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今日こんなことが

私は「はてなブログ」に引っ越しました。
こちらは過去の記事だけ残しています。またコメントも停止しています。

私にとっての心理学・哲学・宗教

2021年02月25日 | 心理学

 ここ最近の記事は、私が仏教に入り込もうとしている印象を与えているだろう。
仏教への積極的接近は、心の探究における心理学の限界を超えるため、「スピリチュアルの解禁」の一環としてである。
ただ仏教(宗教)はあくまで探究にとっての参考対象であり、帰依の対象ではない。
”心”を、心理学と哲学と宗教の三本柱で探究していきたいのだ。

これら3つはそれぞれ長短があるため、互いに補完する関係でバランスをとるべく、これら3つの関係づけを紹介する。
以下、「それにあるもの」を○、「ないもの」を×として示す(○心理学=心理学にあるもの)。
○心理学、×哲学、×宗教:実証的探究ができるのは心理学だけ。科学としての法則性の追究という態度を探究の基本に据える。

×心理学、○哲学、○宗教:だがその心理学に欠けているものがある。それは”存在(現象の根源)”への視座である。この視座の不在が心理学のいかんともしがたい”浅さ”を露呈している。心の奥底には”存在”があるのだが、心理学は不可視のそこ(底)に達しようとしない。

○心理学、○哲学、×宗教:学問(科学と哲学)にあって宗教にないものは「疑うこと」。学問には批判不可の聖域(聖典)があってはならない。 学問を探究する者は、決して安心(あんじん)を求めず、不確かさの中の不安で在り続ける耐性(タフさ)が必要である。

○心理学、×哲学、○宗教:心の探究は思惟(論理)だけでは不可能。定量分析、体験、イメージ化など、多様なアプローチが必要。また、ケア(癒し)の実践も伴う(救済という視野は無い)。 

以上をふまえて自分が取りたいスタンスはもちろん、
○心理学、○哲学、○宗教:心理学に”宗教哲学”を付加したい。それは存在への”批判”的視座である。ただし思惟だけに頼るのではなく、”行”による体験を通して心の在り方を探究したい(行の基本は、思惟を停止させる瞑想〕。

3本柱の中身は以下。
心理学:心の多重過程モデル(システム1・2の「二重課程モデル」を拡大したシステム0〜システム4)
哲学:現象学(ただしフッサールの認識論的現象学より、ハイデガーの存在論的現象学)
宗教:仏教が中心となる(神道にも親しむ)が、思想的により準拠しているのは”気の理論”。特定宗派の信徒ではないので、あらゆる宗派に敬意を持って接する。 ただし、儀礼に対して自分なりのスタンスで接することがある(特に神道に対して)。

ついでに、3本柱にかかわった心理学の先人を紹介する。
心理学・宗教:C.G.ユング。システム4(トランスパーソナル)の理論的支柱。易もマンダラも彼の理論で説明可能。
心理学・哲学・宗教:W.ジェームズ。『心理学』『プラグマティズム』『宗教的経験の諸相』の著者。結局私はジェームズの掌の中にいる。 

心理学と仏教との関係については、日本での仏教と科学(主に心理学)との交流史(明治〜現代)を概観した『科学化する仏教』(碧海寿広著 角川書店 )が、参考になる。


半沢の”倍返し”は行動経済学的に正しい

2020年09月13日 | 心理学

前回の記事に続いて、テレビ放映でも「半沢直樹」はクライマックスに向っていることもあり、”旬”なうちに記事にしておきたい話題がある。

半沢で一番有名なセリフは「やられたらやり返す。倍返しだ!」(現シリーズではあまり出ないが)。

このセリフが共感を持たれていることもわかるが、なぜ”返し”、すなわちやられた分の2倍の報復をしたいのか、それって過剰な報復ではないのか、という疑問は湧かないだろうか。

実は、半沢の倍返しは、行動経済学で理論的に正当化できる。
「価値関数の損失回避性」という人間の行動心理傾向によってである。
この現象は、「損失は同額の利得よりも強く評価される」というもの。

※1:行動経済学は、合理的行動しかしない経済学的人間を前提とした従来の経済学に対して、感情や認知の偏り(バイアス)を含めた心理学的人間をモデルにした新しい経済学。21世紀になって発展した経済学で、経済学に無縁だった心理学者がノーベル経済学賞を受賞した。現在、バナナマンが出演しているCMにもこの言葉が使われている。ちなみに、本記事の内容は、大学での1年生向けの社会心理学の授業で紹介している。

抽象的で判りにくい表現なので、具体的に示すと、
仮に1万円得た”喜び”を数値化して+1とすると(オトナにとってはみみっちい額だが、例としてわかりやすくするため)
その逆の1万円損失した場合の”苦痛”は、従来の合理的経済学では、同じ1万円だから−1と換算される(お金に色はついていない※)。

※2:行動経済学では、お金に色がついている。苦労して得た10万円は大事に使うが、偶然得た10万円は、パーッと使ってしまう。同じ10万円でも心理的価値が異なるのだ。だから給付金は消費効果がある。

ところが、人間の経済行動の心理的原因を探る行動経済学が実証的に研究したところ、人は損失の苦痛を過大に評価し、それを避ける行動を優先するという※
たとえば、利得を得ようとリスクをとるよりも、損失を避けることを優先する。
また損失が”確定する”のを避ける傾向もある。
これが「損失回避性」である。
ここまででは、まだ「倍返し」に結びつかない。

※3:この理論は一般状況向けであり、損を覚悟で大穴に賭けたり、当らないのに宝くじを買い続ける行動については、行動経済学の別の心理メカニズムで説明される。

そこで、先の「損失の苦痛は過大に評価」という部分に着目する。
まずこの心理傾向が、損失回避性の原因であることがわかる。
実証的な行動経済学では、実際の人間を使って心理学的手法でデータをとるのだが、それによると、
損失の苦痛の”強さ”は、利得の喜びの”強さ”に比べて2倍から2.5倍強いことがわかった。
これが”過大に”という部分になる。

すなわち、1万円得した場合の喜びが+1とした場合、同額の損失した場合の苦痛は−1ではなく−2以上なのだ。
ということは、1万円損失した心的被害が、それ以前の0に回復するには、損失額と同額の+1では足りず、少なくともその倍の+2が必要となる。

だんだんわかってきたでしょう?

実際、1万円盗まれた後、犯人から1万円返却されれば、盗まれた側は、それで気がおさまるだろうか。
法律(民法)の世界では、すでにこの心理メカニズムが考慮されていて、損害を受けた場合、同額の賠償に、”慰謝料”すなわち精神的苦痛の相当額が加算される。
ただ法的には、慰謝料の換算(精神的苦痛相当額)は、過去の判例が基準になるだけで、心理的苦痛の固有の計算式はない。

それに対して、21世紀の行動経済学は”価値関数”という心理量を表す関数(実証結果で得た関数)によって、実損に対する精神的苦痛部分を算出できる。
この価値関数は、利得(2次元座標空間における横軸の右側)の場合の価値評価(縦軸の上側)に対して(y=x)、損失(横軸の左側)の場合の価値評価(縦軸の下側)は2倍の傾斜になる(y=-2x)。
この関数で利得が1万円(x=+1)のとき、価値評価を1万円分(y=+1)とした場合、損失額が1万円(x=-1)のとき、価値評価は−2万円分(y=-2)となる。
その内訳は、実損(賠償)額は-1万円で、実損に付加させる精神的苦痛(慰謝料)の加算部分が同額の-1万円である。
1万円盗まれたら、倍の2万円もらわないと、心理的には割りが合わない、ことになる。
だから、やられたら、やり返すのは「倍返し」となる。
というわけで、半沢の「倍返し」は、行動経済学的に正当化できる。

ところが、半沢は時に調子に乗って「10倍返し」だの「100倍返し」だののたまうことがあった(過去シリーズ)。
残念ながら、これは理論的には正当化されない(せいぜい2.5倍の繰り上げである3倍まで)。

ついでに、われわれが損失の”確定”も回避するのは、使わなくなった購入品が高額であるほど、捨てる(=損失の確定)までの期間が長いことで実証されている。
私自身もユニクロレベルの古着は簡単に捨てられるが、バブルの頃に大枚はたいて買ったブランド物のスーツはいまだに捨てられずにワードローブに下ったままだ。

行動経済学は、損をしたくないと切に願う人間が、それなのに平気で損をする行動をとってしまう哀しい性(さが)を見事に説明してくれる。
言い換えれば、合理的経済学が、経済学的には”正解”であることには変りがない。
さらに言い換えれば、生身の人間は、経済合理性だけでは動かないよ、ということだ。


