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今日こんなことが

私は「はてなブログ」に引っ越しました。
こちらは過去の記事だけ残しています。またコメントも停止しています。

AIと心の進化

2023年04月21日 | 心理学

 そもそもコンピュータという情報処理マシンは、メディア論的には、人間の”脳”の拡張なのだから(電脳)、それが数値計算と記憶媒体というレベルから、言語思考をも担当するレベルに進化することは、メディアの進化形として織り込み済みなはずである。

それを私の「心の多重過程モデル」で表現すれば、人類が他の動物と差別化できたシステム2を、自分たちより高性能な装置に外部化するということである(移動手段としての乗り物と同じ)。

 AIの発展が人間の知性を凌駕することに脅威を覚える人は、人間の心はシステム2が最上位だという、旧来の「二重過程モデル」レベルに留まっている。

自我による言語思考の限界を見出し、その自縛から脱するという新たな方向性を、すでに一部の人類が見出しており、その方向での心の重層化(進化)を織り込み済みなのが、このブログに再三登場している「心の多重過程モデル」である。

すなわち、人間の心の進むべき道は、システム2の高度化ではなく、システム3さらにはシステム4と心の高次のサブシステムを創発していく方向であり、それが機械(メディア)では代替できない人間の”霊的進化”の道につながる。
※:システム2が最上位という発想だと、定型的情報処理から人間が解放されることで、できた時間・余力を”創造性”に費やすことができる、というレベルの発想しか出てこない。人間のシステム2レベルの創造性(情報創造)なら、AIも簡単にできるようになる。 なぜなら創造性とは、情報の組合せパターンの(意味ある)再構築にほかならないから。

今までの人類は、系統進化的にも個体成長的にも、システム2の高度化(大脳の前頭前野の発達)を目指してきた。
人類が生存していく上で必要なシステム2の作業(所詮機械的な情報処理)が AIで代替できるなら、ほとんどの人にとって萌芽段階でしかないシステム3を成熟させることに費やせる。
人間を存在論的に捉えるなら、情報処理が人間の存在目的ではないことは論を俟たない。

システム2→3→4への進化とは、言うなれば、凡夫→修行者→菩薩への道ともいえる。


デート代を男がもつべきか問題を考える

2023年04月20日 | 心理学

一部ネットで論争になっている、デート代を男がもつべきか、という問題を考えてみる。

まず、この問題の発端として、一般論として「デート代は男がもつべき」である、という社会規範の主張ではなく、「デート代を払うという男気があると嬉しいな」という女心の問題である、ことを押さえておきたい。

ネットでの議論のポイントは、そういう女心は、男女平等・ジェンダーレスという社会規範と矛盾するのではないか、という点である。

これはまさに、社会学と心理学の微妙な齟齬の問題だ。
私の専攻である「社会心理学」の立場としては、両方の主張をなんとか調整したい。

ます行動生物学、すなわち生物行動の進化論的研究によると、生物の♂が♀を交尾に誘う一番の方法は、餌を提供することである(蜘蛛のように最悪の場合、自分がその餌になる)。
すなわち、生物の基本目的である、子孫(遺伝子の複製)を残すために、卵を産まずに遺伝情報だけを提供する♂は、性欲という能動性が必要である一方、卵を産んで遺伝情報に栄養エネルギーを追加する♀は食欲を優先する。
なので、その♀に受け入れてもらうためには、♂は♀の食欲に訴える。
例えば、蚊の研究例だが、♂は♀に餌のプレゼントをし、♀がそれを受け入れて餌にかじりついている間に首尾よく交尾をする。
♂の性欲は、♀の食欲を満たすことで、実現するわけだ。
♂と♀との間には、このような生物学的な非対称性が本来的に存在する。

なので、デートという♂にとっての交尾準備(♀にとっては審査)状態は、♂が♀の食欲を満たす側に立つことを意味しておかしくない。
逆に、♂または♀が割り勘を主張することは、交尾準備状態であることの否定、すなわち性的関係ではなく、「いいお友達でいましょう」状態の提案となる。

デート代を男が全て払おうとするか、割り勘にしようとするかは、相手を♀的存在としているか否かの、個別判断の問題であって、少なくとも、男女平等を旨とする社会規範の問題にする、すなわち個人的感情の問題を社会規範の「べき」論で論じる”べき”でない(イケメンや美女が好きという個人的嗜好の問題は、ルッキズムという社会的差別の問題ではない)。

言い換えると、♂にとって相手の♀が「お友達」でいいなら、割り勘を求めていいし、そうされた♀はそれを自覚すればいいだけ(相手を批判する理由はない)。
逆に、♂がデート代をもとうとしても、♀側にこいつとは交尾の可能性はないと思うなら、割り勘を主張して「お友達」的関係を貫けばいい。

そのつもりがないのに、おごってもらうとすれば、それはずるいといえる(誤ったメッセージを意図的に伝え、結果的に付きまとわれる)。

「女の私にこうしてくれる男がいいな」という個人的感情を、男は女にこうすべきというジェンダー問題に一般化すべきでないし、個人的嗜好を述べただけなら、それを他者が社会規範の視点で批判するのもおかしい。
この手の発言が炎上するのは、個人的嗜好(たとえば付き合いたい男の身長の下限)を本人が必要以上に一般化する愚を犯している場合が多い。

すなわち、ネットでの論争は、この個人的嗜好と社会規範との次元的な”ズレにすぎず、真の議論ではない。

プロ野球のチームでスワローズを私が応援するとして、それをジャイアンツ・ファンから批判されるいわれがないのと同じ。


自分の超能力を確認する方法

2023年03月26日 | 心理学

スピリチュアルではなく、科学的研究としての「超心理学」の話題。

超能力(超感覚、念力)は、実は多くの人が微弱ながら持っていることが超心理学の客観的な研究で確認されている。

微弱なのでパワーとしてはたいしたことないが、それを確認することで、超能力が身近なものとなる。

では自身の超感覚(ESP)の中の”透視/予知”能力を確認してみよう。

トランプのカードを用意する(ジョーカーを外す)※1
※1;トランプカードを使うのは略式で、正式には 5種類の図形からなる ESPカードを使う。
トランプのマークには好き嫌いがあり(は好まれる)、それが透視・予知判断に影響するためだ。
ESPカードは好き嫌いの差がない図形となっている。

52枚のカードをシャッフルして、重ねて置き、上から1枚ずつカードをめくるのだが、
めくる前にそのカードをじっと見つめて、赤(♥、🔸)か黒(♠︎、♣︎)かのどちらかを予想する。
じっと見つめて判断するので、一応”透視”のつもりである。
ただ実際には「見えて」来ないだろうから、そこはヤマカンでいい
(そうなると”予知”になる)。
とにかく赤が黒かどちらかに決める。

そしてカードをめくって、当たっていたらたとえば左、外れたら右に置く(もちろん逆でもよい)。

カード全てについて上の試行をして、終わったら、左(当たり)と右(はずれ)の量(枚数)を比較する(これを1試行とする)。
この試行をできるだけ多く繰り返す(頻度は1日1試行でもよい)※2
※2:試行回数を多くすることで統計的信頼性が高まる。ただし連続してやりすぎると、
(他の心理作用と同じく)超能力”疲れ”が出て成績が下がるという。

少なくとも5試行以上はやって、それを集計すると、
多くの人は、正解率が統計的期待値である50%にはならない結果になる
(厳密な判断には統計学的検定が必要)。
もっとも、50%から大きくずれる(たとえば±15以上)こともないだろうが、
この統計的結果は、微弱ながら超能力の証明になる。

たとえば、私が若い頃にこれをやった時は、必ず毎回、外れが6割以上になり、
およそ半々(50%)になることも、ましてや当たりが1枚でも多くなることも一度たりともなかった。
私のような現象は、実は当たりが6割になるのと同じことで、
ただ本人が自分の超能力を信じていない場合や、
超能力があるのにうまく使いこなせていない場合だという。

確かに、USBを差し込む時、大抵上下が逆で、ほぼ毎回差し込み直していた
(それを見越して、あえて上下を逆向きにして差し込むと、今度はそれが間違っていた)。

ちなみにUSBは最近はタイプCになって上下の向きは問題なくなったので、
私のような”逆超能力者”にとってはこの上なくありがたい。

ところが最近は、当たりが6割以上になってきた。
これは自分がスピリチュアルに目覚めて、そういう世界を受け入れ、
またパワー開発にいそしんでいるためかもしれない。


意識の二重性

2022年10月11日 | 心理学

瞑想やシステム3と関係する私”の二重性について議論したので、それよりは了解しやすい”意識”の二重性を論じたい。

意識の二重性は、”私”の二重性に対応したものではない
なぜなら、意識は私(自我)とは別の現象で、むしろ”私”の経験を可能にする、より根源的な現象だから。
意識があって初めて”私”が可能となる。
なので、意識の二重性は、”私”の二重性よりも根源的な現象である。
ということで、”私”の二重性を結局ピンと来なかった人でも、意識の二重性はずっと了解しやすいと思う。

