タモリが現れた時、巨泉は座敷芸だと一笑に付した。後、その巨泉はたけしから「お前こそ要らない」と斬り捨てられた。まことに無慙なことである。
幾度もの引用だが、かつて吉本隆明はこう語った。
〈芸能者の発生した基盤は、わが国では、支配王権に征服され、妥協し、契約した異族の悲哀と、不安定な土着の遊行芸人のなかにあった。また、帰化人種の奴婢的な<芸>の奉仕者の悲哀に発していることもあった。しかし、いま、この連中には、自分が遊治郎にすぎぬという自覚も、あぶくのような河原乞食にすぎぬという自覚も、いつ主人から捨てられるかもしれぬという奴婢的な不安もみうけられないようにおもわれる。あるのは大衆に支持されている自己が、じつはテレビの<映像>や、舞台のうえの<虚像>の自己であるのに、<現実>の社会のなかで生活している実像の自己であると錯覚している姿だけである。〉(「情況」より)
食いっぱぐれが河原で剽(ヒョウ)げて投げ銭をいただいた。つまりは、そういうことだ。剽げたのであって、神事を出自とする伝統芸ではなかった。約(ツヅ)めれば、「芸無しの芸」である。
ザリガニに鼻を噛ませることは、いかなる意味においても伝統芸とは呼べない。ならば、芸無しの芸ではないか。これほど芸能者の本義に適う芸はなかろう。
タモリは『サカ(坂)ラー』をはじめとするマルチなマエストロとなったし、たけしは世の御意見番に登り詰めた。「遊治郎」の面影は寸毫もないし、「奴婢的な不安」からも遙かに遠い。残る有象無象はマルチな才能と実生活を切り売りする「<虚像>の自己」と「<現実>の社会」とが綯い交ぜになった「錯覚」で凌ぎを削っている。なんとか興業と名乗る巨大な元締めは競争の泥沼で喘ぐ手下どもの稼ぎを搾取して憚らない。「生かさぬように殺さぬように」、江戸時代か!
今月27日、NHKの看板番組「プロフェッショナル~仕事の流儀~」に出川哲朗が登場した。いよいよネタ切れかと推したが、これが存外に示唆的であった。
嘲笑の餌食だった頃を「ものを投げられていた。歩いているだけなのに」と振り返る。誹謗中傷は家族親族にも及んだ。そんな中、母子の遣り取りが差し込まれる。
「母ちゃんに『ごめん。抱かれたくない1位とか、家族すら恥ずかしいと思うからごめん』と言ったら、(母は)『哲ちゃん、何言ってるんだ。どんなジャンルだろうが、日本一になることはすごいことなんだから。胸を張れ』って言われた。その言葉に、自身の進む道は間違ってないと確信した」
どうだろう。「異族の悲哀と、不安定な土着の遊行芸人」が俄に浮かび上がり、刹那、母のひと言が件(クダン)の「錯覚」を見事に払拭する。
今やCMの売れっ子でバラエティーの常連。子どもから大人まで厚いファン層に囲まれる。ひょっとして国民的スターは指呼の間か。だが、敢えて諫言したい。
──哲ちゃん、リアクション芸人、別けても「芸無しの芸」人こそ君の『意味』だ。──
と。無形文化財にも匹敵するその希少性を徒や疎かにしてもらっては困る。大いに困る。 □
見霽(ミハル)かす高原を穿って流れる河。少女たちが水汲みをしている。と、彼方から駿馬に跨がる精悍な青年が土煙を巻き上げながら現れ、川辺に寄せて愛馬に水を与える。見蕩れる乙女たち。場面は転じて、屋根にパラボラアンテナを設(シツラ)えたゲル。一人の娘が密かにPCを叩いている。妹が覗くと慌てて蓋を閉じた。──半導体メーカーのCMである。ノマドの世界をもITが潤(ウルオ)していると、淡い恋心に託して言いたいのであろう。巧い筋立てだ。
まさかあの青年に擬したのではあるまいが、国の両親はゲルで中継を観ていますと逸ノ城は優勝インタビューで語った。件(クダン)のメーカーは次の場所には懸賞を弾まねばなるまい。
