いや~今朝(前回)の記事では阿呆な誤字を咬ましてしまった。「強い歌には余計な男は要らない。」とあるが、これは勿論「強い歌には余計な音は要らない。」が正しい。折しも僕秩で「ゆかいな予測誤変換」みたいな募集があった所なのだが、私もソレをやらかしてしまった。
しかし、よく読んでみるとなるほど、ちょうどアンコールのAcross The Universeのあたりの話なのでこの時確かに舞台上は男子が排されて美女2人きりのパフォーマンスであった為、奇しくも「男要らず」な状態だった訳で、やや奇異な感触ながらもそう解釈して読んだ人が何人かいらっさるかもしれない。
これは、面白い。ただの打ち間違いな筈なのに(些か強引とはいえ)意味が通じてしまった状況。こういう時の居心地の悪い感触とどう向き合うかが、ミニマムな"創造性"の端緒となる。
20世紀後半の日本を代表する作家の一人筒井康隆が昔新聞で「ワープロの変換機能が面白い。思わぬ着想に出逢える」と評していて、当時は(PCの普及する遙か依然だった為)どういう意味かわからなかったが、自分が変換機能を使うようになってその面白さを痛感するようになった。確かに単なる駄洒落でしかないのだが同音異義語異字語が次々と探索できるのはものを書く時の大きな強みである。
こうやって沢山書いていると、書き手の楽しみというのは文全体の構成や意味よりも、如何に局所的に"面白い言い回し"が出来るかにかかってきたりする。メッセージを読者に伝えたいというよりは、新しい言葉の組み合わせに出逢いたいという思いの方が遙かに強い。
そういう人間にとって、誤変換とは新しい契機以外のなにものでもない。大半はトリビアルな駄洒落にしかならない。糟糠の妻の運転による走行が奏功して間にあった、そうこうしているうちに…みたいな感じに。しかし、これの小さな積み重ねが文章にリズムを生み内容自体を思わぬ方向に導いていってくれる。これが堪らない。
予測変換となると更に幅が広がる。頭韻だけを合わせて次々と言葉が出てくるのだから。タブロイドですらヒカルのタブーに触れるのは多分たじろぐんじゃないか、みたいな。ペンを握った時とPCと向き合っている時と携帯を打っている時では文のコンセプトレベルで変化が起こる。
しかし、いちばん大切なのは、なんといってもその出会いを見逃さない事である。冒頭の例でいえば、男が音の予測誤変換であるという"正しい答え"に辿り着いてしまった時点でその出会いを見失う。私の元々の文意を"間違って解釈"して初めて、奇妙ながらも意味の通じる"新しい言い回し"が"生まれる"のだ。誕生、生誕、創造とは気づきなのである。
しかし、そこの最初には必ず"違和感"がある。これでいいような、どうにもただの間違いのような。そのファーストインプレッションの時点では、間違いと新発想は"同じ高さ"のフックラインにしかみえない。確かにここは(印象として)出っ張っているけれど、本当にこれは新しい何かなのか?
やってみるのは、勇気が必要だ。思い出すのはKeep Tryin'のサビのあの奇妙なコード進行だ。初めて聴いたその瞬間は正直ファイルの歪みか何かと思った、が、楽曲全体を通して聴いてみるとあそこはあれで合っている。新しい発想のフックラインだったのだ。斯様に間違いと新しいフックラインは紙一重、どころか最初は"全く同じ"といっていい。ただふつうからはずれているという意味で。しかし、それが活きる適切な文脈に放り込むことでただの間違いやしょーもないダジャレたちは新しいアイディアとして感銘を与える。本当に創造や生成の過程というのはわからないものである。
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