伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

君の名は?

2018年07月27日 | エッセー

 浜 矩子先生は「一億総活躍社会」や「働き方改革」などなどチーム・アホノミクスが繰り出すキラキラネームを使ってはならないと固く誡められている。戦時中、サイダーは「噴出水」に、ドレミは「イロハ」になどと敵性語はパラフレーズされたが、そんな生易しいものではない。そもそも使うな! とおっしゃる。「わが社の働き方改革」などと、どこかの社長さんがご挨拶されることも「これは断じていけない。敵の言葉で語れば、敵の術中にはまる。断然、要注意である」と仰せだ。アホノミクス・シリーズ第4弾 『窒息死に向かう日本経済』 (角川新書、今月刊)でのキツいお達しである。
 同シリーズは何度も取り上げてきた。しかし、いっかな食傷はしない。御本人が「目の前で妖怪アホノミクスが毒ガスを噴きだしている限り、やっぱり妖怪退治を止めるわけにはいきません」とお書きになっている通りだ。
 さて、敵性語である。「下心政治が押しつけて来る言葉をそのまま使ってしまうことは、下心政治の世界に引きずり込まれて行く」ゆえに禁忌だと、その理由を明かされている。では、その下心とは何か? ずばり、「21世紀版大日本帝国構築」だと確言されている。なんとも男勝りではないか。まことに溜飲が下がり、腑に落ちる。
 〈本当の名前を知られた者は、神様であろうと鬼さんであろうと神通力を失う。正体を暴かれた者は支配力を失う。そのことをしっかり胸に刻んで、「君の名は?」と問いかけ続ける。それが魔の手を振り払うための基本原理だ。我々は敵の言葉で語らず、敵に「君の名は?」と詰め寄る力量を磨いて行く必要がある。〉(上掲書より抄録)
 まことに宜なる哉、である。本書では日本経済の“窒息化”について、3つの角度カネ・モノ・ヒトの順にギリギリと究明されていく。

  第1章 カネの世界の呼吸困難──死に行く国債の海、腐り行く株式の海
  第2章 モノの世界の呼吸困難──魔の手につかまった日本の製造業
  第3章 ヒトの世界の呼吸困難──柔軟に多様にスマートに使い倒されて行く社会到来

 第1章は日銀による国債購入による『財政ファイナンス』と、株式市場への参入による『働き頭ファイナンス』が曝かれる。後者は浜先生独特の命名で、件の“帝国”構築に貢献する大企業への資金誘導、「最大限の恩恵」を施すことをいう。だから、デフレ脱却は働き頭(ガシラ)ファイナンスの口実に過ぎないと一刀両断だ。つまり「異次元緩和」、君の名は? 『財政ファイナンスと働き頭ファイナンス』の2つ、これが本名である。さらに稿者が独自に踏み込むとすれば、『21世紀版統制経済』ではなかろうか。
 第2章はアホノミクスによって日本のモノづくりが窒息死に向かいつつあるとの警鐘だ。
中でも一流企業に多発する不祥事の原因剔抉は実に鮮やかだ。ストンと腹に落ちる。この章では『攻めのガバナンス』に追い立てられるメーカーの実態が浮き彫りにされていく。さらにチーム・アホノミクスの大将に絡むお友達企業への“忖度”にもフォーカスしている。つまり「攻めのガバナンス」、君の名は? 『21世紀版富国策』、これが本名である(稿者によるネーミング)。
 第3章は「働き方改革」である。この解明は鮮やかだ。出色である。本書で最多の紙幅が当てられているマターだ。「働き方改革」「生産性革命」「人づくり革命」、そのすべてが例の“帝国”構築のための経済成長に収斂されていく。「柔軟かつ多様な働き方」の導入という。「柔軟」が志向するのは「時間給方式からの脱却」であり、「多様」の先には「お座敷芸人」風のワークスタイルがあるという。「お座敷がかかれば、それに対応して東奔西走・八面六腎・縦横無尽。華麗に世間を渡り歩く」、そんな「フリーランス的働き方」だ。
 〈すべて成長戦略のためである。ヒトを対象としていながら、ヒトのためなど考えていない。力強い経済成長のために、最大限多くの人々を最大限効率的に使う。それが目指すところだ。彼らが「同一労働同一賃金」と「長時間労働の是正」を語る時、それは、あくまでも「労働生産性の向上」というテーマとの関係においてである。要は、これらのテーマについても「生産性革命」の一環としてのとらえ方をしている。「同一労働同一賃金」はアメとして使える。彼らはそう考えている。〉(同上)
 カネ・モノと来ても、なかなか埒が明かない。粉飾決算ともいえる各種経済指標を羅列してみても、その実アホノミクスは成果なし。残るはヒト。つまり「働き方改革」、君の名は? 『21世紀版国家総動員体制』、これが本名である。
 先生はチーム・アホノミクスの政策をすべて邪悪だと決めつけているわけではない。
 〈問題は下心である。どんなにまともな政策制度でも、よこしまな下心があれば、全てが汚れる。いつまでも「モリカケ」問題の追及ばかりに明け暮れていないで、もっと政策を論議しろ。そんなことが言われる。だが、「モリカケ」問題を引き起こすような人々を相手に、政策論議など出来るわけがない。〉(同上)
 と、厳しく弾呵する。この殺人的猛暑の中でステイ・クールするために、絶好の一書である。 □


