マルクス・ガブリエルの『「私」は脳ではない—21世紀のための精神の哲学—』(講談社)をちら見して(まだきちんと読んではいない)、この本は、彼のいう”神経(ニューロ)中心主義”を批判するためのものだとわかった。
ここのブログでもいわゆる脳神経科学の本をいくつか紹介しているが、そもそも私も心をすべて脳(大脳皮質だけではなく中枢神経系)に還元する視点には賛同しない。
自分の「心の多重過程モデル」※において、通常の心理過程に相当するシステム1・2は脳の反応が中心となることは認めるが、最も根底的なシステム0においては、睡眠覚醒機能こそ脳幹が柱だが、心臓や腸あるいは皮膚など末梢器官も構成要素としていて、心身(≠脳)一元論的立場として脳神経中心主義をとらない。
※心の多重過程モデル:”心”を以下のサブシステムからなる高次システムとみなす私のモデル
システム0:覚醒/睡眠・情動など生理的に反応する活動。生きている間作動し続ける。
システム1:条件づけなどによる直感(無自覚)的反応。身体運動時に作動。動物と共通したメカニズム。通常の”心”はここから。
システム2:思考・表象による意識活動。人間固有の領域。通常の”心”はここまで(二重過程モデル)。
システム3:非日常的な超意識・メタ認知・瞑想(マインドフルネス)。人間でも作動する人は限られているが、全員作動可能。
システム4:超個的(トランスパーソナル)・スピリチュアルレベル。
さらに、システム3・4という高次過程においては、自我・個我を超越した心を想定している。
その超個的心は、すでに誰でもが作動しているシステム2レベルにおいて発動している。
システム2は自我(自意識=エゴ)が機能している心のサブシステムだが、自我は機能すると同時にその限界に直面することで(それが人間固有の”心の苦しみ”を経験させる)、自我を超越する志向を内包している。
それを「精神」と名づけたい。
その「精神」は、個体内の心(個我)というより、個を時間的空間的に超えて共有されたメンタリティ(パッケージ化された心)を指す。
武士道精神などいわゆる「〜精神」と我々が表現しているあのメンタリティだ。
これが本来のspiritとしての”精神”なのだが、日本語の「精神」は、必ずしもspiritの訳語に限定されず、特に精神医学畑で「心」の別名(同義語)として使用されている。
たとえばフロイトの「Psycho Analysis」は素直に直訳すれば「心理分析」となるはずだが、最初に訳したのが精神医学者であったため「精神分析」という訳語が定着してしまった。
かように医学界では心がすべて精神に言い換えられている(実際の精神医学はspiritの医学ではなく心の医学)ので、”心=精神”が学界のデフォとなっている。
ちなみに、医学界で「心」を使わなかったのはそれなりに理由がありそうだ。
実は、中国(医学)での「心」は心臓をも意味している(経絡における「心経」は心臓から出る経路をいう)。
なので、近代医学的に心臓ではなく脳の現象を扱うために、「心」の代わりに古来使われていたメンタル作用の「神」に(神だけだと神様と区別できないため)、生命作用である「精」を併せて「精神」(精における神)という熟語を作り、しかもそれを妖精的なspiritの訳語ともした、と推論される。
以上を踏まえて、精神医学ではなく、私の心理学においては、「心」と「精神」は本来のように区別したい。
すなわち、精神は個体内の心ではなく、個を超えて外在する心性(メンタリティ)とし、それが個のシステム2に取り入れられ、社会行動や社会的感情の原理(アイデンティティ)となる。
そしてそれが集団化されることで社会に共有された価値観となる。
すなわち、精神は個に属するものではなく、個を超えて”共有された”心の部分であり、その意味で脳に還元されない”心”である。
言い換えれば、人間の行動や感情は、脳に備わっている動物起源のメカニズムに還元して理解できる部分だけではなく、個人の脳を超えた高次のメンタリティによっても説明できる部分がある。
たとえば、道徳心、正義感、美意識、感動、宗教心などは、動物的心的作用に還元できない、ハイレベルな”精神”の作用である。
このようにシステム2において発動するspiritとしての「精神」は、個体を超えたより大きな心性との繋がりを前提とするため、瞑想的なシステム3を超えて超個的(トランスパーソナル)なシステム4、すなわちspiritual(霊的)な方向に開かれている。
通常のわれわれのシステム2においてすでに発動させているその精神性(spirituality)を成長させることによってこそ、心の霊的次元、すなわち霊性(spirituality)が開かれる。
かように、私自身は、心を構成しているシステム0とシステム4という双方の位置からは神経中心主義※ではないが、その両者に挟まれたシステム1とシステム2はほとんど脳活動で説明可能と思っている。
※:大脳はニューロン(神経細胞)だけでなくグリア細胞(特にアストロサイト)のネットワークでもあるので、その意味でニューロ中心主義は時代遅れ。
なので心は脳で説明できるか/できないか、という二価論理には興味がない。
心におけるシステム0は脳どころか身体と合一しているが、システム1から2に進むにつれて中枢の限局化(脳化)が進み、システム3からは脱(超)身体化が進む。
集合論的には、心⊃意識⊃精神、の関係(心が一番広い)。