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無意識日記
宇多田光 word:i_
 



前にも触れた通り、UTUBEの毎日の再生回数には本当に斑がない。ある日はこの曲がたくさん再生され、ちがう日にはちがう曲が、といった事が全くないのである。まだ定期的に見始めて日が浅いので、今だけの事かもしれないとはいえ。

これだけ人気が固定化されて顕現する"チャート"は稀である。売上枚数なら、話題性やプロモーションの質・量によって変わり得るだろうが、今の宇多田ヒカルは全くの無風状態で、各楽曲に関する情報の流通量に変化はないであろうから、こんな正直なチャートはない。

考えようによっては、これはとても残酷な順位付けかもしれない。序列に何の言い訳もできないのだ。この順番は、避け難く"何か"の指標となっている。長期的な変化を知ればこの感想は変わるかもしれない。ただ、曲ごとになんらかの"力量の序列"を定義できる事が出来るのではないかという悪魔の誘惑に駆られる。

それは、特に嬉しい事ではない。あの曲よりこの曲の方が優れているとか劣っているかとか、そんな話は楽しいとは思わない。それなら、売上の話をした方がマシである。それはただの数字だからと逃げを打てる。この、逃げ道を確保できる事は重要だ。それがないと、落ち着いて音楽なんか聴いていられない。

その曲を聴いている時には、その曲でしか味わえない何かを味わっているのであって、他の曲との優劣をつける為に聴いているのではない。聴き終わった"後に"、あっちの方が好きだとかこっちの方がいいとか語り始めればいいのだ。

しかし、このUTUBEの再生回数のように、指標として何かを明確に示唆できてしまう数字が並び始めると、そんな"初心"は脆くも忘れ去られてしまう。これは、競技ではないのだ。

もっと様々な技術や環境が整ってくれば、更に詳細な指標が現れてくるかもしれない。そのうち、脳に電極を翳して「あなたの今の感動指数は120ですね」なんて言われるようになるかもしれない。SFちっくだなぁ。

実際、ネットに慣れた人間はひとの評価を気にし過ぎるようになる。そういう空気の中で、自分の趣味嗜好を貫いて口に出し続けるのは、ある面では大変な事である。それが自然である人には何でもないことではあるけれど。

指標が整備され、他者の評価が大量に手に入るこの状況で、ちゃんと感性を保つ為に必要なのは、自分の思いを自分の手で書き留めておくことである。

例えば私は、Passionを初めて聴いた時からこの曲に対する想いは全く揺らいでいない。過去ログを見てきてくれればわかる事だが、ずーっと同じような事を書き続けている。

なぜそうやって書き続けられてきたかというと、自己言及的だが、書き続けてきたからだ。書いておいたから、またそこから始められるのだ。書いたから揺らがない。そして、揺らいでいない事を確かめられる。

私が書けるのは、他でもない、書いているからなのだ。禅問答に等しく響いているとは思うが、人の心はとても弱く、脆い。すぐ自信を喪い、不安になり、道を見失う。

そんな中で、道しるべは、もう自分で書くしかない。行き先なんてどこでもいいし、行き方なんてなんでもいい。ただ大事なのは、自分の手で自分への道しるべを書いた事なのである。Single Collection Vol.1の表紙に書いてある事は、多分そういう事なのだ。

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昨日のNHK-FM「今日は1日プログレ三昧再び」のお陰で、またもMoon SafariがAmazon MP3チャートを占拠している。プログレファンは音源をダウンロードで済ます事をせずきっちりCDを購入するものなので、この伸びは相変わらず恐ろしい。

結局、この"祭り"の瞬発力を掬い上げられるかどうかだ。お祭り価格が暴利でもひとは結局お金を払うように、祭りの高揚感でひとの財布の紐はかくも緩くなる。

宇多田ヒカルは花より男子2のFoLで見事にその祭りを作り出し、瞬発力を掬い上げてみせた。年間世界2位って異常事態にも程がある。

しかし、その後、音楽以外の、例えばゲームの世界ではその課金体系が問題になっていく。ゲームを始めるのは無料でも、ゲームの中の世界でアイテムを購入する為に現実の世界のお金が必要になったりするアレだ。

収益をみるとそういったオンラインゲームは随分と成功を収めたようだ。勿論一方で、法外な請求が来て混乱する、といったケースも出てきた。オレオレ詐欺のように、ある程度話題として取り上げられるようになっていけば"被害"も減るのだろうが、そうなる前に儲ける人は儲ける気がする。

ただ、最初の敷居を出来るだけ低くしたい、というのはやはりある。Moon Safariがこれだけ売れるのも、フルアルバムで800円という値段設定が大きい。今の日本人の感覚では、これ位まで下げれば、音楽の中だけでなく他のジャンルの娯楽とも勝負が出来る。これが3000円だったら、こうはいくまい。

ヒカルの作品は、邦楽全体の価格体系を反映して、その3000円という設定になっている。我々ファンは幾らだろうがあんまり関係ないっちゃないのだが、業界の中でチャレンジできる立場という事では、一度くらい思い切った低価格の商品を出してみてほしい気もする。