意識には、意識がある/ないというレベルと、何を意識しているかというレベルの二重性がある。
前者(レベル1)は日常的には覚醒/睡眠という意識水準の問題で、後者(レベル2)は覚醒(一定以上の意識水準)を前提とした意識活動の問題である。
レベル1の中枢は脳幹・視床下部で、レベル2は大脳皮質の前頭前野である。
すなわちそれぞれの中枢が異なることで、メカニズム的にそれぞれ活動は独立しうる。

もっとも、レベル1がレベル2を可能にするという階層関係が基本なので、覚醒→意識活動という連動関係が基本となるが、その関係に例外がないなら、すなわちレベル1とレベル2がいつも一体なら、意識を二重とする必要はない。

その階層関係を詳細に論じたのは、このブログでも紹介した安芸都司雄で(→記事)、昏睡から~意識清明までの可逆的移行段階を示した12段階の意識水準のうち、意識水準の低い順でⅠからⅣまでは、昏睡状態を含む高度意識障害に相当し、その上の意識水準Ⅴにおいて「意識があるとみなせる」状態(命令された身体運動ができる)となる。
ただし健常者の覚醒状態に相当するのは、ずっと上の意識水準ⅩⅠで、臨床的に問題なく、ほぼ意識清明の状態という。
すなわち、「意識がある」水準と、意識活動が問題なく作動している水準の間には、安芸の基準で6段階存在し、その間は”意識はあるものの、意識活動は十全に機能していない”という中間的状態になっている。
さらに意識活動が臨床的に問題ない水準以上(Ⅹ−ⅩⅡ)においても、意識活動の能力に差があり、意識水準が最高度の水準ⅩⅡ(意識清明)に至って初めて、自我という人間固有の高度な意識活動が可能となる。

この意識水準とは別のアプローチとして、レベル1が作動(覚醒)しているものの、レベル2(意識活動)に支障がある固有の病理現象について、脳科学者のA.ダマシオがまとめているのでそれを紹介する

ダマシオは、意識を覚醒・中核意識・拡張意識の3段階に分け、それに対応する自己(意識)を、原自己・中核自己・自伝的自己に対応させている。
自伝的自己は、ジェームズの「客我」として対象化された自己で、まさに清明な自我活動の証拠である。
そして覚醒はしているが、中核意識・拡張意識がともに作動していない重篤な意識状態として、「持続性植物状態」(無反応だが開眼し、睡眠覚醒のサイクルが見られる)、「欠伸発作」(てんかん発作における意識障害で姿勢は維持)、「無動無言症」(覚醒は認められるが、応答性がない)、「アルツハイマー病」(重症化するにつれ、自伝的自己→中核自己が順次消えて、最後は覚醒だけになる(=痴呆))を挙げている。
さらに覚醒と中核意識が作動していながら、拡張意識が作動しない(自伝的自己のみの障害)より軽度な状態として、「欠伸自動症」と「一過性健忘」を挙げている。
これらを見ても、意識のレベル1とレベル2は必ずしも連動しないことがわかる。

ではその逆の、”覚醒していない状態で意識活動が作動する”という(階層の逆)現象はあるのか。
むしろこちらの方が臨床的な問題はなく、健常者でも頻繁に経験している。
「夢」である。
私は、夢を、”睡眠中におけるかなり清明な意識活動”とみなしている。

夢は決して誰かさん(フのつく人)が唱えたような無意識の活動ではない。
もしそうだったら、覚醒後の意識(自我)が夢を”覚えている”ことは原理的に不可能である。
なぜなら、無意識とは、意識に上がらない心の活動をいうから。
そして無意識を意識化できるのは熟練した専門家の介入による精神分析療法しかないというから。
だから素人の我々が日常的に(睡眠中ならなおさら)、無意識を意識化することはありえない。

そもそも意識と自我(私)とは別の現象である。
夢はまさに意識が自我の制御から離れて自律的に活動している現象である。
夢を無意識側においやる発想は、自我と意識とを同一視している(意識を自我に矮小化している)ためだろう。

人間並みの自我が認められないたくさんの動物種においても、意識は間違いなく発生している(睡眠行動が観察されるならそれ以外は「意識がある」)。
すなわち意識の方が自我よりも発生が古く、活動域も広い。
なので自我は意識と同じでもその主人でもなく、意識活動の(進化的には最近の)一部にすぎない。

以上を整理すると、意識の”2”重性は、意識についての最小の分類数にすぎず、詳細にみるとダマシオの3種、多いと安芸の12種に達する。
私の「心の多重過程モデル」では、システム0、1、2がダマシオの3種にそれぞれ対応する。

安芸との対応では、システム0だけが作動しているのが意識水準Ⅰから Ⅶ(昏睡~中程度意識障害)まで、それに加えてシステム1が作動するのが水準Ⅷ(軽度意識障害)以降、それらに加えてシステム2が作動するのが水準ⅩⅠ(正常な意識活動)からとなる。
そしてダマシオや安芸の視野にはないシステム3(自極の極自我からの分離)は、安芸の12水準を私なりに拡張して、「意識水準ⅩⅢ(超意識清明)」すなわち”ハイパー意識”に相当する。

多重過程モデルでは、自我や意識だけでなく、心の機能(働きの単位)はみな多重過程を示している。

【参考文献】

・安芸都司雄 1990 『意識障害の現象学』 世界書院

・ダマシオ, A(田中三彦訳)  2018 『意識と自己』 講談社

・山根一郎  2020 「心の多重過程モデルにおける意識の多重性」 椙山女学園大学研究論集 人文科学篇(51) 87-98


”私”の二重性の心理学2:瞑想で体験すること

2022年10月03日 | 心理学

”私”の二重性の心理学1の続き

自我が「極自我」(経験主体)と「自極」(絶対主観)に分離できるのは、自極はそもそも自我に先行して出現し、動物レベルで実現している「システム1」において発生しているのに対し、自我は人類の心が「システム2」を創発させることで後から発生して、現生人類に至って自極と接合したからである。
すなわち、これら2つはもとより心を構成する別個の部品であるため、構造的に最初から分離可能なのである。

個体発生的にも、胎児・新生児の段階では、自我はほとんど未発達であるため(個体発生は系統発生を繰り返す)、しばらくは意識(覚醒)では自極のみが作動する(この期間の記憶がないのも、自極自体には記憶能力がなく、それが可能な(極)自我が未熟だったためである)。

ただ、すでに極自我が自極とうまく接合している(自我が健常に機能している)健常者にとっては、気づいた時からそれらが統合された”1つの”私として経験され続けてきたため、これまでの二重性の議論は経験外の話でしかなかったろう。

でもそのような健常者(一般人)でも、極自我と自極の分離、すなわち「”私”の二重性」を、健全性を保ったまま経験できる手法がある。
それが瞑想である。

ただ、瞑想にトライした人なら実感したと思うが、統合された自我のままで”無心になる”というのはかなり不自然・無理な営為である。
自我(システム2)のままで瞑想、すなわちじっと坐るだけで何もしない(すなわちシステム1を停止する)と、その制御の任から解放されたシステム2(自我)が自由気ままにさまよい出す(睡眠中の夢もこれ系の現象だと思っている)。
それを「マインド・ワンダリング」(心のさ迷い)という。
瞑想初心者は、このシステム2にプログラムされた「マインド・ワンダリング」と必死に戦い、それを抑止しようと苦闘する。
これが問題なのだ。

何が問題なのか。

前書『〈仏教 3.0〉を哲学する』の著者が指摘した問題として表現すると、瞑想は自我の束縛から自由になることが目的であるべきなのに、多くの人はその自我のままで素朴に瞑想していること。
自我の束縛から離れるには、自我とは別の”私”を実現する必要があるのに。
すなわち、素朴な瞑想では、たかだかリラックスできる程度が関の山で、本来仏教が目指す根本問題(自己を苦しめている自我)の解決ができない。

自我の束縛から離れた私とは、もちろん自極のことである。
自極は本来的に、極自我に束縛されない独自の運動性を持っていて、自極が極自我から離れられるのは難しいことではなく、安永が理論的に保証している(実は自極は最初から極自我とズレているという)。

私から見ると、普通の「マインドフルネス」をやっていけば自然に極自我から自極を分離できておかしくないのだが(だがそう指導している本はない)、この分離可能性がそもそも頭にない人は、却って自我※に入り込んでしてしまうのかもしれない。
※:極自我と自極が接合しているシステム2の状態を「自我」と表現する。

