伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

野球 大発見!

2006年03月28日 | エッセー
 ついこの間まで、こんなかったるいスポーツはない、と敬遠していた。なにせ、極端な話、ピッチャーとキャッチャー、それにバッター。これだけで成り立ってしまうのだ。球が飛んでこない限り、野手は寝ていても問題はない。(ルール上は知らないが……)攻撃側の8人は、塁上にいない限りベンチでヤジを飛ばすしか『仕事』はない。かてて加えて、間が長すぎる。投手と捕手でのやり取りのまどろっこしさ。やっとサインが決まって投げるかと見せるや、一塁へ牽制 ―― もう、いい加減にしてよ、だ。
 以下、門外漢のほとんど腰だめに近い計算 ――
 ピッチャーの手から球が放たれて一つのプレーが終わるまで、10秒を超えることはないだろう。投球、バッターが打つ、打球が飛ぶ、走塁があり、野手が捕る、送球がある。この一連のプレーを『1プレー単位』と仮に名付ける。この『1プレー単位』を10秒とすると、3(プレー単位)×54(アウト)=162(プレー単位)×10秒=1620秒で27分となる。さらに、すべての打席がフルカウントだとして、5(投球)×2秒=10秒×54(アウト)=540秒で9分。合計36分となる。一試合2時間として、その30%が、正味のプレー時間ということになる。
 90分間、動き詰めのサッカーと比べれば、こんな間延びしたスポーツはない。間尺に合わないのだ。世界一競技時間の短いスポーツである相撲でさえ、4分ごとに必ず決着がつく。野球は36分の競技を観るのに、1時間24分は待たされることになるのだ。
 この計算が正鵠を射ているかどうか、それは分からない。オーソリティーからは一笑に付されに違いないが、筆者の気分を正当化してみようとの戯れ事と、勘弁願いたい。
 ところで、WBC! 筆者、大発見をしたのである。選りすぐりのプレーヤーによって展開される試合は純度が高く、テレビの前に釘付けにされてしまう。国別の争いは、藤原正彦氏流に言うと、筆者を一人の「パトリオット」にしてしまった。(決して、ナショナリストではなく)尻上がりに調子を上げるイチロー。なにより、イチローの舌戦が素晴らしい。「30年ぐらい、立ち上がれないような……」それに対する韓国の反発。球場でのブーイング。プロスポーツなのだから、これぐらいのパフォーマンスは当たり前だろう。さすがに、千両役者だ。と、大会の帰趨に酔いしれるうち、ついに『啓示』がやって来たのだ。
 たしか、三度目の韓国戦の最中。ふと「野球は将棋と同じだ」という想念が浮かんできた。長考ののち、棋士の手から駒が盤上に放たれる。その動きは一瞬だ。まさに刹那の攻防。そして対局者の長考が始まる。ありとあらゆる局面が予想され、百千のシミュレーションが展開され、選択肢が絞り込まれていく。そして、決断の時。ふたたび、盤上に駒が放たれる。
 ああ、そうか。あの『1時間24分』は『長考』なのだ、と俄に合点がいったのである。としてみれば、グランドのプレーヤーは『盤上の駒』か。なるほど、そう捉えればオモシロくなってくる。プレーの一齣づつに間を配して、観客にまで『長考』をさせてくれる実に親切な造りになっているのだ。サッカーは始まってしまえば、選手を替えること以外、ベンチは手の下しようがない。
 実は、野球こそ十分に間尺が合っていたのだ。そう、わが身の不明を恥じ入る次第となった。『野球 大発見!』『WBC 万歳!』である。
 それにしても、松井は株を下げた。いな、男を下げた、と言うべきか。このことについては、多くを語るまい。□