世界中でEMIからUtada Hikaruのアルバムが発売されるようになれば、安い輸入盤が日本に入ってきそうなものだが、既に環流防止措置はとられているみたいなのでそうそう大々的には市場に出て来ないだろう。しかし、このままでは右肩下がりが続くのは目に見えている。ゲームの課金体系までとはいかないまでも、例えば一枚CDを買ったら他のCD購入の割引券がついてくるくらいの自由度はあった方がいいかもしれない。DVDで連続ドラマの最終巻を借りてくると、別のドラマの第一話が収録されている、とかそういった次へと繋げる工夫が、音楽の世界でも生まれてこないものかなぁと思うのだが、それには再販制度から何から様々な問題も絡んでくるので、早晩何かが動くという事はなさそうだ。ヒカルが帰ってくる頃には、何か変わっているのかなぁ。

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狭いジャンルの話しか知らないが、世界の中で日本で特定的に人気のないジャンルというのがある。メタルでいえばゴシックやドゥーム、プログレでいえばポンプロックといった所の人気が、日本では取り分け低い。

これはなぜかとよく見てみると、ジャンルを代表する"大物"バンドが、70年代に来日し損ねているのである。代表格がBlack Sabbathで、欧米ではスタジアムでは狭い位の人気を誇るが、日本では同時期のDeep Purpleの人気に遠く及ばない。欧米ではDeep Purpleの人気は、Black Sabbathに遠く及ばない。逆転現象が起きている。

それは70年代の話だが、その後何が起こったのかといえば、Deep Purpleの音楽性を踏襲した後輩たちの作品は日本盤が発売され来日公演も実施されるようになり、Black Sabbathのフォロワーたちは日本市場で見向きもされなかった。

単純に、Purpleの音楽性に日本人がフィットし、Sabbathは合わなかった、とも考えられる。が、私は違う風に捉えている。70年代にSabbathが来日できなかったのはドラッグの問題もあったらしいが、仮に来日していたらとんでもないインパクトを日本市場に齎していたんじゃないかと推測する。それこそ、歴史が変わっていたかもしれないと思う。人の好みが市場を作るというのも確かかもしれないが、強烈な音楽は、そこから人を耕していく。それには、生で観て生で聴く以上の事は存在しない。

ちょっと話が大きくなった。読むのならここからでいいや(笑)。UtaDAがアメリカの各地でライブをやった事。ロンドンの二夜を売り切った事。確かに、たった数百~千数百の人間の話だが、彼らはUtaDAを直(じか)に目撃したのだ。その後、彼らはUtaDAについてどれ位語っただろう。

その地を訪れる、というのはとても大きい。今日ウチの田舎に加山雄三がコンサートにやってきているらしい(今まさにアンコールの最中だろう)が、あんなド田舎にあんな有名人がやってきたとなれば、このたった一晩の印象が、この地ではずっと語り継がれる事になるのだ。次にやってこなければこないほど、ずっとそれは語り継がれる。

ホノルル公演以外の事は知らないが、In The Fleshでの光のパフォーマンスはどの晩も素晴らしかったものと推測する。日本での抽選だらけのライブと違い、ラジオで聴いたCome Back To Meを歌っている歌手が近所に来たから見に行ってみた、という気軽な人もなかには居たのではないか。

そういう人たちが、次に光がアメリカやイギリスの市場でヒットを飛ばした時に、彼らはこう言うのだ。「彼女なら、一度みたことがあるよ。いいライブだった」と。

ネット時代は評判なんて検索すれば手に入ると思いがちだ。いや勿論それは真実なのだが、人の重い腰を動かす為には知人の口添えの方がもっと威力を発揮する。その差は思っている以上に大きい。

果たして、光が2010年に蒔いた種は、そのまま萎んでしまっているのか、大きく花開かせているのか、はたまた咲き誇る日々を待ち雌伏の時を過ごしているのか。これはなかなかわからないが、次に行ってみたらぐわんと聴衆が増えていて吃驚した、という展開を何となく想像してしまうのであった。

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UTUBEの再生回数の安定度は特異的といっていいかもしれない。あそこまで各楽曲の人気というのは安定しているのだろうか。

まだ一年足らずなので様子見な事しか言えないが、累計に較べて最近は少し古め(といっても、GBHを除けば"新しめ"の曲でも2008年、3年前のものだ)の曲が盛り返しているようにみえる。Heart Stationが光に抜かれたように。ただ、それもそんなに明確な特徴ではない。

むびのんや中毒、リスクといった初期の名だたるミリオンヒットナンバーがそんなに上位でもない、というのもちょっと目を引く。

PVなだけに映像の評価もなくはないだろうが、Youtube利用者の大半は、曲を聴きたくて曲名検索で辿り着いていると思うので、とりあえずこれが楽曲自体の人気の反映だとすると、1999~2000年当時は、曲云々より「宇多田ヒカル」という看板の威力、話題性によって売れていたのではないかと容易に想像がつく。

恐ろしいのは、余りにその看板の威力がありすぎて、楽曲の印象すらかき消してしまっているのではないかと思える事だ。同じようにミリオンヒット(これが今の所最後のミリオンシングルCDとなっている)で年間1位のキャンシーはしっかりトップ10に入っているのに。まぁこの曲こそPVが名作なのでそれも要因かもしれないが。

こんな解釈を思いついてしまうのも、当時の"社会現象としての宇多田ヒカル"の強烈さをよく覚えているからである。若い人はピンとこないかもしれないが、今のAKB48人気・話題性が「10年経ったら誰も曲覚えてないだろ」と揶揄したくなる程凄まじい、という今の感覚が10年以上前も(今を更に遥かに上回る規模で)あった、といえば少しは伝わるかな。

