無意識日記
宇多田光 word:i_
 



「画竜点睛を欠く」という表現を用いたが、元になった故事によると、本当に目を描いてしまうと龍が絵から飛び出して具現化してしまうから敢えて描かなかったんだとか。ふむ。ヒカルの曲にもそゆとこあるかも。ああやって邪魔しないと本格的になりすぎてとっつきづらくなるおそれがあるってことね。

「Popさ」というのは結構難しい概念で、なぜかどこかで「バカになる」必要がある。度を越した明快さこそがPopでキャッチーだからだ。ヒカルの場合、どこまでも知性を譲らないから放っておくと音楽がどんどん本格的になってPopから離れていく。ヒカルにとって「Popさ」とは身についた習性ではなく、常に意識して自分に修正を施すよう言い聞かせ続けなければならない一種の外挿要素なのだ。どこかで「バカになれ」と自分に言い聞かせるのだろうな。

そこの手助けをあのピコピコシンセが担っているとするならばぐっちょぶと言わざるを得ない。ヒカルがついついPopさを忘れる場面でもああやってフォローを入れているのかもしれない。そこのところを買ってヒカルはなりくんに声を掛けているのかもわからないな。いやあのシンセが彼の仕業と決まった訳ではないのだけどね。でも『Time』でも似たような事やってたし、何しろあたしのヒカル原理主義センサーが反応したからには結構確度が高いと思っている。推測は推測に過ぎないのだけれど。


こと日本においては「Popさ」というのは世代を隔てると通じなくなる概念になっている。ヒット曲でいえば一昨年は米津玄師とか、昨年はOfficial髭男dismとかそういうのがあったけど、いい曲だから売れたという感じはあるのだがPopな雰囲気は少ない。もっと言えば狙って作った感じがしない。というのも、これが今や世代間で異なるニュアンスになっているのだけど、現代の日本には「売れ線」のサウンドが存在しないのだよね。

うちらともうひとつ下の世代(大体ヒカルと同じくらいの歳の人達)までは、「狙って作った」とか「売れ線」と言った時にどこか共通してイメージできるサウンドがあった。例を出して言えば広瀬香美みたいなああいうの。「あ、売れるのを狙って曲を書いてるな」っていう。ポルノグラフィティとかORANGERANGEとか…それくらいまでが限界かなぁ。SEKAI NO OWARIの世代まで来るともう無いよね。あんだけ売れても売れ線て感じじゃなかった。それがおっさんの感覚なのですよ、えぇ。


それは、宇多田ヒカルにすら影響を及ぼす事でね。『Time』のようなわかりやすい魅力を持った曲ですら「売れ線狙いのPopな曲調」にならない。そもそもそんな共有共通概念が今の市場に存在しないから。アイドルだけは別な気がするけど、ヒカルはあの界隈には近寄れないからなぁ。

しかし、この、なりくんとのコラボを聴いてると、新世代の売れ線への模索が始まっている気がする。なりくんの普段の言動からすれば「俺の音を気に入らないヤツらの相手をしてる暇はない。俺のことがわかる市場に出向くのみ。」みたいな事を考えてて、音作りも最先端のセンスを発揮しつつも唯我独尊みたいなイメージ作っちゃってるけど、彼がこのまま成長すれば新しい時代の「売れる曲」像が出来上がってくるんじゃないかなと、『Time』と『誰にも言わない』のピコピコ・サウンドを聴きながら思ったのでありましたとさ。逆説的だけどねああいう反骨心の強い若者が主流派になっちゃうって予想は。彼のこと、音楽家としては期待してるんだぜ。そう言ってる俺は相変わらず彼にブロックされてんだけどね☆

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豊かな構成を持つ『誰にも言わない』だが、自分の趣味としては「画竜点睛を欠いたな」と思わざるを得ない箇所が1箇所ある。『Can you satisty me ?』のところで切り込んでくる矩形波様なシンセのエフェクトだ。エイトビットサウンドってやつだね。タイムスタンプだと2:54〜以降か。

これ、あっても別に構わないとは思うのだが以下の展開&全体の構成からしたら蛇足気味だと感じる。(龍を描くには足りず蛇を描くには過剰/全体を整えるには配慮が足らず、局所の為には余計なお世話、って感じ)

というのも、このあと『I just want your BODY』のところでベースが単音をドーンと奏でるのだが、ここで吸い込まれるようにシリアスな重量感がぐっと増す演出になってる、筈なのだ。『忘却』の時と同じ効果だと思ってくれればいい。同曲でいえば『こわい夢 目を閉じたまま…』の所ね。これもタイムスタンプは2:54だな。歌詞にも合わせてここでベースが単音を重々しく響かせる事で緊迫感がより一層増し楽曲が中盤を超え終盤を迎える、そういう演出である。