ヘンなことば

2006年03月27日 | エッセー
 若者が使う言葉について、文化庁が調査した。初対面なのに「私ってコーヒーが好きじゃないですか」と言われたら、唐突で押しつけがましい、と七割が不快に感じるそうだ。しかし、こんなのは序の口。最近では、「ワタシ的には? コーヒー? 好きじゃないですか」となる。この『?』は疑問風に語尾を上げるアップトーク。時には、四十代の主婦層までがこれをやっているのを耳にする。「チョウ○○」などはもう古いし、「ムカツく」などはすでにムカツくほど定着している。
 ヘンな日本語をいくつか挙げてみよう。(『』は、一部、筆者の命名である)
 『的語(テキゴ)』…前述の「ワタシ的には」「キミ的には」など。「○○にとっては」と言うところを「的」で済ませてしまう。はたして、「的(マト)」を射ているのか。
 『みたい語』…「○○したみたい」「これに決めた、みたいな」と使う。明言せずに、「みたい」でもって動作や状況をやんわりとくるんでしまう。
 『とか弁』…「手紙とか書きます」「コーヒーとか飲もうよ」、とやたら「とか」を連発する。あれこれの選択肢を並べる分けでもないのに、他にも選べるような言葉遣いで、言い切ることを迂回する。 
 『って話法』…「それって」「あれって」、と「は」や「が」の助詞をすべて「って」に置き換える話法。「わたしは」ではなく「わたしって」とすることで、「わたし」は少し外に押しやられ、端から見ているような語感を得る。ぼかされてくる。
 『の方言』…「方言」ではなく、「○○の方(ホウ)」を多用する語法。これはおそらくファーストフード店の接客用語から始まったのだろう。「ご注文の方は何になさいますか」とくる。「ご会計の方は千円となります」などと使う。丁寧に接しているつもりなのだろう。しかし、余分な言葉をつけ加えることで、丁寧に「バカ」がついてしまう。あげくは、心のこもらない耳障りな決まり文句でしかなくなる。
 『アップトーク症候群』…冒頭にあげた反疑問の話法だ。質問している分けでもないのに、やたら語尾を上げる。実は、この現象は最近、英語圏の若者の中でも多いそうだ。質問でもないのに言葉の端が上がる。英語の文法外の傾向だ。世界的な「症状」か。自信なげに疑問風にしたり、判断を任せる装いをすることで、会話ははてしなくとりとめのないものになる。
 『じゃないですか話法』…本来は共通の認識を前提にした表現なのに、おかまいなしに多用されると、同意を強要されているようで本当に「ムカツ」く。強い話法のようだが、そうではなさそうだ。断定は失礼と考え、和らげた表現をしているつもりらしい。たとえば、「つまらないものですが」と贈り物をするのではなく、「心を込めて差し上げます」と渡すようなものか。しかし、これが通用するには余程の親愛が前提となる。そうでなければ、かなり奇異な押しつけになってしまう。
 などなど、他にもたくさんあるだろう。が、筆者、なにも若者に苦言を呈し世を悲嘆しているわけではない。なにより、言葉は生き物だ。変わって当たり前。変わらないのがおかしい。何千年も昔の楔形文字(セッケイモンジ=紀元一世紀ごろまで西南アジアで使われたクサビ状の文字)を解読したところ、「このごろの若者のことばづかいが悪くて困る」とあったそうだ。太古の昔から、若者の言葉はやり玉に挙げられ続けてきたことになる。
  心のおもいを紡ぎ出したものが言葉である以上、言葉やその使われ方のなかに、時代の心が響いている。言葉は社会の「写し絵」でもある。時代の先端を走るのが若者であるなら、かれらの使う言葉に今とこれからの社会の有り様が端的に表れてくる。してみれば、「言葉」について考えを巡らせてみることも大事なことに違いない。
 前述の例に通底していることは、「ぼかし」である。物事をはっきりと語らない。断定を避け、主張を飲み込んで、すべてをオブラートに包む。言葉はキャッチボールされるのではなく、風船のように空(クウ)にただ放たれる。相手の内面には容易に踏み込まない。心の距離間を微妙に保つ。が、それはかれらの「やさしさ」なのかも知れない。お互いが傷つかない工夫と知恵。心を傷つけまいとするやさしさが、さまざまな言葉を生み、新手の話法を編み出したのだろう。
 だが、待てよ。なにかが足りない。心中に血を流してでも「正義」や「決意」を打ち合う道具としての言葉はどこへいったのか。遊んだり群れたりする仲間はいても、心を許す友人はできない若者達の心象風景。言葉が、たがいにぶつかり合わないための緩衝材としてしか機能しない現実。トーク番組が隆盛で、言葉はさかんに行き交ってはいるものの、心中に何も痕跡をとどめない言葉の群。
 心のおもいを紡ぎ出すものが言葉であるならば、「心のおもい」が病んでいるのか。「ヘンな日本語」は、そのまま「ヘンな日本の心」でもある。豊かな言葉は、豊かな「心のおもい」から生まれる。「こころ」の復権がのぞまれるゆえんであろう。□