これは、恐ろしい事である。様々なプロジェクトを矢継ぎ早に繰り出し、徐々に人気を高めてきたAKB48と違い、宇多田ヒカルは、音楽の魅力のみで、瞬く間に売れたのだ。お陰でFirst LoveやAutomaticは人々の記憶に残ったが、それ以降暫くは話題性だけが進行し過ぎて、曲の記憶が薄れてしまった。そんな解釈。なんかちょっと身震いする。例え音楽で売れても、バブルによる評価不定性発現からは逃れられないのだろうか。

勿論、いちばん恐ろしいのは、そんな数々のミリオンヒットを出しながら、トラベからGBHに至るまで、それらミリオンヒット曲たちを上回る人気を(UTUBEで)獲得し得る楽曲をずっと作り続けてきた宇多田ヒカル本人に他ならないのですが。こんな恐ろしさであれば、いついつまでも味わっていたいものです。

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UTUBEの週間アクセス数を掲載しようと思っていたのだが。

実際に数字を見てみると、この間掲載したデイリーのと順位はあんまり変わらない。
再生回数も、ただそんときの数字を7倍しただけのものになってる(^^;
それくらいの数字だと、正直、デイリーの「1位は大体10000回、全体で10万回」っていうキャッチーさにかなわないのだ。ウィークリーだと「1位は大体7万回、全体で70万回」なんですから。ならデイリーを発表した方がいい。

しかも、このデイリーの数字というのが本当に変わり映えしないのだ。
先週一週間毎日デイリーの数字をチェックしていたのだが、
全くといっていいほど、曲ごとの再生回数の割合、プロポーションが変わらない。

これだけ、毎日安定して、同じ曲は同じくらい聴かれていて、
人気のある曲はそれなりに、ない曲もそれなりに、
ずーーっと同じ割合で聴かれているとは。
この結果は、面白みがあんまりないのと同時に、驚異的でもある。
楽曲の世間的評価って、こんなに揺ぎ無く振幅や分散がないもんなんだなーと。

なので、毎週定期掲載とかはやめにして、
不定期に、チャートに興味深い結果が出た時にこのUTUBEカテゴリは更新することにしますわ。
細かい考察があれば、またそのときに別エントリを立ち上げまする。




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Animatoの何が特別であったかを(私が勝手に)考えると、まず、In My Roomな歌なのでパーソナルな感触が欲しかったという事と、言葉遊びがさりげない割に色々とあるので、対訳者がその遊びのニュアンスを日本語に載せようと悪戦苦闘してしまうのを防ごうという優しさから、だと思われる。

Animatoの対訳において光は、そういう元曲の心憎く小粋な部分をバッサリ切り落として、言いたい事をなるたけ簡潔に述べたような印象がある。日本語の対訳を読む人に伝わって欲しい事はこれとこれとこれだ、と焦点が定まっている訳である。

この例を踏まえれば、今後も光は、特定の曲を除いて対訳はひとに任せるだろう。大変な作業量だし、対訳者の質問に答えるだけなら(相対的には)楽である。新谷さんが、日本語に訳すのに日本語でやり取りした経験は新鮮だった、と言っていたのは皆印象に残っているだろう。ふつう、対訳とは日本語の出来ない人の書いた歌詞に対して行う事だからだ。

対訳を、今までのようにブックレットに掲載するもの、と思い込まないようにしよう、というのが今回のTPPの要旨のひとつだ。DVDではお馴染みのオーディオコメンタリ的なもので対訳を添える、といった手法でもいいが、寧ろ対訳という手法をもっと作品性の領域に踏み込んで活用したい。

最もシンプルでストレートなのは、イントロダクションで日本語で歌詞のストーリーを語る"詩の朗読"をしてから演奏に突入する方法だろう。

詩の朗読から曲に雪崩れ込む手法自体は、光は既に実践している。Deep River+である。ここでは日本語詩+日本語詞だが、やはりこのテイクで聴くと歌詞の印象が若干異なってくるかもしれない。

また、(私が勝手にそう呼んでいる)BLUE+もある。これはBayFMで一度だけ(いや二回か)放送された、BLUEの前に常田富士男(日本昔話のあの人だ)による自作の詩とBLUE本編の歌詞を続けて朗読したものがくっついているバージョンだ。宇多田光に激しく鼻水を垂らさせた威力、聴いた事のある人は必ずやあの朗読力が生み出すドラマティシズムに感銘を受けたと確信する。

そのような手法を、英語と日本語の組み合わせで構成するのである。常田さんは、今から歌われる歌詞を先に朗読して人を感動させたのだから、前置きが本編の対訳になっていても、作品として成り立つ可能性は十分にあるだろう。

また逆に、英語で朗読して日本語詞の歌を唄う、というパターンもありえる。これも面白そうだ。

となると、日本語→英語の曲を日本語圏の人が聴いた時の印象と英語圏の人が聴いた印象、そして英語→日本語の曲を各々の圏の人が聴いた印象、と4通りの反応が考えられる訳だな。なんか混乱してきた。

兎にも角にも、イントロの詩の朗読、というのはシンプルながら楽曲によっては強力な手法たりえる、というのを想像して貰えれば有り難い。もっとも、じゃあその曲の対訳はどう提示すればいいのかとなればまた頭を抱える事に、なるのだが。

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対訳提示計画、略してTPPである。

昨夜渋谷陽一のNHKFMの番組「World Rock Now」を聴いていて、そういえばこの対訳提示計画において"ラジオDJ"というポジションについて語るのを落としていた事に気がついた。

