がアクションを起こしたらしい。吉本にとっては飼い犬に噛まれるに等しく、庇を貸して母屋を取られる成り行きであろう。お笑い界の働き方改革であろうか。
 雨上がらず決死隊とロンドン長靴が開いた記者会見について、たけしは「シャレになんない!」と吉本興業を扱き下ろした。これは大いに納得がいく。江戸前の感覚では楽屋落ちを晒させるな、そんなみっともないことをさせるなよ、吉本! というところか。
 2.吉本の教育事業にクールジャパン機構から公金が注がれている以上厳正であるべきだとの見解もある。それをいうなら、参院選直前のG20に事寄せて吉本新喜劇の舞台にアンバイ君を招き入れた吉本の対応はどうなのか。アンバイ君は“印象操作”が大嫌いなはずなのに、好感度狙いの御都合主義に吉本が易易として同調する、その節操のなさこそ糾弾すべきだがマスコミは沈黙した。政界の闇の思惑との繋がり、これは芸人の、その元締めの出自、属性に関わる。だからその倫理感に過剰な期待は禁物だという。
 3.前記の愚稿に「芸人が平然と余芸で荒稼ぎする。これは紛れもない倒錯であろう」と呵した通りだ。
 4.はあまり語られることのないイシューである。いな、これに触れる言説は寡聞にして知らない。マスコミ、テレビ界の著しい劣化を勘案すれば前景化しないのも頷ける。
 括るとどうなるか。再三再四の引用になるが、吉本隆明の洞見を引くほかあるまい。
 〈芸能者の発生した基盤は、わが国では、支配王権に征服され、妥協し、契約した異族の悲哀と、不安定な土着の遊行芸人のなかにあった。また、帰化人種の的な<芸>の奉仕者の悲哀に発していることもあった。しかし、いま、この連中には、自分が遊治郎にすぎぬという自覚も、あぶくのような河原乞食にすぎぬという自覚も、いつ主人から捨てられるかもしれぬという的な不安もみうけられないようにおもわれる。あるのは大衆に支持されている自己が、じつはテレビの<映像>や、舞台のうえの<虚像>の自己であるのに、<現実>の社会のなかで生活している実像の自己であると錯覚している姿だけである。〉
 昭和45年に出版された『情況』の文中にある一節だ。シャレにもならぬが、半世紀経っても情況は変わらない。というか、今回の騒動それ自体が「支配王権に征服され、妥協し、契約した異族の悲哀と、不安定な土着の遊行芸人」を寸分の狂いもなく具現している。吉本は「支配王権」そのものだ。「いま、この連中には、自分が遊治郎にすぎぬという自覚も、あぶくのような河原乞食にすぎぬという自覚も、いつ主人から捨てられるかもしれぬという的な不安もみうけられない」という情況が、今、反転した形で顕在化し突き付けられているのだ。「<虚像>の自己」が「<現実>の社会」の最も深層にある闇社会に搦め捕られた。この騒動の構図そのものが隆明の卓見をそのままなぞっているといえる。
 付言すれば、起ち上がった“勇士”たちも「大衆に支持されている自己」を過信しない方がいい。芸人である限り、「遊治郎にすぎぬ」「河原乞食にすぎぬ」という属性からは離れられないからだ。人気や高視聴率なぞあぶくのようなものだ。虚像に過ぎぬ。隆明が剔抉した「情況」はそのままだ。
 ここは一番、N国(NHKから国民を守る党)に倣って“Y国”(吉本から国民を守る党)でも旗揚げした方が気が利いているかも知れない。赤絨毯だって一強はろくなことにならないのだから。 □