瞑想のすゝめ:エピローグ

2020年08月26日 | 心理学

瞑想のすゝめ:レベル3」の続きで、シリーズ最後の記事(終章)。
これまでの一連の記事は、自分の「心の多重過程モデル」と瞑想実践の結果をもとにしている。

「瞑想のすゝめ」をレベル3まで進ませて、私なりに瞑想の功能を多重的に示してきた。
すなわち、
レベル1:脳内のデフォルト・モード・ネットワークの鎮静化。数息観瞑想で深呼吸によるシステム0(心身)のバランスが安定する。
レベル2:マインドフルネス瞑想、すなわちシステム1の行動を停止し、システム2の能動的思考を停止し、受動性に委ねることにより、日常では素通りした純粋経験・刹那滅・存在への実感を体験する。システム2主導を乗り越えて、システム3を開く準備段階。
レベル3:システム3の作動訓練としての瞑想。システム2の自我の束縛から離れることをイメージする。


以上の流れは、「心の多重過程モデル」に則った瞑想の進展を意味する。
特にシステム3という心の新たな次元(能力)の起動は、多重過程モデル的にとても重要である。

ただ、オカルト界にもある既存の”心の進化モデル”は、目指す進化先が善で、乗り越えられるべき次元を悪として否定する。
たとえばマインドフルネス(仏教)も、システム3の発動を推奨するため、システム2以下を「マインドレスネス」と名づけて否定的に評価する。

それに対し「心の多重過程モデル」は、心を多重に作動させる=心を”豊か”にすることを目指すため、既存のシステムを肯定したまま上位システムを作動させる。
なので、上ばかりを目指すのではなく、システム0〜システム2のさらなる充実も手を抜かない(それぞれのトレーニング法がある)。
ただ未経験のシステム3の初動にとっては、システム1と2が邪魔するのでそれらを停止する瞑想が必要だった。
そしてシステム3が自由に作動できれば、システム1・2をいつものように作動させる(これらを充実させるのに上位のシステム3が必要)。

では、前回のシステム3を作動させる瞑想レベル3が最終段階なのだろうか。
下位を切り捨てない本モデルでは、レベル1の瞑想もレベル2の瞑想はいつでも効果がある。
でもまだ先がある。
システム3によって、システム2の自我から自極(認識主体)が離れることが可能となった。
これをこのままにしておく手はない。
では自我から離れた自極をどこに向わせるか。


精神分析的関心があるなら、システム1の”無意識の世界”に沈降しても構わないが、そういう退行的方向よりも、
自我(自己)の外へ抜け出て、自我的自己ならざる、超個(トランス・パーソナル)的な自己※、普遍的な自己に向うことで自己の可能性を異次元に拡大させる。

※自己的でありかつ他者的、外なる自己・内なる他者。

それが実現できれば、自己は実存次元よりさらに深い(高い)霊的(スピリチュアルな)次元※に達することができる。
それがシステム4である。

※生命をも超越している次元。ちなみに精神(spirit)も個的心(mind)を超越している。アカデミック心理学は実存以降の次元には手をつけない。


システム3はマインドフルネス(テーラワーダ仏教)段階だったが、超個的自己と邂逅するシステム4は大乗仏教的段階だ。
そしてシステム4では、内側の”心的エネルギー”が外側の物理的エネルギーに変換可能となる。
このレベルの現象は、アカデミック心理学の外側、つまり通常の心理学ではない「トランスパーソナル心理学」「超心理学」※の領域だ。
いうなれば私の心の多重過程モデルは、システム4に達することで、既存のアカデミックな心理学の枠を突破し、これらの科学と認められない心理学とを統合することになる。

※霊的次元を扱うのがトランスパーソナル心理学。超能力や超常現象を扱うのが超心理学。いずれもニュートン力学的科学観のアカデミック心理学からは認められていない。ちなみにアメリカ心理学の祖にしてプラグマティズム哲学者W,ジェームズは神霊協会にも属していた。

釈尊が神通力を使ったとされるのは、心がシステム4に達していたからだ。
またそれゆえ、強いオーラ(後光)も発していただろう(手で病を治せたイエスも同じだったろう)

私自身は、理論先行で、実践はシステム4の入り口段階でしかないが、 このレベルの瞑想は、仏教ではなく、気功の方法でやっている。
精緻な気の理論が心的エネルギーの使い方として実践的だからだ。

システム4では、システム3で一旦否定された、システム2的な”念”(思い込み:心的エネルギー)の力を有効な方向で積極的に利用する。
もともと念の力は、プラシーボ効果のように常人のシステム2→システム0レベルでも作動していた。
システム4でその力を自在に操れるようになった(私の先を行く)人たちは、洋の東西を問わず、一様にその力を人々のために使う”ヒーラー”になっている。

注意してほしいのは、素人には手品〔マジック)が超能力・超常現象に思えてしまうように、
真のシステム4とそれを表面だけ装ったシステム2との区別は、システム2が最高位の常人にはできないことである。
空想・はったり、誇大妄想はシステム2で可能だ。
システム2の科学的論理でもある程度は見破れるが、システム3に達しないと、システム2の限界がわからない。


瞑想レベル2以降、心の基本的な在り方が変容していく。
すなわち、システム2(自我中心主義)を乗り越え、存在者(在るもの)を可能にする”存在”(在ること)を実感するレベル2の瞑想によって、存在愛である慈悲心が沸き上がり、
さらにシステム3で自我から自由になった心は、名声や金銭などの自我欲を滿たす生き方はしなくなり、大乗の菩薩道よろしく、人々を癒すヒーラーの道を歩む。

ただ、すべての人がシステム4を開花できるかは確証がない。
システム3よりさらに敷居が高いシステム4は、システム1・2で生きていける現生人類、とりわけ現代文明人にとってはそれだけ開発のハードルが高い(超個的なものを身近に感じていた近代以前や先住民の人々はハードルが低いかもしれない)
システム4については今後、理論(ブログカテゴリー「心理学」)と実践(ブログカテゴリー「気・パワー」)によって探究していく。
システム3からシステム4への流れは、次の記事参照→「マインドフルネスからトランスパーソナルへ


瞑想のすゝめ:レベル3

2020年08月24日 | 心理学

瞑想のすゝめ:レベル2」の続き。

レベル3の瞑想は、心の新しいサブシステムを作動させる。
すなわち、心の新しい次元が開かれる。


心理学における既存の「二重過程モデル」(システム1,システム2)でいうと、通常の人間の心では、システム2が最高位である。
そのモデルを拡大した私の「心の多重過程モデル」によると、システム0が意識を可能にし、覚醒時に作動するシステム1は無自覚レベルの日常行動(条件づけ)をこなし、さらに高度なシステム2が綿密な意識活動(思考、表象)を可能にする。
システム2では、思考活動の主体として自我が発生し、自我が心の主人公となっている。
それによって適応的には高度化されて、システム2の知性が人類を繁栄させた。

ただ、システム2は万能ではなく、自覚できない不正確性が行動経済学によって、そして誤った信念が自己を苦しめていることが認知行動療法によって明らかにされた。
いずれも21世紀の心理学である。

だが、自我への執着や幻想的思考への拘泥が人間を苦しめていること、すなわちシステム2の副作用は、すでに2500年前に見透かされていた。
釈尊によって。
さらに釈尊は、身体を痛める苦行ではなく、静かな瞑想によって、システム2の限界を乗り越える道を自ら切り開いた。

実際、前稿で示したレベル2の瞑想で、自我に拘泥する状態の解除が可能となった。
純粋経験は、自我が未成立のシステム0レベルの体験への立ち戻りであり、存在の実感は、自我を可能にする深層への沈降である。
いずれも、システム2(自我)が素通りしてきた自己経験の根源部分である。
レベル2の瞑想によって、自我中心状態への揺さぶりができたら、いよいよレベル3の瞑想に進み、新境地を体験しよう。


やる瞑想は、マインドフルネス(ヴィパッサナー)瞑想でいい。
ただ、多重過程モデルの立場として、新しい境地である「システム3」を作動させることが目的となるので、少し手を加える。

これから作動するシステム3、すなわちマインドフルネス状態は、システム2が作動可能なら、誰でも作動できるのだが、日常生活ではまったく作動させる必要性がなく、また作動させる負荷が高いため、ほとんどの人は作動(経験)しないまま一生を終える。
べつにそれでも社会生活上は問題ないので、全員に必要とはならない。
そんな暇があるなら、システム2をフル稼働させていた方が生産性が高い、というのも確かだ。

ただ逆にシステム2をフル稼働させることでその限界に達したなら、さらに上の境地を切り開くことに価値がある。
日常の最高位であるシステム2の限界を乗り越えることができるから。
Google社で社員にマインドフルネス瞑想をさせているのも、そのためかもしれない。
ただ、理論的根拠が乏しい気がする。
それを整えるのが私の役目だ。

