今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

神社本庁に属していない神社はモグリなのか

2022年08月11日 | 時事

ネットで、ある怪しげな神社を問題視する理由として、「神社本庁に属していない」ことを挙げていた。
この発想こそが恐ろしい権威主義あるいは国家神道主義だ。

神社本庁は、日本国内の神社を統括する”公共団体”ではなく、一民間団体にすぎない。
そこに加盟するか否かは、神社側の自由である。

神社本庁に属していない神社:伏見稲荷(全国の稲荷神社の元締め)
神社本庁からの脱退したことのある神社:靖国神社、明治神宮、宇佐八幡(全国の八幡神社の元締め)
これらは、モグリの怪しげな神社なのだろうか?

むしろ神社側にとって、神社本庁の在り方の方が問題視したいのではないか(人事に介入するとか)。

”本庁”という官庁表現を名乗るのは、歴史的に戦前の国家神道の”元締め”(神祇省)の継承を目指しているからだろう。

だが、私は神社本庁の方が本来の伝統的神道を曲げていると思っている。

神社本庁は伊勢神宮中心主義で、すべての神社を皇祖に収斂しようとする。
これは戦前の「国家神道」に繋がる。

国家神道は皇祖(天照大神)に関係しない(国津神系の)地域神を否定してきた。
明治~昭和20年までの(ほんの一時期の)国家神道時代、全国の神社で地元で信仰されてきた祭神が廃され、無理やり皇祖神に置き換えされた(なので現在の神社の祭神が皇祖神である場合、本来の祭神ではない可能性がある)。

また明治維新の前後、それまで神社を管理していた仏教寺院が破壊・廃絶させられた。
それに続く維新時の”神仏分離”という宗教的に暴力的措置によって神仏混交という日本人(支配者側ではなく常民側)の自然な(融通無礙の)宗教心の具現である伝統的神道が否定された。

たとえば江戸時代の剣術道場は鹿島・香取の二神を祀っていた。
それが明治後は、二神の中央(中尊)に「天照大神」を置いた三神に変更させられている。
天照大神は剣術の神ではないのに。
このように、人々の素朴な神社信仰を無理やり皇祖中心主義に曲げられてた。

もう一つ身近な例として、私の自宅地域の鎮守は天祖神社(地元では”神明様”と呼んでいた)なのだが、拝殿に置かれている神社本庁のパンフに、氏神と信仰する神の間に皇祖天照大神を中心に飾れと指図してある。
それを見た母は、天祖神社の札と天照大神の札の両方を買ってきた。
これって中身が同じ。
私は余分な天照大神の札をお炊き上げ用の箱に入れた。

天祖神社以外で、祭神に天照大神があったら、明治以降に国家神道的要請によって追加された可能性がある。
なのでむしろ皇祖以外の祭神があれば、その神がその神社本来の祭神である可能性が高い。

このように、神社本庁は皇室に対する日本人の自然な敬意とは異質の”狂信的な天皇崇拝”を推し進めた国家神道を継承するものである。

神社本庁の”権威”を素朴に認める人たちは、戦前の国家神道を素朴に支持していることになる。

私は自分なりの神道観※を持っていて、礼拝の所作も含めて神社本庁に従わない。
※:特定の教祖・聖典(教義=システム2)に依存(絶対化)せず、宗教心(システム4)そのものに準拠する本来的な神道は、人類共通の普遍宗教(キリスト教段階)となる潜在性があるのに、その反対方向の一民族国家宗教(ユダヤ教段階)に矮小化するのはもったいない。


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