渋谷は番組中において、曲をかける前にその曲の歌詞の対訳を日本語で読み上げる。彼は、歌詞のイメージを予め備える事で曲の印象が違ってくる事をよくよく知っているからだ。これは、今までの分類でいえば"事前に歌詞を読む"という行為に相当する。この場合、"作品"としての枠組み、額縁は"1時間のラジオ・プログラム"という事になる。渋谷陽一の作品だから、彼がしゃしゃり出てきて歌詞の対訳を読み上げる事が許される。受け手側がシステムに違和感をもたない、システムの存在にすら気がつかないのが作品性の付与においては重要である。

勿論、これは日本語の曲についても同様の事があるのであって、ラジオ番組に出演したミュージシャンが歌詞の解説をしてから曲に入る、というスタイルは既に定着している。それと同じといえば同じだ。

しかし、嘗て指摘したように、日本語曲と英語曲では音楽における歌とその歌詞の役割が決定的に違うのだ。何故そうなるかの考察は他機に譲るとして、どう違うかを比喩的に表現するとすれば、ドラマにおいて登場人物のセリフにあたるのが日本語の歌の歌詞、ナレーションにあたるのが英語詞なのである。

日本語曲において歌の歌詞は音楽の作り上げる世界観に必ず則ったものとなる。或いは、歌詞の世界観に沿った音楽が添えられるのだ。音楽と歌は必ず伴奏・伴走するのである。

英語詞においては必ずしもそうはならない。音楽の作る世界がまずあって、そこにナレーションの語り口のように"外から"投げかけられるのが英語の歌詞だ(或いは、そうたり得る)。だから、その世界観を補足する言葉を継ぎ足す事も出来れば、「そんなわけないだろ」とツッコミを入れる事もできる。アメリカのカントリーソングなどは、ほのぼの牧歌調ののどかな曲調に辛辣で政治的な歌詞を載せる事が通例になっているが、そんな事ができるのも英語曲においては音楽と言葉が対比できるからなのである。

UtaDAの歌詞において、その点がどうなっていて対訳はどんな役割を果たし得るか、についてはまた次の稿に譲るとして、音楽CDの場合もラジオ番組のように、或いはDVDのコメンタリーのように、作詞者自身の解説を(或いは音声で)添付するというのもひとつの方法だとは思うのだが、UtaDAの場合、いや今後は名義が異なるか、宇多田ヒカルの英語曲の場合、果たしてそこに添付する解説は日本語コメンタリーであるべきか英語コメンタリーであるべきか、それがまた難しかったりする。それは各曲の歌詞の立ち位置次第だったりするのである。兎に角、続く。

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もちろん、対訳を作品として提示する具体的な方法論なんか考えつく筈もなく…(涙)。

例えば、テイク5なら、光自身が英語版の歌を載せればいい。というのも、この曲では言葉の意味を届ける為にメロディーと伴に在る"詞"としての側面をある程度捨てて"詩"としてかなり独立性が高いからである。Simple And Cleanのように、英語詞と日本語詞でメロディーを違える必要もないのではないか。

といっても、そういうケースは例外で、殆どの曲の歌に託されるのは詩ではなく歌詞である。いったいどの段階で歌詞の意味を届ければいいだろう。

すぐ考えつくのは、以前も述べた通り音楽ファイル自体に歌詞を同梱し専用プレイヤーで表示させながら聴く方法である。が、対訳つきの場合日本語と英語の同時併記となり、読むのがかなりツラい。まぁそもそも、音楽聴いてる時は目を安静にしていたいというのもあるし。

例えば、少しエレガントな方法として、手話を組み合わせて歌うなんて事もできる。これなら、英語の歌でも我々に意味が通じるかもしれない―が、そもそも手話が理解できる人は結構少ないし(私もわからない)、あれも国によっても違えば方言もあるしジェネレーションギャップもある。そもそも、手話をしながらマイクの前に立ったりしたら酒井法子みたいで何か悔しい。いやそういう問題でもないか。

聴覚というのは不思議なものだ。視覚なら、例えば映画で字幕が出るというのは映像作品の破壊の一種である筈なのに、我々はスーパーインポーズされた文字がそこにあるのを不快には思わない。救いであるとすら思う。聴覚の場合、英語の歌の横で日本語でぼそぼそと歌詞の意味を呟かれたらハリセンで一発しばきたくなるだろう。映像に文字なら大丈夫でも、音像に話し言葉だと駄目なのである

やはり、言葉の意味を伝えるには視覚に頼るしかない。文字とか手話とか、目で耳の補助をする。というか、言葉の意味なら聴覚に頼らなくても把握できる訳だ。

あれ、光の話をしている時間がないぞ((汗))。次回の英語曲では自分で対訳するのだろうかどうなのか、という話題はまた次の機会に日を改めましてっ。

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"額縁の大きさを選ぶ"のも他人かどうか、有名なのはデュシャンの「泉」ではなかろうか。あの、ただの便器である。

私なりに解釈すれば、同"作品"は、美術館というノーブルな空間の中に日用品が恭しく置かれた時の唐突さみたいなものをねらったのではないかと考える(まぁ実際はそんな単純じゃないだろうが)。そう考えると、この"作品"は置いてある場所も含めて考えて初めて作品といえる。モネの絵を額縁に入れてトイレに飾ればそれはモネの絵だがデュシャンの泉をトイレに置いたらそれは便器になり作品にならない。いや一周まわって面白いかもしれないけどね。