「釣り合わない!」

2019年07月21日 | エッセー

 「パクリやがって」という容疑者の怒声を聞いたと近所の人がインタビューに応えた。第一報である。刹那、不謹慎ではあるが「釣り合わない!」と呟いた。さらにやくざな物言いではあるが「社長ひとりでいいだろうに」と独りごちた(断っておくが、決して容認しているわけではない)。
 つまり、犯意と罪状が釣り合わないのだ。まったくのアンバランスである。先々月の川崎殺傷事件もそうだ。
 犯意とはその行為が犯罪となることを知りながら行おうとする意思をいう。罪状とは問われる罪の具体的な事実を指す。不特定多数を狙う通り魔殺人とは犯情が異なる。上記の2件は犯意と罪状があまりにも乖離している。
 無理やり裏返して考えると、「同害報復」が浮かぶ。同原則は古代オリエント法やイスラム法に記された「目には目を、歯には歯を」である。惨いという向きもあろうが、罪状と罪科の均衡を謳っている。目を害された場合は相手の目以外を害してはならない。歯も同等だ。蒙った被害を超えて際限のない責任追及を禁じている。「同罪刑法」ともいう。今に生きる鉄則だ。目を抉られても、加害者の目を抉る以上の報復をしてはならないといっている。無理筋ではあるが容疑者の犯意を前提にしても、「報復」が「際限のない責任追及」に堕しているのではないか。
 社会の極端化はつとに指摘されているところだが、その一端がありありと現像を顕しているようでなんとも悍しい。反知性主義の蔓延、単純化の浸潤、ヘイトの瀰漫、大手を振る黒白・敵味方の二分法、勝利至上主義の蔓延、SNSの炎上など。比するに熟議やペンディングの妙、落とし所の忘失、グレーゾーンの消失……生きる知恵が次第に欠け落ちていく気配がするのはわたしだけであろうか。
 傷ましい犠牲者を哀悼しつつ、そんな愚案が駆けた。 □


<承前>当てずっぽうにもほどがある

2019年07月17日 | エッセー

 小峠クンではないが「なんてクイズだ!」と、天を仰ぎそう叫んだ。前稿で取り上げたハンス・ロスリング著「ファクトフルネス」の『世界の事実に関するクイズ』12問を有縁の20数人に試みた。老若男女、さまざまな分野の人たちである。同著ではこうある。
 〈2017年に14力国・1万2000人を対象に行った調査では平均正解数は12間中たったの2問、17%であった。全問正解者はゼロ、全問不正解者は15%もいた。人類の1割前後が自らの輝かしい進歩に気づいていないということになる。〉
 やはり全問正解者はゼロだった。全問不正解者は15%、上記の15%にドンピシャだ。ほとんどが2~4問の正解、平均正解率17%に近似していた。やはり、チンパンジーの正解率33%にはるか及ばない結果となった。
 問題は同書で詳述されていないこの先だ。平均と全問正解の間である。5問正解者は1人、6問正解者はゼロ、7問が1人。さらに12問中10問正解=正解率83%が1人、8問正解=正解率67%が1人いた! これは青天の霹靂、もちろん見知った人物である。失礼ではあるが、驚き桃の木山椒の木、とても“そのよう”には見えないお二人である。
 想像をはるかに超えた驚異的な正解率に動顛し頭を抱え込んだ。仮に前者をAさん、後者をBさんとしておこう。両者とも博覧強記とは到底いえない(確信もって)。だから知的ストックを繰り出したわけではないだろう。ない袖は振れない。ならば、当てずっぽうか。でもチンパンジーの2倍を超える。だから、当てずっぽうにも程がある、という。だが、「当て推量」という賭けが大穴を当てたとは考えられぬか。あるいは当てずっぽうが天才的に巧いか。……ああ、ど壺に嵌まりそうだ。
 AさんもBさんも素直な性格である(多分。それにASDにはまったく該当しない)。それは少なめの(失礼!)知的リソースを補って余りある。2人ともあれこれ考えずに直感的に答えたと言うから、『世界の事実』を屈折せずに捉えたといえなくはない。ただしもっと愛すべき性格の人が超アンダースコアに沈んだ事実と整合しない。ということは、知的・心的資質が按配よく両両相俟ってハイスコアとなったか。それもにわかには肯んじ難い。牽強付会の感ありだ。
 なんとなくそれらしいのは地頭(じあたま、“じとう”ではない)の良さか。知的パフォーマンスに飛切り長けているわけではないが、既知の中からクリエイティブな言動ができる人。Aさん、Bさんはひょっとしたらそうかもしれない。でもそれなら当てはまる人は他にもいた。
 知識よりも高次にあるのは知性である。もしも“地知性”と呼びうるものがあるとしたらそれかも知れぬが、それもまた例外がある。いや、あった。なにせ、稿者は正解率で僅かにBさんの後塵を拝した。というか、地知性ありとする前提が慢心ゆえだったか。
 とこう考えるうち、ますます謎は深まる。とりあえず、当てずっぽうにもほどがあるとでも括っておくに如くはあるまい。
 おっ、当てずっぽうのAさんが当てずっぽうの家計簿をつけている。こっちの当てずっぽうは当たったためしはないのだが。 □


ファクトフルネス

2019年07月11日 | エッセー

質問3 世界の人□のうち、極度の貧困にある人の割合は、過去20年でどう変わったでしょう?
 A 約2倍になった   
  B あまり変わっていない   
  C 半分になった
質問9 世界中の1歳児の中で、なんらかの病気に対して予防接種を受けている子どもはどのくらいいるでしょう?   
  A 20%   
  B 50%   
  C 80%