「くりから御殿」

2018年07月22日 | エッセー

 ついふた月前、長治郎は三途の川を途中まで渡ったところで追い返された。心の臓の病だった。大坂屋長治郎、白粉問屋「大坂屋」の主人である。今また病は重く、いよいよあの川を渡り切る日は近い。だから語り置きたい話がある。齢十の身に起こった絶望と怪異譚、それに爾来四十年こころを咎め続けてきた幼馴染みへの後ろめたさだ。
 山並を背負った港町、柄杓の底を抜いたような春の長雨が続いていた。古老も初めてだという大雨であった。その最中(サナカ)の朝まだき、干物問屋の長坊は寝小便に目を覚ます。恥ずかしい。隠そうとして布団を抱えて廊下に出たその時であった。ただならぬ地響きを伴って山津波が町を襲った。泥塗れになりながら必死に逃げた。一瞬が生死を分けた。町は潰滅。両親は潰れた家の下で亡骸に。奉公人も近隣の人びとも同じように命を落とした。生き残ったのは長坊ひとり。「寝小便に救われた命」であった。だがいつも一緒だったとりわけ仲の良かったみいちゃん、はっちゃん、おせんちゃんの三人は行方不明に。
 一瞬にして孤児となった長坊は、網元の好意で開放されたその宏壮な隠居所へ身を寄せる。そこで怪奇は起こった。
 五日目の朝目覚めると、そこはわが家であった。味噌汁の匂いが漂う台所。かくれんぼしよう……みいちゃんの声だ。みっけと物入れの引き戸に駆け寄った刹那、長坊は起こされた。それは起き抜けの短い夢であった。ちょうどそのころ、みいちゃんの遺骸が見つかっていた。
 二日後、夢の中で目を覚ますと、はっちゃん家(チ)であった。長坊が鬼やで……またしてもかくれんぼだ。裏庭にある大きな水瓶。みっけ。ところがはっちゃんはふわりと逃げた。その日、かばい合うように身を寄せ合ったはっちゃん一家の遺体が押し潰された家の下から発見された。
 それからしばらくして、おせんの家の幻を見る。五日後、おせんちゃんの死骸が漁師の網にかかった。これで仲良し四人組は揃ったが、この世に置いてけぼりをくったのは長坊だけ。
 艱難辛苦の後、今、長治郎は江戸で一廉の商家を構える。しかし、なぜ自分だけが残ったのかわからない。たった一人生き残った理由が、どうしても見つからない。仲間はずれか。寂しくて悲しくて、胸の穴が埋まらない。それをぶちまけたかったから、ぶちまけたくてたまらなかったから、長治郎はここへ来た。
 
 「ここ」とは、江戸神田三島町にある袋物屋の三島屋、黒白の間。聞き役は三島屋主人(アルジ)の姪っ子おちか。ご存知、宮部みゆき「三島屋変調百物語」シリーズの第3作『泣き童子(ワラシ)』である。身の毛がよだつ怪談のオンパレードだ。単行本は5年前に出たのだが、文庫は先月25日に発刊となった。困窮の身、余程のことがない限り文庫を俟つことにしている。読み始めたのが今月アタマ。長治郎の語りは第2話「くりから御殿」である。3・11直後に発表された。然りである。
 「平成30年7月豪雨」が西日本を中心に全国を襲ったのは、先月26日から今月8日にかけてだった。中身を知って繙いたわけではないが、この一話との邂逅は偶然にしては奇譚じみている。
 豪雨の中、広島、岡山では「山津波」が猛り狂った。先々日現在、死者225人、行方不明13人。前者225人の中にみいちゃんやはっちゃんが、後者13人にはおせんちゃんがいるかもしれない。いや、いるに違いない。汗みどろになって瓦礫を、川の流れを探る人たち。見守る人たち。待ち続ける人たち。その中に「寂しくて悲しくて、胸の穴が埋まらない」長坊もいるに違いない。
 長治郎の告白を聞いた女房の言葉で物語は締め括られる。
「みいちゃんの姉さんぶりも、はっちゃんの竹とんぼも、おせんちゃんの笑窪も、みんなみんな知ってます。その三人が、どうしてあんさんを仲間はずれなんかにしますかいな。あんさんにいけずなんかしますかいな。仲良しの三人だから、あんさんを案じて、あんさんをいっぺん、わたしに返してくれましたんや」
 返してくれたとは、冒頭で触れた三途の川の途中から追い返された一件である。奇譚に包(クル)んだ宮部みゆきのぬくもりが確かに伝わる。秀逸な筆致と巧みなドラマツルギー。百物語は変調ではあるが、紡がれる中身は決して変調はしていない。紛れもない正調だ。だから身の毛がよだつ。 □


