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今日こんなことが

私は「はてなブログ」に引っ越しました。
こちらは過去の記事だけ残しています。またコメントも停止しています。

心と精神の違い

2022年03月04日 | 心理学

マルクス・ガブリエルの『「私」は脳ではない—21世紀のための精神の哲学—』(講談社)をちら見して(まだきちんと読んではいない)、この本は、彼のいう”神経(ニューロ)中心主義”を批判するためのものだとわかった。

ここのブログでもいわゆる脳神経科学の本をいくつか紹介しているが、そもそも私も心をすべて脳(大脳皮質だけではなく中枢神経系)に還元する視点には賛同しない。

自分の「心の多重過程モデル」において、通常の心理過程に相当するシステム1・2は脳の反応が中心となることは認めるが、最も根底的なシステム0においては、睡眠覚醒機能こそ脳幹が柱だが、心臓や腸あるいは皮膚など末梢器官も構成要素としていて、心(≠脳)一元論的立場として脳神経中心主義をとらない。
※心の多重過程モデル:”心”を以下のサブシステムからなる高次システムとみなす私のモデル
システム0:覚醒/睡眠・情動など生理的に反応する活動。生きている間作動し続ける。
システム1:条件づけなどによる直感(無自覚)的反応。身体運動時に作動。動物と共通したメカニズム。通常の”心”はここから。
システム2:思考・表象による意識活動。人間固有の領域。通常の”心”はここまで(二重過程モデル)。
システム3:非日常的な超意識・メタ認知・瞑想(マインドフルネス)。人間でも作動する人は限られているが、全員作動可能。
システム4:超個的(トランスパーソナル)・スピリチュアルレベル。

さらに、システム3・4という高次過程においては、自我・個我を超越した心を想定している。

その超個的心は、すでに誰でもが作動しているシステム2レベルにおいて発動している。
システム2は自我(自意識=エゴ)が機能している心のサブシステムだが、自我は機能すると同時にその限界に直面することで(それが人間固有の”心の苦しみ”を経験させる)、自我を超越する志向を内包している。
それを「精神」と名づけたい。

その「精神」は、個体内の心(個我)というより、個を時間的空間的に超えて共有されたメンタリティ(パッケージ化された心)を指す。
武士道精神などいわゆる「〜精神」と我々が表現しているあのメンタリティだ。

これが本来のspiritとしての”精神”なのだが、日本語の「精神」は、必ずしもspiritの訳語に限定されず、特に精神医学畑で「心」の別名(同義語)として使用されている。
たとえばフロイトの「Psycho Analysis」は素直に直訳すれば「心理分析」となるはずだが、最初に訳したのが精神医学者であったため「精神分析」という訳語が定着してしまった。
かように医学界では心がすべて精神に言い換えられている(実際の精神医学はspiritの医学ではなく心の医学)ので、”心=精神”が学界のデフォとなっている。

ちなみに、医学界で「心」を使わなかったのはそれなりに理由がありそうだ。
実は、中国(医学)での「心」は心臓をも意味している(経絡における「心経」は心臓から出る経路をいう)。
なので、近代医学的に心臓ではなく脳の現象を扱うために、「心」の代わりに古来使われていたメンタル作用の「神」に(神だけだと神様と区別できないため)、生命作用である「精」を併せて「精神」(精における神)という熟語を作り、しかもそれを妖精的なspiritの訳語ともした、と推論される。

以上を踏まえて、精神医学ではなく、私の心理学においては、「心」と「精神」は本来のように区別したい。
すなわち、精神は個体内の心ではなく、個を超えて外在する心性(メンタリティ)とし、それが個のシステム2に取り入れられ、社会行動や社会的感情の原理(アイデンティティ)となる。
そしてそれが集団化されることで社会に共有された価値観となる。
すなわち、精神は個に属するものではなく、個を超えて”共有された”心の部分であり、その意味で脳に還元されない”心”である。

言い換えれば、人間の行動や感情は、脳に備わっている動物起源のメカニズムに還元して理解できる部分だけではなく、個人の脳を超えた高次のメンタリティによっても説明できる部分がある。
たとえば、道徳心、正義感、美意識、感動、宗教心などは、動物的心的作用に還元できない、ハイレベルな”精神”の作用である。

このようにシステム2において発動するspiritとしての「精神」は、個体を超えたより大きな心性との繋がりを前提とするため、瞑想的なシステム3を超えて超個的(トランスパーソナル)なシステム4、すなわちspiritual(霊的)な方向に開かれている。

通常のわれわれのシステム2においてすでに発動させているその精神性(spirituality)を成長させることによってこそ、心の霊的次元、すなわち霊性(spirituality)が開かれる。

かように、私自身は、心を構成しているシステム0とシステム4という双方の位置からは神経中心主義ではないが、その両者に挟まれたシステム1とシステム2はほとんど脳活動で説明可能と思っている。
※:大脳はニューロン(神経細胞)だけでなくグリア細胞(特にアストロサイト)のネットワークでもあるので、その意味でニューロ中心主義は時代遅れ。
なので心は脳で説明できるか/できないか、という二価論理には興味がない。
心におけるシステム0は脳どころか身体と合一しているが、システム1から2に進むにつれて中枢の限局化(脳化)が進み、システム3からは脱(超)身体化が進む。
集合論的には、心⊃意識⊃精神、の関係(心が一番広い)。


夢の中だけの痛覚

2022年01月30日 | 心理学

夢の中で、3回目のワクチン接種をして、接種した側の右上腕が過去2回の接種後よりも痛くなった。
それで夢の中の誰かに、今回の方が痛いと報告した。

夢という脳内覚醒現象では、夢主の知覚経験を構成する五感は各感覚中枢の反応によるものなので、視・聴覚以外の嗅覚・味覚・触覚も夢で経験可能であることは理論的には説明できるが、
実際の夢経験では、触覚、特に痛みの感覚(厳密には痛みは触覚とは区別される)は、たとえば私の場合は帯状疱疹や尿管結石の時のように、実際の痛みが夢の中に侵入してくる場合ばかりだった。

ところが、今回の腕の痛みの夢は、夢の中だけの感覚で、現実の痛みは存在しない(実際には3回目のワクチン接種はまだ受けていない)。

すなわち、夢は五感すべてを現実の影響を受けることなく脳内で構成可能であることが、経験的にも明らかとなった。
言い換えると、われわれの五感の経験は、現実に感覚刺激が存在していなくてもすべて脳内で構成可能であることがはっきりした。
また一歩、唯識思想の妥当性が高まったといえる。


夢うつつ状態の経験

2021年11月05日 | 心理学

睡眠と覚醒の中間(混合)状態には「半睡」のほかに、より味わい深い表現の「夢うつつ」がある。
こちらは、夢と現実(うつつ)のどっちつかず/まざった状態なので、前回の「半睡」のような夢見がないものは該当しない。

今日は、「夢うつつ」を体験した。

バスの座席で居眠りをした。
バスの走行音はそのまま聞こえるが、いつのまにか閉眼し、静止画的な映像(本の見開きのような画像)の夢を見た。
とても浅い眠りで、バスが停車すると目が覚めた(時間も短い)。

これはノンレム睡眠における睡眠段階1の入眠期に相当するだろう(降りるバス停がアナウンスされると目が覚めるレベル)。

前回の「半睡」と共通するのは、聴覚が覚醒していて、外界の音が聴こえている。
異なるのは、まず呼吸が寝息(睡眠段階2)に至っていないで、覚醒時の呼吸のままであること(この点ではこちらの睡眠の方が浅い)。
そして思考ではなく、また能動的空想でもなく、意識にとっては受動的な夢見の視覚像がある点(この点ではこちらの睡眠の方が深い)。
前回の「半睡」は脳は覚醒して、身体が眠っていたが、今回は視覚的には睡眠(夢見)状態で、聴覚的には覚醒している※。
まさに「夢うつつ」だ。
※:真の睡眠に入る時、外界からの聴覚刺激が突然聴こえなくなり、無音状態になる(車中では走行音が消える)。なんらかの理由でその無音状態が破られて覚醒に戻った時、自分がその間、睡眠に入っていたことがわかる

