無意識日記
宇多田光 word:i_
 



ピアノによるアルペジオ主体の前半は単和音の連続打鍵に姿を変えて後半の楽曲を終始貫く。それを背骨にして後半は後半で主役となる旋律が登場する。『私たちの続きの足音』の直後、2:40頃に左側からアルトのピアノで奏でられる主題がそれだ。

この主題が2回繰り返された後ドラムが入ってきて楽曲の調子は激しさを増す。旋律自体が徐々に沈み込むような音符の配置を持っているが、ここでピアノは更にオクターブを下げ、より楽曲の重厚感は増してゆく。歌は『Everybody finds love in the end』の所だ。ここでもこの主題を2回繰り返した後、『もう二度と会えないなんて信じられないまだ何も伝えてないまだ何も伝えてない』の箇所に至る所で更に更にオクターブを下げる。しかしその最低音を担う役割は左のピアノから中央のエレクトリック・ベースにバトンタッチされる。

斯様に桜流しの後半は「三段重ね」の構成によって、ただでさえ単体でも沈み込むような旋律を、更に更に深く深く物語の中に潜み込ませてゆく。一方で「私たちの続きの足音」はこの間全く調子を崩す事なく淡々と奏でられ続けていく。この対比。こうやって主題が徐々に沈み込んでいく事で主人公の絶望の深さをひとつひとつ辿っていった挙げ句の『まだ何も伝えてない』なのだ。絶望の深さの表現。それに伴い、最低音へと移行していった後の空間を埋めるように、或いは押し退けるようにギターやストリングスが続々と切り込んできて楽曲は迫力を増してゆく。その一回目の頂点が二つ目の『まだ何も伝えてな(ぁ)い』の一節だ。いや、この一節の『(ぁ)』こそこの楽曲のハイライトにして後半の転回点といえるだろう。というのもここで急転直下、さっきまでひたすら沈み込んでいたあの主題たるベースラインが、まるでその『な(ぁ)い』の高音に引っ張られるようにして突如上昇音へと変化(へんげ)するのである。ここの鮮やかさ。
ここから『開いたばかりの花が散るのを』、と楽曲の冒頭と同じフレーズに戻ってくるのである。鮮烈なる起承転結の構成美。本当に見事という他はない。素晴らしい。

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漸く桜流し以外の音楽も聴いてみる気がおきてきたが、聴いてみても「やっぱり桜流しは素晴らしい」という感想ばかり出てくる。ではあるが、その割にどの音楽を聴いていても何だかいつもよりよく聞こえている気がする。多分、光の新曲を浴びまくって幸せな私の耳の「機嫌がいい」のだろう。全く現金なものだ。

ピアノの動きと主人公の目線の動きがシンクロしている、という話を続けてきた。特に、降下分散和音に彩られた『あなたが守った街のどこかで今日も響く健やかな産声を』から『聞けたならきっと喜ぶでしょう私たちの続きの足音』において"あなた"を思い返す場面で夜空を仰ぎ見るように上昇分散和音を奏でる場面はとても気に入っている。"あなた"を想って見上げるよなぁそりゃあ、とついつい納得してしまう。この感傷的な幻想美から違和感なく単和音の連打がピアニッシモで始まるのだが、ここからの激動の展開に説得力を持たせるのが『もし今の私を見れたならどう思うでしょうあなたなしで生きている私を Everybody finds Love in the end』での和音の残像である。これがあるから、柔らかで静かな単和音の連続が激しいバンドサウンドを導き入れるのに違和感がない。伏線とはこう機能すべしというお手本のような構成である。

ここで一旦引いて、また降下アルペジオ(分散和音)の小さな煌めきに戻る際によい役割を担っているのが、一度目の『finds love』 の直後に左チャンネルから舞い降りてくる弦楽器系のシンセの旋律である。ここが巧い。この、小さく雪崩落ちるような旋律によって一旦ここで盛り上がった感情はリセットされる。一度目の『In the end』と二度目の『in the end』の見事な歌い分けをスムーズに聴かせる為にも、ここでサイレントカタストロフともいうべきフレーズを入れたのは効果的であった。まるで春先の雪解けが小川に合流するような、そんな感触だ。或いは岩場に詰まって流れ損ねていた川面の桜の花びらが堰を切って一気に流れ出すような艶やかさというか。活躍しているのはピアノだけではないのである。

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桜流しの序盤のピアノは、即ち和音の変化の物語である。桜の花びらが舞い落ちる様であるとか星降る夜空の下の街並みであるとか、そういう比喩も可能であるけれども、そして、その比喩は歌詞と対比して非常に強くそういう解釈の元描かれているだろうことを示唆しているけれども、別にその比喩に囚われる必要もない。