では実践に入ろう。
レベル3の瞑想は、瞑想している主体から離脱し、瞑想している自分を眺めることをする。
これは一種の二重自我状態で、瞑想している自己と、それを眺めている自己に分裂(乖離)する非日常体験だ。
自我に未経験の揺さぶりをかけるので、統合失調症や解離性障害など自我に脆弱性のある人は、実行を遠慮してほしい。

※多重人格などの乖離の病的状態。ただし解離は乖離能力を前提とする。その乖離をポジティブな方向で作動させたい。

「心の多重過程モデル」という理論的根拠にもとずく着実な方法なので、システム2(自我)がしっかりしている健常な人は、瞑想の目的となる状態が明確なので、ぜひトライしてほしい。

マインドフルネス瞑想をすればいいので、そちらの本を参考にしてかまわない。

瞑想状態に入ったら、瞑想している自分をそのままにして、それを後ろ(前からでも上からでもいい)から眺めている自分になる(幽体離脱をイメージしてもよい)。
それができたら、今度はその自分に眺められている瞑想している自分になる。
これを、繰り返すというより、同時に経験する
すなわち二重自我状態になる。
ただし、これは自我が単純にダブルになったのではない。

※この状態でもmuseのニューロ・フィードバックでは鳥が鳴くので、正しい瞑想 (calm)状態といえる。

この状態を心理学的に記述するにはやや込み入っていて、しかも読者には体験的理解がしにくいのだが、きちんと説明はできる。
理論的柱は、安永浩という精神医学者の「ファントム空間モデル」が前提で、それについては、私の論文を参照してもらうしかないが、

※「四重過程モデルにおける自己の多層性—マインドフルネス瞑想の心理学モデルとして—」椙山女学園大学大学研究論集49号(2018〕→ダウンロード

まずシステム2で自我が成立した段階に戻ると、自我はすでに自己認識ができるので、W.ジェームズが鋭く指摘したように、自我は主我( I )客我(me)に別れる。
客我は自己イメージやアイデンティティで、それの認識主体が主我である。
主我は自我の主体部分(主観作用、ノエシス)で、客体部分(ノエマ)が客我だ。
ここまではシステム2だから誰もが経験している。

上の瞑想での二重自我は、その主我が分離するのである(主我と客我の分離ではない!)。
ただし主我は真っ二つに分れるのではなく、
行動主体としての自我すなわち極自我と、観照機能だけの現象学的自極(いずれも安永浩の用語)に別れる。
瞑想している自分は極自我であり、それを背後から眺めている(瞑想はしていない)自分が自極だ※。

※この分離は、図らずも自我の失調によって非意図的に発生することがあり、私自身も運転中に事故りそうになった時に経験をしたことがある。また前稿(レベル2)で引用した「”瞑想難民”は解離に陥りやすい」というブラユキ師の指摘も、瞑想による自我の乖離で説明できる。

そもそもシステム2の自我は、フッサールの表現では「経験的自我」であり、行動主体・感情主体・思考主体である。
普段のシステム2では、主我と自極はいつもほぼ一致している。
安永氏の指摘では、もともとぴったり一致=同一ではないというから、分離は誰でもできるはず。

実は自極が主我(極自我)から分離可能であることを指摘したのは、安永浩より前に、フッサールがいた。
彼は、経験的自我から超越論的自我(超越論的主観性)を現象学の実践主体として抽出した。
すなわちフッサール自身が、経験的自我と超越論的自我とを分け、後者は自己の身体や人格に付属していないので、不死なのだとまで言ったらしい。
この理解しにくく悪評の超越論的自我という概念は、哲学的思考(システム2)を巡らすよりも、瞑想でレベル3に達すれば体験的に理解できる。

このように、自極が自我(主我)から分離することが、新たなシステム3の作動である。
そしてシステム2の主体である自我から解放された自極がシステム3の主体だ。

瞑想という、システム1の停止とシステム2の沈静状態になって初めて、この微妙な分離(システム2の一部からシステム3の作動)が可能となる。
それもあって、システム2では、おのれよりも高次のシステム3を理解するのは困難なのだ。

だが、いったんシステム3を作動できたら、システム2の瞑想主体(極自我)は、たとえば思考(マインド・ワンダリング)に陥ってもかまわない。
なぜならシステム3(自極)本体は思考に陥らず、それを眺めている側だから。

さらに、システム3自体は瞑想を必要としないので、瞑想をやめてもかまわない。
むしろ、非瞑想時にもシステム3を作動できるようにすることが望ましい(ただし解離の危険がある)。

マインドフルネスでも、「歩行瞑想」という名で、歩行中にシステム3を作動させる訓練がある。
システム1と2を使って道を間違えずに歩きながら、システム3で歩いている自分のたとえばあちこちの関節(足首、膝、股関節)をチェックする。
これで歩行姿勢の矯正ができる。
システム3は行動主体にはなれず、ただ観照するのみの単機能のサブ自己なのだが、人間の身体は、意識した部位がその焦点化によって反応するので(システム3→システム0のトップダウン経路)、矯正が実現するのだ。

上記した瞑想レベル3に至って、今まで最高位であった自我のさらに上に、システム3という新たな心のサブシステムが作動する。
これによって心は豊かなり、高次のバランスがとれる。
これを目的にするのがレベル3の瞑想だ。
→「瞑想のすゝめ:エピローグ」へ。


瞑想のすゝめ:レベル2

2020年08月22日 | 心理学

前稿「瞑想のすゝめ:レベル1」の続き。

数息観などの一念による集中ができたら、デフォルト・モード・ネットワーク(DMN)の自己制御への道が開けたことになる。

そうなれば、たとえば樹皮をじっと見つめて、ゲシュタルト崩壊現象を楽しむこともできる。
実はこの経験、瞑想が進むにつれて現れる”魔境”に惑わされない準備としても価値がある。

さて、一念から無念へと進んでみようか。

意外に簡単で、その一念を消せばよい。

消すとどうなるか。

意識がシャットダウンされるのではない。


そもそも意識状態には2水準ある。
1つは、意識がある/ないという、システム0のレベル。
意識があるのは覚醒で、無いのは睡眠か昏睡。
その次は、覚醒を前提として、何を意識しているかという、通常の心の働き(システム1・2)のレベル。

意識とは「何ものかへの意識である」という、志向性を前提とする現象学理論からすれば、
無念は、意識が明晰のまま意識対象がない、すなわちノエマなきノエシス、という現象学者フッサールが想定しなかった状態になる。

外部の衝撃音や閃光など、強制的な志向(システム1)が存在しない場合、システム2は意識対象がないと自分で勝手に思考や表象イメージでそれを作り出す。
それがマインド・ワンダリングだ。

それが発生しないように、無念無想を維持することは、不断の努力を要するが、不可能ではない。
実際、私は瞑想時にはMuseというニューロ・フィードバック装置をつけるのだが、無念無想になると、Calm状態という合図の鳥の声が鳴り、ポイントが付与される。→ニューロフィードバックによる瞑想訓練

ただ、無念無想に(ポイントが付くほかに)どんな意味・効果があるのか。

神経科学的には、DMNの最低状態という意味でしかない。
車のアイドリングだと、回転数が落ちたエンジンストップの直前状態であり、
むしろ、 DMNが必要以上に低下すると、認知症(脳の機能障害)につながる。

世の中には、なんでもやりすぎる人、すなわち一方向に突き進むだけの単純志向の人がいて、瞑想についても、無念無想を強迫的に追究する人がいる。

まぁ仏教自体が、瞑想(定)を欲界・色界・無色界で多段階化して、どんどん突き進むよう仕向けているフシがあるが、無念無想=心的活動の停止が仏道修行の目的ではないはずだ。

実際、仏僧プラユキ・ナラテボー師は、集中にとって邪魔になる思考や想念を悪玉視する人たちを「瞑想難民」と名づけている(『悟らなくたっていいじゃないか:普通の人のための仏教・瞑想入門』プラユキ・ナラテボー&魚川祐司、幻冬舎)。
瞑想の目的を見失ってしまった人たちだ。
実際そういう人たちは感情に乏しくなり、病理的な解離現象につながるという。

そもそも意識集中とは、認知心理学的には「情報の選択的注意」であり、他の情報の捨象であることから、この集中ばかりやっていると、「生き生きとした現実に対応する機動性や柔軟性が失われる」(前掲書)という。
マインドフルネスの正反対状態だ。