これはノンレム睡眠だから、もとより身体の休息ではなく、かといって睡眠段階がごく浅いので脳の休息というほどでもない。
あまり意味がない状態だと思うが、思考や視覚情報処理は抑制されているので、少しは脳のエネルギー消費が節約されているのかもしれない。

そう、脳は暇さえあれば、エネルギー節約モードに入りたがるようで、そのため睡眠と覚醒の中間段階が多様にあるのだ。

 

 


「半睡」という現象

2021年11月02日 | 心理学

半睡(はんすい)とは、国語辞典によると「意識もうろう状態」というまさに朦朧とした定義で、もっときちんと睡眠行動学的な定義をしたい。

なぜなら、この半睡としか言いようのない体験をしたから。

先日の旅先の宿で寝ていて、もうじき起きなくては(旅宿は朝食が早い)と思いつつ、5分か10分ごとに睡眠と覚醒を繰り返していた時に経験した(日常の平日でもこういうことはある)。

頭はほぼ覚醒して意識があり、閉眼しながら思考状態になっている。
ところがふと気がつくと、身体は寝息をたてている。
寝息という睡眠時特有の呼吸運動は、覚醒時の呼吸より深くまたリズミカルな大きな運動で、”寝息”と言われる音を立てる。
その時、意識は覚醒しているから、自分の寝息の音を聴くことになる。
実に不思議な体験だった。
自分の寝息をリアルタイムで聴いたという意味でも。

眠っている自分を別の自分が気づいている状態だが、夢は見ていないので明晰夢ではない。
それでいて身体は眠っているので、短時間ながら眠ったという充実感は得られる(睡眠負債が減る)。

意識は覚醒状態でありながら身体は睡眠というこの現象(行動)をこそ、「半睡」と定義したい。

行動についての言葉は、せっかくなら学術的正確さをもちたい(学問は社会に適用されてこそ存在意義がある)。

開眼夢とともに、これも睡眠と覚醒の中間状態(混合状態)の一つだ。
睡眠と夢見と覚醒との関係はかくも複雑だ。→「夢を見る心:序


かけがえのなさ=愛

2021年10月26日 | 心理学

小室圭さんと(名字なし)眞子さんの結婚には、世間はいろいろな思いがあるだろうが、私は祝福したい。
花嫁側の両親は不承不承で、両家レベルのつき合いはないだろうけど、本人同士の気持ちという本質部分が貫徹された。
私にとって小室圭さんは、きちんと立ち止まって礼ができる品格のある人だという印象。

さて、お二人の会見で、心に残ったのは、眞子さんが「かけがえのない人」と言い、圭さんが「愛している」と表現したこと。

手前味噌だが、私の「心理的距離モデル」では、心理的距離を構成する2次元(空間的距離は1次元だが、距離感は2次元)に個別性と共同性を措いている。

個別性は、その人であることの存在感の強さ。
共同性は、自分との存在的近さ。
通常の心理的距離は、自己との一体感である共同性のみを意味するだろうが、私はあえて個別性、すなわち相手を”他者”として認める部分を対人関係としての心理的距離の要素とした。
そして、2次元としての心理的距離が接近するということは、単に共同性(一体感)のみが近づくことではなく、その人であることの重要性が増すことを同時に満たすことと定義した。
いわば個別性と共同性の2次元空間上の合成値が私が定義したい”心理的距離”である。
その合成値は、心理現象としてどのような感じ方なのか。
それを「かけがえのなさ」と表現した。
ただし、あえて「欠け替えのなさ」と当て字する(正しい漢字ではない)。
すなわち、相手が欠けてほしくない=そばにいてほしい(共同性)という気持ちと、
他の人には替えられないあなたであること(個別性)という気持ちの合成としての”欠け替えのなさ”である。
さらにこの二重意味の用語をたった一言に置き換えるなら、それは「愛」だ。
愛とは盲目的な自他融合ではなく、相手を自己ならざる者”他者”として認め、その存在を受容し、大切にすることである(自己投影としての単なる一体感は、相手の存在を認めていない)。
お二人が語ったように、「欠け替えのなさ」とは愛であり、個別性と共同性によって構成される心理的距離の値のことである。
なので、二人の愛は本物といえる。


夢を見る心④:見る心と見せる心

2021年10月03日 | 心理学

前回の記事(→夢を見る心③)の趣旨は、夢を、現実とのみ対比して、その荒唐無稽性を強調するのは、二元論的バイアスに引きずられている思考の偏りである、ということだった。
夢を覚醒時のイメージ表象(空想)に近いものと見なせば、これらはちっとも不思議でなくなる。
夢が空想と違うのは、現実の映像や音声に近い精細度であること(空想での音なんてほとんど音として聴こえない)。
夢の中で夢を現実だと思ってしまう理由の1は、この夢世界の高精細性(リアリティ)にある。

そしてもう一つの決定的な理由は、現実と同じく、自我にとって受動的体験だから。
夢は心の中の現象なのに、なぜ空想のように思い通りにならないのか。
夢の不思議な点は、内容の非現実性よりも、こちらに尽きる。
このシリーズの最後の今回は、この点を問題にする。

これ以降の説明は「心の多重過程モデル」※を使う。
※:”心”を以下のサブシステムからなる高次システムとみなす私のモデル
システム0:覚醒・自律神経などのほとんど生理的な活動。生きている間は常時作動
システム1:条件づけなどによる直感(無自覚)的反応。覚醒時に優先的に作動
システム2:思考・表象による意識活動。システム1で対処できない場合に作動
システム3:非日常的な超意識・メタ認知・瞑想(マインドフルネス)。作動負荷が高い

そこでまず、夢を見る主体と、夢の世界とに分けてみる。
夢の中での主体すなわち夢主は、覚醒時と同じ自我が経験している。
夢から覚めると、新たな自我が起動するのではなく、自分は今まで夢を見ていたと理解する(意識・記憶が連続している)のがその証拠。
であるからシステム2が作動している。
システム2の思考は、夢の中でも健全で、決してめちゃくちゃにはならない。
現実の世界ではあいまいに誤魔化していた問題を、夢の中で妥協せずに真剣に取り組むことすらある。
仮に夢での思考や判断が非現実的だとするなら、それは夢の世界のファンタジックな”文脈”に合わせているためであり、その夢に適応しようとしている結果だ。
つまり、夢の中でもシステム2である自我はフル活動している。

次に夢の世界側だが、夢を”自発的なイメージ表象(空想)とみなせば、自由な空想や記憶の再生による現実的でない状況設定は普通にありえる。
イメージ表象における論理は、現実世界の物理法則ではなく、”連想”という心理則に基づくからだ。
なので現実には無関係の人たち(たとえば職場の知人と学生時代の友人)が夢では同席していても、なんらかの共通性による連想作用によるので不思議ではない。
空間的風景も記憶を材料に任意に構成できる。
ストーリーは自我の思いとは独立に自己展開するようにみえるが、たいていクライマックスで目が覚める。
すなわち夢には予定された”終り”がある、というのも面白い。