最初のイントロから1番への展開は、もっとシンプルに雨滴の様子の比喩だと解釈してもよい。であるなら、この分散和音から連続和音への流れは、雨が降って地面や水面に当たり地を流れ始める様子だという風に捉えられる。そこに桜の花が絡んで、という風に色をつける事も出来る。要は、分散和音のパートは儚げで幻想的で、連続和音のパートに入るにつれ地に足のついた、着実な現実と向き合うようになる、という事だ。

しかし一旦、『Everybody finds Love in the end. 』のパートを経てまた幻想的な分散和音に戻る。そして、ここからが要である。

『あなたが守った街のどこかで今日も響く健やかな産声を聞けたならきっと喜ぶでしょう私たちの続きの足音』。ここで印象的なのは産声の事を"続きの足音"と喩えている事だろう。比喩として違和感はないが、かといってこう言う必然性も薄いようにも思える。しかし、ここはこうでなくてはならない。その後にピアノがピアニッシモに、しかし着実に和音を刻み始めるからである。リズム自体は冒頭から連なる332の混合拍子なのだが、最早分散和音ではなく、強拍のみ最高音を打鍵する和音でもない。全音をコンスタントに打鍵し続ける、静かに、淡々とした伴奏である。これが『私たちの続きの足音』なのだ。分散和音によって空から舞い降りた夢が地面にぶつかり現実と向き合い、カタストロフを経てしかしそれでも小さく力強く前に進もうとする生命力は地に足をつけて時間という名の足跡を記してゆく。よくよく聴いてみて欲しい。このピアニッシモの和音は、この後楽曲が終わるまでひたすら続いてゆく。夢の続きを託された小さな命の歩みは、このあとの激動にあ
っても揺らぐ事なく時を刻み続けるのである。この『私たちの続きの足音』たる単和音のリズムに辿り着く為に、冒頭からの分散和音は用意されていたと言っても過言ではない。ドラマティックなアレンジメントとは、この桜流しのピアノにこそ相応しい形容である。

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注意書きばかりタイトルに書いていたらどの記事がどんな内容なのか執筆者が把握出来なくなっていくので、そろそろ通常運転に戻る。引き続き、EVAQを観ていない人は注意が必要である。

前回肝心な事を書き忘れていた。2番で改めてイントロと同じフレーズに戻る所の解釈をしていなかった。あそこは、桜の花びらや雨滴が滴る様を描写していると読むより「星の光降る夜空」を思い浮かべるといいかもしれない。降下分散和音が星々の煌めきを代弁し、夜空を仰ぐ主人公がまずそこに居て目線を落としていき、"あなた"の守った町を俯瞰した後、もう一度夜空を見上げて"あなた"の事を想う―その情景をピアノの音の高低上下で表現していると捉えるのである。

この曲のサウンドと歌詞の密接ぶりは抜群である。というか他に追随出来ている人間すら見当たらない。光の独壇場だ。更にピアノの調べを事細かにみてみよう。

ピアノのメロディーは、今までみてきたように、最初降下と上昇を繰り返す。目線でいえば上下方向への動きである。人は思い出を語る時空を見上げ、儚さに悔いる時下を向く。感情の起伏を浮き沈みと表現するように、音の上下は心の明暗を巧みに描写する。

一転。『私を見れたならどう思うでしょう』でピアノの様子が俄かに変わる。それまで繊細に音の滴を落とし続けていた音色が束になって力強く前に進み始める。細かく言えば。混合拍子の強拍(1、4、7拍目)のみ和音の最高音を奏でているのだが、ここで私がイメージするのはこうである。空から舞い落ちてきたもの―桜の花びらでも雨滴でもいいけれど、それが地面や水面に当たりそこから土の上を流れていく様をここでは表現しているのではないか。それまで上下に動いていた目線が横、或いは前後へと向けられる。ひらりはらりの世界から力強く前に進み始めるその方向転換を、この和音の連打は示しているように思われる。実際、ここの歌詞は『もし今の私を見れたならどう思うでしょう あなたなしで生きてる私を』と、先程まで夢想的に過去を振り返っている主人公が今という現実と向き合っている。

しかし、2番以降が一筋縄ではいかない。というか1番2番という区切り自体そぐわない。

『あなたが守った街のどこかで今日も響く健やかな産声を聞けたならきっと喜ぶでしょう 私たちの続きの足音』―この部分、先程から述べているように、上下する分散和音の中で主人公が感傷に浸る場面なのだが、ここに先ほどの力強い和音のリズムが伏線として効いてくるのである。以下次回。

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前回は、ピアノの音の上下と主人公の目線の動きがシンクロしている点を指摘した。空から舞い落ちてくる桜の花びらを見上げ、その落ちてゆく様を見やる為に視線を下げてゆき、隣に居るあなたが「今年も早いね」と呟くのを少し見上げる。この上、下、隣の目の動きをオクターブの上、下、真ん中で表現している。