尤もな話は要注意

2018年07月17日 | エッセー

 当たり前だが、地球は丸い。先日近所の中学生から一抱えもある地球儀を借りてきて、ヒモを当てて測ってみた。やはりそうだ。平壌からワシントンDCまでの最短コースは北極回りだ。先ず中国、続いてロシア上空を擦過し、北極を通過、カナダを抜けてワシントンDCへ至る。約1万キロ。次に日本上空を通って太平洋を跨いでワシントンDCへ至るコースでヒモを当てると、約1万4千キロ。日本列島南北3千キロを遙かに超える差がある。ということは、北朝鮮からアメリカを狙う場合ミサイルは日本上空を通ることはない。過去5回の実験で本邦を飛び越えて太平洋上に落下したことはあるが、射程3千キロ程度のムスダンクラスの試射であった。最新の火星14でも飛行距離は1万キロ強、太平洋上を飛んでいく余裕はまったくない。
 メディアが報じる解説に使われるのはメルカトル図法による地図である。便宜上航路を直線で表示するため、地球の丸さが無視されてしまう。だから誤解、誤認識が生まれる。知ってか知らずか(ひょっとしたら無知か)、狡いヤツはこれを悪用する。07年、第1次安倍政権で安保法制懇に与えられた課題は「技術的な問題は別として、仮に米国に向かうかもしれない弾道ミサイルをレーダーで捕捉した場合でも、我が国は迎撃できないという状況が生じてよいのか」というものであった。第2次政権の法制懇でも同等のイシューで口火を切っている。「米国に向かう」が曲者だ。メルカトル図法で刷り込まれていれば、日本通過太平洋ルートが前提となる。だが、もし北極ルートなら中国やロシアと干戈を交える覚悟があるということか。昨年11月の日米会談で、米国製の武器を増やせば「日本が北朝鮮のミサイルを上空で迎撃できるようになる」とトランプは迫った。この場合の「上空」とはどこの空か。如上の通り、日本ではない。もしも安全保障法制の存立危機に該当すると強弁するなら、実態は代理戦争というべきだ。
 「日本を越えてアメリカに向かう北朝鮮ミサイル」などという尤もらしい話には眉に鐔を心がけたい。特に「ウソつきはアベシンゾウの始まり」であってみればなおさらである。
 W杯はフランスが頂点を奪って狂騒は終わった。睡眠不足が続く中で鮮明に記憶に残ったのが日本対ポーランド戦だった。先月29日、拙稿では『見事なり! 西野采配』と題して取り上げた。「負けは『思議』の範囲にある。後退戦で必要なのはクールで計量的な知性」だとの内田 樹氏の洞見を引き、
 〈監督の遠謀深慮は歴(レッキ)とした兵法である。先ずは勝たないまでも負けない。いな、負けはしても退路は確保する。その意味で、ポーランド戦は「後退戦」となった。ならば、西野監督の采配は見事な「ステイ・クール」であったといえよう。〉
 と綴った。今月4日朝日は社説で次のようにコメントした。
 〈論議を呼んだのは、この試合の途中で勝ち点をとるのをあきらめ、警告や退場数の差でリーグ戦突破を狙った判断だった。国内外の批判を受け、監督は「自分の心情としては不本意」と苦渋の決断だったことを明かした。
 子どもに「代表を見習いなさい」と言えない、サッカーのだいご味をそぐプレーだった。結果としてこの賭けに勝ち、ベスト16をたぐり寄せたとはいえ、攻め切る力が残っていなかったがゆえの選択だった。〉(抜粋)
  「子どもに『代表を見習いなさい』と言えない」……本当にそうだろうか。むしろ見習わせるべきではないか。「生き延びるためには負けてもいいんだ」「逃げるが勝ちもありだよ」というメッセージは、アリなのではないか。一昨年の文科省のまとめによると、小中高でのいじめは年間32万件を上回る。13年に「いじめ防止対策推進法」が成立しても、なおこの数字だ。いじめを原因とする自殺も後を絶たない。いじめやいじめ自殺は大人の世界においても同様に深刻だが、ますは子どもたちだ。事は自然災害と同じではないのか。誰にだって起こり得る。今、子どもたちはいじめからの総後退戦を強いられているといっても過言ではなかろう。危機対応こそ肝心要だ。ならば、負けてもいいからどうにか退路を確保する。それがファーストプライオリティのはずだ。弱虫と言われようと意気地なしと罵られようと「だいご味をそぐ」と非難されようとも、『代表を見習』って「ステイ・クール」。戦いを逃げる、身を躱すという選択肢は正解ではないか。手を束ね子どもたちをこれほど惨い環境に追い込んだ大人世代が、救助ロープの1本も投げられず助け船の1艘も出せないでどうする。子どもたちにとっての「ベスト16をたぐり寄せ」る知恵を授けるべきではないか。だから、大いに『代表を見習いなさい』と言うべきだ。
 以上、尤もな話を2題。眉が唾だらけになりそうだ。 □