まずシステム0(身体状態、睡眠段階)が夢を見る生理心理的環境を与える。
トータルな睡眠と覚醒をコントロールしているのはシステム0だが、
より高次過程のシステム1・2は、その制約下で作動することが可能だ。
睡眠中にシステム1が作動すると、知覚体験の素材であるエピソード記憶などが活性化される。
システム1だけの作動なら、夢といっても記憶のゴミ処理(昼の名残)程度のつまらない夢で終る(動物が夢を見るとすれば、このレベルの夢だろう)。
ノンレム睡眠での、映像的に淡泊で自我が介入しない夢も、これに該当する。

システム2が作動すると、システム1の 記憶素材を使って、空想的な物語化が可能になる。
物語の主人公になるのはもちろん自我だ。
ただし主人公(自我)だけが、夢(心)を構成しているわけではない。
他の登場人物もセットもまた夢(心)の一部である。
レム睡眠での現実を超えたSF的なイメージとストーリーを構成するのは、システム2にしかできない。

フロイトも(前回紹介した)ホブソンも、夢を現実認識より1段劣った心理現象とみなしているが、
私は、夢は覚醒時のシステム2による思考やイメージ表象(空想)と同レベルの心理現象とみなしている。

夢はシステム2による”物語”化だから、そりゃさまざなば解釈(深読み)も可能だろう。
自分の夢を解釈することは、システム2の受動的空想を同じシステム2で解説する作業だ。
その意味では自己理解は深まるだろうが、自分の夢に隠れた意味が発見できるかは、解釈に採用する論理図式に依存する。
面白いことに夢に関心をもつと、夢がその関心に応えてくれる。
フロイト派の分析を受けている人はフロイト的な(例えば、性的隠喩の)夢を、ユング派の分析を受けている人はユング的な(例えば、神話的)夢を見るというのだ(ということは、どちらの夢理論も普遍的妥当性はない)。
夢を見させているのはそれらの理論を理解し、連想しやすくなっているシステム2だから、そんなことはいとも簡単だ。

ということで、夢は「システム2の自作自演の現象である」、というのが私の考えだ。
ただし、統一した自作自演ではなく、夢を作るイメージ表象と演じる自我が乖離した状態である。
すなわち夢を見ている時、システム2は自我と世界表象とに乖離している。

そもそも、システム2そのものが、行動主体(システム1)から、それを眺める自我の乖離として発生した(逆に言えば、自我が積極的に関与しなくても、習慣的行動が自動的に発動される。システム0もシステム1も自我の外の心であり、自我は決して”心”の主人・独裁者ではない)。
システム2は最初から乖離能力をもっている。

この乖離において、システム2のイメージ表象部分は、世界という、自我を取り囲む環境として、自我に対して自律的に作動する。
この乖離は、レム睡眠中の前頭前野の機能低下により、乖離を抑制する統合力が低下したためといえる。
開眼夢は、強い眠気によって覚醒時にシステム2の乖離が起きる珍しい現象である(そのおかげで夢イメージが現実風景に匹敵する精細度であることを経験できる)。

実は、このシステム2の乖離能力が、次なるシステム3(メタ認知、マインドフルネス)の創発を可能にしている。
すなわち、夢見を経験できることは、システム2が日常的に乖離可能であるということであり、それは次なるシステム3が創発可能であることを示している。
※:この乖離が病的になると幻覚、人格解離となる。すなわち解離は乖離の病的な発現なので、その本質は乖離である。そもそも心の多重過程化が創発という名の乖離の積重ねである。またシステム2内の乖離は、自我にとっては不可思議な体験だが、多重な心全体からすれば、ちょっとしたバランスの揺らぎにすぎない。夢における明晰夢、多重夢、開眼夢しかり。

結論をいうと、夢は自我の制御を離れたシステム2のイメージ表象作用であり、生理的・心理的なこれといった重要な機能・意味はなく(記憶の固定に関与するらしい)、
ただシステム2の統合性が低下して、自我とイメージ表象の関係が逆転した(異常だが非病理的な)現象だといえる。
夢の内容にはたいして意味はないが(主観的経験であることは確かなので、経験としての意味はある)、夢を見る能力には、心の多重性をレベルアップできる意味があるといえる。
なので、夢は専用装置もいらない手軽なVR(バーチャルリアリティ)体験として楽しめばいい(たまにホラーもあるかも)。

→「夢を見る心・序」に戻る


夢を見る心③:夢であることの特徴

2021年10月01日 | 心理学

『夢の科学』(講談社・ブルーバックス)の著者アラン・ボブソン(医者、神経科学者)は、夢の最新理論である「活性化-合成モデル」の提唱者で、本書はその説明があるだけでなく、 彼自身の夢の実例を挙げて、 夢とはどのような体験なのかを論じている(夢についての本の中でイチ押し)。

彼によれば、覚醒と比較して、夢は以下のように「形」※が異なるという。
※:ボブソンは、夢の内容ではなく、夢のを問題にすべきだと言う。それは賛成だが、彼自身の夢は形の種類に乏しい気がする。
●情動は、高揚感、怒り、不安が誇張される。
●闘争および逃走シーンがよく出てくる。
●夢の中の出来事に没頭。
●時、場所、人物に関する認識が著しく欠如。

また「目覚めている時に夢を見るのは実質的に不可能である」といっているが、「開眼夢」(私が発見?)という現象があるため、それは誤りだと指摘しておきたい。
また個人的には、はじめの二つの●は、子供時代の夢にはあてはまっても、成人以降の落ち着いた夢に当てはまるだろうか。

さらに、睡眠中の脳の状態としては、ノンレム睡眠中、特に深い徐波睡眠は、脳活動全体が低下している。
レム睡眠中に活動低下するのは、前頭前野背外側部(作業記憶、熟考、意志の中枢)、帯状回後部、海馬傍回で、
一方、活動が活発になるのは、橋被蓋核、扁桃体(情動の中枢)、帯状回前部だという。
上の●で列挙した夢において活性化される諸機能は、コリン※作動系が扁桃体・海馬を含む辺縁系を刺激するためであるという。
※:神経伝達物質であるアセチルコリンの元物質。ちなみに私は毎晩寝る前にコリンのサプリを服用している

以上、とても参考になるが、気になるのは、夢の特徴を覚醒時の現実経験と対比して論じていること。
このやり方は、両者を対立概念化するため、相違点しか見えなくなる。
まさに二元論的思考の欠点だ。
ただし二元論思考は、言語による概念操作に必然的に付随するバイアス(無自覚な偏り)であるため、そう簡単に排除できない※。
※:二元論思考を批判して、不二一元論の思考を実践したのは8世紀のインドの思想家シャンカラ。
矯正しにくいその思考癖を変えずに二元論的結論に陥らないために、私が見出した方法は、二元にもう1つ要素を追加して、2対1の組みとし、その組合せを3回変えて比較をすることである。
毎回の思考作業は二元比較なのだが、これを各組みごと3つ繰り返すことで、三元間の相違だけでなく、共通性も見えてくる。
共通性が見えたら、そうれはもう二元論的思考によるバイアスから脱したことになる。

ということで現実にさらに空想を加えて、夢であることの特徴を三元比較による思考実験で捉えてみよう。
ここでいう空想は、覚醒時の自由なイメージ表象(想像、夢想、回想)をいう。
では、夢・空想⇔現実、夢・現実⇔空想、夢⇔現実・空想という3つの二元対比を以下にしてみる。

①夢・空想⇔現実
前者は主観的構成に対して、後者は客観的に他者と協働で構成される。
すなわち他者と共有体験できない⇔できる、という対比。
また、認知対象の内的生成(トップダウン)⇔外的刺激の知覚(ボトムアップ)の対比でもある。
時間経過として、非連続性⇔連続性という対比もある。
現実を外部に実在しているものとみなすと、現実は主体が認識していない間も主体から独立して変化するが、前者は主体の認識中にのみ生成変化する。
さらにこれは当然なのだが、非現実的(時空間。行動能力が物理法則に従わない)⇔現実的(物理法則などに従う)という対比もある。
すなわち、前者は、客観的な法則性とは異なる原理で生成変化する。