そういうこともあり、私が提唱する瞑想の次なるステップは、集中(一念)→無念無想方向ではない。
心を豊かにすること(マインドフルネス)が目的の「心の多重過程モデル」の視点でお勧めするのは、心理学を超えて、現象学・存在論レベルに深化する次の三ステップ(①〜③)だ。


①まずは、能動的表象の代わりに、受動的状態になること。
一念(集中)という選択的集中作業によって排除された入力情報に気づくこと。
無念で心の扉を閉めるのではなく、その逆に心の扉を開け放つのだ。

実際には閉眼しているから、解放する感覚は聴覚と皮膚感覚になる。
今まで無視していた微細な環境音や座っている身体にかかる座面の圧力や、顔や手が感じる空気感に気づき、これらを純粋に感じる。

すなわち、解釈(ラベリング)をしない。
解釈以前の純粋経験状態で感じる。

通常では、我々はこの純粋経験を素通りして、解釈された状態(条件刺激としてシステム1、意味づけとしてシステム2)で経験する。
それをやめて、今まで素通りしてきた、解釈前の純粋経験(システム0)に立ち戻る。

それが立ち現れているその姿を先入観なく、受けとめる。
それが自ら語ることを、そのまま聞き取る。
まるで生まれて初めて接した時のように。
これがフッサールの提唱した「現象学的態度」である。

フッサールが提唱した現象学の欠点は、それを実践することの困難さにあった。
当然だ。
日常の習慣的態度(システム1)の作動では無理だし、哲学的思考(システム2)をフル回転させている限り無理だ。
フッサール自身が提供できなかった現象学的態度を実現する方法が、瞑想(サティ:マインドフルネス瞑想)である。
ちなみに、この「純粋経験」を提唱したのは、フッサールではなく、ましてや西田幾多郎でもなく、アメリカ心理学の祖・ウイリアム・ジェームズである。
心理学の祖は、心理的経験の原点(始点)から心理学を始めようとした。
私の「心の多重過程モデル」もそこに立ち戻りたい。
これによって、人は通常の心理学的経験次元(システム1・2の既存の「二重過程」)を越えることになる。
この貴重な経験をできるのが瞑想だ。


②そして、純粋経験を経験し続けていると、その純粋経験の時間”変化”が二次的に経験される。

純粋経験の一刻一刻が、つぎつぎと経験される(だから解釈をしている暇はない)。
その変化は境界のないとうとうと流れる”流れ”ではなく、ひとつひとつが区別して経験される。
日常では、その微小な”境界”を無視して、いっしょくたにして、おおざっぱな流れとして解釈しているのだ。
経験できる一刻一刻を可能な限り細分化した状態が仏教でいう”刹那”である。
その刹那は流れてはおらず、それぞれの刹那ごとに切り替わっていく。
動画として見えるフィルムの正体が、個別の静止画からなっているように。
この刹那の切替え現象を、すでに仏教では”刹那滅”として捉えていた。
通常の時間の流れではなく、この刹那滅を経験できるのも瞑想ならではだ。
ここでも瞑想は、通常の心理学的経験レベルを越えている。


③気づきに満ちた純粋経験を刹那ごとに経験することによって、経験の深度が深まっていく。
心理レベルから実存レベルに。
フッサールの現象学レベルから、ハイデガーの存在論レベルに。

ハイデガーによれば、存在していることをうすうす了解しているわれわれ(現存在)は、存在とその彼岸の無に直面することを恐れる(不安)ため、日頃は、あえて”存在忘却”している。
すなわち、”忙しさ”と”暇つぶし”で時間を満たすことによって、存在(と無)に直面することを避け続けている。
その結果、生(せい)として与えられた”時間”はただひたすら浪費され、そのくせ、時間が足早に通り過ぎたことをいつも悔やむ。

自分という存在に直面するとは、時間をきちんと生きることである。
自分が、今、ここにいて、すべてを実感する刹那をつぎつぎとじっくり経験する。
それが瞑想だ。

瞑想は退屈? とんでもない。
”忙しさ”にも”暇つぶし”にも逃げないで、”存在と時間”※を味わう、贅沢な経験だ。
瞑想こそ、最も充実したひとときだ。

忘却していた存在(在ること)を実感する。
瞑想で得られる充実感はこれに尽きる。
表層の心理生活レベルではなく、存在論レベルで生(せい)を生きている経験。

※減っていく一方の時間の中で、存在忘却しないでどう生きたらいいのか、という問いをハイデガー哲学に投げ掛けた結果(こういう実存的問いを投げ掛けられる相手はハイデガーしかいない)、ハイデガーが最晩年にほのめかしたことを自力で探った結果が、瞑想だ。
追記:その方向でハイデガーの先にあるのが、ひたすら坐禅せよと言った道元・『正法眼蔵』内の「有時」(存在=時間)の章であろう。

そしてこうやって存在をきちんと実感することで、存在することの喜び、存在への慈しみ、すなわち存在愛が育まれる。
愛の対象は本来、存在だ。
存在(在ること)に自己も他者もない(個々の自己とか他者とかは、”在るもの”すなわち”存在者”)。
あるのは存在者(在るもの)を存在たらしめる存在(在ること)という現象のみ。

※存在(在ること)と存在者(在るもの)とを分ける存在論的差異がハイデガーの要諦。彼の存在論は存在者ではなく存在を問題にする。

そこには自他の峻別を前提とするエゴイズムはないから、自利=利他となる。
仏教の慈悲は、自己を含んだ存在愛であり、自己を除外した対象愛(強迫的な自己犠牲を強いる)ではない。
また慈悲は、世俗道徳の反映ではなく、存在に達することでおのずと湧き出るものである(押し付けられた規範ではない)。
仏教にはすでに”慈悲の瞑想”なるものがあるが、それに依らずとも、瞑想それ自体が存在論レベルに達すれば、慈悲の心になる。


以上の瞑想では、雑念はなく、集中対象もないという意味で無念無想状態になっているともいえる。
だがそれ(心の空虚)が瞑想の目的ではなく、マインドフルになることが目的であり、無念無想は付随現象にすぎない。

このレベル2でも瞑想は充分に価値があるが、さらに次のレベル3がある。→「瞑想のすゝめ:レベル3」へ


瞑想のすゝめ:レベル1

2020年08月21日 | 心理学

瞑想は、インドで発達し、ヨーガや仏教で修行の基本になっており、更に中国の気功にも取り入れられている(気功は儒仏道それぞれの影響を受けている)。

ただ、多くの人は、坐禅などに挑戦したものの、雑念と足の痛みとの格闘に終っただけかもしれない。

瞑想にはいったいどんな効果があるのだろうか。

まずは瞑想の初心者向けに、宗教的修行としてではなく、生理心理学的視点、とりわけ私の「心の多重過程モデル」の視点で説明してみる。


瞑想とは、覚醒時に作動している心(システム1とシステム2)を覚醒しながら停止する、というすこぶる人工的(不自然)な行為である。

つまり日常の心理活動を停止し、あえて「何もしない」状態を維持する。
実はこの不自然さの努力に意味がある。

大脳前頭前野による自己制御のトレーニングだからだ。

通常の安静時には、特別な作業をしていない状態での脳内ネットワークが活動していて、それを最近の神経科学では、”デフォルト・モード・ネットワーク”(DMN)という。

外部の刺激に対する反応(システム1)ではなく、それとは独立した純粋の思考作用(システム2)によるものだが、特定課題遂行の思考ではなく、制限されないいわゆる雑念状態で、これを「マインド・ワンダリング」(心の放浪)、あるいはもっと活発な場合はキャーキャー叫びながら木々を飛び移る猿のようなので「モンキーマインド」ともいう。

この DMN活動が低下するとアルツハイマー病となるが、逆に過活動となると統合失調症(妄想、幻覚)となるという。

日常多くの人は、DMNが野放し状態で、マインド・ワンダリング状態が続いているはず。仕事や勉強に集中できない、あるいは寝つけない時の状態だ。

そのマインド・ワンダリング(モンキーマインド)をシステム2で鎮めるのが瞑想である。DMNを落ち着かせることが、脳活動の安定につながる。
瞑想はそれに効果がある。

さて、雑念状態(マインド・ワンダリング)を鎮めるにはどうすればよいか。
理想は無念状態であるが、そもそものDMNは無念状態ではないので、初心者には難しい。
雑念の”念”を止めるのではなく、念があっても”雑”でなくすればよい。
一念、すなわち集中状態でよい。
最初に取り組むといいのは、集中を目的とする瞑想(サマタ瞑想。止)である。

何に集中すればよいのか。
集中対象として、仏道修行では阿字や阿弥陀如来など映像イメージ、あるいは公案などの思考課題などがあるが、一番簡単なのは呼吸に集中することである。
呼吸はいつでもしているから、題材を探す必要がない。

