今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

臨済寺の造酒之助

2006年04月01日 | 身内

4月10日期限の「青春18きっぷ」を使い切る目的を兼ねて、名古屋から静岡市内の臨済寺を訪れた(片道3時間)。
臨済寺は今川義元にゆかりのある名刹だが、拝観は受付けてない。
それでも行ったのは、境内にあるという「東軍招魂之碑」と寺島(旧姓鎌田)造酒(みき)之助の墓参りのため。


●東軍招魂之碑
まず本堂へ向う石段横にあった碑を拝見(上写真)。
明治18年に建てられたが字はまだ読みやすい(漢文)。
文中に「寺島造酒之助素仕幕府戊辰国変戦而失右手後移静岡」とある。
箱館戦争で右手に重傷を負い、自らの刀でそれを切り落としたのだ。

明治政府は戊辰戦争での幕軍側の死者を慰霊することを禁じた(最初は埋葬することさえも。
靖国や各地の護国神社は新政府側のために戦った者だけを慰霊している)

その仕打ちを悲憤慷慨した造酒之助は、弟子の市川愛之助とともに貧しい中(官職につくことを拒否)工面してこの寺に招魂碑を建てた
(ここで思いだすのは、新選組隊士の慰霊碑を建てた永倉新八や近藤・土方両名の汚名をそそぐ碑を建てた小島鹿之助。ただし造酒之助らは幕軍全体を慰霊)

最初は旧主徳川慶喜に篆額を求めたのだが、文中に慶喜が大阪から江戸に逃げたと記した箇所を慶喜が修正を要求。
しかし造酒之助はそれを拒否。
それで慶喜は篆額を断り、代わりに市川三兼に願ったという。
造酒之助はあくまで筋・節を通す人だった。


●造酒之助の墓
その造酒之助の墓も境内墓地にある(といっても場所がわからなかったので寺の人に尋ねた)。
彼が眠る「寺島家之墓」は明治43年(没後2年=3回忌の命日)に建てられたままのもの。
周囲の真新しい墓石とは対照的。
しかも、今年の彼岸に誰も訪れた形跡がない(周囲の墓は花で満ちているのに)。
上部も朽ちかけており、忘れられた状態。
かくいう私も花も線香ももってこなかった。
せめても柄杓で水をかけて墓を濡らした。
墓の後ろには童女の小さな墓もあった。


●造酒之助の資料
臨済寺を後にし、近くの市立中央図書館に行って、郷土資料の棚を探した。
すると『明治初期の静岡』(池田次郎吉)という本に「寺島造酒之助」の記事が載っていた。
著者は造酒之助を直接知っており、著者の父は碑建立の世話人でもあったという。
もちろんこの部分をコピーした。


碑と墓参りと貴重な資料を得て、来訪の目的は充分に達した。
名古屋までまた鈍行3時間の旅はつらいので、気分もいいし帰りは新幹線にした。

なぜ寺島造酒之助とやらにこうもこだわるのかというと、実は彼が私の曽祖父だから。
つまり身内の話でした。失礼。


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