肝心な事を書き忘れていた。ピアノのメインフレーズは332の混合拍子分散和音を2回繰り返した後上昇して儚げな和音で締めくくられている。ここの情感について語らなければいけない。上昇分散和音は最初から降下分散和音に左側から慎ましく寄り添っていて、降下が止まる所でぐっと前に出てくる。ここをどう解釈するか。ひとまずこれは、花びらが水面に落ちて波紋が広がっていく様子、或いは雨が水面を打ちつけ水滴が反射する様子などを想定しておく。

話を戻す。目線の動きとピアノの音のシンクロは、同じメロディーの次のパートにもみられる。『あなたが守った街のどこかで 今日も響く健やかな産声を』の場面は、イメージとしては街を俯瞰して見下ろすような感じであるから、ここは冒頭同様、降下分散和音が使われている。ここでは最早、ピアノのフレーズの含意が桜の花びらから離れて、純粋に目線の推移の表現に移行している事に注意。ただ桜の花びらの落ちる様を表現するだけならアニメやCGで描けばいいが、こうやって音楽的な表現を用いると主観的な情景を主体とした描写が可能になる。抽象美である。

続く『聴けたならきっと喜ぶでしょう 私たちの続きの足音』の場面では一転、上昇分散和音からの和音を解き放つ後半のフレーズを切り取って繰り返す。これは、前段で街を俯瞰した後"あなた"の事を想って虚空を見上げる視線の動きと対応しているとみるべきだろう。演劇でも漫画でも、"想起"の具体的アクションは"見上げる"行為である。ここでは、見上げた先の夜空に星が煌めいている様を想像するのもよいだろう。

斯様に、同じフレーズを用いて巧みに異なる歌詞場面を音楽で描写してゆく表現力。やはり発想からして図抜けている。光、恐ろしい子。

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まぁ流石にこれだけニュースになってるのだからネットに接続してここに来る人は皆誰が何を歌っているかご存知だろうが一応念の為。

「桜流し」。素晴らしい。どれ位素晴らしいかといえば少なくとも私が聴いた今年出た曲の中でぶっっちぎりのNo.1ソングだ。総てのジャンルを通じて、である。格が違い過ぎる。何でこの人アーティスト活動休止中なんだろ。まぁそれはいいか。

しかし、この曲とその存在に纏わる問題点は、前回示唆したように、様々なレベルに於いてみられ、更にかなり多岐に渡っている。16日の深夜私が真っ先にツイートした内容といえば「映画にはぴったりだと思うけど、ヒット曲ではない」という話だった。それについても述べていきたいが、やはりまずはこの楽曲の魅力を余す所なく先に伝えたい気持ちが勝る。

いきなり楽曲の技術論から入ろう。山本シュウさんに「ディテールからですか!?」と呆れられそうだけれども。

この楽曲、桜流しはピアノのピアニッシモな調べから入る。素晴らしく繊細でふくよか、更に明解な音色で録音されていてどう聞いても生グランドピアノの音なのだが、恐らくこれは昨年7月に(22日とかそれ位だっけか)光が触れていたサンプリング音源"IvoryII"のものなのだろう。77GBは伊達じゃない。

ピアノを弾いているのは少なくともヒカルではないだろう。非常に打鍵のリズムが正確で冷静である。ここまでConsistentだとプログラミングだと即断したくなる所だが、打鍵の柔らかさのバリエーションが非常に豊富で、人が弾き分けているようにしか聞こえない。しかしリズムは今述べたように正確無比で、突っ込んだりもたったり溜めたりといった色合いもない。この楽曲でのピアノの使い方からすれば、やはりプログラミングであるべきだと思うのだが。

さて。このピアノの使い方で最も注目すべきなのは歌詞との対応の緊密さだ。ひとまず、あの素晴らしいPVは忘れて、音と歌にだけ注目してうただきたい。

冒頭を飾るのは、そのピアノによる降下フレーズだ(普通は上昇に対して下降と呼ぶのだがここは私の趣味で)。332の混合拍子のアルペジオ(分散和音)である。つまり、八拍のフレーズの中で、高い音を鳴らすのが1拍目と4拍目と7拍目だという事だ2拍目と5拍目が真ん中の高さの音で、3拍目と6拍目と8拍目が低い音。

この音の並びが味噌である。ここで降下分散和音を用いているのは、桜の花が散り落ちてゆく様子を現しているのだ。ただ次々に落ちるだけなら3音の降下フレーズを3連符で次々と落としてゆけばよいのだが、これを332の混合拍子にする事でリズムに変化が生まれる。どういう事かというと、7拍目と8拍目の2音は、"散り落ちる桜の花びらが翻る様"を表現しているのだ。そう思って聴いてみよう。鮮やかに目の前に桜の花が散りゆく情景が現れる筈だ。しかし、これだけでは普通である。宇多田ヒカルはここからが凄い。

イントロの分散和音は煌めくような高い音だ。これを、桜の木から散りゆく花びらを見上げて眺めている様だと解釈してみよう。歌が始まる。分散和音は伴奏となってオクターブを2つ下げてくる。歌が進む。『開いたばかりの花が散るのを今年も早いねと残念そうに』。このパートで分散和音が低いオクターブに移行するのは、眺めている花びらが落ちていくのを目で追って、段々と目線が下がっていくからである。解釈が強引? いや違う。次だ。