彼は堂々と、遊牧民生活で羊を飼い水汲みをした重労働が自分を作ったと振り返った。その外連のない受け答えがなんとも爽やかだった。かつて日本の記者が「逸ノ城が稼いで、お母さんのためにウランバートルに家を買ってくれますよ」と話柄を向けた時、「私たちは、そういう生活はしたくありません。遊牧民でいいのです。私たちの望みは、息子が人から愛される人になることです」と母親が応じたという。遊牧は流離(サスラ)いではない。大地とともに生きる確固不動の生きざまである。その確信が琴線に触れる。
伝統の訓(オシエ)に忠実なのか、それとも生来の性格なのか、感情を露わにする力士が多い中で、彼は笑わない。解説の北の富士が彼の笑顔に拘った。準備が調い花道で待機中、一瞬相好が弛んだ。見逃さなかった北の富士がはしゃいだ。蓋し、歴史に残る名解説ではなかったか。
照ノ富士といい、逸ノ城といい一度は奈落に堕ち、そこから這い上がった経験を持つ。同じ飛行機で来日し、鳥取城北高校で相撲を始めた。ただならぬ因縁が優勝争いに結実し、やっと後進が射止めた。どちらもレジリエンスを体現した相撲取りだ。
人生をスポーツに準えることはできるが、人生はスポーツではない。ではないが、それでもなお重ねるなら、両関取とも絶望への見事な応戦であった。素直に叩首したい。
「秀逸」ではなく「逸」を勝手に「隠逸」と措定するなら、逸ノ城はモンゴルの高原に聳える孤高の大城か。それにしても、「いつか優勝できると思ってました」との応答はリップサービスか本音か。思議する間(アワイ)を奪って、発語の途端にあの仏頂面が包(クル)んで隠した。 □
新聞のスクラップを遡っていたら、4月に川崎市武蔵小杉駅北口で、5月には同市中原区新丸子町でリュウゼツランが開花したという記事を見つけた。リュウゼツランは「世紀の植物」と呼ばれる。英名は「Century plant」。熱帯地域が原産地で、成長までに数十年を掛ける。日本での開花は30から50年とされる。3千年に1度咲く優曇華には及ばぬまでも、生涯花開いた姿を見ずに畢る人の方が断然多いのではないか。してみれば、川崎市と深き因縁があるようにも推せられる。
稿者が住まう鄙でもこれが咲いたことがある。かれこれ40年くらい前だ。勤めていた会社の向かいに小さな森があって、そこに2本、見上げるような長身に異様な花を咲かせた。地方紙でも報じられ、見物で俄に賑わった。その当時の事どもがリュウゼツランの名とともに走馬灯のように走った。
「世紀の植物」との偶会。「世紀の」が琴線に触れた。それは青から壮へ、慌ただしい半生のフェーズになにがしかのアクセントを打つ書割だった。入卒時期の桜のように。
「龍舌蘭」と書く。葉形を龍の舌に擬したらしい。舌先三寸と毒舌を専らにしてきた稿者なぞは、鋭い龍舌を前にしたら舌を巻いて逃げるほかあるまい。
次の邂逅は恐らくあるまい。咲く頃合いなのに話題に上らないのは、ひょっとしたら当地の蘭はすでに枯死したのかも知れない。ならば再会の不可能は僥倖かも知れず、感謝すべきであろう。あるいは咲き終えて、つづく花めくステージの準備に入ったか。Century を跨ぐまことに長遠な花の生涯でもある。
今夏のただならぬ焦熱に誑かされて、愚草はおちこちを蹌踉(ヨロボ)った。 □
20万年前にヒト属からホモ・サピエンスが分化した時、他のヒト属と決定的に異なった属性が生まれた。否、その属性により他のヒト属と永訣したともいえる。それが葬制である。葬送儀礼を持たない民族は人類史上ひとつもない。墓はその象徴である。墓を作って遠ざけないと死者が戻ってくると覚知したからではないか。死体の上に巨大な石を載せた墳墓もある。死者を土中に閉じ込めておくためだ。祟りを懼れたのだ──これが葬送の原義である。