②夢・現実⇔空想
この対比によって、夢と現実との対比では見えてこない、夢と現実の共通性が見えてくる。
任意に構成できない⇔意のままに構成できる、受動的⇔能動的、という対比が明らかである。
ただ夢も現実も主体の働きかけは可能で、何もできないわけではなく、行動によって事態を展開できる。
この共通性があるからこそ、我々は夢を見ている間、それを”現実”と思うのである(明晰夢を除く)。
この共通性にもっと注目すべきである。

③夢⇔現実・空想
睡眠中と覚醒中の対比であり、両者でシステム0の状態が異なる。
では夢に対する現実と空想の共通性は何か。
これはけっこう難しい。
心理学者の渡辺恒夫氏※に頼ると、夢は現在しかないが、現実と空想は過去や未来という時間の幅をもって体験できる。
※:『人はなぜ夢を見るのか:夢科学四千年の問いと答え』(化学同人)。ただし氏も夢と現実の対比。

二元論バイアスを脱するもうひとつの方法は、対比する概念対の狭間に注目して、両者の移行・混合状態をあえて想定することである。
陰陽理論が単純な二元論でないのは、陰と陽との間に移行・混合状態を認めるためである。

①夢と現実の狭間
この狭間は、「開眼夢」すなわち開眼していて夢イメージを経験する場合である。
これは滅多に経験しないが、私は2020年7月に、読書中に経験した→「白昼夢(開眼夢)というものを見た
そこでは現実の書面の視覚像と夢イメージが二重写しになった、混合状態である。
それと、現実→レム睡眠の急激な移行現象が前回言及した「金縛り」。
覚醒状態のまま幻覚を伴うので、まさに夢状態との混合に等しい。

②空想と夢の狭間
入眠時幻覚が相当する。
寝床に入って閉眼しての空想が夢に移行する瞬間があり、自分が能動的にコントロールしていたイメージ表象(人物)が突如自律運動を始めるのである。
この劇的変化に驚いて、目が覚めてしまう(覚めずに見続けていたかった)。
空想と夢は、登場人物は共通でありうるが、動きの主体性が質的に変化する。

③現実と空想の狭間
覚醒時に現実と空想は並立可能で、明らかに区別できる。
現実の視覚経験中に、頭の中でイメージ表象しても、脳のスクリーン上での精細度がまったく異なっているので、混同することはない。
イメージ表象は、視覚像的には低精細で、半透明よりもさらに薄いためだ。
この点が現実と精彩度に差がない開眼夢と違う(開眼夢を経験すると、夢の精細度がいかに高いかが、現実視覚像と直に比較して分る)。
一方、記憶対象として、事実経験(記憶表象)と空想とが混同される事は、記憶の研究で確認されている。
この場合は、ともにイメージ表象であるため、精細度に差がないため、混同しやすいと思われる。

これで分ることは、夢は現実映像に近い精細度だということ(感覚・知覚的精彩度ではなく、心のスクリーンに映った認知的精細度)。
だから、夢の中では、それを現実と思ってしまうのだ。
記憶によって想起された夢では、その精細度自体は想起できないが、逆に夢が完全にモノクロであれば、夢の中でも違和感を覚えるはずである。
ただ、色彩が夢の主題でないため、あるいは自明視されているため、思い出してもその記憶がはっきりしないだけである。
もちろん、触覚や味覚・嗅覚も夢で体験しうる。

以上から分ることは、夢を現実だと思い込む理由は、精細度に差がないだけではなく、それが自我にとってはともに受動的な対象世界の経験、すなわち世界経験だからだ(夢=世界というのは渡辺氏の着想)。
もちろん、夢自体は客観世界ではない。
かといって深遠な内界への沈降でも、記憶の機械的処理でもない。
自我にとってはあくまで外の”世界”経験だ。
夢という疑似世界経験はなぜ可能なのか。
次はそれを問題にする。→夢を見る心④


夢を見る心②:多重夢、金縛り

2021年09月24日 | 心理学

特徴的な夢の続き。

【多重夢】
明晰夢も不思議な現象だが、その逆方向の夢もまた不思議。
それは、夢の中で夢を見て、目が覚めてもそれはまだ夢の中という夢。
多重夢だ。
これも幾度が見た事がある。
その中でも鮮明に覚えている多重夢を紹介する。
大学1年の時、サークルでの飲み会の後、先輩(♂)の部屋に泊った時に見た夢。

「夢の中でおしっこがしたくて、トイレに入って勢い良く排尿をした。
そうしたら、別次元の所から生暖かいものが漂ってきて、その異様な感覚で目が覚めた。
目を開けると、すで夜が明けていて、先輩の部屋にいて、隣には別の布団で先輩が寝ている。
私が寝ているのはもちろん先輩の部屋にある布団。
その布団の中に手をさしこむとべっとりと湿り気を感じた。
まずい事態になった、どうしよう、と思っていると、もう一度、目が覚めた。
すでに夜が明けていて、さきほどとほとんど同じ風景。
今一度、自分の布団の中に手を差し込んだ。
すると、今度は湿り気がまったくない。
こちらが、本当の目覚めで、私、いや先輩の布団はまったく無事だった。」

これほど目覚めを有り難く感じた夢も珍しい。
この夢では夢の中でも触覚などの体性感覚(排尿感、暖かさ、湿り気)があるということが、夢らしからぬリアリティを与えていた。
理屈ではこれは当然で、五感はすべて脳内の感覚なので、視覚・聴覚以外も夢で感じることは本来的に可能なのだ。
ということは、ほっぺたをつねっても痛いからといって、夢ではなく現実だという確証はないのだ。
このように多重夢が恐ろしいのは、夢から覚めて現実だと思っているそれがまだ夢である可能性があるということ(しかも触覚を伴って)。
明晰夢とは逆に、夢の力が覚醒意識に勝っている状態である。

結局、現実と夢の区別は、とにかく夢から"本当に"覚めない限り、わからないということだ。
たとえ明晰夢を見ても、見ている本人はその夢から覚めることができないし。
夢の力って恐ろしい。

【金縛り】(睡眠麻痺)
これは覚醒状態のまま夢見の生理的状態(レム睡眠)が作動してしまう現象。
入眠時で閉眼しているものの、まだ覚醒意識があるうちにレム睡眠に陥り、幻覚だけでなく、手足の麻痺、呼吸困難の身体現象を伴う異常現象である。
私はこれを中学から高校にかけて幾度も経験した。
その最初の経験を示す。

閉眼している状態で、まずゴーという音が近づいてきて、あれっと思って目を開けようとするが、瞼が開かない。
焦って声を出そうとするも、口も開かず咽喉から声も出せない。
そして手足を動かそうとしても、動かない。
さらに、胸の上に何ものかが乗っかっている感じで、息苦しく、首を絞められる恐怖を覚える。
そうしている間に、音が遠のき、体の自由が戻ってくる。

私は経験ないが、この時目を開けると目の前に不気味な顔があるような幻覚を見る場合もあるという。
最初に経験した時は、地縛霊か何かに襲われたと思ってびっくりするが、幾度か経験していくうちに慣れてきて、
まず、「あ、来たな」とわかり、少々の間、麻痺状態を我慢して(じっくり味わって)、過ぎ去るのを冷静に待つことができるようになる。
私の場合、高校生の時、金縛りにならなくなったのと入れ替わって睡眠時無呼吸症を発症しだす。

