今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

『養生訓』を読んでみた

2021年07月18日 | 作品・作家評

貝原益軒の『養生訓』といえば、現代の健康本にもたびたび引用されるほどの、いわば日本の健康本の嚆矢といえる書だが、だからといって江戸時代の医学レベルの書が、現代医学に準拠した我々の健康観にどれほど情報的価値があるか疑問だったので、しばらく読む気にはなれなかった。

最近、自分が東洋医学に親しむようになり、84歳という、江戸時代ではかなりの長寿※を実現した益軒のノウハウにも普遍性があるのではないかと思い、この書(『養生訓:すこやかに生きる知恵』前田信弘(編訳):全訳ではない)を手にした。
※2019年での日本男性の平均寿命は81.4歳

まず、益軒その人だが、本の解説によると、5歳で母親に死別し、12歳で次の継母とも死別した。
こういう幼少期をすごせば、現代では「愛着障害」に分類されてもおかしくないが、親に恵まれない歴史上の偉人がいかにそれを克服したかは、皮肉な事に『愛着障害』(岡田尊司)という本を読めばわかる。
それから、彼は晩婚ながら愛妻家で、その22歳年下の妻が没した翌年に彼も寿命が尽きた。
妻に先立たれた彼は、人を遠ざけ、家に篭り、一人静かに死を迎えたという。
ちなみに彼の例だけでなく、封建時代にも全うな夫婦愛が存在していたことは確信している。

益軒は、本来的には儒者で、医師を兼ねていた(東洋医学=気の陰陽論なので、当時の医者は易経などの儒教経典も必読)
その医学はもちろん伝統的東洋医学(鍼灸、漢方)だが、それらを盲信せず、無闇に医術に頼るなと言っている。
まずは日常の養生が大事なのだ。

なぜ養生を勧めるのか。
儒教や道教を生んだ古代中国では、長寿を求めることは善であった。
儒教では、人として「在る事」それ自体が幸福とされる(在る事は苦だという仏教とはここが異なる)。
だから儒教では、自分を幸福に在らしめてくれた親(そして先祖)に感謝すること(孝)が第一義となる。

さて、その養生の極意は、節度を守る、すなわち恣(ほしいままま)にならないことである。
もちろん儒教の「中庸」の教えに基づく。
それは決して禁欲ではなく、「楽」を肯定する。
その楽(在る事)をより長く確実に味わうには、恣ではなく節度が必要なのである。
同じ楽でも求めるのは、尽きない(激しい、一時的な)快楽ではなく、満ち足りた(程よい、持続的な)安楽である。

より具体的には、心を安定させ、体を動かすことだという。
気を安定させ循環させる、動的平衡を維持するためだ。
病気の原因は気の乱れであり、気の乱れは外邪(寒暖など)か、心の乱れからくる。

気を安定させるには、下腹部の丹田に気を収めて、気の上昇(交感神経興奮)を防ぐこと、すなわちリラックスして副交感神経優位に保つことである。

体を動かすのは、気の停滞を防ぐためで、益軒は「座りすぎ」を戒めている(現代人も耳に痛い)。

食の節度、すなわち食事中に満腹を求めないのは、実は食べ終ってから満腹感がやってくることを知っているためである。

益軒の養生論に通底している、欲に対して節度を求める、という態度は確かに情報としては今さら感がある。
だが、それは結局、普遍的な法則だからだ。

なのでそれを改めて解説したい。
節度は健康法だけでなく、同じ儒教に基づく「礼法」の極意でもある(礼節)。
節度と対立する放縦(恣)は、君子に対する小人が取る態度で、一方向にひたすら進む。
これを数学的に表現すれば、一次関数的態度である。
すなわち、単調増加(減少)関数であり、直線的、(直線)相関関係である。
直線的に進む態度はやがて先鋭化し、思想の奴隷(原理主義)になりやすい。
かように極端化する危険性があるものの、論理的に単純なので、受容されやすい。
すなわち素朴で幼稚な思考態度である。

一方、節度は、二次関数的態度である。
すなわち、最適(極大)値があり、極大値を挟んで関数関係、たとえば価値評価が逆になる。
「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」(論語)、ヤーキース・ドットソンの法則(心理学で数少ない法則)、バランス感覚、相関比(曲線相関)、最適工学である。
世の多くの事象はこれに該当しており、現実妥当性が高い。
だから生存価すなわち健康度も高くなる。
論理の単純さより現実性を重視した、成熟した思考態度である。

二次関数的な節度とは、欲を追究し過ぎず、最適水準に留まる態度である。
それは、”満足”、すなわち満腹を求めない「腹八分目」の態度であり、
いうなれば二分目の不達成を残しておく態度である。

益軒は、一次関数的態度を勧めない理由として、「楽の極まれるは悲の基なり」と言っている。
これは陰陽理論の「陽極まって陰になる」論理に基づいている。
二次関数では増加曲線が極大値を境に減少曲線に転じるように、楽の追究(極致)は苦に変換してしまうのだ(仏教も苦の原因を渇愛としている)。
だからピーク手前の上昇位置にあえて留まった方がいいというわけだ。

この節度を益軒は食だけではなく、人づきあいにも適用している。
もう少し食べたいという所でやめるように、もう少し居たいという時点で帰るべきという。
これは礼法での「残心」※につながる。
※剣術での残心は、納刀の際も油断せず攻撃心を残しておくことだが、礼法では、お辞儀が終っても相手に対する敬意を残しておくこと。
残心、すなわち「心残り」という満たされない状態を大事にする。
まだ居たいという、後ろ髪引かれる気持ちで帰るからこそ、「また会いたい」という気持ちが残る。
長居しすぎて、もう顔を見たくない気持ちにならずに済む。

放縦にならず、節度をもつとは、二次関数的態度によって実現する残心という主観的には満たされないが客観的には最適状態を引き受けることができるかにかかっている。
目先の欲にとらわれない、成熟した心ならできる。



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