無意識日記
宇多田光 word:i_
 



折角なので前回の続き。もし仮に1番と2番で視点が切り替わっているとするなら、つまり『私』と『あなた』が入れ替わっているのなら、では、3番の歌詞は一体どちらの視点から歌われているのか?という疑問が浮かび上がる

これはもう先に書いてしまおう。

「二人とも」の視点からだろう。


恐らく、ブレイク後のサビのリピートからが「二人の言葉」なのだ。

『ずっと聞きたくて聞けなかった、気持ちを
 誰を守る嘘をついていたの?』

ここからね。どちらも相手の気持ちを聞きたくても聞けなかった。どちらも、自分と相手を守る嘘をついていた。だから最後、「ついていたの」の所、バックコーラスで、二声で強調されるのだ。

それは更に次のパートで徹底される。ここだ。

『逃したチャンスが私に
 与えたものは案外大きい
 溢した水はグラスに返らない 返らない
 出会った頃の二人に
 教えてあげたくなるくらい
 あの頃より私たち 魅力的 魅力的』

このパート、まるごとヒカルの声が左右でユニゾンを繰り返す。ステレオとはいえ、ダブル録音ってやつだね。二人の気持ちが合わさったパートなのです、ということを二つの声を左右に設える事で明確にしたアレンジだといえる。

こう解釈すると、『Time』の歌詞を一人称のみの視点で読んだ時の違和感が解消される。「逃したチャンス」とか「覆水盆に返らず」とか歌ってる割に『私たち魅力的』と歌っているのはえらく楽観的過ぎやしないかと思えていたのだが、これが「二人の合意」の文章だと思えばかなり自然な流れになる。つまり、どういうことかというと、この二人は結ばれたのですね。おめでとう。

となると、次の

『友よ 失ってから気づくのはやめよう』

の真意が明確になる。もうただの友達以上の関係性になったってことだな。


…と、いうのが「もし『Time』の歌詞が二人それぞれの視点を歌ったものだとしたら」の場合の解釈になる。1番と2番でそれぞれの孤独な想いを描写して、『誰を守る嘘をついていたの?』の所で互いの想いを打ち明けたのだ。故に『逃したチャンスが』以降は二人のいちゃいちゃユニゾンパートなのである。失ったのは「ただの友達関係」ということになるね。そうなれば遠慮無く、

『時を戻す呪文を君にあげよう』

とお互いに言えるようになるわけだ。1番2番とはもう状況が違うのだから。



…だが、勿論これは『Time』の全部でもなければ全貌でもない。例えば、ならば楽曲最後に加えられている『If I turn back time, will you be mine?』(“もし時を戻したら、あなたは私のものになっているの?”)という歌詞は一体何なのかという疑問が浮かび上がってくる。これは、二人の視点からだとうまく解釈できなくなるよね。そこらへんの話からまた次回……書けたらいいんだけど。(笑)
 
 

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『Time』の歌詞の読み方には色々あると思うが、ひとつに、「1番と2番で視点が入れ替わる」というアレンジが考えられる。


1番のBメロ部分の歌詞、

『降り止まない雨に打たれて泣く私を
 あなた以外の誰がいったい笑わせられるの?』

の部分と、2番のBメロ部分の歌詞、

『大好きな人にフラれて泣くあなたを
 慰められるonly oneである幸せよ』

の部分を「同じ事をそれぞれの視点から歌った」のだと解釈するのである。その場合、『降り止まない雨に打たれて泣く』とは「大好きな人にフラれた失恋の痛手から立ち直れない状態」の事を指す。

つまり、冒頭で『カレシにも〜言えないこと』の時点では付き合っていたがその後の時間経過で別れた、という事になる。それはそれで整合的だ。


こう解釈した場合に興味深くなるのが1番と2番のサビの歌詞である。それらはそれぞれ、

1番サビ:
『いつも近過ぎて言えなかった、好きだと
 時を戻す呪文を胸に今日もGo』

2番サビ:
『だけど抱きしめて言いたかった、好きだと
 時を戻す呪文を胸に今日もGo』

なのであるが、これらがそれぞれ別々の視点から歌われているということは、「両片想い」の状態になる訳だ。これは切ない。

そう、実際はこの二人、お互いがお互いに対して恋愛感情を持っている「両想い」の状態なんだけど、どちらもそれを言い出せない。時を戻す呪文を胸に今日もGoなのだ。

恐らく、片方は両性愛者で異性の恋人も居るけれども本命はいちばん傍に居る同性の彼女。もう片方は同性愛者なのだがそれをずっとひた隠している、なんて組み合わせかな。こう読むとまた違った切なさが浮かび上がってくるよね。それぞれがお互いに『好きだ』と言えないまま過ごしてきたという。こう解釈してもいい歌なんだよねぇ。いやはや、なかなかに懐の深い歌詞でありんすな。