 3. は正解率7%、9. は同13%。3. については、「わたしが見てきた世界の変化の中で、最も重要なものだ」と著者はいう。9. も「またしても、すばらしいことだ」と讃える。してみると、人類の1割前後が自らの輝かしい進歩に気づいていないということになる。恥ずかしながら稿者もその中にいる。(3. はC、9. はCが正解)
 「世界の事実に関するクイズ」と銘打たれた12の質問。2017年に14力国・1万2000人を対象に行った調査では平均正解数は12間中たったの2問、17%であった。全問正解者はゼロ、全問不正解者は15%もいた。対象者の中には大学教授、多国籍企業の役員、ジャーナリストを始めとする高学歴で国際問題に興味をもつ人たちもいた。このグループでさえ一般人の平均正解率を下回り、呆れるほど不正解を連打したノーベル賞受賞者もいたそうだ。もしも動物園のチンパンジーに出題してそれぞれA・B・Cと書いたバナナを選ばせると、正解率は33%になる。つまり当てずっぽうでも3割は超える。エンピツを転がした方がマシだ。「17%」を遙かに上回る。だから、「チンパンジーは適当にバナナを拾うだけで、高学歴の人たちに勝てる」と著者は嘆く。
   ハンス・ロスリング著ファクトフルネス日経BP社 本年1月刊
 後塵を拝する感はあったが、日本語版25万部、世界で100万部を超える驚異的メガヒットの御高説を拝読した。「FACTFULNESS 10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣」と副題にある。「ファクトフルネス」とは、思い込みを廃し物事を正しく認識する習慣といえるか。その思い込みとは、
1.  分断本能 「世界は分断されている」という思い込み
2.  ネガティブ本能 「世界がどんどん悪くなっている」という思い込み
3.  直線本能 「世界の人口はひたすら増える」という思い込み
4.  恐怖本能 「実は危険でないことを恐ろしい」と考えてしまう思い込み
5.  過大視本能 「目の前の数字がいちばん重要」という思い込み
6.  パターン化本能 「ひとつの例にすべてがあてはまる」という思い込み
7.  宿命本能 「すべてはあらかじめ決まっている」という思い込み
8.  単純化本能 「世界はひとつの切り口で理解できる」という思い込み
9.  犯人捜し本能 「だれかを責めれば物事は解決する」という思い込み
10. 焦り本能 「いますぐ手を打たないと大変なことになる」という思い込み
 である。それぞれに原因と対処が述べられていく。納得と同時に打ちのめされる。
──ビル・ゲイツ、バラク・オバマ元アメリカ大統領も大絶賛!  
「名作中の名作。世界を正しく見るために欠かせない一冊だ」 ビル・ゲイツ
「思い込みではなく、事実をもとに行動すれば、人類はもっと前に進める。そんな希望を抱かせてくれる本」 バラク・オバマ元アメリカ大統領
 特にビル・ゲイツは、18年にアメリカの大学を卒業した学生のうち、希望者全員にこの本をプレゼントしたほど。──(日経BPのHPから)
 “FACT”とくれば、米某大統領がすぐに浮かぶが、内容はもっともっと大きな歴史的でグローバルな視点に満ちている。さすがに、某大統領からのコメントはない(当然!)。
 ハンス・ロスリングは、スウェーデン出身の医師、公衆衛生学者。国際保健学教授でストックホルムに拠点を置くギャップマインダー財団のディレクターを務めた。1993年にはスウェーデンに国境なき医師団を共同で設立、その意味ではノーベル賞受賞者でもある。数々の著作と、世界を股にかけた数えられないほどの講演や啓蒙活動。09年にはフォーリン・ポリシー誌からグローバル思想家100人のひとりに、11年にはファスト・カンパニー誌から世界で最もクリエイティブな100人のひとりに選ばれた。さらに12年にはタイム誌が選ぶ世界で最も影響力の大きな100人のひとりになった。が、17年2月すい臓がんのため死去。享年68歳。業績の巨大さに比して夭逝といえる。上掲書は遺作、いな人類への遺言となった。
  といっても、未読の方には中身は杳として知れずであろう。だから、特に印象深い洞見を紹介したい。
 2. のネガティブ本能で、
 〈「悪い」と「良くなっている」の、どちらかひとつを選ぶべきだろうか? もちろんそんなことはない。両方選べばいい。世界のいまを理解するには、「悪い」と「良くなっている」が両立することを忘れないようにしよう。ネガティブ本能を抑える方法はほかにもある。そのひとつは、悪いニュースのほうが広まりやすいと気づくことだ。
 歴史を美化すればするほど、わたしたちや次の世代の人たちが、真実にたどり着けなくなってしまう。悲惨な過去について学ぶのは気が滅入るかもしれないが、真実を知るためには避けて通れない。〉
 愚案を呈すると、エデンの園を追われて以来「世界がどんどん悪くなっている」。永劫に帰れないユートピアからの追放は「終末」に向かうほかないではないか。比するにハンス・ロスリングはこの呪縛から自由だ。ゆえにこう語る。
 〈「可能主義者」(註・著者の造語)のわたしは、「人類のこれまでの進歩を見れば、さらなる進歩は可能なはずだ」と考える。単に楽観しているわけではない。現状をきちんと把握し、生産的で役に立つ世界の見方をもとに行動している。〉
 認識せずして評価はできない。この当たり前が浮き世では打っ遣(チャ)られている。なぜ色眼鏡をかけるのか。本書はその色眼鏡を見事に外してくれる。いや、眼鏡だけではなく目から鱗ごと落としてくれる。