『誰にも言わない』に関しては、それと同様の流れの中で考えるとあのピコピコシンセはミスディレクションとして作用しているように思う。ヒカルの特技は『惑わすこと』だからそれもアリかもしれないが、脳内でシンセを抜いてみるとその展開の自然さ、美しさに圧倒される。リスナーにそんな手間をかけさせても特にいいことはないと思うのだが、まぁ邪魔という程でもないからまぁいいか。ただ、無い方が「重さに吸い込まれていく感じ」はよりダイレクトに伝わったと思うぞ。


とはいうものの、この曲はプロデューサー2人体制だ。片方のプロデューサーの意向だけで編曲が決まる訳でもない。だったらクレジットは1人でいいわけでな。実質共作曲なのだ。そこで『EXODUS』好きなウタダ・サウンド原理主義者(アタクシ)が「純度100%のヒカルがいい!」と言ってもそれこそ今の他者とのコラボレーションに熱心なフェイズにあるヒカルにとっては邪魔なだけだろう。そう考えると、このエントリ自体が蛇足なのかもしれないなぁ。はぁ(溜息)(笑い混じりの、ね)

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気がついたらApple Musicの再生回数の第1位が『誰にも言わない』になっていた。この間見た時は「そろそろ『Time』の再生回数がアルバム『初恋』や『Face My Fears』EPに追いついてきたなぁ」とか思ってたのに、それら含めて全部抜き去ってしまった。驚いたのは、本人にそんなつもりが全く無かった事だ。私ゃそんなに聴いてたのかこの曲を。

『誰にも言わない』は静かな曲だ。どこからも盛り上げようとしてこない淡々とした楽曲である。なのに平坦とか単調とかいった評価とは全く無縁。前に指摘した通り、1曲を彩るメロディーの数は過去最多とも言えるし、展開の多さやアレンジのアイデアなどそれはもう多種多彩で豊富いや豊穣とすら言える。すぅっと聴いてまた聴きたくなる。「興奮」とか「感動」とか「感涙」とか、そういう“こちらが疲れる”要素が無い。心地よい疲れなんだけどねそれも。

こちらに全く負荷が無くするりと入ってくるのに確実に心の栄養になる、まるで点滴のような楽曲だ。…打ったことない人はわかんないか。あれ、お腹減らなくなるんだよね。気がついたら満たされているという。で、心は身体と違ってキャパシティの概念があやふやだから、刺激が薄いといつまでも体内にこの曲を注入し続けてしまうんだな。それでこの再生回数か。

違う言い方をすれば、美術館でお気に入りの絵画の前で何十分もじっとしている時のような感覚にも近いか。何がどうという訳でもないのに、そこでずっとじっとしていたくなる、心は落ち着いているのに足が動かないあの感覚。あれに似た感じで、気がつけば延々リピートしている。

このまま行けば今年最も聴いた曲になることは間違い無しで、もしそうでなくなるとすればヒカルがもう1曲新曲を出した場合のみだろうなと想像する。あたし他のジャンルの音楽も沢山聴いててヒカルを聴いてる時間なんて1割にも満たない筈なんだけどねぇ。恐るべし。


で、ふと。自分で聴いていて大変満足しているのでなかなかそちらまで思いが至らなかったが、世間の反応はどんなものなのだろうこの『誰にも言わない』は。長らくCMソングとして流れていた筈だが(すいませんテレビを視聴する習慣が無いもので知らないのです)、そこまでインパクトがある訳でもないのだろうし、みんなそれこそするりと素通りしてるんじゃあるまいかライトファンや一般リスナー(そんな層在るのかな今)は。

とてもじゃないがシングル向けの楽曲とは思えないし、掴み所がないままの人も──嗚呼、そうね、『Time』を聴いて久々にあの宇多田ヒカルが帰ってきた!って興奮してた人達も、結構戸惑ったりしているのではあるまいか。そういう人はきっと『誰にも言わない』に対して積極的に発言しようとしないだろうし、「なんだかまたよくわからない曲を出してきたな」という感じなのだろうかな…。

こちらも戸惑いはある、のだ。『FINAL DISTANCE』を初めて聴いた時のような圧倒的な感動とか、『Goodbye Happiness』を初めて観た時の涙腺に来る感じとか、ああいう「ポピュラーな感動」は殆ど無いのだ。なのに、どうしても聴く度に「これはどう足掻いても過去最高傑作なんじゃないの」という結論に落ち着く。そう、落ち着くのよ。それしかない、みたいな。この、強制されてる訳でもないのに唯一の解答に自然に辿り着く感じは本当に初めてかもしれない。この曲の不可思議な魅力がどれくらいの人々に届いてるのか、興味があるな。確かめるのは全く容易ではないけれども、そろそろTwitterとかで反応を検索してみるかな。

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日曜夜のインスタロス明け、皆さん如何お過ごしでしょうか。これが現実です。(どどーん)(容赦ないな)

でも、過ぎていった5月もまた現実だった訳でね。あれは夢じゃなかったのです。えぇ。しっかりと我々の人生に刻み込まれております。


コンテンツの扱いというものが、どんどんと変わっていってて。黎明期までは知らないけれど、インターネット、或いはWorld Wide Webの世界というのは、初期の頃はひたすらに「記録に残せる」事が魅力的で。あれもこれも「未来永劫確認出来る」と躍起だって残してた。それが財産になるのだと。