ここでは”私”の二重性体験の一番簡単なエクササイズを紹介する。
これは安永の「姿勢覚」のエクササイズ(マインドフルネスのボディスキャンに相当)を応用したもの。

まず、任意の姿勢で坐って閉眼する。
そして自分の主観点(自極)が自分の身体から離れて、天井に達し、天井から今坐っている自分を見下ろすことを映像的に想像する。
これだけ。

これは大げさに言えば、「幽体離脱」の想像である。
ポイントは、坐っている自分の身体感覚(それを感じているのは極自我)を維持したまま、天井から見下ろす視野だけをイメージする点(こちらの身体感覚は不要)。
すなわち坐っている自分(極自我)と、そこから分離して天井からその自分を見下ろしている別の自分(自極)を、同時・二重に経験することのシミュレーションである(注意:このエクササイズは一種の精神の分裂(統合の解除)・人格の二重化の体験なので、自我が衰弱している人はやらない方がよい)。

これが副作用なくできたら、瞑想時にこれを活用する。

坐禅なら、坐禅をしている自分と、それを眺めている自分とを分離する。
この同時性が”私”の二重性である。
この二重状態になったら、坐禅をしている自分よりも、それを任意の方向から眺めている自分の方に主体の比重を移していく。
坐禅という行為をしている方の自分(極自我)は呼吸や足の痛みなどの身体感覚もリアルに感じ、さらに雑念も湧いている。
一方、それを眺めている自分(自極)は、ただ眺めているだけで、それ以外の何もできない。
でも自己の比重はこちらに移っている。
すなわち、今メインになっている私は、坐禅をしておらず、足の痛みも感じず、雑念も湧いていない※。
※書いていて気づいたのは、入門的瞑想の数息観(すそくかん:呼吸を数える瞑想)も呼吸している自分(極自我)とそれを数える自分(自極)の分離の訓練になりそう。

この極自我(システム2の自己)と分離した自極が、システム3の自己だ。

私にとって瞑想とは、意図的にこの二重経験をする、すなわち通常の生活では達成できない、システム3の創発という”心の次なる進化”のほとんど唯一の営為だ。

瞑想とは、健常者が心の健全な状態を保持しながら、極自我と自極の乖離を、病的な解離(極自我の衰弱)の方向でなく、正常に機能する極自我からの超出(システム3)として経験する、画期的方法である。
このような経験をしない瞑想(もどき)は、例えば接合した自我のままで必死に無心になろうとしているようなものは、苦しいだけで瞑想に値しない。

実はかつて瞑想をする時、自分が瞑想した気になっているだけで、きちんと瞑想ができていないのではないかという懸念があった。

瞑想の師についているわけでもなく、また自分の内的状態を他者に説明するのも難しく、そして心理学をやっている手前、より客観的に瞑想の質を評価する方法を求めた。

そこで  Museというアメリカ製の4箇所からの脳波によるニューロ・フィードバック装置(タブレットに接続)を購入して頭につけて瞑想してみた。
この装置は、瞑想の熟達者たちの脳の状態をデータに、それらと同じパターンを示した場合に、鳥の声などで瞑想者にリアルタイムでフィードバックするものである。
※:昔は1箇所の脳波がα波であればいいという単純な装置ばかりだったが、その当時でも禅僧が瞑想中は前頭部からθ波が出ることがわかったように、脳波の状態も複雑である。
まず、一生懸命に無心になろう(α波でβ波の出現を消そうと努力)としても鳥は鳴かない。
また、睡魔に襲われてウトウトして努力なしで無心になっている時(θ波が出ている?)も鳥は鳴かない。
ところが、自我と極自我を遊離して、瞑想している自分を眺める状態になると、鳥の鳴き声が止まらなくなる。
かくして、私は Museのトレーニング課程を卒業した。

私は瞑想を自己目的化したくないので、必要以上には瞑想はしない。
瞑想はある意味、とても心地よいので、依存(現実逃避)しないためである。
もっと正直にいうと、私の日常は、思考や判断などシステム2を高性能に作動することが無限に求められるので(日常生活にはシステム1・2が必要)、瞑想をやっている暇がない。
それに自我の束縛に苦しんでいないので、瞑想の方を優先する理由はない。
やろうと思えばいつでも二重になれるし。

”私”を二重にできる瞑想は”今”をたっぷり味わえる。
今よりも過去や未来ばかりを気にしている極自我(現存在)から離れて、逆に”今”しか経験できない自極に浸っていると、”今”がどんどん細分化されていく。
そしてアニメでスムースな”流れ”に見える動きは、実はセル画間の非連続的連結によるものであるように、”時”それ自体も流れ(流体)ではなく、一定幅の時間単位が消えては現れる非連続的連結であることが実感されてくる。
仏教でいう「刹那滅」だ(これも諸法無我?)。

仏教は、頭(観念=システム2)で思考されただけの”思想”ではなく、瞑想(瑜伽行=システム3)によって(のみ)体験された現象を記述しているものであることがわかる。
時の”流れ”は、アニメと同じく、(極)自我の錯覚なのだ。

かように瞑想は、日常生活では素通りしている”今(刹那)”をじっくり体験する充実感に浸れる。

同じ二重性は意識にも→意識の二重性


"私”の二重性の心理学1:病理現象として

2022年10月03日 | 心理学

前記事(『〈仏教 3.0〉を哲学する』:”私”の二重性)で問題となった"私の二重性について、心理学の立場から解読する。

まず、アメリカ心理学の祖であるW.ジェームズにおいて、自我の二重性が説かれている。
ジェームズは自我(ego)を主我(I)客我(me)に分けた。

「私は〜だ」(I am  〜.)と言う場合の、「私」が主我で、その主我が自分だと認識している諸属性「〜」が客我である(I am me.)。
客我は主我が(認識)対象化した自我の構成分であり、主我は対象化する側の自我で、意識主体であり、これは意識対象化されない(といっても客我の根拠は主我である)。

客我は対象化された主我の(意識、思考、行動)の記憶的累積物で、心理学用語でいう自己概念、自己イメージ、アイデンティティ、自分らしさ等は客我を意味する。
なので質問形式の心理テストでの自己についての回答は、主我が認識している客我の内容である(投影法テストでの反応は主我の内容)。
アイデンティティがそうであるように、客我は主我にフィードバックされ、主我は客我と整合した状態であろうとする。

この主我と客我の二重性は、システム2の意識活動において容易に自覚されるものであり、これが哲学者や瞑想経験者が説明に腐心した”私”の二重性ではない
ただここから始めたのは、前書『〈仏教 3.0〉を哲学する』では”私”は本来は主我を指すべきなのだが、説明の一部に客我が混じっていたため、まずはこの区別から出発したかったのである。

言い換えると、通常、主我と客我の区別(客我の自覚)ができる人でも区別がつかないのが、前書の主題であるはずだった。

自我機能は人類において創発された心のサブシステムである「システム2」に至って作動する。
それは心の反応主体を自覚する機能である。
システム2の主役はこの自我であり、自我の主体は主我である(以後、客我は議論の枠から外す)。

その主我自体が、2つの機能体の合成であること(=”私”の二重性)は、通常は気づかれないが、自我機能の不全によって、それが顕在化することがある。
その微妙な二重性を病理の視点から理論的に明らかにしたのが、精神医学者の安永浩である。

彼は統合失調症者における、させられ体験、すなわち自己の背後から自己に行動を命令する力(声)を感じる状態を彼独自の「ファントム空間モデル」で示した(そのモデルの説明は省く)。
そのモデルによれば、自己、心理的には自我が、心的空間(こればこのモデルのミソ)を構成していて、その中に複数の自我図式群(身体図式の図式と同じく、図式という内実を備えている)があり、その中で体験起点に位置するのが(ジェームズの「主我」に相当する)「極自我」である。
極自我は通常は絶対主観点である「現象学的自極」(以下、自極)と概ね一致している(心的空間内で同位置。ただし健常者でも微妙にずれているという)が、たとえば統合失調症における「させられ体験」では、自極が対象(外界)側にのめり出ることで極自我と乖離し、自極にとっては背方の極自我からコントロールを受けている実感を覚える(図の「のめり体験」)。