そもそもレム睡眠時は、筋肉が弛緩して電位がなくなることで、夢(幻覚)の中では大騒ぎになっていても、大声が出ず、体も動かない(寝言や夢中遊行はノンレム睡眠での行動)※。
※:なのでレム睡眠の夢で排尿しても無事ですむ。ノンレム睡眠の場合はたいへんなことに…。
だから覚醒状態が残っているうちにレム睡眠の筋弛緩が起きると、身動きがとれないことを”経験”するのだ。


ちなみに、普通の睡眠サイクルでは、睡眠はノンレム睡眠で始まるので、寝入りばなにレム睡眠が来ることはない。
レム睡眠は、睡眠サイクルの繰り返しの最後に来るもので、しかもサイクルが繰り返されるとだんだん時間が増えてきて、覚醒前が最も長い。
明け方以降の起床直前の夢がとても印象に残るのは、それが最も長いレム睡眠による長編の夢だからだ。
夜中に目覚めた直前に見るノンレム睡眠での夢は、静止画的(音や動きに乏しい)で地味なので、その後のレム睡眠の劇的なストーリーの夢によって記憶が消されてしまう。

また、レム睡眠では筋弛緩だけでなく(無呼吸症もレム睡眠時の舌根や呼吸筋の弛緩による)、自律神経が乱れて、体温調節機能や心拍なども乱れるため、人は明け方(一日の最低気温時)に風邪を引きやすく、さらには心停止(死)が起きやすい※。
※:やはり睡眠は死に近い。可逆的な臨死体験ともいえる。いや臨死体験の方が夢の一種だ。

睡眠に掛け布団・毛布が必要なのは、日の出前の最低気温とレム睡眠のタイミングが重なることで、低体温になってしまうからだ(雪山での遭難時に「眠るな!」というのも、レム睡眠に陥ると凍死するから)。


夢を見る心①:昼の名残、明晰夢

2021年09月23日 | 心理学

フロイトが『夢判断』(1899年)で夢は無意識によるものとして以来、夢は無意識を知る王道として重視された。
彼の説によれば、夢がへんな内容になっているのは、無意識の内容が超自我の検閲によって無理矢理改変されたためで、夢解釈でその改変の逆過程をたどれば、無意識の内容がわかるという。
フロイトは夢の真の内容を抑圧された願望(性的、親への憎悪など)に還元する傾向を示したが、ユングは個人的無意識に還元する以上に、さらに深層の集合無意識による元型的・神話的解釈の可能性を示している(私個人はユング的解釈が好み)。

科学的には、脳波等の生理的指標によってレム(REM)睡眠とノンレム睡眠の二種類の睡眠が分離され、夢見は主にREM睡眠での現象とされている。
最近では脳神経科学によるさらに詳細な睡眠中の脳活動が研究されている。

しかし、夢を見ているか否か、さらにはその内容にいたっては、客観的な測定は無理で、本人の報告に頼るしかない。
私は大学での以前担当していた心理学の授業で夢の分析法(個人的連想を使う)を紹介した後、学生に自分の夢を分析するレポートを課していた(現在は、この内容の授業はやっていない)。
それによって、自分以外の夢の報告例を沢山得ることができた。

その中での特徴的な夢のパターンを紹介し、夢という心の現象の可能性を考える材料としたい。

【昼の名残】
夢には、昼(当日の寝る前)の経験がそのまま出現する場合がある。
これはフロイトが「昼の名残」と命名したもので、深層心理的な意味はなく解釈に値しないとした。
 その後、DNA発見者の一人である生物学者のクリックが、夢は昼間に経験したことの中で記憶する必要のないものを消すための作業だという”逆学習説”を唱え、これが心理学者の間に一斉を風靡した時期があった。
つまり夢は心にとって価値のない記憶の廃棄作業であり、その夢には深い心理意味などはなく、解釈は無意味だということである。
テレビでこの説を主張していたある心理学者に、テレビスタッフはでも前日の経験にはない、もっと昔の知人などが夢に登場する場合があることを反証として挙げたら、
逆学習説に固執するその先生は、前日に一瞬でもその人を思い出したかもしれない、とへ理屈で反論した。
前日よりずっと過去の記憶が夢の材料になるのなら、それは逆学習を乗り越えて記憶された対象であるわけで、前日にその人を思い出す必要もなく、単純にその人の記憶が素材になったということで済む話だ。
第一、上に記した通り、「昼の名残」は解釈するに値しないことは、フロイトも認めている。

昼の名残は、クリックがいうほど毎回見るものではない。
なので逆学習が夢の本質とは認めがたいが、珍しくない程度には見る夢ではある。
学生の夢解釈レポートでは、前の晩にテレビで観た芸能人がよく夢に登場する。
特別ファンでもない芸能人が登場するのは、このような「昼の名残」である場合が多い。
私自身では、学生時代にコンパ(飲み会)の後の酒の入った睡眠では”必ず”コンパの続きの夢を見た。
これは楽しかったからもっと続けていたいという願望の現れだ。
まさに分析の必要がない単純な夢だ。

【明晰夢】
明晰夢は夢の中で、これは夢だと気づく現象。
睡眠中の覚醒というだけでパラドクシカルな夢なのに、さらにその中で、これは幻想にすぎないと、その幻想内で気づくという二重にパラドクシカルな体験である。
私も幾度か明晰夢の経験があり、鮮明に記憶に残っている数十年前の例を挙げる。

「仲間たち数人でオープンカーに乗って、奥多摩の渓谷脇の露岩(道路ではない)の上をガタガタ揺れながら車を飛ばしていたら、勢い余って車が断崖を突っ切って、空中に飛び出してしまった。
うわっまずい、と思ったが、車は落ちることなく、そのままの高さで空中をふわふわと進んでいる。
その時、これは夢だと気づいた。
そして、車が空中を走るなんて、さすが夢だなーと同乗者たちと言い合って笑った。」

この場合、私だけでなく、夢の中の他の登場人物も夢であると自覚したことになる。
ということは、自分で気づく以前に、夢の登場人物から、これは夢だと教えられることもありうる。

明晰夢自体はめったに見るものではないが、面白い体験なので、あえて見たいという人もいるようで、明晰夢を見る技法というものがある(興味ある人はネットで検索してみよう。寝る前に「明晰夢を見る」という強い意思をもつことが基本だ。明晰夢を見る装置※というのもある)。
※:今でも販売されているか知らないが、それは目を覆うバンドにセンサーが着いていて、それを装着して睡眠し、REM(急速眼球運動)になるとそれが反応して、小さく点灯し、夢の中でその点灯がわかるというのだ。私も購入して、装着してみたが、バンドの装着感が邪魔で、寝ている間に外してしまった。

では明晰夢の最中に、その夢から覚めることはできるのか。
私が最初に明晰夢を見たのは小学校入りたての頃で、夢の中で近所の銭湯にいて体を洗っていた。
その時、これは夢だと気づいた。
当時私は眠ることが嫌いだったので(幼い子供に多い)、夢から覚めようと思って、丁度裸なので出ているお尻に手をもっていき、思い切りつねってみた。
残念ながら、まったく触感がなく(指にもお尻にも)、夢から覚めることができなかった。

現実では、ほっぺたをつねって痛ければこれは夢でないと分かるが、夢の中では体をつねっても無駄なようだ。

実は上記した大学で授業の学生に対して、私は図らずも明晰夢を見やすくする負荷を与えていた。
学生に自分の見た夢を解釈する課題を出していたわけだが、
そうすると、学生にとっては見た夢をレポートにするというプレッシャーを抱えて睡眠に入ることになる。
その結果、学生の出したレポートには、
夢の中で、今自分が見ているこの夢を課題のレポートにしようと思い、その場でレポートを書きはじめる、という夢のレポートが散見した(決して多くはないが毎回複数出る)。
この場合も、レポートの負荷が夢にまで作用して明晰夢化したわけだから、上で紹介した明晰夢を見る方法と同じく寝る前の意識が明晰夢を見やすくするのは確かだ。