そこに、新聞や雑誌がWeb記事を載せるようになってきて様相が変わる。ほんの数日で記事が削除されすぐにリンク切れになる。更に、商業目的とスマートフォンの普及によってネットが日常になって、オフラインでの常識である「時と共に流れていく」様態が好まれるようになってきた。これが大衆化・社会化というやつなのかと。

そういう中なので、インスタライブがアーカイブされずに消えていくのも「時代の流れかなー」と諦めざるを得ない心境にもなっているのだけど、やっぱり寂しいねえ。『30代は…』に関しては配信自体の不手際もあって短期間アーカイブ公開されてたけど、それっきり。『20代はイケイケ!』はDVDにもなったのに。

いやね、随分昔からなんだけどね。例えば『Be My Last』や『05以上06未満』も最近の人はアクセス出来ないし、『ULTRA BLUE UNITED BLOG』に載ってた動画とかももう無理だし…って結構あるにはある。残したいものとそうでないものの区別は昔からあるにはあったんだけども。

でも今回のインスタライブに関してはゲスト4人も呼んだし歌も歌ったし長時間だしで、なんというか、これまで消えていくのかと思うと。

もうどうせなら今までのWeb企画全部パッケージングしてリリースして欲しいんだけどね。『Be My Last』もGREEN DAYのカバーも人魚もPart of your worldも何もかも…。レコード会社としては商売にならないなら商品化しないというのはわかるのだけど、なんだろう、勿体無いというのもあるし文化遺産というのもあるんだけど…。過ぎ去った時も刻んでおいていつでも会えるようにしておきたい、って感情が、あるのかもしれない。それも僕らの人生の一部なのだと。そして、そこからずっと続いてる今なんだと。あぁ、「日記精神」だなこれ。私がこだわるはずだわ。

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昨夜のツイートのFavが約19万、RTが3万。まだ伸びそう。コメント欄も4桁か。「歌姫ってなんなん」よりも更に注目が集まった。

ヒカルの狙いは「関心を集めること」だったのだろうから、それは奏功したとみるべきだろう。特に喜ばしい事でもないのだけれど。そこから皆が何をどう感じるか、なんだろうし。

インスタライブでヒカルが勧めてくれたアーティストJ Husはアフリカ系でガンビアとガーナにルーツを持つそうな。同国が歴史的にどれくらい合衆国から被害を受けているかは知らないが、彼の歌詞の中には人種差別的な話題が散見されていた。こういったラップ/ヒップホップ・アルバムを日常的に聴いているヒカルが関心を持っていない筈もなく。更に友達のミュージシャンにも黒人は多いだろう。誰がどうというのはよくわからないし気にもしないが、当人たちは迫害を目の当たりにしていたりその身に蒙っていたりするのかもしれない。他人事ではない。

前回述べた私見は大局的な話だった。たった今差別に苦しんでいる人達にとっては何の解決にもならない。彼らが暴力に訴えたくなる心情も理解出来る(便乗犯が出るとしても)。今の世の中は、暴力ならニュース価値が高く世界中で報道されるからだ。平和的な“なまぬるい”デモなど刺激が足りぬと取り上げても貰えない。振り向いて話を聞いてもらうには誰かを殴るかどこかを燃やすかするのがいちばんなのだった。つまり、暴力は世間の無関心に促される。それだけのことだ。

だからヒカルは『もっと知ろうとする機会になるといいな。』と呟いた。それが暴力を抑止するいちばんの力だと知っているから。解決できなくても、話を聞いてもらうだけでも随分違う…というのはこのような非常事態でなくとも個人の生活レベルでも曰われる事実だろう。

耳を傾ける。だが、これが如何に難しいか。人間だけでも今地球上に70億も居るのだ。数百人フォローしただけのタイムラインを総て追うことすら出来ない我々が、世界中からの叫びに耳を傾ける事が、どうやって出来ようか。今も我々の知らぬ場所で知らぬ人が理不尽な哀しみに塗り潰されているのだろう。途方も無い。

ならばこうやって、300万を超える人に届けられる人が呟く事は、やはり大きい。それに耳を傾けたということ位は、どこかで誰かが読める程度には、書き記しておいた方がいいのかもわからない。だが、何をするも貴方の自由だ。それをまず最大限尊重する所から始めないと何一つ、覚束無いだろう。差別を減らす事など夢のまた夢のままである。

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8m46s  


@utadahikaru:日本で生まれ育った日本人からすると人種差別っていまいちピンと来ないかもしれないけど、今アメリカで起きていることは未来の世界史に載るような歴史的な局面かもしれない…というかそうであってほしい posted at 22:56:33

@utadahikaru:アメリカの、黒人に対する差別というのは、単に人が別の人種の人を見てなにか差別的な感覚を抱くっていうような人種差別の話ではなくて、国家・社会の仕組みの根深い問題。アメリカの黒人の歴史・現状を全く知らない人も、ある程度知っている人も、もっと知ろうとする機会になるといいな。 posted at 23:24:36