極自我と自極の乖離は、健常者においても一時的な変調として経験できることを私は実体験した(右図そして以下は、著書『私とあなたの心理的距離』(青山社)より)。

「スピードを出して車を運転し、カーブを曲がったらその先に大型車が出てきた。 あわててブレーキを踏むのだが、車がスリップしてハンドルをとられる。「このままではぶつかる!」と思ったその瞬間、以下の体験した。
反射的に自分の心理的位置が、運転している自分から更に後ろに引き離れた。自分が後ろに退(ひ)きながらも、運転している自分は、頼もしくも危機回避行動反応(ハンドルを切る、ブレーキを踏むなど)をし、視線はもちろん前方を凝視していた。そして危機を脱すると 再びもとの状態に戻った。この間の出来事は一瞬(1秒前後)である。」

この現象は、その瞬間、自己が主観性を維持したまま、自極と(知覚・判断・行動主体としての)極自我の2つが分離し、自我分裂を生じるまでもない間に、元 の1つの主観に戻ったのである。
その瞬間は自我の分裂であるから、二重意識のような状態になる。
ひとつは危機に際して目を見開いて対処しようとしている意識(知覚内容はこちらのみ)、他はその現実に対して離人症的な距離感をもって上の自己の背後に隠れるという実感だけの意識である。
前者(リアルな世界に主体として 対処している自己)から後者(何もしない主観機能のみ)が分離したようである。
分離しただけであるから、前者の自我の行動も記憶も阻害されない。
といっても鮮明に体験したのは、一瞬の自我の分裂感、その瞬間生じた異様な「すき間」である。
この時は、あまりに突発的な危機のため、情動反応は間に合わず、情動的パニックとは正反対の、情動が凍り(フリーズ)、一見冷静ながら、実は自分に対して無責任になっているような状態だった。
これは死に瀕するほどの強い刺激を外界から受けた場合、その体験強度を弱めるために、自極が行動主体である極自我の背後に逃げ込んで(図の「退き体験」)、心的空間内のバッファ(余裕)を取ろうとしたものと安永理論的に解釈できる(この反応のより強い形態が”失神”という自我のシャットダウン)。

ついでに、分離した2つのどちらがより自分自身に近いのかと問われれば、迷うことなく退いた自極の方を選ぶ。
運転していた極自我は、危機回避のための心身の反応図式を所有している主体であり、その時の内的・行動的状態を反省(図式対象化)できる。
それに対して「退いた」自極は図式とえる中身をもたない。
その自極は時として自我図式空間の中さえも移動する究極の我(コギト)である
※:生命の危機に瀕する時に、懸命に事態に対処している自分(極自我)とそれを無責任に眺めている自分(自極)とが分離することは、2015年新幹線放火に遭遇した時にも経験した。

この自極と極自我との分離は、安永が説明した統合失調症だけでなく、失神を含んだ解離性障害(古い表現だと「ヒステリー反応」)においても異なる様相で発生するといえる(これを記述するのは本記事が初めて)。
まず解離性健忘・解離性遁走のようないわゆる「記憶喪失」・「蒸発」は、心因性の力によりかつての極自我が自極から離れて、その自己としての内実が自極に把握できなくなった現象と説明できる。
つまり自極は明晰に覚醒して、世界との前面に位置しながら、私としての内実(アイデンティティなどの記憶内容)が離脱しているため、極自我にもとづく対応がまったくできなくなっている状態である。
このような大きくしかも持続的な乖離は、私が経験したような瞬間的な自我の変調(最も軽微な変調症状は「離人感」)とは異質の病理現象である。
※:離人感は統合失調症と解離性障害に共通する症状で、私は小学校6年の夏祭りの場で初めて経験した。ちなみに私は2つのどちらも発症していない。

ただし、あくまでシステム2レベルの自我乖離であるため、システム1における、無自覚的に反応できる生得行動や学習行動との関係は支障がなく、言葉も普通にしゃべれるし、習熟したピアノを弾けてもおかしくない。
すなわち自我乖離はあくまでシステム2における自我内の乖離であり、他のサブシステムおよびそこと自極との間は問題ではない。

さらに解離が重篤な解離性同一性障害(多重人格)は、極自我が複数発生し、それらが交代で自極と接合するようになった異常状態である。
自極と接合可能な複数の極自我が、それぞれ固有(別個)の内実(性別、年齢、パーソナリティ、記憶)を保持している(客我も異なっている)。
またそれら複数の極自我の間で自極との距離(接合しやすさ)に差があり、もっとも接合しやすい極自我が”主人格”とされる。
ただし自極と極自我との接合・乖離の動きの主体は、現在において任意に可能ならば、自極が主体といえるし(自極は心理作用は持ちえないが)、勝手に人格が交代するならば、極自我間の力関係に依存しているといえる。
※:自極と極自我の分離現象を”乖離”と表現し、それが障害となる場合を”解離”とする。

このように極自我と自極の一体性が阻害される病理現象(乖離→解離)が存在し、それらは健常者にとってはすこぶる異様な自我障害の様相を呈する(その意味では、以上の”私”の二重性についての心理学的説明も了解しにくかったかもしれない)。
だがたとえ病理的であっても、これらの現象から、自極と極自我は分離可能であることには変わりなく、それは人の自我のあり方の可能性を示している。

そして、この現象を非病理的に、自我の行き詰まりを打開し、自我からの束縛を解放する、すなわちシステム2の限界を突破するために積極的に活用しようとするのが、瞑想である(すなわち前書の主題)。
瞑想は既存のシステム2による黙考や単なるリラックス法ではなく、心の多重過程の進化を引き出す画期的な心の開発法なのである。


夢の中で想像したら

2022年09月30日 | 心理学

夢は、(私の「心の多重過程モデル」によると)システム2のイメージ表象能力の自律活動である。

今朝見た夢で、学生時代の友人と車でドライブ中、ある名所(実在しない)に達した時、道が以前訪れた時(という夢の中での記憶)と状態(道幅や舗装状態)が異なっている事に、困惑した。
※:夢には夢固有の記憶の世界があるのかもしれない。もしかしたら一つ前の夢(この夢によって記憶が上書きされた)の内容かも。

それでもその名所に達し、次に駐車スペースを探して、周囲を走行した。
その名所自体も様変わりしていて、以前とは違う状態だと思った(荘厳な雰囲気は変わらず、深い色彩に満ちていた)。

その途端、風景がその以前の状態に様変わりした。

そうなると駐車スペースも違う場所になり、さらに車の走行が続き、
この変化を幾度か繰り返し、車を止められないまま、夢から覚めた。

目覚めて実感したことは、夢の中でイメージ表象とすると、それが夢の情景として”実現”したということ。

イメージ表象(夢の中の記憶象の再生)が夢の中で世界化※する現象を目の当たりにしたのは初めてだ。
※:渡辺恒夫『人はなぜ、夢を見るのか』(化学同人)による。世界=自己の外界。

夢での風景の変転の様相が一般的に覚醒時と異なって、急激(非線形的)なのも、このようにイメージ表象が”世界”化するためかもしれない。
すなわち夢の中での”想像”も夢の”世界”も、ともにイメージ表象という同じ心理作業であるために、想像の世界化がたやすく実現するということか。

ただし、事はそう単純ではなく、この夢でも最初の道の状態については、以前の道は世界化しなかった。
それに、私がよく見る夢(回帰夢)で、使用したいトイレ(大用)を求めて、トイレがずらりと並んだ施設内を探し回るのだが、その時は使用したいトイレはまったく明確にイメージ表象していないためか、世界化してくれず、結局毎回、求めたトイレを見つけられずに、現状のトイレで妥協する結果で終る。

夢自体がシステム2のイメージ表象能力に依るものだが、夢の中でのイメージ表象が世界化する場合もあれば、しない場合もあることになる。
しかもそれを(夢を見る側の)自我は制御できない。

このシステム2(≒意識)における非自我部分(夢を見させる側)の正体を探っていきたい
※:今までシステム2を自我機能中心に説明してきたが、自我は心どころか、自らが属するシステム2の主人でもないようだ。
この非自我部分は、フロイトが”無意識”とした部分だが、自我主導の”意識”よりも発生的に原始的な心(無意識)はシステム1(動物と共通)であり、システム1にはこのような高度な創造(物語化)能力はない。
すなわち、意識/無意識の古典的2元論は単純すぎるのだ(意識以外の心の部分は複数存在する。ユングはこの方向性に進んだが、2元論からは脱せなかった)。
むしろこの部分の物語化能力が、自我の思考を背後から制御している可能性がある。


易の心理学4:易が当たる本当の理由

2022年09月21日 | 心理学

易の原理についての心理学的説明は、ユングによるものが唯一であった。
なので易についてユングの「集合的無意識」、「共時性」、「元型」などの概念を使って理解されていたのは前述した通り。

では、これで「易の心理学」を終えていいのだろうか。
心理学に期待した説明として、ユングでいいのだろうか。

なぜなら、ユング心理学って、正統(アカデミック)な心理学においては、フロイト理論以上に、怪しげで、オカルト的とすら思われているから(ユング自体が心理学より占いに近い?)。