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でその歌詞がこちら。

『キスとその少し先まで
 いったこともあったけど
 恋愛なんかの枠に収まる二人じゃないのよ
 (そゆことそゆことそゆこと)』

百合的親友ポジションからすれば、特に女子の場合恋愛関係に到らずとも遊びでだったりふざけてだったり或いは仲良しのしるしとしてキスをするのは無くはない、筈なのだ。その昔「欧米では挨拶でキスをするのよ」と言われて「そ、そういうもんか」とドギマギしていた向きからすると“進んだ関係”だなぁと感心するしかない(なんだこのそこはかとなく昭和な匂いのする独白は)のだが、『その少し先』とまで言われると放っておけない。(それはお前の勝手だろw)

もっとも、この節で最も強調されているのは『恋愛なんかの枠に収まる二人じゃないのよ』の方だ。ここの歌い方は大変に力強く、1番の同じ箇所とは別のメロディラインをとっている。更に、宇多田ヒカルには珍しい事に、三連符まで駆使して言葉を強調している。更に更にダメ押しで最後の『(そゆことそゆことそゆこと)』で念押しをする。『Time』全体の中でも屈指のセンテンスだ。

この「既存の枠に囚われない姿勢」というのが『Time』では非常に強調されている。冒頭からして『カレシにも家族にも言えないいろんなこと あなたが聞いてくれたから』から入る。既存の枠組みだと相談事などはカレシや家族に持ち掛けるものだろうけど、みたいな感じだろうか。

それを踏まえた上で『キスとその少し先まで』の歌詞を吟味すると、「友達だからここまで、恋人だからここまで、夫婦なら…」といった社会的規範に束縛されない宣言としての“意地”みたいなものが感じられる訳で。

また、百合的視点からすればここは「あなた」の方は興味本位や好奇心で「先」を経験してみたかっただけな一方、「私」の方は恋愛感情にスイッチが入ってしまっている状態という、「二人の間に合意の齟齬が生まれている関係性」をも想像してしまう。意地になっているのも、その齟齬を乗り越え切れなかった事からの余裕のなさから来ているのかもしれない。

そう考えるとこの一節の切なさは倍増するのだが、だとすると「あなた」って相当罪作りな鈍感っ子という事になるね。好奇心でその先まで迫ったり男の子にフラれた時に真っ先に泣きついたり…勿論それでいいという表情を「私」がしているのだろうが、果たしてこの二人の関係性、二人の歴史は本当のところはどうだったのでしょうね。これもまた想像するしかないか。結局、「どゆこと?」という疑問はなかなか解消されないのでした。

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『Time』で百合男子大歓喜となったパートはやっぱりココだよね。


『大好きな人にフラれて泣くあなたを
 慰められるonly oneである幸せよ

 だけど抱きしめて言いたかった 好きだと
 時を戻す呪文を胸に今日もGo』


王道中の王道ですよね。「私」と「あなた」は唯一無二の親友で、なんだったら幼馴染か何かでずっと前から固い信頼関係で結ばれている。しかし、「あなた」が「私」に感じているのは友情である一方、「私」はいつしか(ここがポイント。テストに出ます!)「あなた」に対して恋愛感情を持つようになってしまった。二人が成長して思春期を迎える頃、異性愛者である「あなた」の方は男子と恋愛をしてくっついたり離れたりな青春を謳歌する。他方「私」は「あなた」への恋心を内に秘めたままで過ごす。告白をしなければ一生親友としてずっと一番近くで傍に居られる訳で、そこには固く約束された未来がある一方、一生「私」は「あなた」に対する恋心を隠し続けなくてはならない。そんなこと本当に耐えられるのか。もし告白をして断られたりしたなら今の親友ポジションすら危うくなり今後傍に居られない可能性すら出てくる。しかも「あなた」は今現在異性愛者として振舞っているのだからますます同性である「私」には告白を受け容れられる未来は見えない。こんな時あなたなら、どうする?(…ここまで息継ぎ無し(笑))

このシチュエーションは百合コンテンツ(百合小説百合漫画百合アニメ百合ドラマ百合映画百合ゲームetc...)に於いては鉄板である。使い古された古典であるといってもいい。現在の百合コンテンツはその基本と伝統を踏まえた上で如何にプロットに個性を出すかを…いやいやそんな話は長くなるから置いておいて兎も角、そういう百合まっしぐらな歌詞をヒカルが書いてくれた事に心から感謝したい所存なのですよやっぱり。


しかし? この伝統的な解釈はそれはそれでいいのですが、『Time』の歌詞の上ではこの前段に例の一節があるんですよね。

『キスとその少しだけ先まで
 いったこともあったけど』

これよこれ。親友ポジションなのにキスより先まで行ったのか!それは一体どういうことなんだっ! 
百合男子が『Time』を聴いた時に本当に叫びたかったのはここだろう。ここをどう解釈するかで恐らく派閥が出来てしまうのではと…嗚呼、どうなんだろうな……今宵は何だか一気に捲し立てたせいで冷静な判断が下せそうにない気分なので一晩寝かせてから続きを書いてみますかな。取り敢えず(百合男子にとって)フツーの事が書けてよかったぜ。謎の達成感と満足感を感じているのでありましたとさ。

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『Time』がフル解禁された時に強烈にインパクトを残したのはやはり

『逃したチャンスが私に
 与えたものは案外大きい
 溢した水はグラスに返らない 返らない
 出会った頃の二人に
 教えてあげたくなるくらい
 あの頃より私たち 魅力的 魅力的』

