『真夏の通り雨』の歌詞は異常だ。それだけでキャッチコピーになるような、「頭を捻り尽くした挙げ句のフレーズ」が幾つも刻まれている。もうこれだけで文学として成立しているような、ちょっと考えられないレベルの作品だ。作詞でノーベル文学賞をとるとすればまずボブ・ディランだと言われてきたが、これならヒカルにも可能性がある。『真夏の通り雨』はまだそこまでは行っていないと思うが、「この詞を書いた人が将来ノーベル賞をとるか」と訊かれたらイエスと答えたい。
ただ、密度が濃い、というには空間が雄大だ。普通、ここまで個人的な感情を吐露すれば独り善がりの自己満足に陥るものだし、弾き語りなんてそれでいいと思うが、この歌もまた『花束を君に』同様、包み込まれて飲み込まれる感覚がある。外を歩いている時にこの歌が始まると急に世界の見え方が変わる。まるでピンク・フロイドを聴いているかのようだ。だから、雑踏の騒音ですらこの歌の前では効果音に過ぎない。少しくらい邪魔してくれた方がいいくらいに、飲み込まれる。帰ってこれない。すぐさま『花束を君に』を聴いて、修正する。まぁ、また違う空間に飲み込まれるだけだけど。
サウンド・メイキングの変化も大きいが、この包容感の増強はヒカルが望んだ方向性なのだろう。そういうサウンドになるよう指示を出したとみていい、かな。
『真夏の通り雨』はフェイド・アウトで終わる。私はあまりフェイド・アウトが好きではない。それなら何故フェイド・インしてこないのかと思ってしまう。終われないのに始まれるって逃げてるだけじゃないのと。
しかし、『真夏の通り雨』のフェイド・アウトは不可欠だ。『ずっと止まない止まない雨に ずっと癒えない癒えない渇き』。このフレーズが淡々といつまでも繰り返される事で『ずっと』を表現しなければならないからだ。
『降り止まぬ真夏の通り雨』は、アニメファンなら涼宮ハルヒのエンドレスエイトとか魔法少女まどか☆マギカとかシュタインズ・ゲートなどのタイムリープものを思い出せばわかるかもしれない。SFの仕掛けとして多用されるタイムリープによる無限ループは、いつまでもある過去にこだわり続ける人間の心の弱さを戯曲化して表現したものだ。故に普遍的なのだが、ヒカルの齎す実感のリアルさは図抜けている。本当にこのエンディングは、救いが無い。もうその前段からして徹底している。
『夢の途中で目を覚まし 瞼閉じても戻れない さっきまであなたがいた未来 たずねて明日へ』
歌の冒頭と同じ歌い出しに戻ってくる。前向きな歌なら、それまで1番2番3番と続いてきた歌詞における苦悩なり葛藤なりを糧として『だけど』と続けて明日をめざすものだが、この歌では夢に見たあなたのいる明日をたずねると言う。全く吹っ切れない。徹底している。この、冒頭と最後の前段が同じ歌詞である事で、「前に進まずまた戻る」感覚を作ってからの『ずっと止まない~』のループ&フェイドアウトだから、いや本当に救いが無い。そして、なぜかそれが胸を打って仕方がない。悲しみというのとは違うような。ただ絶望に打ち拉がれているのではない、何かこう、新しい感覚をこの歌は生んでいる。それが何かは、まだ私もわからない。アルバムの中で聴いて漸く何かが見えてくる気がしている。それまでは、『花束を君に』に助けられながら、この異様な名曲に親しんでおく事にします。
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哀しみですよ
太陽を追うばかりに雨に打たれて何も得られないんですよ
人の死とは、誰の心にも消しさることのできない、
刻印を残す。
悲嘆を、病的に表に出さないにしても、私達は誰
でも、取り返しのつかない喪失の日として、心に
刻む。
「事実」は、限りない悲しみと罪の感覚を伴う。
情的で私的な世界。
言葉の消え失せた場所に、吐露されるその感情を、
いったい何とよべばいいのか。
後ろ髪引かれるような…
心の奥に引っかかって取れない何か…
母の不在は未だに慣れないだろう。
ひとたび、自分の中の「愛のかわき」に気付くと、
とめどなく溢れる感情は、涙の雨へとなる。
終わりなんてなくていい。
惜しみなく泣けばいい。
それが自分の癒しとなるならば…