公儀の威信

2018年07月13日 | エッセー

 江戸時代にはM7、8クラスの地震が20数回起こっている。中でも南海トラフ型の宝永大地震・津浪(1707年)、安政東海南海地震(1854年)や首都直下型の安政江戸地震(1855年)は夙に知られる。これに活断層型も発生していて、大地震の類型は揃って発災している。また、1707年には宝永富士山大噴火もあった。
 異常気象を主因とした飢饉も江戸四大飢饉と呼ばれ今に伝わる。寛永の大飢饉(1642年)、享保の大飢饉(1732年)、天明の大飢饉(1782年)、それに天保の大飢饉(1839年)である。すべて失政ではなく、明らかな天災であった。
 いわゆる大火は江戸期に江戸で49回、大坂で6回、京都で9回起こった。突出する江戸の中でも、八百八町の大半が被災し10万7千人が死亡、江戸城天守も焼失した明暦の大火(1657年)、別名「振袖火事」は江戸時代最大の大火であった。
 問題はここからだ。徳川幕府はどう対応したか、である。最近はどんどん見直しがなされているものの、われわれはどうしても明治以降の恣意的な史観に呪縛されている。江戸期は長く閉ざされた暗い圧政の時代であった、との維新の名を高からしむためのいわば薩長史観である。
 付言すると、近年の調査、研究を反映し十数年前に「士農工商」は教科書から消えた。これについては、16年1月の拙稿『歪んだ“士農工商”』で触れた。昨年からは「鎖国」が教科書から消えた(単体ではなく「いわゆる鎖国」と表記)。このように歪みが次第に正されてきている。
 さて、幕府だ。地震、飢饉、火事に意外にも素早く手厚く対処している。
 災害時天領だけを対象とするのではなく、徳川幕府は譜代、外様の別なく諸藩に救済の手を差し伸べている。最大規模の凶作に見舞われた享保の大飢饉では、外様の伊達藩など大名45家、旗本24家、寺社1社に対して総額34万両の「拝借金」を貸与している。無利子で返済は2年後から5年賦という好条件であった。1万両を1億5千万円とすると、51億。熊本地震の緊急対策費が23億円だったから、経済規模を考えると身銭を切る大盤振る舞いであった。これに限らず、他にも資金貸与は何度もあった。中には、返済不履行となり踏み倒された例はいくつもあった。ただ忘れてならないのは、幕府に一国全土を対象にした国税収入はなかったことだ。300万石ある天領と直轄地での貿易による上がりしかなかった。天下の徳川が加賀100万石の3倍でしかなかった。おまけに江戸初期を過ぎると幕府財政は傾き始める。まさに身銭を切っていたのだ。
 「拝借金」だけではない。家中御救金の貸与、村々への扶持米、貸付金の支給。被災で農地として使用不能になった土地を幕領として返上させ代替地を与える「上知」。復興事業の人足への扶持米支給、「公儀普請」「御手伝普請」による治水などの大規模復興工事。なお他藩に命じた「御手伝普請」は直接施工ではなく現地請負で、地元の復興にも配慮したものだった。
 被災時には、参勤で江戸にいた大名には帰国を命じ「撫民」に当たらせた。飢饉では幕府内に臨時奉行を置き、江戸や大坂の蔵米を管理させた。現代の復興大臣である。富士山大噴火では、特例的に「諸国高役金」と呼ぶ復興のための特別税を徴収している。