私自身、ユングは好きだが、彼の心理学理論を信じているわけではない。
私が彼の理論を扱うとすれば、学術的視点ではなく、あくまで面白半分によるものである。

なので、易が「中(あ)る」説明としても、共時性・集合的無意識などの概念を使わず、スピリチュアル臭を一切排除して、科学的心理学の視点で考えてみたい。
※:易では、当たることを「中」と記す。

昨年末の「冬至の年噬」で、私は2022年を占った。
すると「天水訟」の卦が出たので、2022年は「争いが起きる」と理解した。
果たして、2022年2月、ロシアがウクライナに侵攻し、その争いは今でも続いている。

これを「中たり」としてよいか。
当人はそうしたい気持ちで、やっぱり易はすごい!と思いたくなる。

易占を含めて、占い一般が当たったかどうか、どう判断するのか。
前回の説明にあったように、占いの宣託、例えば易経の記述は、メタファーとして解釈すべきものである。
易経の記述をメタファーとして理解するには、占的としている事象から、そのメタファーが当てはまるものを探してこなくてはならない。
すなわち、易占が中っているものを、占的の中からあえて探して当てはめる、というのが「解釈」なのである。
メタファーであるため、解釈の自由度が高く、大抵当てはまるものが見つかる。

つまり、「中たる」のではなく、メタファーを都合よく解釈して1対1対応にもっていって「中てる」のだ。

なので、ロシアのウクライナ侵攻がなくても、別の身辺の争いごとを探して、「ほら中たった」と言うことは大いに可能だ。

このメタファーの効果を、心理学の中から探せば、血液型性格論が流行している理由の説明に使われている「バーナム効果」に近い。
すなわち多義的に解釈できる言明(どの血液型の人間にも当てはまる内容)をすれば、人は「中たった」と思う。

ただ血液型は4通りしかないが、易は大成卦が64通りある。
当たる確率からして易の方が断然不利だ。
なのに易がその力を失わないのは、易経が優れているためだ。
すなわち64通りのどの結果であっても、生き方の指針として間違っていないので、結果的に「中たる」ことになる。
だから、昔の私がそうであったように、易占をせずとも易経を読むだけで生き方の指針を得た(易経は儒教経典”五経”の筆頭に挙げられているが、儒者は筮竹さばきの習得まで求められてはいない)。
すなわち、卦の数が多くても、そのいずれもがそれなりに効果がある内容という点が易固有のアドバンテージといえる。

なら易占は不要か。
以前、室内での失せ物が一向に見つからず、もう自分で探す場所がわからないので、易占に頼ったことがあった。
出た卦は「雷沢帰妹」で、今までのやり方を変えろと言うメッセージ。
それを受けて、頭を切り替えて、今まで探さなかった場所を探したら、すぐに失せ物が見つかった。

占いは、自分とは独立して別個の判断をしてくれる貴重な他者なのだ(ただし六曜のように機械的な判断しかできないものは不要)。

もっとも、荀子が「よく易をおさむる者は占わず」と述べたように、易経が頭に入っていれば、今どの卦の状態かがおのずと判り、あえて占筮する必要もなくなる。

以上、共時性も集合的無意識も使わずに、バーナム効果というアカデミックな心理学概念だけを使って説明してみた。
これで易の実際が説明できたなら、「共時性」をもってくる必要はない。


易の心理学3:易は元型システム

2022年09月20日 | 心理学

占筮をして卦を得たら、『易経』を開いて、その卦に対応する箇所の説明(卦辞と爻辞)とその注釈(彖伝、象伝)を読む。

ただし、例えば「乾為天」の卦(6爻とも陽)の爻辞には竜がどうしたこうしたと書いてある。
別に竜について占ったわけではないのに…。
これをどう捉えればいいか。
これが今回のテーマ。

さて、前回のユング理論の「集合的無意識」(サイコイドを含む)の話の続きから始める。
ユングによれば、集合的無意識を構成しているのは、具体的事物の”本質”であるという。
それは事物を理解する枠組みであり、意識が未発達だった古代人は、集合的無意識によって事象を理解したようだ→意識は3000年前に誕生した?
この集合的無意識を構成するそれをユングは「元型」(アーキタイプ)と命名した。

元型は、意識においては特定のイメージとして表象される(ただし意識はその正体を知らない)。
古代人がよくイメージした元型としては、シャドウ(生きられなかったもう別の自己。自己の暗黒面)アニマ/アニムス(自己と統合されるべき内なる異性。男性内の女性がアニマ、女性内の男性がアニムス)老賢者(内なる知恵)グレートマザー(母なるもの:生産と保護、束縛と捕食)などがあり、これら元型は各地の神話の登場人物としてイメージされ、物語化されている(現代の神話「スターウォーズ」においても)。

そして易を「事物の本質を象徴的に呈示する元型イメージによってのみ構成されたシステム」であると言ったのは思想家(ユング心理学者ではない)の井筒俊彦である。
井筒によれば、八卦という状態の基本型はまさに元型であり、64卦は元型の組み合わせということになる。

集合的無意識は(意識のような)言語を持たず、シンボル(象徴)とそのイメージで構成される。
シンボルとは元型のメタファー(隠喩:比喩と明示せずに言い換える)として可視化されたものである。

なんと、易はユングに言われずとも、自らのシステムをシンボルとイメージからなっていることを表白している。
すなわち「易とは象(しょう)なり。象とは像なり」(繋辞下伝)と。

象はシンボルであり、像はイメージである(三浦)。
なので「易はとシンボルであり、シンボルとはイメージだ」と言っていることになる。

易における象(シンボル)は、陰陽の組み合わせ、すなわち卦(=元型)をいう。
そして像(イメージ)は、象(卦)の具体的な形象をいう。
例えば、「乾為天」という象(シンボル)においては、竜が像(イメージ)となっている。
※:実は竜は元々は天(乾)の気のイメージである。鯉が天に上がったのが竜である。

易占は、偶然に出た卦(象)と、占的となる偶然の事象との間に”意味ある一致(共時性)”を得たものである。

ということは、卦として説明されている象および像は、占的となる事象のメタファー、すなわち卦と占的の二つの偶然の一致する部分(共通性)の表現である。

ということなので、「乾為天」と出たら、そこで言われている”竜”は、占的(占いの対象)の何をイメージしたものかを読み解かなくてはならない(当然、竜が意味するものは個々の占的によって異なる)。
それが占者の仕事であり、能力を要する部分だ。

実用的に言えば、そのためには筮前の審事の段階で占的についての情報を幅広く収集しておいた方がよい。
また像が暗示するものを柔軟にとらえる連想力(一見無関係のものの間に共通点を見出す能力)が必要である。

ユング系の心理学者である定方は、占者は易の啓示を読み解くシャーマンとしての役割であるという。
ただ、そのための特別な修行は必要ないというが、私から見れば、自分のサイコイド(内気)による(外気との)共時性を引き出すパワーは必要と思えるので、占者の内気のパワーアップはやっておいて損はないと思っている→サイキック・パワー講座1

参考文献
三浦國雄 『易経』 東洋書院(易学研究側からユング理論を評価、また「易の元型イマージュ」(井筒俊彦)所収 )
定方昭夫 『「易」心理学入門—易・ユング・共時性—』 たにぐち書店

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易の心理学2:ユングの共時性

2022年09月19日 | 心理学

一般的に心理学と占い(易を含む)は水と油の関係だが、易と真剣に関わった心理学者がいる。
C.G.ユングである。

彼は生物学主義のフロイトと違って、ヨーロッパ伝統の”人文主義者”を彷彿とさせるほど歴史文化的知識が広く、さらに東洋思想にまで接近した。

その流れで、R.ヴィルヘルムによる欧州最初の易経翻訳本の序文をユングが担当し、そこにおいて易の原理を彼の心理学理論で説明した(ユング 『東洋的瞑想の心理学』(創元社)所収)。

言い換えれば、3000年の易の歴史において、著名な心理学者が易の原理を理論的に説明した唯一の例である。

そもそも、ユングがフロイトから継承した深層心理学のキーワードである「リビドー」について、ユングはフロイトの汎性欲主義を容認できず、より幅の広い、生命エネルギー的なものとみなした。
人の心の奥底にある生命エネルギーという発想は”気”そのものである(気の方がより心身一元論的)。
以上からも、ユングが気の思想に接近するのは当然といえる。