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随分踏み込んだ発言をしたものだな。敬意を表したい。

「Black Lives Matter(ブラック・ライヴズ・マター)」運動に対するヒカルのリアクションだ。

祈りや願いの感情からこう書いたのだろうが、このタイミングでこの運動が「歴史的局面になってほしい」と願うのは、静かなようでいてかなり過激なのではないかな。

今回の事件、自分の世代だとRAGE AGAINST THE MACHINEの「The Battle of Los Angeles」で歌われたLA暴動を思い出した人も多いのではないか。30年近く経って事態は改善されないばかりか、寧ろ悪化しているということか。

そもそも、今の大統領を選んだ時点で現況は合衆国民の総意(欺瞞的な言葉だね)だと看做される。極々当然の帰結なのは、彼の普段の発言から明らかだろう。悲しい事だが、驚くべき事ではない。起こるべくして起こっただけだ。

つまり、彼の任期期間内においてはこれは予想され得た出来事でしかなく、特に歴史的転換点にはなり得ない。日常なのだ。たまたま今回は導火線に火がついたが、火種と爆薬は日常でずっと燻っていたのだろう。海の向こうの事だし直接は知る由もないのだけれど。

「歴史的局面」というからには、なんだろう、これを切っ掛けにして何が起こって欲しいのだろうかとつい考えてしまった。あの大統領を選んだ国民が一朝一夕で変化する事を期待するのか……。そういやどこか“革命願望”みたいなものがヒカルにはあったような。そういう動きに興奮して反応していた事もありました。深く突っ込む事はしませんが。


自分の言葉も書く。「骨抜き」にするしか、ないのだろうと私は思う。武闘闘争で現況を打ち破っても単に首がすげ替わるだけだろう。地道に着実に何世代もかけて搾取者の力を削ぎ続けるしかない。実際、この100年間で随分好転したのではないの? 現況は酷いが、100年前はもっと酷かったのではなくって? 今までの成果もまた、無きものには出来はしない。世代単位で一進一退なのかもしれないけれど。取り敢えず次の大統領選で合衆国民がどういう選択肢を選ぶのか、外からはそれを眺めているしかないかもね。

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世が世であれば、我々は『Time』と『誰にも言わない』の後に「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」の主題歌まで体験していたかもしれないのか…何その世界線…。

イギリスでロックダウンがなければインスタライブは無かったかもしれないが、サントリーのCMとドラマの主題歌は疫病禍とは関係なかったろうからリリースは確定事項だったんだよね。一体どんなプロモーション活動をするつもりだったんだろうな。「マツコの知らない世界」への唐突な出演も、理由を回収するステップがあったのかもわからない。

『Time』と『誰にも言わない』がそれぞれに補完し合うように強烈で、それぞれに評判が良く、ロックダウンが無ければ順風満帆な雰囲気だっただろう。本人の出演するミュージック・ビデオも観てみたかったな。

18年前の『Deep River +』(仮称)の時は逆で、ミュージック・ビデオは作られたけどシングル・カットは為されなかった。アルバム発売後のシングル・リリースは『FINAL DISTANCE』と『Prisoner Of Love Quiet Version』という神憑り的な名曲を生んでいるので、もしかしたら『Deep River』にも更なる運命があったのかもしれない、なんて事も思う。勿論、時を戻す呪文なんて知らないからどうにもならないのだけれども。


どうやら、『誰にも言わない』の冒頭部分、『いくつもの出会いと別れ 振り返って、思う』の一節に触発されてしまってるな今の私。別の世界線と今の世界線。いろんな可能性はあったけど、そうはなっていない、こうなっているのが今なのだ。(「海賊王になってないのがお前だろ」っていうルフィのセリフを思い出すなぁ…)


『誰にも言わない』。この歌にはやはり魔法のような力がある。ヒカルが常々感じていた「時間観」が、漸く歌という形態で表現され始めている。『Passion』で描かれた、「過去と未来に挟まれた無力で矮小な今」ではない「過去と未来を等しく内包する今」。それに基づいて好きな歌を口ずさみながら月と歩くのが今のヒカルなのだ。なんだろうな、明滅の合間に普遍と局在が戯れ合う。知っていたフェイズに現実の世界でカタチが与えられた。なんだろう、結局凄すぎて何もわからない。そりゃ『I won't tell.(私は、わからない)』って、言いたくなりますわねこれ。

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っとと、『Give Me A Reason』やら『Time』やら『Passion』やら、いろんな曲を引き合いに出していたが、いちばん肝心な歌を出してくるのを怠っていた。まずこれから行かないといけなかったのに。まわりくどいのはよくないね。