のパートだろう。あそこでいきなり曲調が変わりつつもイントロから流れ続けるメイン・テーマ・フレーズが淡々と繰り返される辺りが肝なのだが、私が初めてここを聴いた時に思い出したのは『Making Love』のこの箇所だった。

『ヒアタリヨシ モヨリエキチカク
 トナリノジュウニンモイイヒトネ
 ヤサシイカレトノケイザイガク
 ミカケニヨラズシッカリモノデ

 ワタシトセイハンタイノアナタ
 アラタメテイウノハテレマスネ
 ワタシガハジメテホレタオンナ
 イマカライウコトヲキイテ』

特に似ているということもないのだけれど、曲調の変わり方と歌詞の載せ方がなんとなく連想をはたらかせたみたい。

この『Making Love』は御存知の通り長年のリアル親友さんに贈った歌なのだが、だからヒカルがインスタライブで『Time』の仮タイトルが親友の投与している抗癌剤から取られていたと言ったのを聞いた時にはなんだか腑に落ちたのだ。同じ匂いがしていたから。

14年も前の曲だし今はロンドンに住んでいるしで、「親友」と言っても同じ人かどうかわからない、と言えなくもないのだけど、ヒカルのあの淡々と病気について語る感じや、本来ならトップ・プライバシーである病歴を披瀝する事になる投与薬の名称をあっけらかんと言ってしまう態度からして生半可の信頼関係ではない、一朝一夕の関係ではないように思える。何より、『Making Love』で

『あなたに会えてなかったら
 親友はいらないね』

と宣言した手前、他の人の事を『親友』と呼ぶのは躊躇われるのではないかなと。もし他に仲がいい人が現れたとしても違う呼称にする気がするのよ。ソウルメイトとか朋友とか心の友よとか、何でも。

まぁそれはさておき、『Making Love』でも『無情に過ぎ行く時間なら』というフレーズがあるのだけれど、それと『Time』のこの『出会った頃の二人に教えてあげたくなるくらいあの頃の私たちより魅力的』という一節を併せて聴くと、『Making Love』でそのあとにくる『少し疲れて私たち Growing up』が、それぞれが成長する事と共に、二人の関係性自体もまた成長するものだったろう事も予言していたように思えてきて、何ともほっこりするのでした。歳とるのも悪くないもんだね。


なお『Making Love』には『感じてないのにフリはしたくない』というフレーズも出てくるけどこちらは『誰にも言わない』に通じるよね。その話はまたいつか。

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『Time』でキーワードとなる歌詞といえば『時を戻す呪文』だが、『戻す』で思い出す他の歌といえばまず『Goodbye Happiness』かな。正確には『戻る』だけど。他動詞と自動詞。

『Goodbye Happiness』では以下のように『戻る』が出てくる。

1番サビ:
『So goodbye happiness
 何も知らずにはしゃいでた
 あの頃へはもう戻れないね
 それでもいいの Love me』

2番サビ:
『So goodbye innocence
 何も知らずにはしゃいでた
 あの頃へはもう戻れないね
 君のせいだよ Kiss me』

3番サビ:
『So goodbye happiness
 何も知らずにはしゃいでた
 あの頃へ戻りたいね baby
 そしてもう一度 Kiss me』

となっている。

1番と2番では『戻れない』、3番では『戻りたい』になってるのがこの構成のいい所。だが、この歌が最も“違う”所は、『戻りたい』と言ってすかさず『そしてもう一度Kiss me』と歌う所だった訳だ。ノスタルジックに「昔は良かった。あの頃に戻りたい。」と述懐するに留まらず、敢えて戻ったとしても結局今と同じ道を選ぶよと言っている。ここが違う。圧倒的な現状肯定が郷愁を優しく包み込むのだ。なんて名曲…。それはさておき。

この歌では、『あの頃へは戻れない』という状態において、その原因は『君のせいだ』と言い放ち、その上で『それでもいい』と現状肯定の価値判断を行って今何をするかといえば『Kiss me』、「私にキスして」というお願いである。

その上で更に、『あの頃へ戻りたい』と願望を口にし、そして、本当は戻れないけどもし仮に戻れたとしたらどうするかといえば結局同じく『Kiss me』、「私にキスして」なのだった。

『あの頃へは戻れない』のは『君のせいだ』と言ってキスをねだるのだから、ある意味、『Kiss me』は「あの頃へ戻れなくなる象徴となる行為」でもある。俗っぽく言えば、キスすることで『goodbye innocence』、無垢にさよならする、ってことだね。大人になると言ってもいいかな。本当、俗っぽいけど。

この、「あの頃へ戻れなくなるkiss」が、『Time』の『時を戻す呪文』と対になっているように思える…と指摘するのは飛躍し過ぎだろうか。もっと言えば、『時を戻す呪文』には「kissより前」に戻す力があるからこそ、『Time』でわざわざ『キスとその少し先までいったこともあったけど』という、そこまでの流れからするとかなり唐突な生々しさを伴うフレーズが差し挟まれているのではないだろうか。ヒカルからすれば、『Goodbye Happiness』で歌った事を念頭に置けば、『Time』のどこかに『Kiss』を入れなくてはならなかったのではないかなと愚考する訳である。歌詞を見るとカタカナの『キス』だけどね。