『見ていたあなたはとてもきれいだった もし今の私を』の部分で、今度は上昇分散和音で繋いで真ん中のオクターブにひとつ上げて降下分散和音を奏で始めるのである。上から舞い落ちてきた桜の花びらを目で追ってきて次第に下がっていった目線を、ここで"今年も早いね"と"私"の隣で呟く"あなた"に目線が移動するのだ。この時、舞い落ちる花びらを追って下がっていた目線がやや上がる場面を、降下分散和音のオクターブを1つ上げる事で表現している。鬼のように芸が細かい。このように音を構成しているから『とてもきれいだった』の説得力がまるで違う。我々はこの音のマジックに誘われて、隣に居る"あなた"の美しさを心から感じ取る事が出来るのである。この話、次回にもうちっとだけ続けよう。

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ここで新曲と全く関係ない話題を進めたら猛者かと思ったがそこまで奇を衒う事はせず。

宇多田ヒカル2年ぶりの新曲「桜流し」が発表になった。2日間でYoutubeの再生回数は220万回を超えるなど注目度は抜群である。参考までに、Goodbye Happiness PVが100万回再生に到達するまでに10日間掛かった。それを考えると凄まじいスピードである。Twitterの普及拡大、EVAQのネームヴァリュー、宇多田復帰待望論、金曜深夜の公開開始など様々なファクターが重なり合った結果だろう。そして即配信販売開始、フルヴァージョンのUTUBE公開は3日間限定、そこから一週間でPVの配信販売開始、そこから1ヶ月後になんとDVDシングルの発売と流れるようなプロモーション体制だ。梶さん、やはり仕事の出来る男…。

DVDシングルでの発売は、河瀬直美を監督に迎えた映像への自信と、最早CDシングル市場は音楽やアートの為の場所ではなくなったという判断からだろうか。発売一週間でのアナウンス効果を最大にする目的なら正解だろう。また、ヒカル本人がプロモーション活動を行わないことの補完でもあるか。PVにも一切登場しないし、アートワークは貞本御大の書き下ろしであり、結局今のヒカルの姿はどこにもない。ロンドンで観劇した際もサインなどには快く応じたものの撮影は遠慮したという事だったが、音源は発表する代わりに自身近影は徹底して公開しない事で人間活動の線引きを行っているのだろうか。DVDシングルを年末に発表するのはどういう戦略かはわからないが、この3日間の動向次第で生産数を決める為かもしれない。5週間。確かにデッドラインギリギリではある。

さてそんな新曲「桜流し」だが、結論からいえば素晴らしい。ただ、少し存在感がありすぎるようにも思える。それはまるで、「Casshern」に対する「誰かの願いが叶うころ」のようだ。余りにも映画について雄弁に語り過ぎ…いや、映画の行く先までも語り過ぎているようにすら思える。

「桜流し」。このタイトルの言葉の選び方だけで私には十分だった。MTVとHikki_Staffがこのタイトルをツイートしたのを観た瞬間に、私はEVAQが自分の期待していた方向とは違う方へ進んでいるであろう事を悟った。であるならば確かに今回はBeautiful Worldには成り得ない。それはつまり、次回作「シンEVA:||」にも新曲を提供しなければならない可能性を強く示唆する。ヒカルはもう取りかかり始めているのだろうか。「桜流し」が完成したのは今年の9月というからまだ早いか。この4部作をヒカルの楽曲がどう締めくくるか。その視点を携えながら次回から「桜流し」についての話を始めたいと思う。

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光がツイートし、何故か梶さんまで(誤爆する事なく)ツイートを始める始末。カウントダウンだな。高まっている。

興奮の坩堝が現れると途端にそこから距離を置いてみたくなる。自分自身に言い聞かせるべきは「醒めた眼」だ。鮫食べた?いやちゃうわい。

考える。宇多田ヒカルは大好きだがEVAにはピンとこない、という人はやまほど居るだろう。ひょっとしたら圧倒的大多数がそうかもしれない。EVAをテレビで放映しても視聴率10%前半だが、ヒカルが99年にテレビに出た時はその倍を優に越える数字を叩き出した。有名人としての桁が違うのである。

しかし勿論、数など問題ではない。自分の好きな人と好きなものを共有できるか否か。否であったときのうらら寂しさは何ともいえない気分である。

私の場合、ご覧のように光とは趣味の合う事も多いので普段はそういう寂しさがない。ブラックミュージックには普段親しんではいないが、聴いてみればその素晴らしさはわかる。光が好きだというのも尤もだ、くらいには思えるので「なぜ?どうして?」とはならない。