 ともあれ「公儀」の名にかけて幕府は無い袖を振り、見栄を張り、意地を折って懸命に救済に努めた。どこかの政権党のように大雨が予想される中宰相以下盛大に懇親会を催し、写真までツイッターなる瓦版にしてこれ見よがしにばら撒くアホどもとは月とすっぽんほど違う。心根が天と地ほどに隔たる。急遽外遊を中止しお為ごかしの被災地視察をしたところで、夏の小袖、頓珍漢この上もない。
 「大公儀」ともいうが、徳川が拘った公儀とは何か。公家、すなわち伝来の公権力から私的領主制による新たな武家権力を自ら公的たらしめようとした呼び名が公儀である。「儀」とは儀典、儀礼の儀、まねるべき手本のことだ。覇権ではあるが、旧来の王権に寸分違わぬ公権の資格を具備している。そういう高々とした名乗りが公儀だ。だから端っから肩肘張っていたともいえるし、誇りと重責を肩に食い込ませつつ堅持していたともいえる。だから、災害対策には公儀の威信を掛けて臨んだのだ。江戸時代暗黒史観からは大いに異なる社会が律動し平和でレジリエンスに満ちた歴史が刻まれていたのだ。
 以下余談ながら、それにしてもなぜ紙と木の家を本邦の先人たちは作り続けてきたのか。城だってそうだ。石垣で土台は造るものの、なぜか天守は木造である。先述した江戸城天守はその象徴だ。土台は残るが天守は跡形もない。あれほど火事で惨禍を蒙り、辛酸を嘗めてきてもなお紙と木で家を作る。それはどうも貧困や技術的水準に由るものではなさそうだ。
 もし欧風に石造りであれば、火事には強くても地震では壊滅的被害を招く。本邦は地震大国である。焼け出されても圧死は免れたい。木材は豊富だ。復旧も早い。それに自然観、価値観。これが大きい。いや、大きかった。火事に遭うのは己の定め。運が悪かったと諦めるしかあるまい。自然災害は天の営み。天命は受け入れるしかない。そういうマインドセットだ。50・60年を耐用年数とするコンクリートで造られた構造物が全国規模で2030年代から一斉にリミットを迎える。特にインフラの老朽化対策は急を要する。してみれば、紙と木で作り続けた江戸の先達を嗤うわけにはとてもいかない。
 さらに余談ながら、江戸の長屋の住人たちはミニマリストであった。ミニマリストについては15年2月の愚稿『ジャンクワード大賞ベスト10』で触れたが、必要最低限度の物しか持たない生活である。なにせ「火事と喧嘩は江戸の華」、焼け出された時に都合がいい。身1つ、失う物も最小限度だ。持ち物といっても箸と茶碗、食器少々、布団と枕、手拭いは一本、火鉢が一個、外出用の雪駄、それだけ。弔いに着ていく羽織は大家さんに借りる。その他必要とあらば、「損料屋」で借りてくる。今でいうレンタル屋さんだ。冠婚葬祭、旅行用、さまざまな品物がレンタルされていた。別けても主力商品はなんと、ふんどし。江戸時代のふんどしは今の価格で5000円もする高級品だった。独身男性の多かった江戸の町、とても買える値段ではない。それに男がふんどしを洗濯することには大いなる抵抗があり、屈辱でもあったそうだ。それでレンタル。江戸の町で流行りしものは火事と喧嘩と損料屋だった。なんとも賢いライフスタイルではないか。シェアハウスにカーシェアなどと洒落てはみても、とっくに江戸では体験済みだったわけだ。
 閑話休題。公儀を背負(ショ)った徳川幕府。災害対策をみるにつけ、その健気は称賛に値する。翻って刻下の政権ははたして民意を背負っているだろうか。はなはだ心許ない。 □