となると、『kiss me』と対になる『時を戻す呪文』とは具体的には何なのか?という常なる疑問がぶり返してくる訳だが、はてさてそこから先は私いつ書けるやらサッパリわからないので差程期待せずにお待ちうただければ幸いかなと存じ上げます。

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『Time』の『溢した水はグラスに帰らない』の一節はちょっとした発明だよね。元々『覆水盆に返らず』という諺/故事成語があって、それを歌詞に載せられるように盆をグラスに置き換えた、という事なんだろうけど、なんだか「藪から棒に」を「薮からスティック」に言い換えたルー大柴を彷彿とさせる(笑)。

実際、ヒカルは今まで古風というか古語や漢語を歌詞に幾つか取り上げて来てた訳で。いちばん有名なのは『traveling』の『春の夜の夢の如し』『風の前の塵に同じ』だろうかな。これらは平家物語か。『パクチーの唄』の『学びて時に之を思う』も。こちらは孔子の論語だね。そういうのを洋風のPopsに大胆に入れ込んできてた。だが流石に『覆水盆に返らず』はそのまま使えなかったからこういう風にアレンジしたのかな。

もうひとつあるかもね。タイアップ先の『美食探偵 明智五郎』はその名の通り美食をテーマにしたドラマで、場面々々でグラスを傾ける描写が出てくる。ある回ではグラスをトリックにした殺人事件まで飛び出した。ヒカルが原作漫画を読んだタイミングはわからないけれど、劇中で使われる事も意識してグラスに書き換えたのかもしれない。だがお盆を使ったトリックもあったので、結果的に気ををまわしすぎたかなと。もっとも、この諺でいう「盆」って「ボウル」の事だそうなので、これはこれでよかったか。

元々『覆水盆に返らず』は太公望(「封神演義」の人ね)に纏わるエピソードとして伝えられていて、元々の由来が「一度離婚した夫婦は元に戻れない」という意味なのだけれど両親が6回以上離婚と結婚を繰り返した宇多田ヒカルさんからすれば「何言ってんだそんなことねーよ」なお話なのかもしれない。とはいえ、『Time』というタイトルの曲で「時間の不可逆性」を象徴することわざを使ってきたのはやっぱり慧眼と言わざるを得ませんわね。でも遠い未来では、今のヒカルの発言や行動が故事成語やことわざになっている可能性もあるよねぇ。それまで生きてみたいわ。

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流石に半月も経てばインスタライブのない日曜日に慣れてくるだろうと思っていたら、なんだろう、逆に余計に寂しくなってきているような。贅沢を覚えるとこれだから人間は。全くもう。

でも実際、顔を出して喋る時の情報量は凄い。お陰で年齢を重ねても人間性に揺るぎがない事を如実にわからせてもらった。最近では“変質”への不安は全くと言っていい程ない。寧ろこんなに変わらないままでいいのかと昔『傷つき易いままオトナになったっていいじゃないか』と歌った貴女を問い詰めたいくらい。その上、いちばん新しい曲では『永久に傷つきたい』ですって。『傷つき易い』から『傷つきたい』にまで強烈な進化を果たしている。状態の描写から意志の主張へと。宇多田ヒカルは昔ただただ「そういう人間」であって、そこから変わる気がなかっただけだったのだが、今やそれを受け容れて自分の意志で「そういう人間であろう」としている。willが強い。


ここで、いつも立ち止まって考える。歌の歌詞を、時折我々はヒカルの本音だと、マニフェストであると捉える。例えば『道』で『調子に乗ってた時期もあると思います』と歌った時などはなんだか素直に「へぇ、ヒカルさんてそんな風に思ってたんだ〜」なんて納得してしまった。でも、これは歌詞なんだから別にヒカルが本当にそう思ってる必要も必然性もないのだ。登場人物の話でしかないと解釈してもいいわけでな。

だが何故か、その“理屈”より、第一印象の方が信じられる気がする。だから『誰にも言わない』で歌われている事も、ただヒカルがそう思ってる事を口にしただけ、と感じる場面が何度もあって、きっと、それがいちばん確からしいのではないかという感触がある。

難しいのは、だからといってヒカルが「誰にも言わない関係」を実際に持っているとは限らない事だ。本音を伝えている節もあれば、歌詞だからと虚構を織り交ぜた節もある。それをまずは直観で振り分けていくのだけれど、当然その解釈が間違っている事もある。更にタチの悪いことに、今回の場合、本当に『誰にも言わない』のなら、我々は永久にその事を検証出来ない。言ったら嘘になるんだもの。言える筈が無い。もしそんなことがなかったとしても、何にも言わないわな。言うことがないんだから。結局どちらにせよ、我々は追究できない。