【回帰夢の明晰夢化】
繰り返し見る夢を「回帰夢」というが、客観的に繰り返し見ているかは不明だが、夢の中で、「この夢、前にも見たぞ」と確信する時がある。
その感覚は覚醒時のデジャブー(既視感)と同じで、具体的な過去の経験は思い出せないが、”このシーン前にも経験した”という確信的に強い想起感を伴っているのが特徴。
これは夢であることを気づいている点で明晰夢なのだが、強い想起感(回帰夢)の方に気持ちがとらわれているため、本人が明晰夢であることに気づいていない。
その意味で、明晰夢であることに気づかない明晰夢である(トリプル・パラドックス)。
ちなみに、実際に回帰夢であるかどうかは、夢日記をつけていないと確かめられないが、回帰夢である場合、夢は無意識からのメッセージとみなすユング的には、無意識が意識に対していいかげん気づいてくれ!と焦っているためであるという(きちんと解釈すべき夢だということ)。

続く。


夢を見る心・序:睡眠

2021年09月21日 | 心理学

私の「心の多重過程モデル」では、知・情・意に代表される心の諸機能がそれぞれ多重構造をなしており、意識も例外ではない。
心を幅広く捉えるこのモデルでは、覚醒時だけでなく、睡眠と夢という現象(体験)も意識の多重性によって説明できるのではないかと考えている。
それについて論文作成時よりも自由な思考でここにシリーズ化してみたい。

まず睡眠から始めよう。
睡眠は、覚醒にとっては、自らを否定する不気味な状態だ。
私もそうだったが、子どもは眠るのが嫌いな傾向がある。
楽しいことは起きている時に経験でき、眠ると二度と起きられないかもしれないという不安があった。
睡眠の果ては死である、ということにうすうす気づいていたようだ。
大人になって、睡眠は無駄な時間でしかないという考えが加わると、睡眠嫌悪はさらに高まり、「睡眠恐怖症」となる場合がある。

確かに睡眠は、昼間の活動に対する休息・内的修復の時間という意義は分かるが、人生の1/3もの時間を占めるのは多すぎる気がしないでもない。
忙しい現代人にとっては、睡眠はできるだけ短時間で済ませたいという思いになるのも分かる。

では、睡眠は不快で無駄でしかないのか。
欲求の階層構造で有名なマズローは、最下層の生理的欲求に、睡眠の欲求を入れている。
欲求が満たされる時が快である。
眠気にゆだねて睡眠に入る時、それは恍惚の時間ともいえる。
われわれが死を迎える時、眠るように死ねたら、どんなにいいか(多くの死は死ぬほどの苦しみの果てにある)。

さらに、熟睡の時こそ、すなわち意識が完全になくなっている時こそ、真の自分になっているという考えがある。
ヒンズー教の根本教典である『ウパニシャッド』だ。
覚醒時の雑念だらけの意識は、真の自己ではなく、意識が機能停止した状態こそ真の自己(アートマン)が作動し、宇宙の原理であるブラフマンと交流できるというのだ。
熟睡したあとの心地よさは、アートマンになっていたためであるという。
そして、覚醒時にも、表層的な自我意識から脱してアートマンの作動を可能にするのが”瞑想”であるという。
つまり覚醒時の意識こそ邪魔だという思想だ。

私の「心の多重過程モデル」では、睡眠は「システム0」という心の基底的サブシステムの作動によっている。
睡眠とは心の一つの状態である。
ただ、深い睡眠での徐波(δ波という脳波)は周波数が1㎐を切り、時に0.5㎐というとても緩い波になる。
そして周波数がさらに減って0になると、それは脳死を意味する。
なので睡眠は死に繋がるというのも、脳波的には理解できる(もちろん両者には質的な相違はあるのだが)。
この死に近い睡眠をきちんと取ることが、かえって健康にいい(長寿)という客観的事実も面白い。
睡眠は短い”生”を延長してくれる効果があるのだ。

そしてその睡眠と覚醒の間にあるのが、夢という不思議な体験。
睡眠の中で、目覚めているというパラドックス。
これは固有の意識現象といえる。
次回から夢の話に入る。


閉眼片足立ちが困難な理由2:より学術的説明

2021年09月05日 | 心理学

眼片足立ちが困難な理由(→閉眼片足立ちが困難な理由)について、「自由エネルギー原理という脳の理論を使って、もう少し学術的に説明できそうなので、その論理で説明してみる。
※:『脳の大統一理論:自由エネルギー原理とはなにか』乾敏郎・阪口豊 岩波書店 2020

これはものすごくかいつまんで言うと、ビートたけしの定番のギャグで、手に持ったコップが、口にではなくおでこにあてる動作があるが、逆にわれわれが普段、なぜ思った通りにコップを口元に持っていけるのかを説明できるもの(ホントはもっと数学的)。

まず感覚レベルで、コップの位置・形の感覚情報が与えられ、それに向って手を伸ばす運動をするのだが、つかんで移動する間のコップの位置の予想と現実との感覚の差が最小になるように運動制御され、コップの位置が目標となる口元に達するまでこの誤差の最小化が維持され続けるためというわけ。
そしてその誤差は無自覚レベルで”計算”され、最小化についても同様。
すなわちわれわれは意識レベル(システム2)で数字を使って計算するだけでなく、意識下レベル(システム1)で情報にもとづいて自動的に”計算”しているのだ
※:野球の打者が打上げた飛球を、外野手は、システム2で運動方程式を解くことはせず、打球の視覚的軌跡による予測誤差を最小化する方向に向って走り続けて(=システム1で"計算”しながら)、落下点に達する。”目測”を誤るとすれば、それはシステム1の計算ミスによる。

ちなみに、この計算にはベイズ統計学※が使われる。
※:我々が無自覚的にベイズ統計学を知っているのではなく、主観的確率を考慮するベイズ統計学が心理学的なのだ。


さて、改めて言うが、そもそも「片足での直立の維持」は、力学的にとても難しいことを前提にすべきである。

実際、関節を曲げられるフィギュアでトライすればわかるが、両足立ちでさえバランス確保に慎重になるのだが、ましてや片足立ちにさせようとすると、足首あたりの特定関節に負荷が集中して、その関節が動いてしまって、片足立ちはほとんど不可能であることがわかる。

では、なぜ生身の人間は可能なのか(ただし開眼で)。

片足立ちは、本来的に不安定であるため、身体はそれを維持するために”動的に”バランスを取り続ける。
すなわち重心は一定範囲内で揺動し続けている。

われわれの場合、フィギュアと違って特定関節に負荷が集中しないのは、重心の揺らぎに対する反射的な(意識を経由しない)姿勢制御によって、揺らぎの方向が戻されるという微調整が繰り返されるためである。

その制御努力すら自覚されないほどバランスが維持できている開眼時は、姿勢制御が多方向から同時に発生するため、身体がほとんど静止している状態を達成できている。
すなわち、無自覚レベルの”計算”が持続されている。

フィギュアにはこの計算機能がない(アシモなどのロボットは計算可能)。

この計算の対象が、視野による外環境(視野)の安定性だ。

視野が固定される方向で、重心のゆらぎ(姿勢誤差)が意識(システム2)を経由せずに意識下の機構で連続的に補正(計算)される。
それによって視野の揺動の予測誤差が最小化される。