『まわり道には色気がないじゃん』

って言われる筈だよ(笑)。いやあたしに色気なんてもともとありませんけど! ストレートに大事なところをまず述べるべきでしたね。反省。


そう、『Can You Keep A Secret?』ですよ、ええ。『誰にも言わない』のクエリ・ソング。

もうこれはまず2つの歌の歌詞を交互に書くしかないでしょう。それ以上語る必要も無いくらい。


『近づきたいよ 君の理想に』
『過去から学ぶより 君に近づきたい』
『Can You Keep A Secret?』
『Can You Satisfy Me?』
『側にいても遠回しな表現探してる』
『まわり道には色気がないじゃん』
『少しの冒険と傷つく勇気もあるでしょ』
『一人で生きるより永久に傷つきたい』
『誰にも言わないで』
『誰にも言わない』


いやもう見事なまでにアンサーソング。同じことを言っていたり、対になる事を言っていたり、文字通り懇願や疑問への返答だったり。19年の時を経てこんなに伏線回収してくれますかね。

母親になったのが大きいのかなぁ、とも思う。在り来りですけど。昔のヒカルの歌は「母親に恋い焦がれる」感情をベースに構築されていた。総ての感情の出発点といいますか。なので「相手にお伺いを立てる」態度の方が優勢だったが、『誰にも言わない』はその想いを受け取る方というか。アンサーソングなんだから当然といえば当然なんだけど、17,8歳のヒカルに対して“こたえる”だけの人間になる為にはこれだけの時間が必要だったということも出来る。人の親になって、子に愛される立場になる事が要った、と。

勿論完全に質問側と回答側に別れている訳でもなくて。『Can You Keep A Secret?』の時点で『傷つけないと約束しても誰にも分からない』なんていう結論めいたものも導き出しているし、『誰にも言わない』でも『君に教わりたい』とまだまだ賢者を訪ねる気満々だ。また『教えない』って言われるんだろうけど。(それは別の歌じゃな)

兎にも角にも、まずは、この2曲の対比なのだった。なんだか語りすぎると野暮ったくなりそうなので今回はこんな感じに留めておきたい。色気がなくても、まわり道は確かにめんどくさいもんな。

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『Passion - single version - 』の固有パート(『ずっと前に好きだった人〜』)は、どこか“ギアを入れて”挿入した感覚があった。元々『 - opening version - 』の時点で完結している楽曲だったのだからある意味では当然だ。その固有パートだけが前面に押し出されているような感覚があった訳である。

『誰にも言わない』でTVCMに使われている『One way street〜』のパートも、同じようにいちばん前面に押し出されているのは間違いないのだけれど『Passion - single version - 』の時のようなギアチェンジを余り感じさせない。曲構成の中で自然に生まれてきている感覚が強い。揺らめくように旋律と言葉を綴りながら、ふわりふわりと全てが抵抗なく染み渡っていく、あの感覚である。

故に、『Passion - single version - 』が歌詞にせよメロディにせよそれこそ聖域で生まれたものが下界に降りてくるようなそんなダイナミックな印象を与えていたのに対し、『誰にも言わない』は、神々しさと親しみやすさ、緊張と緩和、形而上学と日常生活がすぐ隣り合わせになっていて、ほんの少しのことでどちらにも揺れ落ちれる、そんな万華鏡の様な万能感を節々端々に湛えている。これを安直に成長とか進化と呼んでいいのかは少し躊躇われるけれど、今までとは異なるフェイズに足を踏み入れている事は、確かだろう。

力みがない。最後の『One way street 照らす月と歩いた 好きな歌口ずさみながら』はとても具体的ですぐに情景が浮かぶし、『感じたくないことも感じなきゃ何も感じられなくなるから』も、普段ヒカルがツイートや対談などで自然に口にしている一言だ。なので、ここの部分に親しみを持てるかどうかは長年のファンかどうかで別れるところなのだけれど、たとえそういう背景を知らなくともこの一言は普遍性をもって人々の心に響く。何気ない日記帳の端っこに記したような一言がするっと普遍に触るこの感覚こそが『誰にも言わない』の醍醐味のひとつだろう。気合いを入れてギアチェンジしなくても、呼吸するような自然さで抽象と具象、普遍と遍在を行き来出来るのが今のヒカルなのだ。その「今のヒカル」を楽曲として表現した『誰にも言わない』が、今のヒカルを愛する人間にとって愛さずにはいられない真のマスターピースとなるのはとても自然な流れである。日常の鼻歌の中にヒカルを感じられるようになるこれからの生活は、人生は、今までとは全く違う様相を呈する事になるだろう。

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『誰にも言わない』は、目下ひとつのバージョンのみしか発表されていない。当たり前のようだが、宇多田ヒカル名義の新曲は複数のバージョンが用意される機会が結構多い。『Addicted To You』に『(Underwater Mix』と『(Up-in-heaven Mix)』の2つが用意されていたり、『DISTANCE』には『FINAL DISTANCE』があったり、『Flavor Of Life』は『(Ballad Version)』が先にリリースされたり、などなど。