だから『I won't tell』は「わからない」なんだな、とうまく収まっているからますます腹が立つ。してやられた嬉しい笑顔をして、だけど。


芸術家の交友関係や恋愛関係というものは後世の研究家にとって極めて重要だ。多くの場合作品の動機、モチーフになっているのだから。ダ・ヴィンチのモナ・リザは誰なのか、ベートーヴェンのエリーゼは誰だったのか。皆が躍起になって研究してきた。それは偏に絵画「モナ・リザ」や楽曲「エリーゼのために」が素晴らしかったからだが、ならば我々にとって『誰にも言わない』もまた素晴らしいのだから、仮にこの歌のモチーフになった存在が居るのならば知りたいのだ。しかし、タイトルの通り、それは永久に叶わない。またも書くしかないのよね、『なぞなぞは解けないまま』なのだな、と…。

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週末にヤフトピなんかを開くとまぁ出てくるわ出てくるわ不倫の記事が。自分が普段お笑いの記事を多めに見ているせいもあるのだけど、よくもまぁこれだけひと様んちの家庭事情について書くことがあるもんだなと感心してしまった。誰が得してるのかわからないんだがそれだけ需要があるんだろうな。この分野に関しては、時代は変わらない。

教訓は勿論、「有名人の不倫記事が出るとこんなことになる」という話です。目下、すわ不倫かという2曲を連続でリリースしたヒカルさんもラジオのゲスト出演で「私、浮気したことあります!」とかって元気に白状してる場合じゃござんせんのよ。

その時は事なきを得たのだが(昔の話だからね)、これは浮気相手が誠実だったということもあるかもしれない。痴情のもつれがあったならリベンジポルノじゃないけれどタブロイドにエピソードを売りつけるリスクもあったのかもしれないが、ちゃんと相手を選んでいたからそんな事にはならなかった、と。あと日本国外在住だと取材のしようがないのかもわかりませんし。

今回話題になったコメディアンと役者さんの場合、夫婦でコマーシャルに出ていた事もあるらしく(テレビを観ないから知らないのだ)、「スポンサーの意向」というのは大きかったかと思う。流石にもう21世紀だし、商品イメージを託すキャラクターには細々様々な契約が取り交わされていたかとは思うからまぁそんなの規定の違約金を払えばおしまいでこっちの知ったこっちゃないしそれに犯罪でもあるまいしね。夫婦間という事であれば違法行為や不法行為があったのならそれはそれでそっちで解決してくれればいいし…というのはこっちが普段テレビを観ていないから言える事であって、出演番組を楽しみにしていた向きには余計な水をさされた感じでしょうな。無料で民放を観ている以上、スポンサー案件は避けて通れないのだぜ。

その点、ヒカルさんは今回うまくやっている。いや離婚なさってるなら不倫も何もないのだけど(交際相手が妻帯者・夫帯者というパターンもあるかもだがそこまでは知らん)、そこではなくて、スポンサーに対してうまくやれてるなと。

『Time』に関しては、ドラマのイメージが大きい。ここぞという時に流れてくれて、どちらかというと純愛寄りの雰囲気を醸し出している。禁断の愛とかそんなドラマなので不倫云々なんて言ってられないしね。これで『Time』にネガティヴイメージがつくこともないだろう。

『誰にも言わない』もまた、サントリー天然水のオーガニックなイメージとシンクロする月夜の逍遥の物語。これが逢瀬帰りの一節だとはCM観てるだけの人には気づかれまい。フルコーラスをかけるラジオ番組については、ラジオ曲全体が宇多田ヒカルの味方なのでネガティヴイメージを出すなんてことも無い。テレビとは違うのだ。

つくづく、更にレピュテーションが大事な時代になったなと痛感する。目先の収益を優先してレピュテーションリスクをとるより、少々の収益を犠牲にしてでも地道にレピュテーションを上げていく方が有利だ。サブスクも考えると更に、ね。巧まずとも時代に即した生き方になっているのは過去21年間いつもの事だったけど、こんな大御所ポジションまで来てもこのままというのは千里眼の為せる業としか思えてこない。今後も海外で安全圏な私生活を送って欲しいものである。

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この日記で『真夏の通り雨』が母への哀悼歌であると共に不倫の歌でもあると指摘した時は心底ガッカリされていた気がするが、『誰にも言わない』はもう最初から不倫の歌全開な筈なのにあんまりガッカリされてない気がするのは何故なんだぜ。

『真夏の〜』に関しては後日ヒカルから訂正があり、「若い頃の事を思い出していた」話ということだった。現在進行形で他に付き合ってる人が居るのではなく、昔付き合っていた人のことを頭の中で思い出していた、というね。確かにそれなら不倫じゃないわな。内心の自由もまた保つべき倫理のひとつの筈だから。(この国ではそれすら保証されてない感じだけど。輸入概念だからかね。)

一方、『誰にも言わない』はもうあんまり言い訳しなくていいよねこれあからさまにイケナイことだよね、という雰囲気。タイトルからして他の人たちには秘密にする事だと言い切ってはるのだもの。

