昔からミュージシャンについて語る日記を書いていてずっと気になっていた事がある。それは、「読者に耳の聞こえない人は居るのだろうか?」という疑問だ。
(“ミュージシャンについて語る日記”と言い切ってしまったが、ここを書き始めた時最初「宇多田ヒカルの話も沢山書きますんで」って言った筈なんだが。まさか8割方ヒカルの話になるだなんて思ってもみなかった。最初に溜まってたネタは40回分位しかなく(それでも結構なもんだな)、1ヶ月で使い果たす予定だったのに今やその百倍書いている。どうしてこうなった。余談でした。)
より正確にいえば、歌について語るのは聾唖者を蔑ろにしてやしないかという懸念であり、宇多田ヒカルという天才の歌声が届かない事自体へのもどかしさや申し訳なさ(それは私が感じるべき事ではないが)がずっと心に引っかかっていたのだ。そもそも先天的であれ後天的であれ、今耳が聞こえない人は音楽を聴く習慣が日常にない筈だ。あるとすれば、大音量の重低音で地面が揺れるのを身体で感じる、といった事だろうか。それなら確かに、音楽的体験かもしれない。
ヒカルは作詞家でもある。もしかしたら耳が聞こえない人の中にも、ヒカルの詞をどこかで読んで感銘を受けているかもしれない。そうであれば凄いな、とは思うがだとしてももどかしさは益々募る一方だろう。
しかし、さっきエキセントリックな事に気がついた。「うた」とは、前に書いたように「節と詞が合う時空」の事である。節、即ちメロディーというものは確かに空気の振動であり音以外では有り得ない。そして、"以外では有り得ない"からこそ本物であり実在だ。詞は言葉だから音である必要はない。書き文字として視覚に訴えてもいいし、掌や背中に文字をなぞっても、つまり触覚でも伝わる。なぜ詞が音に乗せられているかといえば、節が音だからだ。それだけだ。
逆にいえば、節が音でない何かならば、詞は音である必要はない。そして、音ではない節と音ではない詞が合う時空もまた「うた」と呼んでいいのではないか。それが今日私の気づいた事だ。
ならば、耳の聞こえない人にも伝えられる「うた」がある。もっといえば、「うた」のよさを伝える方法は音だけではない可能性がある。だとすれば私の懸念やもどかしさは、いつか遠い未来に雲散霧消するかもしれない。生きている間は無理かもしれないが、その希望(のぞみ)があるだけでも、生きとけそうだ。
ヒカルは「うた」の人だ。とりわけ「音」の人でもある。しかし将来はもっと大きく「うた」と向かい合って、耳の聞こえない人にも届く「うた」をうたえるかもしれない。聴覚以外の、視覚や嗅覚や味覚や触覚で。それをするには人生の時間が足りないけれど、ヒカルがその希望を知るだけでも未来は変わると思うのだ。うたはまみれている。人の心の澱にも上澄みにも。知る事は恐ろしい。だから、今。丁寧に「うたう」以外にない。いい歌は「合う」に近づく。近づけば近づくほど音だけではない「うた」の世界が広がっていく。一体いつの話をしてるのか解らないが、今日気づいた事は今日書く。それが日記というものなのです。
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