今回の『誰にも言わない』は非常に神々しく、余りにも普通ではない楽曲だ。だが、『Passion』と時とは違い、最初っから多くの人に受け入れられるであろうパートを内包している。One way streetパートね。これが、大きな成長であるように思われる。

つまり、1曲の中に今自身が望まれるかなりの部分を盛り込めたのだ。その為、別バージョンを作る必要がなかった(それでも足りない部分は『Time』が担ってくれている)。『誰にも言わない』は、1曲だけでアルバム1枚分かという程の手応えを感じさせてくれている。

それは印象の話だが、実際に曲構成を眺めてみてもこの楽曲は、演奏時間が5分足らずであるにも関わらず非常に多彩なパートで彩られている。


非常に短絡的に曲構成を書き下すなら、

ABBCABBBCCDDEE

になるだろうか。アルファベットはそれぞれ、

A:いくつもの〜/完璧な〜
B:一人で〜/過去から〜/罪を〜
C:I won't tell my friends 〜
D:Can you satisfy me ? 〜
E:One way srteet 照らす〜

に対応している。流石にここまで別個のメロディーを一個の楽曲に用意した事はなかったかもしれない。

更に、歌詞の半分近くが英語なのにも注目すべきだろう。恐らく、契約云々を超えて、シンプルにヒカルの頭の中の割合みたいなものが表現されているのではないか。インスタライブで見たように、ヒカルは英語圏の人と話す時のみならず、独り言を呟く時ですら英語を混ぜる。日本語と英語を行き来するのが極めて自然なのだ。そのバランスが戦後日本の商業音楽の西洋追随気質と同調しているのは歴史的必然か単なる偶然かはきっと本一冊書き下ろす羽目になるので議論しないことにするのだけれどもそれは兎も角、『誰にも言わない』は今の宇多田ヒカルの“全力”が込められた作品であり、結果的に「宇多田ヒカルらしさ」がこれまでになく表現された逸品に仕上がったといえるだろう。もっと言えば、『宇多田ヒカル』という存在を表現するための技術と経験の蓄積がやっと少しずつ実り始めたということなのかもしれない。

では今までの21年間は何だったのかと言うと、序章だよね。ここから、ヒカルが自分自身を表現する事に長ければ長けるほど、もっと更にとんでもない楽曲が生まれてくるのかもしれない。ここが最高到達点でも既に高過ぎる位なんだが、まだまだ視野は広がっていくんだろうな。全く果てしないぜ。

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独創的な曲構成を持つ『誰にも言わない』だが、その点に於いてひとつ過去に参照すべき楽曲を挙げるとすれば『Passion』だろう。

『Passion』はリミックス扱いではなく複数のバージョンが作られた稀有な楽曲だった。まずは「キングダムハーツ2」のオープニングを飾る『Passion - opening version -』が存在する。これは真ん中にあの呪文を詠唱するパートが入る。これと近いのが最初に発表された『Passion - single version -』で、その呪文詠唱パートが無い代わりに楽曲の終盤に『 - opening version - 』にはないパートが追加されていた。そしてもうひとつ、ゲーム「キングダムハーツ2」のエンディングを飾る『Passion - after the battle - 』。これは独唱部と器楽演奏を楽曲の前半と後半に時間的に分離したバージョンだ。あとひとつ、「キングダムハーツ2」のサントラに収録されている『Passion - orchestra version - 』もあってこれも素晴らしいんだよね。

さて、今ここで注目すべきは『Passion - single version - 』だ。『 - opening version - 』の曲構成はゲームのオープニングには相応しいが、一方でJ-popのトップ・アーティストたる宇多田ヒカルがシングル曲としてそのままリリースするにはパンチが足りないものとなっていた。そこでヒカルは楽曲の最終局面に

『ずっと前に好きだった人
 冬に子供が産まれるそうだ
 昔からの決まり事を
 たまに疑いたくなるよ
 ずっと忘れられなかったの
 年賀状は写真付きかな
 わたしたちに出来なかったことを
 とても懐かしく思うよ』

のパートを付け足してJ pop artistとして期待される側面を整えた。エモーショナルで、具体的で、フックの強いメロディラインと歌詞。なお、『Passion』の英語版にあたる『Sanctuary』には『 - single version - 』が存在しない。これも、『 - single version - 』が日本の邦楽市場に向けて作られたバージョンであることの証左だろう。



さて本題。『誰にも言わない』の最後の歌詞パートはこうだ。

『One way street 照らす月と歩いた
 好きな歌口ずさみながら
 感じたくないことも感じなきゃ
 何も感じられなくなるから
 One way street 照らす月と歩いた
 好きな歌口ずさみながら
 感じたくないことも感じなきゃ
 何も感じられなくなるから』

自分は、この楽曲でここのパートがいちばん具体的でわかりやすくキャッチーで所謂“顔になる”パートだなと第一印象で思った。サントリーやヒカルもそう思ったのだろう、テレビで放映されていた「サントリー天然水」の30秒CMで流れていたのもこのパートだった。なお楽曲冒頭が使われている60秒CMはWeb限定なんだそうな。