そもそも姿勢を維持する直接の機能は筋肉と平衡感覚であり、これらはともに「自己受容感覚」という。

片足立ちの維持は、視覚情報という外受容感覚信号の誤差最小化(視野の安定)を達成することを目標として、自己受容感覚の揺らぎ(誤差)の制御(最小化)が達成されている結果である。
すなわち視覚的誤差は姿勢誤差によって発生するため、視覚的誤差をモニターしながら、それを最小化することで姿勢誤差を制御するのである(乗物の運転制御もそうやっている)。


以上を前提として、眼するとこれが困難になる理由を考えてみる。

開眼時の姿勢維持は、視野の安定という目標のため(視野)の予測信号と実際の揺れを通した視覚信号との誤差(視覚的誤差)を最小にすることで達成できたが、
眼によってこの外受容感覚信号が遮断されれば、視覚誤差がまったく計算できなくなる。
そのため、それにもとづいて計算されるはずの姿勢誤差も計算できなくなってしまう。

身体の重心の揺れは、実際には方向や大きさはランダムではなく、限られた範囲の方向のズレとその揺り戻しであることが多い。
それなのに、視覚信号という根拠を失った姿勢の予測信号は、メクラメッポウ(ランダム)な方向で揺動に対する制御をしようとするため、一定の確率で、揺動と同じ方向のズレ、すなわちかえって揺動(誤差)を拡大してしまう事がある。
なので、眼片足立ちをしていると、開眼時の微細な揺動に留まらず、不自然に身体が大きく動揺することがある。
そして重心(からの垂線)が基底面(片足の裏面)を外れたら、もう物理法則によって転倒するしかない。

ただし、その重心を支えきれない時の内受容感覚信号はとんでもなく大きい誤差信号(緊急事態)として適時に脳に伝わるため、反射的に浮いていた残りの足を地面につけて転倒を防ぐことはできる。

眼片足立ちの時、視覚からの信号の代わりに使えそうなのは、まずは体重を支えている足の筋紡錘からの自己受容感覚信号(重心の偏りによる負荷の増大)である。
その信号を読み取ることで、姿勢制御のために運動野からの予測信号が発するのだが、この感覚信号の解読がうまくできていないと、予測制御がうまくいかない。


以上、説明は学術的になった。
が、理論を使うことで事態は改善できるか。

この理論では、信号に注意(システム2)を向けるとその精度が上がるという。
仰せの通り、足の筋肉に注意を向けているが、精度を上げるための材料(外環境情報)がないためか、うまくいかない。

そもそもこの理論は人間の認知システムを大脳皮質〜辺縁系で説明するものなので、肝心の姿勢制御センターである小脳が含まれていない(私も説明自体も小脳部分を省略している)。
この理論が扱う無自覚な計算過程は大脳でのシステム1であり、大脳の外にある小脳はむしろシステム0に当る。→閉眼片足立ちでシステム0を鍛える

小脳は認知−運動系における完全無自覚な過程を大脳からの外部委託として専門的に担当している。
自分が(システム2を使って)自覚的にトレーニングできるのは、大脳の認知−運動系だけなので、小脳のトレーニングは大脳経由で間接的にやっていくしかなさそうだ。
ただしネットで検索できた”小脳トレーニング”は、いずれも視覚(眼球運動)を使ったものなので、眼の本課題には向かなそう。
残った可能性として、視覚以外の空間知覚である内耳の平衡感覚を感覚信号として使えるようにしたい。


半可通ほど世間受けがよく自信過剰になる理由

2021年08月18日 | 心理学

「メンタリスト」と称する人が墓穴を掘って、世間からの逆風を受け、その”専門”知識の浅さまでやり玉に上がっている。
その彼、さすがに「サイコロジスト」(心理学者)とは名乗っていないものの、素人相手に心の専門家※を自称して、一世を風靡していたらしい(私も名前だけは聞き及んでいた)。
※:自称専門家には「心理研究家」と称する人もいる。

実際、臆面もなくハッタリかます性格傾向というのがあるが、ここではもっと一般的に、誰にでも該当しそうな心理として「クリューガー・ダニング効果」を説明したい。

これは、中途半端に詳しくなると自信過剰になり、さらに深く追究すると今度は自信がなくなってしまうという、逆説的な認知バイアスをいう。

まず、自分が知らなかった世界に入りこむと、「知らなかった、そうだったのか!」という感じで新鮮な知識がどんどん入ってきて、自分が今までとは一段違った、いっぱしの”通”になった気になる。
この段階で、周囲に得意げに知識を披露して、自信過剰が促進される。

心理学科の学生でいうと、フロイト理論なんかをある程度勉強した段階で、他人の無意識(本人が自覚していない深層の感情)とやらを頼まれてもいないのに解釈したりする(あるいは健常者をDSM-5※に当てはめようとする)。
※:アメリカ精神医学会の診断マニュアル第5版。日本でも使われている。
なのでこの段階の心理学科の学生は、他学部の学生から嫌われる。

この段階は、素人の物知りレベル以上ではない。

ところが、さらに専門の勉強が進み、大学院を経て、いっぱしの研究者になると態度が逆になる。

研究者というのはその学問領域を推し進める側に立つべき存在なので、勉強を重ねて既知の世界を通り抜けて、既知の世界の最先端に立つことになる。
同時に、今まで信じていた理論に、同じ研究者の視点に立って疑問をもてるようにもなる。
前を見れば未知の世界が拡がり、後ろを振り返れば、今まで信じていたものが信じられない状態。
こういう状態なので、自分の専門分野に対して、「これだ!」と自信を持って言えるものが無くなる。

研究者は研究対象が知り尽くされていないから研究を続けているわけだから、心理学の研究者は、人の心が解明されていないことを一番自覚している人たちだ。

ところが、世間は、自信たっぷりに断定的に話す人と、自信なさげに「まだよく解っていない」と話す人とでは、断然前者を信頼する。
というわけで、「メンタリスト」がもてはやされた現象は、本人の心理傾向だけでなく、世間もそういう人を支持する構造なので、今後も起きることは間違いない。
世間では、いわゆる既存の知識だけの”クイズ王”がもてはやされるから。

ちなみに研究者はひたすら解らない問題を解明することが生き甲斐なので、世間的信頼(人気)を得ることには関心がない。
でもこれでは最先端の知が社会に共有されないので、学術的世界をきちんと世間に説明できる仲介者が必要だ。
残念ながら、日本にはそれができる人が少なすぎる(立花隆はその一人だった)。
なので、私も、気象や防災について、学術的専門分野ではないが有資格者として、その一端をを担えればと思っている。


居眠り中に椅子から落ちなかった訳

2021年03月25日 | 心理学

昨日、読書中に眠くなり、椅子の背もたれに寄りかかった状態で居眠りをした。
そうしたらバランスをくずして、椅子から落ちそうになったところでハッと目が覚め、いや目を覚まされ、反射的にバランスを取直して、落下から免れた。

目を覚まして我に返る、すなわち覚醒して作動する意識はシステム1※で、さらに自我が明確にこの状態を認識するのはシステム2である。

※心の多重過程モデル:”心”を以下のサブシステムからなる高次システムとみなすモデル
システム0:覚醒・自律神経などのほとんど生理的な活動。生きている間は常時作動
システム1:条件づけなどによる直感(無自覚)的反応。覚醒時に優先的に作動
システム2:思考・表象による意識活動。システム1で対処できない場合に作動
ここではシステム3以降は省略

言い換えれば、睡眠中の心は、システム1・2ともに作動停止状態(夢見ならシステム2は作動)で、作動しているのはシステム0だけとなる。

ということは、椅子からの落下を防ぐ反射行動をしたのはシステム0だ。
すなわち、システム0は意識のない睡眠中も、夜間警備員のように独力でチェックをし続け、そして必要があれば寝静まっていたシステム1・2を起こす。