そう考えると、泉は美術館という周辺環境を含めて初めて鑑賞に耐えうるひとつの"作品"として認識できるようになると解釈するのが妥当な気がする。時代背景を考えれば、そうやってその状況がひとつの作品として認識された途端、その新しい枠組み(額縁だね)の外に飛び出す行為(例えば美術館のある街全体を使ったアート表現)に及ぶ事になるだろうが。

対訳をめぐる状況も、この泉に似た状況があると思う。対訳のみだと、果たしてそれについて作品性を認識する事が出来るだろうか。ブックレットだけバラ売りして売れるかどうか、と言い換えてもいいかもしれない。一方で、自分のわからない言語で歌われた歌は、歌詞の意味が通じないという意味で作品として不完全である。曲を聴いて対訳を読んで初めて、本来の"作者の意図した"作品性に、十分近づける、筈なのだ。

前回も触れたが、この「曲を聴いて対訳を読んで」という作法が、聴き手にとってはどうにも落ち着かない。同時にすればよいのか、先に曲を聴いて後から対訳を読むのか、それとも対訳を読んで意味をアタマに入れてから曲を聴いた方がいいのか。勿論、自分がそうしたいというやり方があるのならそうすればよい。しかし、心細い消費者としては「こうすればいいですよ」という明確な指針が存在した方が安心なのである。

今後、もしHikaru Utadaが日本語曲と英語曲のミックスとなったアルバムを発表する事があれば、当然この対訳の問題にぶち当たるだろう。英語曲を日本語に翻訳するのみならず、英語圏のファンに日本語曲を英語に翻訳する作業も加わるのだ。統一ブックレットを作成した場合、些かややこしい事になるのだろうな。

DVDの場合、字幕が多国語で読めるのは今や前提になっていて、日本では再生できないリージョンのものでもしっかり日本語訳が収録されていたりする。作品をつくるシステムからして、既にグローバル化、グローカル化している訳である。歌の場合はどうするか。光の場合ただ二つの母語でそれぞれの歌を歌っているだけなのだが、はからずも(またいつものように)新しい音楽の提示方法と関連づけられて語られる運命になるかもしれないのだ。

その具体的な提示方法に関しての考察は、またエントリーを改めましてに御座候。

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光の音楽における言葉へのアプローチは多岐に渡っている。歌詞が日本語のみの曲、歌詞が英語のみの曲、日本語に英語が混ざったもの、英語に日本語が差し挟まれているもの、日本語の間にフランス語でナレーションがあるもの、フランス語から日本語にシフトするもの、日本語から英語へ、英語から日本語へとシフトするもの。まだあるかな? これだけのバリエーションがある。

しかも、今あげた例はどれも完成品の話である。創作過程まで勘案すれば、元々英語で歌詞をあてていたものが日本語詞中心に変化したもの、日本語曲として発表したものに英語の歌詞をつけなおしたもの、或いはその逆、更には一旦英語で作っておいてまず日本語詞で発表し後に英語でもう一度発表する、など実に複雑多岐に渡る。私も把握しきれていない。

更にEXODUSでは、自身の書いた歌詞の対訳も一曲で手掛けている。その事に関して更に重要なのは、対訳をひとに任せた事である。日本語と英語の間を自由に行き来する人が―それはまたそれぞれの言語の不自由さを痛い程よく知っているという事でもあるのだが―、何が出来るか何をするかという点だけでなく、これはしなくてもいいしないほうがいいと判断してひとに創作物提示方法の一部を譲るのだからその冷静な判断力には恐れ入る。通常なら対訳は"できないから人に任せる"のだ。我の強いアーティストが、自分に能力と時間があれば対訳も手掛けたいと考えるのは何ら不自然ではない。なのにそこで一歩引けるのだからなかなか21歳でそこまででけまへん。

それにしても"対訳"というのは不思議な存在である。あれを眺めながら歌を聴いていても、そもそも今どこを歌っているのか結構わからなくなる。英語の歌詞をみて、それから日本語訳を見直して、なんてやってると落ち着いて音楽を聴いていられなくなる。本末転倒である。

対訳を掲載する側も、深く考えていないのだろうか、英語と日本語を左右に配するレイアウトにしておいてくれればちょっとはましなのに(そういうブックレットも勿論存在しますが)。

どうも、歌詞対訳を掲載するブックレットというものの作品性を軽視する風潮がありはしないか。昔のアナログレコードは、ジャケットを開いて椅子に座ると、雑誌や絵本を読んでるみたいでサマになった。音楽を聴く時の"かっこうがついた"のである。今のCDのブックレットはちっちゃすぎて、寝っころがりながら眺める位しか似合わない。

これが、音楽・特に歌において"翻訳"を載せる時のネックなのである。映画であれば字幕や吹き替え、漫画であれば写植の差し替えや左右反転(縦書きを横書きにするときのかなり強引な方法。今でもあるのだろうか?)などをすればよい。しかし音楽の場合は?

声楽をフィーチャーしたクラシックのコンサートに行った事のある方なら知っているだろうが、あそこではパンフレットに歌詞と対訳が載っていてそれを眺めながら公演を楽しむ事が出来る。しかしこれがオペラとなると舞台上の視覚的効果も重要となる為ずっと俯いている訳にはいかない。日本語訳の歌の公演になったり、或いはプロンプタを用いて画面に対訳を表示させるなど様々な工夫が必要になってくる。

こうなると、純粋な"ひとつの作品"としての枠組みは、翻訳が絡んでくる場合は結構あやふやに、あやうくなってくる。果たして、翻訳が絡んできた場合、我々はアーティストの望む形でしっかり作品を味わう事が出来ているのだろうか?