寅さんの声が聞こえる

2006年03月27日 | エッセー
 日本で一番上映回数の多い映画は何だろう。我が田に水を引くならば、『男はつらいよ』シリーズにほぼ違いあるまい。映画館、テレビはもとより、団体バスに乗ると、きまって映されるのは『寅さん』である。
 渥美清さんが亡くなって、まもなく10年。渥美さんといっしょに、寅さんも黄泉路を旅することになったが、全四十八作はいまも生きつづけている。二十七年もの長きにわたった、世界でもまれなこの長寿シリーズは、一つの歴史的事件でさえある。
 目くるめく展開などない。いつものパターンで物語はすすみ、そしていつものように終わる。恐るべきワンパターンの繰り返し!なのに、やはり見てしまう。なぜだ!
 それを語りはじめたら、夜が明ける。ただ一つだけ挙げておきたい。「庶民」に徹した語り口。あの無類の名調子。これが筆者を虜にしてしまう。「フーテン」といえば、庶民のさらに外側の存在なのだが、寅さんはけっして世をすねてはいない。庶民の目線から、時に舌鋒鋭く、人事百般を語る。
 『インテリというのは自分で考えすぎますからね。そのうち俺は何を考えていたんだろうって、わかんなくなってくるんです。つまり、このテレビの裏っかたでいいますと、配線ががちゃがちゃに混みあっているわけなんですよね、ええ、その点私なんか線が一本だけですから、まァ、いってみりゃ空ッポといいましょうか、叩けばコーンと澄んだ音がしますよ、殴ってみましょうか?』(「フーテンの寅」より) この攻撃に、『配線ががちゃがちゃに混みあっている』世のインテリが、はたして太刀打ちできるか。一貫して寅さんはインテリが嫌い。『線が一本だけ』の『コーンと澄んだ音』こそが庶民の心意気というものだ、と。
 『しっかり押さえていろ。今俺が110番するから......。博、110番てのは何番だっけ?』(「新・男はつらいよ」から) これはもう、『線が一本』そのものなのだが、『レントゲンだってね、にっこり笑って写した方がいいの。だって明るく撮れるもの、そのほうが。』(「口笛をふく寅次郎」から)と、片肺のなかったこの役者が語れば、凄味を帯びた人生訓となってくる。
 『何て言うかな、ほら、あー生まれてきてよかったなって思うことが何べんあるだろう、そのために人間生きてるんじゃねえのか。』(「寅次郎物語」から) これはもう歴とした人生観だ。
 『いい女だなあ、と思う。その次には話してみてえなあ、と思う。話しているうちに今度は、いつまでもそうやっていたいなあ、と思う。その人の傍にいるだけで、何か、こう、気持ちがやわらかーくなって、あー、この人を幸せにしてあげたいなあ、と思う。この人の幸せのためなら俺はどうなったっていい、死んだっていい、とそんな風に思うようになる。それが愛よ。』(「葛飾立志篇」から) 恋愛論をやらせたら、この人の右に出る者はいない。
 しかし、いつも振られる寅さん。別れがやってくる。『女に振られた時には、じっと耐えてひと言も口をきかずにだまって後ろ姿を見せて去るのが、それが男というものじゃないか。』(「寅次郎わが道をゆく」から) ダンディズムの極致というべきか。キザもここまでくれば、芸術に近い。
 このシリーズは、庶民が主人公。舞台は庶民の街。庶民の日常が描かれ、庶民の喜怒哀楽が織りなされ、庶民の人生が語られる。お高くとまってはいない。だから、庶民が観た。観つづけた。そして、これからも観るだろう。□