ここがいわば、『Passion - single version - 』に於ける『ずっと前に好きだった人〜』のパートにあたるのではないかと思われる。『誰にも言わない』は、特にヒカルの人となりに共感してファンになっている人にはもう最初から最後まで夢のような楽曲であろうが、Jpop Artistとして期待するリスナーやライト・ファンからすると、『Passion』同様、掴みどころのない、なんだかインパクトの弱い楽曲に響いているのではないかなと。そういう人達も、この『One way street〜』のパートは気に入ってくれているかもしれない。或いは、CMで聴いて気に入っていたのに、このパートが楽曲中1回しか出てこないので少々不満が残るかもしれない。それは『Passion』の時も同様だったのだけれど。

で、ポイントは、今回は『Passion』とは異なり、『誰にも言わない』に関しては少なくとも今のところ複数のバージョンが作られているということはなくて、単一のバージョンのみで完結している点である。そこのところを次回もうほんの少しだけ突っ込んでみようかなと。

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「宇多田ヒカルらしさ」と言う時には大きくわけて二通りあって。

ひとつは、作風の話。
ひとつは、人の話。

作風は、音楽家としての傾向。ヒカルの場合作編曲プロデュースのスタイルと歌唱のスタイルになるか。楽器は何を使うか、好きなキーは、よくあるコード進行は、みたいな話。歌い方は、初期は90年代R&B風だったけど今は、みたいなね。


人は、人格とか性格とかの話。優しいとか恥ずかしがり屋だとかおっちょこちょいだとか制作の時怒ってばかりだとか悪い予感がするとワクワクしちゃうなとか。そりゃ歌詞なんだけど。

「宇多田ヒカルらしい作風」といえば、例えば『Prisoner Of Love』。意図的に昔からよく使うコード進行を用いて、細かな符割りで激しい感情のパッセージを歌ったあの歌。ああいうやつ。

「人としての宇多田ヒカルらしさ」とは、メッセージとかツイートとかラジオとかインスタライブとかでみられる、あのまま。特に言い足す事もないか。

初期の頃は、作風と人が結構乖離してた印象で(後から振り返るとそうでもなかったんだけど、当時はね)、だからこそデビューから3年経った時に自らの名を冠した『光』が出た時に、ああ、この曲は珍しく人としてのヒカルらしさが反映された曲だなと感じたんだった。

今、『誰にも言わない』を聴いて同じことを感じている。あぁ、なんて宇多田ヒカルらしいんだと。『光』とはまるで違う曲なのに。

一方、『Time』の方はそれこそ『Prisoner Of Love』と同じく「如何にも宇多田ヒカルらしい曲調・作風」だ。特に初期からのファンの評判がいい。言うまでもなく『Time』には『Time』なりのアイデンティティがあり、決して焼き直しや二番煎じではないのは独創的な曲構成からも垣間見れるが、それとは別に、リスナーが漠然と思う「これは如何にも宇多田ヒカルらしいな」という時の曲調と作風である事は、強い支持の理由の一端を担っているだろう。


斯様に、この2020年5月の二連作は、『Time』が宇多田ヒカルの曲らしさを、『誰も言わない』が宇多田ヒカルの人らしさを、それぞれ端的に表現した二曲なのだと捉えている。


と私は思っているものの、果たして『誰にも言わない』が「今まででいちばん、ヒカルの人となりが表現された歌だなぁ」という感想がどこまで普遍的かはわからない。どちらかというと神々しさが勝ち過ぎていて『Passion』がリリースされた時みたいにライトファンポカーンになっていやしないかと危惧もしている。まぁ危惧というのはポーズで「そうなるかな」という予想も立てられるなと思ってるに過ぎないのだけれど。

『誓い』と『Face My Fears』が随分とゲームの方にサービスしていたようにも感じられる為、『光』と『Passion』を結んだ線の先をどうするかという話が少し足踏み状態だったのだけれど、ここで一気に加速した印象。とはいえ、歌にあるように、今のヒカルは昔のように声を上げて走ろうとはしていない。朗読にあったように逍遥に勤しむのみである。歩きだね。こちらもゆったりと、『誰も言わない』に触れていきたいと思う。でないと身がもたないし!

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昨夜のインスタライブ第5回で思わず「わかるわー」と呟いてしまったのが、ヒカルが『誰にも言わない』を歌う準備を始めてから「どこのリップ?」という質問に延々答え始めたところ。

あれ、わかるわー。さぁこれから集中しよう!って時になかなか集中出来ない時は一旦まるで関係ない事やるんでやんすよ。ヒカルさん、直前に「これ気持ちが落ち着かなくて集中出来ないかも」って言っててそこから本来やるはずだった曲の話とかしながらリップを塗っててまぁそこで質問が出るのは予想出来た訳なんだけど、そういう風に寄り道していくことでいつの間にやらパッとSwitch!が入るのよね。時間の限られた中での集中力発揮法。ヒカルさんによる見事な実践でしたとさ。