こういう時は、海路のあの一節を思い出す。
『額縁を選ぶのは他人』

最初は、額縁の"デザイン"にばかり気をとられ、"どんな"額縁をアーティストの描いた絵に他人が掛けるのかを考えていたが、考えてみると、額縁には"大きさ"というファクターもあるのだ。即ち、どこからどこまでを"絵"(作品)として見なすか、というレベルの話が立ち上がってくる。

果たして、他人が額縁のデザインだけでなく大きさにも口を挟む事になっても、光は平気なのだろうか。話が広がってきたのでまた次回に続く。次の更新が次回かどうかはわからないけど。

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TPPというタイトルをつけているが農業の話はメインではなく、あクマで"日本語障壁"の話である。

前回の思考実験を最もシンプルに突き詰めれば、通貨の両替を禁止する事に着地する。即ち鎖国に近い状態となる。僕らが海外のモノを円で買えるのは、ひとえに円が他国の通貨と両替できるからだ。いわば、円の価値は、為替相場を通じてドルやユーロといった通貨の価値に"翻訳"されるのである。

ハリウッド映画が日本で大ヒットするのも、黒沢や北野が海外で受け入れられるのも、字幕や吹き替えによる翻訳があるからだ。翻訳を禁止するというのは、この国にとって(国際的には)いちばんの大打撃になるのである。

日本から文化を輸出する場合、どうやって日本語で構成されている部分を提示しなおすか。例えば赤松健の絶版漫画サイトJcomiでは、ボランティアで読者にまず漫画の吹き出しの部分をテキストに起こして、そこから自動翻訳や人力翻訳で他国の言葉で再構成された"MANGA"を創生するシステムを開発実施中である。需要と供給のマッチングマネージメントとしてはかなり秀逸な構造だ。

と、いうようなシステムは、つまり言語の部分が作品の中で"分離可能"である事が前提となっている。映画の場合なら、人の話し言葉を他のサウンドトラック―効果音や劇伴音楽と切り離して入れ替えれる必要があるし、或いは動画部分に字幕をスーパーインポーズする必要が出てくる。漫画の場合は、写植の吹き出し文字の入れ替えは比較的容易だが、書き文字の部分はどうするかといった問題も出てくる。Jcomiの試みは、そういった問題への対処の一例を示している。

音楽の場合だとこの"翻訳"作業は両極端をみせる。純粋に器楽演奏のみの場合は、全く対処が要らない。国境を易々と越えられる。これは非常な強みである。

一方、"歌"の場合は途端に難しくなる。まさか出来上がった音源にそのまま翻訳を口頭で差し挟む訳にもいかない。ビデオに翻訳の字幕をスーパーインポーズするか、ブックレットに対訳を載せるか、はたまた歌詞をまるごと書き換えてカバーするか…少なくとも、元の音源とはかなり離れた所で意味を提示するか、まったく作品を再構成するか、という話になってくる。メロディーという音楽の特質と、歌詞という言語的特質が分かち難く結びついている"歌"ならではの現象である。

宇多田ヒカルの場合、これらの創作行為を一通り実践してきているのだ―という話は字数が膨らみ過ぎたのでまた次回。こんなエントリーを続けていたら"話の枕詐欺"と言われそうだな。(苦笑)

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TPP序  


TPPの問題がまた話題になっている。というか、農産物輸出入の自由化の話は、私が物心ついたときからずっとやっているので、今はTPPという名前だがまた名を変え手を変え品を変えこの国ではずっと話題になっていく事だろう。

光がこんにゃくについてのツイートをした時に池田信夫氏がイヤミたっぷりにそのバカ高い関税率について光宛にメンションしていたが、そういった様々な障壁によってこの国産の農産物は守られている。

その事の是非は問わない。私は専門家ではないので口を挟む能力がない。しかし、私が小学生の時に牛肉オレンジが輸入自由化になると聞いた際、激しく「それはやめてほしい」と憤った、といったらちょっと意外ではないかな。

世界中で自由な商売ができるようになる事に抵抗があった訳ではない。違うのだ。私は、米国産や豪州産のあの"Beef"が日本の和牛と同じ"牛肉"と呼ばれるのが我慢ならなかったのだ。あれとこれは全く別の食べ物である。が、ひとたび同じ名前で呼ばれるようになってしまったら、安価なものほど多くの人々に親しまれ、牛肉という食べ物は"あんな程度のものである"と勘違いされるのが我慢ならなかったのだ。わかるかなぁ。さいたまスーパーアリーナでのヒカルの歌を聴いて「生の宇多田っていつもこれくらいなの?」ときかれて「いやいやいやいやいやいやいやいや」と強く否定したくなるような感覚である。いや声が出なくて奮闘する光の姿も胸キュンなんだがそれは今は関係ない。


これを逆に考える。仮に例えば農産物の輸入を完全自由化するとする。しかし、ここでひとつ条件をつけるのだ。(ただの思考実験なので真面目に受け取らないように)

