伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

哀しみの千秋楽

2021年07月22日 | エッセー

 もう大相撲を観るのは已めよう。哀しみの千秋楽……。だが、哀しみは時を措かずして烈しい憤りへと転じた。
 翌19日の朝日は次のように伝えた。
〈長くにらみ合った。ようやく迎えた立ち合い。白鵬は相手の顔の前に左手をかざし、右ひじで強烈なかちあげをかます。張り手で隙をうかがい、右四つでがっちりまわしをとって自分の形に持ち込んだ。左の上手投げはまわしが切れたが、必死に相手の右腕をかかえて「最後の力を振り絞った」。自身16度目の全勝優勝を決めた。
 周囲が期待する、力と力でぶつかる立ち合いではなかった。荒々しさが目立つ横綱に「まあ勝負に徹したということかな」と八角理事長。当の白鵬は「右ひざがもうボロボロで言うことをきかなかった」と振り返った。
 花道を引き揚げる照ノ富士の髪は乱れ、白鵬から極められた右腕を気にするしぐさも見せた。白鵬に関する質問を「自分のことで精いっぱいなので」とさえぎった照ノ富士。悔しさをかみしめるように、「ここから良くしていきたい」と、成長を誓った。〉(抄録)
 北の富士は中スポにこうコメントした。
〈実は白鵬は照ノ富士が張り返すチャンスを狙っていたようだ。やはり海千山千の歴戦の横綱である。昔はやった言葉に「ほとんど病気」というのを覚えていますわ。白鵬がまさにそれです。どんなに非難されようが、勝つだけが相撲ではないと言われ続けて久しいが、直す気は全くないだろう。若い時は、尊敬する双葉山関や大鵬関に「少しでも近づこう」「ああなりたい」と思った時もあったと思う。しかし、今はすべての記録を破る事しかない。誰の忠告も通じないだろう。〉(抄録)
 相撲界のオーソリティは。白鵬の勝利至上主義を「ほとんど病気」と一刀両断した。宜なる哉だ。
 「相撲に勝って勝負に負ける」という古諺は今や「勝負に勝って相撲に負ける」に転じたのであろうか。比するに、照ノ富士のコメントがなんと清々しく高々しいことか。
 内田 樹氏の炯眼が胸に刺さる。
〈若い人たちにとって日本の国力がこれから衰微し続けるということはもう既定路線なわけです。V字回復はない、と。だったら、沈む船の中で最後に水没するエリアに這い上がるしかない。生き残り競争で相対的に優位に立つこと以上を望まない。船をもう一度浮かび上がらせるためにはどうしたらいいのかということはもう考えていない。
 人間は自己利益を増大させることよりも、同じ集団内部で相対的優位に立つことの方を優先するという法則を受け入れなくてはならない。「利益」より「勝利」の方が大切なんです。〈内田 樹×姜尚中「新世界秩序と日本の未来」集英社新書今月刊から)
 大相撲が「沈む船」に該当するかどうかはさて措き、「最後に水没するエリアに這い上がる」は白鵬の取り口や言動に酷似する。大相撲という「船」を「もう一度浮かび上がらせる」俯瞰的視野は微塵も窺えない。あるのは飽くなき自己利益の追求のみだ。ましてや、沈没船の最後の船長となる覚悟なぞはまったく見出し得ない。加えて、白鵬の「利益」には品格は毫もカウントされていない。
 記録が前人未到であっても、果たして白鵬はスーパースターといえるのか。いうまでもないが、ノーだ。
 旧稿を引きたい。
〈内田 樹氏は国民的スターに長嶋茂雄と車寅次郎の虚実2人を挙げる。共通点は「悪く言う人がいない」こと。さらにある種の「古代性」を指摘する。長嶋は球戯という祝祭の「不世出の祭司」であったし、香具師の寅さんは日本の独自文化を担った婆娑羅の末裔であったと。〉
 大谷翔平はどうか。
〈偏屈者の稿者でも大谷を「悪く言」った記憶は一度もない。アメリカでも「オ・オ・タニさん!」から「オオタニ・ショー」(独壇場と翔平を掛けたか)に変わった。それに、二刀流はベーブ・ルースという「古代性」を体現している。〉(今月3日「ムキャンキャク」から)
 「悪く言う人がいない」とはここに一人は確実にいる。横綱の品格が絶望的に欠落していることは衆目の一致するところだ。「古代性」の致命的な欠損に当たる。
 哀しみの千秋楽。明けて3日後、照ノ富士の横綱昇進。口上はこうだった。
「不動心を心がけ、横綱の品格、力量の向上に努めます」
 「品格」の二文字がキラリと光った。これで救われた気がした。場所前には「長くはできない」との覚悟も語った。9月場所では、擬い物ではない本物の横綱が土俵に上がる。今度は国技館。今から勇姿が楽しみだ。 □