「国葬」と聞いた時、現首相による右派対策だと推した。しかし如上の識見を踏まえると、手練れの遠謀深慮かと穿ちたくなった。早いとこ土に埋めて石を載せる。これかも知れない。およそ2億を下らない国費を投じて一見ムダには見えるが、ゾンビを冥界から蹌踉い出さないためにはリーズナブルな金目といえよう。だから能天気かも知れぬが、「いいかも」と言う。
官房長官は「国葬儀は儀式として実施されるものであり、国民一人一人に政治的評価や、喪に服することを求めるものではない」と断っている。その「儀式」に引っ掛かる。かつて神道は宗教ではなく慣習であるとすり替えて国教化した手口が想起されるからだ。これは「いいかも」とは言えない。言えぬが、比較の問題だ。存外、政界と家庭連合との癒着が表面化しレギュレーションになりそうだ。それを踏まえて、「いいかも」と言う。
投票率56%の2021総選挙で、自民党の得票率は48%だった。都合3割の日本人しか支持しない宰相が、果たして「国葬儀」に値するのか。大きな疑義はあるが、ゾンビへの反撃ならば、「いいかも」と言う。
明治維新から77年目で敗戦。それから77年目が今年。前半77年を肉化した「鬼胎」が後半77年の掉尾に葬られる。歴史の深き采配か──そうパラフレーズして、3度目の「いいかも」と言う。 □
自分の能力の受益者は自分であるとする「エンドユーザー」型の人間と次世代へ繋ごうとる「パッサー」型の人間が闘った場合、最終的には「パッサー」が勝つ──そう思想家 内田 樹氏は言う。
歌の世界には親分子分が少なくない。徒弟制度さながらに、なんとか組を称する例も散見される。逆にフォークやニューミュージックの世界では、スタンドアローンが大半だ。
だが、拓郎の場合はどちらでもない。親子ほど歳の離れたKinkiKidsと団子になって彼らを育てる。ずぶの素人だったKinkiのギターは今や立派なプロだ。歌唱も別人のように巧くなった。その他シノラーたちを含め次世代への見事なパッサーを果たし終えた。これは希有なことではないか。これが、この番組を観て最も深く刺さった印象である。
泉谷しげるは「本当に尊敬しその判断に大変、敬意を表したいと思います」とメッセージを寄せた。若ッケー奴らが音楽の世界に闖入し、ついにレコード会社をてめーたちで拵えるという頂点を極めた。泉谷はその4人のひとりだ。喧嘩別れはしたものの、同志の絆は断ちがたかろう。良い贈ることばだった。御しがたいほど込み上げるものがあった。
「歌詞で人生を教えてもらったお父さん。歌詞が僕のお父さんなんです」と語ったのはさんまだ。言葉通りリスペクトは『漁港の肉子ちゃん』へと昇華され、昨年の「スコットランド・ラブズ・アニメーション」最高賞へと結実した。(昨年10月の拙稿「さんま 最高賞」で紹介した)
番組全体を通して木村拓哉の拓郎に対する細やかな気配り心遣いが窺えた。拓郎を知らない世代への、彼もまた優れたパッサーともいえる。いつものキムタクではない、甲斐甲斐しい側面を魅せてくれた。
前稿で羽生結弦の引退は「脱世間」だと呵した。先月「拓郎 最後のアルバム」では拓郎の引退をダンディズムとニヒリズムのハイブリッドだと繙いた。「講釈師、見てきたような嘘をつき」と嗤われそうだが、半世紀を越える贔屓の与太と打っ遣っていただきたい。 □
国民的スターの要件は悪く言う人が見当たらず、ある種の「古代性」を体現していることだと思想家 内田 樹氏はいう。挙げたのは長嶋茂雄と寅さんの2人。長嶋は球戯という祝祭の「不世出の祭司」であったし、香具師の寅さんは日本の独自文化を担った婆娑羅の末裔であったと。長嶋は三振さえもが『様』になったし、寅さんは毎度の出奔で世に『拗ねて』みせた。
旧稿でもう一人大谷翔平を加えた。「悪く言う人が見当たらず」、二刀流は元祖ベイブルースという「古代性を体現している」からだ。さらに一人、羽生結弦を加えねばなるまい。悪く言う人に御目に掛かったことはないし、ジャンプは歌舞伎の六方を踏む「古代性を体現している」からだ。フリーは自ら命名した『SEIMEI』、つまり陰陽師 安倍晴明であった。