境目の話

2018年07月09日 | エッセー

 畏敬する先輩が練馬区の大泉学園に住んでいる。2つ奇怪なことがある。といっても、別に幽霊の話ではない。学園を大学に限定すると、一校もこの町にはない。学園がない学園町。これが1つ目。実は、昭和初期に西武鉄道の元土地開発会社が東京商科大学(後の一橋大)と東京師範学校(後の東京教育大から筑波大)の誘致を計画し、最寄り駅を含め一帯を大泉(村)から大泉学園と改めた。ところが計画は頓挫し、名前だけが残ったという次第である。
 2つ目は隣接する埼玉県新座市との県・都境界。これがジグザグに引かれているのだ。先輩の話によると、母屋は東京都で離れは埼玉県という同級生がいたそうだ。大泉学園町7丁目がその境界に当たる。道路は真っ直ぐなのに、境界線はジグザグに走る。酔っ払いの千鳥足のようだ。これは奇怪だ。これにも秘密があって、ここいら一帯はその昔雑木林だった。そこを縫うように道がつけられそれを境としていたていたのだが、開発と共に雑木林は消え境界だけが残ったというわけである。奇しくも先輩の家は7丁目にある。歩いて数分。都県を股にかけられる。道路を跨ぐ境界線の彼我が象徴的で、歩道の舗装具合が明らかに変わる(どう変わるかは言わない)。家並みも緑の多い住宅街から工場地帯風に趣が異なってくる(どこからどこへかは言わない)。
 敬愛する後輩が三重県に住んでいる。ここにも奇怪な村がある。といって、八つ墓村ではない。同県南部の熊野市と奈良県十津川村とに挟まれた北山村がそれだ。正確には、和歌山県東牟婁(ムラ)郡北山村である。察しの通り、飛び地である。一村まるごと飛び地は全国でここだけだ。“飛び村”というべきか。和歌山県内では唯一の村。面積はディズニーランドの約100倍強。今年4月現在で人口428人。本稿でも取り上げた高知県の大川村に次いで人口の少ない村である。北山川の筏下りが有名だ。
 この村、元は紀州の国、紀州藩であった。ところが廃藩置県の際、石高調整のため北山川沿いに県境が引かれ和歌山県から分断され、奈良か三重県かと編入先が問題に。あに図らんや村民は歴史的なつながりが深い和歌山県への帰属を訴え、“飛び村”となった次第である。当村からは三重県熊野市が和歌山県新宮市より半分ぐらい近距離にあるが、つながりは新宮市が依然強い。
 上記2例は帰属は人為的でも、線引きそのものは極めて自然である。一般的にも河川や稜線に沿って線引きはなされるため曲線が普通である。むしろ境目が直線であるのは常態ではなく、明らかに人為的といえる。中東はその好個の例だ。
 第1次世界大戦で敗れたオスマン帝国の分割について英仏露で結ばれたサンクス・ピコ協定によってそれはもたらされた。協定の名は主導した英仏の外交関係者の名前を採っている。ともあれ、大国による民族も宗教も歴史も度外視した自儘な線引きだった。案の定深い禍根を残し、現在の中東問題の泥沼を招来している。
 エルサレムの帰属問題はねじれにねじれた飛び地の所有権争いともいえる。第2次大戦後に国連管理下の国際都市と定められたものをイスラエルが力尽くで自らの首都としてしまう。以降、最も解決困難な問題であり続けている。なにせユダヤ教、キリスト教、イスラム教が共に聖地とする都市である。一筋縄ではいかない。かてて加えて、今年になってトランプが火に油を注いだ。これでは北朝鮮とゼロサムである。
 話がスピンアウトするようだが、境界の起こりは1万2千年前の農業革命にある。境界争いは何度か触れたが、「農業革命は史上最大の詐欺だった」の極みでもある。ただ、今や本邦での県境が流血の惨事を引き起こすことはない。このことはヒントになる。つまり、県から国へ次数が上がったのだ。大泉学園町の住人と新座市の市民が石つぶてを投げ合って境界争いをしているなんという報道は絶えてない。あったらビッグニュースだが。北山村の村民が和歌山県に通じる道を密かに囲い領有権を主張し始めたという特ダネも聞かない。聞いたなら、すぐさま応援に駆け付けるのだが。
 おバカな与太話のようだが、世界はいまだにそのレベルで右往左往している。メキシコ国境の壁はその最たるものだ。
 大泉学園からメキシコまで筆が飛んだ。飛んで、飛んで……そういえば、昔々『飛んでイスタンブール』という歌があった。ああ、懐かしい。かの地はかつてオスマン帝国の首都であった地だ。トルコは現在、国境を接するシリア難民とクルド人独立の難題に呻吟している。つい先日にはエルドアンが大統領に再任され、強権政治が危惧されている。お気楽に飛んでイスタンブールとはいきそうもない。県境(ケンザカイ)では諍(イサカ)いはないのに、国境(クニザカイ)では血が流れる。人類の進歩を俟つしかないか。 □