もっと根本的な所で感性が通じ合ってる感覚もある。コップの水の移し替え、あれのどこが面白いの?という意見が多かったが、こちらからすれば「やった事ないのかよ」という気分だった。面白いに決まってるじゃん。あと、お湯に水を注いで冷ますのと水にお湯を注いで温めるのとではテンションの上がり方が違うよね、二つを同じ位の温度にした時にひょっとして味違うんじゃね?とかそんな話も当然する。合間にコップを並べて水の量を段々に入れ箸やスプーンで叩いて音程をとる寄り道も忘れない。そのうち寄り道が本道になったりして。

何の話だよ。兎に角、光の趣味がわかるか否か。EVAのストーリーの事を「出汁。古くなるなんてありえない」みたいな風に絶賛するのは何故なのか。そこに得心がいかないと釈然としない。腑に落ちない。

難しい所だ。人型なんちゃら、まぁロボットでいいよ、ああいうのが動き回って派手に戦う部分も魅力ではあるけれど出汁かというとそうでもない。世界を救うとか人類を補完するだとか壮大な話もまたギミックである。そういった見栄の部分を取り払って、もっと人間臭い部分を抽出して鑑賞しないと光の気分はわからない。いや、わからないと言うのは違うか。もう見えているのに、周りのメクラマシに気が取られて見ている事に気づけない、とでもいおうか。物語はずっとそこにあるのだ。

ひとつだけ抽出しておこう。序においてシンジが父に「EVAに乗れ」と言われ「なんで僕が」と逡巡する場面、光は酷く共感したとみる。歌ってみたら日本一の歌手になってしまった。レコード会社はおろかレコード業界の景況まで左右する存在にいつのまにか収まってしまった。別にそうなろうと思ってた訳じゃないのに。自分の覚悟も定まらないうちから重すぎる役割を担わされて苦悩する姿。ヒカルほど共感できる人も居ないのではないかとすら思わされる。その中で運命を受け入れ、役割を全うしていくシンジの成長する姿に自分を重ね合わせていってるとしたら…

…みたいな風にEVAを観れば、幾らかは光が何故ここまでこの作品にご執心なのかがわかるかもしれません。どないでっしゃろ。


私自身はまぁ、90年代から見ている作品なので、当然ながら明日見に行きまふ。明日土曜の正午以降、このblogはネタバレ全開になる予定だからご注意! まぁ更新自体は月曜日になるかもだけど。

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いよいよ今日の深夜からEVAQが公開される。ここまで長かった。「あっという間だった」と言ってみたいところだけど、長かった。ここまで来れば何がどうなってもいい。流石にヒカルが関わってないなんてオチはないと思う。それなら先にそういう話がレコード会社なり事務所なりからあってしかるべきだ。何にもないのであるからそれは何かあるという事。No News must be Good Newsである。肝心な事は載ってないのだ。

だってねぇ。今の状態で他の歌手が何か歌っててみ。その人の歌手生命が危ういぞ。ギリギリで許されるのはBeautiful Worldのカバーだろうが、ヒカル自身がプロデュースしていない限り「それなら宇多田に歌わせればよかったじゃん」て言われるに決まっている。或いは旧劇版の要素を復活させる趣旨なら残テや魂ルフもあるかもしれないが、後は主題歌ナシ位しか選択肢が残っていない。ここまで期待されてしまうとそれはそれで大変だ。

流石に2週間沈黙しているとファンに「何かあるのか」と感じさせるには十分だった。ちょうどいい長さともいえ、これも予定に組み込まれていたりしたらちょっと悔しい。作品のテーマが「覚醒」だったりしないだろうなぁ。それもこれも、一両日中には判明する。Webは情報で溢れる。私はCryptopsyでも流し続けて仮初の静寂の中に身を委ねる事にする。Beautiful World。紛れもなく宇多田ヒカルの代表曲である。

さて今夜の金曜ROADSHOWでは破に加えQの冒頭6分38秒が流されるんだとか。398秒。何か意味があるのかな。いきなりBGMの曲の長さが6分38秒だったりか。幾ら何でも主題歌に関する情報はないものと思うが…ともあれ、観れる人は観といた方がいいんじゃないかな。肝心な事は映画館に持ち越しなのであろうから。肝心な事は放送にも乗ってない。たぶん。

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EVAQについて妄想を繰り広げる方向に進むのを意識的に抑制してきたのでどうにも今月は調子が出ない。まぁそうでなくてもこんなもんなのかもしれないが。それもこれもあと2日…もないな。早く来て欲しいと思っていたかどうかはよくわからないが、いよいよだという気分はある。11月17日を境に総ては過去になるのだと思うと身震いする。たかがアニメ映画なのにねぇ。

ここの読者で"オタク第一世代"といえばodysseyで(おでぱばね)、昔の話もたまにしてもらうのだが、宇宙戦艦ヤマトや機動戦士ガンダム等をリアルタイムで見て来た人がこうやってEVAQの上映にも関心を示す(彼は日曜日に見に行くそうな)というのも凄い。もっと凄いのは娘2人抱えて2人ともしっかりアニメオタクに育てた事だが…両方ともすっかり成人して尚且つ父親と同じ作品を鑑賞する。何なんだこれは。