で、その、ルーベン・ジェイムズと“本来やる予定だった曲”がジョニー・ハートマン&ジョン・コルトレーンの"They say it's wonderful"だっつーんだから、いやこれも聴きたかったわねぇ。何故この選曲だったかといえば、多分だけど『誰にも言わない』でのソウェト・キンチによるサックス・プレイが(この曲での)コルトレーン風だからだよね。もしかしたらヒカルはこの曲をソウェトに聴かせて『誰にも言わない』のディレクションをしたのかも。まぁそれだったら、この曲は寧ろ、今度色々あれやこれやが解決した頃のインスタライブでルーベンとソウェトの二人を呼んで披露した方がいいのかもね。……いやいや、どうせならルーベンとのデュオのままで、コルトレーンのサックス・ソロ・パートをヒカルがアドリブのスキャットでカバーしたりするのも素敵かも! 妄想が広がるぜ。なお、この曲のオリジナルのピアノはついこの間81歳で亡くなったマッコイ・タイナーだから、彼を追悼する意味もあったのかもしれないな。

にしても、ジョニー・ハートマンてなぁ…。名前でわかる通り、男性歌手なんですよ。こういうアダルトな男性歌手が歌う曲をヒカルが見事に料理した好例といえば真っ先に“Fly Me To The Moon (in other words)”が思い浮かぶ訳で、もし“They say it's wonderful”をやってたらこれも名演確定だっただろうなぁ。これは是非またインスタライブやって貰うしかないですねぇ。わかり切ったことだけれども。バンバン気軽にカバー曲を歌いまくって欲しいものですよ、えぇ。

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真っ白に萌え尽きた灰もまだ萌えるのかと痛感した一夜が、いや1ヶ月が終わりましたとさ。まだ茫然自失。

そもそも、5月29日の配信の時点で真っ白になっていたのに、そのたった2日後にその曲の弾き語りやる!!?? しかも生配信で。今地球の随分向こう側で歌われた歌が瞬きの時間でこちらに響いてきてたなんて。生まれる瞬間に立ち会うみたいな、なんかそんな。

……語彙が行方不明。

大体、最初は肩透かしかと思ったのよ。約束の8時を過ぎても現れなくて、やっと、8時8分頃かな、登場したと思ったら眼鏡かけてなくて、質問にも行かずにとっととルーベン呼び出すもんだから嗚呼今日は遅れたから短縮版なのかもと思うじゃん。で、ルーベンがピアノに向かってるのはいいんだけど、それに彼が新曲のプロモーションでそれを歌うのもいいんだけど(それしないと多分ギャラが発生しちゃうのだ)、あれそれだけで彼引っ込んじゃったよなんだ伴奏でヒカルが歌うのはナシになったのかなだとしたら残念だけど同期演奏は難しいからねとか思ってたら質問にはキッチリ答えるわサプライズで視聴者とインスタライブ繋ぐわでもう大サービス大盤振る舞いさ。でもヒカルはまだ何かやりたい御様子で……


それで『誰にも言わない』の弾き語りですよ! 壊れますよそりゃあ。

この歌は特別過ぎる。まだまだじっくり描写していかなきゃいけないことだけど、宇多田ヒカルの集大成というか最高傑作というか兎に角特別な作品で、おいそれと歌おうなんて思わない歌だと思ってた。例えば『嵐の女神』、例えば『桜流し』のように。

それをしれっと、自宅の仕事場から全世界に向けて発信するかねっ!? 

いや、後出しで言うなら、確かにそうなのだ、楽曲としての完成度が高いとか整合性とか正凖性とかそういうのを極めてる訳じゃない。だから作りかけで世界に問うても問題ないんだけど、ただ、言うなればいままででいちばんヒカルらしい歌なんじゃないかと。『光』が多少そうであったように。そう、『光』を“多少”
にしてしまったのが『誰にも言わない』だと言えるのかもね…。


勿論、というかなんというか、パフォーマンスとしての質は高くなかった。出だしからして間違えてたしな。まだまだ歌い慣れてるともいえない。ただ歌っただけだ。しかしそれでも、これをこうやって歌ったということそのものに意義があるというかそういうのも野暮ったらしいななんかもっとこう、なんというか、、、うん。生きようか。

リアルタイムで聴きながら、今日まで生きて来れなかった名を知る人のことや名も知らぬ人たちのことが思い浮かんでいた。何が違った訳でもなくて、そんな人達の中、あたしは、あたしたちは生き残ってこの歌に会っている。それが自然の営みなのだと、この歌は教えてくれる。I won't tellって言ってるくせにね。だから救える、って昔から歌ってたっけか。

この動画が24時間で消えてしまうのは公益に著しく反するが、現行の法律では権利所有者が最優先だ。やれやれ。法律なんかよりこの歌の方がよっぽど大事なのだが、歌のプロである以上社会に配慮はしないといけない。因果なものだが、それが我々の生きる方法なのだしな。そういや“One wat street”って「よそで喋らない人」の事なんだってね。知らなかったよ。

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