自衛隊明記改憲の罠

2018年07月06日 | エッセー

 気鋭の憲法学者である木村草太氏が近著『自衛隊と憲法』(晶文社)で安倍改憲案に考究を加えている。特に「自衛隊明記改憲」について取り上げる。
 4つのタイプがあるという。以下、要約。──
① 個別的自衛権限定型
「日本が外国から武力攻撃を受けた場合に必要最小限度の武力行使とそのための組織の設置を認める」
 日本国民が広く支持してきた自衛隊の武力行使のラインであり、国民投票での可決の可能性はある。しかしこれで可決されると、安倍政権がゴリ押しした集団的自衛権行使容認条項の違憲性が明確になってしまう。
② 集団的自衛権行使容認明記型
「日本が武力攻撃を受けた場合に加えて、2015年安保法制で規定された集団的自衛権の限定行使のための武力行使も認める」
 いまだに反対の声が根強く、否決されれば国民投票で2015年安保法制が否定されたことになり、集団的自衛権容認は撤回せざるをえなくなる。
③ 国防軍創設型
「国際法上許された武力行使は全て解禁する」
  これは9条2項が持たないと宣言する「軍」に該当する。したがって、9条2項を削除して、軍を持つことを明記する改憲も伴う必要が生じる。自衛隊は行政機関であるが、軍を設けるには「第七章軍事(または、国防軍)」の章を設けて、国防軍をどのように統制していくのかも憲法に書き込む必要が出てくる。これは最も可決の可能性が低い。軍事活動は立法でも司法でも行政でもない。ところが、軍事に関わる権限は憲法のどこにも書かれてない。これは、偶然ではなく、主権者である国民が内閣や国会に軍事活動を行う権限を負託しないと決断したことを意味する。これを「軍事権のカテゴリカルな消去」といい、「軍を置かないことが前提になっているからだ」と考えざるを得ない。そこで次。
④ 「自衛隊を設置してよい」
 任務の範囲は明記せず、あるいは曖昧にして 「自衛隊を設置してよい」という趣旨の規定だけを書く。これにより、個別的自衛権までの自衛隊を明記するなら賛成だが、集団的自衛権の行使容認までは賛成できないという人の賛成を取り付け、可決後に、2015年安保法制を前提とした「自衛隊の現状」が国民投票で認められたと主張する。
 だが、このような“任務を曖昧にして国民投票”作戦は、あまりに卑怯だ。国会は、憲法改正を発議するなら、国民に何を問うべきかを明確にすべきである。──
 木村氏は頑なな自衛隊違憲論者ではない。
 〈自衛隊という実力組織があることには違和感があるでしょう。しかし、政府の解釈は、憲法9条だけでなく、国民の生命や自由を最大限尊重するとした憲法13条なども引用しながら組み立てられたものです。それを欺瞞と評するのは、「外国による侵略で国民の生命・自由が奪われるのを放置することも、憲法13条に反しない」との前提に立つことになります。そちらの方が、よほど無理な解釈ではないでしょうか。〉(上掲書)
 実に明快で解りやすい。加えると、首相お得意のなんとかの一つ覚えがある。5月の拙稿を引く。
 〈「『自衛隊は違憲かもしれないけれども、何かあれば、命を張って守ってくれ』というのはあまりにも無責任」とのストックフレーズに騙されてはいけない。では自衛隊の存在を憲法に明記すれば、“責任もって”「何かあれば、命を張って守ってくれ」と言うつもりなのか。「命を賭して任務を遂行する者の正当性を明文化することは改憲の理由になる」とも言う。「無責任」と「正当性」は「根拠がほしい」と置換できる。自衛隊員を死地に送るためにお墨付きを手中にしようと企んでいるとは穿ち過ぎか。〉(『おお、塀よ』より)
 改憲のタイムリミットは19年7月とされる。あと1年後だ。最も警戒すべきは④ だ。なにせ『ウソつきはアベシンゾウのはじまり』である。こんな姑息なペテンに騙されてはならない。国民を見くびった罠だ。かつてならとっくに内閣の一つや二つは潰れていた“モリカケ”規模の疑惑でさえ煙(ケム)に巻き、生き延びようとしている。この蛇蝎の如き執念を下支えしているものは何か。内田 樹氏が2月に行われた鼎談でこう語った。
 〈未来の見えない日本の中の未来なき政治家の典型が安倍晋三です。安倍晋三のありようは今の日本人の絶望と同期しています。未来に希望があったら、一歩ずつでも煉瓦を積み上げるように国のかたちを整えてゆこうとします。そういう前向きの気分の国民があんな男を総理大臣に戴くはずがない。自信のなさが反転した彼の攻撃性と異常な自己愛は「滅びかけている国」の国民たちの琴線に触れるのです。彼をトップに押し上げているのは、日本の有権者の絶望だと思います。〉(日本機関誌出版センター発刊『憲法が生きる市民社会へ』から)
 これは腑に落ちる。胸にストンと落ちる。これほど核心を射貫いたことばが今まであっただろうか。安倍を下支えしているのは消去法的選択でも、ウソで固めたなんとかミクスの成果でも、パフォーマンスだけの外交でもない。事の真相は、国民の「絶望と同期」しているからだ。「自信のなさが反転した彼の攻撃性と異常な自己愛は『滅びかけている国』の国民たちの琴線に触れる」からだ。“終わりかけた人”が見せる攻撃性と自己愛。ありようは同じだ。ならば、「一歩ずつでも煉瓦を積み上げる」希望をどう紡ぐか。戦前的価値観への遡行でないことは確かだ。 □