自分自身が、意識下にあるこのシステム0(心の基底システム※)に見守られていることを実感した。
※:意識から独立して作動するシステム0を”心”の過程の1つと見なす根拠は、これが独自に情報処理をしているから(心=情報処理)。
意識に上がらないこの身体感覚を「固有受容感覚」という。

日頃、”閉眼片足立ち”をして、システム0(体幹バランスの反射的制御)をトレーニングしているのも役立ったかもしれない。


閉眼片足立ちでシステム0を鍛える

2021年03月01日 | 心理学

前回記事にあるマハルシの本に触発されて、覚醒時でのシステム0※の経験ができないかと考えたら、自分がトライしている閉眼片足立ちの訓練(→閉眼片足立ちが困難な理由)がそれであることに気づいた。

※「心の多重過程モデル」における”心”を構成するサブシステム
システム0:覚醒・自律神経などのほとんど生理的な活動。生きている間は常時作動
システム1:条件づけなどによる直感(無意識)的反応。覚醒時に優先的に作動
システム2:思考・表象による意識活動。システム1で対処できない場合に作動

そもそも人体にとって片足立ちがいかに不安定な姿勢であるか、関節が動く人体模型で試せればよくわかる。
それを生身の人間がいとも簡単にやってのけるのは、視覚情報の連続的フィードバックによる、ほとんど自覚なしの微妙なバランス調整のためだ。
片足立ちでの身体の揺れ(足首付近で発生)は随時発生しているのだが、視野情報のゆらぎが瞬時にフィードバックされるので、揺れへの対処が随時自動的になされる。
 なので筋力が問題なければ、バランスをくずして倒れる事はない。

その本来の難しさをわが身で実感するのが、閉眼しての片足立ち。
視野情報からのフィードバックがなくなるため、片足立ちで必然的に発生する揺れがその都度修正されず、揺れの加算=増幅に抵抗できなくなる。
この増幅によって、揺れが身体上部にまで達して、臍付近の重心からの垂線が足底面から外れ、片足でバランスを維持できなくなる。
この時の”閉眼する意思”はシステム2で、視覚情報の無自覚(周辺意識)のフィードバックはシステム1である。
そして閉眼によってシステム1が無力になった状態での揺れの身体的制御は、それまで背景化されていたシステム0にまかされる。

システム0は意識を経ない心的活動(心理学では心が意識より広い概念)で、記憶や学習(システム1)にもよらない、反射的な身体反応をまなかう。

意識活動(中心意識:システム2、周辺意識:システム1)の中枢は大脳皮質だが、システム0の中枢は大脳皮質ではない。
閉眼時の身体バランスの維持は、大脳皮質の視覚野(後頭葉)からの信号が遮断された、反射的姿勢制御の中枢である小脳の活動なので、 閉眼片足立ちは、意識以前の心であるシステム0※が前面に出る。

※:システム0は小脳に限定されない。全身がシステム0。

ゆえに閉眼片足立ちは、システム0を直接経験できる※。
システム0が、倒れまいとするシステム2の”意思”とは独立(無視)して作動することを悔しいまでに実感する。

※他に、心拍、無自覚な呼吸、炎症反応、入眠・目覚めもシステム0の経験。

だが、訓練を繰り返すうち、次第にその暴れるシステム0を飼いならす術を把握してくる。
閉眼片足立ちの持続時間が延びてくるのだ。

それは、システム1(視覚情報)に頼らないシステム0だけの姿勢制御力が鍛えられていることを意味する。
すなわち、閉眼片足立ちの訓練は、小脳のシステム0を直接鍛える。
言い換えると、システム1が作動している開眼状態では(システム1の視覚情報は小脳に直接影響を与えるため)、システム0は一向に鍛えられない。

「心の多重過程モデル」は、心の特定システムに価値をおく(世間はシステム2、マハルシはシステム0)のではなく、各システムをそれぞれ十全化すること(真の”マインドフルネス”)を目的とする。


熟睡中の心:ウパニシャッド哲学とシステム0

2021年02月28日 | 心理学

20世紀前半のインドの聖者バガヴァーン・シュリ・ラマナ・マハルシの対話本『ラマナ・マハルシとの対話』全3巻(Kindle版)を読んでいる。
さまざまな人からの質問(初心者的な内容が多い)にマハルシが丁寧に回答しているもので、彼の寛容な(忍耐強い)人格が伺われる。

これを読んでいて興味をもったのは、自我が作動していない熟睡中の自己がアートマン(真我)だという話。
すなわち、熟睡は夢見はもちろん、覚醒よりも価値があるという。

これはマハルシのオリジナルではなく、ヒンズー教の聖典「ウパニシャッド」に由来している。
ヒンズー教ではアートマンは睡眠中にブラフマン(梵)と一体になるという(梵我一如)。
そしてアートマン(真我)とは、表層的な現象の背後にある存在そのものという(不生不滅)。
だから、真我は(覚醒時にも)常に在る。

私の「心の多重過程モデル」では、覚醒中は意識作用であるシステム1・2(心を構成するサブシステム)が作動し、熟睡中はこれらは休止して生命活動としてのシステム0(同上)のみが作動した状態。
ということは、システム0=アートマン(真我)ということになるのか。

私はシステム0を生理的活動※と見なしたが、マハルシは身体活動を除外している。
※:アリストテレスの「心」の概念に基づく心身一元論なので、生理活動と心理現象を区別しない。

なぜなら真我は身体活動に依るのではなく、身体活動が真我に依るものだから。
確かにシステム0を生理活動と同一視すると、存在者(身体)にすぎないことになる。
真我とは存在者を可能にする存在そのものをいう(≒アリストテレスの形相としての心)。

覚醒時には、真我は自我作用(想念)に覆われてしまって、真我を経験できない(ハイデガーのいう「存在忘却」状態)。

真我(システム0)はいかにして経験可能か。
熟睡時の真我の記憶はないが、熟睡後の目覚めで幸福感を得られることから、真我の経験は至福に満ちたものだという。
では覚醒しながら真我を経験するにはどうすればよいか。

マハルシは、その方法が瞑想(サマーディ=三昧)だという。
瞑想とは、自我作用(想念)を停止し、覚醒しながら熟睡状態に近づく方法である。
自我意識を消し、身体意識をなくす。
これらの意識対象をなくすことで、根源的な意識主体(存在)のみを実感する。
そして、存在していることが本来的に幸福なのだという。

想念(=システム2)は存在を覆い隠し、存在(幸福)から目をそらせる。
システム1・2のみを対象とする心理学が存在に達しない理由もむべなるかな。

さらに瞑想中に眠ってしまってもかまわないということになる(ただし夢見はダメ)。

「惰眠をむさぼる」という言葉があるように、覚醒に価値をおくわれわれは、睡眠を無駄なものと位置づけてきた(短時間睡眠を目指す人がいた)。
だが、最近は医学的にも睡眠の重要性が指摘されている(認知症の予防効果など)。

科学的観点から私はマハルシの説を支持するものではないが(聖典・聖者に対しても批判的スタンスを堅持)※、
眠る事をかくも正当化してくれ、不可能とみなしていたシステム0の経験に目を開かせてくれたのはありがたい(ただし私のモデルでは、瞑想はシステム0とは異なるシステム3という心の特殊状態)。

私はつねづね山に行きたいと思っているのだが、早起きするのが嫌で行かないでいる。
アートマンになっている至福状態を大切にしたいということか。
もっともこれは惰眠の言い訳にすぎない気もするが。

※いちいちあげつらわないが、古代思想を踏襲しているだけのマハルシの書は、上記以外は参考に値するものはなく、本ブログでもこれ以上言及しない。”熟睡”に関心があるなら、睡眠についての最新科学の本を読んだ方がいい。