ただし鍼灸や漢方と違って、易が扱う”気”は内気(生命エネルギー)ではなく、外気である。
すなわちリビドーで説明できるものではない。

そもそも、易が3000年もの命脈を保っているのは(古代の他の卜占などはとうに廃れた)、それが占いとしての価値が色あせなかったからである。
要は当たるからだ。

なぜ易が当たるのか、それは易に携わる人たち、あるいは易を思想的に論じる儒者や道家にとっても、易の神(しん)※のなせる業としか言いようがなかった。
※:特定の人格神ではなく、易の神秘的な力そのもの。
易の卦の解釈は、鍼灸や漢方あるいは手相・顔相のように経験的な蓄積(帰納法的)によるものではなく、あくまで理論的(演繹法的)な説明でしかない。
何より、筮竹を手で分けた数の偶然によって卦が決まる。

そもそも、占いには、人の在り方は生まれた時から決まっているという宿命論と、偶然に作用されるという運命論とがある。
前者には星座(誕生月日)や手相などがあり、後者には易やタロット(オラクル)などがある。

宿命論は、人の運命を既定のものとみなし、運命論は、偶然に左右されるので、その時に見ないとわからないとする。

宿命については仮に星座や手相でわかるとしても、偶然の作用はどうやって知ればいいのか。

偶然は、通常の知性(確率論)にとってはランダムな事象なので、予測不能である。
人知を超えたレベルで接近するしかない。
人知(意識)を超えたレベルとは、ユングにとってはまずは個人的無意識。
だがそこは意識が抑圧した掃き溜めの場で、ドロドロした感情こそあれ、意識以上の知は存在しない。
個人的無意識のさらに深層にあるとユングが主張しているのは集合的無意識

集合的無意識は、個人を超えた共同的無意識の世界で、時空を超えた人類に普遍的な心の部分であるという。

個人を超えた心という点で、集合的無意識はトランスパーソナル心理学の理論モデルに取り入れられる(トランスパーソナル心理学を構想したのはマズローだが、理論に貢献しているのはユング)。

通常は集合的無意識が最深層として紹介されているが、ユングは晩年において、集合的無意識の奥に類心的レベル(サイコイド)というレベルを追加したという(プロゴフ『ユングと共時性』)。
そこは身心のみならず心と物質が未分化な状態だという。
中国の”気”はまさにこのレベルの現象で、気は身心一元どころか、世界を構成する宇宙エネルギーである。

人知を超えたもの(力)はここに存在しうる。
精神分析(深層心理学)の常として、人は自分の無意識に存在するものを内部に認めずに外に投影するという。
その力が外なるものに投影されて、例えば神(しん)、道(タオ)と概念化される。

サイコイドは、外界の物質世界とも関係するので、偶然の一致を引き合わせる共時性(シンクロ二シティ)は、このレベルの力において実現する。

すなわち運命という偶然は、占筮(筮竹を割って占う)という偶然によって(のみ)知ることができる。

これがユングだけが説明できる”易の原理”だ。

なので、私は占筮するとき、筮竹を右手で割る(卦が決まる)瞬間は、意識を無にして、無意識に任せることにしている
※:朱子は占筮する時の神に問うセリフ(問法)を制定したが、自己の無意識に向かってあえて問うことは不要といえる。

では、出た卦をどう解釈するのか。
易経に記されていることをどう読むか。
ユングによる易経の解釈は次の話で。


易の心理学1:易とは

2022年09月18日 | 心理学

我が勤務先の大学に「易学研究会」というクラブがある。
易学だけでなく、タロットを含めた「占い」を習得し、自校の大学祭だけでなく、他校にも出張して活動している。

私はそのクラブの2代目の顧問を担当しているのだが、このクラブを作った先代の顧問によると、このクラブは学部内の心理学教員からはすこぶる評判が悪かったという。

心理学側に立てば、科学を目指す心理学にとって、非科学的な占いは、近づきたくない相手である。
というのも、町の図書館では、図書分類の順番によって、心理学関係の本の隣に占いの本が並んでいるから。
心理学にとっては、占いと同一視されることは甚だ迷惑である。

ところが、その心理学者の一人である私は、占いには関心なかったが、岩波文庫の『易経』(上下二巻)を好んで読んでいて、易占をせずとも、易経から得るものを感じていた。
そういうこともあって、先代の顧問が退職する折、学部内で唯一「易」に肯定的な私が次の顧問を頼まれた。

実はちょうどその頃、私自身の心理学において「心の多重過程モデル」を構築していくうち、最高次の過程として、自我を超越したトランスパーソナルの領域が射程に入り、私は自分の心理学の方向として、易に接近しようとしていた(易がトランスパーソナルと繋がる話は後日)。

こういう”意味ある偶然の一致”(シンクロニシティ)こそ、運命のなせる技である。

ここでは表題通り、易を心理学的に解読したいのだが、その前に準備として、易そのものを説明しておく。

(えき)は、伝説によれば中国の古代王朝ごとに成立し、現存しているのは周の時代に整備された「周易」である(夏王朝の連山、殷王朝の帰蔵という易は伝わらず)。
それによれば周易(以後、易)は3000年前に成立したわけで、仏教や儒教よりも古い。
仏教を興したインドの釈迦は「諸行無常」を唱えたが、その500年前に、すでに易は世の中が固定ではなく変化することは前提としていて、問題はどう変化するかだ、ということで、その変化の様態をパターン化したのである(易経の英訳名は「Book of changes」(変化の書))。

周を理想とする孔子はもちろん易に親しんだという(易の注釈「十翼」を著したというのは伝説)。

易は、この世(宇宙)を構成する陰陽の2気(その起源は太極)の関係状態を見出し、その状態によって世の事象の動向を占うものである。
※:宇宙を構成する4つの力の1つである電磁気力のプラスとマイナス、 NとSは陰陽2気の現れといえる。
宇宙開闢という最初の現象(ビッグバンに相当)である陰・陽の2気(1ビット=2の1乗)の誕生(両儀)は、太極(元宇宙)が相反する性質に分化したのもので、陰陽は性質的には対立しながら、循環し和合する性向をもつ☯。
さらにその両儀が重層化、すなわちビット数を増やして複雑化し、四象(2ビット=2の2乗)を経て、八卦(3ビット=2の3乗)となって、事象の基本状態となる。
さらに八卦(か)が上下に重なった大成卦(6ビット=2の6乗)の64卦で、世の事象の変化状態を隈なく説明できるという(各卦の6爻位を含めると64×6=384状態)。
このようにデジタル・コンピュータと同じ原理によるこの世の変動理論が3000年前に成立したのである。
この易こそ中国思想の根源で、むしろここから儒教や道教が分化したともいえる。

易はその後、漢の時代に数合わせや五行思想と融合し、表面的な神秘化という通俗化(おみくじ化)が進んだが(この系譜は今でも続いている)、三国時代(魏)に王弼(おうひつ)が出て、漢易を批判し、易経を深く読んで、生き方として易を解釈する義理易を打ち立てた(この義理易は宋代の朱子に受け継がれる)。
日本でも、易を政治や生き方の指針とする人たちが輩出するのは、この義理易の系譜であり、私も当然、義理易に立つ(以後、説明は義理易に準拠)。

易の基本的態度を紹介する。
●「楽天知命」(天を楽しみ、命を知る。故に憂えず)
まず聞いたことある企業名を連想するが、実際企業名を易経から採用する所は他にもある(資生堂)。
運命を受容し、それに悩まず、与えられた状況でベストを尽くすにはどうしたらいいかを考えればよい。

●一陰一陽これを道と謂う。これを継ぐものは善なり。これを成すものは性なり。
※:道教の道(タオ)と理解してよい
陰陽の気が循環し合う道(卦)を知り、それに則ることが善であり、それを実現できる能力を人はもっている(易にとって善とは、不自然な作意ではなく、宇宙法則(道)に合致した自然なものである)。

●運は固定ではなく、変化する(同じ運は続かない)。その変化のタイミングを見極めることが大切。

●陰陽のバランスが最適。
・陰/陽の極端は良くない。
 陽に乗じて突き進むと、思わぬ落とし穴にはまる。
 陰に屈して何もしないと、運気が変わっても何もできない。
・陰陽相反するものを内包しておく(たいていの卦は陰陽どちらも含む)。
 言い換えれば、葛藤・矛盾があるのが本来的状態(存在は論理とは異なる)。
 どちらの変化にも対応できる。
・人間の内気(ないき)も陰陽のバランスが健康の素(覚醒と睡眠、運動と休息、交感神経と副交感神経、動脈と静脈)。
・そして易の思想態度においても儒教(陽)と道教(陰)のバランスを保ちたい。
 堂々と自分の意思を貫く陽徳と、自分を抑えて他者に譲る陰徳のバランス(易の徳)が必要である。