面白いことに、呼吸に意識を当てると、それまで無自覚レベルのおとなしかった呼吸が、急に不自然な深呼吸を始める。
呼吸活動そのものが、脳幹の呼吸中枢による代謝性呼吸(システム0)から、横隔膜周囲の呼吸筋の運動制御による随意呼吸(システム1)に切り替わったのだ。
われわれは、呼吸を意識する時は必ず深呼吸をしてきた(深呼吸をする時だけ呼吸を意識した)。
その条件づけ(システム1)のためだ。


集中(一念)をやりやすくするため、呼吸を”数える”という思考課題をシステム2に与える。
この思念を利用する瞑想法(観)を「数息(すそく)観」という。

システム1で作動される深呼吸をゆっくりシステム2で数えることに集中する。
すなわち、条件づけ反応のシステム1を深呼吸に限定し、意識的思考活動のシステム2をそのカウント作業に限定させる。
呼吸は止まらないから、ずっと数え続けていられるので、他の思考に行かなくて済む。

実は、深呼吸は、それを続けること自体に効果がある。
深呼吸によって血中酸素分圧が上昇して、酸素が全身に行き渡り、諸器官が活性化される。
脂肪は燃焼され、内分泌も免疫力も活性化される。
横隔膜の大きな運動(腹式呼吸)によって腸の蠕動運動が活発になる。
吸気時には交感神経が興奮し(緊張)、呼気時には副交感神経が興奮する(弛緩)。
この交互の興奮によって自律神経のバランスが整えられ、明確なリズム運動によって脳内にセロトニンが分泌され、精神が安定する。

このような深呼吸活動を内側前頭前野にある自我がじっと静かに見つめる。
すなわち、身体機能が活性化し、精神が安定し、そして思考作用の高次の制御訓練がなされる。
瞑想はまずは心身の健康にいいということだ。
こんないいことが居ながらにして、道具もいらずにできるのだ。

呼吸は、生存に必須な身体活動でありながら、システム2で制御できる(止めることもできる)、すなわち体と心の接点となる活動。
ハイレベルの瞑想で行詰ったら、この呼吸瞑想に立ち戻るとよい。

瞑想のすゝめ:レベル2」に続く。


エネルギー心理学への道

2020年08月20日 | 心理学

アインシュタインの有名な定式 E=MC^2
これは『般若心経』の有名な一節「色即是空、空即是色」を意味する。
量子論も般若心経もともに等号(=、即是)は双方向的だ。

すなわち、物質の質量(M:色)はエネルギー(E:空)であり(光速Cの2乗という係数を伴って)、
エネルギー(空)こそ物質(色)の究極の姿なのだ。

心理学でずっと引っかかっていた言葉がある。
「心的エネルギー」というやつ。
フロイトから使われていた。
フロイト自身、自分は科学者だと自認していたから、まさか学術用語に文学的比喩を使うはずがない。
そしてエネルギー保存の法則を知らぬはずがない。

ということは心的エネルギーは、他のエネルギーから変換されたものであり、また心的エネルギーは他のエネルギーに変換可能なはずである。
こうなると、「トランスパーソナル心理学」だけでは不充分で、「エネルギー医学」※も必要になる。

※全体像を把握するには、リチャード・ガーバー『バイブレーション・メディスン:いのちを癒す<エネルギー医学>の全体像』(日本教文社)がおすすめ

これを私の「心の多重過程モデル」に置き換えると、心的エネルギーの操作段階(自由に使いこなす)としてのシステム4が、身体エネルギーとの交換の現場(システム0)と相互乗り入れする。

※心の多重過程モデル:”心”を以下のサブシステムからなる高次システムとみなすモデル
システム0:覚醒・自律神経などのほとんど生理的な活動。生きている間は常時作動
システム1:条件づけなどによる直感(無意識)的反応。覚醒時に優先的に作動
システム2:思考・表象による意識活動。システム1で対処できない場合に作動
システム3:非日常的な超意識・メタ認知・瞑想(マインドフルネス)。作動負荷が高い
システム4:超個的(トランスパーソナル)レベル。霊的・宗教的体験。作動しない人が多い

心的エネルギーは、システム4で外界の物質・エネルギー系と交換し、システム0で身体の物質・エネルギー系と交換する。
これによって、「心」を構成するシステム0〜4の多重構造を統合的に捉えられる。
すなわち心⇄身体⇄外界という、心を含めたエネルギー循環システムへの視点が開かれる。
そこでは心的エネルギー=物理的エネルギーという等式が成立し、心的エネルギーは、エネルギーの1形態として計測の道が開かれる。

実はこの視点はすでに3000年前から存在している。
その意味で、人類にとって最も古い視点である。
「気」の理論だ。

中国医学では、基本概念である「気」を生命エネルギーとしているが、心身一元論にたっているため、心理現象も「気」の挙動で説明される(「気持ち」など日常語になっている)。
だがそもそもの気は、易の理論にあるように、身体外の宇宙エネルギーである(生命は宇宙エネルギーの負エントロピー現象)。
外気→内気の流れの理論が、であり、中国医学(鍼灸、漢方)である。
だが、内気→外気の流れも可能であることは気功が証明している(量子の”もつれ現象”も)。

なので私は、仏教よりも根源の位置に気の理論を置いている。
仏教では、「諸行無常、諸法無我」の認識に達して、その先がない。
仏教の基本態度が臨床心理的で、生きる苦の原因となっている”誤った信念”から解放する認知行動療法(悟りと修行)だから、人間の問題が解決するのが目的だ。
それに対して気の理論は、諸行がどう変化するのか、諸法あるいは色(空)がどう構成されるのかまで追究する。

その基本理論が仏教よりもさらに5百年前に成立した「易」(陰陽理論)だ。
太極が陰・陽に別れて宇宙(エネルギー)のダイナミズムが波動として始動する(ビッグバン)。
そして陰と陽はデジタル(2のn乗)的に多重化し、複雑な構成物(システム)を生成する。
仏教の「空」の哲理を、量子論以前に「気の陰陽理論」(宇宙エネルギー論)で説明するとわかりやすいかもしれない。


ホラーの季節は私にお呼びがかかる

2020年08月18日 | 心理学

夏のホラーの季節になると、私に対する需要が高まる。

なぜなら、「楽しまれる恐怖」についての研究を求めてネット検索すると私の論文がヒットするから。

今年も、ニコニコニュースのインタビューを受けて、それが本日からニコニコニュースの記事として公開された。

ニコニコ動画では、ホラー映画のCMを夜に流すと、迷惑だというコメントが多くくるという。
その理由を知りたくて、私の職場にインタビューに来た。

インタビュアーのノリが軽くて、こちらも楽しく話せた。
なのでインタビュー記事は気楽に読める内容になっている。

ただ、私の掲載写真がマスク警察の格好の標的になりそうなので、当サイトからのリンクは遠慮しておく。

実は、その分野を専門的に研究しているわけではなく、個別感情について、既存の発想に縛られず、虚心にその感情に向かい合うことで、新鮮な視点で捉えることを努めただけである。
それに社会心理学者として、お化け屋敷やジェットコースターにお金を払って恐怖体験したがる心理現象を無視できなかった。

その結果このテーマで、雑誌インタビュー数件、テレビ出演、学校での講演等の依頼があった。

ただ、防災士でもある私にとっては、恐怖とのつき合いは、「正しく怖がる」ことの重要性に向っているため、ホラー等の楽しまれる恐怖については世間の需要の割りには、関心が低い。

ちなみに、恐怖以外にも、驚き、怒り、悲しみ、愛、感動についても同じ視点で論文にしているのだが、それらについては一向にお呼びがかからない。


ニューロフィードバックによる瞑想訓練

2020年08月02日 | 心理学

Museというニューロフィードバック装置を使って、瞑想をしている。

言い換えると、ただ漫然と瞑想しているだけだと、自分の状態が本当に瞑想レベルに達しているのか、自己満足で瞑想した気になっているのかが素人にはわからない。
そこで、昔はバイオフィードバックと言われていた、脳波を使って状態をフィードバックする装置の1つ、Museをネットで購入した。

私自身、瞑想(坐禅)は学生時代からやっていて、
心理学の研究世界に入ってからは、バイオフィードバックに興味をもち、
たまたま非常勤先(当時は常勤職でなかった)の大学の心理学の先生が、パソコン(NECのPC9801!)を使ったバイオフィードバック装置を購入したので(日本製の商品名は失念)、思いっきりそれを使わせてもらった。

当時は、α波ブームで、とにかく脳波をα波にすればいいということで、α波の発信源である後頭部にセンサーをつけて、閉眼してα波がでると、カッコーの声がするものだった(結果にβ波などの出現比率が集計される)。
これを使って、まずは任意にα波を出すことをマスターした。