創始期のフィギュアスケートはジャンプも舞もなく、ただひたすら氷上に正確な図形を描く能力を競う競技だった。figure はラテン語の「形」を語源とし、英語で「図形」を意味する。競技名はそれに由来する。figure に人形の謂が加わるのはその後だ。
今は図形ではなくジャンプが主流、否、醍醐味である。高回転で跳び着地で決める。誇張した身振りと歩き方で決める六方。通底している。『SEIMEI』の4回転半。『勧進帳』の弁慶「飛び六方」。大向うはやんやの快哉を叫ぶ。絶妙な古代性の再現である。
一昨日、羽生結弦が競技からの引退を表明した。最初はバーンアウトかと受け取ったが、よく聞くとそうではないらしい。プロに転向し、4回転半にも挑戦し続けるという。会見ではこう語った。
「僕にとって羽生結弦という存在は常に重荷です。もう本当にすごく重たいです。いつもいつも羽生結弦って重たいなって思いながらすごしていますけど、それでも羽生結弦という存在に恥じないように生きてきたつもりですし、これから生きていく中で、羽生結弦として生きていきたい」
まことに解りづらい。づらさが昂じてない頭をしつこく叩いてみたら、なぜか「出家」の二文字が浮かんできた。彼にとって弱肉強食の競技人生は俗も俗、俗界の奈落なのだ。その世俗を捨てて己を極める。その出世間、出家の宣言ではないか。常人には理解の及ばぬ遙かな高みだ。4回転半は競技のメルクマールから人生のそれに位相を変えたとみていい。
人生をスポーツに準えることはできるが、人生はスポーツではない。引退のあるなしを考えれば、すぐに了簡できる。だが、羽生結弦はこれをアクロバティックに実語化しようとしている。人生をスポーツにする荒技だ。抛っておけば灰身(ケシン)に帰結する競技への執着を人生への執着に止揚する。虫瞰から鳥瞰へ、ともいえよう。「出家」とはそういう意味だ。これで難解な会見は腑に落ちそうだ。
国民的スターによる出世間への4回転半に、再び歓呼の声をあげたい。 □
そのまんま東クン(本名:東国原英夫)が18日、TBSの『ゴゴスマ』で、パパ活議員の吉川赳を舌鋒鋭く扱き下ろした。
「そういう設定だと思った」だの「細かい会話が記録されているのは嵌められたのだ」など、言い訳にもならない御託を一蹴した。
「俯瞰で言うと、国会議員は高潔でなきゃいけない。高い倫理性を持ってなきゃいけない。常識を持ってなきゃいけない。国民の模範とならなきゃいけない存在。この状況の中でこれ、アウトなんです。ですから何を言い訳しようが説明責任と言ってますが、言い訳ですよね。説明責任してもいいです。でもこの時点でアウトなので、僕は速やかに辞職すべきだと思います。
国会議員1人に対して、年間1億円程度かかる。それは税金で払われている。税金を払うに値する人間かというのは、本人が見極めなきゃいけない。自分で。辞職しないというのは政治家としての資質がない。資質に欠けると言わざるを得ないですね」(Y!ニュース 17日配信から抄録)
これなら大向うは受ける。だが1点、すっぽ抜けがある。
「資質に欠ける」の部分だ。主語が違う。資質に欠けているのは有権者だ。
イギリスの哲学者 J・S・ミル が「国家の価値は結局、それを構成する個人個人のそれである」と直言し、本邦では松下幸之助氏が「国民はみずからの程度に応じた政治しか持ち得ない」と断じた。「高潔と高い倫理性」は有権者にこそ求められるのだ。これこそ画竜点睛、頂門の一針。批判はあろうがこれを言わねば、曲学阿世の謗りは免れまい。「俯瞰で言うと」そういうことだ。一体、そのまんま東クンはどこを俯瞰しているのか。
そのまんま東クンのすっぽ抜けを塞ぐのは映画監督 森達也氏の次のアフォリズムだ。