Hironは私と同年代だが長男坊が結構EVAにご執心だそうで、こちらも親子揃って(って同時かどうかはともかくな)EVAQを観に行く事になるだろう。

つまり、40代、30代、20代、10代の男女がこの週末にEVAQを観にいそいそと出掛けていく事になる。これはつまり、EVA自体が20年近い歴史を積み重ねてきたと共に、日本のアニメーションの歴史をも背負った作品となりつつある事を示している。この作品内でのストーリーがどうなるのかという関心と共に、EVAの映画が公開される度にテレビアニメやアニメ映画がどれほどの影響を受けるか、という"現実の"ストーリーの方にも関心が持たれているという事だ。その為、最早劇場版EVAを鑑賞する事はアニメファン、アニメオタクにとって"義務"になっている。あからさまに言えば、これ観とかないと話についていけないよ、という事だ。実際EVAのパロディやオマージュはそれ自体が文化として"定番"となっている。

そういう作品の看板を任されるのが、主題歌の歌い手なのだ。そりゃあ、2007年にBeautiful Worldが明らかになるまでは、アニヲタみんな懐疑的にもなるわいな。先程と同じように表現すれば、Beautiful Worldによって総ては過去になったのだ。残テや魂ルフに拘るファンに「…お、おう。これもアリかもな…。」と言わせるなんて、この歌が現れるまでは考えも及ばなかった事だ。それまでの中で最も高いハードルを宇多田ヒカルは越えた。これがどれ位のスケールで支持を得たのかといえば…

…という時に、UTUBEで再生回数を確認してみよう、となれないのが何とも惜しい。実際、再生回数とその曲に関するツイートの多さは強い相関がある。当たり前だけど。GBHやPoLはFirst Loveに負けず劣らず愛されているのだ。恐らく、Beautiful Worldも…なんだけどねぇ。PVがないのでは仕方ない。

という訳で11月17日に期待するリストに、「UTUBEに、どのバージョンでもいいから、Beautiful WorldのPVがアップロードされる」という項目を付け加えておこう。望みは薄そうだが、まだ今日と明日は総てが過去になる前なのだから、出来るだけ好き勝手言っておこうと思うのだった。まる。

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「中二病でも恋がしたい」ってアニメがじわじわと尻上がりに面白くなっている。最初は「(日本でも屈指の技術力を誇る)京都アニメーションの無駄遣い」という前評判だったし実際そういうくだらない設定から始まったのだが、逆に(というかなんというか)その分アニメーションで表現できる余白が多い。京アニの技術力が堪能できる作品になっている。地味な楽しみ方だけどね。

アニメーションの最大の利点は、概念を抽象化して視覚に訴える事が出来る点である。実写映画もCGを多用しているので区別はなくなってきているが。

その中でも、記号性が最も高いのは顔面の所作である。肉体は写実的でも顔面だけは眼球の占有面積が五割を超えるなど現実を無視した造作が見受けられる。これがイラストや漫画までなら純粋な記号として還元できるかもしれないが、アニメーションだと立体としての成り立ちを想定しなければならない。フィギュアだともっと辛い。これは、鉄腕アトムの角の正確な位置の特定に苦労した時代からの、つまりずっと続いている苦労である。

「歌」というのも、似た苦労を抱えているといえないだろうか。文字として紙に書いてある時点では純粋に記号として扱えるけれども話し言葉となると声のトーンや会話の間など、物質的な要素が入り込んで来、記号だけだった時の抽象性から一歩脱却する。これが「歌」ともなるとメロディーに乗り、他の楽器とのアンサンブルまで考慮しないといけなくなる。果たして、ただ紙の上に書いただけの歌詞が「歌」になってゆく時に、最初の記号的な抽象性はどこまで残っているだろうか。そこで踏ん張って表現を遂行するのは、顔面だけ高い抽象性を持つアニメ絵を動かすような苦労が伴うのではないか。そんな事を考えながらアニメを見ていた。

そこを一点突破する為にクマチャンの着ぐるみを着てしまったのがヒカルだ。ぬいぐるみという高い記号性の中に肉体を押し込んだ。荒業。故に純粋だった。のちにその記号性の塊であった顔面部分を脱ぎ捨てる所まで併せて考えると妙に感慨深くなるわ。

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日本以外での光のファン層を掴むのは難しい。大きく分けて3つくらいになるか。

ひとつは、日本のカルチャー全体のファン。XやらミスチルやらGLAYやらラルクやら、ドリカムやら浜崎やら宇多田やら、という風な扱いの中でヒカルに惹かれたというもの。有り体にいえばかなりミーハーな人たち、かな。