思考に支配されない心

2022年07月25日 | 心理学

現生人類の少なからずが、思考の呪縛(マインドコントロール)を受けやすいことは、宗教原理主義や過激思想に人生を預ける人だけでなく、振込め詐欺に簡単にひっかかる人を見ても明らかだ。

それは現生人類が獲得したシステム2の高度な思考・表象活動に由来する。
本来は、思考は経験事象の解釈・推論活動に使われ、表象は記憶象の再生に使われるものだが、それだけでは終らずに、現実経験の処理から逸脱することが可能となった。
すなわちありもしない事を”空想”すること。
これは人類に固有の創造能力でもある。

人類はこの方向に魅了され、芸術を誕生させた。

人類はこの創造能力を使って、現実の意味を再構成して物語化してきた(個体発生的には、幼児期に自発的にやりだす)。
かくして思考は、その理想型である「数学」のような厳密な論理操作で個人差なく一義的な解に導かずに、なんとでも好きな方向にもっていける。
偶然に作られたインクの染みが特定の意味ある図像に見えるように。
その物語能力は、辻褄が合えば信じてしまう思い込みを生む(論理の誤用だけの問題ではなく、それを支える感情の問題でもある)。

システム2はそれ自体が洗練可能なので、システム2自身による思考癖(バイアス)の改善は可能だが、そもそも思考癖それ自体が自覚されにくい(思考バイアスのリストを作って人々に自覚させるのが心理学というシステム2活動)。

このような思考に支配される根本原因は、思考を可能にするシステム2が心の最上位に位置しているためだ。

確かな解決法は、思考に距離をおき、思考に支配されない心の育成だ。
そのイージーな方法は、システム2(思考)を停止して、より低次のシステム1(習慣)を最上位にすることだが、そういう退歩はかえって弊害を大きくする(思考は必要だ!)。

望ましい方向は、システム2より高次のサブシステム(システム3)を作動させること。
このシステム3は、システム2が作動できる現生人類は作動可能であることが歴史的に保証されている。
ただし日常的に経験されていないため、たいていの人は作動したことがなく、その方法も知らない。
システム3は生存に必須のものでなく、また作動の負荷もすこぶる高いためだ(ということは、現生人類のほとんどは思考に支配されてしまう)。
※:しかも他者から吹入された思考

システム3のもっとも効率的な作動方法は瞑想である。
明晰な覚醒状態を維持したまま、システム2の通常の活動(思考・表象=想念)を停止してみるのである。
といっても一気に無念無想になることは、慣れ親しんだシステム2の活性からして困難である。
まずは無制御の雑念状態から一念状態に想念を制御的に絞る。
すなわち、呼吸に集中してその数を数える「数息観」(すそくかん)という入門的な瞑想法だ。

初心者は呼吸に集中しようとしても、それ以外の雑念が湧いてくるだろう。
その雑念を無理に抑圧しなくてよい。
自我の意図なく勝手に沸いてくる想念に集中せずに、呼吸に集中しながらそれと距離を置き、眺めるだけにすること。
すると相手にされなかったその想念は去っていく。
次の別の想念がやってくるだろうが、同じように対処する。
思考は自我とは別の存在であることを経験するこの距離化が、自我が思考に支配されない重要な第一歩となる(思考の映像化である夢(NECA)も自我を支配するが、自我が目覚めることによってその支配から脱している。だから夢は忘れてよい)。

マインドフルネス瞑想が、認知行動療法に使われるのも、これが理由だ。
瞑想法のより詳しい記事→瞑想のすゝめ


自我非制御の意識活動

2022年07月24日 | 心理学

私の「心の多重過程モデル」でシステム2(自我・思考機能)を考えたい。
心を構成するサブシステムのうち、システム0は恒常性維持、システム1はより能動的な環境適応(行動)を担い、そして現生人類で発達したシステム2は、内的処理過程が外界刺激処理から自律できるようになった。

システム2はこの自律主体としての自我も誕生させたが、自我は自らが居るそのシステム2の完全な主人ではない。
すなわち、自我は”心”の主人でないことはもちろん、”意識”(システム2)の主人でもない。

脳には覚醒時の何もしていない時に作動する、デフォルトモードネットワーク(DMN)があることが発見された。
覚醒下で意識活動が休止している時に作動するネットワークであるため、この名がついている。
※:覚醒は”意識がある”状態、意識活動は意識が何ものかに向かっている状態。
これはシステム1が作動する外界の処理や身体活動時ではないため、システム1に対応する反応ではない。
認知症患者はこの活動が低下し、逆に幻覚などの症状を示す統合失調症患者はこの活動が亢進するという。

ここでは自我活動(明晰な意識活動)が休止状態でも作動する意識活動を問題にする(これがDMNに対応するかは不明)。
この現象をきちんと概念化して、ここでは「システム2の非自我活動」、より一般的に「自我非制御の意識活動」(Non Ego-controled Conscious Activity:NECA)と命名する。

このNECAの典型は夢見(睡眠中の非病理的幻覚)であるが、多くの人は(フロイトなどの影響で)夢見は意識(システム2)ではなく無意識(システム1?)の作用と思っていて賛同を得がたいので、ここでは、入眠時幻覚に近い、覚醒と睡眠の境界状態での意識経験(開眼夢、半睡、夢うつつ)を挙げる(→夢:表象と自我の分離現象)。
すなわち、覚醒時の自我活動が低下している状態で短時間に経験する、自我の制御外の意識現象(情報精細度の高い視聴覚表象経験)である。
これは居眠り時に時々発生する現象で、能動的なイメージ表象活動ではない、自我にとっては受動(非制御)的で、また知覚に近い高精細なイメージ(視聴覚)経験である。
私はこれらを幾度も経験しているので、自我非制御の思考・表象活動を確信しているのだが、未経験者には納得しがたいだろう。

でもこれほど強い非自我性でないが、瞑想にトライしたことある人なら、思考やイメージ表象が自我の制御下に収まらない状態(マインドワンダリング、モンキーマインド)は経験したはず。
すなわち瞑想に入ろうとして、思考やイメージ表象を自我が抑えようとしても、思考やイメージ表象がその制御に逆らって湧き出してくるのだ。
システム2の本体ともいえる思考・表象機能は、自我の活動から独立できるというより、本来は独立しており、むしろその制御を試みる自我機能が後から誕生したといえる(後からやってきて主人づらしている)。
こう考えると、「意識(自我)は3000年前に発生した」という説とも整合できる(→紹介記事、ただし、記事ではシステム2における意識と自我とを区別していない)。

たいていの人は自我が思考を制御していると思い込んでいるが、実は思考が自我を支配している、というのが仏教や認知療法の見解である。


夢:表象と自我の分離現象

2022年04月04日 | 心理学

夢=非合理的という偏見」の記事で、夢を見させる主体は何なのか、が問題になった。
これを私の「心の多重過程モデル」で説明したいのだが、理論を元に現象を整合的に説明するという理論側に偏した記述をするより、まず現象をきちんと捉え、それを論理的に説明(理論化)する、という手順を踏みたい。
※心の多重過程モデル:”心”を以下のサブシステムからなる高次システムとみなす私のモデル
システム0:覚醒/睡眠・情動など生理的に反応する活動。生きている間作動し続ける。
システム1:条件づけなどによる直感(無自覚)的反応。身体運動時に作動。通常の”心”はここから。
システム2:思考・表象による意識活動。通常の”心”はここまで(二重過程モデル)。
システム3以降は本記事の問題には関係ないので省略。

そこで、夢という意識現象を、現実との対比だけでなく、空想との関係も考慮し、さらには、覚醒と睡眠、夢見との移行段階の諸現象(開眼夢夢うつつ半睡)を材料に、捉え直してみる。

【夢になる瞬間】
覚醒から夢見に至る境界領域に着目し、意識的なイメージ表象が夢になる瞬間を捉えてみよう。
①知覚(像)が夢に転換する瞬間
居眠り時、”夢うつつ”状態になると、知覚像(たとえば本の文字面)が、それとは無関係な映像や音に切替わる。
同じ居眠りでも、開眼したまま夢を見る”開眼夢”状態(経験者は少ない)では、眼前の現実の風景に夢の像が重なる。
両者に共通するのは、夢の映像は、覚醒時のイメージ表象(想像)と違って、現実の知覚に匹敵する精細度があるため、そのリアリティ(現実感)に吸い込まれるが、静止画的で短時間で終わり、すぐ覚醒に戻ることである。

②空想が夢に転換する瞬間
こちらは毎晩の入眠時に経験できるかもしれない。
寝床について照明を消し、目を閉じ、感情的に興奮しない静謐な情景(人物がいてもよい)をイメージ表象(想像)する。
だんだん眠くなっていくと、イメージ表象が消えて睡眠に入ることの方が多いが、時折、そのイメージ(たとえば人物)が(自我の制御を離れて)自律運動を始める場合がある。
これが想像が夢に転換した瞬間だ。