「自民党支持の学生が改憲に否定的。しかしその改正草案は読んでいない。そんなレベルなら投票しない方がいい」(5月の愚稿「無知な有権者は選挙に行くな」から孫引き)。
そのまんま東クンがいかに意気込んで似ぬ京物語を捲し立てようと、すっぽ抜けては身も蓋もない。 □
以下、19年10月の旧稿「霊長類最強女子」から。
〈 《ついぞ凡人が考えもしないことを大まじめに考えるのが学者というものであろう。「赤ん坊はなぜかわいいのか?」を探究したのがアメリカの言語学者ノーム・チョムスキー氏であった(もっとも赤ん坊の時から小憎いほどの面相であれば、すでに救いがたいのだが。)。(15年7月「首を振らないハト??」から)
チョムスキー氏はインタビューでこう応えている。
《ほとんどの種では、幼児は早くから独り立ちするのに対し、人間の幼児は非常に長い期間親に頼って育ちます。その理由として挙げられているのは、人間の脳が急速に大きくなる一方、女性が無事にお産をするためには、赤ちゃんの脳の大きさには限界がある。したがって、子供が生まれてからの成長期間が長くなって、子供は自立するのに時間がかかる。そうなると、大人が世話したくなるような何かを子供が持っている必要がある。当然、進化は、思わず抱き上げたくなるような、世話をしたくなるような姿をした子供に有利になり、彼らが選択されて残っていく。もしそういう気持ちが大人に起こらなければ、子供や幼児は死んでしまいますから。「かわいい子」という表現があるように、大人をして世話をしたくなるようにさせる何かを、幼児は持っているんですね。》(NHK出版新書「知の逆転」から)
人間は脳が勝負である。進化とともに大きくなったが、二足歩行に伴って母体の腰が小さくなり産道がはなはだ狭くなってしまった。脳の成長を待つと産道を通過できなくなる。そこで頃合いのところでお出まし願うことになった。それでも母子ともに命がけの難産である。人類の宿命ともいえる。雑把に言えば、みんな未熟児で産まれてくる。だから「子供は自立するのに時間がかかる」。しかも産むのも人手を借りねばならず、新生児を育てるのも同様だ。となれば、「大人が世話したくなるような何かを子供が持っている必要」があり、「思わず抱き上げたくなるような、世話をしたくなるような姿」、つまり「かわいい子」として世に現れ出(イ)ずる──。そういうことだろう。 〉
さらに、本年6月「先生」ってなーに?」から抄録。
〈 「師弟」関係は人類のみにある。師弟は人類学的にいうと人間の属性である。つまり、師弟関係を持たない人間は本質的にその属性を欠いている。
幼児教育は一義的には保育のために行われる。しかし人間の属性である師弟関係から捉えると、保育と師弟の両義性を帯びてくる。
幼児教育の場においては「先生」という保護者以外の呼び名をもった二人称が言わば唐突に出現する。師弟関係は幼児教育の場において、「先生」と呼称される保育士が登場することをもって始まる。
幼児にとって「先生」は生物的死活を握っているわけではない。だが「先生」という二人称は親とは異なるにもかかわらず無条件にリスペクトすべき存在として、つまりは師匠として立ち現れる。
よく考えると、実にミステリアスである。親子のオンリーワン関係から引き剥がされて、ワン オブ ゼムの世界へ放り込まれるのだ。だから恐怖が襲う。だから号泣する。案の定、わが孫娘も狂ったように泣き喚いた。その異界に生きる救いとして光来するのが「先生」と呼称される保育士である。救いの登場によってなにが引き起こされるのか?
コミュニケーションが明らかに変位する。指示・受諾(あるいは拒否)という垂直関係に転位する。この垂直関係への転位こそ「学び」との原初的な出会いだ。師弟関係のプリミティブな形だ。その刹那、幼児はそれと気づかぬうちに「遊び」から「学び」へと跳躍する!