その後、今の大学に移り、同時にMacユーザーになっていた私は、 IBVAというMac専用の脳波装置を買った。
これは無線でパソコンにデータを飛ばして、脳波を音として再生(脳波音楽!)することが可能で、
またδ(デルタ)波からβ波まで、三次元でリアルタイム表示できるものだ(こういう優れた表示は、当時はMacでしか実現できなかった)。
ただ、センサーが前額部なので、α波優位状態は出にくくなってしまう。
その後オプションで、後頭部のセンサーや左右両脳を別個に取るセンサーも購入した。

これらは当時としては画期的に安価で気軽な脳波装置なのだが(それまでは脳波計は高額な医療機器)、
パソコンの前に座って、頭を締めつけるヘッドバンドを装着しなくては測定できないので、毎日の自分の瞑想訓練に使う気にはなれなかった。

またその後しばらくは、個人的に、瞑想にも脳波にも関心がうすれていった。

21世紀になって、ふたたび脳波が簡単に取れる装置が発売され、たとえば、MindWaveという装置は、自分の脳波をコントロールして、目の前の機器を脳波で動かすことができ、心理学の授業でデモンストレーションに使った。
この頃になると、脳波センサーもヘッドホン型に、またスマホアプリになるので、場所を選ばないで使えるようになる。
ただ、IBVAもMindWaveもアメリカ製。

そんな中、私が気に入ったのはMuseという装置。
これは前額部だけでなく側頭部にも、しかもそれぞれ左右の脳別にセンサーがある。
装置は耳掛け式で、簡単で違和感もない。
さらにトレーニング内容がきめ細かい。
一番すごいのは、従来はα波のような特定の脳波の優位性だけをフィードバックする単純なものだったが、
この装置は、仏僧などの深い瞑想状態のデータをもとに研究した結果にもとづき、複数の脳波と呼吸の複合パターンをフィードバックの対象としていること。

実は、仏僧による、すなわち瞑想の熟達者による日本の脳波研究で、瞑想状態は単純なα波優位ではなく、たとえば前額部からはθ(シータ)波が出ていることが以前からわかっていた。

さらに最近では、β波(通常のシステム2状態)より周波数が高い、γ(ガンマ)波が発見され、しかもそれは別の瞑想状態で頻発することがわかった。
β波は通常の思考中の脳波なので、γ波はそれより脳を使っている状態として、精神的ストレスの指標と推定されていた。

つまり、瞑想状態は、特定の脳波が優位という単純なものではなく、θ波からγ波までの複合的状態の1パターンなわけである。
それに加えて、呼吸がとても静かになり、おおげさに言えば停止状態に近づく(これは気功訓練でも指摘されている)。

以上の最新の研究成果にもとづく、複雑なアルゴリズムによるフィードバック装置をアメリカから購入して(日本のAmazonでは不可。3万円弱)、iOSの専用アプリもダウンロードした。

瞑想は、習慣づかないとなかなか続かないものだが、気功訓練(練気)から瞑想にも接近して、続けるようになれた。

Museでは、心(脳)の状態を、「アクティブ」(活動)、「ニュートラル」(安静)、「カーム」(瞑想)の3種類に分けている。
以前だったら、活動=β波優位と安静=α波優位の二分割だったろう。

そして、カームになると得点が加算され、また一定時間以上カームが続くと、鳥の声が鳴ってフォードバックされる。

その音声フィードバックのおかげで、鳥が鳴いている時の心の状態を維持すればいいのだ(瞑想は閉眼が基本なので、フィードバックには音声が必要)。

このMuseを使って瞑想を続けた結果、今では、セッション中は、鳥が鳴きぱなしになり、トレーニングプログラムの最後までクリアした。

さらに、開眼(阿字観)でもカーム状態を維持できることがわかった。

というわけで、一応客観的な基準での”瞑想マスター”として、瞑想についても記事にしていきたい。

ちなみに、現在は、Museのバージョンアップ版、Muse2、睡眠用のMuseSが発売されている。→Museのサイト(英語)


開眼夢というものを見た

2020年07月25日 | 心理学

 ここ連日、読書中に、覚醒していながら、夢を見て、その夢が非現実でヘンなので、
読書している意識で、今のはなんだったのか、と思うことを体験している。

その内容は読書とは無関係で、知らない人物が登場して、音声を伴っている。
覚醒して開眼しているので、読書中の居眠りとも違うし、意識コントロールできない内容なので能動的イメージ化(空想)とも違う。

読書中に眠りに陥って夢を見ることは珍しくない。
ただ、それ自体が意識(システム2)の質的変性現象なので、
少なくとも目覚めた後は、睡眠に陥って夢を見ていたと判明する。
なので、これとは違う。

今回の覚醒中の夢体験は、今までにはなかった。
これはいわば、覚醒時の幻覚体験なので、いよいよ脳に異常がきたかと心配したが、
「白昼夢」(Day Dream)っていう単語があるくらいメジャーなのだから、
自分がたまたま経験しなかっただけで、世間的には珍しいことではないのかもしれない。

ただ国語辞典での「白昼夢」は、能動的表象も含まれていて、この項目の執筆者自身が体験してそうにない記述なので、心理現象の説明とはなっていない(国語辞典はそれで仕方ない)。
また、この名称だと、論理的に昼寝や午睡中の夢も含まれてしまう。
言い換えれば、この文学的名称しかないということは、心理学ではまともに扱われてこなかった証拠だ。

ならば、まずは心理学的名称が必要だ。
覚醒夢、これだと覚醒の定義が問題になる。
開眼夢、こちらの方が行動的説明ですっきりしているので、これにしよう
(文学的余韻に欠けるが、それをそぎ落としたいのだから仕方ない)。

さてこの開眼夢は、まさに開眼しているので、開眼中の視野(私の場合は本の書面)と夢の映像が二重写しになる。
これが読書中に眠った夢と異なり、それと明確に区別できるポイントでもある。

たとえば、この記事を読んでいる読者は、今”モナリザ”の絵を思い浮かべてほしい。
すると、この画面(視覚像)とモナリザのイメージ(表象)が二重写しになっているはず。
映像体験的にはこれに近い。
ただ、開眼夢の鮮明度は、イメージ表象(想像)よりも鮮明で視覚像に近い。

異なるのは、夢の一種なので自我にとっては現実の世界体験と同じく、受動的で制御不能な点だ。
一方、睡眠中(レム睡眠)の夢と異なるのは、ストーリー展開がなく、動画にして数シーンで終ってしまうこと(入眠時の浅いノンレム睡眠の夢だから)。
すなわち、この開眼夢自体が短時間の気まぐれな現象といえる。

今まで、私にとって、「夢見」は、睡眠を前提にしていた。
ところが覚醒中でも夢見が可能なことを経験してしまうと、夢見という現象の捉え直しが必要となる。
夢見は睡眠だけでなく、覚醒とも両立可能だから。
すなわち夢見は、覚醒・睡眠に付属しない、それらと並立できる第3の意識状態ということになろうか。
ちなみに、夢見は無意識現象ではなく、覚醒時とは異なる意識現象(システム2)とするのが私の立場。

さらにこの開眼夢と能動的表象との中間といえる現象として、小説を読んでいて、そのシーンが表象像として書面の文字よりも前面に出てきて、まるで映画を観ているようなリアリティに満ちた体験をすることがある。
文字を視覚処理しているはずなのに、意識はそれを飛ばして(文字の視覚像が消えて)、文字に基づいて変換された表象像の方がありありと体験している。
考えてみれば、これも不思議な現象だ。

こう考えると、能動的表象から睡眠中の夢に至る、脳内イメージ化現象は、
意識制御の度合いに幅広いバリエーションがありそうだ。

なぜなら、視覚経験の現場は、目ではなく、脳だから、
目(網膜)に映っていないものを見ることができるのだ。
しかもそれが現実と見まがうくらいリアリティをもって体験することがある。

これを極端に推し進めていくと、覚醒して体験していることも、もしかしたら開眼夢であって、夢と同じ脳内再生の表象かもしれない。
と、話が”唯識”っぽくなっていくが、
私は決して荘子の”胡蝶の夢”方向に先走ることはしない。
実際には、夢とリアルな世界体験の区別はできているから。
※:夢の中で蝶になっていたというこの話はいかにも作り話。なぜなら夢の世界側はファンタジックであっても、夢見の主体は覚醒時と連続した自我(システム2)であって、自己同一性は保たれているから。私も空を飛ぶ夢は見るが、あくまでこの自分のままで空を飛ぶ。ちなみに『荘子』自体、作り話に満ちている。