 〈時を重ねるごとに少しずつ、世界は良くなっている。何もかもが毎年改善するわけではないし、課題は山積みだ。だが、人類が大いなる進歩を遂げたのは間違いない。これが、「事実に基づく世界の見方」だ。〉ハンス・ロスリング □


梅雨の唄

2019年07月08日 | エッセー

 梅雨にはこの唄がお似合いだ。それにしても、この圧倒的な哀感はどうしたものだろう。ハレを詠うのに
「月」、「雲」、「蔭」、「ひとり」、「濡れて」
 と、ハレを紡ぐには似つかわしくないケがつづく。
 昔年、嫁入りは夜になされた。だから「月」は外れてはいまい。だが雲居を纏い薄月(ウスヅキ)に変化(ヘンゲ)している。雨空に掛かる月は蔭ながら祝意を送っているのか、それとも嫁がせる不如意を暗示しているのか。おそらく後者であろう。でなければ、ひとりでゆくはずはない。

   〽雨降りお月さん 雲の蔭
    お嫁にゆくときゃ 誰とゆく
    ひとりで傘 さしてゆく

 空模様も出立ちのありさまも狐の嫁入りとはまるでちがう。日照り雨でもなければ豪奢な行列も提灯もない。「ひとり」でゆくなんて、異様な、いな怪異なハレだ。ただならぬ事情を中山晋平のメロディーが見事なまでに包(クル)んでしまったというべきか。
 ともあれ傘(カラカサ)がないとは解せない。それほどの極貧に馬が調達できるだろうか。なにかのメタファーか。ちぐはぐな道行きに邪推も及ばない。
 行列と提灯の替わりは

    〽シャラシャラ シャンシャン
         鈴付けた     
    お馬にゆられて

 なのであろう。でもハレの衣裳は

   〽濡れてゆく

 それも厭わぬ固い意志か。そうだとしてもハレには不似合いな旅立ちだ。
 昭和初年、レコード化される時、寸法が短すぎると二番が加わった。印象的なのは顔を隠した袖が濡れても

   〽干しゃ乾く

 と打っ棄(チャ)てしまう返し。気丈な花嫁だ。

 はしだのりひこが歌った70年代の『花嫁』もまた

   〽夜汽車にのって

 嫁いだ。セオリー通りだ。

   〽命かけて燃えた
     恋が結ばれる

 とはいかにも直截だ。

   〽帰れない 何があっても

 これも弛みない率直さであろう。ジャンルの違いは考えまい。時代はなにかを採り零しつつなにかを手に入れていく。尋常ならざるハレをケの言の葉が織り込んでいくドラマツルギーは想像力の更なるカバレッジを迫る。圧倒的な哀感は杳として雲の蔭にある。野口雨情の韜晦の、あるいは諧謔の裡(ウチ)にある。たからこそ重くておもしろい。陰鬱な梅雨にこそお似合いだ。 □