もうひとつは、アニメやゲームなどを通して。EVAやキンハの歌で一本釣りという具合。これは、日本と同様だろう。普段ミュージシャンのCDなんか買わない人たちまで魅了してしまう。この層はかなり分厚い。

みっつめは、言わずとしれたUtaDAのファンだ。EXODUSは殆どまともなプロモーションはなかったが、This Is The Oneは、発売前までだけとはいえ、しっかり"名門アイランドレーベルからの新人"として宣伝してもらったお陰で、特にCome Back To Meは有名で、州によっては道行く人にこの曲知ってますか?と訊いたら10人目位で「昔聞いた事があるかも」と答えてくれるかもしれない。R&B系のラジオステーションをよく聴いていたリスナーならまず知っているだろう。恐らく、この層は我々が思っている以上に分厚い。でなければ、日本のカルチャーのファンだけでライブハウスツアーを盛況になんて出来ないだろう。アニメやゲーム主体の人はあんまり出掛けないだろうし…。ま実際Come Back To MeはLIVEで大合唱だったのでこういう認識で間違いないと思う。多分、懐疑的な向きも映像であの場面を見てくれたら納得うただける筈だ。リリースまだかなぁ。

とそんな訳でこの3つの区分。これからどうなるだろう。名義がEMIの許単一に統一されるのだから、Utadaのファンという人は否応無しに宇多田ヒカルとしてのリリースも注目しなければならない。まぁそれは今までもある程度はそうだったかな。でもこれでファンが"混ざり合う"ことには、なるかもしれない。

ジャパニカルチャーの、特に"j-pop"ファンはこれから薄くなっていくかもしれない。日本で元気な文化は音楽以外なのでそもそもJ-popというジャンルもフェイドアウトしつつある。なくなるジャンルのファンを続けるのは難しいだろう。流石に日本まで握手しにはなかなか来れないだろうから遠くの国から日本のチャートを眺めて"つまらん"と思っている人たちは多そうだ。なんだかここが手薄になるのは仕方がない、のかな。

ゲームやアニメのファンは鉄板である。浮気症でもないし、忠実だ。いちどファンになってくれさえすればずーっと奉り続けてくれるだろう。EVAやキンハの続編で歌い続け、成功を収めていけばここのファン層は世界共通なのだから安泰である。

こう考えると、海外での光のファンというのは、かなり入れ替わっていきそうだ。光にとっては新鮮ではないか。だからといってヒカルがゲームやアニメのイベントやフェスティバルに顔を出すとも考えづらい。どうなるか。

そういったよしなしごともあるけれど、シンプルに「この歌が好きだから」という人が世界中のあちらこちらで静かに生まれ続けるのがいちばんいい。それが理想だが、果たしてどこまで貫けるかなぁ。そのシンプルさが積み重なっていって大ヒットになるんだったら、私も嬉しいだろうな。

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EVAQ試写会の箝口令の程度がよくわからない。実施自体が「公然の秘密」というレベルなのだろうか。マスメディアは参加したのか?参加しないと広告機会という意味での試写会の体をなさないし。箝口令と言って、「この人が来ていた事は内密に」みたいな事まで言うのだろうか。

インターネットの登場以降、情報漏洩対策は随分と強化された。サンプル盤にウォーターマーク、なんて話を昔はしたが、昨今は取材者に対して音源試聴の情報取り扱いに関する誓約書を書かせたりするそうな。そこまですれば確かに秘密は守れるかな。マスメディアというのは、とかくネット上では叩かれがちだが、せりゃあ取材等に関するマナーの点では一般人よりリテラシーが高い訳で。えぇっと、たぶん。

それに、もうあと3日の事である。この局所的に異様な盛り上がり方は尋常ではない、異常ではある。90年代からの蓄積をそのまま財産として継承している為だが、それにしてもビッグイベントだ。映画館で何週間も前からチケットが、前売り券等ではなく席の予約券が購入できてしまう位だから随分と特別扱いである。ジブリ映画などは確かに動員数は遙かに上であるが、ここまで公開日に向けて異様に盛り上がったりしない。一秒でも早く観たいっいう熱心なファンの多さ。こだわりの強さ。よくぞここまでクセの強い人たちを相手に受け入れられたものだな、Beautiful Worldは。

期待感の大きさは裏切られた時には凄まじい反発を呼ぶだろう。そのリスクを知っていれば、生半可な覚悟ではこの仕事は引き受けられない。自身の状況を顧みて、丁重に辞退申し上げるのもまた責任ある態度のひとつといえるのだが、期待感がここまで大きすぎると話を引き受けないと落胆を通り過ぎて憤懣に変化してしまうのではないかという危惧すらある。進むもなんちゃら退くもなんちゃらの世界である。

まぁ、今更言っても仕方がない。映画は完成しているのだ。後はそれを見るだけである。後3日。流石になんだかソワソワしてきた。

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モーツァルトの40番と41番を連続して聴いてるとかヤキがまわるにも程がある。例えるなら、LED ZEPPELINの天国への階段と宇多田ヒカルのFirst Loveを聴いているような気恥ずかしさ…今更それかよ……いや別に恥ずかしくないな。かまわんな。