英語の部分は「心配されちゃうから友達たちには言わない。何が起きても誰も責めない。(自分で責任を取るよ、と)」と歌っているし、何より、『One way street 照らす月と歩いた』、ってそれ今夜を共にした人と一緒に帰ってないからね? 一人で歩く事を『月と歩いた』って表現するところが詩的で堪らないんだが兎に角この歌の主人公は2人で連れ立って家路につくのが叶わない相手と情事に耽っていたというね。朝帰りですらない。そんな事したら疑われるかバレるかしちゃうもんね。その日のうちに帰る家が、その相手以外の人とのお家が別にあるから一方通行の道を一人で歩いて帰ってるのよ。二時間だけの夜のバカンスから。(なんだそりゃ)

英語の部分では「あたしのこと満足させられるの? 何が欲しいかわかるわよね? あなたのカラダよ。」と官能小説エロゲエロマンガブルーフィルムまっしぐらなセリフをストレートに歌う。本当にどこまでも身も蓋も無く世俗に塗れた一場面を歌った歌なのだ。



なのに宇多田ヒカルのレパートリーの中でも最も神聖な雰囲気が大きいのは何故なのだ??? ある意味、『Passion/Sanctuary』以上に人の心の聖域を表現している。あの透明感溢れるサウンドをして『情熱』と名付けたセンスが、15年の時を経て更に、もっと身近で世俗的で肉体的な主題と、神聖で普遍的で形而上学的な主題を融合する事に、成功している。まるで最初から本来そうであったかのように、しれっと。悪びれる事も力みかえることもなく、極々自然にこの領域に達している。ますます、意味がわからない歌である。やはり、『I won't tell』という英語のタイトルは「わかりようがないわっ!」というこちらの心の叫びなのかもわからない。

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でその『誰にも言わない』のあまりにも普通じゃない曲構成。AメロBメロサビ/ヴァースブリッジコーラスの流れが当然だと思ってるとどこから手をつけたらいいかわからなくなる。

歌い方の一様性からもわかる通り、この曲はどのパートも等しく重要だ。元々ヒカルの曲は決めフレーズ以外にも印象的なラインを楽曲中に鏤めるのが特徴だったが、ここに至って最早決めフレーズのみで楽曲を構成したような。最高傑作と呼び声高いのも頷ける。

また、前々回述べたように、同じメロディでも楽曲の中で役割を変化させていくのが素晴らしい。ここを思い込みで聴いてしまうと流れを見失う。ピコピコサウンドがそれを助長していなくばいいのだけども。


実際、『Can you satisfy me?』という突き付けたセリフの強度みたいなものが、あのシュガーコーティングでややわかりづらくなっている。それは糖衣─オブラートとしての機能を持たせたのかもしれないが、インパクトを狙ってもよかった気がする。このあと『I just want your body』という自己主張〜身も蓋もない“結論”を導くのだから。

ここ、あたしとなりくんでは、恐らく「宇多田ヒカルのパブリック・チャンスイメージ」にズレがあるのかもしれない。彼は友人として(?)ヒカルの実際の姿を知っているので、その上で市場の商品である“宇多田ヒカル”をより客観的に見ようという作用がはたらいたのではないか。となると、市場における良心とか安全牌的な立ち位置を鑑みて、インパクトよりは少しPopで遊び心溢れた側面を出した方が宇多田ヒカルらしいと判断したのかもしれない。いや、あれがなりくんのサウンドだとしたら、の話ですがね。

こちらは、宇多田ヒカルというのは稀代のアーティスト、表現者であるから、人間の深奥を突く存在だと予め(無意識裏に)身構えている。実存性を左右する領域に一気に踏み込んできて魅了するのが真骨頂と思い込んでいるのだ。それはある程度真実なのだが、それがリスナーとしての期待を形成している。

その為、より本質に直接触れる表現を好む。もっと平たく言えば、Popでなくても構わないのだ。毎度指摘しているように、ヒカルは音楽リスナーとしては“Popファン”じゃない。それは『Kuma Power Hour』の選曲でも明らかだろう。仕事として、或いは生き方としてPop Musicに携わっている。熱狂的なファンはそこを入口としたとしても、ついていくからにはそこから先を知りたいと望んで臨んでいるのだ毎回。

そういう意味では、「ちゃんとマーケティングできていないなぁ」というのがこちらからの感想になるのだけど、逆説的な結論過ぎるかな。どちらが本当に市場を気にしているのかわかったものではない。まぁ、売れる売れないを言える市場がもうないようなものなので言っても仕方の無い事なのだけれど、誰に聴かせたくて音源をリリースするのかって本当に難しいね。

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ちょっと胡乱な遊びを。

「『Time』の歌詞を、“宇多田ヒカルが長年のファンとリスナーに向けて送った感謝のメッセージ”だと思って読み解いてみる。」テスト。

これをファンの側からやるのはくすぐったくてこそばゆくてイヤ本当のことを言えば気持ち悪くて気色悪くて仕方がないのだけど、我慢してやってみるぜw



***** *****



『カレシにも家族にも言えない
 いろんなこと
 あなたが聞いてくれたから』

あー、これは歌詞の話ですねわかります。普段周りの人に話せないような事でも歌にすると言えちゃったりするしね。そういう歌詞を書いて歌ってそれに対して沢山リアクションしてくれてありがとうってところかな。うふふ、ヒカルさん、いいのよそんなのはw(……我慢我慢……)


