今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

私の不可解な行為

2013年05月13日 | 雑感
誰しも、合理的でない不可解な行動傾向の1つや2つはもっている。
いちおうは心理学者である私とて例外ではない。

国会図書館などに行って、メニュー豊富な食堂で昼食をとる時、
さっとサンプルを見て半ば直観的に食べるものを選ぶ。
そして食べ終わって、帰りしな、
もう一度ショーケースの前に立ち止まって、自分が本当に食べたいものを時間をかけて探しはじめる。
毎回、この行為がちょっとした楽しみになっている。

食べ終わった後に、食べたいものを探すという行為は、
本来的には不可逆的である、行為の時間連鎖構造を逆転させた、
少なくとも時間が一方向に流れるこの世では無意味な行為である。

なぜそのような事をするのか。
少なくとも予想しうる答えは、”合理的”なものではなかろう。

当事者に言わせれば、食べる前は、早く食べたいという気の高まり(ある種の切迫感)と、
注文の列に並んでいる他者たちが気になって(意識集中の阻害)、落ち着いて選べないのだ。

そして、食べ終わった後なら、目標となる行為が済んだため、
心に余裕ができて、しかも食事直後でまだ食べ物に関心が残っている状態なので、
食べたいものを落ち着いて選ぶ気持ちになれるのだ。

もちろん、そこで選んだとしても、私の次にする行為は、食堂から出て行く事以外にない。
すなわち、ここでの選択行為は、次の注文行為につながらない。
ということは、これは選択に至らない選択であり、
実的行為としての価値をもたないという意味で、”無意味”である。

ところがこの行為を毎度繰りかえす。
食べるための選択ではなく、選択のための選択を楽しんでいるからだ。
もちろん、「次に食べる時のための選択だ」と強弁することもできる。
だがしかし、実際の次なる時に、今回の選択が記憶されて、再現される実績はない。
そもそも、その時にはメニューが入れ替わっているのだ。

ただ、食後に選ばれたものが、今さっき自分が食べたものと異なったからといって、
後悔という不快感情に支配されることはない。
食前に自分が最適な選択をしそこなったので、
事後的ながら、最適な選択を完遂したいのである。
自分の真の心を知りたいのである。
だから、むしろ自分が食べたもの以外に、もっと食べたいものを事後的にでも発見した時の方が、
後悔どころか、この行為をした充実感を得る。
この行為の完遂傾向をなんとか心理学で説明するなら、
「ゼイガルニク効果」という名を紹介しよう
(その効果も含めて、心的緊張の解除というK.Lewinのパーソナリティの力学モデルで説明可能)。

私のこの行為は、結局、合理性よりも、その場の感情の満足に従っているわけだ。
合理性によって得られるはずの今は見えない満足には思いをはせず、
今したい事をすることの可視的な満足を優先している。
無駄な事をやって満足する。
げに感情とは、かくも論理を平然と無視する。
人間の心理の秘密は感情にあるようだ。