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原城跡

2023-04-11 | Weblog
 昨年は念願だった原城跡(長崎)を訪れることができた。まず長崎県が初めてであり、島原(島原半島)が県のどこに位置するのかさえ知らなかった。島原は長崎からはかなり遠く、原城跡はさらに奥地であった。島原半島の付け根にある諫早から島原までは単線のディーゼル車で1時間強。左手が諫早であるがギロチン異名で悪名の高い水門が見えた。島原駅から原城跡までは雲仙普賢岳の麓をぐるり回る路線バスでさらに1時間弱。大火砕流で崩壊した山肌がいまだに生々しく残り、自然のもつエネルギーの凄まじさを思い知らされる。
 島原の乱の原因の一つは、水に乏しい土地で石高が低いにも関わらず、当時領主であった松倉勝家が幕府への見栄のために数倍もの重税を課したことにある。キリシタンに対する弾圧も同様に過酷であり、重税と弾圧に耐え切れなくなった領民がついに蜂起し、廃城となっていた原城(城の形は残っていた)を占拠して島原藩および派遣された幕府軍と徹底抗戦したのが島原の乱である。天草四郎の印象が強いためか、島原の乱はキリシタンによる宗教的な叛乱と捉えられがちであるが、実際は苛酷かつ残忍な領主に対して怒りを抑えきれなくなった領民の武装蜂起というのが正しい。幕府軍による乱の鎮圧後、事件の責任を取らされた松倉勝家は、斬首(切腹ではない)となり、松倉家は改易処分となった。
 現在の原城跡は、その城郭の殆どが畑となっている。バス亭の前に大きな看板が出ており、本丸跡へは徒歩で15分程度である。世界遺産に登録されたので、残された史跡の説明は非常に丁寧で勉強になる。そして何よりも、想像以上に石垣や空堀が残っていたのが驚きだった。幕府は二度と城を使用できないようにと、石垣も含めて徹底的に城郭を破壊したというが、それでもあれだけの石垣と構えが残っているのであるから、当時はかなり大規模な城郭だったいうことがわかる。原城の背面は有明海に面しており、対岸は熊本県の天草である。視界だけを切り取れば素晴らしいまでの風景なのだが、ここで繰り広げられた激戦や、落城時に虐殺された数万の人々のことを思うと、その歴史の重さに神妙な気分にならざるをえない。戦争の最終段階では幕府の要請をうけたオランダ船が砲撃を加えたともいう。救援に来たと思った異国船から砲撃を受けたたことに籠城側は衝撃を受けたという。当時のオランダは80年にも及ぶ宗教戦争の末にプロテスタント化したばかりであった。自国での泥沼の宗教戦争を経験した彼らに異国の原住民のカトリック信者なぞを助ける筋合いはさらさらなかった。
 天守が現存する城郭は立派だが、実はあまり特別な歴史を持っていない場合が多い。姫路城しかり、彦根城しかり、松本城しかり。原城のように歴史の一大事が刻まれた城跡こそが、のこされた人生で見なけれなならない本当の城だと思う今日この頃である。