『降り止まない雨に打たれて泣く私を
 あなた以外の誰がいったい笑わせられるの?』

うんうん、幾つも辛いことがあったけれど、ファンからの励ましと応援とつまらないギャグの数々で笑顔を取り戻せた事もあったってことね。わかるわかる。(……我慢我慢…(書いててゾワゾワしてくるねこういうのw ))


『大好きな人にフラれて泣くあなたを
 慰められるonly oneである幸せよ』

嗚呼、昔から「このたび失恋したのですが、Hikkiの歌を聞いて慰められました!&励まされました!」っていうファンメールを山ほど貰ってきたろうからねぇ。そういう時の人生のサウンドトラックを提供できてて職業音楽家として誇らしい、と。なるほどね。


『逃したチャンスが私に
 与えたものは案外大きい
 溢した水はグラスに返らない 返らない
 出会った頃の二人に
 教えてあげたくなるくらい
 あの頃より私達 魅力的 魅力的』

あーこれは人間活動期の事を言ってるのかな。逃したチャンスってのは、アーティスト活動をやってなかった時期のことか。でも、それで得られたものは大きかったと。で、実際、今のファンとの関係は人間活動期以前よりもずっといい感じなのだと言いたい訳ね。いやこれは本当にそうかもしれないな……(いきなり真顔に戻る俺(我慢はどうした))。



で、それらを踏まえるとラストの

『友よ
 失ってから気づくのはやめよう
 時を戻す呪文を君にあげよう』

の歌詞が意味深に響くこと響くこと。もしこの歌がファンへの感謝のメッセージなのだとすると「何が言いたいんだろう?」と悩んでしまうよね。

そしてこの流れだと『時を戻す呪文』ってのは昔からの曲調を継承するこの『Time』という楽曲そのもののことになるのでは?という結論・疑問に辿り着く。はてさて、一体誰が誰を守るための嘘をついていたんでしょーね? なぞなぞは解けないままずっとずっと魅力的だった………?

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『誰にも言わない』の構成で絶妙だと思ったのは

『明日から逃げるより
 今に囚われたい
 まわり道には
 色気がないじゃん』

のパートだ。ここ、メロディ自体は『一人で生きるより〜』『罪を覚えるより〜』の箇所とほぼ同じなのだが、「尺は同じなのに歌詞の量が半分」なのだ。

どういうことかというと、一番のBパートの歌詞が

『一人で生きるより
 永久に傷つきたい
 そう思えなきゃ楽しくないじゃん
 過去から学ぶより
 君に近づきたい
 今夜のことは誰にも言わない』

であるのに対して、

『明日から逃げるより
 (何にも言わない)
 今に囚われたい
 (何にも言わない)
 まわり道には
 (何にも言わない)
 色気がないじゃん』

という構成になっているのだ。「(何も言わない)」箇所は、文字通り何も言わない・歌わない。ただの全休符小節である。

ここが何故絶妙なのかというと、一番二番の『一人で生きるより〜』のパートがそれぞれその直前の『いくつもの出会いと別れ〜』『完璧なフリは〜』のパートを“受けて”立ち上がるメロディ&歌詞であるのに対して、『明日から逃げるより〜』のパートは、ここから始まる起点となるメロディ&歌詞として機能しているからだ。同じBパートでありながら、役割が異なる。その差異を、この「(何にも言わない)」パートが表現しているのである。


更に踏み込んで言えば、『誰にも言わない』は、ABCでまずひとまとまりの歌、さらに次にBCDでまた別の構成のひとまとまりの歌が重なって組み合わされた楽曲であるとも捉えられるのだ。同じBパートが違う役割で機能しているとは、そういう事でもある。


そこのところを突っ込んでいくには全然尺が足りないのでこれについてはまた稿を改めてのお楽しみということでひとつ。

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『Time』と『誰にも言わない』は、歌唱法も対照的だ。

『Time』は、まさにシンガー・宇多田ヒカルの真骨頂。高音から低音まで切なさの表現を極めた技術が満載である。いつもの細かいビブラートにいつもより更に多めに入れておりますのエアヴォイス、声を伸ばすも掠れさせるも自由自在、場面々々に合わせてダイナミックに歌い分けていく。泣き顔も笑顔も声の出し方ひとつで表し分ける、エモーショナルな、ヒカルの伝統的なスタイルだ。

一方、『誰にも言わない』は徹底して囁きスタイル、ウィスパリング・ヴォイスで統一されている。兎に角声を張らない。勿論、ヒカルも初期は声量に頼らない表現力が注目されていた訳だが、このウィスパーはそこから更に踏み込んでいて、全体に発声や感情の発露に抑制が掛かっている。もっと言えば、盛り上げる気が全く無い。ただ自然な流れで節回しに色気をつけていくのみだ。まわり道には色気がないじゃん。(ここではあんまり関係ないじゃん)

『Fantome』〜『初恋』〜『Laughter In The Dark Tour 2018』で、初期と比べると圧倒的に豊かになった声量を示していたヒカルが、『Face My Fears』『Time』というその成長した声量を活かす曲を続けて発表した挙句にこの静かな静かな節回しの『誰にも言わない』を投じてきた。それはいい意味でもそうじゃない意味でも戸惑う人を増やしたのではないかな。皆の感想が気になるところだ。