幼子(オサナゴ)であろうともこの世に生を享けた以上、現状から一時も早く変わろうと希(コイネガ)っているに違いない。そんな健気な倫理的焦燥に身を焦がしているはずだ。通途には幼児教育は集団生活による社会性の獲得にあるとされるが、「学び」にこそ本質はあると考えたい。保育園の「先生」って人類が最初に出会う「師匠」なのだ。 〉
「もいちど」とは、物心がつくにしたがってせっかくの「師弟関係のプリミティブな形」が崩れていくことである。市場経済の中で先生が「商品」に、子どもたちが「消費者」に位相を変えていく。だって、子どもたちはあらゆるものが商品化される世界で育つ。万事カネで片がつく社会だ。大人の万札もこどものそれも等価である。ここに人類の崇高な属性である師弟関係が下卑な商品経済に貶められる。悪平等の典型的変位である。挙句、学級崩壊が惹起される。
師弟とは決して頑迷固陋な権威主義ではない。人類の生き残りが懸かった専一的な徳目である。フィジカルには極めて脆弱な人類が生き残りを賭けて集団を組んだ。その結合力の核が権威主義ではなかったか。いいの悪いのではない。換言すると、その力を持ち得なかったならば集団は生まれず生き残ってはいなかったはずだ。
幼児教育による師弟関係の刷り込み。蓋し、それは人類の命運を担う崇高な聖業である。 □
家庭──「子ども家庭庁」が来年4月1日に設置される。文部科学省、厚生労働省、内閣府、警察庁などが所管していた子どもを対象にした行政事務を集約するためだ。子ども行政の一元化である。
当初「子ども庁」であったが、「家庭」を捻じ込んだのは高市早苗自民党政務調査会長である。戦前志向の価値観が「家庭」の2文字に凝(コゴ)っているのは明らかだ。昭和が過ぎ、社会構造の変化に伴って家庭が細分化されていった。大家族から核家族へ、そして孤族(朝日新聞の造語)へと。一体、その歴史の流れをどのように逆転させるというのか。安倍ガールズ最右翼の面目躍如か、反知性主義の権化か。右派の知的水準が露わだ。
過程──当初、犯意と繋がらなかった犯行が某宗教団体が名乗り出たことで露わになった。旧 世界基督教統一神霊協会(略称「統一教会」)、今「世界平和統一家庭連合」(略称「家庭連合」)と名乗る。なんと、ここも「家庭」だ。改名しても霊感商法は未だに続いている。家庭が破壊される「家庭連合」とは一体何だろう。開祖 文鮮明は「愛天、愛人、愛国」を説き、日本の初代会長 久保木修己は「美しい国、日本の使命」と説いた。なんとなく元首相の口振りに似て聞こえるのは空耳か。
仮定──犯行と犯意は繋がったが、それにしても、なぜ元首相をターゲットにしたのか。これがこの暗殺事件の一番の謎である。件の「空耳」では根拠が薄い。家庭連合の関連団体に寄せたビデオメッセージを見て昵懇を妄想したとの説もある。だが、仮定の段階だ。奈良地検は刑事責任能力を調べるため精神鑑定をする方針という。
確実にいえることは、弾丸が心臓を射貫くためのすべての条件が十全に過不足なく揃っていたことだ。警備・警護の不手際、手製散弾銃の弾動、選挙最終盤、時間帯・演説場所の選択、急な奈良行き、被害者以外誰にも当たらなかった偶然。なにもかもが暗殺のあの一瞬に、あの一点に収斂されたかのようだ。事実は小説よりも奇なり。仮定を嘲笑うかのように、紛れもない現実が立ちはだかる。
家庭と過程の間合いは狭まったが、仮定とはなお懸隔が残る。
前稿で引いた司馬遼太郎の箴言を再度引く。
「暗殺だけは、きらいだ。暗殺という政治行為は、史上前進的な結局を生んだことは絶無といっていいが、この変だけは、例外といえる。明治維新を肯定するとすれば、それはこの桜田門外からはじまる」
果たして「史上前進的な結局」が近鉄大和西大寺駅前からはじまるか否か。日本史の泡沫と消えるか、画期となるか。歴史が峻厳に捌く。 □