物語を超えて

2020年07月22日 | 心理学

心理現象はできるだけ、自分の多重過程モデルで論じたい。

前回の半沢直樹の記事、すなわち人は物語を求めている、というのは日常的なシステム1・システム2による社会心理現象。

人間の心の可能性を追求する多重過程モデルに立つと、そういう通俗レベルで満足したくはない。

空の雲が何かの形に見えたり、左右対称のインクの染みで作られたロールシャッハテストの図版がいろいろなものの形態に見えたりするのが人間で、不確かな形態を完全な形態に補う(意味を付加する)知覚作用は、生存的に意味がある(薮に隠れた猛獣をきちん見分ける)。

ただ、過剰な意味づけは、主観の投影であり、対象の真の認識から遠のいてしまう。

この世には、過剰な意味付けで成立している妄想体系が、さも神秘思想の顔をして、人々をその意味地獄に招こうとしている(時間と財産が吸い取られる)。
物語を求める人ほど、その欲求ゆえに、この陥穽にはまりやすい。

これらは、システム2の言語体系(論理的辻褄合わせ)で作り上げられたものにすぎないことは、一段上に立てば見えてくる。

現代芸術が、人々に求めているのは、既存のパターン化された意味づけの慣習から、対象を解き放つことにある(だから、あえてワケのわからぬようにしてある)。

キュービズム絵画や無調性音楽のように、ゲシュタルト崩壊をあえて経験させることで、対象との先入観のない出合い直しの機会が与えられる。

強迫的な意味づけ習慣からの脱却、それによる意味付与以前の純粋経験への立ち戻り。

無意味をおそれないこと。

ロールシャッハの図版が何かおどろおどろしいものの姿ではなく、「ただの込み入ったインクの染み」に見えること。

この段階が、システム3(現象学、マインドフルネス)である。

娯楽としての物語は、感動を経験できるからそれでいい。
だが、あらゆることに物語性(意味)を貼り付けないこと。

通俗レベルの意味の解体によって、今まで無視されてきた新しい意味が開示される(付与するのではない)。
そこから再出発することがシステム3だ。

そして人知を超えた新しい意味世界の扉が開かれる。
それがシステム4(トランスパーソナル)だ。

先走ってしまった。

まずは、日常で作動している直感のシステム1や思考のシステム2から、それらを停止するシステム3の作動を可能にするといい。
半沢直樹を観ていない時に、とりあえずは10分でもいいから、瞑想すること(作動し続けているシステム1とシステム2を停止すること)をお勧めする。


既視感と正しい想起との違い

2020年06月21日 | 心理学

昨日のブログ記事で、寺社ではお姿を買うと書いたら、
近所のお不動さんにお姿が売られていたが、まだ買ってないなぁと思い、
さっそくお姿のお札を求めにいった。

不動堂にお姿の見本があり、そこには庫裡の玄関でお求めくださいと書いてある。
庫裡にいくと、インターホンを押せと書いてある。
インターホンに手を伸ばしたその時、
このシーンに強い想起感(このシーン経験したという記憶感)が湧いてきた。

ただ、想起感だけだと、実は経験していない想起ミスである既視感(デジャブー)かもしれない。
私にとって既視感はめずらしくないので(夢の中でも経験する)、どちらなのか一瞬迷った。

たが、インターホンを押したあと、玄関に入って、出てきた婦人に用件を述べて、お姿を購入したというエピソード記憶がありありと蘇ってきた。
既視感でも、「このシーン前にもあった」という感覚は、事態の推移に並行して「そうそう、このシーンも確かにこうなった」という想起感が連続するが、これは現象学でいう「原印象」という持続的現在の印象で、まだ経験していないこの先の出来事(エピソード)を予測的(現象学でいう「予持」)に思い出すことはできない。
すなわち、既視感では「この先、こうなった」というエピソード記憶の予持想起ができない
これが既視感と過去経験の想起との決定的な違いだ。

ということで、これは既視感ではなく、お姿はすでに購入済みした経験があると思い直し、インターホンを押さずに、それを確認すべく帰宅した。
そして各地のお姿を入れてあるクリアファイルを開いたら、確かにこの寺のお姿があった。

ただ、既視感より前に、すでに購入していたことを忘れていたことの方が問題だ。
忘れるには理由がある。
お姿って、こうやってファイルに入れたら、それっきりで見ない。
だから、記憶に残らず、忘れてしまうのだ。
実際、幾度目か訪れた社寺で、ここのお姿買ったかどうか迷う時がしばしある。
かように人間の記憶って精度が悪い。
今回の場合、連想→忘却→既視感(のような想起感)→正しい想起、という記憶現象のオンパレード。

なので、パソコンで購入したお姿のリストを作成し、クラウドに保存した。
こうすれば、買う時にリストを開いてスマホで確認できる。
外部記憶装置に頼ろう。


マインドフルネスからトランスパーソナルへ

2020年05月04日 | 心理学

このブログでは、市井の一人としての身辺雑記のほかに、研究者として論文化する以前の、アイデアレベルの思索を開陳したい。
それは、個人的アイデアの公開であると同時に、そのアイデア表現の洗練の場となるためだ(自分のハードディスク内だけで文章化するより、こうして不特定の読者が存在しうる場での文章化は、緊張感=本気度が高まる)。
ちなみに、本文で使われる「システム」という用語は、私の「心の多重過程モデル」の用語なので、システム1・2(既存の二重過程モデル)以外は私オリジナルの使い方である。→詳しくは、心の多重過程モデルで理解する仏教:序


さて、私は、茶臼山高原(カエル館)や自分自身に”パワー”の存在を認めている(”パワースポット”のパワーは無批判には認めていない)。
われわれの科学的知性(最も洗練されたシステム2)では説明できないこの現象は、システム2を(2段階)超越したシステム4の存在を想定させる。
システム4は私の中でもまだ曖昧な内容で、科学的心理学ではまったく認められていない心の領域。
ここではこの話をしたい。

実際、私が茶臼山カエル館での来館者の反応の科学的解釈に困っているように、われわれの既存の論理では説明できない現象というものがある。
これは古典力学では説明できない量子現象(半導体などでわれわれの生活に応用されている)の問題とも通じている。
実際量子力学では、量子現象の数式での説明に虚数を使わざるをえない。

私の「心の多重過程モデル」では、人間の通常の心(無自覚行動のシステム1、明晰意識のシステム2の二重過程)に加えて、まずはより高次のシステム3(メタ認知、現象学的態度、瞑想・マインドフルネス)を想定している。

システム2を1段階超越したシステム3(仏教的/療法的マインドフルネス※)の視点では、システム2の作用である思考とイメージ表象は、人間の最高位の理性的活動として賞賛されるのではなく、むしろ苦しみの原因としての妄想と位置づけられる。
※心理学では、臨床の方向からマインドフルネスは認められている。ただしそれが心のモデルの中にきちんと位置づけされていない。

システム2では、思考主体の自我が最高位の制御主体であるため、思考を自らはコントロールできない。
すなわち思考が、妄想に落ちることを制御できない。

そこでシステム3という、思考を客体化して観照する、新たな心の主体(自我からの自極の分離)が必要となる。
この一種の自己乖離(≒解離)法は、すでに2500年前に北インドの地で見出された。

だがシステム3が人類の心の到達点ではない。
システム2が実現した思考・表象の力そのものをより高次元に活かすことが可能であることも、人類は見出している。
たとえば、プラシーボ効果は、システム2の思い込みの力が、システム0の心身一元機能(自律神経系・内分泌系・免疫系)に作用し、身体の自然治癒能力を活性化することとして知られている。

人類が獲得したシステム2のこのすごい能力(意味づけ、物語化の能力)の暴発を防ぎ、抑制的に制御するのがシステム3だ。
だが、システム3が自己の最高位だと、システム2の能力が充分発揮されないままになる。
人類の一人として私は、人がもっている心の能力をフルに発揮する方向を志向したい。


システム3による抑制を踏まえながらも、システム2の”思い込み”能力をより望ましい方向で活性化するのが、
システム4(自我を脱した自極の行き先=トランスパーソナル、心の脱自化)である。
ただし低次を捨て(否定し)て高次に向うのではなく、低次〜高次をすべて十全化するのが多重過程モデルの目標である。

システム4の開発訓練は、システム3の修行で一旦は否定された、思い込みの力をつけ、それを”心的エネルギー”化することである。
気功の訓練がその典型で、自分の身体の内外に”気”が流れていると思い込むことではじめて、気を触覚的に実感することができる(ただしカエル館来館者は、この思い込みがなくても触覚反応を訴える。それはカエル館内の”気”が特異的に強いためらしい)。
あるいはシステム3が、システム2の未制御な雑念活動(モンキー・マインド)を完全抑制する”無念無想”の達成を目指すのに対し、システム4は、実在しない鮮明な表象(観想)を必要とする(阿字観など)。
極端に言えば、システム3が人格解離で、システム4が幽体離脱だ。


