今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

『大菩薩峠』を薦めるか

2024年09月16日 | 作品・作家評

昨日読了した中里介山の『大菩薩峠』の最後の記事。
その名は知っていても(昔は演劇や映画にもなったが今ではそれもないので知る人も少ないかも)、全巻読み通す人は稀だと思うので、その数少ない経験者の一人として、読書選択の一助となればと思い、読書案内で締めくくる(もちろんウィキペディアも参考に)。


まず、皆さんに読むことを薦めるか。
この本は今ではネットの「青空文庫」で無料で読めるので、仮に1巻500円とすると、41巻分20500円浮くし、1巻の厚さ1cmとすると41cmのスペースを使わずに済む。
即ちコスパは青空文庫の中でも群を抜いた最高レベル。
まずコスパ基準で”読まないと損”、と思う人は読むといい。
文体は口語で読みやすく、それでいて語彙の勉強にもなる。


次に、中身の吟味に入ろう。

⚫︎まず情報的価値として、歴史や地誌などの知識になるかというと、登場人物の皆さんが日本各地(北は青森の恐山から、南(西)は京都山科・大原、奈良の十津川まで)を転々とするものの、私にとっては情報として得たのは前の記事で示した愛知・名古屋についてのみ。
むしろ時代考証については、三田村鳶魚の批判(「中里介山の『大菩薩峠』」昭和7年:同じ青空文庫に所収)もある通り、はっきり言ってである。
なのでいわゆる”歴史小説”には属さない。
また各人物にゆかりのある地の中で、表題の大菩薩峠以外に、登場地として今でも名を馳せている(現地がこの小説と因縁付けている)のは、東京青梅の海禅寺(作中では海蔵寺)、同じく青梅の御嶽神社、山梨上野原の保福寺(作中では月見寺)、信州白骨温泉(この小説がこの温泉を一躍有名にした)などがある。
また青梅の裏宿にある七兵衛公園は、裏宿の七兵衛という実在した義民の地だが、小説にその名のまま登場して、大菩薩峠でお松を助け、多摩川沿いで竜之介の太刀をかわす。

⚫︎文学的価値として、感動があるかというと、ないことはない。
ただし最後の41巻まで待つ必要がある。

⚫︎娯楽的価値として、笑えるかというと、介山の解説に冗談・駄洒落はあるが、声を出して笑うほどではない。
またスリル・サスペンス、あるいはミステリーなどの要素もない。
机竜之介はいつの間にか人を切っているし、彼を仇として追う宇津木兵馬は、一向に追い付けない。
藤沢周平が得意とするような躍動的剣劇シーンはない。


人間描写については、時が幕末だけに、変革せざるを得ない人間が表現されている。

一番印象に残ったのは、自立した女性がきっちり描かれていること。
例えば、最初のうちは周囲の言いなりだったが、次第に精神的に自立し、明治女性のように開明的に成長していくお松
唯一の身寄りだった祖父が竜之介に惨殺されるシーンから始まるこの小説では、一人残された少女お松のその後の人生こそ最も重要なストーリーともいえる。
あるいは、男たちを使いこなす経営手腕を誇るやり手興行師のお角。
登場人物のうちで誰よりも自我が強く(ただし屈折したメンタリティ)、実家の財をベースに理想郷を建設しようとする覆面のお銀様(作者はこの人だけ「様」付けで呼称)
いずれの女性も、経済的にも精神的にも男に依存しない(むしろ男の上に立つ)自立した女性たち。

一方、最初の数巻での主人公、血に飢えた剣豪・机竜之介は、次第に幽霊のように影が薄くなっていく(そして刀が意味をなさなくなる日も近い)。
洋学を研究した駒井甚三郎は、ひと足さきに近代人となり、蒸気船で日本を脱出するが、西洋人に西洋文明の限界と大乗仏教の空(くう)の哲学を教わり、茫然となる。
※:介山自身は、この大著を大衆小説ではなく「大乗小説」と性格づけている。私がこの大著を読みたくなったもう1つの理由(記事「『大菩薩峠』を読み始める」で言及)が、この大乗仏教的部分。

即ち、江戸から明治への変革期に相応しい、新しい日本人が描かれている。
といっても、みんな一筋縄では行かない人生を送る。
むしろ、それこそ、予定調和的物語とは異なる、リアリティある人間描写(あるいは大乗小説の主題)なのではないか。
介山にとって彼らは、作者から独立して、それぞれの人生(物語)を送る存在になり(だから収拾がつかなくなった)、私にとっても、半年間を共にした愛すべき人たちだ。

かくも、『大菩薩峠』はこれほど私を語らしめる作品だった。