以上の①②は、寝入りばなの浅い睡眠時に経験するもので、この転換過程だけで終わり、転換後に夢がさらに進展することはない(この経験に驚いて目が覚めてしまう)。
すなわち、夢イメージは、ダイナミックさも内容もないため、記憶に残らない。

この夢を見ている時、自我は夢をただ見ている(眺めている)にすぎず、夢の中で行動しない。
そのためこの種の夢は、ほとんどの夢理論で無視されているが、一方で「ノンレム睡眠で見る夢」と位置づけられて、それ以上の言及はない。
この浅い睡眠時のストーリー性のない夢を”夢1”としておく。

【自我を巻き込む夢】
たとえば朝目覚める直前に見る夢は、劇的なストーリー展開があり、自我(夢主)がそのストーリーに積極的に関与している(ストーリーの主人公になっている)。
巷間の夢理論が題材としている夢で、このような夢を”夢2”としよう。

ということで、私は夢を上の夢1と夢2の二種類に分類する(夢1を含めることが私の特徴)。

まず、夢1と夢2の共通性、すなわち夢の”本質”を捉えてみる。
夢(夢1と夢2の総称)は、ともに覚醒時の自我の能動的なイメージ表象(想像)とは異なり、自我の制御外で発生する。
自我が構成したのではないという意味で自動的な表象現象である。
ここが夢理解の出発点である。
また、現実と見まがうほどの高精細な表象である点も、覚醒時のイメージ表象と異なる。
たとえば、覚醒時にある楽曲をイメージ表象しても、それは音としては鳴っていない(比喩的な表現だが、頭の中で記憶の再生として鳴っているのであり、耳元でリアルな音として鳴っているのではない)。
ところが、夢となると、音が(耳元で)鳴り(聞こえ)、それまで聞こえていた環境音をマスクする。
こう断言できるのも、覚醒とダブっている過程の夢1の経験をしっかりとらえることで、その精細度を知覚像と比較できたためである。

自我が能動的に表象するのではなく、自我の意図とは無関係にリアルな精細度で表象され、自我はそれに受動的に対応するしかない。
これが夢である。

次に夢1と夢2の相違点に注目する。
夢1で経験される表象は、精細度が高くても、短時間でストーリー展開がなく、意味に乏しい。自我はそれを眺め聞くだけである。
夢2はストーリー展開があり、夢主を巻き込み、夢主は夢の中で思考し、会話し、行動し、さまざまな感情を経験する。
すなわち夢1は知覚対象としての距離にあるが、夢2は夢主を巻き込んで相互作用する近さにある。

この違いは、それぞれを構成する主体が異なるためといえる。
夢1は知覚像の記憶をもとにした(不正確な)再生ともいえ、それだけならシステム1で可能。
夢2は現実体験に基づかない物語化であるため、システム2の創造能力を必要とする(システム1では無理)。
動物も睡眠中に夢を見て不思議ではないが、システム2が発達した人類の見る夢(夢2)と、システム1中心の他の動物の見る夢(夢1)に違いがあるはず。

夢が自我と分離した表象現象というなら、分離した非自我は何か。
夢1ではシステム1という元より自我とは別の心のサブシステム(無自覚領域)が主体といえる。
夢2はシステム2における自我(夢を見る側)と物語作成機能が分離したものと見なさざるをえない→すなわち意識作用と意識対象とが分離する。

イメージ表象の自我からの分離(乖離)は、夢1から、入眠時でも簡単に起きることがわかる。
すなわちイメージ表象能力は、元より自我の制御から外れることが可能なのである。
これは絵画作家や文学者が、「筆がひとりでに動く」というように、創作活動中に時々経験されることかもしれない。
あるいはわれわれ読者が小説を読みふけっている時、文字情報を処理しているという意識がなくなり、映画を観ているように小説内容が映像化されるのは、紙上の文字列が自動的に(自我の関与を素通りして)イメージ表象化されていためである(自我はイメージ映像を鑑賞している)。
早い話、われわれは”幻覚”を経験する能力が備わっているのである。

言い換えれば、自我はシステム2を構成するその一部であって、システム2のすべてではない。
ましてや意識や心のすべてではない(自我はそう思っているかもしれないが)。
たとえば自我と表象とを分離するのは、システム2自身ではなく、システム2の作動を可能(不能)にする、より根源的な層であるシステム1(知覚・行動の主体)かシステム0(生命活動の主体)であろう。
われわれは自我の意思で夢のオンオフを制御できないからだ。

そもそも心の作動の制御は、システム2の一部でしかない自我だけでは無理で、心全体(システム0~)で分担するものである。
言い換えれば、心の作動の責任を、システム2の自我にだけ押し付けるのは、自我にとって酷である。

話が夢から自我に逸れてしまったので戻そう。
夢という現象を、特定のパターンに押し込めることなく、その多彩さを含めてきちんと受け止める事から始めると、その説明はそう簡単にはいかないものとなる。
考えれば考えるほど、夢は不思議な現象だ。

自我中心ではなく、心全体(システム0~)を見渡す視点から、夢(夢2+夢1)という不思議な意識現象を捉え直してみたい。


夢=非合理的という偏見

2022年03月30日 | 心理学

既存の夢理論に対して覚える不満は、夢を非合理的なものと決めつけて、その非合理性を夢の本質としている点だ。
この”偏見”はフロイトから始まり、最新の脳神経科学にもとづいた睡眠研究においても踏襲されている。

確かに覚醒時の判断規準からすると、夢の中身は合理的でない部分もあるが、それが夢の本質とはいえない。
なぜなら、そういう要素は覚醒時の想像・空想でも該当するからだ。

夢を現実とのみから対比すると、それらの間の差異しか見えてこない。
これは2元対比に巣くう思考バイアスである(覚醒時の思考はかように非合理的)。
この2元論バイアスを避けるには、夢と現実に空想を追加して3元間での2元対比を3回実施することで、任意の2対の差異と共通性をともに抽出できる。→その試行結果:夢を見る心③

こんな手の込んだことをしなくても、たいていの夢の中では夢主は懸命に理性を働かせていることは、夢主でもある覚醒後の本人が一番判っている。
そう、夢主(夢の自我)は覚醒時の自我と連続しているので、システム2の同じ自我だ。
すなわち夢主の合理能力は、覚醒時の合理能力と等しい。

たとえば最近みた自分の夢を紹介すると、

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どうやら学生時代の自分のようで、大学の学生宿舎のように、それぞれが自室をもって、各自が自室から出てくる。
その1人から、ものすごい寒気がくるという話をきいたので、それに備えて自室で服を着替えることにした。
厚い上着だけでは不足だと思い、下着のシャツから選び直す。
手元には2種類の網シャツがあり、網目のより細かい方を選んだ。
肌の上に暖かい空気層を作るためだ。
さらに薄い(ウインド)ブレーカーをシャツの上に着ようかと思った。
すなわち網シャツで作った体温の気層を、ブレーカーで覆うのだ。
だが、ブレーカーはむしろ外側に着て、寒気の風を防ぐのに用いた方がいいと思い直した。
夢には登場していないが、この他に防寒用の上着があり、それも着ることが前提となっている。

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このように、夢の中で重ね着対策によって寒気に対応しようと、至って合理的に試行錯誤している。
現実と異なるのは、服の種類が現実のものではなく、夢だけの選択肢になっている点だ。

夢では、夢主は与えられた文脈(環境)に冷静に対応しようとしている。
非合理的なものがあるとすれば、それは夢主ではなく、夢に与えられた文脈の方だ。

そう、夢は文脈(環境)を与える。
そして夢主はその所与の文脈(環境)の中で、それに適応するために、夢の中で懸命に思考して対応しようとしている。
なので夢の中で行動が普段と異なる場合は、災害などの緊急事態時に日常とは異なる行動を選択せざるを得ないのと同じだ。
文脈が非合理的なら、それに対する反応もその非合理性に適応するのが合理的だ。

すなわち、非合理なのは、夢主の行動ではなく、そういう反応をせざるを得ない、夢の文脈の方だ。

では、そのよう文脈を与える主体は何なのか。
自我よりも原始的な”無意識”(システム1)なのか。

私はそうは思わない。
原始的なシステム1では、記憶の再現がせいぜいで、あんな創造的なストーリー展開はできない。

夢はシステム2が文脈を構成する側と見る側に分離した自作自演体験だ、というのが私の夢の理解である。→夢を見る心④
ただ、リンク先の説明がわかりにくかったので、これについて別稿で改めて説明する。→夢:表象と自我の分離現象