ツイッターのタイムラインの何が面白いって(ヘヴィユーザのひとなら首肯してくれるかもしれないが)脈絡のない他者同士の発言が時系列順に並んでいる事である。
うちの今日のタイムラインにはきりやんとはるかぜちゃん(春名風花ね)が並んでいた。口調と写真をハズせば、明らかにはるかぜちゃんの方が"としうえ"の発言をしている。実際、彼女のネットデビューは3歳の時即ち7年前の事だからもしかしたら"ネット年齢"では彼女の方が上かもしれない。常駐合計時間なんかで測ればかなりのとしうえになりそうな気がする。
今日もきりやんは軸がブレない。煽り耐性皆無で真正面から論陣を張る。私のようなネットすれっからし人間からすれば相手の発言は煽りでもなんでもないのだが、彼は真っ向から受け止めている。
思うに、彼には"自分の時間"しか流れていないのだろう。私も半分そうなのでよくわかる。自分でみたもの、自分で感じたもの、自分がやってみたもの、そういった借り物でない体験の蓄積で純度高く彼の人間性は構築されている。その純度によってたつ彼の魅力は半端なものではない。
その為、彼が"自分の作品"に打ち込んだ時の純度の高さ、その熱量は並外れたものがある。しかし、そこには彼の時間しか流れていない。彼と異なる時間を歩むひとたちはその嫌悪感を隠さない。わかりやすいといえばわかりやすい。
ただ、自分の作品作りからハズれた時に、どうなるか。時間の衝突は免れないようにみえる。何故か本人が登場しなくても必ず荒れていたBBSを思い出す。私なら自分で荒らすんだが(自虐)彼はその必要すらなかった(これは皮肉)。
歴史や情報といった"他者の時間の流れ"を尊重することをしないから、そこには衝突が起こる。いちばん端的なのは映画第1作を「CASSHERN」と名付けた事、だろう。彼の時間の流れの中ではあれがキャシャーンだった。他のひとの時間の流れの中でキャシャーンと名付けられたものたちへの配慮など、なかった。
もしこれが、わかった上での"破壊行為"ならまだわかるのだが、今日の煽り耐性皆無なやりとりを見ていると、本当に気にしていない、気にならないのだと痛感させられる。会話の内容は面倒なので省略するが、他人が他人の時間の流れの中で"遅い"と感じた事とそれを呟いたことに対して"そうかな?"と自省する時間帯が全然みえない。他者の時間と帳尻を合わせようというチャンネルなど微塵もないのだ。芸術家としては最高の資質といえる(こちらは皮肉ではない)。
はるかぜちゃんは、バランスが取れている。他者の言葉に耳を傾け、噛み砕き、味わってみて、反論すべき所は反論し、受け入れるべき所は受け入れ、しかし心ないことばに対して慣れ切ってしまうことなく素直に傷つき、嘘でない涙を流す。いやみたことないけど。あ、彼女は嘘泣き名人としてダウンタウンの番組に二度出ている。そんなひと。今日の呟きによるとアットマークという呼称もメンションとリプライの違いも把握していないようだが、つまり、そういう話ではないのだろうな。
光は、あらゆる人間の、あらゆる他者の時間の流れを自分の時間の流れとして捉えられる。「悪いポップは媚びだけど、良いポップは思いやりだから」とは初出がどこか記憶にないことばだが、ただ他者の時間を追随する者は他者への媚びであり、模倣でありオリジナリティがない。一方、渋谷陽一がいうとおり「ポップミュージックとは他者の音楽」なのだから、他者の時間の流れを知らなければポップたりえない。オリジナリティ溢れるポップミュージックを創造するのは、ただ自分の時間の流れの純度を高めたアートより、他人の時間の流れを追いかけて重心を見失ったポップより、はるかに難しい。
そういう困難な音楽を、自分の時間の流れも他人の時間の流れも大切にしながら創り続けてきたのだから、暫く僕らファンの時間の流れのマトワリツキから解放してあげないとな。
もちろん、私の時間の流れは、私だけでなく、光も在ると私は思い込んでいるので、自分の時間の流れを大切にすればするほど光の話ばかりになっていくのですがねー。あはは。
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