あくびが伝染

2019年07月04日 | エッセー

 朝日の天声人語に先を行かれてしまった。別に競っているわけではない。なにせこちらはど素人、相手にもならない。
 あくびが伝染することから、今般の韓国への輸出規制はトランプの為様(シザマ)が本邦政府に、つまりはアンバイ君に伝染したのでないかと揶揄している。
 〈米国が中国に仕掛けた貿易戦争さながら、日本政府が韓国への輸出規制に乗り出した。スマホやテレビの画面などに必要な材料を輸出しにくくする。元徴用工の裁判をめぐる韓国政府の対応が不満だとして、事実上の対抗措置を取るらしい▼韓国側にも問題があるにせよ、これでは江戸の仇を長崎で討つような筋違いの話だ。国際ルールに反するとして世界貿易機関に訴える動きが韓国にはあるという。報復合戦となれば日本経済も返り血を浴びる。それでも威嚇してみせることが目先の選挙には得だと安倍政権は考えたか▼ちなみに人のあくびは犬にも伝染するらしい。忠誠を尽くす飼い主からとくに影響を受けやすいとの研究結果がある。日本政府の場合は、こちらに近いか。〉(7月3日付から抄録)
 正確には「江戸の敵を長崎“が”討つ」である。―― 江戸文政のころ、浅草で大坂の職人が催した蝋細工興行が大変な人気を博した。江戸の職人は花蝋細工で向こうを張ったがとても敵わない。と、突如そこに登場したのがガラス細工を引っ提げた長崎の職人。見事、大坂職人の鼻をへこました。ために、江戸ではガラス細工の簪(カンザシ)が大流行した。──「筋違いの話」をいう。江戸(=日本政府)の敵は元徴用工(=大阪の職人)であり、長崎の職人は本邦半導体材料メーカーといえよう。徴用工問題と輸出規制では確かに「筋違いの話」だ。司法判断と政治マターの混淆ともいえる。簪なしでも生きていけるが、今や半導体なしでは息もできない。こちらに痛手の少ないものを選び抜いたとはいうが、「返り血」は必定だ。なんの外交成果もないアンバイ政権の目眩ましといって外れてはいまい。「人のあくびは犬にも伝染」とは、なんとも辛辣ではないか。お追従者を「ポチ」という。イヌ由来のネーミングらしい。石原慎太郎や亀井静香に「ポチ」呼ばわりされる某首相は飼い主のあくびが伝染したものか。あの飼い主なら相当大きなあくびにちがいない。
 紙幅の関係か、天声人語子が触れていないもう一つのトピックがある。5月初旬、前提条件なしの日朝首脳会談の提案、これも『あくびの伝染』だ。NKから即座に「あつかましい」と一蹴された。なんともしょぼいあくびであった。トランプの前提条件なしは核放棄だが、こちらのそれは拉致問題である。とりあえず拉致は措いといて、ということだ。そんなバカな。トランプでさえ強硬派を抑えきれずドアインザフェイス(先月の小稿『太鼓持ちの目が泳いだ』で触れた)が上手く効かない。挙句、38度線を跨ぐ中身スカスカのパフォーマンスでお茶を濁すありさまだ。アンバイ君の「前提条件なし」は経済制裁の緩和を含意しているのかも知れぬが、トランプ同様選挙対策の底意をNKが見抜かぬはずがない。恩を売っていい相手かどうか、大親分と太鼓持ちのトポスは先方がとっくにお見通しだ。
 昨年6月の米朝会談は外交ルートではなくCIAが動いた。あくびはすぐに伝染し翌月、アンバイ君は外務省抜きで内閣情報調査室にNK当局との接触を指示している。しかしこのあくびは先方の退屈なあくびを誘発しただけに終わったようだ。なんともしょぼい。
 さらにもう一つ挙げれば、先月末のIWCからの脱退。TPPやINFからの脱退を筆頭に国際的縛りからの一方的離脱は大親分の十八番である。これも紛れもないあくびだ。
 報道によると、米紙ウォールストリート・ジャーナルが「日本政治もトランプ化」していると指摘し、米バード大学のウォルター・ラッセル・ミード教授の分析を紹介している。IWC脱退は欧米の文化帝国主義に刃向かい、国家としてのプライドを主張する手段であるとする。片や韓国への輸出規制は政治と貿易をない交ぜにする決断だという。これらは国家戦略における劇的な変化であり、トランプ流としか言いようがないと論じている。アメリカファーストと筋違いディール。言葉は違っても、あくびの伝染、江戸の敵を長崎が、ではないか。 
 ストラテジーをもった対米追随から自己目的と化した対米従属。「地球儀を俯瞰する外交」とアンバイ君は大風呂敷を広げるが、先ずは自己を客観視してはどうか。あのオツムではどだい無理か。蟹と同じく、甲羅に合わせて穴を掘って如くはないのだが……。
 ふわぁー、あくびが出そう。 □