「農産物の表記は、必ず収穫した現地の公用語で記すものとする。翻訳してはならない。」

この条件の含意は興味深い。たとえば、冷凍食品を輸入した場合、原材料名が総て中国語で書かれていたりする訳だ。用いられている言語によって産地が自動的にわかり、中国産の冷凍餃子は忌避されるかもしれない。そもそもなんて読むかわからないから何が入っているのかわからないから買いようがない。

この条件が、流通や店頭小売りにも適用されるとすると、外国産の農産物は殆ど輸入されなくなるだろう。日本語が公用語の外国は、僕の知る限りないからだ(台湾ってどうだっけ)。恐らく、一部の英語圏の作物のみが、流通や小売りとして成り立つだろうが、ほぼそれだけだ。日本語と英語以外の言語の作物は全滅する筈だ。

何が言いたかったかというと、世界の中で日本における日本語の障壁とは、何千パーセントの関税障壁など比べものにならない威力を発揮するという事だ。例え店頭に並んでいて日本産より遙かに安かろうが、きっちり外国産に対する偏見は定着し、日本語で書かれたものを皆手にとるようになる。

ポップスにおいても、この言葉の壁の高さはとんでもないことだ。桑田佳祐は世界的にみても(まぁスタイルの独自性はおくとして)楽曲の質と量という点においては20世紀を代表するソングライターのひとりだと思うが、海外では全く認知されていない。彼が基本的に歌詞を日本語中心に書き、日本でライブ活動を行っているからだ。


となればそう、そういう"障壁"を乗り越えられる歌手は宇多田ヒカルしかいない、という何百万べんもきかされてきた話になるのだが今日は無駄に長くなったので続きはまたいつか。

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いやそれにしても。昨夜にUPした【UTUBE、1日のアクセス数】には驚かされた。一年足らずでGBHPVが800万回再生を達成するのだから割算してみれば自明な事なのだが、毎日10万人近い人が宇多田ヒカルをYoutubeで聴いている。特に、First Loveなんて12年前の曲なのに1万回再生されている。ちょっと異常なんじゃないか。

しかし、それにしても不思議だ。これだけの需要があるのだから、もっとバックカタログ(旧譜ね)が動いてもいいはずだ。オリコンチャートによると、シングル・コレクションを除いてはどのアルバムも数百枚も売れていない事になるのだ。何故だろう。

ひとつには、日本特有のレンタル文化がある。流石に今では他の国でもやっているかもしれないが、昔は「借りたものを真面目に返す日本人相手だから成り立つ商売」といわれるくらい特殊な文化である。少し前に発売した作品は大抵レンタルで済ますのだ。

中古盤の販売が盛んなのも大きい。アーティストに一銭も入らないシステムには問題があるが、「つまらなかったら中古盤屋に売ればいい」という"保険"があるから新譜に気軽に手を出せるという側面も確かにある筈である。

昔からよく、日本人はオリコンチャートとビルボードTop200を比較して「日本は初動偏重でロングセラーがない」といわれてきたが、実態はそんな事はなく、よい作品は確実に(でもないか)長く愛され続けているのである。それを支えてきたのが長らくレンタルや中古盤だったので数字に出てこなかった(というか出てても注目しなかった)のだ。

そして今は、"とりあえずUTUBE"である。日本でこのクラスのミュージシャンがこれだけ大盤振る舞いのオフィシャルチャンネルを開設する例は少ないようだが(詳しくは知らない)、ここでまず聴いてみて、後日レンタルに走るという例はあとをたたないだろう。勿論ここで済ませてしまい購買行動に移してくれない事もあるだろうが。

ともかく、この数字は勲章である。栄光なんて欲しくないと云われそうだけど、これは軽く胸を張っていい事なのではないか。

それにしても、かえすがえすも、Beautiful WorldのPVが存在しないことが残念でならない。そして、これからの季節に向けてCan't Wait 'Til Christmasのクリップがないのも実に痛い。ヒカルの出演しない、イメージビデオみたいなんでいいから何か掲載してくれませんか。ペプシCMのロングバージョン、フルコーラスバージョンが存在してくれたらいう事ないんだが。嗚呼もったいないったらありゃしない。

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この間のUTUBE再生回数ランキングのエントリをやってみて、結構面白かったのでこれから毎週累計と週間のランキングをUPしていってみようと思ってみた。まだやるかどうかわかんないぞ。ということで、今夜はその助走として、一日分でのランキングをUPしてみる。2011年10月4日1時19分~10月5日0時19分の間の23時間で(いや、1時間カウントする時刻間違えただけで、本当は24時間でやりたかった(笑))どれだけUTUBEの各楽曲が再生されているか。それが以下である。


#01 10996 First Love
#02 9099 Goodbye Happiness
#03 7861 Prisoner Of Love
#04 5822 Flavor Of Life
#05 4696 Sakuraドロップス

#06 4428 traveling
#07 4225 Automatic
#08 3996 Can You Keep A Secret?
#09 3786 COLORS
#10 3145 Passion

#11 2989 光
#12 2904 Wait & See ~リスク~
#13 2884 FINAL DISTANCE
#14 2247 Heart Station
#15 2191 Goodbye Happiness (live)

#16 2163 Addicted To You
#17 2042 誰かの願いが叶うころ
#18 1881 This Is Love (live)
#19 1614 Be My Last
#20 1607 Movin' On Without You

#21 1470 For You
#22 1404 Keep Trying
#23 1304 Kiss & Cry
#24 1037 Deep River
#25 782 光 (live)
#26 675 Movin' On Without You (live)
#27 532 タイム・リミット