「多重過程モデル」の多重(多層)性を担うサブシステム群(システム0〜4)は、低次のサブシステムの拡張とその反動(バランス化)、すなわち肯定と否定の二重の方向性で高次のサブシステムが創発される、という相互関係にある。
すなわち、システム3の能力はシステム2の能力の拡張であると同時に、その否定でもある。

そしてシステム4もシステム3の拡張(瞑想の進展)であると同時にその否定であり、それは論理的にシステム3が否定したシステム2の二重否定すなわち肯定となる。

ここで注意したいのは、システム3を経由しない、システム2の妄想的思考の無批判な拡張にすぎない、疑似(エセ)トランスパーソナルが、世界のあちこちに跋扈していることである。
これらは修行が必要なシステム3でなくても理解できるため、通常のシステム2で受容しやすい。
ただその陥穽に落ちると、自分のすべてが吸い上げられ、人生を台無しにされる。

真のシステム4は、システム3を経由したものであり、システム2の単なる暴走とは、厳密に区別されなくてはならない。
ただこの区別が可能なのは、システム3、4の心である。
科学的思考のように自己検証をしない”素朴な”システム2に留まっている心では、願望の投影や話の辻褄が合うだけで、いとも簡単に自他の妄想的思考にはまってしまう。

システム2から3への自然な流れは、日常的(定性的、辻褄整合的)思考→科学的(定量的、実証的)思考→現象学(無前提的)的思考→正見・正念(八正道)という流れだといえる(科学的思考は日常的思考の批判であり、現象学的思考は日常的思考と科学的思考の両方の批判である。すなわち思考活動に付随する諸々のバイアスを取り除いていく過程)。

この流れを経ずして、安易に「トランスパーソナル」に近づかない方がいい。


心理学者の私が量子力学に接近する理由

2020年03月08日 | 心理学

私も少々「コロナ疲れ」気味なので、その話題から離れて、自分本来の関心事を開陳したい。

大学で「心理学研究法」という授業を担当している。
この授業は、心理学専攻のある大学なら必ず開講され、必修科目となっている。
心理学筋がこの授業に期待しているのは、心理学すなわち「心のメカニズムを科学的に探究する学問」が用いている方法(実験、調査、観察など)の基礎を紹介することだが、
私は、それでは不充分だと思っている。

もともと理系でなかった学生に”科学としての”心理学を紹介する授業ならば、
その”科学”とは何か、という問題から、すなわち方法(method)を基礎づける”方法論”(methodology)から始めるべきだと思い、それを実行している。

その”科学”だが、具体的には物理学が理想モデルとなっている。
ただし古典物理学である。
測定値を入れれば、予測値が一義的に計算される(ケプラー〜ニュートンで確立された)決定論的モデルだ。
それを科学の理想的在り方として、授業をしている。
心理学の1年生なら、まずはそれでいいと思っている。

ただ、研究者としては現代心理学が準拠している科学モデルが、17世紀の古典物理学のままであることに疑問を感じているので、現代物理学すなわち量子力学を参考にしたいと思っている。

もともと統計分析に依存している心理学は、個人の挙動を説明するものではなく(世間はここを誤解している※)、決定論ではなく確率論でしかものをいえないから、そちらの方がいいと思う。

※:”この選択肢を選んだ人はこういう性格です”って断言するそこらの”ニセ性格テスト”は心理学とは無関係。心理学の性格検査ではこんなことやらない理由をこの授業で説明している。

量子力学に接近するもう1つの理由がある。
それはスピリチュアルな領域における、古典物理学、とりわけ物質(粒子)的実在論では説明できない現象の解明を期待してのこと。
心的現象を波動・エネルギーととらえる、すなわち人間という現象の粒子的側面が身体で波動的側面が心という視点を確立し、
さらには、超能力的現象も量子力学的現象として説明できるのではないかという期待がある。

※:この表現自体が、古典物理学的常識に準拠したもの。

つまり、粒子的な測定で確認できないから、スピリチュアルな領域は存在しない、という視点を反証できないか。

ただ、ここで注意したいのは、量子力学の我田引水的な(都合のいい部分だけの)適用。
それは疑似科学のやり方だ。
たとえば古代からのスピ系思想が好む、マクロ(宇宙)とミクロ(人間)の現象の相似的対応(ブラフマンとアートマン、天人相関、相似象)は、量子力学では排除されている(ミクロな世界の現象は、古典物理学が通用するマクロな世界とは異なる(非相似)現象だというのが量子力学)。
また、常識に反する理論でも、ちゃんと実証という検証をクリアしているのが量子力学であり、その実証なしに、常識に反する部分だけ共通化してもそれは単なる”妄言”でしかない。
たとえば、それが本当に”波動”だというなら、まずはその振動数(周波数)などを測定して、それに基づいて論を進めなくてはならない。
なので振動数データを示さない”波動理論”は疑似科学に分類する。

量子力学の泰斗ニールス・ボーアは、古代中国の陰陽論☯を気に入っていたというが、科学的議論においては、古典物理学的文法(科学的コミュニケーション言語)で表現すべきと主張して、個人的好みをおくびにも出さなかった。
それが科学者としての矜恃であり、また古典物理学をモデルにした科学論の存在価値でもある。

ただ、こう開陳したからには、今後、このブログで、私が関与しているスピリチュアルな諸現象と(自分が理解した限りでの)量子力学とを対話させるつもりである(整合させるというより、ぶつけてみたい)。
※:本文では古典力学と対比する意味で「量子力学」と称しているが、波動や場を重視するなら「量子論」とするべきだな。

まずとりかかっているのは、霊が視えるという「霊視認経験」だが(→記事)、その現象を量子論的に解釈するには至っていない。

無意識はひとつでない

2019年07月13日 | 心理学

心理学を束縛している二元論には、根源レベルで「主客二元論」、実用レベルで「心身二元論」が指摘されているが(高橋澪子『心の科学史』)、
心理学の内部にもうひとつ「意識・無意識二元論」がある。

ちなみになぜ二元論が問題かというと、対象を無理やり(アプリオリに)二分するこの発想は、
実際の(多元的)現象に対するバイアス(認知的偏り)として作用し、現実の真正な理解を阻むからだ。
この二元論が真理を探究する学問に内在していることが問題なのだ(二元論バイアスは、概念的(定性的)思考そのものに胚胎している)。

さて、ここで問題にしたいのは、「意識・無意識の二元論」。
もちろん、人の心を意識とそれ以外(補集合)の無意識とに二分する発想。

無意識理論の泰斗・フロイトは、当初は意識、前意識、無意識の三元論者だったが、
前意識(意識にあがる前の記憶内容)の理論的役割がほとんどなかったため、結局は二元論思考になった。
さて、この二元論の何が問題かというと、意識以外の心がすべて無意識(潜在意識)に入れ込まれ、一緒くたにされていること。
たとえば、抑圧された情動と未開発の潜在能力が同じ範疇にされ、
スピリチュアル系で「潜在意識」とされているのは後者であるが、それが前者のフロイト的無意識と一緒くたにされる。
ユングは、前者的な個人的無意識と後者的な集合的無意識を分けているが、
集合的無意識は個人的無意識のさらに深(下)層に位置されている(それだけアクセス困難)。

現行の「二重過程モデル」(これも二元論!)を拡張した私の「多重過程モデル」では、システム2の意識に対して、
システム1の下意識領域(条件づけなど)、さらに意識と無縁な身体領域であるシステム0(自律神経系、内分泌系反応など)のほかに、
※:スピリチュアル系では「身体意識」・「細胞意識」という表現を使う人がいるが、それは「心」(識)の一部であるとしても、心理学的には明らかに無意識であり、「意識」とは言い難い。
システム3のハイパー意識(超覚醒)、さらにシステム4のトランスパーソナル意識(超個意識)と、
意識以外の意識領域にそれぞれ異質の4種が想定されている(より正確には、システム3はメタ意識なので意識側に属す)。

スピリチュアル的な”潜在意識”は、システム1の意識ではなく、意識というべき、システム4の超意識に相当する。
すなわち”潜在意識”は下意識とは別ものだ。
スピリチュアル系の人は意識を含めた心の構造モデルに対して素朴(二元論的)なのが残念。
また心理学者であるユングも意識・無意識の二元論を惜しいところで克服できなかった。
というわけで、スピリチュアル系の素朴な(二元論的)心のモデルを、私なりに改良していくつもり。