<承前>ポーツマス講和

2018年07月01日 | エッセー

 まったくの偶然であった。前稿を上げてすぐ、読み掛けの本に戻った。数頁進んで次の章に移ったところで目を瞠った。<「正直」「誠」を貫いた小村寿太郎>とある。吉村 昭晩年の随筆集「わたしの普段着」(新潮社)である。W杯ではなく、これは承前せずばなるまい。
 要約すると、こうだ。
 〈「海の史劇」でポーッマス講和会議の史実を読みあさった私は、「小村はロシア側の言いなりになって屈辱的な条約をむすんだ腰抜けの外交官だった」という定説が全くまちがっているのを知った。日本の戦力は底をついていて、これ以上戦さをつづければ日本が敗北することはあきらかだった。譲歩しても戦争はやめるべきだという考えから、ロシア側の要求も一部いれて条約締結に持ち込んだ。それを知らぬ国民は、小村を非難し、暴動まで起した。そうしたことから、小村は腰抜け外交官というレッテルをはられ、それがその後長い間定説となっていたのである。歴史は正しく後世に伝えておかねばならぬ。そこで、昭和五十三年秋、小村を素材に長篇小説を書いて欲しいという新潮社の依頼を受け、執筆を決意した。
 取材旅行は、異様なものであった。郷土の日南市でも小村は屈辱外交をした外交官とされていて、それを小説に書かれることは郷土の恥を天下にさらすという意識があるようだった。私は、むなしく日南市をはなれた。しかし、外務省の外交史料館では豊富な資料を閲覧させていただいた。入口の左側に、日本の三人の際立った功績のあった外交官の写真がかざられていた。陸奥宗光、吉田茂、中央が小村寿太郎の写真で、日本の外交史上小村が偉大な外交官であったことをしめしていた。
 私はポーッマスにも取材に赴いた。アービング・リンツという九十六歳の老人に会った。条約の協議がおこなわれた会議場の入口で衛兵をつとめた人で、それにふさわしくかなり長身の大柄な人であった。
 私は、かれに一つの質問を試みた。小村は身長四尺七寸(一・四三メートル)であったので、
「ずいぶん小柄な人だと思ったでしょう」
 と、たずねた。
 ところがかれは不審そうな表情をし、
「そんなことはありません。堂々とした、いかにも一国を代表した威厳にみちた方でした」
 と、答えた。
 会議の詳細な経過が、ロシア両国側の記録に残されているが、小村は終始冷静毅然としてロシアの全権に対し、そのような態度にロシア側もかれに敬意をはらっていたことが記されている。
 私は、この小説に「ポーッマスの旗」という題をつけ、発表した。
 かれの郷土である日南市では、腰抜けどころか名外交官であったという認識が浸透し、現在では多くの資料をおさめた小村寿太郎記念館ももうけられ、多くの人々が訪れている。〉
 この随筆が氏の死去前年、平成17年の作。「ポーツマスの旗」は昭和54年、新潮社より発刊されている。「海の史劇」は日本海海戦を描いた作品で、昭和47年に上梓された。因みに、小村寿太郎記念館は平成5年、郷里にオープンしている。
 「ポーツマスの旗」の大団円は、
「小村の葬儀は青山斎場でおこなわれた。・・・・会葬者は、勅使をはじめ約一千名であったが、市内に弔旗を掲げる家はなかった。」
 と綴られる。悪評とはまことに手強い。
 そこで、にわかに疑念が湧く。
 「坂の上の雲」で、司馬遼太郎も“定説”を覆し小村寿太郎を“名外交官”として大いに称讃している。この超長編作品の新聞連載が昭和43年から47年8月。単行本の最終巻が同年9月の出版であった。「海の史劇」も昭和47年。ほとんど同時期といってよい。
 吉村は司馬より4歳年下。同世代といってよい。ただし司馬には軍隊経験があるが、吉村にはない。司馬は大阪、吉村は東京下町に育った。作家デビューは吉村が昭和33年前後、司馬が昭和31年ごろ。これも同時期と見ていい。
 以下は稿者の邪推である。
 吉村は司馬を好敵手と見ていたのではないか。でなければ司馬文学隆盛のころ、全戦歴ではないにせよ、そのクライマックスを同時期にぶつけたりするであろうか。同じく歴史に材を採っていても、両者とも徹底的な資料収集と取材を行ったにせよ、向き合い方がちがう。吉村が虫の目からズームアウトするのに比し、司馬は鳥の目からズームインする。司馬史観とはいっても、吉村史観とはいわない。それはそのあたりに起因するか。
 平成9年、司馬が没した翌年に「司馬遼太郎賞」が創設された。その第1回受賞者に推されたのが吉村であった。しかし、打診を受けた吉村は「彼の小説を読んだこともないし、知らないので要らない」と辞したという。伝聞ではあるが、稿者の邪推を補強して余りある。
 ついでに穿てば、「ポーツマスの旗」は「坂の上の雲」の7年後であった。これが意味深だ。出身地への「取材旅行は、異様なものであった」とは、「坂の上の雲」をもってしても覆せなかった“定説”の根深さか、それとも司馬への面当てか。下衆の勘ぐり、ついそんな妄念に囚われる。
 W杯から随分なところへ跳んでしまった。今度は薄氷の敗戦はない。 □