88 クマ会社訪問
89 Jwave前
76 Jwave後

716 Easy Breezy
511 You Make Me Want To Be A Man
5389 Come Back To Me



まず、なんと約1日での合計再生回数が88033回。世界中の総計とはいえ、こんなに聴かれてるもんなんだねぇ。勿論自分のポータブルプレイヤーなりなんなりで再生している人はもっと多いだろうから、この星で宇多田ヒカルが聴かれている頻度は、相当なものだろう。

1日分の集計ランキングだと、1年近くの累計とは随分と異なる結果が出ている。特に、First Loveの強さは際立つ。唯一の10000回超え。宇多田にアクセスするうちの1割以上の人間がこの曲を聴いている。そして、やはり強いPrisoner Of Love。今まで勝手に宇多田といえばFirst LoveとFlavor Of Lifeの2曲が看板だと思い込んでいたが、これからはこれにPrisoner Of Loveを加えた3曲が看板だという風に考えを改めねばならない。

Goodbye Happinessの再生数も凄い。もう1年近く経って、曲の新鮮味なんぞ全くなくなったはずなのにこの数字。完全にFirst Loveとタメを張っている。当初はやがてFirst Loveの再生回数がGoodbye Happinessを抜くのではないか、と勝手に考えていたが、それはもう、あるとしても何年も先になるようだ。

他にもいろいろとランキングが変わっているが、まぁそれらは週末の週間ランキングでまた振り返ることにしよう。

参考記録ではあるが、この23時間でUtadaのCome Back To Meが5389回の再生回数を叩き出している。これは、Flavor Of Lifeの再生回数に迫る数字である。アメリカのラジオでのオンエア数からして、この曲の人気は相当なものだとは思っていた。ホノルルでの大合唱も印象的だったし。だから、ある程度は来るとは思っていたが、ここまでとは。累計再生回数もそれを示していたが、2年半前の曲が一日に5000回以上も聴かれているというのは尋常ではない。いやはや、やはりこの曲、本当に世界ではUtada Hikaruの代表曲になっているのかもしれない。


あ、念の為。これ別にこれから毎日やるわけじゃないからね。(笑) 今日だけのお試しです。やるとしたら、週間ランキングだからねー。


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市場と関係なく、ヒカルは最も強烈なものを継承している。何度か強調してきたようにそれは父母からの遺伝子である。

ひとが折角、音楽文化のミームがどうのこうのとこねくりまわしているのに、宇多田家は血の繋がりと家業で王道中の王道の継承を行っている。

この度、その思いをより一層強くした。深夜に貼り付けた19歳の藤圭子のひとことである。圭子の変換にはいつも緊張するぜ。

『やっぱり、お父さんお母さんが歌を唄ってて、で自然に唄うようになっただけでさ』―光と全く同じである。歌手を志すまでもなく、いつのまにか唄っていたのだ。この力みのなさ。『自分からすすんでああしようとかこうしようとかそういう気起こんないの』―やはり同じである。光もまた、自らが売り込む事は少ない。日本デビューもアメリカデビューも、常に向こうから話を持ち掛けてきたのだ。

これが"適応"なのか。周りが音楽で固められていると、いつの間にか音楽に染まる。そして、何かをやってやろうという力んだやる気をごそっと削ぐのである。この家系は、ずっとこうやって歌い継いできたのか? 家業を継げなんて一言も言わない。自由にさせるのだ。しかしもう既に罠にハマっている。方々を連れ回され、自分の無力をこれでもかと思い知る。夢をもつ事も、何かに期待する事もやがて忘れていく。そこで何気なく問われるのだ。『歌ってみる?』

誰が意図した訳でもない、ただそうやって継がれてきた。大体、こんな国でアルバム連続一位記録を持つ人とアルバム最高売上記録をもつ人が実の母娘だなんて出来過ぎているのだ。サラブレッド中のサラブレッド。もう何もいう事はない。

社会的に縦の繋がりを(ミームとして)維持する為にはジャンル分けによるアイデンティティの創出と表出(早口言葉みたいだな)、そしてコミュニティーへの帰属というシステムが必要だった。

しかし、この、血の繋がりによる家業の継承にはそんなシステムが必要ないのである。ただ、幼い頃から連れ回し無力を味わわせ、周りで歌っているだけでいい。そういう人生は、血統によって何かを引き継ぐという行いのない市井の庶民には縁のない話だが、貴族のような血統主義の社会だと、そういったシステムが有用となる。

とはいえ、宇多田家にそういう伝統なり血統なりがあるかどうかは私は知らない。たったここ二代三代の話なのかもしれない。

血で家を引き継ぐ光にとって、ジャンル分けなんてピンと来ない訳だ。本当に光の人生には役に立たないのだから。つまり、彼女が特定のジャンルにとらわれた音楽を作らないのは、そうする必要がどこにもないからである。事実、ジャンルにこだわる大半の人よりいい曲を数多く書いて歌ってきている。この12年の奇跡の軌跡を辿ってみれば、この生き方が何の間違いもなかった事がわかるだろう。しかも、Goodbye Happinessで強調しているように、時間がたとえ戻ったとしてもまた貴方にKiss Meなのだ。

この圧倒的な肯定感。そしてサラブレッドとしての生き方。ちょっと確かに、我々にはピンとこない生き方である。にしては光って庶民的だよなぁ。またそこが不思議であり魅力的ではあるのですが。

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