…って気にしなくなってるところが、駄目なのかねぇ。

やはり昨夜はEVAQの試写会だったようだ。月曜夜。そんなもんだろ。この感じなら、ヒカルが今行方不明でツイートが途絶えてるとかではなさそうなのでホッと一安心。別にEVAQの歌を唄っているかどうかなんて結局の所どうでもいい。光が毎日を健やかに過ごしてくれているなら他に何も要らん。でもそれだけだと人生の時間が余ってしまうので私はあれが聴きたいこれが観てみたいと毎日うだうだうただだ書いている。なるほど、生きてるってボーナスだ。こうなりゃ得るもんばっかりになるわな。ある意味究極の虚無主義。

にしてもモーツァルトの41番の第4楽章の圧倒的な迫力。たった4音の主題の存在感。万華鏡のように様々なメロディーを千変万化させながら交響曲が展開していく。なぜこのスカトロ野郎はここまで自信満々なのか。筆遣いに全く迷いがない。どこか吹っ切れ切っている。その分、人として大事な栓が一本抜けているように思えてならないのは十中八九貧乏人の僻みだろうな。これだけ分厚く音を重ねておきながらどこにも全く無理を生まずにフィニッシュするってホントに神業だねぇ。

ヒカルが今まで聴いた中でいちばん感動したのはモーツァルトのレクイエムだそうな。いつも自信満々余裕綽々で楽曲を仕上げるこのウンコ野郎(トリビアの泉を昔見た人なら何故さっきからこう呼んでるかはご存知でしょう)が、多分生涯で最も"本気で"取り組んだ楽曲である気がする。あの、彼特有の人をなめきりくさった鼻持ちならない優雅さと悪戯心がそこにはない。ヒカルは、その本気さに共鳴しているのだろうか。それとも普段の、人をコケにするような薄っぺらい完璧さにも憧憬を抱いているのだろうか。

人にはスタイルというものがある。だからヒカルに将来交響曲を書いて欲しい、と強く願うところまではいかない。しかし、例えばPassionのオーケストラバージョンなんぞを聴いていると弦楽器に合うメロディーと世界観も持っているなぁ、と思う。アンプラグドやWild Lifeでは弦楽器隊を従えたし、Be My Lastのテレビ出演ではかなりの大所帯と共演した。歌手としての経験は積んでいる。あとは作曲家として、だな。

例えばいちどゲーム音楽に携わってみるのもいいかもしれない。キングダムハーツに参加したお陰で宇多田の名でこちらの世界にお邪魔しても反発はとても少ないだろう。一度くらいは"サウンドトラックアルバム"というのを手掛けてみて欲しいものである…

…いや、やっぱり健康で居てくれればそれでいいですスイマセン。んじゃあもう一度モーツァルトを聴こうかな…

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テレビ版序の視聴率は約13%。12.7%だっけ。即ちいつも通りの数字である。これを過去の数字と比べて中身が同じとみるべきか中身が入れ替わって差し引き釣り合ったとみるべきかは難しい。続きものの第一回の二回目のテレビ放送(なんかややこしいな)という性質を鑑みなければ正確なところはわからない。しかしごくおおざっぱにいえばファン層のスケール感は変わっていないとみるべきだろう。

何しろ五年前の映画であり、なお現在進行形なのだ。極論すれば、まだ作品としての評価を下すのは尚早なのである。4部作総て出揃ってからこれがどういう物語だったのかを概観して初めてこれが何であったかがわかるのだ。まだ早い。まだ早い。

とはいえ、今回のEVAQが商業的成功を収めないと4作目の制作体制に支障が出るだろうから、単体でも面白くリピーターを呼べるような作品になっていては欲しい。

昨今のシネコンの定着により、その日どころかその時フラリと観る映画を決めて鑑賞するような人も増えている。それが家族連れだったりするとまどか☆マギカをチョイスして唖然となる、みたいな展開も待ち受けている。今以上にメジャーになる為にはそういう時に選んでもらって楽しんでもらって…という事が必要なのだが、3作目ともなると流石に過去2作を見ていないと厳しいだろう。もしかしたら過去2作を見ていても厳しいかもしれないけれど。そのハードルの高さをどうかいくぐるか。

ヒカルの存在は頼もしい。「主題歌宇多田なんだってよ」という事でEVAQをチョイスしてくれる層も居る筈だ。まぁそれは封切後に発表があった場合に限られとしまうが。ハードルの高い内容の後に、聴き馴染みのある主題歌が流れる効果は予想以上に大きいとみる。何もかもが新しいストーリーの中、"知ってる何か"が最後に現れてくれるのは頭を整理するには非常に有効だ。

…と、Beautiful Worldが流れる事前提で話してしまっているけれど、はてさてどうなります事やらですね。

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