今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

”半沢直樹”を観る意味

2020年07月20日 | 作品・作家評

7年も待たせた、半沢直樹の第3クルーがやっと昨日(7/19)放映された。

私はとっくの昔に出向後の原作『ロスジェネの逆襲』を読んでいて、原作があるのだからドラマ化も間近だと思っていたら、こんなに月日がかかった(第2のクルー最終回→家族で観た半沢直樹)。

7年のブランクは大きすぎ、TBSもビジネスチャンスを棒に振ったかと思ったが、ブランクを忘れさせてくれた(視聴率22%〕。

我々はなぜ「半沢直樹」を観るのか。

水戸黄門的勧善懲悪のカタルシスも確かにあろうが、それだけではない。

むしろ彼に振りかかる尋常でないストレスが問題。
普通の人間なら、くじけてしまうストレスを、周囲の力を借りて見事に振り払う。
このドラマを見ていると、今、自分が抱えている仕事のストレスなんて、たいしたことないと思えてくる。
そういう活力、元気を与えてくれるのがありがたいのだ。
日曜の晩の放映というのも価値があり、元気に月曜を迎えられる。

そもそも、われわれ人間は、物語を求めている、
物語性の前には、フィクションか事実かという違いは問題でなくなる。
だから、フィクションに完璧なリアリティは求めていない(重箱の隅をつつく批判は無意味)。

仮に事実であっても、(アカの)”他人の事実”は、所詮自分にとっては、”お話し”の1つであって,フィクション(物語)との違いにほとんど意味はなくなる。

言い換えれば、他人の事実は、”物語”としての価値によって評価される。
物語性のない”事実”なんて、つまらない日常と同じで、屁みたいなもの。

単なる事実よりも、事実性の背後にある真実(本質)にこそ反応するためだ。

実際、物語性のあるフィクションの方が、どれだけ感動するか。
感動こそが、自分の心を深く彫琢し、自分を変えていく、すなわち実質的な意味がある。
だからこれからも、物語が廃(スタ)ることはない。


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