「暗殺だけは、きらいだ。暗殺という政治行為は、史上前進的な結局を生んだことは絶無といっていいが、この変だけは、例外といえる。明治維新を肯定するとすれば、それはこの桜田門外からはじまる」
司馬遼太郎は『幕末』の<あとがき>でそう綴った。目的とターゲットが同じ場合が暗殺、両者が異なるとテロルとなる。地下鉄サリンはテロルだった。
「暗殺だけは、きらいだ」は司馬の戦争体験から滲み出たことばだ。暗殺に血塗られた昭和戦前史。掲げられる正義の御旗。人殺しに正義などあるか。人を殺めてはならない。その絶対的真理に理由などない。だから正邪ではなく、好悪という抗い難い身体的反応を示した。それが「きらいだ」であったろう。
「あんな男」が暗殺に斃れた。暗殺が「史上前進的な結局を生んだことは絶無」である以上、これは犬死に等しい。
横死は心情を過剰に刺激する。要注意だが案の定、メディアスクラムが巻き起こり、足跡が美化され、未完が遺産に、不徳が好感にメタモルされていく。挙句は英雄視だ。今度も例外ではない。
死者に鞭打つつもりはないが、生者の列を離れたからといって日本史に黒々と残した汚点が消えるわけではない。死人に口なし。モリカケの暗闇は未解明のままだ。霞ヶ関を席巻し善良な官僚を死に追い込んだた忖度の悪風。敵味方の二分法によるポピュリズム。裏返しのネポティズム。その典型が桜を見る会だった。これもまた不問に付されたまま立ち消えとなるか。
暴力による民主主義の破壊、とマスコミは枕詞のようにいう。だが「あんな男」が宰相の座に着いてから、それは合法的かつ致命的に遂行された。倒木する前にすでに根腐れしていたのだ。
司馬が昭和戦前史を「鬼胎」と呼んで強引に日本史を架橋したように、「あんな男」の時代を再び「鬼胎」として21世紀を架橋せねばならぬのであろうか。気鬱なことだ。
明治維新から77年目に敗戦を迎えた。それから77年目が今年だ。奇妙な一致と見るか、絶妙な符節と捉えるか。大きな結節点にあるのは確かだ。 □
「いろんな出会いやすれ違いが生まれたんじゃないですか」
今日の『めざまし8』で、KDDIの通信障害について古市憲寿くんがおよそそうコメントした。
早口で捲し立てるので古市くんは言語不明瞭・意味不明瞭で、何を言っているのか要領を得ない時がしょっちゅうだ(おまけに生意気そう)。だが、これは聞き取れた。
先月13日の拙稿「古市くん ブラボー!」で褒めちぎった拓郎の『古い船』に続く大ヒットだ。
古市くんはそこいらの天の邪鬼とは訳が違う。相当高い知性を有するとみていい。
内田 樹氏は「知性」について以下のように語る。
〈ほんとうに良質の知性は「『これ』って『あれ』じゃん」というパターンの発見を基本文型にするものだ。 (内田 樹「変調『日本の古典』講義」)
数学者のポアンカレによると、洞察とは「長いあいだ知られてはいたが、たがいに無関係であると考えられていた他の事実とのあいだに、思ってもみなかった共通点をわれわれに示してくれる」働きのことだそうである。そして、二つの事実が無関係であればあるほど、その洞察のもたらす知的果実は豊かなものになるという。(内田 樹「街場の天皇論」)〉
優れた知性はジャンプする。「不通ってすれ違いじゃん」はその好例といえよう。隣席にいた局コメンテーターの普通のおっさんはムッとしていたが。
古市くんの尻馬に乗り、稿者は『君の名は』に跳んでみた。ラジオドラマは1952年。まだ3歳、原体験はない。放送中は銭湯がガラガラになったそうだが、これも記憶にはない。
名も知らぬまま約束した数寄屋橋での再会がなかなか叶わない。この「会えそうで会えない」が、このドラマの骨法であった。そんな風流は今はない。なにもかも、位置情報まで掴んでしまう。そんな恐ろしい浮世に浮かんでいるのは情報満載のクラウドだけか。
クラウドはひととき切れ間を空けたが、日本列島に居着いた夏雲はいっかな間を空ける気配がない。尋常ならざる猛暑に焼かれ、拙宅に住まうもう1人の居住者につい「君の名は」と尋ねてしまいそうだ。いや、本当に。 □