一聴した時の感想は、私の場合「ケイト・ブッシュみたいだな」だった。彼女も最初の若い頃は天使の高音と小悪魔が囁くかの低音の組み合わせで魅了する歌手とみられていたが、今や大ベテラン(今年でもう62歳になるのか)、呟くような歌い方でも説得力が違い過ぎる伝説的なヴォーカリストとなった。なおヒカルがTwitterでたった2人しかフォローしていない女性歌手のうちの1人である。もう1人はビョークだ。さもありなん。なんか、ああいう、超然とした囁き方に聞こえたのだヒカルの歌も。

ケイト・ブッシュといえば2005年にリリースされた「ARIAL」というアルバムに(もう15年前になるのか…)“Pi”という曲がありましてね。知らない人は驚くと思う、なんとこの曲、その名の通り「π(パイ)」、即ち円周率の数値を延々歌う歌なのだ(それだけじゃないけれど)。しかし恐るべきはケイト・ブッシュ、ただの数字の羅列をまるで秘密の呪文の如く神秘的に歌い上げる。技術も上等だが、それ以上に、この人が歌えば歌詞が無意味であってすら特別なものになりえる、そんな精髄を極めた歌唱法なのだ。

ヒカルも、何か、『誰にも言わない』での歌い方を通して、その超然とした領域に足を踏み入れ始めたように思う。それこそケイト・ブッシュやビョークのようなね。だけどこの高みが「第一歩」なのだとすると、我々はこのあと数十年、とんでもない経験をする事になるかもしれぬ。意地でも生きねばの。



…生きねば、といえば、余談になるけれども、「風の谷のナウシカ」や「風立ちぬ」のキャッチコピーだわね。『誰にも言わない』のこういう歌い方を聴くとあたしゃいつも「もののけ姫」のシシガミ様を思い出すのよ(こちらのキャッチコピーは「生きろ。」だが)。「声出さへんやんけアイツ!」というのはもっともなんだけど、なんか、こう、“歌の目つき”が似てるような気がするんだよねぇ。通じるかな? 歌に目ぇあるんかいという感じやけども。で『Time』の方は…あの激情ぶりはやっぱりエボシ御前かな………。…なんでPop Songの歌い方を四半世紀前の映画の登場人物で例えてるんやろ私…。余談でしたとさ。

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サントリー天然水のCMの時点で『誰にも言わない』という楽曲は自分にとってインパクト抜群の歌だった。次のアルバムのタイトルトラックポジションだろうと即座に感じたくらいに。とはいえ、そこから後に聴き込んで気づいたこと、即ち最初に聴いた時には気づかなかった魅力に後から気付かされた部分もあったのだ。


最も顕著なのが、楽曲最後、4:14からラストまで続く『Oh Yeah...』のパートである。Apple Musicで閲覧している限りにおいては歌詞が表示されていなかったので、最初聴いた時はアドリブパートの骨格を提示した感じなのだろう程度に受け取っていた。しかしそれは、あたしがなまじっかついついライブを想定したがってしまう故の勘違いだった。このパート、ここだけで独立した魅力を放っているのよ。そうなのよ。

それに気付かされたのが、インスタライブの第5回、ヒカルが『誰にも言わない』を弾き語りで披露してくれた時だ。弾き語りとなると楽器陣に支えて貰えない為、元々フルバンドを想定して構成された楽曲である場合途中を省略したり簡略化したりして演奏するものなのだが、ヒカルはこの『Oh Yeah...』のパートを非常に拘りをもって歌っていた。その姿を見て、「嗚呼、確かにここ、いいじゃん!」となったのだ。

面白いもので、今までと耳に入ってくる音は全く同じなのにその時点から『Oh Yeah...』の印象がまるで変わった。如何にひとが音楽を聴く時に予め持っている知識が偏見として作用し易いかというのを示すわかりやすい例だった。勿論、知識のお陰で演奏者や作曲者の意図を即座に読み取れるケースも多いので知識はある事に越したことはないのだが、時にこうやって弊害として作用することもあるのだといういい教訓になった。今回の場合は「エンディングに歌詞のないパートがある場合そこはアアドリブベースなのだ」という中途半端な知識が邪魔をした。悔い。

それを踏まえると、以前この楽曲の構成を「ABBCABBBCCDDEE」だと解説したが、この『Oh Yeah...』のパートも併せて「ABBCABBBCCDDEEFF」だと書き直したくなったわ。それくらい、この『Oh Yeah...』のパートは『誰にも言わない』の構成上重要だ。いちばんシンプルでキャッチーなパートだしね。


こういうことがあるから、作曲者自らが演奏し歌う姿を披露するのは(今回はネットでだったけどね)非常に有益、有意義なのだ。ヒカルも、自分の作曲意図を人々により知らしめれるチャンスなのだと認識して今後も機会があればどんどんインスタライブで弾き語りを披露して欲しい。…と、自分の欲望丸出しで締め括っといていいかな今朝のこの日記?(笑)

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